岩田準一(いわた じゅんいち、1900年〔明治33年〕3月1… 岩田準一(いわた じゅんいち、1900年〔明治33年〕3月19日 - 1945年〔昭和20年〕2月14日)は、日本の画家・風俗研究家。旧姓は宮瀬(みやせ)。 三重県志摩郡鳥羽町(現・鳥羽市)にて宮瀬家の次男として生まれる。三重県立第四中学校卒業後、親の意志により神宮皇學館へ進むも肌に合わずに中退し、中学時代から親交のあった竹久夢二が教鞭を執る東京の文化学院絵画科へ転校し、夢二に師事。夢二の代作を務め、また夢二本人から「日本一の夢二通」と称される。『明星』を通して与謝野鉄幹・晶子夫妻とも交流があり、夫妻が監修した『日本古典全集』の編纂に参加した。1920年(大正9年)12月に両親が離婚し、母方の姓である岩田を名乗るようになる。
野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日… 野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日) - 1976年(昭和51年)1月18日)は、日本の実業家、政治家、郷土史研究家。甲府市長(官選第18代)、山梨日日新聞社社長、山梨放送社長。 甲府市百石町に、父・英夫、母・いしの二男として生まれる。1906年(明治39年)4月に山梨県尋常師範学校付属小学校に入学、1917年(大正6年)3月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)、1920年(大正9年)3月に第八高等学校を卒業後、同年4月に東京帝国大学法学部に入学。1922年(大正11年)2月20日に山梨日日新聞社社長であった父親の野口英夫が逝去し、同月21日に学生のまま同新聞社の社長に就任。
鳥羽 正雄(とば まさお、1899年12月13日 - 197… 鳥羽 正雄(とば まさお、1899年12月13日 - 1979年4月18日)は、日本の林業史学者、城郭研究家。 東京市市谷生まれ。高千穂小学校、東京高等師範学校附属中学校、第一高等学校卒、1924年東京帝国大学文学部国史学科卒。農林省林制沿革調査嘱託、神宮皇學館教授、内務省考証官、神祇院考証課長、林業経済研究所研究員。1951年から鹿児島大学教授、1956年から東洋大学教授。1961年、東洋大学にて文学博士の学位を取得。中京大学教授。1974年退任。1966年日本城郭協会設立に参加し、理事。 甲冑研究家の山上八郎とは小学校以来の交友があり、山上が「日本甲冑論考」で東洋大学より文学博士号を取得したのも鳥羽の推薦があったためという。
中谷 博(なかたに ひろし、1899年12月1日-1971年… 中谷 博(なかたに ひろし、1899年12月1日-1971年10月25日)は、ドイツ文学者、大衆文学研究家。 和歌山県出身。旧姓は高石。早稲田大学文学部独文科卒。第一早稲田高等学院、早大の講師、1949年早大教授。70年定年退職、名誉教授。1934年「大衆文学本質論」を発表、大衆文学論でも活躍した。1935年早稲田大学明治文学研究会の結成に参加。息子は大衆文学研究家の中谷治夫。
斎藤 弘吉(さいとう ひろきち、1899年〈明治32年〉8月… 斎藤 弘吉(さいとう ひろきち、1899年〈明治32年〉8月13日 - 1964年〈昭和39年〉9月19日)は、日本の日本犬研究家、芸術家、古美術研究家である。 東京都渋谷駅前の『忠犬ハチ公』を広く知らしめたことや、第1次南極地域観測隊の『タロとジロ』他の樺太犬救出のために尽力した事でも知られる。ペンネームは、斎藤弘。 社団法人日本犬保存会初代会長。財団法人日本動物愛護協会理事長。社団法人日本庭園協会常務理事。日本哺乳動物学会理事。世界動物保護連盟日本代表理事。動物友の会代表。空気銃対策協議会代表。ハチ公銅像維持会顧問。 洋画家を目指して東京美術学校を卒業したが、病気療養中に日本犬と出会い、当時、絶滅が危惧される状況にあった日本犬の保存活動をする事を決めた。
山田 秀三(やまだ ひでぞう、1899年6月30日- 199… 山田 秀三(やまだ ひでぞう、1899年6月30日- 1992年7月28日)は、日本のアイヌ語地名研究家、官僚、実業家。
薄井 己亥(うすい きがい、1899年(明治32年)2月25… 薄井 己亥(うすい きがい、1899年(明治32年)2月25日(旧暦) - 没年不明)は、昭和時代後期にかけて活動した郷土史家、歴史研究家、水戸史学会顧問。 茨城県那珂郡木崎村(のち那珂町、現那珂市)に生まれる。高等小学校卒業後、寺子屋で学ぶ。1918年(大正7年)頃上京し、正則英語学校で学ぶ。1919年(大正8年)仙台第一中学校(現宮城県仙台第一高等学校)の検定試験に合格する。合格後は開校したばかりの水戸高等学校に入学し、1年留年するが、1924年(大正13年)に卒業する。同年東京帝国大学法学部に入学。東大では上杉慎吉と美濃部達吉から憲法学を学ぶ。1927年(昭和2年)に卒業する。卒業後は大阪商船の内定を受けるが辞退する。
