村山 槐多(むらやま かいた、1896年〈明治29年〉9月1… 村山 槐多(むらやま かいた、1896年〈明治29年〉9月15日 - 1919年〈大正8年〉2月20日)は、明治・大正時代の日本の洋画家で、詩人、作家でもある。愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市生まれ、京都市上京区育ち。母方の従兄に山本鼎(画家)と嶺田丘造(官僚)、はとこに黒柳朝(随筆家)がいる。 みなぎる生命力を退廃的・破滅的雰囲気を纏わせながら絵画に表した。ガランス(深い茜色、やや沈んだ赤色)を好んで使ったことでも知られる。 槐多は、愛知県額田郡岡崎町にて小学校教諭・村山谷助とその妻・たまの長男として生まれた。岡崎町はかつての岡崎城の城下町で、現在の岡崎市。従来の出生地の定説は、父親が教員を務めていたという神奈川県橘樹郡神奈川町(現在の横浜市神奈川区)であったが、岡崎市美術博物館の学芸員が親族への聞き取りと岡崎市役所に残された槐多の出生届資料を確認したうえで、2011年(平成23年)12月に正しい情報を公表した。
羅 蕙錫(ら けいしゃく、ナ・ヘソク、朝鮮語:나혜석、189… 羅 蕙錫(ら けいしゃく、ナ・ヘソク、朝鮮語:나혜석、1896年4月28日 - 1948年12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および韓国の洋画家、作家、詩人、ジャーナリスト。本貫は羅州羅氏。現在の京畿道水原市八達区出身。女子美術大学の留学生。韓国最初の女性画家で近代朝鮮文学における最初の女性作家とも評される。女性解放論者であり、女性解放のための運動や朝鮮独立運動にも参加していた。初名は児只、字は明順、号は晶月。 1896年4月、父・羅基貞と母・崔是議の間に五人兄姉の二女として京畿道水原に生まれた。父の家系は代々官僚をつとめ、資産家で子弟教育に関心が高かった。幼名は兒只(アジ=子供を意味する)、幼児期は明順(ミョンスン)と呼ばれ、日本留学時から蕙錫、号は晶月(チョンウォル)と名乗った。
馬淵 美意子(まぶち みいこ、1896年〈明治29年〉3月1… 馬淵 美意子(まぶち みいこ、1896年〈明治29年〉3月16日 - 1970年〈昭和45年〉5月28日)は、日本の詩人、画家。 幼年時代より絵を志し有島生馬に師事する。二科展に4回出品し入選を果たすが、のちに絵を断念して詩作に転じる。1952年に刊行した『馬淵美意子詩集』は読売文学賞の候補となった。夫は洋画家の庫田叕。 兵庫県神戸市に生まれる。1902年(明治35年)、長崎尋常小学校へ入学した。1909年(明治42年)、鎌倉女学校へ入学し、後に卒業した。1916年(大正5年)、父親の専断により結婚し二児を得るが、1922年(大正11年)に離婚する。1926年、有島生馬に師事する。1928年(昭和3年)、二科展に初入選し、以後3回出品する。
永井 叔(ながい よし、1896年1月29日 - 1976年… 永井 叔(ながい よし、1896年1月29日 - 1976年11月30日)は、日本の詩人。裏町の「大空詩人」と呼ばれバイオリンまたはマンドリンを奏でながら自作の歌・童謡・讃美歌などを歌って喜捨を求める行乞の生活を送った。 1896年(明治29年)1月29日、愛媛県松山市唐人町三丁目三番に医師・永井甃一、妻・関子の四男(末子)として誕生。 地元の松山幼稚園、第三尋常小学校、松山中学と進んだ。8歳の頃には既に上野の音楽学校で優秀な成績をおさめていた兄・漸のバイオリンを盗み弾きした。中学時代は昆虫に深い興味を抱き友人と語らって研究会を作り、その活動は地元の新聞に報道されたという。学業成績は優秀で副級長を務めていたが、兄・漸の縊死や厳格だった父親の急死(1910年(明治43年))などから宗教に関心を強め、クリスチャンだった母親の影響もあり中学4年の時に受洗した。
金子 光晴(かねこ みつはる、1895年〈明治28年〉12月… 金子 光晴(かねこ みつはる、1895年〈明治28年〉12月25日 - 1975年〈昭和50年〉6月30日)は、日本の詩人。本名:金子安和(かねこ やすかず・後に保和を名乗る)。弟に詩人で小説家の大鹿卓がいて、衆議院議員の河野密(妹・捨子の夫)は義弟にあたる。妻も詩人の森三千代、息子に翻訳家の森乾。 愛知県海東郡越治村(現:津島市)生まれ。暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。 渡欧して西洋の詩を研究し、詩集『こがね虫』(1923年)を刊行。その後世界を放浪して無国籍者の視野を獲得。反権力、反戦の詩を多く残した。作品に『鮫』(1937年)、『落下傘』(1948年)など。
中西 悟堂(なかにし ごどう、1895年(明治28年)11月… 中西 悟堂(なかにし ごどう、1895年(明治28年)11月16日 - 1984年(昭和59年)12月11日)は、日本の野鳥研究家で歌人・詩人、天台宗僧侶。文化功労者。日本野鳥の会の創立者。本名は富嗣、悟堂は法名。他に筆名として赤吉(しゃくきち)。 「野の鳥は野に」を標語に自然環境の中で鳥を愛で、保護する運動を起こした。「野鳥」や「探鳥」は悟堂の造語。 1895年(明治28年)、石川県金沢市長町に生まれ、富嗣と命名される。祖父は加賀藩士。父親は海軍軍楽隊教官だったが、悟堂の生後まもなく病死し、母は長崎の実家に帰ったまま行方不明となり、父の兄で中西家十代の当主元治郎(悟玄)の養嗣子となる。3歳頃より四書五経を学び千字文を書写する。
