石川 富康(いしかわ とみやす、1936年11月12日 - … 石川 富康(いしかわ とみやす、1936年11月12日 - 2019年10月8日)は、日本の登山家。 1936年愛知県生まれ。20歳代から本格的に登山を始め、日本山岳会、愛知学院大学岳士山岳会に所属。 50歳以上のメンバーで8000m級の山に挑戦しようという会「シルバータートル」(田部井淳子や渡邊玉枝も所属)に参加し、1991年55歳で初めての8000m峰チョ・オユーの登頂に成功する。以後エベレストに2回登頂、8000m峰5座に6回登頂した。 2002年5月エベレストに登頂し、世界最高齢記録を更新(65歳176日)、ギネスブックに認定された。2008年1月南極大陸最高峰ヴィンソン・マシフに登頂し、7大陸最高峰登頂を達成、世界最高齢記録を更新(71歳59日)、ギネスブックに認定された。
高田 直樹(たかだ なおき、1936年9月17日 - )は、… 高田 直樹(たかだ なおき、1936年9月17日 - )は、日本の登山家・教育者・プログラマー。 京都府与謝郡岩滝町生まれ。京都府立大学卒業。京都府宇治市在住。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
原 真(はら まこと、1936年8月16日 - 2009年3… 原 真(はら まこと、1936年8月16日 - 2009年3月20日)は日本の医師・登山家である。愛知県名古屋市の出身で、札幌医科大学卒。2009年3月20日に脳疾患で死去。享年72。姉に岡崎恒子。 名古屋で病院を経営する外科医・原多喜萬の長男として生まれる。札幌医科大学に入学し、山岳部を立ち上げて主将を務める。学生時代の1956年、北海道大学山岳部に入部。1961年3月、名古屋大学医学部学生だった弟の原武が、鹿島槍北壁で遭難死。遺体の捜索で、のちにアイガー北壁を日本人で初めて制覇する登山家の高田光政と知り合う。高田は武の遺体を山から下した捜索隊の一人だった。原武の遺稿をまとめて『北壁:原武遺稿集』として自費出版(原多喜萬発行,1964年)、のちに『北壁に死す』として山と渓谷社から出版(1973年、1984年)、さらに『北壁に消えた青春』と改題し「追憶の山」(「山の本」No.29,白山書房,1999年所収)を後記として加えて出版(本の泉社,2008年)。
松浦 輝夫(まつうら てるお、1934年〈昭和9年〉 - 2… 松浦 輝夫(まつうら てるお、1934年〈昭和9年〉 - 2015年〈平成27年〉11月6日)は、日本の登山家。大阪府大阪市出身。1970年、植村直己とともに、日本人として初めて世界最高峰エベレストの登頂に成功した。 大阪府大阪市出身。西野田工業高校時代はラグビー選手であったが、「山に登りたい一心で」、1953年、早稲田大学教育学部に進学し、1957年に卒業した。卒業後は大阪市西区にある実家の松浦木材に入社した。 1965年、ヒマラヤの標高8,383mのローツェ・シャール峰に挑戦した早稲田大学隊に参加し、松浦は当時の日本人最高到達高度である8,180mを記録したが、食料と酸素の残量が乏しかったため、遭難者をださないことを主眼として、やむなく登頂を断念した。
増永 迪男(ますなが みちお、1933年7月9日 - 202… 増永 迪男(ますなが みちお、1933年7月9日 - 2025年12月25日)は、日本の登山家、実業家、作家、エッセイスト。 福井県生まれ。広島大学工学部卒。増永酒造合資会社社長を経て、福井山岳会会長。1985年福井県文化芸術賞、2000年福井文化賞受賞。最初の妻は歌人・登山家の佐伯道子。
三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう、1932年10月12日 … 三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう、1932年10月12日 - )は、日本のスキー選手、登山家、獣医師。青森県出身。クラーク記念国際高等学校名誉校長、一般社団法人全国森林レクリエーション協会会長、特定非営利活動法人グローバル・スポーツ・アライアンス理事長、株式会社ミウラ・ドルフィンズ代表取締役、株式会社三浦雄一郎事務所代表取締役。 北海道大学獣医学部助手、青森大学教授、日本プロスキー連盟会長、社団法人日本職業スキー教師協会顧問、日本プロモーグルスキー協会会長などを歴任した。 クラーク記念国際高等学校の校長に就任するとともに、全国森林レクリエーション協会の会長などを務めている。また、札幌市手稲区親善大使に委嘱されると同時に、青森市の名誉市民にも選ばれている。
