重松 一義(しげまつ かずよし、1931年 - )は、日本の… 重松 一義(しげまつ かずよし、1931年 - )は、日本の法制史研究者、犯罪学者。 愛媛県松山市生まれ。中央大学法学部卒業。 矯正研修所教官(行刑史・少年保護史)、中央学院大学法学部教授(刑事政策・日本法制史・法学)、同比較文化研究所長、2002年定年退任。 犯罪と非行に関する全国協議会常任理事・福岡県警察史編纂顧問・網走監獄保存財団顧問・東京家庭裁判所調停委員。
村上 哲見(むらかみ てつみ、1930年7月18日 - 20… 村上 哲見(むらかみ てつみ、1930年7月18日 - 2022年3月12日)は、古典中国文学者。文学博士(京都大学・論文博士・1974年)。東北大学名誉教授。専攻は唐代から宋代にかけての詩人たちの研究。 中国・大連生まれ。愛媛県松山市出身。1953年京都大学文学部中国文学科卒業。 京都学芸大学講師、助教授、東北大学教養部助教授、教授、1975年奈良女子大学文学部教授、85年東北大学文学部教授、1994年定年退官、名誉教授、奥羽大学教授、1999年近畿福祉大学教授、2007年退職。 1972年日本中国学会賞、1974年「北宋詞研究」で京都大学より文学博士の学位を取得。2009年「宋詞に関する研究」により日本学士院賞恩賜賞受賞。
御木 白日(みき しらひ、1929年12月1日 - )は、日… 御木 白日(みき しらひ、1929年12月1日 - )は、日本の歌人。父、御木徳近はパーフェクト リバティー教団(PL教団)第2代教主。 愛媛県松山市生まれ。1956年(昭和31年)学習院大学文学部仏文科卒、ソルボンヌ大学に学ぶ。1959年(昭和34年)大正大学大学院文学研究科修了。1965年(昭和40年)短歌芸術賞受賞。1985年(昭和60年)、「日本近代史とリズム」により、大正大学より文学博士を取得。PL学園高等学校の校長、PL学園女子短期大学の学長も歴任した。
三浦 保(みうら たもつ、1928年12月13日 - 199… 三浦 保(みうら たもつ、1928年12月13日 - 1996年9月9日)は、日本の実業家、芸術家、三浦工業の創始者。愛媛県松山市生まれ。 三浦工業創業と前後して、趣味として陶芸や能楽を始めた。 能楽においては、松山と縁の深い観世流職分藤井久雄主宰の観謳会で研鑽を積み、1981年、松山市内能楽堂にて大曲「安宅」を披いた。その後、1987年には東京・国立能楽堂にて「安宅」再演。これらの功績により、観世流名誉師範の称を得た。また、狂言にも親しみ、地元公演会などに出演した。 本社玄関に飾るべく、三浦が技法を開発した陶板画「Miurart(ミウラート)」は、本社隣接のMiurart Village(長谷川逸子設計)に多数展示されている他、県内各所に寄贈されている。
黒田 義之(くろだ よしゆき、1928年〈昭和3年〉3月4日… 黒田 義之(くろだ よしゆき、1928年〈昭和3年〉3月4日 - 2015年〈平成27年〉1月22日)は、日本の映画監督、特撮監督。 1928年(昭和3年)、愛媛県松山市生まれ。京都市立太秦小学校の同級生には、森田富士郎がいた。子供の頃、映画の子役を務めていた関係で、京都太秦にあった新興キネマ撮影所や、片岡千恵蔵が主宰した千恵プロの映画作品に多数出演した。 立命館大学理工学部数学科卒業。この時は子役時代の経験もあって「撮影所には入らないで、教員になろう」と思っていたことから、しばらく京都府立嵯峨野高等学校(当時は女学校だった)で数学教師を務めた。 1950年(昭和25年)、レッドパージの影響で大映京都撮影所の助監督が7人も退社して急遽助監督を募集していたこともあり、また叔父が伊藤大輔と稲垣浩で、また父親が映画会社大映で製作主任を務め、母親の弟がカメラマンの牧浦地志であるということもあって、大映の入社試験を受け合格。
堀内 雄之(ほりうち ゆうし、1928年〈昭和3年〉 - 1… 堀内 雄之(ほりうち ゆうし、1928年〈昭和3年〉 - 1992年〈平成4年〉)は日本の俳人。妻は俳人の堀内律子。愛媛県松山市出身。 愛媛県松山市にて生まれる。愛媛県立松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)卒業。 愛媛県庁の職員として勤務。1953年には、俳人の堀内律子と結婚。 1984年(昭和59年)、松山市を本拠地とする俳句の結社・俳誌 初花を創設。初代主宰に就任。 1992年(平成4年)、死去。 「子規堂の 小窓開けあり 葉鶏頭」の句碑が愛媛県松山市に建立されている。 妻は俳人の堀内律子。律子は2002年に、俳誌 初花の4代目主宰へ就任した。俳人の大本あきらの娘は、律子の生家へ嫁いでいる。
