山本 鎮彦(やまもと しずひこ、1920年(大正9年)11月… 山本 鎮彦(やまもと しずひこ、1920年(大正9年)11月1日 - 2012年(平成24年)9月17日)は、日本の内務・警察官僚。第9代警察庁長官。位階は従三位。 長野県長野市生まれ。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、旧制松本高等学校文科甲類を経て1943年東北帝国大学(現東北大学)法文学部法科卒。 1943年内務省入省。警視庁の初代公安三課長、警務部監察官など警備・公安畑一筋に歩む。公安三課長時代にラストヴォロフ事件を手掛けたのを始め、公安部長時代には第二次安保騒動、警備局長時代には赤軍派による日航機ハイジャック事件、金大中事件、連続企業爆破事件など歴史的事件に遭遇し、陣頭指揮を執った。
宮崎 仁郎(みやざき じろう、1920年2月8日 - 200… 宮崎 仁郎(みやざき じろう、1920年2月8日 - 2001年2月18日)は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは遊撃手。
徳武 敏夫(とくたけ としお、1919年9月20日 - 没年… 徳武 敏夫(とくたけ としお、1919年9月20日 - 没年不明)は、日本の教育評論家、平和運動家。 長野県長野市生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学部卒業。1946年から1959年まで出版社勤務、1965年大連外語外賓教授として渡中。1967年から歴史教育者協議会副委員長に就く。1975年高知大学、1981年和光大学、1982年法政大学で非常勤講師を務める。家永三郎の教科書検定訴訟を30年以上支援し、支援する全国連絡会常任委員。
今井 勇(いまい いさむ、1919年7月21日 - 1998… 今井 勇(いまい いさむ、1919年7月21日 - 1998年11月6日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。厚生大臣(第66代)、衆議院議員(7期、自由民主党)。 長野県長野市出身。第一高等学校を経て、1944年東京帝国大学第一工学部土木工学科を卒業。戦後の1949年建設省に入省。秋田工事事務所長、東北地方建設局道路部長、計画局地域計画課長、計画局技術調査官などを経て、1970年四国地方建設局長。退官後に1972年の第33回衆議院議員総選挙で旧愛媛3区から無所属で立候補し初当選。その後、自由民主党に入党、宏池会(大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)所属。農水・厚生政務次官、党社会部会長、衆院農水委員長などを歴任した後、1985年第2次中曽根内閣の厚生大臣として初入閣した。
小林 計一郎(こばやし けいいちろう、1919年5月21日 … 小林 計一郎(こばやし けいいちろう、1919年5月21日 - 2009年11月1日)は、日本の歴史学者、郷土史研究家。長野県史編纂委員、長野郷土史研究会会長(初代)。長野工業高等専門学校、文化女子大学長野専門学校、信州短期大学の元教授。長子は、長野郷土史研究会の二代目会長の小林一郎。脚本家の小林雄次と小林英造は孫。 長野県長野市生まれ。旧制長野中学校(現長野高校)を卒業し、神宮皇學館に進学する。小林一茶研究で知られる伊藤正雄に師事して国文学を学ぶ。1941年に卒業。兵役を経て、1946年から大阪府立農学校や長野県の高等学校教諭、長野工業高等専門学校教授、信州短期大学教授などを歴任。1991年信州短大退職、名誉教授の称号を受ける。
西沢 実(西澤 實、にしざわ みのる、1918年(大正7年)… 西沢 実(西澤 實、にしざわ みのる、1918年(大正7年)1月2日 - 2013年(平成25年)7月2日) は、日本の放送作家・劇作家。筆名に苗川正 、芸名に西沢みのる。 日本放送芸術学会、日本放送作家協会、日本演劇協会の各会員。 長野県長野市出身。旧制海城中学卒業。1939年(昭和14年)、東京中央放送局JOAK(現・NHK)が実施した朗読の新人募集に応募する。1941年(昭和16年)には中央大学法学部在学のまま、同年に設立された東京中央放送局専属劇団俳優養成所に参加した。同年大学を繰り上げ卒業し、1942年(昭和17年)に応召して第2師団に入隊、戦車隊長としてトラック島で敗戦を迎える。軍隊での最終階級は陸軍中尉であった。
