山崎 力(やまざき つとむ 、1947年5月8日 - )は、… 山崎 力(やまざき つとむ 、1947年5月8日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の前参議院議員(3期)。参議院総務委員長、予算委員長、総務副大臣を務めた。祖父は衆議院議員・青森県知事を務めた山崎岩男、父は参議院議員・環境庁長官を務めた山崎竜男、また次女は青森県外ヶ浜町町長に当選した山崎結子(2017年4月24日就任予定、同県内初の女性首長)。
青森県 青森市:200人
山崎 力(やまざき つとむ 、1947年5月8日 - )は、… 山崎 力(やまざき つとむ 、1947年5月8日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の前参議院議員(3期)。参議院総務委員長、予算委員長、総務副大臣を務めた。祖父は衆議院議員・青森県知事を務めた山崎岩男、父は参議院議員・環境庁長官を務めた山崎竜男、また次女は青森県外ヶ浜町町長に当選した山崎結子(2017年4月24日就任予定、同県内初の女性首長)。
天坂 格郎(あまさか かくろう、1947年 - )は、日本の… 天坂 格郎(あまさか かくろう、1947年 - )は、日本の生産工学者。青山学院大学名誉教授。元オペレーションズマネジメント&ストラテジー学会会長。元日本生産管理学会副会長。 青森県青森市出身。八戸工業高等専門学校機械工学科卒業後、1968年トヨタ自動車工業入社。元町工場検査部品質調査課技術員、オーストラリア室技師補、元町工場検査部技術員室技師、元町工場機械部技術員室係長等を経て、1997年広島大学博士(工学)、1998年トヨタ自動車TQM推進部主査[部長]。2000年青山学院大学理工学部経営システム工学科教授。2002年日本科学技術連盟デミング賞審査委員会委員。2003年日本生産管理学会副会長。
石木 幹人(いしき みきひと、1947年 - )は、日本の医… 石木 幹人(いしき みきひと、1947年 - )は、日本の医師。専門は総合診療。元岩手県立高田病院院長、岩手県医療局名誉院長。東日本大震災後の陸前高田市の地域医療復興に尽力した。 1947年、青森県青森市浅虫温泉に生まれる。5人兄弟の3番目で、父は内科開業医。青森県立青森高等学校を経て、1971年に早稲田大学理工学部を卒業し修士課程へ進む。その後1973年に東北大学医学部へ入学し、1979年に卒業した。岩手県立中央病院呼吸器外科長兼臨床研修科長を務めた後、2004年に岩手県立高田病院院長に就任。高田病院院長就任時、病院は経営難で前年に5億円の赤字を計上していた。「日本一高齢者に優しい病院」を掲げ、地域コミュニティを回る健康講座の実施、ケアマネージャーや訪問看護師との連携強化などの改革を行い、4年で黒字転換を果たした。
大里 洋吉(おおさと ようきち、1946年〈昭和21年〉8月… 大里 洋吉(おおさと ようきち、1946年〈昭和21年〉8月22日 - )は、日本の芸能プロモーター。芸能事務所・アミューズの創業者で、現在は同社代表取締役会長兼社長。アミューズの子会社である、アミューズクエスト代表取締役会長も務めている。妻はアミューズ相談役ファウンダーの大里久仁子。 青森県青森市出身。青森県立青森高等学校、立教大学文学部英米文学科卒業。中学・高校時代は、剣道とブラスバンドに明け暮れていた。 1969年(昭和44年)、渡辺プロダクション(ナベプロ)入社。同期にヒップランドミュージックの創業者で現会長の中井猛などがいる。ナベプロではザ・ピーナッツ、ザ・ワイルドワンズ、梓みちよ、あいざき進也、岸部四郎、沢田研二、キャンディーズらのマネージャーを務めた。
福原 一臣(ふくはら かずおみ、1946年3月16日 - 2… 福原 一臣(ふくはら かずおみ、1946年3月16日 - 2007年7月28日)は、青森県青森市出身の俳優。法政大学経済学部卒。文学座第8期生。劇団黒テント創立メンバー。胃がんのため死去。
田中 隆治(たなか たかはる、1946年 - )は、青森県… 田中 隆治(たなか たかはる、1946年 - )は、青森県出身の日本のバイオ技術者。サントリー顧問・元取締役基礎研究所長、「青いバラ (サントリーフラワーズ)」の開発チームリーダー。元星薬科大学学長。理学博士(大阪大学)。 青森県青森市生まれ。桃山学院高等学校卒、金沢大学理学部生物学科卒、神戸大学大学院理学研究科修士課程修了。サントリー入社後、酵母菌の研究に携わり、サントリーの医薬品分野を開拓していく。ポリフェノールの研究成果を応用し、10年の歳月を経て、世界で初めて青いバラ (サントリーフラワーズ)の開発に成功した。 2005年より東京大学大学院農業生命科学研究科特任教授、2008年より金沢大学理事。