金沢 治(かなざわ おさめ、1899年(明治32年)2月14… 金沢 治(かなざわ おさめ、1899年(明治32年)2月14日 - 1981年(昭和56年)5月12日)は日本の歌人、郷土史家、方言研究家。飯田義資(1894-1973)・一宮松次(1897-1972)と共に徳島県郷土史研究の三大長老の1人とされる。徳島県郷土資料専門調査員を務めた。 1899年2月14日、徳島県美馬郡半田町(現:つるぎ町)に金沢与平の長男として生まれる。 1918年3月、徳島県師範学校本科第一部を卒業する。 1923年4月、上京し国学院大学高等師範部に入学する。在学中は折口信夫に師事する。 1926年、国学院大学高等師範部を卒業し、神奈川県立商工高等学校に就職する。 1927年、帰郷し徳島県立徳島中学校に転任する。
坂本 種芳(さかもと たねよし、1898年〈明治31年〉12… 坂本 種芳(さかもと たねよし、1898年〈明治31年〉12月26日 - 1988年〈昭和63年〉)は、日本の技師、アマチュア奇術師、奇術研究家。筆名は天城 勝彦(あまぎ かつひこ)。技師としては、九州の筑後川昇開橋を始めとする、多くの可動橋を設計した。奇術師としては、日本初のアマチュア奇術師団体である「東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ(Tokyo Amateur Magicians Club、以下TAMCと略)」で中心的な人物として活躍した。また、アメリカの奇術雑誌「スフィンクス(英語版)」から奇術の優秀作品へ贈られる「スフィンクス賞」を、日本人として初めて受賞した。 岩手県上閉伊郡綾織村(後の遠野市)出身。
榊原 巌(さかきばら がん、1898年〈明治31年〉11月1… 榊原 巌(さかきばら がん、1898年〈明治31年〉11月17日 - 1994年〈平成6年〉11月30日)は、日本の経済学者、キリスト教(アナバプティズム)研究家、政治家、実業家。青山学院大学名誉教授。筆名は、吾妻 東一、福田 逸史。 妻は衆議院議員の榊原千代。息子はヒッポファミリークラブ創設者の榊原陽。 愛知県碧南市生まれ。1921年(大正10年)3月、官立神戸高等商業学校を中途退学する。同年4月に東京商科大学(現・一橋大学)本科に入学し、1924年(大正13年)3月に卒業する。同年4月に横浜社会問題研究所の研究員に就任する。 1926年(大正15年)6月から福島高等商業学校(現・福島大学)講師、1927年(昭和2年)7月から同校教授に就任する。
牧村 史陽(まきむら しよう、本名は源三、1898年10月1… 牧村 史陽(まきむら しよう、本名は源三、1898年10月1日 - 1979年4月25日)は、大阪の郷土史家、方言研究家。大阪市生まれ。生粋のなにわっ子で、稀代の大町人学者と呼ばれた。 1898年10月1日、大阪船場の木綿問屋の長男に生まれる。大阪大倉商業学校卒業後、父の死を機に家業を別家に譲り、独力で郷土史関係の実地調査、記録作成に打ち込む。1948年から雑誌「大阪弁(全7巻)」を編集。1952年から郷土史研究グループ「佳陽会」を主宰。大阪の歴史、地理、演劇などを実証的に調査し、新聞や雑誌などに発表した。1978年大阪文化賞を受賞。「郷土史は足で書け」が持論。 1979年4月25日没。
加納 一郎(かのう いちろう、1898年(明治31年)7月1… 加納 一郎(かのう いちろう、1898年(明治31年)7月19日 - 1977年(昭和52年)7月12日)は、日本の作家、翻訳家、登山家、極地研究家。 大阪の道頓堀に生れる。5、6歳の頃、父の仕事の都合で京都へ転居、少年時代を過ごす。1911年(明治44年)、京都府立第一中学校に入学した。1915年(大正4年)夏、加納に終生の山心を植え付けた恩師の金井千仭に連れられて、級友ら数名と御嶽山、槍ヶ岳に登る。同年、全国の中学に先駆けて山岳部を創設する。 1916年(大正5年)、北海道帝国大学農学部(入学当時は「東北帝国大学農科大学」。在学中の1918年に北海道帝国大学となる)に入学。スキー部に在籍し、板倉勝宣、松川五郎らと登山とスキーに打ち込み、1920年(大正9年)に積雪期の十勝岳、1922年(大正11年)冬季の旭岳などの初登頂を果たす。
田代 三千稔(たしろ みちとし、1898年(明治31年)7月… 田代 三千稔(たしろ みちとし、1898年(明治31年)7月10日 - 1984年(昭和59年)2月4日)は、日本の英文学者、翻訳家、ラフカディオ・ハーン研究家。 福岡県遠賀郡香月村(現・北九州市)生まれ。 旧制福岡県立東筑中学校、旧制第五高等学校を経て、1924年に東京帝国大学文学部英文学科を卒業。五高の同窓に劇作家の木下順二、帝大時代の同期生には作家の北村喜八がいた。 1924年4月法政大学講師、1926年4月同大教授。 1946年3月日本大学教授となり、同年10月には鎌倉アカデミアという特殊の教育機関の教授も兼ねた。 横浜市立大学が横浜医科大学と統合した1952年4月には、かねてから親交のあった三枝博音学長から招かれて、教授に就任し、図書館長などの役職に就いた。