深澤 俊勇(ふかざわ としお、1917年11月11日 - 没… 深澤 俊勇(ふかざわ としお、1917年11月11日 - 没年不明)は、日本の経営者。日野自動車社長を務めた。長野県長野市出身。 旧制長野中学を経て、1937年に名古屋高等工業学校を卒業し、同年に東京自動車工業に入社。1965年11月に日野重工業(のちの日野自動車)取締役に就任し、常務、専務を経て、1980年6月に副社長に就任し、1983年6月に社長に昇格。1987年6月に相談役を経て、1993年7月から顧問を務めた。 1986年11月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。
小坂 徳三郎(こさか とくさぶろう、1916年1月20日 -… 小坂 徳三郎(こさか とくさぶろう、1916年1月20日 - 1996年2月23日)は、日本の実業家・政治家。信越化学工業社長・会長、信濃毎日新聞社長、衆議院議員、運輸大臣(53代)などを歴任した。 東京帝国大学卒業後、朝日新聞記者から、小坂財閥に戻り、信越化学工業社長に。財界活動も始め、財界の支援で1969年に政界入りした。将来の首相候補といわれ、一年生議員ながら、政策集団「新風政治研究会」を設立、当選2回で総理府総務長官で初入閣した。以降も経済企画庁長官や運輸大臣を歴任し、大平、中曽根康弘とともに「大中小」、安倍晋太郎、竹下とともに「安竹小」と総理総裁候補として目された。しかし、運輸大臣時代に国鉄改革をめぐって、土光敏夫や中曽根康弘首相など政財界の支持を失い、影響力が低下。
久保田 実(くぼた みのる、1915年11月11日 - 19… 久保田 実(くぼた みのる、1915年11月11日 - 1997年2月10日)は、日本の経営者。長野県長野市出身。 1934年に長野商業学校を卒業し、1940年に八十二銀行に入行。1971年11月に取締役に就任し、1975年12月に常務を経て、1979年6月には三協精機製作所社長に就任。1984年6月には会長に就任。 1984年11月に藍綬褒章を受章。 1997年2月10日心不全のために死去。81歳没。
小林 久明(こばやし ひさあき、1915年9月3日 - 19… 小林 久明(こばやし ひさあき、1915年9月3日 - 1990年12月17日)は、日本の経営者。三菱鉱業セメント社長を務めた。長野県長野市出身。 1939年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、1948年に三菱鉱業に入社。1963年に三菱セメントに出向し、1967年5月に取締役に就任し、1970年11月に常務、1973年11月に三菱鉱業セメント専務、1974年11月に副社長を経て、1976年6月には社長に就任。1986年6月には会長に就任。 1987年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1990年12月17日心不全のために死去。75歳没。
八木 健三(やぎ けんぞう、1914年9月5日 - 2008… 八木 健三(やぎ けんぞう、1914年9月5日 - 2008年7月18日)は、日本の岩石学者。自然保護運動家。北海道大学、東北大学名誉教授。父は長野県地学会初代会長の八木貞助。 長野県長野市生まれ。旧制伊那中学、旧制八高を経て、1938年東北帝国大学理学部岩石鉱物学科卒業。同年母校助手、1951年同大学教授を経て、1962年-1978年北海道大学理学部地質学鉱物学科教授、1978年-1988年北星学園大学教授。 1949年に理学博士(東北大学)「樺太、北海道に於ける特殊なる岩漿分化現象の研究」。日本学術会議会員として発展途上国との学術交流に尽力した。
竹村 猛(たけむら たけし、1914年5月22日- 1987… 竹村 猛(たけむら たけし、1914年5月22日- 1987年6月24日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 長野県長野市出身。1943年東京帝国大学文学部仏文科卒。東北大学助教授、中央大学教授、1985年定年退任、名誉教授。19世紀フランス文学を専攻、多くの作品を翻訳した。 妻は杉田久女の次女・光子で(1941年結婚)、石一郎は義兄に当たる。
中村 八朗(なかむら はちろう、1914年4月16日 - 1… 中村 八朗(なかむら はちろう、1914年4月16日 - 1999年2月3日)は、昭和期の小説家。 長野県長野市出身。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、第二早稲田高等学院(現早稲田大学高等学院)を経て早稲田大学文学部仏文科卒業。吉江喬松にフランス文学を学んだ。高等学院時代に八木義徳、辻亮一、多田裕計らとともに同人誌『黙示』を創刊。『黙示』に載せた小説「或る尼僧の話」を丹羽文雄に評価され、以後師事する。1937年、丹羽の推挙により『早稲田文学』に処女作「古い絆」を発表、文壇デビューを果たす。初期の作品は僧侶を題材としたものが多かった。 大学卒業後、1938年から早稲田大学出版部に勤務するが、翌年応召され、松本市の歩兵第50連隊を経て、盛岡市の陸軍予備士官学校に入る。