鈴木 静夫(すずき しずお、1932年6月22日 - 199… 鈴木 静夫(すずき しずお、1932年6月22日 - 1994年3月15日)は、日本の理化学・水質学者、登山家。 群馬県出身。東京教育大学理学部卒、同大学院に学び、1960年「湖沼における水生菌類の生態学的研究」で東京教育大学・理学博士。東京理科大学薬学部微生物化学教室助教授、1974年教授。
芳野満彦(よしの みつひこ、1931年(昭和6年)11月8日… 芳野満彦(よしの みつひこ、1931年(昭和6年)11月8日 - 2012年(平成24年)2月5日)は、日本の登山家・RCC IIの創立同人・画家。東京都荒川区日暮里生まれ。アルムクラブ所属。ボート選手の芳野法一は弟。 第一日暮里小学校卒業、旧制の早稲田中学校入学。 1948年(昭和23年)、早稲田中学2年の17歳のとき八ヶ岳の主峰赤岳で遭難して両足指をすべて欠くが、不屈の精神で登山を続けた。1957年(昭和32年)3月の前穂高岳IV峰正面壁積雪期初登攀など多くの初登攀を記録。 1963年(昭和38年)、大倉大八とともにアイガー北壁に日本人として初挑戦。 1965年(昭和40年)、渡部恒明とともにマッターホルン北壁の日本人初登攀を達成し、アルプスの岩峰への先鞭をつけた。
田辺 寿(たなべ ひさし、1931年ないし1932年 - )… 田辺 寿(たなべ ひさし、1931年ないし1932年 - )は、日本の経営者、登山家。ダイエーグループの役職を歴任し、オ・プランタン・ジャポン社長や福岡ダイエーホークス球団社長などを歴任した、登山家としては、ヒマラヤ遠征に3度参加し、ヒマルチュリ (Himalchuli) 初登頂を果たすなどの実績を残している。 慶應義塾大学法学部在学中にマナスル登山隊への参加を希望し、卒業を延長して第3次遠征隊の派遣準備に関わったが、派遣は叶わなかった。1956年に大学を卒業し、三越に就職した。 1959年、日本山岳会のヒマルチュリ (Himalchuli) 遠征隊に参加。翌1960年には、山田二郎が率いた慶應ヒマルチュリ登山隊に参加して、原田雅弘とともに初登頂を果たした。
鷲 晴夫(わし はるお、1931年 - )は、日本の登山家で… 鷲 晴夫(わし はるお、1931年 - )は、日本の登山家である。主な著書に『なぜ山に登るのか』がある。 1931年に東京都で生まれる。東京都立大学大学院修士課程修了し、在日米軍総司令部、日本語教育学会などに勤務した。 『なぜ山に登るのか』は、1998年に出版された鷲晴夫の代表作。 「神が書かれた自然という名の書物"山"。登山とは、その神の書物をじっくりと読み、その崇高と美を味わうものである。」などとして登山を哲学的に述べたものである。
緒方 道彦(おがた みちひこ、1926年3月6日 - 200… 緒方 道彦(おがた みちひこ、1926年3月6日 - 2008年4月17日)は、日本の医学者、登山家、教育者。 長崎医科大学(長崎大学医学部の前身)教授緒方大象(のち九州大学医学部名誉教授)の長男として、長崎県に生まれる。父・大象は政治家緒方竹虎の実兄である。福岡県中学修猷館、旧制第五高等学校を経て、1952年九州大学医学部を卒業。五高時代から山岳部に所属し、九大在学中の1949年に福岡山の会に入会する。 1956年から1957年にかけて、第1次南極観測隊に医師として同行し、昭和基地建設を側面支援する。1959年九州大学医学部生理学教室に入局し、医学博士の学位を取得。1961年フロリダ大学、ロックフェラー医学研究所に留学し、1964年九州大学医学部助教授、1967年同教授に就任。