天野 芳太郎(あまの よしたろう、1898年(明治31年)7… 天野 芳太郎(あまの よしたろう、1898年(明治31年)7月2日 - 1982年(昭和57年)10月14日)は大正、昭和の日本の実業家、アンデス文明研究家。1920年代に南米パナマに渡り、戦時中は日本に強制送還されるも、再びペルーに渡り事業を興した。古代アンデス文明のチャンカイ文化(英語版)の調査研究でも知られ、天野が収集した文化遺産をもとにペルーの首都リマに博物館が開設されている。 秋田県南秋田郡脇本村(現在の男鹿市脇本)生まれ。1912年(明治45年)に秋田市高等小学校を卒業、陸軍幼年学校を受験するが視力が弱いため不合格となった。1913年(大正2年)4月に秋田県立工業学校(現在の秋田県立秋田工業高等学校)機械科に入学した。
本多 静雄(ほんだ しずお、1898年(明治31年)1月5日… 本多 静雄(ほんだ しずお、1898年(明治31年)1月5日 - 1999年(平成11年)5月6日)は、愛知県西加茂郡上郷村(現・豊田市)出身の実業家、陶芸研究家。愛知工業大学教授。猿投古窯跡を発見した功績で知られる。 1898年(明治31年)1月5日、愛知県西加茂郡上郷村花本(現・豊田市花本町)に生まれた。父は本多松三郎、母はちかであり、静雄は次男だった。 11歳だった1909年(明治42年)、宇佐美一夫の娘である7歳の宇佐美美恵と見合いし、美恵は静雄の許嫁となった。1910年(明治43年)に西加茂郡猿投第二尋常高等小学校(現・豊田市立青木小学校)を卒業し、1915年(大正4年)3月に愛知県立工業学校(現・愛知県立愛知工業高校)を卒業すると、同年4月には東京・神田の私立東京中学校(現・東京高等学校)に編入した。
岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12… 岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日)は神道家、宗教家、神典研究家。岡山県浅口郡玉島町出身。本名は信之。天明は「雅号」である。 信之は幼少の頃から、他人には見えないものが見えたり(霊視能力)、聞こえたり(霊聴能力)、霊能力を持っている子供だったという(岡本三典『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』)(参)。また、絵が得意で17歳の頃に神戸三宮で絵の個展を開き、新聞に「天才少年画家現る」と称賛されたという。その後、上京し明治大学に学ぶ。紆余曲折を経て大本に出会ったのは1920年(大正9年)、天明が22歳の時だった。 1944年(昭和19年)6月10日、千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)の麻賀多神社の末社である天日津久神社を参拝する。
加藤 唐九郎(かとう とうくろう、1897年(明治30年)7… 加藤 唐九郎(かとう とうくろう、1897年(明治30年)7月19日(※戸籍上は1898年(明治31年)1月17日) - 1985年(昭和60年)12月24日)は、日本の陶芸家、陶磁史研究家。愛知県東春日井郡水野村(現・瀬戸市水北町)出身。桃山時代の陶芸の研究と再現に努めたが、1960年に永仁の壺事件で古瀬戸の大規模な贋作を行っていたことが発覚し、批判を受ける。事件後は公職を辞任し、作陶に専念した。建築物と陶磁器の組み合わせ陶壁を創出、陶壁は唐九郎による造語である。 一ム歳、一ム、野陶、ヤト、陶玄、玄などの号も用いる。 子息の岡部嶺男(長男)、加藤重高(三男)と孫の加藤高宏も同じく陶芸家である。
川合 勇太郎(かわい ゆうたろう、1897年〈明治30年〉4… 川合 勇太郎(かわい ゆうたろう、1897年〈明治30年〉4月28日 - 1980年〈昭和55年〉10月30日)は、日本の民俗学者、民話・口承文芸研究家、口演童話家、地方史家、温泉史研究家、ジャーナリスト。青森県東津軽郡青森町(現・青森市)生まれ。20代で蘆谷蘆村に師事し、童話文学を学ぶ。1927年、子どもたちに民話・童話を語り聞かせる八戸童話会を仲間たちとともに結成。のちに同会の理事長も務めた。また十和田市(当時の三本木町、藤坂村)の郷土史も執筆した。青森県に伝わる民話や伝説を研究し、1939年には「民間伝承の会」(後の日本民俗学会)に入会。ジャーナリストとしては、三本木の日刊紙『南部日報』(1927年創刊)の編集長、『東奥日報』三本木支局長などを務めた。
宇賀田 為吉(うがた ためきち、1897年3月25日 - 1… 宇賀田 為吉(うがた ためきち、1897年3月25日 - 1999年2月28日)は、日本の医師、たばこ研究家、江戸版本蒐集家。 埼玉県加須市出身。東京帝国大学医学部卒、1928年「パラメチウム発育の生化学的研究」で医学博士。沖電気工業診療所長。大槻玄沢『蔫録(えんろく)』の調査研究が終生のテーマで、室号を「蔫々堂文庫」と称した。江戸時代の版本の蒐集家でもあり、そのコレクションは、たばこと塩の博物館に寄贈されている。101歳で死去。