宮入 潔(みやいり きよし、1914年1月26日 - 200… 宮入 潔(みやいり きよし、1914年1月26日 - 2004年12月22日)は、日本の経営者。長野県長野市出身。 旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、1934年に山梨高等工業学校機械工学科を卒業し、同年に久保田製作所に入社し、豊田自動織機製作所、トヨタ自動車工業での勤務を経て、1959年4月に豊田通商に移り、同年5月には常務に就任した。 1961年11月に専務に就任し、1968年5月に社長に昇格した。1977年7月から相談役を務めた。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2004年12月22日急性心不全のために死去。90歳没。
林 翔(はやし しょう、1914年1月24日 - 2009年… 林 翔(はやし しょう、1914年1月24日 - 2009年11月9日)は、日本の俳人。本名は林 昭(はやし しょう)。 長野県長野市生まれ。生後10ヶ月で母と死別し、5歳まで祖母に養われる。國學院大學を卒業。大学在学中に能村登四郎と知り合い、登四郎とともに短歌雑誌「装填」の同人となるが、同誌の廃刊後ともに俳句に転じた。1939年から1982年まで旧制私立市川中学(現・市川高等学校)に勤務。1940年、水原秋櫻子の「馬酔木」に初入選。この頃から「翔」を俳号に用いた。1950年「馬酔木」同人となる。1962年、現代俳句協会を脱会し、俳人協会に加入する。1970年、登四郎が「沖」を創刊すると編集主幹に就く。
宝月 欣二(ほうげつ きんじ、寳月 欣二、1913年 <大正… 宝月 欣二(ほうげつ きんじ、寳月 欣二、1913年 <大正2年> 7月10日 - 1999年 <平成11年> 12月19日)は、日本の植物学者。理学博士。東京都立大学名誉教授。専門は植物生態学。栄典は勲三等旭日中綬章。位階は正四位。 長野県長野市出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、松本高等学校理科を経て、1938年東京帝国大学理学部植物学科卒業。同大学大学院修了(理学博士)。1944年東京大学副手を経て、1952年東京都立大学助教授、1954年同大学教授。退官後、同大学名誉教授。玉川大学教授。 日本植物学会会長、日本生態学会会長、旧環境庁自然環境保全審議会委員などを歴任し、勲三等旭日中綬章受勲。
若槻 哲雄(わかつき てつお、1913年5月4日 - 199… 若槻 哲雄(わかつき てつお、1913年5月4日 - 1993年4月2日)は、日本の物理学者。専門は原子核物理学。第10代大阪大学総長。元大阪府教育委員長。長野県長野市出身。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
市川 春代(いちかわ はるよ、1913年2月9日 - 200… 市川 春代(いちかわ はるよ、1913年2月9日 - 2004年11月18日)は、日本の映画女優、歌手。出生時本名は同じ、結婚後の本名は加々良 春代(かがら はるよ)。戦前のサイレント映画時代から始まり、トーキー期に実力を発揮し、戦後も長く現役の女優だった。 1913年(大正2年)2月9日、長野県長野市の善光寺門前の西後町に、弁護士の父・喜一、母・きんの二男二女の次女として生まれる。県庁や裁判所の至近の地だった。 1919年(大正8年)、長野県師範学校附属小学校(現在の信州大学教育学部附属長野小学校)に入学。1924年(大正13年)8月3日に父が死去、同校を高等科2年で中退して、叔父が懇意にしていた日活の取締役根岸耕一の紹介状を持ち、13歳になった1926年(大正14年)6月16日に日活大将軍撮影所に入社した。
須甲 鉄也(すこう てつや、1912年8月30日 - 199… 須甲 鉄也(すこう てつや、1912年8月30日 - 1998年4月19日)は、日本の動物学者。専門は甲殻類の発生学や、河川の生態学(特に環境破壊による動物相の年代的遷移)。 長野県長野市出身。東京文理科大学卒業。1938年理学博士。1941年埼玉師範学校教授、1964年埼玉大学文理学部教授、教養部教授、学生部長、教育学部長から1978年名誉教授、1980年から1987年まで学長。 国立大学協会教養課程特別委員会長、天然記念物北海道犬保護会長、埼玉県環境アセスメント会長、さいたま緑のトラスト協会理事、埼玉県立自然博物館協会長など多数の役職を歴任した。勲二等旭日重光章。 著書には「動物発生学実験法」、「大学教養生物学」などがある。
