安宅 安五郎(あたか やすごろう、1883年〈明治16年〉4… 安宅 安五郎(あたか やすごろう、1883年〈明治16年〉4月23日 - 1960年〈昭和35年〉9月1日)は、日本の洋画家。東京美術学校で藤島武二に師事。在学中に文部省美術展に入選し作品「靴屋」文部省買上。また大正8年に改組した第一回帝展で特選、続いて第二回帝展で特選となる。その後帝展、文展の審査員を度々務める。洋画だけでなく日本画も描く。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
河田 嗣郎(かわた しろう、1883年〈明治16年〉4月22… 河田 嗣郎(かわた しろう、1883年〈明治16年〉4月22日 - 1942年〈昭和17年〉5月21日)は、日本の経済学者。京都帝国大学経済学部教授を経て、大阪商科大学(現:大阪市立大学)初代学長。 山口県玖珂郡に地主・河田正輔の長男として生まれる。旧制山口中学・旧制山口高校(旧旧山高)を経て京都帝国大学法科大学を卒業、「恩賜の銀時計」を授与される。 卒業後国民新聞に入社するがすぐに京都帝大に戻って講師・助教授となり、欧米への留学後教授に昇進した。京大での経済学部独立に際しては同学部教授となり、社会政策学・農政学などを担当、学部長も務めた。同郷の出身で中学・高校でともに学び、京大法科・経済学部では同僚となった河上肇とは家族ぐるみの親交を結んだ。
久保 良英(くぼ よしひで、1883年4月22日 - 194… 久保 良英(くぼ よしひで、1883年4月22日 - 1942年11月12日)は、日本の心理学者。佐賀県出身。東京帝国大学心理学科卒。米国クラーク大学留学。1929年、広島文理科大学教授。精神分析やゲシュタルト心理学を紹介、ビネー式知能検査の標準化に貢献。 1916年 クラーク大学で Ph.D. 論文: "Some Aspects of Recent Child Study"、1923年 東京帝国大学で文学博士 主論文: "Psychology and Pedagogy of reading" 副論文:「幼児ノ言語ノ発達」。
三船 久蔵(みふね きゅうぞう、1883年〈明治16年〉4月… 三船 久蔵(みふね きゅうぞう、1883年〈明治16年〉4月21日 - 1965年〈昭和40年〉1月27日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道十段。大日本武徳会柔道範士。 身長159 cm、体重55 kg。小柄な体型ながら空気投げなどの新技をあみ出し、1945年(昭和20年)最高位の十段を授けられ名人の称を受ける。「理論の嘉納、実践の三船」といわれ、柔道創始者である嘉納治五郎の理論を実践することに力をいれたことから柔道の神様とあがめられた。出身地の岩手県久慈市に三船十段記念館が建てられた。 1883年(明治16年)岩手県九戸郡久慈町(のちの久慈市)に生まれる。久慈尋常高等小学校卒業後、郡役所に勤めるも数日で退職。
百済 文輔(くだら ぶんすけ / ふみすけ、1883年〈明治… 百済 文輔(くだら ぶんすけ / ふみすけ、1883年〈明治16年〉4月21日 - 1952年〈昭和27年〉8月4日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選県知事、川崎市長、小倉市長。 山口県厚狭郡高千帆村(現山陽小野田市)出身。神職百済忠敬の息子として生まれる。山口高等学校を卒業。1908年、京都帝国大学法科大学政経学科を卒業。内務省に入省し山梨県属となる。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1911年3月、山梨県東山梨郡長に就任。1913年、関東都督府参事官となる。以後、大阪府事務官、三重県警察部長、群馬県内務部長、愛媛県内務部長、東京府産業部長、同書記官・内務部長、北海道庁内務部長など歴任。
今中 楓渓(いまなか ふうけい、1883年〈明治16年〉4月… 今中 楓渓(いまなか ふうけい、1883年〈明治16年〉4月20日 - 1963年〈昭和38年〉年8月17日)は、大正から昭和期の歌人。本名は今中 保次郎(旧姓は岩崎)。1935年(昭和10年)に東海林太郎の歌で大ヒットした「野崎小唄」の作詞者で知られる。 大阪府北河内郡生まれ。広島高等師範学校(現・広島大学)卒業。大阪府立八尾中学校(現・大阪府立八尾高等学校)在学時から作歌し、歌誌『詩歌』に参加。前田夕暮に師事した。 1907年(明治40年)に北河内郡樟葉村大字楠葉(現・枚方市南楠葉)の今中家を継いだ。 のちに『覇王樹』『林間』の同人となり、1931年(昭和6年)女性短歌誌『若葉』を主宰。大阪府立寝屋川高等女学校(現・大阪府立寝屋川高等学校)で教えながら、落語野崎詣りで有名な、北河内郡四条村大字野崎(現・大東市野崎)にある野崎観音参拝について詠んだ「野崎小唄」を東海林太郎が歌い大ヒットとなったため、「昭和歌壇の重鎮」とされている。