北川 忠彦(きたがわ ただひこ、1927年1月27日 - 1… 北川 忠彦(きたがわ ただひこ、1927年1月27日 - 1994年4月3日)は、日本の国文学者。専攻は能・狂言研究。 愛媛県松山市出身。京都大学文学部卒業。愛媛大学助教授、立命館大学助教授、天理大学教授、京都女子大学教授、龍谷大学教授を歴任。1994年4月3日、膵臓癌のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田中 誠一(たなか せいいち、1926年(大正15年)4月1… 田中 誠一(たなか せいいち、1926年(大正15年)4月11日 - 2003年(平成15年)4月8日)は、日本の政治家、第25・26代松山市長。 松山市出身。旧制愛媛県立松山商業学校(現 愛媛県立松山商業高等学校)を卒業後、1945年、第11師団(香川県善通寺市)に入隊。 終戦後の1946年、松山市役所職員に採用される。市民課長、企画管理部長を歴任し、助役を3回にわたり(1979年6月25日-1979年7月9日、1983年6月25日-1984年12月25日、1987年6月25日-1989年10月10日)務める。 1991年、5選を狙う当時の現職市長中村時雄に対抗して出馬し初当選。「しあわせひろがるまち松山」をスローガンに、その後2期8年間にわたって松山市長を務めた。
高城 申一郎(たかぎ しんいちろう、1926年(大正15年)… 高城 申一郎(たかぎ しんいちろう、1926年(大正15年)1月27日 - 2009年(平成21年)4月19日)は、日本の実業家。住友不動産社長・会長を務めた。愛媛県松山市出身。
矢野 徹(やの てつ、1923年〈大正12年〉10月5日 -… 矢野 徹(やの てつ、1923年〈大正12年〉10月5日 - 2004年〈平成16年〉10月13日)は、日本のSF作家、翻訳家。坂田 治名義による作品もある。 愛媛県松山市生まれ。兵庫県立第二神戸中学校を経て、中央大学法学部卒。第二次世界大戦中は学徒出陣で陸軍第11師団騎兵第11連隊に所属。階級は軍曹。 日本に本格的なSF出版が芽生える前の、海外SFのファン1号といわれ、SFに興味があった晩年の江戸川乱歩に面識を得る。そのまま、SF翻訳家、SF作家となり、幅広く活躍した。 冒険小説『カムイの剣』は角川書店によりアニメ映画化された。また、代表作『折紙宇宙船の伝説』は日本国外でも出版され、高い評価を受けた。
景浦 賢一(かげうら けんいち、1923年6月26日 - 没… 景浦 賢一(かげうら けんいち、1923年6月26日 - 没年不明)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、三塁手。
後藤 康男(ごとう やすお、1923年3月6日 - 2002… 後藤 康男(ごとう やすお、1923年3月6日 - 2002年11月27日)は、日本の実業家で、安田火災海上保険(現・損害保険ジャパン)元会長。 愛媛県松山市出身。1949年安田火災海上保険株式会社に入社。働きながら法政大学に通った。1951年法政大学経済学部卒業。 福岡支店長、社長室長などを経て1983年から取締役社長に。社長時代に、ゴッホの名画「ひまわり」を購入したことは有名。1992年から経団連自然保護基金運営協議会会長となった。環境派の経済人としてさまざまな活動を行ったことでも評価が高い。1988年藍綬褒章を受章。 「ひまわり」について、購入者(漠然と後藤康男を指すと思われる)が「死んだら棺おけに一緒に入れて焼いてくれ」という旨の発言をしたとの都市伝説があるが、そのような発言があったのはゴッホ作「医師ガシェの肖像」を購入した当時大昭和製紙名誉会長の齊藤了英であり、高額購入されたゴッホ作ということで勘違いされているものと思われる。
朝若 佐太郎(あさわか さたろう、1923年1月8日 - 1… 朝若 佐太郎(あさわか さたろう、1923年1月8日 - 1969年11月25日)は、愛媛県松山市西垣生町出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は中矢 悟(なかや さとし)。最高位は東前頭21枚目(1950年5月場所)。現役時代の体格は168cm、101kg。得意手は左四つ、寄り。 15歳の時に上京し、同郷の元大関・朝潮が率いる高砂部屋へ入門。1939年1月場所で初土俵を踏んだ。 身長170cmに満たない短身で、体重も100kg前後と軽量であったが、そうした体のハンディを克服して順調に出世。 1946年11月場所で新十両に昇進し、以後、暫くはこの地位で一進一退を繰り返した。だが、次第に十両上位でも好成績を残せるようになり、1950年5月場所にて新入幕を果たした。