小坂 善太郎(こさか ぜんたろう、1912年〈明治45年〉1… 小坂 善太郎(こさか ぜんたろう、1912年〈明治45年〉1月23日 - 2000年〈平成12年〉11月26日)は、日本の政治家。位階は正三位。自由民主党の衆議院議員(16期)。外務大臣(第83・84・99代)、経済企画庁長官(第23代)、国家公安委員会委員長(初代)、労働大臣(第8代)を歴任した。 長野県長野市出身。学習院を経て、1935年(昭和10年)に東京商科大学(現在の一橋大学)を卒業する(上田貞次郎ゼミナール)。三菱銀行勤務や信越化学工業直江津工場長、同社取締役を経て、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に長野1区(当時)から立候補し、初当選する。以後、当選16回(当選同期に二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・川崎秀二・井出一太郎・早川崇・中野四郎など)。
山本 正男(やまもと まさお、1912年1月12日 - 20… 山本 正男(やまもと まさお、1912年1月12日 - 2007年10月10日)は、日本の美術史学者。専攻は美学、芸術史。第4代東京芸術大学学長、初代沖縄県立芸術大学学長。長野県長野市出身。 日本学術会議第13・14期会員、文部省学術審議会委員、日本美学会委員などを歴任した。
岡本 陸人(おかもと むつと、1911年(明治44年)12月… 岡本 陸人(おかもと むつと、1911年(明治44年)12月28日 - 2007年(平成19年)1月4日)は、日本の実業家。あかね書房創業者。 長野県上水内郡日里村(中条村を経て現長野市)で、岡本梅吉、まつの の四男として生まれる。旧制専修商科学校(夜間)中退する。1926年に書籍取次の東京堂へ入社し、外商部に所属する。1944年に軍へ応召された後に退社し、出版社勤務を経て1949年にあかね書房を創業する。その後、1984年に同社会長に就任。 児童図書出版協会の発起人かつ幹事として学校図書館の設置に尽力し、日本書籍協会理事と読書推進運動協議会理事を歴任する。1983年に勲四等瑞宝章を受勲する。
大島 博光(おおしま ひろみつ、1910年11月18日 - … 大島 博光(おおしま ひろみつ、1910年11月18日 - 2006年1月9日)は、日本の詩人、翻訳家である。
藤本 幸邦(ふじもと こうほう、1910年8月29日 - 2… 藤本 幸邦(ふじもと こうほう、1910年8月29日 - 2009年12月4日)は、曹洞宗の僧、福祉事業家。 長野県長野市出身。曹洞宗円福寺住職。駒澤大学仏教学科卒。渡辺薫美に師事。戦後、長野市篠ノ井地区に篠ノ井文化協会を設立し、劇団「たんぽゝ」などの文化活動を始める。1948年養護施設円福寺愛育園を設立、「一寺院一孤児」を提唱する。曹洞宗大本山布教師、同北信越管区教化センター統括。アジア難民救済事業も行いカンボジアに小学校校舎を寄付した。1984年仏教伝道文化賞受賞。
竹内 利美(たけうち としみ、1909年2月2日 - 200… 竹内 利美(たけうち としみ、1909年2月2日 - 2001年)は、日本の民俗学者、歴史学者。東北大学名誉教授。 長野県長野市生まれ。1944年國學院大學文学部国史学科卒業。日本の村落の実地調査研究を続け、社会学的見地に立って理論化を目指した。 1929年長野県上伊那郡川島村小学校、同本郷小学校で教諭となり、1940年日本常民文化研究所に勤務、1944年中央水産業会職員、1948年連合軍総司令部民間情報教育局世論及社会調査部顧問などを経て、1951年東北大学教育学部講師、1952年助教授、1954年教授。1972年定年退官、名誉教授、同年東北福祉大学教授、1983年退官。 1962年「日本村落構造の研究」により東洋大学から文学博士の学位を授与される。
宇都宮貞子(うつのみや さだこ、1908年12月3日 - 1… 宇都宮貞子(うつのみや さだこ、1908年12月3日 - 1992年2月12日)は、日本の民俗学者、草花研究家、随筆家。 長野県長野市生まれ。旧制県立長野高等女学校卒。東京女子大学中退。民俗学の一環として野の草花を研究し、60歳以後多くの著作を執筆した。1984年エイボン教育賞受賞。1992年、脳梗塞のため死去。