板垣 直子(いたがき なおこ、1896年11月18日 - 1… 板垣 直子(いたがき なおこ、1896年11月18日 - 1977年1月21日)は、日本の文芸評論家、日本近代文学研究家。 青森県北津軽郡栄村湊(現五所川原市)に平山兼吉の次女「なを」として生まれる。1914年青森県立弘前高等女学校(現・青森県立弘前中央高等学校、太宰治の姉トシが2学年上で寄宿舎で同室)、1918年日本女子大学校英文科卒、1921年、東京帝国大学の第一回女子聴講生となる。美学、哲学を聴講。美術評論家の板垣鷹穂と結婚。夏目漱石などについて多くの著述を行い、比較文学研究では島田謹二、吉田精一らと並ぶ存在とされる。長谷川時雨主宰の「女人芸術」の編集委員として林芙美子を見出した。また、国士舘大学等で教鞭をとっている。
重森 三玲(しげもり みれい、1896年8月20日 - 19… 重森 三玲(しげもり みれい、1896年8月20日 - 1975年3月12日)は、昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家。出生名は重森 計夫(しげもり かずお)。 岡山県上房郡吉川村(現・加賀郡吉備中央町吉川)の生まれ。当地には豪渓(ごうけい)と呼ばれる水墨山水画の世界を思わせる渓谷地帯がある。日本美術学校で日本画を学び、華道と茶道を習い稽古に励む。日本美術学校卒業後には東洋大学文学部に学ぶ。 大正6年(1917年)に画家の道を志し上京するが、全国から集まる才能に意気消沈する。昭和4年(1929年)京都へ移り住むと、翌年には勅使河原蒼風らと「新興いけばな宣言」を起草(当時は未発表)、いけばなの革新を世に提唱した。
溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1896年(明治29年)8月… 溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1896年(明治29年)8月10日 - 1973年(昭和48年)1月1日)は、日本の美術史家、漆工研究家、漆芸家。東京国立博物館工芸課長。 東京府で伯爵・溝口直正の八男として生まれ、叔父・溝口武五郎の養子となる。1916年(大正5年)東京美術学校漆工科本科を卒業し、同研究科に進み漆芸史の研究を行い1921年(大正10年)に修了した。 舞台美術家として築地小劇場に参加した。その後、漆工品の修理・模造を担い、国宝の扇散蒔絵手箱、籬菊蒔絵硯箱、舟橋蒔絵硯箱の模造で知られた。 1928年(昭和3年)東京帝室博物館(現東京国立博物館)嘱託となり、戦後も引き続いて勤務し漆工史の研究を行った。
寺西 暢(てらにし ちょう、1896年 - 1938年8月)… 寺西 暢(てらにし ちょう、1896年 - 1938年8月)は日本の昆虫研究家である。テラニシセスジゲンゴロウやテラニシハリアリは同氏に献名されたものである。 1896年(明治29年)生まれ、大阪出身。東京農業大学を卒業後もアミメアリの働きアリが産卵することを発見、報告するなど主にアリの研究を続けていた。1930年(昭和5年)に竹内吉蔵と共に関西昆虫学会を創立し、東成区生江町の自宅に事務所を置いていた。 晩年は病床に伏しており、1938年(昭和13年)の8月上旬に死去した。死後に遺稿集が発行されている。
小寺 融吉(こでら ゆうきち、1895年(明治28年)12月… 小寺 融吉(こでら ゆうきち、1895年(明治28年)12月8日 - 1945年(昭和20年)3月29日)は、日本の舞踊研究家、民俗学者。 東京生まれ。小寺芳次郎の四男。開成中学校卒、1918年早稲田大学文学部英文科卒。歌舞伎舞踊、民俗舞踊を研究、1927年柳田國男、折口信夫らと民俗芸術の会を結成、『民俗藝術』を創刊した。小寺駿吉、中村伸郎の兄。小寺廉吉、小寺健吉の弟。
斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1895年〈明治28年〉8月… 斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1895年〈明治28年〉8月26日 - 1960年〈昭和35年〉2月2日)は、日本の野球史研究家、文学研究家。 日本の野球史研究の先駆者で、明治・大正期の野球書を長年収集して『日本野球文献解題』を私家版で作成し、日本に野球が伝来した時期について「明治5年説」を提唱した。また、石川啄木関連の文献資料を収集して『文献石川啄木』二巻を刊行したほか、『啄木と故郷人』、『啄木文学散歩』の著書があり、岩波書店版『啄木全集』の編さんもしている。 1895年(明治28年)8月26日に日本の長野県下高井郡市川村(のちの野沢温泉村)虫生に生まれる。小学生ですでに野球をプレーしていた。
岡本 文弥(おかもと ぶんや、本名:井上 猛一、1895年〈… 岡本 文弥(おかもと ぶんや、本名:井上 猛一、1895年〈明治28年〉1月1日 - 1996年〈平成8年〉10月6日)は、日本の新内節の太夫、新内節岡本派五代目家元、新内節研究家、随筆家、俳人。 東京・谷中上三崎南町に生まれる。父・田崎源次郎は煉瓦職人、母・とらは新内語りの鶴賀若吉(のちに三世・岡本宮染)。幼少時より母親から浄瑠璃を習い、1913年(大正2年)、富士松加賀路太夫を名乗る。早稲田大学中退後、文芸誌の編集者をしながら、夜は新内を流す日々を過ごす。1923年(大正12年)母と共に独立して岡本派を再興、岡本宮太夫を名乗り、後に岡本文弥と改名。母の幼女で妹でもある三味線の名手、四世・岡本宮染とコンビを組み、母から多くの貴重な古曲を継承すると共に、生来の文才を生かして次々と新作を発表。