松永 直吉(まつなが なおきち、1883年(明治16年)4月… 松永 直吉(まつなが なおきち、1883年(明治16年)4月19日 - 1964年(昭和39年)7月28日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、駐オーストリア公使。 佐賀県出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業、外交官及領事官試験に合格した。外交官補として北京に赴任。天津領事官補、長沙領事官補、ハンブルク領事官補、ドイツ大使館三等書記官、シアトル領事、外務書記官・会計課長・人事課長、オタワ総領事、ベルギー大使館参事官、外務省条約局長などを歴任。1930年(昭和5年)、駐オランダ公使に就任し、1933年(昭和8年)に駐オーストリア公使に転じた。 1937年(昭和12年)に退官した後は、紀元2600年記念日本万国博覧会事務次長を務めた。
青木 精一(あおき せいいち、1883年(明治16年)4月1… 青木 精一(あおき せいいち、1883年(明治16年)4月19日 - 1945年(昭和20年)4月14日)は、日本のジャーナリスト・政治家で立憲政友会→昭和会→立憲政友会革新同盟所属の衆議院議員。 群馬県南勢多郡板橋村(新里村を経て現桐生市)出身。正教神学校を卒業。日露戦争に召集され従軍。日本電報通信社記者となり、シベリア出兵の際には浦塩派遣軍司令部附従軍記者を務めた。その他、大阪新報社東京支局長、中央新聞社政治部長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、当選回数は7回を数えた。政友会に所属し、1927年(昭和2年)には、議会乱闘事件に関与したとして傷害の容疑で起訴。
神保 格(じんぼう かく、1883年(明治16年)4月18日… 神保 格(じんぼう かく、1883年(明治16年)4月18日 - 1965年(昭和40年)12月6日)は、日本の言語学者。
羽仁 潔(はに きよし、1883年〈明治16年〉4月18日 … 羽仁 潔(はに きよし、1883年〈明治16年〉4月18日 - 1945年〈昭和20年〉7月27日)は、大日本帝国海軍大佐。山口県徳山市(現・周南市)長。正五位・勲三等。 山口県阿武郡萩町(現・萩市)出身。海軍兵学校第33期(同期に豊田副武、豊田貞次郎ら)。 1905年(明治38年)、少尉候補生となり、厳島乗組となる。1906年(明治39年)、練習艦隊遠洋航海に参加。その後、沖島分隊長兼佐世保海兵団教官、吾妻、安芸の各砲術長、八雲副長、隠戸、平戸の各艦長となり、1928年(昭和3年)に大佐で退役した。 退役後は萩市助役を経て、1940年(昭和15年)に徳山市長に就任した。市長就任後は市章の制定、上水道の開通、隣接の都濃郡加見、久米の2村の編入(1942年)、櫛浜、富田、福川の3町、湯野、夜市、戸田、大津島の4村との合併による新徳山市の発足、市の行政機構の再編(1944年)などがあり、羽仁は1944年(昭和19年)6月12日に市長に再任した。
種田 虎雄(おいた とらお、1883年(明治17年)4月15… 種田 虎雄(おいた とらお、1883年(明治17年)4月15日~1948年(昭和23年)9月5日)は、日本の官僚、実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の初代社長を務めた。
小松 豊作(こまつ ほうさく、1883年(明治16年)4月1… 小松 豊作(こまつ ほうさく、1883年(明治16年)4月15日 - 没年不明)は、日本の養蚕家、発明家。 長野県上諏訪町小和田(現諏訪市)出身。東京高等工業学校機械科を卒業し、東京蚕業講習所技手、生糸検査所技手、特許局審査官、東京高等蚕糸学校教授などを歴任した。1924年(大正13年)に辞して東京府東京市滝野川(現・東京都北区)に田端鐵工所を創立し、下記田端式乾燥器の製作に従事した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
津田 静枝(つだ しずえ、1883年〈明治16年〉4月11日… 津田 静枝(つだ しずえ、1883年〈明治16年〉4月11日 - 1964年〈昭和39年〉9月13日)は、日本の海軍軍人。海軍の中国専門家。最終階級は海軍中将。福井県福井市出身。 旧制福井県立福井中学校より海軍兵学校第31期入校。津田の履歴の特徴は中国勤務が多いことであるが、これは津田が中国の専門家であったためである。日本海軍は陸軍と比較して中国問題に暗く、対応が後手に回ることが多かったことから、対中国問題の専門家が必要となり、その最初の人物として育成されたのが津田であった。日本海軍はのちに須賀彦次郎、田尻穣、藤原喜代間、沖野亦男などの対中国の専門家を輩出した。