夏目 忠雄(なつめ ただお、1908年(明治41年)9月8日… 夏目 忠雄(なつめ ただお、1908年(明治41年)9月8日 - 1997年(平成9年)9月30日)は、参議院議員(2期)。長野県長野市長(3期)。長野県議会議員。 長野市生まれ。松本高等学校文科甲類、1932年東京帝国大学法学部卒業。1955年長野県議会議員当選、2期目の途中で辞職し、1962年長野市長選挙に当選、1974年第10回参議院議員通常選挙長野県選挙区に自由民主党から出馬し、初当選。1979年第2次大平内閣科学技術政務次官、1980年第12回参議院議員通常選挙で再選した。 長野市長在任中は篠ノ井市等との2市6町村合併による「大長野市」の実現に尽力した。
秋元 寿恵夫(秋元 壽惠夫、あきもと すえお、1908年3月… 秋元 寿恵夫(秋元 壽惠夫、あきもと すえお、1908年3月13日 - 1994年2月4日)は、医師、著作家。筆名室田 有。 長野県長野市生まれ。一家は旧諏訪藩士の家系。精神医学者秋元波留夫は実兄。旧制東京府立第五中学、旧制第一高等学校卒業後、東京帝国大学医学部医学科で血清学を専攻し、1938年卒業、1943年大学院博士課程修了、医学博士。同年満州国平房の関東軍防疫給水部本部(731部隊)に加わった。 戦後は東京民主医療機関連合会結成に参加。1949年、臨床検査法の確立と検査技師の教育・育成を目的とする秋元研究所(1952年より病体生理研究所)を開設。長尾研究所、神奈川保健所勤務を経て、1959年3月-1966年3月横浜市衛生研究所長、1966年4月-1984年5月病体生理研究所長、1967年1月新日本臨床検査技師学校長。
坂口 淳(さかぐち じゅん、1908年〈明治41年〉1月1日… 坂口 淳(さかぐち じゅん、1908年〈明治41年〉1月1日 - 1974年〈昭和49年〉8月18日)は昭和期の作詞家。本名は淳太郎。 長野県埴科郡松代町(現長野市)出身。上京後、写真館に勤めながら、西條八十の門下となる。1949年キングレコード専属、のちにヴィクターに移籍。1956年詩誌『熊ん蜂』を創刊し、1974年に脳卒中で死去するまで発行を続けた。随筆集に『石神井だより』、童謡集に『光と風と花と』がある。 「マロニエの木陰」、「子鹿のバンビ」などの童謡を作詞した。松代町の真田公園には、「子鹿のバンビ」の歌碑がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。
篠原 周一(しのはら しゅういち、1906年10月15日 -… 篠原 周一(しのはら しゅういち、1906年10月15日 - 2001年6月3日)は、日本の経営者。協和銀行社長、会長を務めた。長野県長野市出身。 1930年に東京帝国大学法学部英法学科を卒業し、同年4月に日本銀行に入行した。1958年5月に協和銀行副頭取に就任し、1962年12月には頭取に昇格した。1971年5月に会長に就任し、1978年6月に名誉会長相談役を経て、1998年4月から名誉顧問を務めた。 2001年6月3日肺炎のために死去。94歳没。
秋元 波留夫(あきもと はるお、1906年1月29日 - 2… 秋元 波留夫(あきもと はるお、1906年1月29日 - 2007年4月25日)は、日本の医学者・精神科医。 長野県長野市出身。一家は旧諏訪藩士の家系。3歳時に一家で上京。旧制京華中学、1925年旧制松本高等学校理科甲類を卒業、1929年東京帝国大学(後の東京大学)医学部卒業。その後北海道帝国大学(後の北海道大学)医学部助手に就任。その後、東京帝国大学医学部副手、同学部講師、旧制金沢医科大学(後の金沢大学医学部)教授を経て1958年に東京大学医学部教授に就任した。1936年医学博士(北海道大学)。論文の題は「失行症本質論 」。 長く日本の精神医学界の権威として活躍。帝銀事件に関して、平沢貞通の有罪の証拠とされた精神鑑定の結果を誤りであると指摘し注目を集めた。
松橋 久左衛門(まつはし きゅうざえもん、1905年(明治3… 松橋 久左衛門(まつはし きゅうざえもん、1905年(明治38年)1月2日 - 1970年(昭和45年)11月30日)は、日本の政治家。長野県長野市長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 長野市生まれ。家業は鋼材商「鍋久」で、代々「松橋久左衛門」を襲名する。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、旧制松本高等学校文科を経て、1929年東京帝国大学経済学部卒業。家業の鋼材商「鍋久」を承継し、長野市連合青年会長、長野市会議員を経て、昭和14年(1939年)長野県会議員となる。 同21年(1946年)長野市長臨時代理者となり、翌年に施行された初の公選による長野市長選挙で当選。また戦後の特例で長野県議会議員を兼務し、議長として「分県論」を収束させた。