木村 毅(きむら き、1894年2月12日 - 1979年9… 木村 毅(きむら き、1894年2月12日 - 1979年9月18日)は、日本の文学評論家、明治文化史の研究家、小説家。小説家の阿部知二とはいとこ同士にあたる。 岡山県勝南郡勝間田村(現:勝田郡勝央町)に生まれる。少年時代から文士を志し、『少年世界』『文章世界』に投稿する。高等小学校卒業後の3年間独学、その後早稲田大学英文科に入学。同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田民樹、細田源吉らがいた。1917年卒業。 隆文館、次いで早稲田で同級だった直木三十五らの設立した春秋社に入社し、トルストイ全集の編集を手がけ、植村退社後も宮崎安右衛門『乞食桃水』、西田天香『懺悔の生活』などのベストセラーを企画した。
永田 衡吉(ながた こうきち、1893年11月20日 - 1… 永田 衡吉(ながた こうきち、1893年11月20日 - 1990年2月27日)は、日本の劇作家、民俗芸能研究家。 和歌山県新宮出身。1917年早稲田大学英文科卒、東京帝国大学で美学美術史を学ぶ(卒業未確認)。21年から戯曲を発表、27年柳田國男、折口信夫らの民俗芸術の会の結成に参加、28年「信州義民伝」が6代目尾上菊五郎によって上演、「源義朝」が沢田正二郎によって上演される。30年菊五郎の日本俳優学校の設立に参加し講師となる。
大黒 富治(おおぐろ とみじ、1893年11月15日 - 1… 大黒 富治(おおぐろ とみじ、1893年11月15日 - 1965年12月18日)は、秋田県出身の歌人、農業研究家。旧姓丹波。(昭和28年、仁別務沢、植物園にて撮影) 1893年(明治26年)11月15日、仙北郡大川西根村(現・大仙市)において丹波常吉とフミの間に六男三女の末っ子として生まれる。 秋田農業学校(現・秋田県立大曲農業高等学校)を卒業後、1909年(明治45年)に鹿角郡の曙尋常高等小学校の代用教員となり、1915年(大正4年)から仙北郡花館村(現・大仙市)の農商務省農事試験場陸羽支場にて農学博士の寺尾博の助手として作物育種事業に従事する。同僚の仁部富之助らとともに冷害に強い米の品種改良に取り組み、陸羽132号、秋田1号、秋田7号などの育種に尽力した。
田村 栄太郎(たむら えいたろう、1893年〈明治26年〉9… 田村 栄太郎(たむら えいたろう、1893年〈明治26年〉9月25日 - 1969年〈昭和44年〉11月29日)は、日本の歴史研究家。在野の学者という立場を貫き、学会の官僚主義やエリート意識を批判した。遊廓街で育ったことから幼少時から遊女らと交渉を持った。風俗関係に関する研究で知られ、数多くの著書を出した。 1893年(明治26年) 群馬県高崎市嘉多町に生まれる。生家は人力車宿・履物屋を営んでいた。高崎尋常小学校を経て、高崎商業学校に学ぶ。病気のため同校を卒業間際に中退し、その後上京して明治薬学校(現・明治薬科大学)に入るがほどなく中退する。台湾に渡り、漢方薬の研究をするがほどなく帰国。 郷里で農民運動に参加、建設者同盟にも加わる。
小林 宗作(こばやし そうさく、1893年〈明治26年〉6月… 小林 宗作(こばやし そうさく、1893年〈明治26年〉6月15日 - 1963年〈昭和38年〉2月8日)は、日本のリトミック研究者・幼児教育研究家。 群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)出身。東京音楽学校乙種師範科(現・東京芸術大学音楽学部)卒。本名は、金子 宗作(旧姓:小林)。 1893年、群馬県岩島村の農家の三男(末子)として誕生。長姉の養子となり、金子姓となるが、基本的に小林宗作の名を用いた。 1899年、吾妻郡三島小学校入学。1907年、三島小学校高等科卒業後、代用教員として勤める。1911年、音楽教師を志して上京し、東京都新宿牛込小学校に勤務する。1916年、東京音楽学校乙種師範科(高等小学校卒業者対象の1年制課程)入学。
内山 敬二郎(うちやま けいじろう、1893年5月19日 -… 内山 敬二郎(うちやま けいじろう、1893年5月19日 - 1977年12月24日)は、元旧制高等学校教授、元信州大学、元文教大学教授、西洋古典文学(ギリシア悲劇)研究家、西洋古典学会会員。 新潟県生まれ。1917年東京帝国大学文科大学英文科卒業。1922年旧制松江高等学校に英語の教授として奉職、1941年まで務める。1941年旧制松本高等学校に英語の教授として奉職、1949年5月に信州大学に包括されると、文理学部の英語の教授となり、1959年まで務める。その後、文教大学教授を1977年3月まで務めた。 上述の通り、西洋古典学の専門教育を受けた訳ではなく、在学中に田中秀央から西洋古典学を学んだ程度である。