大森 吉五郎(おおもり きちごろう、1883年(明治16年)… 大森 吉五郎(おおもり きちごろう、1883年(明治16年)4月11日 - 1946年(昭和21年))は、日本の内務・警察官僚、政治家。民政党系官選県知事、京都市長。 岡山県上道郡中井村(現:岡山市中区中井)出身。大森久五郎の長男として生まれる。岡山中学校、第三高等学校 を卒業。1908年、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し京都府属となる。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1910年、京都府南桑田郡長に就任。以後、京都市助役、熊本県理事官、愛媛県警察部長、神奈川県警察部長、神奈川県港務部長、熊本県内務部長、長崎県内務部長、北海道庁土木部長など歴任。 1925年10月、山口県知事に就任。
穂積 重遠(ほづみ しげとお、1883年4月11日 - 19… 穂積 重遠(ほづみ しげとお、1883年4月11日 - 1951年7月29日)は、東京府出身の法学者。専門は民法。東京帝国大学教授・法学部長、最高裁判所判事を歴任し、「日本家族法の父」といわれる。東宮大夫兼東宮侍従長。男爵。勲一等旭日大綬章。
水野 葉舟(みずの ようしゅう、1883年4月9日 - 19… 水野 葉舟(みずの ようしゅう、1883年4月9日 - 1947年2月2日)は、日本の詩人、歌人、小説家、心霊現象研究者。本名は盈太郎(みちたろう)。別号蝶郎。 東京府生まれ。新詩社に入り、詩文集『あららぎ』、窪田空穂との合著歌集『明暗』で登場。『微温』、小品集『草と人』などで自然主義文学に独自の地位を占めた。のち、千葉県三里塚で半農生活に入った。建設大臣などを務めた水野清は次男。 東京下谷区仲御徒町生まれ。父は農商務省の官吏。父の転任で1891年(明治24年)から福岡で暮らし、1900年(明治33年)に東京に戻る。福岡県立豊津中学校(現・福岡県立育徳館中学校・高等学校)卒業。 中学時代から詩作を行っていたが、上京して与謝野鉄幹に師事し、水野蝶郎名義で新進詩人として知られる。
喜多 源逸(きた げんいつ、1883年(明治16年)4月8日… 喜多 源逸(きた げんいつ、1883年(明治16年)4月8日 - 1952年(昭和27年)5月21日)は、日本の工業化学者である。京都帝国大学名誉教授。 奈良県生まれ。郡山中学を経て、京都市の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)卒業後、上京し東京帝国大学工科大学(現在の東京大学大学院工学系研究科・工学部)応用化学科に入学する。1906年(明治39年)に同大学を卒業後は、翌1907年(明治40年)に同大学の講師を経て1908年(明治41年)には同大学の助教授に昇格した。1916年(大正5年)に京都帝国大学(現在の京都大学)に転勤し、同大学の工科大学(現在の京都大学大学院工学研究科・工学部)の助教授として活動し後に研究のため欧米に留学する。
桑原 一郎(くわはら いちろう、1883年(明治16年)4月… 桑原 一郎(くわはら いちろう、1883年(明治16年)4月7日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。 山口県吉敷郡宮野村出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、高等文官試験に合格。佐賀県試補、長崎県理事官、山口県理事官、島根県警察部長、大分県警察部長、沖縄県警察部長を務めた。1923年(大正12年)、朝鮮総督府事務官に転じ、殖産局水産課長、咸鏡北道内務部長、咸鏡南道内務部長、釜山府尹、大邱府尹を歴任した。 退官後は宮野村長や防長新聞株式会社社長などを務めた。
西村 濤蔭(にしむら とういん、1883年4月7日 - 19… 西村 濤蔭(にしむら とういん、1883年4月7日 - 1945年5月25日)は、日本の小説家、文芸評論家、時事・政治評論家。 浅草の商人西村誠造の長男として生まれ、菊島家の養子となるが、1904年(明治37年)、養母と協議離縁し西村家に復籍した。その間の事情は小説「佛様」(『ホトトギス』明治40年4月)に描かれている。実家の家督は異母弟が相続していたが、濤蔭とは絶縁状態にあったようで、濤蔭は妹の梅とともに早稲田で借家暮らしをしていた。 1908年(明治41年)、早稲田大学専門部政治経済科卒業。在学中の1907年(明治40年)4月から、『ホトトギス』誌上に「佛様」「京の月」等の小説を発表する。夏目漱石の高浜虚子宛書簡(明治40年8月4日)に、濤蔭が漱石のもとを訪れ、自作の批評と『ホトトギス』への掲載を乞うたことが記されている。