淀川 郁子(よどがわ いくこ、1904年 - 没年不明)は、… 淀川 郁子(よどがわ いくこ、1904年 - 没年不明)は、英文学者。翻訳家。 長野県長野市生まれ。1925年女子英学塾(現津田塾大学)卒業。長野県立女学校に勤め、工藤好美と知り合い、妹が工藤と結婚する。昭和のはじめに結婚するが、1951年夫が死去し、長野女子短期大学教授を十年間務め、その間工藤との共訳を出し、89歳でジョージ・エリオットの『ダニエル・デロンダ』を完訳した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
市川 謙一郎(いちかわ けんいちろう、1903年5月15日 … 市川 謙一郎(いちかわ けんいちろう、1903年5月15日 - 1972年12月4日)は、日本の経営者。長崎新聞社社長を務めた。 長野県長野市出身。明治大学を卒業し、1922年に信濃毎日新聞社に入社。 1934年に読売新聞社に転じ、1950年に北海タイムス主筆を経て、1958年1月から1961年4月までに長崎新聞社社長を務めた。 1972年12月4日、肺炎で死去した。69歳没。
倉島 至(くらしま いたる、1901年(明治34年)6月19… 倉島 至(くらしま いたる、1901年(明治34年)6月19日 - 1993年(平成5年)3月4日)は、日本の政治家。長野県長野市長(2期)。 長男はジャーナリストの倉嶋康、弟は気象学者の倉嶋厚。 長野市生まれ。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、旧制松本高校文科甲類を経て、1925年東京帝国大学法学部法律学科卒業。1925年朝鮮総督府に奉職。終戦時は慶尚北道内務部長、1946年引揚げ。1947年法政大学工業専門学校の教授から長野市助役となる。1951年長野県地方労働委員会事務局長。 1954年の長野市長選挙に立候補して初当選し、2期務めた。 在任中は飯綱高原の観光開発に乗り出し、スキー場やキャンプ場などを開設。
宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年(明治32年)3月… 宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年(明治32年)3月6日 - 1976年(昭和51年)9月4日)は、日本の法学者。専攻は憲法。東京大学名誉教授。貴族院議員。長野県長野市出身。
北野 吉登(きたの よしと、1895年3月17日 - 198… 北野 吉登(きたの よしと、1895年3月17日 - 1981年4月22日)は、日本の実業家。北野建設創業者。 長野県上高井郡保科村(現長野市)生まれ。保科高等小学校卒業。父の民蔵が明治35年(1902年)に創業した製糸業の「北野商店」を手伝うが、生糸相場暴落を機に、木材や土木建築の請負を開始し、事業の基礎を固める。早くから事業の一体性を考慮し、山林の経営にも着手した。昭和5年(1930年)上高井郡木材業組合長、続いて長野県木材業組合長を務める。同21年(1946年)北野建築工業を設立し、同23年(1948年)現行の北野建設に改称する。昭和38年(1965年)社長を北野次登に譲り、会長となる。長野県建設業協会副会長を務め、アメリカやヨーロッパ各地の建設業を視察し、事業を全国的に躍進させ、海外にも進出した。
池田 宇右衛門(いけだ うえもん、1894年〈明治27年〉5… 池田 宇右衛門(いけだ うえもん、1894年〈明治27年〉5月3日 - 1960年〈昭和35年〉1月5日)は、日本の政治家。参議院議員。 長野県上水内郡三輪村(現長野市)生まれ。同郡上松農業会評議員を経て、長野市農会総代、副会長から会長となった。1928年(昭和3年)長野市会議員、1939年(昭和14年)長野県会議員となる。農村青年教育に力を入れ、中年青年代表者の指導員設置を提唱し、女子専門学校や市道展望道路の開通に尽力した。その他、養蚕組合長、長野県農会常任理事、全国都市農会常任理事、同副会長、長野市、長野県各参事会員、都市計画地方委員、長野県蚕糸会、同園芸協会各副会長、長野県花卉組合連合会、長野市農業協同養蚕組合連合会各会長などを歴任した。