中山 忠直(なかやま ただなお、1895年〈明治28年〉4月… 中山 忠直(なかやま ただなお、1895年〈明治28年〉4月26日 - 1957年〈昭和32年〉10月2日)は、日本の詩人、著作家。宇宙のイメージを盛り込んだ詩作品などによってサイエンス・フィクション (SF) に連なる先駆的なものと評価されている。マルクス主義を経て、勤皇社会主義と称する極右思想に拠り、さらに日本人=ユダヤ人同祖説に立って天皇はユダヤ人の血を引くと論じて著書の発禁処分を受けた。「皇漢医学」の名称の下に漢方医としても活動し、製薬事業を興すとともに、関連する著作も書いた。筆名として、中山 啓を用いた時期がある。 石川県金沢市に生まれ、幼い頃から宇宙に興味を寄せ、自然科学者を夢みた。
大木 惇夫(おおき あつお、1895年〈明治28年〉4月18… 大木 惇夫(おおき あつお、1895年〈明治28年〉4月18日 - 1977年〈昭和52年〉7月19日)は日本の詩人・翻訳者・作詞家。本名は軍一(ぐんいち)。1932年までは篤夫(あつお)と名乗っていた。太平洋戦争(大東亜戦争)中の戦争詩で有名だが、児童文学作品他、「国境の町」などの歌謡曲、「大地讃頌」をはじめとした合唱曲、軍歌(戦時歌謡)、社歌、校歌、自治体歌の作詞も多い。1967年紫綬褒章、1972年勲四等旭日小綬章。 広島県広島市天満町(現在の西区天満町)出身。生家は裕福な呉服商であったが、彼が物心付く頃には没落しており、貧しい暮らしの中で育った。少年時代に『アラビアン・ナイト』や巖谷小波の『世界お伽噺』を読み、文学者を志す。
陶山 篤太郎(すやま とくたろう、1895年〈明治28年〉4… 陶山 篤太郎(すやま とくたろう、1895年〈明治28年〉4月4日 - 1941年〈昭和16年〉9月28日)は詩人、実業家。昭和初期に政治家としても活動した。 1895年、神奈川県橘樹郡川崎町(現・川崎市)砂子生まれ。1913年(大正2年)に横浜商業学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)卒業。 1919年(大正8年)の雑誌『太洋の周辺』の同人になり、1924年(大正13年)に詩集「銅牌」を刊行する。また、労働学校の講師になり、労働者の教育に従事する。 1932年(昭和3年)に社会民衆党から川崎市会議員選に出馬して最高点で当選、1936年には神奈川県会議員にも当選して1938年 - 1939年に県会副議長。
松本 淳三(まつもと じゅんぞう、1895年(明治28年)1… 松本 淳三(まつもと じゅんぞう、1895年(明治28年)1月1日 - 1950年(昭和25年)10月9日)は、日本のプロレタリア詩人、無政府主義者、政治家。衆議院議員。本名・淳造。 島根県美濃郡高城村神田(現益田市)で、山口唯美、松本カノ夫妻の長男として生まれ、祖父養軒に養育された。1914年、島根県立浜田中学校を卒業し、慶應義塾大学部理財科に進んだが1916年に中退し、その後、西日本各地や東京などを放浪した。 1918年、久原鉱業佐賀関製錬所に作業員として就職。1920年、堺利彦の推薦で雑誌『中外』の記者となり、日本社会主義同盟に加盟。1921年、自由人連盟の演説会で右翼に刺された。同年9月、再刊された『種蒔く人』の同人となる。
水谷 まさる(みずたに-、1894年(明治27年)12月25… 水谷 まさる(みずたに-、1894年(明治27年)12月25日 - 1950年(昭和25年)5月25日)は、日本の童話作家、少女詩人。 東京出身。本名は勝。早稲田大学卒。コドモ社『良友』編集者、『少女画報』主筆などをへて童話作家となる。1928年千葉省三らと同人誌『童話文学』を創刊。
山本 亮(やまもと りょう、明治27年(1894年)12月1… 山本 亮(やまもと りょう、明治27年(1894年)12月14日 - 昭和48年(1973年)2月18日)は、日本の実業家、漢詩人、政治家。鳥取県西伯郡境町長(17代)、町会議員。号大麓。鳥取県平民。 境町長、鳥取県議会議長等を歴任した山本熊吉の長男。 鳥取県西伯郡境町栄町(いまの境港市)出身。山本熊吉の長男。 松江農林学校を卒業後、家業(醤油醸造)を継いだ。境電気会社設立等、実業界で活躍した。 昭和20年(1945年)4月23日、軍用船玉栄丸爆発事故が発生。山本町長は昼夜にわたる救援活動を指揮する一方で、軍に対して罹災者補償を請求、自ら現地調査に当たる等の尽力によってこの問題を解決した。 茶道、琵琶、漢詩等趣味も多かった。