後藤 正人 (ごとう まさと、1943年9月7日 - )は、… 後藤 正人 (ごとう まさと、1943年9月7日 - )は、日本の法制史学者。和歌山大学名誉教授。研究領域は日本法史学、憲法社会史、社会文学、社会科教育学。青森県青森市出身。 後藤は、現代日本の法学研究を行う視点を民主主義に置いている。その上で民主主義とは「自由・平等・友愛に関する運動・思想・制度の全体」であると考える。すなわち、自由・平等・友愛の概念がそれらに係わる運動・思想・制度の三つの次元を通して具体的に検証される必要があるとするのが法制史学者として彼の学問研究に対する基本的スタンスとなっている 。 具体的な研究領域の特徴については、先ず法制史関係として、近世法の土地法史や身分制史を中心に扱って来たが、中世及び近代との係わりも重視する中で先駆的な役割を果してきた。
今村 修(いまむら おさみ、1942年2月23日 - )は、… 今村 修(いまむら おさみ、1942年2月23日 - )は、日本の政治家。元社会民主党衆議院議員(1期)。 青森県青森市出身。法政大学法学部通信制卒。青森県労事務局次長、青森市議などを経て、1987年青森県議に当選。1993年の総選挙で旧青森1区から関晴正の後継者として日本社会党公認で立候補して当選。1996年の総選挙で落選。1999年の青森県知事選挙に立候補し落選。2000年、2003年の総選挙でも落選した。 2025年1月時点で社民党青森県連代表を務めている。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
白鳥 金丸(しらとり かねまる、1942年(昭和17年)2月… 白鳥 金丸(しらとり かねまる、1942年(昭和17年)2月3日 - )は、日本の体育学者、アマチュアボクシング選手。 青森県青森市出身。青森県立北斗高等学校卒業後、早稲田大学に進学。 接近戦を得意とする選手で、1962年から1964年にかけてライト級の全日本チャンピオン。1962年アジア競技大会(第4回、ジャカルタ)にボクシング種目 (Boxing at the 1962 Asian Games) で出場し、ライト級で銀メダルを獲得した。 早稲田大学在学時、1964年東京オリンピックに日本代表の一人として選ばれ男子ライト級で出場した。メダルへの期待が高かったとされるが、3回戦で敗れた。のちに早稲田大学の授業で「自分がメダルを取れなかった理由」として、外国人選手の態度の大きさに圧倒されたこと(乱痴気騒ぎに辟易して寝不足になったという)、日本のボクシングチームのキャプテンとして試合前日まで奔走したこと(バンタム級の桜井孝雄が行方不明になったとして大騒ぎになったが、桜井は渋谷のバーで一人で飲んでいたという。
魁罡 功(かいごう いさお、1941年11月16日 - 没年… 魁罡 功(かいごう いさお、1941年11月16日 - 没年不明 )は、青森県青森市金沢出身で二子山部屋(入門時は花籠部屋)に所属した大相撲力士。本名は大村 功(おおむら いさお)。現役当時の体格は182cm、111kg。得意手は右四つ、投げ。最高位は西前頭5枚目(1969年5月場所、同年11月場所)。 数ある四股名の中でも、最も読めない名の一つに挙げられる。1967年7月場所より名乗っていた魁罡とは、「星の王様」を意味するという。 中学生時代は自動車部に所属し、運転手を志していた。しかし、自動車以上に相撲が好きであったこともあり、巡業で横綱・初代若乃花が青森を訪れた際には、自ら若乃花に入門の意志を伝えそのまま上京してしまった。
小笠原 好彦(おがさわら よしひこ、1941年8月17日 -… 小笠原 好彦(おがさわら よしひこ、1941年8月17日 - )は、日本の考古学者・日本史学者。学位は、文学博士(東北大学・論文博士・2006年)(学位論文「日本古代寺院造営氏族の研究」)。滋賀大学名誉教授。 青森市生まれ。1966年東北大学大学院文学研究科修士課程修了。同年、奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部に勤務。飛鳥藤原宮跡発掘調査部を経て、1979年滋賀大学教育学部助教授、教授、2007年定年、名誉教授、2009-11年明治大学特任教授。 2006年「日本古代寺院造営氏族の研究」で東北大学より文学博士の学位を取得。