池田 義信(いけだ よしのぶ、1892年3月10日 - 19… 池田 義信(いけだ よしのぶ、1892年3月10日 - 1973年9月1日)は、日本の映画監督、脚本家である。本名・旧名池田 義臣(いけだ よしおみ、いけだ ぎしん)。映画製作者連合会事務局長、映画倫理規程管理委員会(旧映倫)副委員長を歴任。 1892年(明治25年)3月10日、長野県上水内郡三輪村(現長野市)に生まれる。 長野郵便局(現在の長野中央郵便局)勤務を経て、1920年(大正9年)、松竹蒲田撮影所に入社、新派系の演出家賀古残夢、野村芳亭に師事する。翌1921年(大正10年)には、田中欽之が監督した『親なき娘』の脚本を書く。同年10月21日に公開された、柳川春葉原作、伊藤大輔脚本、栗島すみ子主演の映画『生さぬ仲』で監督に昇進している。
神林 美治(かんばやし よしはる、明治23年(1890年)1… 神林 美治(かんばやし よしはる、明治23年(1890年)12月8日 - 昭和54年(1979年))は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。呉海軍病院長、海軍医学校校長を歴任する。長野県長野市出身。 明治23年(1890年)12月8日、長野県更科郡稲里村(現在の長野市)の士族であった神林英三郎の五男として出生する。第二高等学校を経て、大正6年(1917年)に九州帝国大学医学部医学科を成績優秀で卒業し、恩賜の銀時計を授与される。海軍省に入省後、軍医となる。大正12年4月に九州帝国大学大学院へ進学し、小野寺教授の下で指導を受ける。大正14年11月に同校を修了する。 大正15年(1926年)には、久邇宮の欧州外遊に同行し、昭和3年(1927年)2月、ドイツ駐在員となる。
杵淵 直都(きねぶち なおと、1890年9月7日 - 196… 杵淵 直都(きねぶち なおと、1890年9月7日 - 1964年10月6日)は、日本のピアノ調律師である。 1890年、長野県埴科郡松代町(現・長野市)に生まれる。共益商社の研修生として日本楽器製造で技術を学び、NHK、宮内省、各ホールなどでコンサートチューナーとして活躍するなど、大正時代から昭和初期にかけて評価が高かったピアノ調律師の一人。 1930年に誕生した全国ピアノ技術者協会の創設時の中心人物の一人でもあり、発足時には広田米太郎、中谷孝男らと常任委員に名を連ねる。
21代 木村 庄之助(にじゅういちだい きむら しょうのすけ… 21代 木村 庄之助(にじゅういちだい きむら しょうのすけ、1889年4月1日 - 1970年11月25日)は、大相撲の立行司。所属部屋:伊勢ノ海→井筒→双葉山道場・時津風。風貌から「蔣介石庄之助」と通称されている。 長野県更級郡塩崎村(現長野市)出身。本名:樽田→竹内重門。祖父、父(湊崎)ともに東京相撲の力士で、廃業後も浦風部屋の地方世話人(巡業の世話)をしていた。そのため幼少の頃に父の力士時代からの知人であった伊勢ノ海部屋所属の年寄・6代山響の養子となり、1897年、わずか8歳で初土俵を踏んだ。初名は3代式守与之吉で、20代庄之助が兄弟子である。1913年1月場所8日目に青白房(十両格)に昇格。
大平 喜間多(おおひら きまた、1889年〈明治22年〉1月… 大平 喜間多(おおひら きまた、1889年〈明治22年〉1月15日 - 1959年〈昭和34年〉)は、日本の郷土史家。地元の松代を中心に活躍し、『佐久間象山』『真田幸弘と恩田木工』などを著す。松代町会議員も務めていた。 長野県埴科郡寺尾村(現・長野市松代町東寺尾)に生まれる。20歳前後で松代で発行されていた『勧業新聞』の記者になり、1913年(大正2年)に最初の書籍である『松代風土記』を発刊。その後、『中信時報』新聞社に移り、30歳で松代町史編纂主任に就任する。また、1937年(昭和12年)から昭和30年代までは松代町会議員も務めていた。 議員になってから活動はより狭い範囲になり、著書は多いが松代に関する小説的なものが多くなっていく。
青木 儀作(あおき ぎさく、1889年〈明治22年〉 - 1… 青木 儀作(あおき ぎさく、1889年〈明治22年〉 - 1965年〈昭和40年〉1月2日)は、日本の煙火師・花火師。花火業界では初めて黄綬褒章を受章し、「花火の神様」とも呼ばれた。 息子の青木多門、孫の青木昭夫も煙火師として活躍し、3代にわたって日本煙火芸術協会の会長を務めている。 長野県上水内郡安茂里村差出(現・長野市安茂里差出)に三男一女の末子として生まれ、早くから村社・久保寺煙火行事に参加して花火と関わる。安茂里小学校高等科を出て農業に従事。地元には藤原善九朗経営の煙火工場もあり、花火に関心を寄せて研究を重ね、兵役後の大正5年(1916年)には花火工場をつくり、煙火製造に専念する花火師となった。