三好 俊夫(みよし としお、1921年10月22日 - 20… 三好 俊夫(みよし としお、1921年10月22日 - 2000年6月29日)は、松下電工代表取締役名誉会長、日経連副会長、日中経済貿易センター会長。愛媛県松山市出身。 1946年に神戸経済大学経済学部(現神戸大学経済学部)を卒業と同時に松山経専(現松山大学)の教授となる。1950年に松下電工に入社。1977年に取締役に就任。その後、1981年に常務取締役、1982年に専務取締役、1987年2月に代表取締役副社長を経て、1988年2月に代表取締役社長に就任。グローバル経営を推進し、丹羽正治に次いで同社を1兆円企業に育て上げた。その後、1993年に関西経営者協会会長を6年間務め、1994年2月に代表取締役会長に退く、1997年4月28日に亡くなった藤井貞夫相談役の葬儀・告別式の委員長を務めた。
山田 潔(やまだ きよし、1921年1月16日 - 1984… 山田 潔(やまだ きよし、1921年1月16日 - 1984年6月15日)は、愛媛県松山市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。
神尾季羊(かみお きよう、1921年1月2日 - 1997年… 神尾季羊(かみお きよう、1921年1月2日 - 1997年6月16日)は、俳人。愛媛県松山市出身。本名・匡。神尾久美子は妻。宮崎商業学校卒。宮崎神宮嘱託。1946年『ホトトギス』の高浜虚子に師事。1950年『菜穀美』の野見山朱鳥に師事し同人となる。1954年『椎の実』主催。73年『鷹』の藤田湘子に師事。1971年宮崎県文化賞受賞。宮崎県俳句協会名誉顧問。
塩崎 潤(しおざき じゅん、1917年5月31日 - 201… 塩崎 潤(しおざき じゅん、1917年5月31日 - 2011年5月27日)は、日本の政治家(衆議院議員)、大蔵官僚、翻訳家。位階は正三位。 長男は衆議院議員の塩崎恭久。長女は法学者の山根裕子。次女は外交官角崎利夫の妻でアジア防災センター主任研究員の角崎悦子。 愛媛県松山市出身。松山中学、旧制松山高校を経て、東京帝国大学(現・東京大学)法学部政治学科を卒業。東京帝大法学部政治学科在学中の1940年10月に高等試験行政科を合格。1941年 大蔵省に入省する。主計局に配属。1942年10月、神田橋税務署長。1943年1月、宇都宮税務署長。同年8月、東京財務局経理部長。1952年8月1日、主税局調査課長。
中川 晶輝(なかがわ あきてる、1917年2月25日 - )… 中川 晶輝(なかがわ あきてる、1917年2月25日 - )は、日本の眼科医・キリスト教活動家。 愛媛県松山市生まれ。1942年9月東京慈恵会医科大学卒業。12月北京同仁医院(眼科)勤務。45年8月北京仁民医院(眼科)に留用。同時に日本人戦犯拘置所に一日おきに往診。1947年11月帰国。1948年3月衣笠病院眼科勤務。1953年2月白十字会村山療養園(現∶東京白十字病院・結核科)勤務。1972年7月特別養護老人ホーム白十字ホーム園長就任。89年3月園長退任。引き続き専任医師として勤務。93年7月白十字ホーム退職。キリスト者平和の会委員、安保反対キリスト者平和会議事務局長、日本友和会理事長及び理事、白十字会理事、アルヴィン学院理事、友愛の灯協会会長、全国老人福祉問題研究会会長などを歴任。
檜垣 徳太郎(ひがき とくたろう、1916年〈大正5年〉10… 檜垣 徳太郎(ひがき とくたろう、1916年〈大正5年〉10月31日 - 2006年〈平成18年〉10月15日)は、日本の農林官僚・政治家。自由民主党参議院議員(3期)。 愛媛県松山市出身。旧制松山高校を経て、1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部卒業。農林省に入省(水産局嘱託)。入省成績は下から2番目。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進。1945年に解員(復員)。 農林経済局肥料課長、大臣官房予算課長、農地局管理部長、大臣官房長、畜産局長、大臣官房長(再任)、1968年(昭和43年)食糧庁長官を経て、1969年(昭和44年)農林事務次官。
筒井 良武(つつい よしたけ、1916年5月27日 - 没年… 筒井 良武(つつい よしたけ、1916年5月27日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手、内野手)。