竹内 勝太郎(たけうち かつたろう、1894年〈明治27年〉… 竹内 勝太郎(たけうち かつたろう、1894年〈明治27年〉10月20日 - 1935年〈昭和10年〉6月25日)は日本の詩人。日本の象徴詩を確立したと評される。 京都府京都市生まれ。私立清和中学校(立命館中学の前身)を中退。東京へ出て、三木露風に師事。独学で自然科学、哲学などを学び、文学を一生の業と考える。フランスの象徴派詩人ステファヌ・マラルメに影響を受け象徴詩の世界へ。 1915年から京都基督教青年会の夜学でフランス語を学ぶ。その後、日出新聞社の市政記者、大正日日新聞社の市政・美術担当記者、大阪時事新報の記者となる。 1928年には知友の支援を受けフランスに渡る。ポール・ヴァレリーに傾倒し、その詩技法は「美を破壊する美」へと変化していく。
田中 冬二(たなか ふゆじ、1894年〈明治27年〉10月1… 田中 冬二(たなか ふゆじ、1894年〈明治27年〉10月13日 - 1980年〈昭和55年〉4月9日)は、日本の詩人である。本名は吉之助。 銀行員として働きつつ、郷愁をテーマに多くの詩作を行う。専ら旅を題材とした詩を作り、山国や北国の自然、日常生活を初々しい感覚で表現した叙情詩集「青い夜道」(昭和4年)を発刊。多作ではなくマイナーポエットとも評されるが、一貫して日本の自然や生活に根ざした詩を作り続け、吉行淳之介は象徴的に「青い夜道の詩人」と評している。詩作のほか散文や俳句も手がけている。堀口大學らと交友関係があった。 銀行員だった父吉次郎と、母やゑの長男として福島県福島市栄町に生まれた。1901年(明治34年)に父が、1906年(明治39年)には母が相次いで亡くなったため、上京して叔父・安田善助のもとで養育される。
阿藤 伯海(あとう はくみ、1894年(明治27年)2月17… 阿藤 伯海(あとう はくみ、1894年(明治27年)2月17日 - 1965年(昭和40年)4月4日)は、日本の中国文学者、漢詩人。本名は簡。 1894年(明治27年)2月17日、岡山県浅口郡六条院村相部(現・浅口市鴨方町六条院東)の大地主の家に生まれる。旧制矢掛中学校(現・岡山県立矢掛高等学校)、第一高等学校、級友の難波準平と共に東京帝国大学に進む。多くの人は仏蘭西文学を専攻すると思っていたが、西洋哲学に進んだ。1924年(大正13年)東京帝国大学を卒業し、倉石武四郎同様に京都帝国大学大学院に入学する。藤代禎輔、朝永三十郎両教授の指導を受けるが、漢学に傾倒して狩野直喜に師事、鈴木虎雄、上田敏にも私淑した。
西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年〈明治27… 西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年〈明治27年〉1月20日 - 1982年〈昭和57年〉6月5日)は、日本の詩人(近代詩)、英文学者、文学博士。第二次世界大戦前のモダニズム、ダダイスム、シュルレアリスム運動の中心人物。また、生涯に多くの水彩画並びに油彩等の絵画作品を残した。出生地である新潟県小千谷市の名誉市民。位階は正四位。生前、ノーベル文学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。 1922年、渡英して西欧の超現実主義的感覚を身につけた。帰国後、日本の超現実主義運動に参加して、詩集『Ambarvalia』(1933年)を刊行。ほかに『旅人かへらず』(1947年)、『近代の寓話』(1953年)など。
呉 相淳(ご そうじゅん、1894年旧暦8月 - 1963年… 呉 相淳(ご そうじゅん、1894年旧暦8月 - 1963年6月3日)は、朝鮮の詩人。号は禅雲、空超。植民地下の朝鮮を「虚無」を抱えながら放浪し、詩作を続けた。 1894年陰暦8月、現在のソウル市中区奨忠洞1街10番地に生まれる。本貫は海州呉氏。父は呉泰兗。呉の生家は5百石の地主で、裕福であった。父も呉に新教育を受けさせることに反対せず、呉は早くから於義洞学校、儆新学校で勉強する。母は呉が13歳のときに亡くなり、父は後妻を迎えた。こうした経緯があってか、呉は18歳のとき、誰にも告げず家を出た。 1912年、渡日した呉は、京都の同志社大学宗教哲学科に入学する。1918年、同志社大学を卒業すると帰国し、実家にしばらく戻ったものの、ソウル市鐘路区鐘路5街にあった亡くなった母の実家に身を寄せることになる。
多田 不二(ただ ふじ、1893年12月15日-1968年1… 多田 不二(ただ ふじ、1893年12月15日-1968年12月17日)は、日本の詩人。 茨城県結城郡結城町(現・結城市)生まれ。江戸時代から続く医者の家系に生まれる。父は産婦人科医。旧制第四高等学校文科乙類を経て、1919年に東京帝国大学文学部心理学科を卒業。日本放送協会に勤務、松山支局長を務めた。室生犀星らの「感情」の同人となる。1917年詩話会結成に参加。20年「悩める森林」を発表。「帆船」を主宰し、第2詩集「夜の一部」を刊行したが次第に詩作から離れた。大甥は免疫学者で東京大学名誉教授の多田富雄。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