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田辺 清(たなべ きよし、1940年10月10日 - )は、… 田辺 清(たなべ きよし、1940年10月10日 - )は、日本の元プロボクサー。青森県青森市出身。1960年ローマオリンピックのフライ級銅メダリスト。不運な判定により五輪金メダルを懸けた決勝進出を妨げられ、プロ転向後は技術とパワーのバランスの取れた逸材として世界王座を嘱望されたが、世界挑戦を前に網膜剥離を発症し無敗のまま引退。 1958年、青森工業高校でボクシングを始め、高校日本一となった。 中央大学に進学。大学でアルバイトをしながら競技に打ち込み、国内タイトルを総なめにする。2年後輩に1964年東京オリンピック・バンタム級金メダリストとなった桜井孝雄がおり、公式戦では2度戦い、いずれも田辺が勝利。
孫内 あつし(まごない あつし、1940年 - 2025年1… 孫内 あつし(まごない あつし、1940年 - 2025年12月1日)は、もっぱらクレヨン画によって知られた日本の画家。 青森市生まれ。生家は遊郭街に近い神社で、次男として生まれた。 1958年に東奥義塾高等学校を卒業し、1960年に美術担当として青森放送に入社し、1972年に退社するまで、自社制作番組の美術制作に携わった。 青森放送退社後は、青森市を中心に、複数の飲食店やブティックを経営するかたわら、クレヨン画による創作活動を始めた。 1990年、初の個展を、青森市の五拾壹番館ギャラリーで開催した。 1992年以降、公募展に入選するようになり、1993年には東京都に転居して、1996年からは東京でも個展を開くようになった。
鈴木 日出男(すずき ひでお、1938年〈昭和13年〉4月7… 鈴木 日出男(すずき ひでお、1938年〈昭和13年〉4月7日 - 2013年〈平成25年〉10月3日)は、日本の国文学者。東京大学名誉教授。中古文学専攻。
小林 保治(こばやし やすはる、1938年 - )は、日本の… 小林 保治(こばやし やすはる、1938年 - )は、日本の国文学者。学位は、文学博士。専門は、中世の説話文学・仏教文学・能・狂言など。 青森県青森市出身。早稲田大学教育学部卒、同大学院文学研究科博士課程修了。その後、早稲田大学教育学部・大学院文学研究科兼担教授、浙江大学客員教授。2008年3月、早稲田大学を定年退職。 津軽弁を大切にしていて、さまざまな高校で地域の言葉に眼差しを向ける授業を展開してきた。 中学生の時に石器を発見してから、化石や石の収集を趣味としている。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
阿部 達二(あべ たつじ、1937年5月7日)は、日本の編集… 阿部 達二(あべ たつじ、1937年5月7日)は、日本の編集者・著作家。本名は達児。 青森県青森市生まれ。1961年、早稲田大学政治経済学部を卒業。同年、文藝春秋に入社し、編集者として勤務。『文學界』編集長、文春文庫編集長、出版局長、編集局長を歴任した。 1999年、文藝春秋を退職。以後、「阿部達二」名義で著述家として活動。江戸川柳や古典芸能に関する造詣が深く、古典文芸に関する作品を多く執筆している。 編集者時代の主な担当作家に藤沢周平がいる。藤沢とはデビュー以来30年以上の交友を持った。後年藤沢やその作品に関する講演を行い、また著作を発表している。
沢田 教一(さわだ きょういち、戸籍上の表記は澤田 教一、1… 沢田 教一(さわだ きょういち、戸籍上の表記は澤田 教一、1936年〈昭和11年〉2月22日 - 1970年〈昭和45年〉10月28日)は、日本の報道写真家。ベトナム戦争を撮影した『安全への逃避』でハーグ第9回世界報道写真大賞、アメリカ海外記者クラブ賞、ピューリッツァー賞を受賞した。位階は従五位。 日本光学工業(現ニコン)は「1971年度(原文ママ)のピューリッツァー賞も、ニコンによる作品に授与された。ベトナム戦線において取材にあたったUPI通信社の沢田カメラマンの『安全への逃避』という力作である」と主張していたが、実際には日本製カメラをどんなに勧められても「日本のカメラは写りが悪い」「日本のカメラを使うと壊れちゃうんだよ」といって日本製のカメラを使いたがらなかったという。
長八(ちょうはち、1935年(昭和10年)12月15日 - … 長八(ちょうはち、1935年(昭和10年)12月15日 - )は、大相撲の元三役呼出。本名は川村 健治。青森県青森市出身。高島部屋→友綱部屋所属。