奥山 章(おくやま あきら、1926年(大正15年) - 1… 奥山 章(おくやま あきら、1926年(大正15年) - 1972年(昭和47年)7月2日)は、日本の登山家。山岳映像作家。 現在の東京都文京区小石川の生まれ。小学校卒業後、給仕として東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)に勤め、夜間の工業高校を卒業する。第二次大戦中に、海外の山岳書を読み耽り、丹沢山・谷川岳に通う。そこで、安川茂雄(早稲田大学予科在学中)に出会う。終戦後、山岳雑誌『岳人』に、先鋭的なアルピニズム論を展開する投稿を重ね、戦後の山岳界の進むべき方向性を主導するオピニオン・リーダーとなる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
安川 茂雄(やすかわ しげお、1925年12月13日 - 1… 安川 茂雄(やすかわ しげお、1925年12月13日 - 1977年10月23日)は、日本の登山家、ノンフィクション作家、登山史研究家。 本名は長越成雄。東京出身。早稲田大学文学部仏文科卒。 中学時代から登山を好み、登山家、編集者として働きながら、「霧の山」などの山岳小説を発表。 1966年RCCヒンズークシ登山隊長。三笠書房編集長、朋文堂、あかね書房などの顧問を経て、1974年四季書館を設立、社長を務めた。
山田 二郎(やまだ じろう、1923年 - )は、日本の登山… 山田 二郎(やまだ じろう、1923年 - )は、日本の登山家。 後に陸軍大将、関東軍総司令官となった山田乙三の次男として東京に生まれ、慶應義塾大学経済学部在学中に兄の影響を受けて山岳部で登山を始める。戦時中は、学徒出陣により、兄に続いて陸軍に入隊し、戦車隊に配属された。復員後、1948年に大学を卒業し、配炭公団に勤務した後、飼料会社の創業に関わるなどした。 第一次、第二次マナスル登山隊に参加。 三国商工(後のミクニ)に勤務した。 1960年、慶應ヒマルチュリ登山隊の隊長を務め、田辺寿と原田雅弘のヒマルチュリ (Himalchuli) 初登頂を果たし、その体験を翌年『登頂ヒマルチュリ』として出版した。
望月 力(もちづき つとむ、1922年(大正11年)10月1… 望月 力(もちづき つとむ、1922年(大正11年)10月17日 - 2007年(平成19年)3月29日)は、日本の登山家。新潟県出身。 戦後金物の町三条市で鍛冶屋が作って製品を各地に卸す集散地問屋にある家業を継いだ。また戦前始めた登山も再開した。戦前に比べると登山用具は少しずつ手に入りやすくなったが、やはりハーケンやカラビナはほとんど持つことができなかった。 1950年、鈴文という鍛冶屋に話を持ちかけ、二人で共同して自分で使うためのハーケン作りを始めた。望月がホームグランドにしていた谷川岳では岩が複雑でリスのすぐ奥でその間隙が狭かったりくねったりすることが多く、従前のハーケンでは曲がった先のリスには入りにくかったが、望月は鍛造した軟鉄でハーケンを作ることを考えつき、リスのカーブに沿って侵入しかつ曲がっても折れにくいハーケンができた。
松濤 明(まつなみ あきら、1922年〈大正11年〉3月5日… 松濤 明(まつなみ あきら、1922年〈大正11年〉3月5日 - 1949年〈昭和24年〉1月6日)は日本の登山家。
近藤 等(こんどう ひとし、1921年9月2日 - 2015… 近藤 等(こんどう ひとし、1921年9月2日 - 2015年11月29日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、登山家。早稲田大学名誉教授。 京都生まれ。暁星中学校在学中よりフランス語と登山に親しむ。早稲田大学仏文科卒。在学中は山岳部に所属し、朝鮮冠帽峰に遠征。卒業後、同部監督、部長もつとめた。。 早稲田高等学院講師、早大商学部助教授をへて、1955年から教授。フランス文学者としてフランスの山岳文献を多数紹介した。1992年に定年退任、名誉教授。 1962年、パリ大学研究員としてフランスに滞在。この機会にフランス国立登山スキー学校の研修会に参加。以後18回の登山シーズンをアルプスで過ごし、150回ほどの山行で120余峰に登る。