福田 正夫(ふくだ まさお、1893年3月26日 - 195… 福田 正夫(ふくだ まさお、1893年3月26日 - 1952年6月26日) は、神奈川県足柄下郡小田原町(現・小田原市)出身の詩人。「民衆詩人」と呼ばれる一派の中心的詩人であった。広く歌われた国民歌謡「愛国の花」(1937年、古関裕而作曲)の作詞者である。 小田原藩士族の堀川家の五男として生まれる。1910年、17歳の時に福田家の養子となる。1913年神奈川師範学校(現・横浜国立大学)卒業。東京高等師範学校(現・筑波大学)体操科中退。1915年、川崎市の小学校教員となる。同年12月、処女詩集『農民の言葉』を自費出版し、民衆詩人として注目される。 1918年、富田砕花・井上康文・白鳥省吾・川崎長太郎らと同人誌『民衆』を創刊。
矢野 峰人(やの ほうじん、1893年3月11日 - 198… 矢野 峰人(やの ほうじん、1893年3月11日 - 1988年5月21日)は、日本の詩人、英文学者。本名は矢野禾積(かづみ)。 1893年、岡山県津山市で生まれた。久米北条郡大倭村(現・津山市西部)出身。幼時に父母と死別し、母方の祖母、叔父に育てられた。津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)在学中、文学雑誌『文章世界』『秀才文壇』などに盛んに投稿。同級生に片岡鉄兵、中山巍、上級生に出隆らがいて親交があった。第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部に進学。英文科で上田敏、厨川白村の教えを受けた。 卒業後は、第三高等学校教授に就いた。1935年、学位論文『アーノルドの文学論』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。
高橋 元吉(たかはし もときち、1893年〈明治26年〉3月… 高橋 元吉(たかはし もときち、1893年〈明治26年〉3月6日 - 1965年〈昭和40年〉1月28日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の詩人である。書店・煥乎堂社長。 1893年(明治26年)3月6日、書籍商を営む高橋常蔵、志づの次男として群馬県前橋市曲輪町に生まれる。3歳の時母を喪う。桃井尋常小学校を卒業後、前橋中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)に入学。1910年(明治43年)前橋中学校を卒業後上京し神田の三省堂機械標本部へ入社。この頃尾崎喜八との交流が始まる。前橋へ帰郷後、父の書店煥乎堂で店員として働きながらメーテルリンクの翻訳などを行う。 1915年(大正4年)頃、武者小路実篤との交遊が始まり、のちに柳宗悦、千家元麿、岸田劉生、長与善郎らと交わる。
黒田 忠次郎(くろだ ちゅうじろう、1893年2月27日 -… 黒田 忠次郎(くろだ ちゅうじろう、1893年2月27日 - 1971年8月4日)は、日本の詩人・俳人。光湖と号する。 東京巣鴨(赤坂ともいう)に生まれる。大倉高等商業学校(現東京経済大学)を卒業後、十五銀行に勤務し、帝国銀行検査役となる。退職後は各種の事業会社の社長を経て、永代信用組合常務理事にいたる。 銀行勤務のかたわら句作に励み、文芸誌『鉄心』『射手』『生活派』などを主宰。
沢 ゆき(さわ ゆき、1893年(明治26年)2月15日 -… 沢 ゆき(さわ ゆき、1893年(明治26年)2月15日 - 1972年(昭和47年)11月29日)(澤ゆき。澤ゆき子。)は、大正-昭和時代の詩人。本名は飯野ゆき。「炬火(たいまつ)」などの詩誌に叙情詩を発表。1921年(大正10年)の詩集『孤独の愛』は島崎藤村から激賞された。茨城県出身。詩集に『孤独の愛』『沼』『浮草』がある。 1893年(1894年記載のものもあるが正しくは1893年)2月15日に茨城県稲敷郡茎崎村小茎(現・つくば市小茎)で生まれた。旧姓相澤ゆき(相沢ゆき)。牛久沼畔にある酒造家に生まれ、沼に親しんで育つ。沼は彼女の作品に多く描かれる。 1905年、単身上京し1908年に技芸大学(共立女子職業学校)(現、共立女子大学)に入学、1911年同大学を卒業。
松山 悦三(まつやま えつぞう、1893年 - ?)は、日本… 松山 悦三(まつやま えつぞう、1893年 - ?)は、日本の文筆家、詩人、翻訳家。筆名に松山 敏(まつやま さとし)。 宮崎県生まれ。金星堂に勤務し、1921年雑誌『人間』の編集長を務め、作家たちと交友。1930年東京外国語学校卒業。 松山敏の名で詩集や詩の翻訳本などを刊行するが、原典訳ではないものも多い。一時期、同人誌『銀皿』を刊行。 戦時中は時局的な著作を悦三の名で多く刊行、戦後も敏名義で活動するが、悦三名義で往年の作家の思い出などを綴った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
佐藤 春夫(さとう はるお、1892年〈明治25年〉4月9日… 佐藤 春夫(さとう はるお、1892年〈明治25年〉4月9日 - 1964年〈昭和39年〉5月6日)は、近代日本の詩人・小説家。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・評伝作品・童話・戯曲・和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和中期まで旺盛に活動した。筆名を潮鳴、沙塔子、雅号を能火野人と称した。初代新宮市名誉市民。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 生家は医家。中学時代から文学好きで、文芸誌「スバル」に詩歌を投稿した。永井荷風を慕い慶應義塾に入学。生田長江に師事。与謝野鉄幹・晶子の東京新詩社に入った。 『西班牙犬の家』(1917年)などで認められ、『田園の憂鬱』(1917年)や『都会の憂鬱』(1922年)で作家的地位を確立。