吉田 勝太郎(よしだ かつたろう、1883年(明治16年)4… 吉田 勝太郎(よしだ かつたろう、1883年(明治16年)4月5日 - 1970年(昭和45年)10月22日)は第8代・第10代四日市市長。大日本帝国の内務官僚、岐阜県知事。四日市コンビナートの誘致に尽力した。四日市の名誉市民である。 愛媛県越智郡今治町(現今治市)出身。静岡県立静岡中学校に学び、野球部に所属した。第三高等学校 (旧制)を経て、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学法律学科卒業。同年文官高等試験に合格。明治時代末期から昭和時代初期にかけて全国各地の文官を歴任した。1931年に岐阜県知事を務め、同年12月18日に休職、1932年1月29日、依願免本官となり退官した。 その後、官選市長として1934年(昭和9年)に四日市市長に就任。
太田 鉄太郎(鐵太郎、おおた てつたろう、1883年(明治1… 太田 鉄太郎(鐵太郎、おおた てつたろう、1883年(明治16年)4月5日 - 1958年(昭和33年)9月30日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、北海道上川郡名寄町長。 山形県東田川郡東栄村(現:鶴岡市)で太田豊治の長男として生まれる。1900年5月、父と共に北海道天塩国上川郡上名寄村字名寄太に入植し開墾に従事。 学務委員、上名寄村会議員、名寄町会議員、北海道会議員、名寄町長、名寄町農業会長、北海道農業会理事、名寄信用購買販売生産組合理事、名寄信託商事取締役、北海道澱粉統制組合理事長、日本澱粉統制 (株) 監事などを務めた。 1946年4月の第22回衆議院議員総選挙で北海道第二区から出馬して当選。
北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)… 北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)、1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議にかけられ、死刑判決を受け刑死した。
尾崎 重美(おざき しげみ、1883年(明治16年)4月2日… 尾崎 重美(おざき しげみ、1883年(明治16年)4月2日 - 1959年(昭和34年)11月23日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 高知県幡多郡中村(中村町、中村市を経て現四万十市)出身。尾崎重勝、美弥の三男として生まれた。早くに父が没し、苦学して中学卒業資格を取得。 東京郵便電信学校を卒業後、通信手、統監府通信属を務めた。1914年(大正3年)、中央大学を卒業し、高等文官試験と弁護士試験に合格した。青島守備軍民政部事務官、三重県桑名郡長、安濃郡長、会計検査院副検査官を歴任した。さらに市来乙彦東京市長の秘書官を務めた。その後、弁護士を開業するとともに判例集報社の経営にあたった。
小野 耕一郎(おの こういちろう、1883年(明治16年)4… 小野 耕一郎(おの こういちろう、1883年(明治16年)4月1日 - 1945年(昭和20年)1月21日)は、明治末から昭和前期の農業経営者・政治家。衆議院議員、三重県一志郡下之川村長、同郡久居町長。 三重県一志郡下ノ川村(下之川村大字下之川、美杉村大字下之川を経て現津市美杉町下之川)で、豪農・小野耕平の長男として生まれ、1902年(明治35年)三重県立津中学校(現三重県立津高等学校)を卒業し、同年に家督を相続し農業を営む。 下之川村産業組合長、地方森林会議員、一志郡木炭同業組合長、三重県木炭同業組合連合会評議員、産業組合中央会三重支部理事、三重県海外協会理事、同海外移住組合理事などを務め、農事の改善、産業振興に尽力した。
亀井 文平(かめい ぶんぺい、1883年(明治16年)4月 … 亀井 文平(かめい ぶんぺい、1883年(明治16年)4月 - 1937年(昭和12年)3月18日)は、日本の商人(石油商)、実業家。亀井商店(現カメイ)初代社長。塩釜ガス監査役。 岩手県江刺郡伊手村(現奥州市)出身。亀井四郎治の長男。宮城県仙台市の雑貨商に奉公する。1903年、宮城県塩竈(塩釜)で石油、雑貨、砂糖、洋粉等の販売業を始める。1934年、先代四郎治の退隠により家督を相続する。住所は宮城県宮城郡塩竈町(現塩竈市)。塩竈市宮町に亀井の邸宅がある。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