田中 豊(たなか ゆたか、1888年〈明治21年〉1月29日… 田中 豊(たなか ゆたか、1888年〈明治21年〉1月29日 - 1964年〈昭和39年〉8月27日) は、日本近代橋梁史上最も著名な技術者。東京大学名誉教授。工学博士。 長野県長野市出身。元は橋梁技術者ではなく、鉄道系の技術者で、鉄道省時代は設計の規格化などの仕事に従事した。帝都復興院には太田圓三とともに在籍することになるが、なぜか橋梁課長に抜擢されることになった。恩師・広井勇に顧問への就任を依頼したところ、「落ちないようにやればよい」と逆に激励されたという。 関東大震災によって被害を受けた橋梁の総数は、東京で675橋、横浜で108橋であったが、復興事業の設計責任者として隅田川にかかる永代橋や清洲橋といった橋梁群を手がけ、新技術を次々に導入して橋梁近代化の礎を成した。
勝田 重太朗(かつた じゅうたろう、1887年4月15日 -… 勝田 重太朗(かつた じゅうたろう、1887年4月15日 - 1967年11月16日)は、日本の経営者。産業経済新聞社社長、信越放送社長を務めた。 長野県長野市出身。1913年に日本大学法学部を卒業。 京城日報社、新愛知新聞社、中部日本新聞社などを経て、1950年1月に信濃毎日新聞社副社長に就任し、1951年に信越放送社長に就任。1955年2月に産業経済新聞東京本社社長に就任。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1967年11月16日、心不全のために死去。80歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
小林 暢(こばやし とおる、1879年〈明治12年〉10月1… 小林 暢(こばやし とおる、1879年〈明治12年〉10月19日 - 1935年〈昭和10年〉1月2日)は、明治後期から昭和戦前期にかけての実業家・政治家。長野県更級郡信田村(現・長野市)の人物で、実業界では長野農工銀行や八十二銀行(前身六十三銀行を含む)の頭取を長く務め、政界では貴族院多額納税者議員を1期7年務めた。 小林暢は、1879年(明治12年)10月19日、長野県更級郡信田村(現・長野市信更地区)の素封家・小林元辰(士族)の長男として生まれた。父・元辰は1878年(明治11年)の大蔵省調査によると県を代表する大地主35人のうちの一人であった。1887年(明治20年)8月、父の死去により家を継ぐ。
田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日… 田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日 - 1944年(昭和19年)8月22日)は、長野県出身の財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。
北村 四海(きたむら しかい、1871年4月1日〈明治4年2… 北村 四海(きたむら しかい、1871年4月1日〈明治4年2月12日〉 - 1927年〈昭和2年〉11月14日)は、日本の彫刻家である。本名は直次郎。 現在の長野県長野市生まれ。幼年期より養父で宮彫師あった北村正信から彫刻を学んだ。後に上京し、1893年(明治26年)に島村俊明や小倉惣次郎、新海竹太郎、安田善次郎らと親交を持った。後に島村から木彫、小倉から塑造を学んだ。また同時期に解剖学についても学び始めた。 1900年(明治33年)より留学のため渡仏し、パリに在住し同地で裸体像等の大理石を用いた西洋式彫刻を学んだ。1902年(明治35年)に帰国し、その後は大理石を用いた彫刻を製作し始めた。これによって日本でブロンズ像に対抗して、初の大理石による彫刻像を導入した事で名を馳せた。
神頭 勝弥(神頭 勝彌、こうず かつや、1866年6月10日… 神頭 勝弥(神頭 勝彌、こうず かつや、1866年6月10日(慶応2年4月27日) - 1941年(昭和16年)8月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は従三位勲二等功三級。 信濃国水内郡檀田村(長野県長野市)に神頭三太夫の三男として生まれ、1910年(明治43年)分家する。1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。1899年(明治32年)陸軍大学校第13期卒業。 1912年(大正元年)9月に陸軍歩兵大佐・高知連隊区司令官、1913年(大正2年)8月に歩兵第28連隊長、1916年(大正5年)3月に第3師団参謀長、1917年(大正6年)5月に中支那派遣隊司令官を経て、同年8月に陸軍少将に進級。