林 柳波(はやし りゅうは、1892年〈明治25年〉3月18… 林 柳波(はやし りゅうは、1892年〈明治25年〉3月18日 - 1974年〈昭和49年〉3月27日)は、日本の童謡作詞家、詩人、薬剤師。本名は林 照寿(はやし てるひさ、旧字体: 林 照壽)。沼田市名誉市民。兄は陸軍獣医少将の林里二。作詞は1千編を超え、レコードに吹き込まれたものは500余りあるとされる。 1892年(明治25年)、群馬県利根郡沼田町材木町(現・沼田市)の農家・林菊三郎の三男として生まれた。父菊三郎は帰農はしていたものの階級は士族であったという。早くから雑誌へ童謡詩の投稿を行う文学少年だった。1905年(明治38年)沼田小学校高等科を卒業。県立前橋中学校利根分校(現・群馬県立沼田高等学校)に学ぶが中退し、兄・里二を頼って上京。
生田 春月(いくた しゅんげつ、1892年3月12日 - 1… 生田 春月(いくた しゅんげつ、1892年3月12日 - 1930年5月19日)は、日本の詩人。ハインリヒ・ハイネなど、外国文学の翻訳も多い。妻生田花世は平塚らいてう主宰の「青鞜」同人作家。本名は清平。 明治25年(1892年)3月12日、鳥取県西伯郡米子町(現米子市)に生まれる。家業は酒造業。明治36年(1903年)米子角盤高等小学校中退。生家の没落により進学できず、1908年、17歳の時に上京して生田長江の書生となり、文学とドイツ語を学ぶ。 1914年、生田花世と同棲を始める(事実婚)。大正6年(1917年)に最初の詩集『霊魂の秋』を刊行。美男子でロマンティックな詩を書く春月は、1920年から1923年にかけての『文章倶楽部』のアンケートでは夏目漱石を凌ぐ人気だった。
香山 小鳥(かやま ことり、1892年(明治25年)2月 -… 香山 小鳥(かやま ことり、1892年(明治25年)2月 - 1913年(大正2年)6月)は、長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)出身の版画家、詩人。本名は香山 藤禄(かやま ふじろく)。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)生まれ。1911年(明治44年)に長野県飯田中学校を卒業し、一家で東京の深川に移り住んだ。1912年(明治45年)には竹久夢二と出会い、そのつてで恩地孝四郎(小鳥より1年早い1891年生)や田中恭吉(小鳥と同じ1892年生)と出会った。同年4月には東京美術学校予備科に入学し、本科の彫刻科塑像部を志望するが、選抜に落第して7月には東京美術学校を退学し、木版彫師の伊上凡骨の下で木版画の勉強に励んだ。
尾崎 喜八(おざき きはち、1892年1月31日 - 197… 尾崎 喜八(おざき きはち、1892年1月31日 - 1974年2月4日)は、日本の詩人、随筆家、翻訳家。
西條 八十(さいじょう やそ、新字体:西条、1892年1月1… 西條 八十(さいじょう やそ、新字体:西条、1892年1月15日 - 1970年8月12日)は、日本の詩人、作詞家、仏文学者、小説家。早稲田大学文学部文学科元教授であった。 長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。孫の西條八兄はエレキギター製作者。 自費出版した処女詩集『砂金』(1919年)が好評を博し、抒情性に富んだ清新な詩風で、象徴詩人としての地位を確立。童謡、歌謡曲の作詞も多く手がけた。作品に詩集『一握の玻璃』(1951年)など。 東京府東京市牛込区牛込払方町(現:東京都新宿区払方町)出身。石鹸の製造販売業で財を成したが、父親の死後、家庭は没落した。1898年、桜井尋常小学校に入学。
堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892… 堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892年〈明治25年〉1月8日 - 1981年〈昭和56年〉3月15日)は、明治から昭和にかけての日本の詩人・歌人・フランス文学者。訳詩書は300点を超え、日本の近代詩に多大な影響を与えた。雅号は十三日月。葉山町名誉町民。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 欧米生活を経て、フランス近代詩の訳詩集『月下の一群』(1925年)を発表し反響を呼んだ。象徴派の詩に知性と官能美を加えた優雅な創作詩でも後進に影響を与えた。作品に『月光とピエロ』(1919年)、『砂の枕』(1926年)など。 1892年(明治25年)、帝国大学法科大学在学中であった堀口九萬一(のち外交官)の長男として、東京市本郷区森川町(現:東京都文京区本郷或いは西片辺り)に生まれる。