寺崎 武男(てらさき たけお、1883年3月30日 - 19… 寺崎 武男(てらさき たけお、1883年3月30日 - 1967年2月16日)は、日本の洋画家・版画家。房総神話を描いた画家として知られる。 東京都生まれ。1907年に東京美術学校西洋画科を卒業し、農商務省実業講習生としてイタリアを訪れ、ベネチアを拠点に活動し、フレスコ画やエッチングなどを学ぶ。1918年、山本鼎らと日本創作版画協会を設立。後に日本版画協会の創立に参加した。作品に「房州の海」「安房開拓神話」などがある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高橋 弥太郎(たかはし やたろう、1883年(明治16年)3… 高橋 弥太郎(たかはし やたろう、1883年(明治16年)3月27日 - 1945年(昭和20年)10月20日)は、大正から昭和時代前期の実業家、政治家。樺太庁豊原市長。 長野県東筑摩郡松本(現松本市)出身。松本商業学校を卒業する。1906年(明治39年)5月、樺太に渡り、豊原実業懇話会および信用組合設立に参画した。豊原町会議員当選を皮切りに、1931年(昭和6年)2月、豊原町長に就任し、市制施行後の1937年(昭和12年)9月に市長として引き続き再選した。町長、市長を12年間、無給で勤めた。 1942年(昭和17年)2月に退任し、翌年4月、樺太配電・樺太魚菜配給各社長に就任した。のち大泊町にて洋服店を経営した。
長沼 賢海(ながぬま けんかい、1883年(明治16年)3月… 長沼 賢海(ながぬま けんかい、1883年(明治16年)3月26日 - 1980年(昭和55年)7月14日)は、日本史学者。九州大学名誉教授。 1883年、新潟県高田(現上越市)浄興寺山内の正光寺に生まれた。長沼賢明の長男。旧制新潟県立高田中学、旧制第四高等学校を経て、1907年、東京帝国大学文科大学国史学科を卒業。 1912年、東京府立第一中学校教諭となった。東京府立第一中学校教諭時代の教え子に、小林秀雄、河上徹太郎がいる。1920年、広島高等師範学校教授に転じた。1924年、史学研究のため欧州留学を命じられ、英・仏・独・蘭・印・伊などに滞在・留学した。1925年、九州帝国大学法文学部国史学科の初代教授に就任。
西村 真琴(にしむら まこと、1883年(明治16年)3月2… 西村 真琴(にしむら まこと、1883年(明治16年)3月26日 - 1956年(昭和31年)1月4日)は、日本の生物学者。元・北海道帝国大学教授。マリモの研究や、人間型ロボット「學天則」の制作などで知られるほか、保育事業にも貢献した。次男は2代目水戸光圀役で知られる俳優の西村晃。
蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 195… 蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 1954年2月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、勲等は勲一等功二級。石川県出身。
篠原 陸朗(しのはら ろくろう、1883年〈明治16年〉3月… 篠原 陸朗(しのはら ろくろう、1883年〈明治16年〉3月26日 - 1966年〈昭和41年〉9月6日)は、日本の政治家。衆議院議員選挙に通算4回当選した。 東京府(現・東京都)生まれ。東京帝国大学法科大学独法科卒業後官界に入り、司法官試補となった。その後大蔵省に移り(主計局属)、税務監査局事務官、大蔵省主計官、大蔵省書記官、長崎税関長、熊本税務監査局長を歴任した。 1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員選挙に立憲民政党公認で旧千葉県第1区から立候補し初当選した。2年後の第18回衆議院議員選挙では民政党大敗のあおりを受け次点に終わったものの、1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員選挙で政界に返り咲いてからは連続3回総選挙に当選した。
藤井 甚太郎(ふじい じんたろう、1883年3月25日 - … 藤井 甚太郎(ふじい じんたろう、1883年3月25日 - 1958年7月9日)は、大正・昭和期の日本史学者。法政大学文学部名誉教授。明治維新史の実証主義的研究の先駆者として活躍した。
橋本 福松(はしもと ふくまつ、1883年3月24日 - 1… 橋本 福松(はしもと ふくまつ、1883年3月24日 - 1944年2月5日)は日本の地理学者、実業家。旧姓は平沢。 長野県上伊那郡西春近村(現伊那市)生まれ。旧松本藩士の橋本房太の養子となる。上京して正則英語学校卒業、在学中は坪井正五郎の指導を受けて地理学・人類学を学ぶ。1902年諏訪郡玉川小学校の教員となり、校長の島木赤彦に師事する。のち諏訪高等女学校等で教鞭をとりながら、諏訪湖の研究に打ち込み、1906年に湖底の「曽根遺跡」を発見、1910年には「諏訪地図」を完成させる。 1918年再び上京して岩波書店に入社したが、病気に罹患して帰郷し伊那小学校に勤務の傍ら、「上伊那郡誌」の編纂に携わる。