八木 繁一(やぎ しげいち、1893年(明治26年)1月15… 八木 繁一(やぎ しげいち、1893年(明治26年)1月15日 - 1980年(昭和55年)6月9日)は、日本の教育者・植物研究家。教員として愛媛県師範学校に長年勤務し、多くの優秀な理科教員を養成するとともに、愛媛県理科教育研究会の会長として愛媛県の理科教育に貢献した。また、教員として勤務するかたわら、牧野富太郎に師事して地元の植物研究に打ち込み、オキチモズクやツバキカンザクラなどを発見したことでも知られている。 1893年(明治26年)1月15日、愛媛県野間郡波方村樋口(現今治市波方町樋口)に生まれた。農家の父・鶴吉と母・ハルの間の11人兄弟の10人目であった。1908年(明治41年)に波方尋常高等小学校(現今治市立波方小学校)高等科を卒業すると、越智郡岩城村の岩城尋常高等小学校(現上島町立岩城小学校)に代用教員として勤務しながら愛媛県師範学校を目指し、1910年(明治43年)に同校に合格、入学した。
嶋野三郎(島野三郎、しまの さぶろう、1893年 - 198… 嶋野三郎(島野三郎、しまの さぶろう、1893年 - 1982年1月24日)は、日本のロシア研究家・アナリスト。石川県出身。 1911年、金沢第一中学校を卒業。石川県の県費留学生として選抜され、日露貿易のために必要なロシア語を習得するため、ウラジオストクで語学研修を行う。この時、一緒に留学生に選抜されたのが宮崎正義(石原莞爾のブレーンとなる)である。 1914年、南満洲鉄道株式会社の社費留学生となり、モスクワの大学を経て、1916年にペテルブルク大学に入学。哲学・ロシア史を学ぶ。1917年、ロシア2月革命に遭遇し、7月に帰国。その年、南満洲鉄道株式会社に入社し、東京支社東亜経済調査局(後に調査部)に所属する。
宮城 文(みやぎ ふみ、1891年〈明治24年〉11月28日… 宮城 文(みやぎ ふみ、1891年〈明治24年〉11月28日 - 1990年〈平成2年〉2月4日)は、日本の教育者、民俗研究家、郷土史家。南西諸島西部の八重山列島の文化を集大成した書籍『八重山生活誌』の著者として知られる。 沖縄県の石垣島登野城で誕生した。沖縄県立第一高等女学校を卒業後、教員として登野城尋常小学校を始めとし、20年間にわたって初等教育に従事した。女子青年団長や婦人会長も務めた。 終戦後の1948年(昭和23年)、八重山で初めて女性に参政権が与えられ、第1回石垣市議で、婦人議員として初当選した。長年の教員生活や婦人会長などの経験で、市民の生活に通じていたことから、税査定の訂正のために貢献した。
真鍋 儀十(眞鍋 儀十、まなべ ぎじゅう、1891年(明治2… 真鍋 儀十(眞鍋 儀十、まなべ ぎじゅう、1891年(明治24年)9月16日 - 1982年(昭和57年)4月29日)は日本の政治家、俳人、文学研究家。松尾芭蕉の研究家として知られ、そのコレクションは江東区芭蕉記念館に寄付された。高浜虚子に師事、「ホトトギス」同人。俳号は蟻十。 長崎県壱岐郡箱崎村(現壱岐市芦辺町)生まれ。長崎師範学校(現・長崎大学教育学部)を卒業後明治大学法学部に入学し、雄弁部に所属する。在学中から普選運動にかかわり、1920年(大正9年)1月18日の学生普選促進大会(日比谷公園)で検挙された。 明大中退後憲政会に入党。六十数回の拘禁を受けながら1930年(昭和5年)旧東京4区から立憲民政党公認で第17回衆議院議員総選挙に立候補し初当選、戦前は通算5回の当選を果たす。
川崎 備寛(かわさき よしひろ、かわさき びかん、1891年… 川崎 備寛(かわさき よしひろ、かわさき びかん、1891年3月13日 - 1963年3月26日)は、日本の翻訳家、麻雀研究家。 大阪府貝塚市生まれ。関西学院大学政治部中退後、文筆活動に入り1923年(大正12年)『文藝春秋』の同人となる。1924年から麻雀を始め、1929年(昭和4年)日本麻雀連盟創立に際し中央委員。1930年(昭和5年)最高段位7段となる。1932年(昭和7年)麻雀団体が合併して大日本麻雀連盟が結成され、機関誌『麻雀日本』の編集長に就任。 1934年(昭和9年)、警視庁による麻雀賭博の摘発が続く中で、川崎も同年2月に死去した直木三十五の追善麻雀大会に参加したことを追及され、同年3月に福田蘭童、多賀谷信乃、淵川銀次らとともに一斉検挙された。
豊田 栄(とよだ さかえ、1891年3月3日 - 1966年… 豊田 栄(とよだ さかえ、1891年3月3日 - 1966年4月19日)は、医師、英語講師、キリスト教無教会主義の新約聖書研究家。内村鑑三、塚本虎二に師事した。 1891年3月3日、医師である父・豊田貫一と母・豊田琴の5人兄弟の四男として出生した。志波尋常小学校に入学したのち転校し、吉井尋常高等小学校を卒業。明善中学校を卒業、熊本県の第五高等学校を卒業したのち上京、東京帝国大学医科大学を1917年7月に卒業した。その後約1年間を海軍軍医として勤務後、軍艦比叡に乗艦。1920年に和泉橋慈善病院の小児科医局員となる。 1923年1月、古田孝子と結婚。同年より、東京帝国大学薬理学教室で2年間研究に従事。