新高 恵子(にいたか けいこ、本名:工藤 琳子(くどう たま… 新高 恵子(にいたか けいこ、本名:工藤 琳子(くどう たまこ)、1934年4月18日 - )は、日本の元女優。 青森県青森市出身。名門・青森高校時代は、寺山修司の一年上級生だったが、お互いに面識はなかったという。 やがて彼女は上京、新藤孝衛監督にすすめられ、当初はピンク映画の人気女優として活躍した。しかし、やがて同じセットで2本の映画を同時に撮影するというような現場に遭遇し、虚しさを感じるようになった。同郷の寺山修司と会った際には彼は、あの映画の演技はこうだったよね、と詳細に新高を演技について語ったため、彼女は感動したという。彼女は、寺山の主宰する劇団、「天井桟敷」に参加し看板女優になっていった。
佐藤 悦子(さとう えつこ、1934年2月 - 2010年5… 佐藤 悦子(さとう えつこ、1934年2月 - 2010年5月10日)は、日本の心理学者。 青森市生まれ。立教大学文学部心理学科卒、いったん職についたのち、1962年立教大学大学院修士課程修了。1969年コロンビア大学大学院修士課程修了。1969年ダートマス大学講師、1973年ベイラー医科大学講師、1977年テキサス大学講師、1981年立教大学助教授、1986年教授、社会福祉研究所副所長。1999年立教大を定年退任、名誉教授。2000-2002年立教女学院短期大学学長を務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう、1932年10月12日 … 三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう、1932年10月12日 - )は、日本のスキー選手、登山家、獣医師。青森県出身。クラーク記念国際高等学校名誉校長、一般社団法人全国森林レクリエーション協会会長、特定非営利活動法人グローバル・スポーツ・アライアンス理事長、株式会社ミウラ・ドルフィンズ代表取締役、株式会社三浦雄一郎事務所代表取締役。 北海道大学獣医学部助手、青森大学教授、日本プロスキー連盟会長、社団法人日本職業スキー教師協会顧問、日本プロモーグルスキー協会会長などを歴任した。 クラーク記念国際高等学校の校長に就任するとともに、全国森林レクリエーション協会の会長などを務めている。また、札幌市手稲区親善大使に委嘱されると同時に、青森市の名誉市民にも選ばれている。
川崎 祥悦(かわさき しょうえつ、1932年(昭和7年)9月… 川崎 祥悦(かわさき しょうえつ、1932年(昭和7年)9月29日 - )は、日本の作曲家。青森県出身。東京藝術大学音楽部作曲科卒業。多くの合唱曲を作曲している。作曲家の川崎絵都夫は息子にあたる。
吉田 義昭(よしだ よしあき、1932年1月8日 - 198… 吉田 義昭(よしだ よしあき、1932年1月8日 - 1989年5月9日)は、日本の脚本家、劇作家である。初期の別名に吉田 貴彰(よしだ たかあき)がある。日本脚本家連盟信託者。『山ねずみロッキーチャック』、『アルプスの少女ハイジ』、『フランダースの犬』等のテレビアニメーションの脚本のメイン作家として知られる。 日本映画データベース等で混同されている、同時代に活動した脚本家の吉田喜昭(1937年 - 2001年)は同音異字の別人。また、第20回小野十三郎賞(2018年)を受賞した詩人の吉田義昭も別人。 1932年(昭和7年)1月8日、青森県青森市に生まれる。 1950年(昭和25年)3月、青森県立青森高等学校を卒業、満20歳を迎えた1952年(昭和27年)に東京に移る。
鳴海 正泰(なるみ まさやす、1931年9月3日 -2021… 鳴海 正泰(なるみ まさやす、1931年9月3日 -2021年2月14日 )は、日本の政治家、政治学者、関東学院大学名誉教授。 青森県青森市生まれ。1954年東北大学文学部西洋史学科卒業後、東京都政調査会の研究員となる。飛鳥田一雄が横浜市長の時代に市政ブレーンとして参加し、市長特使として中国へ往復、「ヨコハマのナルミンジャ」と異名をとる。1980年関東学院大学教授、1997年定年、名誉教授となる。テニスの歴史にも詳しく、横浜山手・テニス発祥記念館館長を務めた。2021年2月14日死去。
芳野嶺 元志(よしのみね もとし、1931年7月7日 - 2… 芳野嶺 元志(よしのみね もとし、1931年7月7日 - 2012年2月17日)は、青森県東津軽郡後潟村(現・同県青森市小橋)出身で友綱部屋(入門から1961年5月場所前までは、高嶋部屋)に所属した大相撲力士。本名は山口 政志(やまぐち まさし)。得意手は右四つ、寄り、押し。身長173cm、体重96kg。自己最高位は、東前頭8枚目(1958年9月場所)。 同郷であった当時の高嶋親方(元前頭4・八甲山)と、彼の弟子で同じく同郷の眺望山(後の神錦)を頼って、16歳の時に角界入り。 その切っ掛けとなったのは、1947年6月に岩手県和賀郡黒沢尻町(現在の同県北上市)で行われた巡業であった。 同年11月場所にて初土俵を踏み、1948年5月、「八潟錦」の四股名で序ノ口に付いた。