粟屋 謙(あわや けん、1883年(明治16年)3月21日 … 粟屋 謙(あわや けん、1883年(明治16年)3月21日 - 1938年(昭和13年)4月2日)は、日本の文部官僚、滝川事件当時の文部次官。山口県下関市長府出身。長府藩報国隊を組織した野々村勘九郎の孫。 旧長府藩士・教員である粟屋平一の長男として東京で生まれる。豊浦中学、第三高等学校を経て、1907年7月で東京帝国大学法科大学法律学科(独法)卒業し大学院に進む。同年7月、内務省に入省し東京府属となる。同年11月、文官高等試験に合格。以後、内務属、茨城県事務官を歴任。 1911年5月、文部省に転じ文部書記官兼文部省参事官に就任。1913年、宗教局が内務省から文部省に移管されたのを機に、宗教法制定に尽力。
野口 保市郎(のぐち やすいちろう、1883年3月21日 -… 野口 保市郎(のぐち やすいちろう、1883年3月21日 - 1952年8月5日)は、日本の地理学者。 茨城県出身。1912年に東京帝国大学西洋史学科を卒業した。 郁文館中学校・開成中学校・成蹊中学校教諭、浦和高等学校講師などを経て、1921年より法政大学で教授を務めた。また、中央大学教授も務めている。 1949年に「常陸風土記の歴史地理学的研究」で東北大学より文学博士号を取得した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
加藤 隆義(かとう たかよし、明治16年(1883年)3月2… 加藤 隆義(かとう たかよし、明治16年(1883年)3月20日 - 昭和30年(1955年)2月10日)は、大正から昭和期の日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍大将。子爵。広島県出身で旧姓は船越。同郷の加藤友三郎元帥から養子に迎えられ、以後加藤姓を名乗る。
磯井 如真(いそい じょしん、1883年(明治16年)3月1… 磯井 如真(いそい じょしん、1883年(明治16年)3月19日 - 1964年(昭和39年)8月23日)は、日本の漆芸家。本名は雪衛(ゆきえ)、あらため雪枝。 香川県高松市出身。香川県立工芸学校(現、香川県立高松工芸高等学校)を卒業後、大阪山中商会で中国漆器の修理などに携わり、技術を習得した。1909年に高松に戻り、製法が絶えて久しかった香川漆器を独自研究を重ねて復興し、近代化を確立した。讃岐漆芸の中興の祖と称される。母校の工芸学校や工芸研究所で後進の育成にもあたっている。1936年(昭和11年)の文展(帝展の代わりに開催)に出品した「漆サボテンにホロホロ鳥飾棚」で選奨を受賞。1953年(昭和28年)には岡山大学教授に就任。
茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1… 茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1946年8月29日)は、日本のドイツ文学者、詩人、翻訳家。本名は茅野 儀太郎、号は暮雨。妻は歌人の茅野雅子(旧姓:増田)。 長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)出身。諏訪郡立実科中学校、第一高等学校を経て、1908年東京帝国大学独文科卒業。同科の同級生に小宮豊隆、小牧健夫、1年上に成瀬無極、一年下に小野秀雄がいた。第三高等学校教授、慶應義塾大学教授、日本女子大学教授を歴任した。 旧制一高在学中から与謝野鉄幹が主宰する新詩社の『明星』同人として短歌、詩、評論等を寄せ、妻雅子とともに活躍した。「蕭々」は与謝野鉄幹から与えられたペンネームである。
次田 大三郎(つぎた だいざぶろう、1883年〈明治16年〉… 次田 大三郎(つぎた だいざぶろう、1883年〈明治16年〉3月18日 - 1960年〈昭和35年〉9月15日)は、貴族院勅選議員ならびに廣田内閣の法制局長官、幣原内閣の内閣書記官長。第六高等学校、東京帝国大学卒業。幼名は七五三五郎。 後妻は三菱総理事や南満州鉄道副総裁を務めた江口定条の長女。日本共産党議長などを務めた野坂参三は義弟。 岡山県邑久郡南幸田村(幸島村、西大寺市水門町を経て現在の岡山市東区)出身。次田大三郎の四男・七五三五郞として生まれる(1914年に襲名)。東京帝国大学法科大学政治科卒業。東京帝大卒業後は官僚となる。1909年(明治42年)11月、高等文官試験行政科を合格。茨城県属。