浅川 巧(あさかわ たくみ、1891年(明治24年)1月15… 浅川 巧(あさかわ たくみ、1891年(明治24年)1月15日 - 1931年(昭和6年)4月2日)は、朝鮮民芸・陶芸の研究家・評論家。朝鮮半島で植林事業を行う傍ら、朝鮮半島の陶磁器と木工を研究紹介した。 父・浅川如作、母・けいの次男として山梨県北巨摩郡甲村五丁田(同郡高根町五町田を経て、現在は北杜市高根町五町田)に生まれる。兄は浅川伯教。1891年(明治24年)には村山西尋常小学校に、1901年(明治34年)には秋田尋常高等学校に入学する。 1906年(明治39年)4月、山梨県立農林学校に入学、この頃に浅川政蔵と知り合う。1907年(明治40年)6月にはメソジスト甲府教会で受洗。1909年(明治42年)4月、秋田県大館営林署に就職。
山川 菊栄(やまかわ きくえ、旧字体: 山川 菊榮、1890… 山川 菊栄(やまかわ きくえ、旧字体: 山川 菊榮、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1980年〈昭和55年〉11月2日)は、日本の婦人問題評論家・研究家、社会主義者、労働運動家、婦人運動家である。戦前、公娼制度の廃止、女性労働者の地位向上、古い家族制度の批判、社会主義フェミニズムの理論化、女性社会主義者の組織化などを展開。アウグスト・ベーベルの『婦人論』の最初の完訳者としても有名。戦後も、女性運動、婦人労働運動の理論的指導者として活動し、労働省の初代婦人少年局長をつとめた。 東京府東京市麹町区四番町(現:千代田区九段北)生まれ。旧姓は森田、後に青山姓となる。夫は山川均。息子は山川振作。 1916年、『青鞜』1月号に、「日本婦人の社会事業に就て伊藤野枝氏に與ふ」を発表し、『青鞜』1915年12月号に発表された伊藤野枝の論文「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就て」を批判した。
小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1… 小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1929年4月1日)は、日本の医学者・随筆家・翻訳家・推理作家・犯罪研究家。別名は鳥井零水。 医学者としては生理学・血清学の研究で業績を上げた。また、1921年(大正10年)から8年間に渡って探偵小説などの文筆活動を行った。江戸川乱歩のデビュー作である『二銭銅貨』は、不木が推薦したことで世に出た作品である。医師で順天堂大学名誉教授の小酒井望は長男。 1890年(明治23年)10月8日、愛知県海東郡新蟹江村(現・海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家の長男として生まれた。本名は小酒井光次(こさかいみつじ)。父親は小酒井半兵衛であり、村長や郡会議員も務めた人物である。
犬塚 惟重(いぬづか これしげ、1890年7月11日 - 1… 犬塚 惟重(いぬづか これしげ、1890年7月11日 - 1965年2月19日)は、日本の海軍軍人、ユダヤ研究家。最終階級は海軍大佐。筆名は宇都宮 希洋(うつのみや きよう)。 陸軍の安江仙弘と共に日本軍のユダヤ人問題専門家であった。 蒲池氏庶流犬塚氏出身。本籍佐賀県。佐賀藩士、翻訳家・犬塚浩道の長男として東京で生まれる。 新明きよ子(1910年(明治43年)生まれ)は、毎日新聞婦人記者、帝都日日新聞記者を経て、1939年(昭和14年)春、政府が正式に河豚計画を承認すると同時に、讀賣新聞上海特派員となり、上海で犬塚と初対面し、間もなく、犬塚の妻となった。 早稲田中学校を経て、1911年7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年12月、海軍少尉に任官。
文 英吉(かざり えいきち、1890年 - 1957年)は、… 文 英吉(かざり えいきち、1890年 - 1957年)は、日本の郷土史家、奄美民俗研究家。号は潮光。奄美大島三方村大熊(現在の奄美市名瀬大熊)生まれ。 1928年12月(昭和3年)地方無産党の奄美新興同志会を結成、委員長となる。「大島朝日新聞」編集長を務め、雑誌「南島」を創刊。奄美博物館主事、奄美図書館長、奄美大島復帰協議会副議長、奄美日米文化会館長を歴任。のちに奄美史談会を設立。メンバーには文英吉の他、大山麟五郎、田畑英勝、平和人、島尾敏雄がいた。「野茶坊物語」「神父さん群像」を南日本新聞に連載。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
功刀 亀内(くぬぎ きない、1889年(明治22年)9月16… 功刀 亀内(くぬぎ きない、1889年(明治22年)9月16日 - 1957年(昭和32年)12月30日)は、山梨県出身の実業家、郷土史料蒐集家、研究家。蒐集した山梨県に関する郷土資料群は「甲州文庫」と命名されている。 山梨県中巨摩郡豊村(現在の南アルプス市上今井)出身。生家は蚕糸業者で父は六蔵、亀内は三男。豊村高等小学校卒業後、家業を手伝う。 1919年(大正8年)1月には結婚し、甲府市穴切町に転居する。戦後に行われた対談の証言に拠れば、30歳頃には当時の最先端の流行であったオートバイを愛好し、本業の蚕糸業に活用し、趣味のツーリングを行ったという。「甲州文庫」の史料の一つである「山梨県下写真貼込帳」には、1916年(大正5年)の長野県諏訪(諏訪市)へのツーリングの写真が残され、群衆の中に亀内も写っているとされる。