梅内 敏浩(うめない としひろ、1930年9月11日 - … 梅内 敏浩(うめない としひろ、1930年9月11日 - )は、日本の銀行家。青森銀行頭取を務めた。 青森県青森市出身。1953年に東北大学経済学部を卒業し、同年4月に青森銀行に入行。1977年に取締役に就任し、1983年6月に常務、1987年6月に専務を経て、1991年6月に副頭取に就任し、1995年4月には頭取に昇格。1997年5月に会長を経て、2002年6月には相談役に退いた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
前島郁雄(まえじま いくお、1929年(昭和4年)1月11日… 前島郁雄(まえじま いくお、1929年(昭和4年)1月11日 - 2020年(令和2年)3月9日)は、日本の地理学者・気候学者。旧・東京都立大学名誉教授。社団法人東京地学協会名誉会員、公益社団法人日本地理学会名誉会員。 長野県小諸市で出生。青森県青森市出身。旧制弘前高等学校理科甲類を経て、1951年に旧制東京大学理学部地理学科を卒業、1956年に東京大学理学部大学院修了。その後1966年に"Natural Seasons and Weather Singularities in Japan" 「日本の自然季節と天候特異日」により理学博士の学位を取得。 1956年より早稲田大学教育学部助手となり、1958年より講師、1962年より助教授。
津軽冨士 節三(つがるふじ せつぞう、1926年4月28日 … 津軽冨士 節三(つがるふじ せつぞう、1926年4月28日 - 没年不明 )は、青森県青森市出身で高島部屋に所属した元大相撲力士。本名は島田 節三(しまだ せつぞう:旧姓工藤)。身長170cm、体重79kg。最高位は西十両13枚目。得意技は押し。 1942年1月場所に「野嵜川」の四股名で初土俵を踏む。1943年5月場所で「津軽冨士」に改名した。1948年5月場所に新十両。この場所は3勝8敗の成績に終わった。その後十両返り咲きを目指したがそれもかなわず、幕下で2年取った後1950年9月場所廃業した。 廃業後は料理の道に進み、三菱電機のコックを勤めながら勉学に励み、大阪経済大学に入り、1962年に卒業した。
神錦 國康(かみにしき くにやす、1925年8月28日 - … 神錦 國康(かみにしき くにやす、1925年8月28日 - 2005年10月22日)は、青森県東津軽郡奥内村(現役当時、現在の同県青森市清水)出身で高嶋部屋に所属した大相撲力士。本名は山口 健二郎(やまぐち けんじろう)。得意手は右四つ、外掛け、吊り。最高位は西前頭5枚目(1953年5月場所)。現役時代の体格は180cm、96kg。 15歳の時上京し、同郷の元前頭4枚目・八甲山が率いる高嶋部屋へ入門。1941年5月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、「眺望山」。 その後、1948年5月場所で新十両に昇進し、翌年1月場所にて新入幕を果たした。この時の四股名は、本名と同一の「山口」であったが、1950年5月場所より「神錦」に改名。
古寺 宏(こでら ひろし、1925年5月 - 1989年7月… 古寺 宏(こでら ひろし、1925年5月 - 1989年7月26日 )は、日本の政治家。公明党衆議院議員(2期)。
小島 一郎(こじま いちろう、1924年11月14日 - 1… 小島 一郎(こじま いちろう、1924年11月14日 - 1964年7月7日)は日本の写真家。 青森県青森市出身。戦後、青森を拠点に北国の風景を撮り続けた。写真家として本格的に活動したのは、1954年頃から死去までの10年ほどに限られている。この間、厳寒の津軽や下北の風土を大胆な構図と独特の世界観で表現する。雪原、農作業風景など平凡な被写体と覆い焼きによって強調した空の風景から生み出される強烈なイメージや構図力と確かな技術は、日本の報道写真のさきがけである名取洋之助からも高い評価を受ける。ベタ焼きに代わるものとして考え出した通称「小島のトランプ」と呼ばれる手札サイズの作品群も特徴的である。また、小島の写真店に勤めていた沢田教一に大きな影響を与えた。