景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 194… 景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 1945年5月20日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手(外野手、投手)。
松友 孟(まつとも つとむ、1914年12月5日 - 200… 松友 孟(まつとも つとむ、1914年12月5日 - 2003年9月23日)は、元愛媛県副知事。 愛媛県松山市出身。旧制松山中学卒業、旧制松山高校卒業、1937年 京都帝国大学法学部卒業、内務省に入る。山形県勤務、広島県、熊本県、兵庫県の各課長を経て、1947年 奈良県教育民生部長、1948年 奈良県教育長、1949年 奈良県総務部長、1951年 愛媛県民生部長に転じ、1955年 総務部長、1963年 出納長を経て、1969年から1974年まで副知事を務めた。戦時中は一時陸軍司政官として転出した。推されて松山市長選挙に出馬するが落選した。1975年から愛媛県人事委員会委員長、1976年から1999年まで愛媛県社会経済研究財団専務理事。
佐伯 清(さえき きよし、1914年9月19日 - 2002… 佐伯 清(さえき きよし、1914年9月19日 - 2002年7月16日)は、愛媛県松山市生まれの映画監督である。代表作は昭和残侠伝シリーズ。 愛媛県立松山中学校卒業後に、同郷の伊丹万作を頼り、片岡千恵蔵の片岡千恵蔵プロダクションに入る。1935年(昭和10年)、『戦国奇譚 気まぐれ冠者』で初めて助監督のクレジットが入る。同期に助監督として活躍した市川崑とは兄弟分の関係で弟のように可愛がっていたという。日活太秦撮影所、新興キネマを経て東宝映画へ移籍した。 1945年(昭和20年)1月、榎本健一 の『天晴れ一心太助』で監督デビュー。東宝争議をきっかけに新東宝へ、1952年(昭和27年)に東映へ。主に東映京都撮影所で時代劇を撮るが、1958年(昭和33年)以降は東映東京撮影所での現代劇が中心となる。
高須 清(たかす きよし、1914年4月28日 - 没年不明… 高須 清(たかす きよし、1914年4月28日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手、遊撃手、外野手)。
磯崎 千利(いそざき ちとし、1913年(大正2年)1月12… 磯崎 千利(いそざき ちとし、1913年(大正2年)1月12日 - 1993年(平成5年)6月20日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練19期。最終階級は大尉。 愛媛県松山市出身。松山中学卒業後、海兵団を経て1932年(昭和7年)10月、操縦練習生となる。同期生に半田亘理。1933年(昭和8年)3月、同課程を修了し、龍驤飛行機隊に配属される。そこでのちに撃墜王となる赤松貞明と知り合い、親交を深める。のち内地に転属し、霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊附教官。この時の教え子の一人に、岩本徹三(操練34期)がいる。 日中戦争(支那事変)勃発後の1937年(昭和12年)10月、加賀飛行機隊を経て1939年(昭和14年)末より第十二航空隊に配属され桂林攻撃に参加するが、この時よりすでに撃墜王として武名をはせていた赤松や岩本とは異なり、戦線を通じて大きな空戦に恵まれることはなかった。
高橋 定(たかはし さだむ、1912年(大正元年)12月19… 高橋 定(たかはし さだむ、1912年(大正元年)12月19日 - 2015年(平成27年)12月25日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。航空参謀、艦上爆撃機操縦士。全日空顧問。海兵61期。階級は海将(海上自衛隊)、海軍少佐(大日本帝国海軍)。 1912年(大正元年)12月19日、愛媛県松山市生まれ。6人兄弟の3男。旧制松山中では剣道は初段、サッカーでは主将を務め四国大会で優勝した。医者志望であったが、兄の勧めで1930年(昭和5年)4月、海軍兵学校入学(61期)。同期に野中五郎、板倉光馬、大野博、吉川猛夫など。1933年(昭和8年)11月、卒業。 「磐手」で遠洋航海を行った後、「加古」、「多摩」乗組みを経て、1935年(昭和10年)10月、飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊、1936年(昭和11年)12月には艦爆の延長教育課程を大村海軍航空隊で受け、1937年(昭和12年)4月、佐伯海軍航空隊に配属された。