宮良 長包(みやら ちょうほう、1883年3月18日 - 1… 宮良 長包(みやら ちょうほう、1883年3月18日 - 1939年6月29日)は、20世紀前半の日本の作曲家、教育者。沖縄県八重山郡石垣町(現・石垣市)出身、石垣市名誉市民。 1883年(明治16年)石垣町新川に生まれる。宮良家は音楽的才能に恵まれ、長包の叔父・長次は、八重山民謡の代表として広く愛唱されている「トバラーマ(とぅばらーま)」の名歌手で、長包の妹・ヌヘマは1935年(昭和10年)にコロムビア・レコードで八重山民謡を録音している。 石垣南尋常小学校、八重山島高等小学校を経て、1903年(明治36年)、首里の沖縄師範学校に入学。卒業後、八重山高等小学校(現:石垣市立登野城小学校)訓導として教育者となる。
西方 利馬(にしかた としま、1883年(明治16年)3月1… 西方 利馬(にしかた としま、1883年(明治16年)3月17日 - 1973年(昭和48年)11月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(6期)。 山形県東置賜郡中川村(現・南陽市)で、旧米沢藩の中山城代家中(陪臣)の西方家に生まれる。1919年中央大学法律科卒。中山葡萄、山形新聞各社長、山形県議、山形県体育会長などを務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙において山形県第4区(当時、小選挙区)から立憲政友会公認で立候補して初当選。以来当選6回。立憲政友会総務、内閣東北局委員、内務省委員などを歴任する 。 戦後、大政翼賛会の推薦議員のため、公職追放となる。1951年追放解除。1973年死去。
青木 泰助(あおき たいすけ、1883年3月14日 - 19… 青木 泰助(あおき たいすけ、1883年3月14日 - 1952年9月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 千葉県出身。1909年明治大学法科選科修了。1913年(財)警務協会経営警察官練習所卒。千葉県野田、佐原、北条の各警察署長、同県刑事課長を歴任。千葉県議、同参事会員、同議長、県労務調停委員会委員長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において千葉県から日本進歩党公認で立候補して当選する。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において千葉3区から民主党公認で立候補したが落選した。 このほか白井自動車(株)取締役、土木建築(資)松井組常任顧問を務めた。1952年死去。
藤田 傊治郎(ふじた うんじろう、1883年(明治16年)3… 藤田 傊治郎(ふじた うんじろう、1883年(明治16年)3月13日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。台湾総督府官僚。 岡山県出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格。岐阜県属、神奈川県属、同鎌倉郡長、同理事官、兵庫県理事官、同視学官、秋田県警察部長、関東庁事務官兼参事官・警務局警務課長兼警察官練習所長、同内務局学務課長、広島県学務部長、鹿児島県内務部長、栃木県内務部長を歴任した。一時休職の後、1932年(昭和7年)、千葉県書記官・内務部長に任命された。 1935年(昭和10年)、台湾総督府交通局理事・逓信部長に転じ、翌年には台南州知事、ついで台北州知事に就任した。
村尾 圭介(むらお けいすけ、1883年3月13日 - 19… 村尾 圭介(むらお けいすけ、1883年3月13日 - 1959年7月19日)は日本の医師、弓道家。結核の専門医で、学位は医学博士。 静岡県浜名郡小野口村(現・浜松市)出身で、東京帝国大学で学んだ。学生時代は高野六郎と毎日顔を合わせていた。高野によると、当時の村尾は陽気なやんちゃ坊主で、既に弓道の極意に達していた。1909年のクリスマスの頃に大学を出た。 初め故郷の浜松で勤めた。研究分野を病理から外科へ、外科から結核へ変えた。研究の目的で1920年夏に上京し、開設されたばかりの公立結核療養所・東京市療養所に勤めた。病室の仕事と研究室の仕事をもった。江古田にあった東京市療養所には本郷から通った。1923年の関東大震災に遭い、東京市療養所の敷地に避難して、そこの自動車小屋の2畳敷の部屋に住み着いた。