一錦 周之助(いちにしき しゅうのすけ、1924年5月20日… 一錦 周之助(いちにしき しゅうのすけ、1924年5月20日 - 2012年7月20日)は、青森県東津軽郡横内村(現:青森市)出身で高嶋部屋所属の大相撲力士。本名は鳴海 周之助(なるみ しゅうのすけ)。現役時代の体格は身長177cm、体重79kg。最高位は西十両7枚目(1951年5月場所)。得意技は突っ張り・右四つ・上手投げ。2代安治川、9代友綱。魁将龍の祖父、巴潟の義弟、魁輝の義父。引退後は友綱部屋を継承し、停年まで後進の指導に当たった。 17歳の時に高嶋部屋に入門し、1942年1月場所に初土俵を踏んだ。1946年11月場所には初土俵から所要9場所(当時は年2場所制)で十両に昇進した。しかし同場所を全休し、1場所で幕下に陥落。
工藤 正(くどう ただし、1923年12月17日 - 198… 工藤 正(くどう ただし、1923年12月17日 - 1989年3月22日)は、日本の政治家。元青森市長(3期、当選は4回)。 青森県青森市出身。1948年、中央大学法学部卒業。同年、青森県庁に入庁し、2年後の1950年総理府に転じ、事務官となった。その後1961年に栃木県庁に勤務。1965年に自治省に出向した。翌1966年、青森県庁に復帰し、税務課長、総務部次長などを歴任し、1972年八戸市助役に就任し1975年まで務めた。退任後は保護司となった。 1975年、青森市長選挙に立候補するも落選。 1979年、青森市長選挙に再挑戦し初当選した。 1983年、再選。1984年、青森総合流通団地詐欺事件にからみ、助役が受託収賄容疑で逮捕される。
武田昌輔(たけだ まさすけ、1922年1月9日 - 2012… 武田昌輔(たけだ まさすけ、1922年1月9日 - 2012年6月25日)は、日本の法学者。 青森県青森市出身。1944年中央大学法学部卒。大蔵省に入り、大蔵省高等財務講習所(現在の税務大学校)第1期となり、主税局税制第一課を経て、1966年成蹊大学経済学部助教授、1967年教授、1988年学部長。1989年退任、名誉教授となる。税務会計研究学会会長、財団法人租税資料館理事長を務めた。専門は法人税法。
成田 千空(なりた せんくう、1921年3月31日 - 20… 成田 千空(なりた せんくう、1921年3月31日 - 2007年11月17日)は、日本の俳人。青森県青森市出身。本名は力(ちから)。 青森工業学校(現・青森県立青森工業高等学校)卒業。上京して富士航空計器株式会社に就職するが、肺結核に罹患し帰郷。療養中に文学への関心を深めるなかで俳句に傾倒していく。郷土俳句を提唱する高松玉麗(たかまつぎょくれい)主宰の俳句結社「松濤社」(しょうとうしゃ)に入会するも1年余りで退会。1943年、幹事の吹田孤蓬(すいたこほう)に誘われ青森俳句会に参加する[要出典]。超結社の同人組織である青森俳句会は「俳句論から必ず文学論や芸術論になる」楽しい句会で、若い千空は自由闊達な空気を感じながら養分を吸収した。
高木 彬光(たかぎ あきみつ、1920年〈大正9年〉9月25… 高木 彬光(たかぎ あきみつ、1920年〈大正9年〉9月25日 - 1995年〈平成7年〉9月9日)は、日本の推理作家。本名は高木 誠一(たかぎ せいいち)。津軽方言詩人・医師の高木恭造の甥に当たる。 青森県青森市生まれ。4代続いた医者の家系だった。幼少時に母親と死別。 旧制青森中学校(現:青森県立青森高等学校)から四修で第一高等学校理科乙類に入学。東京帝国大学理学部化学科の受験に失敗し、京都帝国大学薬学部に進んだが1年で中退、京都帝国大学工学部冶金学科卒。 非嫡出子として生まれ、一高入学の年に父親が亡くなり、家は破産して一家は離散し、親族からの援助で学業を続けた。その暗い生い立ちのせいもあってか、「出身地・青森」には生涯思い入れを見せなかった。
福士 勇(ふくし いさむ、1919年6月14日 - 1944… 福士 勇(ふくし いさむ、1919年6月14日 - 1944年)は、日本のプロ野球選手(投手)。青森県青森市出身。 1938年(昭和13年)に青森県立商業学校を卒業後、青森林友倶楽部野球部(青森営林局の社会人野球チーム)へ入団。6月に行われた函館太洋倶楽部(北海道の強豪チーム)との試合で勝利投手となり、7月に行われた都市対抗野球大会県予選では3試合に登板・好投する活躍を見せた。秋にライオン軍へ入団しプロ入り。 入団時は捕手であったが、チームに投手が4人しかいない事情もあり、投手へ転向した。球団名が「朝日軍」となった1941年(昭和16年)はシーズンの敗戦数が28敗となり、これは現在も日本プロ野球(NPB)歴代2位の記録となっている。