竹友 藻風(たけとも そうふう、1891年9月24日 - 1… 竹友 藻風(たけとも そうふう、1891年9月24日 - 1954年10月7日)は、日本の英文学者、詩人、翻訳家。 『ルバイヤット』『神曲』などの翻訳がある。 (出典)大阪市生まれ。本名・乕雄(とらお)。父・安治郎は実業家で、のち東海生命保険専務取締役。 関西学院中学校、同志社中学校を経て1910年3月桃山学院中学校卒業。同年同志社神学校進学。1911年京都帝国大学英文科選科に移り、上田敏、新村出(言語学)、藤井乙男(国文学)、吉沢義徳(国語学史)、鈴木虎雄(中国文学)、藤代禎輔(独文学)らに学び、1914年卒業。京都大学在学中の1913年、処女詩集『祈祷』を上梓。 1915年夏、渡米。同年10月イェール大学神学部に入学するが翌1916年に退学し、ニューヨークに出てブルックリン博物館で東洋美術の管理助手として勤務。
恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7… 恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7月2日 - 1955年(昭和30年)6月3日)は、東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家・写真家・詩人。長女は児童文学翻訳家の恩地三保子。 創作版画の先駆者のひとりであり、日本の抽象絵画の創始者とされている。前衛的な表現を用いて、日本において版画というジャンルを芸術として認知させるに至った功績は高く評価されている。 木版画、装幀、写真など様々な分野で活躍した。版画においては、抽象絵画の創始者であるワシリー・カンディンスキーらの影響を受け、日本における最初期の抽象版画作品を制作している。大正期には具象・非具象問わず数々の版画の名作を生みだしたが、第二次世界大戦後はもっぱら抽象版画に傾倒し、葉や紐、木片などを用いる手法(マルチブロック)も編み出した。
鹿島 鳴秋(かしま めいしゅう、1891年(明治24年)5月… 鹿島 鳴秋(かしま めいしゅう、1891年(明治24年)5月9日 - 1954年(昭和29年)6月7日)は、日本の詩人。東京都江東区白河出身。本名は佐太郎。 俳人であった内藤鳴雪の門人で鳴秋と号していた。小学校卒業後に商家で奉公し、その後、貿易会社に勤務し、20歳の頃に童話募集に応募し、入選した。清水かつらと共に雑誌(少年号・少女号)を刊行した。その中で『お山のお猿』『浜千鳥』などを発表した。のちに「日本の歌百選」に選定された『浜千鳥』は、1920年(大正8年)6月、鳴秋が友人であった桑山太市朗を訪問し、新潟の柏崎海岸から番神岬を散策した折に制作した。その後、出版社を起業したものの失敗に終わり、満州へ渡り彼の地で新聞社学芸部長となったが、敗戦後日本に引き揚げた。
佐藤 惣之助(さとう そうのすけ、1890年〈明治23年〉1… 佐藤 惣之助(さとう そうのすけ、1890年〈明治23年〉12月3日 - 1942年〈昭和17年〉5月15日)は、日本の詩人、作詞家。 神奈川県橘樹郡川崎町砂子(現在の川崎市川崎区)にて於いて佐藤慶次郎・うめ夫妻の二男として出生。佐藤家は川崎宿砂子の本陣を預かる家柄であった。 1897年(明治30年)川崎尋常小学校入学。1903年(明治36年)3月、高等科1学年修了。4月、東京市麻布区飯倉町の糸商「万文」に丁稚奉公開始。住み込み、この頃から句作をする。1904年(明治37年)俳句雑誌『半面』に関与し、千家元麿と識り、ともに『新潮』俳句欄に投稿するとともに、同欄選者佐藤紅緑に師事する。1906年(明治39年)渡米を志し、身体検査を受けるも、眼疾のため不合格となる。
富田 砕花(とみた さいか、1890年11月15日 - 19… 富田 砕花(とみた さいか、1890年11月15日 - 1984年10月17日)は、日本の詩人、歌人。校歌や市町歌の作詞など、旺盛な詩作活動を行なったことから「兵庫県文化の父」と称される。 岩手県盛岡市生まれ。本名・戒治郎。日本大学殖民科卒業。1902年に上京し、同年12月から会計検査院に勤める。1908年、与謝野寛と与謝野晶子の新詩社に加わり、石川啄木とともに歌会に参加する。以来、啄木に思想的な影響を受け、啄木の死に際してエッセイを発表した。 1912年、歌集『悲しき愛』を出版する。その前後にホイットマンやエドワード・カーペンターの訳詩集を刊行し、彼らの詩を日本に初めて紹介した。1915年、最初の詩集『末日頌』を上梓。
清水 謙一郎(しみず けんいちろう、1890年(明治23年)… 清水 謙一郎(しみず けんいちろう、1890年(明治23年)9月17日 - 1981年(昭和56年)10月30日)は、日本の教育者、詩人である。 長野県上水内郡水内村字里穂刈(現在の長野市信州新町)の生まれ。清水勘兵衛・ちよの長男として出生。明治38年(1905年)、南佐久郡臼田教員養成所に入所。1911年(明治44年)に長野師範学校卒業。長野県の尋常高等小学校訓導に任ぜられる。その後、内地留学のため休職する。 1914年(大正3年)に早稲田大学専門部に入学するが、中途退学し、1915年(大正4年)に国学院大学師範部に入学する。学監であった杉浦重剛から教えを学ぶ。 国学院大学卒業後小学校訓導となる。
崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年… 崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年10月10日)は朝鮮の詩人、ジャーナリスト、歴史家である。号は六堂(ユクタン)。本貫は東州崔氏。
山宮 允(さんぐう まこと、1890年(明治23年)4月19… 山宮 允(さんぐう まこと、1890年(明治23年)4月19日 - 1967年(昭和42年)1月22日)は、日本の詩人、英文学者。日本詩人クラブ発起人の一人。 山形県山形市出身。山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)から、第一高等学校に進む。一高時代からアララギの歌会に参加した。 1914年在学中に中心となって第三次『新思潮』を創刊、ほかに豊島与志雄、山本有三、井出説太郎(土屋文明)、柳川隆之介(芥川龍之介)、草田杜太郎(菊池寛)、成瀬正一、久米正雄、佐野文夫、松岡譲がいた。 1915年東京帝国大学英文科卒。 1917年、川路柳虹らと詩話会を結成、1918年から評論集『詩文研究』を上梓する。
白鳥 省吾(しらとり せいご、1890年2月27日 - 19… 白鳥 省吾(しらとり せいご、1890年2月27日 - 1973年8月27日)は、日本の詩人・文人。ヒット曲『星影のワルツ』で知られる、詩人で作詞家の白鳥園枝は二女。 省吾が作る詩は、民衆の内面を描いた物であり、“民衆派詩人”と称されている。ウォルト・ホイットマンの作った詩の翻訳でも著名。 旧制宮城県立築館中学校4年生頃から詩を書くようになる。早稲田大学に入学後、「夜の遊歩」などの詩を収めた詩集『世界の一人』を若山牧水、太田水穂、前田夕暮の仲介で自費出版し、詩人として文壇にデビューを果たす。『世界の一人』は好評を博し、省吾は一躍名声を高める。 早稲田大学英文科卒業後は、『新少年』・『露西亜評論』・『女学生』など、戦前に発行された雑誌の編集者で、詩人の団体「詩話会」の発行する『日本詩集』や、「詩話会」の発行する『日本詩人』の編集委員も歴任する。
日夏 耿之介(ひなつ こうのすけ、1890年〈明治23年〉2… 日夏 耿之介(ひなつ こうのすけ、1890年〈明治23年〉2月22日 - 1971年〈昭和46年〉6月13日)は、日本の詩人・英文学者。本名樋口 國登(ひぐち くにと)(通称は「圀登」の字体を愛用)。号は夏黄眠、黄眠道人、黄眠堂主人、聴雪盧主人、石上好古、溝五位など30数種類存在する。広範な学識と多岐にわたる文学活動で「学匠詩人」と称される。 詩人としては自らゴスィック・ローマン詩體と称す高踏的で荘重幽玄な詩風であり、その神秘主義的な象徴詩は他に類をみない個性を放っている。また、訳詩や文学論考、随筆などの幅広い著作があり、明治大正期の文学論でも知られる。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市知久町)に樋口藤治郎、以志(樋口龍峡の姉)の長男として生まれる。
相川 俊孝(あいかわ としたか、1889年(明治22年)12… 相川 俊孝(あいかわ としたか、1889年(明治22年)12月24日 - 1940年(昭和15年)11月18日)は、大正から昭和前期の日本の詩人。 金沢大学の前身となった旧制第四高等学校を中退。室生犀星の影響を受け詩作をはじめ、1916年(大正5年)室生犀星・萩原朔太郎創刊の『感情』に同人として参加する。1920年(大正9年)には『感情同人詩集』に「懲罰」などの詩を発表。1922年(大正11年)『詩聖』に「凝視」などを発表し、1924年(大正13年)には佐藤春夫の序文を得て『万物昇天』を刊行、ほか詩誌『壺』も主宰した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
今井 白楊(いまい はくよう、1889年12月3日 - 19… 今井 白楊(いまい はくよう、1889年12月3日 - 1917年8月2日)は、日本の詩人である。 本名は国三。別号に夏明、太原、冬夜。鹿児島県薩摩郡隈之城村大字東手の向田(現在の鹿児島県薩摩川内市)の焼酎製造業の家に生まれた。川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校)で岩谷莫哀と同窓となり、早稲田大学英文科に進学。1909年、自由詩社に参加。機関紙「自然と印象」に詩を発表するほか、河井醉茗主宰の「詩人」(詩草社)などにも作品を寄せている。1911年、『闇と脚光』で第5回雑誌『太陽』懸賞脚本に当選(賞金100万円)。1914年、「失楽園物語」を執筆。1917年、千葉県犬吠埼で遊泳中に親友三富朽葉とともに溺死。
福士幸次郎(ふくし こうじろう、1889年11月5日 - 1… 福士幸次郎(ふくし こうじろう、1889年11月5日 - 1946年10月11日)は、日本の詩人。