高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年〈明治16年〉… 高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年〈明治16年〉3月13日 - 1956年〈昭和31年〉4月2日)は、日本の詩人・歌人・彫刻家・画家。本名は高村 光太郎(たかむら みつたろう)。父は彫刻家の高村光雲。 日本を代表する彫刻家であり画家でもあったが、今日にあって『道程』『智恵子抄』などの詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もあり能書家としても知られる。弟が2人おり下の弟は鋳金家の高村豊周。甥(豊周の息子)は写真家の高村規である。父である高村光雲などの作品鑑定も多くしている。 東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現:東京都台東区東上野一丁目、二丁目付近)出身。
大塚 甚之助(おおつか じんのすけ、1883年(明治16年)… 大塚 甚之助(おおつか じんのすけ、1883年(明治16年)3月13日 - 1951年(昭和26年)3月19日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。醸造家。衆議院議員。静岡県会議長。 静岡県志太郡藤枝宿(藤枝町を経て現藤枝市)出身。生家は酒造業を営み、父の先代大塚甚之助は志太電気会社や藤相鉄道などを創設した実業家。 藤枝町長、同町会議員、静岡県会議員、同副議長、議長、静岡県鉄工組合連合会理事、同酒造組合連合会長、全国酒造組合中央会理事、藤相鉄道監査役、静岡県酒類販売社長を歴任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙では静岡全県区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。議員在任中は日本自由党総務、衆議院請願委員長を務めた。
朝倉 希一(あさくら きいち 1883年3月12日 - 19… 朝倉 希一(あさくら きいち 1883年3月12日 - 1978年4月20日)は、明治から昭和期の機械工学者、鉄道技術者。
加藤 鐐五郎(かとう りょうごろう、1883年3月11日 -… 加藤 鐐五郎(かとう りょうごろう、1883年3月11日 - 1970年12月20日)は、日本の政治家。衆議院議長(第48代)、法務大臣(第4代)。衆議院議員(12期)。 愛知県瀬戸市出身。政界入りする前は医学博士号を持つ医師であり、戦前の帝国議会時代より衆議院議員選挙に通算12回当選。戦時中は政友会系の地方紙で現在の中日新聞社の前身の1紙に当たる新愛知新聞社の顧問を務めていた。 造船疑獄に対する指揮権発動で法務大臣を辞任した犬養健の後任法相となり、さらに警職法改正をめぐる国会審議混乱の責任を取って衆議院議長を辞任した星島二郎の後任議長に就任したことから、医師出身の政治家という自らの経歴とあわせ「後始末の専門のヤブ医者」を自称したことで知られている。
吉岡 重三郎(よしおか じゅうさぶろう、1883年3月10日… 吉岡 重三郎(よしおか じゅうさぶろう、1883年3月10日 - 1974年3月22日)は、大阪府大阪市出身の実業家。東京テアトル株式会社創業者。 1883年(明治16年)3月10日、大阪府大阪市の吉岡勘三郎の三男として生まれた。大阪高等商業学校(後の旧制大阪商科大学、大阪市立大学の母体の一つ)在学中は野球部捕手として活躍し、1903年(明治36年)に大阪高等商業学校を卒業した。1909年(明治42年)に箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)に入社して営業を担当。同時期に入社した人物には佐藤博夫がいる。1915年(大正4年)には同社が建設した豊中球場の活用策として、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)を発案して大阪朝日新聞の(当時社会部長)長谷川如是閑らと交渉し開催を実現させた。
前田 直造(まえだ なおぞう、1883年(明治16年)3月1… 前田 直造(まえだ なおぞう、1883年(明治16年)3月10日 - 1943年(昭和18年)4月10日)は、日本の逓信官僚。 三重県出身。第一高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。翌年に高等文官試験に合格した。逓信局書記、通信事務官補、通信副事務官、逓信局副事務官、逓信局事務官、逓信書記官を歴任し、その間に和歌山郵便局長、京都中央電話局長、北海道逓信局総務部長、熊本逓信局監察課長、同監理課長、東京逓信局規画課長を務めた。さらに逓信局電話課長、電務局規画課長などを歴任。1927年(昭和2年)、仙台逓信局長に就任し、大阪逓信局長、東京逓信局長も務めた。1933年(昭和8年)、退官。