勝田 龍夫(しょうだ たつお、1912年2月22日 - 19… 勝田 龍夫(しょうだ たつお、1912年2月22日 - 1991年5月28日)は、元日本債券信用銀行会長。朝鮮銀行入行後、日本不動産銀行(のちの日本債券信用銀行)に入り、常務、副頭取、頭取を歴任。父は朝鮮銀行総裁、大蔵大臣等を務めた勝田主計。妻は西園寺公望の秘書・原田熊雄の娘。『重臣たちの昭和史』『中国借款と勝田主計』を著す。 東京府下豊多摩郡渋谷町中渋谷に、愛媛県松山市出身の大蔵官僚勝田主計・伊与子の4男として生まれる。 東京府青山師範学校附属小学校、東京府立一中に入学。その頃、一中においてサッカー部が創部され、キャプテンになる。1930年、一中卒業と同時に、同校地にあった旧制府立高等学校に入学。
和田 茂樹(わだ しげき、1911年4月12日 - 2008… 和田 茂樹(わだ しげき、1911年4月12日 - 2008年4月29日)は、愛媛県松山市出身の国文学者。愛媛大学名誉教授。
弘津 三男(ひろつ かずお、1910年7月8日 - )は日本… 弘津 三男(ひろつ かずお、1910年7月8日 - )は日本の映画監督。愛媛県松山市生まれ。県立松山中学を卒業後、1937年新興キネマ京都撮影所に助監督として入社。溝口健二監督の下でチーフ助監督を務める。 以下に日本映画データベースに従い公開日、作品名、監督名を記載。製作会社はすべて大映京都撮影所。
田中 七郎(たなか しちろう、1910年3月22日 - 19… 田中 七郎(たなか しちろう、1910年3月22日 - 1977年5月11日)は、日本の経営者。愛媛県松山市出身。 1931年に横浜専門学校を卒業し、1932年に石川ペイントに入社。1940年に大和塗料工業所(現在のアサヒペン)を設立し、1947年には代表取締役(のちの社長)に就任。 1974年に紺綬褒章を受章。 1977年5月11日、死去。67歳没。
浦野 まつほ(うらの まつほ、1910年 - 1935年11… 浦野 まつほ(うらの まつほ、1910年 - 1935年11月29日)は、昭和初期の宝塚歌劇団・娘役スター。宝塚歌劇団14期生(1924入学※劇団と音楽学校が分離しておらず入学=入団)。愛媛県松山市出身。本名は松浦芳子。後に洋画家・岸田劉生の実弟で日本初のレビューを作った岸田辰彌(辰弥)の妻となる。 1935年(昭和10年)11月、当時患っていた腹膜炎が原因で死去した。満25歳(数え年26歳)没。墓所は多磨霊園。
森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 19… 森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 1979年10月29日)は、日本の実業家。関西電力元社長、会長。愛媛県松山市出身。 1934年に早稲田大学法学部を卒業し、宇治川電気(のちの関西電力)に入社した。 取締役、専務、副社長を経て、1975年7月からは社長を務め、電源開発問題などに取り組むが、体調不良により1977年6月に辞任。労務畑が長く、荒れた労使関係の調整に尽力した。 日本万博博覧会協会理事、宇治電ビル会長、山陽電気鉄道取締役などを歴任した。 1968年10月に藍綬褒章を受章。 1979年10月29日脳血栓により京都市内の自宅で死去。70歳没。
淡中 忠郎 (たんなか ただお、1908年12月27日 - … 淡中 忠郎 (たんなか ただお、1908年12月27日 - 1986年10月25日)は、日本の数学者。専門は代数学。 愛媛県松山市生まれ。東北帝国大学卒。1945年東北帝国大学教授、後に東北学院大学教授を務めた。ポントリャーギン双対性をコンパクト群へ拡張した淡中-クラインの双対定理で著名。 この定理はグロタンディークによる淡中圏の概念へと発展した。 東京出版の月刊誌『大学への数学』で、「数学雑談」という連載記事の執筆を1960年(昭和35年)から晩年まで担当していた。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