岡本 かの子(おかもと かのこ、本名:岡本 カノ、旧姓:大貫… 岡本 かの子(おかもと かのこ、本名:岡本 カノ、旧姓:大貫(おおぬき)、1889年〈明治22年〉3月1日 - 1939年〈昭和14年〉2月18日)は、日本の大正・昭和期の小説家、歌人、仏教研究家。 東京府東京市赤坂区青山南町(現東京都港区青山)生まれ。跡見女学校卒業。漫画家岡本一平と結婚し、芸術家岡本太郎を生んだ。 若年期は歌人として活動しており、その後は仏教研究家として知られた。小説家として実質的にデビューしたのは晩年であったが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表された。耽美妖艶の作風を特徴とする。私生活では、夫一平と「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られる。 代々幕府や諸藩の御用達を業としていた豪商の大和屋大貫家の別邸で誕生。
上原 敬二(うえはら けいじ、1889年2月5日 - 198… 上原 敬二(うえはら けいじ、1889年2月5日 - 1981年10月24日)は、日本の造園研究家。学位は、林学博士。東京農業大学名誉教授。 東京高等造園学校(現・東京農業大学地域環境科学部造園科学科)の創設者。日本の造園教育の創始者として知られる。また造園の技術者としても、東京帝国大学大学院在学時に本多静六等と明治神宮の造園などを設計。その他、横浜山手の西洋庭園をはじめ、築造した庭園は三百余になるといわれている。 上原の著書の多くは造園系学校・学科の学生の参考書として現在も多く活用されている。 東京深川で材木業の家に生まれる。上原の先祖は丹波綾部が郷国で、北面の武士になり、祖父が京都鷹司家分身朽木近江守一族で代々藩主の祐筆を務めていたといい、上原本人も父から書の塾へ通わされていたという。
本山 桂川(もとやま けいせん、1888年9月21日 - 1… 本山 桂川(もとやま けいせん、1888年9月21日 - 1974年10月10日)は、日本の民俗学者、文学碑研究家、文筆家。本名・豊治。孫は漫画家の本山一城。 長崎市出島町出身。1912年早稲田大学政治経済科卒。民俗および民芸の研究に従事し「日本民俗図誌」全20巻、「生活民俗図説」などの著書がある。戦後、金石文化研究所を主宰。その他実用書を含めて多種多様な著作をもつ。
三松 正夫(みまつ まさお、1888年(明治21年)7月9日… 三松 正夫(みまつ まさお、1888年(明治21年)7月9日 - 1977年(昭和52年)12月8日)は昭和新山の成長を記録したアマチュア火山研究家。郵便局長。 北海道伊達町(現・伊達市)に生まれる。北海中学を中退後、有珠郡壮瞥町の壮瞥郵便局に勤め、郵便局長になる。 1910年(明治43年)の有珠山噴火により、8月1日以降山麓に側火山となる明治新山(1910年(明治43年)に隆起したことから四十三山と命名された)が誕生する。群発地震が多発し、住民に避難が指示されたが、当時は壮瞥郵便局の局長代理を務めていた三松には通信確保のため退避の許可が下りず、地面に畳を敷いて徹夜で勤務していた。当時、凶兆などと騒がれていたハレー彗星が地球に接近していたが、彼は空に尾を引く彗星を眺め「やはりこの彗星は不吉なのだ」と思ったという。
山脇 敏子(やまわき としこ、本名:山脇 トシコ、1887年… 山脇 敏子(やまわき としこ、本名:山脇 トシコ、1887年〈明治20年〉6月14日 - 1960年〈昭和35年〉11月2日)は、日本の洋画家、服飾手芸家、研究家。教育者、山脇洋裁学院(現・山脇美術専門学校)創設者。日本の服飾デザイナー先駆者。 立体裁断や実寸による独自の割り出し法を広め、手芸や編物の分野でも欧州の新しい傾向をいち早く紹介、昭和初期のモガモードを創るなど戦後ファッションをリードした。また戦前・戦後を通じ多くの後進も育て、雑誌・テレビなどでも活躍し手芸・服飾、礼儀作法関係本を多数遺した。 洋裁店「アザレ」は、1964年に南青山骨董通りのアタリー(athalie)へ引き継がれ、現在に至る。
新見 政一(にいみ まさいち、1887年〈明治20年〉2月1… 新見 政一(にいみ まさいち、1887年〈明治20年〉2月14日 - 1993年〈平成5年〉4月2日)は、日本の海軍軍人、戦史研究家。最終階級は海軍中将。 広島県広島市安佐北区出身。農業・醤油製造業の新見千五郎の二男として誕生。妻の澄子は小林躋造海軍大将の妹。旧制広島県立忠海中学校より海軍兵学校第36期入校。席次は入校時200名中35番、卒業時191名中14番。同期生の水戸春造海軍中将は中学同窓でもある。新見は海軍砲術学校高等科を修了し、同校教官を務めた砲術専攻士官であり、またオックスフォード大学で国際法を学んだ日本海軍有数の知英派である。 駐英武官補佐官在任中に第一次世界大戦の戦史研究を行い、帰国後『海軍中央軍令機関整備ノ意見書』および『持久戦ニ関スル意見書』を当局に提出した。