竹中 修一(たけなか しゅういち、1918年4月20日 - … 竹中 修一(たけなか しゅういち、1918年4月20日 - 1997年7月31日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(5期)。青森県出身。経世会所属であった。
成田 友三郎(なりた ともさぶろう、1917年6月6日 - … 成田 友三郎(なりた ともさぶろう、1917年6月6日 - 1989年10月17日)は、青森県青森市出身のプロ野球選手、政治家。 青森中学校から専修大学へ進学も中退。仙台鉄道局から青森林友を経て1936年に東京巨人軍へ入団。選手としての才能はなかったが、何となく好感のもてる選手だった。1938年秋季頃に体調を崩し、療養に努めたが同年で退団。 1974年に青森市議会へ自由民主党から出馬し当選。4期議員を務めた。
名尾 良孝(なお りょうこう、1917年(大正6年)3月18… 名尾 良孝(なお りょうこう、1917年(大正6年)3月18日 - 1991年(平成3年)5月6日)は、日本の弁護士、政治家。参議院議員(2期)。父は内務官僚で、秋田県知事(官選)を務めた名尾良辰。 青森県青森市生まれ。名尾良辰の四男。1921年に浦和に移り、浦和中学を経て、1921年に中央大学法学部卒業。 戦後に弁護士を開業する。1959年、埼玉県議会議員に当選。以来連続6期在任する。在職中には埼玉県議会議長を務めた。その後1980年の第12回参議院議員通常選挙に自民党公認で埼玉県地方区(1986年の参院選は埼玉県選挙区)から立候補し初当選。鈴木派→宮沢派に属した。法務政務次官、参議院内閣委員長、同商工委員長、自由民主党埼玉県支部連合会会長、埼玉菊花連盟顧問などを歴任した。
小館 善四郎(こだて ぜんしろう 1914年(大正3年)11… 小館 善四郎(こだて ぜんしろう 1914年(大正3年)11月29日 - 2003年(平成14年)10月8日)は青森県出身の洋画家。梶井基次郎の作品「檸檬」に因んで檸檬をモチーフにした静物画が多く、「レモンの画家」と呼ばれる。 青森市生まれ。旧制青森中学校(青森県立青森高等学校)在学中、南部公鎮に師事。1932年(昭和7年)に旧制青森中学校を卒業して上京し、帝国美術学校(武蔵野美術大学)に入学、牧野虎雄に師事した。1936年(昭和11年)11月、学校側の都合により帝国美術学校を繰上卒業。同年から1943年(昭和18年)まで母校青森中の図画科教師。 1938年(昭和13年)、第13回国画会展に初入選。
奈良岡 末造(ならおか すえぞう、1913年(大正2年)10… 奈良岡 末造(ならおか すえぞう、1913年(大正2年)10月31日 - 1995年(平成7年)12月31日)は日本の政治家。青森県青森市長。 青森市出身。1931年、青森県立青森商業学校(現・青森県立青森商業高等学校)卒。卒業後は生家の米屋を手伝い、その傍ら、青森県信用組合連合会に勤務した。1947年、青森市議会議員に当選、4期16年務め、この間、1957年から4年間議長を務め、東北市議会議長会会長、全国市議会議長会副会長を歴任した。1963年に青森県議会議員に当選、1期務めた。1967年、社会党の推薦を受け、青森市長選挙に立候補し、現職の千葉元江を破った。 1971年4月25日、自民党公認の白鳥大八を破って再選を果たした。
田崎 潤(、1913年〈大正2年〉8月28日 - 1985年… 田崎 潤(、1913年〈大正2年〉8月28日 - 1985年〈昭和60年〉10月18日)は、日本の俳優。本名は田中 実。新東宝入社前は舞台俳優として、本名のまま、または月波洋三郎、毛利賢二の芸名を使っていた。青森県青森市出身。 父は公務員。地元の小学校から県立青森商業に進学し、1932年に卒業。1933年、地方巡業の役者となり各地を回る。1935年、森川信らのレヴュー劇団ピエル・ボーイズに入団。この時、月波洋三郎や月波貫一の芸名を名乗る。1936年に退団後は中華民国だった上海にわたり、劇場の踊りの振付師を務める。1937年、帰国して名古屋の劇団に身を寄せるが、まもなく応召。1938年に除隊し、1939年に毛利賢二の芸名で新興キネマ演芸部に所属。