大西 弘(おおにし ひろむ、1908年(明治41年)6月18… 大西 弘(おおにし ひろむ、1908年(明治41年)6月18日 ‐ 1975年(昭和50年)1月17日) は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、松山市議会議長。 愛媛県松山市山越で生まれた。除虫菊製造業を営み、大西土地建物を設立して社長に就任し、四国畜産 (株) 重役、松山市御幸農業会長なども務めた。 1947年(昭和22年)4月、松山市議会議員、愛媛県議会議員に選出され、松山市議会議長を務め、県議会では愛媛民主党に所属して活動した。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に愛媛県第1区から民主自由党所属で出馬して当選し、その後、自由党に所属して衆議院議員に1期在任した。この間、自由党総務などを務めた。
河上 君榮(かわかみ きみえ、1907年1月30日 - 没年… 河上 君榮(かわかみ きみえ、1907年1月30日 - 没年不詳)は、日本の女優である。新漢字表記河上 君栄。本名川上 高江(かわかみ たかえ)、旧芸名光村 貴美子(みつむら きみこ、光村 きみ子とも)、河上 君江、河上 君枝と表記されることもある。 1907年(明治40年)1月30日、愛媛県松山市に生まれる。 同市内にある旧制・松山市裁縫女学校を卒業するとともに京都に移り、満17歳となった1924年(大正13年)7月、日活大将軍撮影所に置かれた関根達発の研究所の研究生として入社する。「光村 貴美子」の名で脇役出演を始め、満18歳になった1925年(大正14年)11月12日に公開された『愛国の血刃』(監督高橋寿康)に出演して、認められるようになり、1926年(大正15年)4月1日に公開された『実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻』(監督池田富保)では大野群右衛門の妻に抜擢されたが、端役が続き、同年9月には同社を退社、同年10月1日、関根達発の紹介により牧野省三のマキノ・プロダクションに移籍、「河上 君榮」と改名し、関根主演の『勝てば官軍』(監督富沢進郎)で相手役に抜擢されて再デビューを果たした。
森 茂雄(もり しげお 、1906年3月18日 - 1977… 森 茂雄(もり しげお 、1906年3月18日 - 1977年6月24日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手・監督・実業家。
射水川 成吉(いみずがわしげきち、1906年2月10日 - … 射水川 成吉(いみずがわしげきち、1906年2月10日 - 1945年3月10日)は、愛媛県温泉郡(現:愛媛県松山市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は八木 成吉(やぎ しげきち)。 1906年2月10日に愛媛県温泉郡(現:愛媛県松山市)で生まれる。地元の土地相撲で大関を務め、その経歴を買われて高砂部屋へ入門し、1924年5月場所において幕下付け出しで初土俵を踏んだが、その場所を負け越してしまい、翌場所は一気に序二段まで降格された。1932年1月に勃発した春秋園事件の影響で十両を飛び越えて新入幕を果たすが、1938年5月場所において二度目となる十両降格を味わい、1939年1月場所を最後に現役を引退、年寄・大山を襲名した後、岩友・西岩の順に変更した。
藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - … 藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - 1981年2月18日)は、愛媛県松山市生まれのプロ野球監督。東京巨人軍初代監督。
菅 太郎(かん たろう、1904年(明治37年)5月30日 … 菅 太郎(かん たろう、1904年(明治37年)5月30日 - 1980年(昭和55年)1月11日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(5期)。 愛媛県松山市出身、東京帝国大学法学部卒業。戦前は内務省の革新官僚の一人で、内務事務官や企画院調査官を務めた他、1936年12月より一時期は満洲国総務庁に配属されている。また1941年に発足した大日本翼賛壮年団の訓練部長や理事に就任した(1943年まで)。 戦後、公職追放となり、1952年に追放解除。同年の第25回衆議院議員総選挙で改進党から愛媛県第1区より初当選。1953年の第26回衆議院議員総選挙では落選した。その後も当選と落選を繰り返し、1955年の第27回衆議院議員総選挙で日本民主党から2度目の当選を果たし、同年の保守合同(自由民主党結党)に参加。