柳澤 健(やなぎさわ たけし、1889年(明治22年)11月… 柳澤 健(やなぎさわ たけし、1889年(明治22年)11月3日 - 1953年(昭和28年)5月29日)は、日本の外交官、詩人。 旧会津藩士で女学校校長柳澤良三の長男として福島県会津若松市に生まれる。会津中学校(のち福島県立会津高等学校)から一高、東京帝国大学仏法科に学び、1915年(大正4年)5月卒業。逓信省に入り同年10月文官高等試験に合格。横浜郵便局長心得在職中の1919年(大正8年)4月辞職。大阪朝日新聞社に入社し論説班に所属した。 その後外務省に勤務し、フランス、イタリア、メキシコなどに駐在。外務省文化事業部第2課長や、新設された第3課(国際文化事業担当)の初代課長を務めた。上司にあたる文化事業部長は、のちに初代駐タイ大使となった坪上貞二。
三富 朽葉(みとみ くちは/きゅうよう、1889年〈明治22… 三富 朽葉(みとみ くちは/きゅうよう、1889年〈明治22年〉8月14日 - 1917年〈大正6年〉8月2日)は、日本の詩人。本名は義臣。 長崎県石田郡武生水村(現・壱岐市)生まれ。父・道臣は石田郡長を務めた。1896年、本家の伯父三富浄の養嗣子となる。旧制暁星中学校を経て、1908年に早稲田大学予科を修了し、早稲田大学本科英文科に入学する。大学の同期には宇野浩二・廣津和郎がいる。1909年、人見東明、加藤介春、福田夕咲らとともに、自由詩社を結成する。自由詩風で認められ、またフランス文学批評も著した。1911年、早稲田大学英文科を卒業。 1917年8月2日、犬吠埼君ヶ浜で溺れた友人の今井白楊を助けようとして、そのまま水死した。
三木 露風(みき ろふう、1889年6月23日 - 1964… 三木 露風(みき ろふう、1889年6月23日 - 1964年12月29日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操(みき みさお)。異父弟に映画カメラマンの碧川道夫がいる。国木田独歩の曾祖母が三木家出身。その縁もあり1912年『独歩詩集』を刊行した。早稲田詩社結成に加わり、『廃園』(1909年)を刊行。ほかに詩集『寂しき曙』(1910年)、『白き手の猟人』(1913年)など。 近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並んで「白露時代」を築いた。若き日は日本における象徴派詩人でもあった。 1889年(明治22年)6月23日、兵庫県揖西郡龍野町(現・たつの市)に父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれた。
森川 葵村(もりかわ きそん、 1889年(明治22年)3月… 森川 葵村(もりかわ きそん、 1889年(明治22年)3月8日 - 1979年(昭和54年)8月1日)は、大正・昭和期の日本の詩人、実業家。本名は森川 勝次。 東京市下谷区入谷町(現・東京都台東区)に生まれる。旧制京北中学校在学中、同窓の飯田蛇笏らと交流を深める。1910年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)本科を卒業し、引き続いて在籍した同専攻部計理科を1912年に卒業した。 在学中、三木露風一派の詩人として活躍し、三井物産に入社後、朝鮮火薬銃砲常務取締役、同社専務取締役、帝国火薬工業営業部長、日本油脂営業部長等を歴任した。 57歳で秋田県の寒村に疎開後詩作を再開し、第二次世界大戦後は北洋火薬(のちの日本化薬)社長などを務めた。
夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年(明治22年)1月… 夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年(明治22年)1月4日 - 1936年(昭和11年)3月11日)は、日本の禅僧、陸軍少尉、郵便局長、小説家、詩人、SF作家、探偵小説家、幻想文学作家。他の筆名に海若藍平、香倶土三鳥など。現在では、夢久、夢Qなどと呼ばれることもある。戒名は悟真院吟園泰道居士。禅僧としての名は雲水(うんすい)、法号を萠円と称した。
深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月… 深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月18日 - 1974年〈昭和49年〉3月31日)は、日本の詩人、作家、翻訳家。本名は荻野志げの(おぎの しげの)。 兵庫県氷上郡大路村(現・丹波市)の旧家の生まれ。京都師範学校中退、1907年京都菊花高等女学校卒。与謝野晶子に師事する。大正元年(1912年)詩人で技師の深尾贇之焏と結婚するが、大正9年(1920年)に死別。夫の遺稿集『天の鍵』を出版、その附録に深尾須磨子作として掲載した詩54篇と散文「最終の旅」が処女作となる。 大正14年(1925年)詩集『斑猫』を上梓すると神戸港から箱根丸で初めてフランスに渡り、シドニー=ガブリエル・コレットの知遇を得ている。