陸奥ノ洋 光司(むつのなだ こうじ、1913年6月1日 - … 陸奥ノ洋 光司(むつのなだ こうじ、1913年6月1日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は溝口弥二郎。最高位は十両14枚目。 青森県青森市出身。出羽海部屋に入門し、1931年3月に本名の「溝口」で初土俵を踏む。1938年5月に十両に昇進。この間四股名を「溝江」から「陸奥ノ洋」に変えた。新十両の場所は5勝8敗と負け越し、幕下に落ちてからは勝ち越すことなく1940年5月で廃業した。 溝口→溝江→陸奥ノ洋
阿部なを(あべ なを、1911年10月1日 - 1996年9… 阿部なを(あべ なを、1911年10月1日 - 1996年9月27日)は青森県青森市出身の料理研究家。本名は阿部チヨ。 青森高等女学校卒業。故郷で洋画家阿部合成と結婚して上京。26歳の時、人間国宝の堀柳女に師事し人形作家となる。日展、伝統工芸展などに次々と入選し、人形作家としての地位を築いた。3人の子に恵まれたが、離婚することとなり、人形では生活できないため料理の道に入った。1959年に東京上野のみちのく料理店「北畔(ほくはん)」を構えた。料理家としてテレビ番組出演や原稿執筆で活躍した。 娘は山口絵里、孫は河合真理。
中村 拓道(なかむら たくどう、1911年(明治44年)4月… 中村 拓道(なかむら たくどう、1911年(明治44年)4月22日 - 1974年(昭和49年)5月28日)は、日本の政治家。青森県八戸市の12代目市長。 1911年(明治44年)4月、 青森市に生まれる。旧制青森中学校(現青森県立青森高等学校)を経て、1930年(昭和5年)、青森県師範学校を卒業し、小学校で教鞭を執る。1941年(昭和16年)、 青森県庁に入庁。地方事務所長などを歴任する。1951年(昭和26年) 、青森県議会議員に立候補して初当選、連続四期在職する。農林商工水産農地副委員長、予算特別委員長、水産商工公安副委員などを経て、1961年(昭和36年)、 県議会副議長に就任。1964年(昭和39年)、東北電力(株)監査役に就任。
阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治4… 阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治43年)9月14日 - 1972年(昭和47年)6月18日)は、昭和に活躍した洋画家。 青森県南津軽郡浪岡村(現在の青森市浪岡)に、父阿部政太郎、母由みの5男6女の末っ子として生まれる。阿部家は北畠顕家の末裔と言われ、代々浪岡八幡宮の宮司をしていた。合成の名は、同年の韓国併合に因んでいるが、後年合成はこの名を嫌ったという。父は当時衆議院議員だったが、1917年(大正6年)青森市長に就任したことで、一家は青森に移転。4月青森市橋本尋常小学校に入学。1922年(大正11年)1月に母を亡くし、墓前で一人泣きじゃくったという。翌年、青森県立青森中学校(現在の青森県立青森高等学校)に入学。
津川 武一(つがわ たけいち、1910年8月2日 - 198… 津川 武一(つがわ たけいち、1910年8月2日 - 1988年9月4日)は、日本の政治家、精神科医、作家である。 青森県南津軽郡五郷村(現青森市浪岡地区)に生まれ、小作人の子どもとして育つ。学業成績が優秀であったため、小学校の教師のすすめで弘前中学校に進学し、その後旧制弘前高等学校に進む。弘前高時代は、石上玄一郎と交友をもつ。なお、太宰治とも同時期に弘前高に在学していたが、そのころは交流はなかったという。なお、津川、石上、太宰は、いずれも旧制中学四修で高校入学組の秀才だった。ただし、太宰は高等小学校1年就学後に中学入学のため津川と石上よりは一歳上だった。 1930年、東京帝国大学医学部に進学。
相沢 良(あいざわ りょう、明治43年〈1910年〉5月15… 相沢 良(あいざわ りょう、明治43年〈1910年〉5月15日 - 昭和11年〈1936年〉1月28日)は、日本の女性平和運動家、共産党活動家。 青森県南津軽郡野沢村(現在の青森県青森市)吉野田字木戸口2番地に生まれる。相沢家は3代続く藩医の家であった。家族は、父・武良、母・秀、祖母、姉・千代、妹・京、弟・企救麿。父の助手や看護婦も住み込みで働いていた。 1923年(大正12年)4月、県立青森高等女学校に進学。小学生当時の相沢良は、2つ年長の青森高女の姉・千代と同級生で仲の良い淡谷のり子が遊びに来ていて、出会っている。 1927年(昭和2年)3月卒業後、英語を習得するため黒石の親戚の家から弘前女学校に1年間通う。
柴田 治三郎(しばた じさぶろう、1909年2月17日 - … 柴田 治三郎(しばた じさぶろう、1909年2月17日 - 1998年7月27日)は、日本の文学研究者、ドイツ文学者、東北大学名誉教授。