中野 好夫(なかの よしお、1903年〈明治36年〉8月2日… 中野 好夫(なかの よしお、1903年〈明治36年〉8月2日 - 1985年〈昭和60年〉2月20日)は、日本の英文学者・評論家。英米文学翻訳者の泰斗であり、訳文の闊達さでも知られている。東京大学教授・中央大学教授を歴任。 愛媛県松山市生まれ。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)在学中、スパルタ教育に反発して退学。のち旧制第三高等学校へ入学。旧制第三高等学校では野球部に入っており、野球部の1年先輩には戦前最後の沖縄県知事を務めた島田叡がいた。 第三高等学校卒業後に入学した東京帝国大学文学部英文学科で斎藤勇に師事。同じ斎藤勇の弟子に平井正穂がいる。 1926年に卒業後、新聞社入社に失敗して千葉県の私立成田中学校に英語教師として赴任。
友近 晋(ともちか すすむ、1903年4月11日 - 196… 友近 晋(ともちか すすむ、1903年4月11日 - 1964年12月9日)は、日本の機械工学・物理学者。理学博士(東京帝国大学)。京都大学元理学部部長および大阪帝国大学理学部元教授。日本物理学会第14代会長。日本学術会議会員(1期)。国際理論応用力学連合日本代表。流体力学・航空物理学の第一人者の一人。 専門は、流体力学・流体機械、航空物理学。 愛媛県松山市生まれ。1926年東京帝国大学理学部物理学科卒業(指導教授は、理論物理学者の第一人者の一人で東京帝国大学航空研究所所長を務めた寺沢寛一)。同大学助手を経て、1929年同大学理学部助教授。1932年理学博士(東京帝国大学)。同大学航空研究所所員も務める。
重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938… 重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938年11月30日)は、日本の画家で、左翼運動家。愛媛県松山市生まれ。 旧制松山中学校に入学。松山時代、雑誌『白樺』の影響を受けて芸術家志望の若者らと文芸や絵画の回覧雑誌『楽天』を発行。伊丹万作、伊藤大輔、中村草田男らと同志であった。また、後に映画監督となる山本薩夫の実兄でのちの建築家・山本勝巳もメンバーで、大学中退後の山本を伊藤に推薦し松竹に入れたのは重松であった。 松山中を中退して上京。岸田劉生に心酔、影響を受け、春陽会、国画会に入選。1926年、東京府美術館での同館開館記念「第1回聖徳太子奉賛美術展」に、代表作となる「閑々亭肖像」を招待出品するなど活躍した。
栗林 力吉(くりばやし りききち、1901年〈明治34年〉2… 栗林 力吉(くりばやし りききち、1901年〈明治34年〉2月27日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。栗林総業会長。栗林組会長。鳥取県議会議員。米子市議会議長。 愛媛県松山市道後湯之町に栗林佐十郎の長男として生まれる。湯築高等小学校を卒業した。その後は農業に従事する。18歳の頃より樋口組に入り、土木事業界の人となる。 独立し、土建請負業を自営。鳥取県米子市にて事業の根拠を築きあげる。1943年、米子市会議員に当選。副議長や議長に就任する。1944年に個人営業を廃業し、栗林組を設立、社長に就任する。1959年・1963年、鳥取県議会議員に当選。県会自民党、自民党に所属。 米子映画社長、リツリン映画社長、鳥取県自家用自動車協会長、鳥取県建設業協会会長、西日本建設業保証監査役などを務めた。
長 守善(ちょう もりよし、1900年(明治33年)5月26… 長 守善(ちょう もりよし、1900年(明治33年)5月26日 - 1971年(昭和46年)6月8日)は、日本の経済学者。中央大学名誉教授、松商学園短期大学第4代学長。 1900年、愛媛県松山市生まれ。第四高等学校から、東京帝国大学経済学部に進み、1926年に卒業した。大学院在籍ののち満鉄調査部へ勤務。ベルリン大学留学。 戦後は1948年に中央大学教授となり、経済学部長、経済学研究所長(1964年 - 1966年)などを歴任した。その間、1959年に「福祉国家イギリスの研究:その理念、形成、政策」を一橋大学に提出し、経済学博士の学位を取得。 中央大学を退職して名誉教授となり、1970年4月1日から松商学園短期大学の第4代学長に就任して、4年制大学への昇格を目指すに取り組みに着手したが、在職中の1971年6月8日に急逝した。
栢原 保親(かやはら やすちか、1899年(明治32年)10… 栢原 保親(かやはら やすちか、1899年(明治32年)10月21日 - 1944年(昭和19年)6月22日)は、日本の海軍軍人。商船9隻、43,437tを撃沈する戦果を挙げた「伊10」潜水艦長である。あ号作戦に関連した作戦行動で第二二潜水隊司令として戦死。最終階級は海軍少将。 栢原は愛媛県出身の海兵49期生で、1921年(大正10年)に海軍兵学校を卒業した。皇族2名を除いた席次は174名中43番、翌年5月に少尉へ任官している。栢原は中尉進級と同時に第十四潜水艇隊附となり、その潜水艦歴を開始する。兵科将校は基本的に大尉時代に履修する専門課程によってその専攻が決定される。栢原は運用術練習艦航海学生を卒業した航海専攻士官であった。
伊奈 信男(いな のぶお、1898年〈明治31年〉3月31日… 伊奈 信男(いな のぶお、1898年〈明治31年〉3月31日 - 1978年〈昭和53年〉10月7日)は、日本の写真評論家。 愛媛県松山市出身。東京大学文学部美学美術史学科卒業。戦前に活動を開始し、1932年に創刊した写真雑誌「光画」の同人としても活躍(2号から)。その後、日本工房、中央工房にも参加。「光画」の創刊号に掲載された「写真に帰れ」(寫眞に歸れ)は、新興写真(近代写真)の成立を宣言したものであり、社会性を強く持っている写真作品を高く評価する内容だった。それは、それ以降戦後しばらくまでの間の、報道写真を重視するとともに、それ以外の芸術的な写真を社会性を喪失したという理由付けで排除する、という日本の写真状況と軌を一にする。
今井 つる女(いまい つるじょ、1897年6月16日 - 1… 今井 つる女(いまい つるじょ、1897年6月16日 - 1992年8月19日)は、俳人。本名は今井鶴(旧姓・池内)。父は高浜虚子の兄池内政夫で、つる女は虚子の姪にあたる。 愛媛県松山市生まれ。生後間もなく一家で上京するも4歳で父と死別し、池内政忠(虚子の長兄)の養女となる。1904年、尋常第一小学校(現 番町小学校)へ入学後、尋常第四小学校(現 東雲小学校)へ編入する。1914年、愛媛県立松山高等女学校(現 愛媛県立松山南高等学校)卒業。今井五郎との結婚を機に上京する。1920年頃から句作をはじめ、1928年『ホトトギス』夫人句会に参加する。1930年、星野立子の『玉藻』創刊に参加。1940年「ホトトギス」同人となる。
門屋 盛一(かどや もりいち、1896年(明治29年)4月3… 門屋 盛一(かどや もりいち、1896年(明治29年)4月30日 - 1961年(昭和36年)5月10日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 愛媛県風早郡河野村(温泉郡河野村、北条町、北条市を経て現松山市)で、門屋フミの息子として生まれる。幼くして両親と大分県、のちの佐伯市に移った。貧しい家庭のため12歳から小学校給仕となる。村役場給仕、大分県南海部郡戊申溜池普通水利組合書記、薬局生などを務め、独学を続けた。長崎県の崎戸炭坑に移り採炭夫として働く。三菱長崎造船所工業補修学校に入学し木型職工となる。21歳で鉄道工業合資会社に転じ土木事業に係わる。24歳で同社桂事務所現場主任に就任し丹那トンネル工事に従事した。
宮崎 勝太郎(みやざき かつたろう、1892年〈明治25年〉… 宮崎 勝太郎(みやざき かつたろう、1892年〈明治25年〉4月16日 - 1946年〈昭和21年〉7月12日)は、日本の外交官。駐ルーマニア公使。 愛媛県松山市出身。1916年(大正5年)、高等文官試験と外交官及領事官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。農商務省商工局、同臨時産業調査局に勤務した後、外務事務官に転じ、政務局第三課に勤務。さらにイギリス大使館三等書記官、同二等書記官、外務書記官・欧米局第一課長、フランス大使館一等書記官、イギリス大使館一等書記官、トルコ大使館参事官を歴任した。1939年(昭和14年)、駐ルーマニア公使に就任し、翌年に退官した。
河合 長明(かわい たけはる、1890年(明治23年)11月… 河合 長明(かわい たけはる、1890年(明治23年)11月2日 - 1971年(昭和46年)5月9日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛媛県松山市出身。陸軍士官学校第25期卒業。陸軍重砲兵射撃学校に乙種学生として入学、成績優等につき卒業時拳銃を下賜される。陸士教官(兵器学部教官、32期区隊長)、高射砲第3連隊副官を経て、1940年(昭和15年)3月9日に甘木の高射砲第4連隊長(西部軍・西部軍砲兵隊)に就任し、8月1日に陸軍砲兵大佐に進級した。1941年(昭和16年)7月22日に西部軍司令部附となり、11月12日に防空第5連隊長(東部軍・東部防空旅団)に就任して市川に位置した。 1944年(昭和19年)6月に第19野戦高射砲隊司令官(第8方面軍)に就任し、ラバウルに出征した。