山崎 安治(やまざき やすじ、1919年11月13日 - 1… 山崎 安治(やまざき やすじ、1919年11月13日 - 1985年3月11日)は、日本の登山家。 神奈川県小田原生まれ。1942年早稲田大学法学部卒、日刊スポーツ新聞社に入り、文化部長、整理部長を務めた。日本の積雪期登山の先駆者の一人で、昭和10年代に早大山岳部の主力メンバーとして、穂高岳や冠帽峰(北朝鮮)に極地法登山を展開、初登攀記録も作った。のち登山史研究に専念。日本山岳協会常任理事。
石岡 繁雄(いしおか しげお、1918年1月25日 - 20… 石岡 繁雄(いしおか しげお、1918年1月25日 - 2006年8月15日)は、日本の応用物理学者、登山家。ナイロンザイル事件の追究を通じ登山用品の安全性向上に貢献した。三重県鈴鹿市の山岳会、岩稜会会長を歴任した。日本山岳会東海支部名誉会員。鈴鹿工業高等専門学校教授。日本山岳会会員(1953−1996年)。 父の移民先である、アメリカ合衆国カリフォルニア州サクラメントにて生まれる。3歳で父の故郷である愛知県愛西市に父とともに帰国する。 愛知県立旧制津島中学校(現・愛知県立津島高等学校)、旧制第八高等学校をへて、1940年(昭和15年) 名古屋帝国大学工学部電気学科卒業。 旧制三重県立神戸中学校(現・三重県立神戸高等学校)教員、名古屋大学職員をへて、1964年(昭和39年)に豊田工業高等専門学校の助教授となる。
平田 恭助(ひらた きょうすけ、1916年7月5日 - 19… 平田 恭助(ひらた きょうすけ、1916年7月5日 - 1940年5月12日)は、昭和戦前期の登山家。伯爵平田栄二(松堂)の四男。母は前田利昭の娘・静子。東京府出身。 慶應義塾大学在学中より谷川岳の登山を行い、1939年9月26日に共に未踏であった一ノ倉沢の滝沢下部の初登攀を果たして山岳界に衝撃を与えた(山岳ガイドの浅川勇夫が同行)。同年には社会人山岳団体である東京登歩渓流会に加入する。 慶應義塾大学には槇有恒・三田幸夫・大島亮吉・早川種三ら優れた登山家を輩出した山岳部があったが、平田は山岳部に所属せずに「モルゲンロートコール」というサークルに所属していた。東京登歩渓流会の幹部であった杉本光作によれば、山岳部は内部進学者が多く、外部から慶應に進学した平田はその空気に馴染めなかったのだという。
今西 壽雄(いまにし としお、1914年〈大正3年〉9月9日… 今西 壽雄(いまにし としお、1914年〈大正3年〉9月9日 - 1995年〈平成7年〉11月15日)は、日本の登山家。元日本山岳会会長。マナスル世界初登頂に成功。記念切手も発行された。 奈良県出身。旧制浪速高等学校を経て、1941年、京都帝国大学農学部卒業。 旧制高校在学時代より登山を始める。1953年、京大学士山岳会ヒマラヤ・アンナプルナ2峰遠征隊隊長としてアンナプルナ登頂に挑戦するが撤退。1956年、槇有恒率いる日本山岳会第三次マナスル登山隊に参加し、シェルパのギャルツェン・ノルブとともにマナスル世界初登頂に成功した。この快挙は戦後の日本人に誇りと自信を取り戻させるニュースとして大きく伝えられ、さらにネパールと日本との国交が結ばれるきっかけとなった。
望月 達夫(もちづき たつお、1914年(大正3年)3月9日… 望月 達夫(もちづき たつお、1914年(大正3年)3月9日 - 2002年(平成14年)8月21日)は、日本の実業家、登山家。和光証券(現・みずほ証券)副社長、新和光投信委託(現・アセットマネジメントOne)社長。日本山岳会名誉会員。 東京生まれ。1938年、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業し、三井信託銀行(現・三井住友信託銀行)に入社。 1941年から召集を受け、大日本帝国陸軍東部七十八部隊独立野戦高射砲第二十二中隊に配属され、キスカ島で書類作業に従事。1943年のキスカ島撤退作戦で北千島に逃れたものの、ソビエト連邦の捕虜となり、南樺太で通訳やソ連軍将校に英語を教える仕事などに従事した。1947年に復員。
小原 勝郎(おはら かつろう、1912年3月28日 - 19… 小原 勝郎(おはら かつろう、1912年3月28日 - 1990年1月23日)は、日本の登山家。ヒマラヤのマナスル初登頂隊(第3次)で副隊長、先遣隊でリーダーを務めた。登山隊はマナスル初登頂とともに、日本人として最初の8000M峰の登頂に成功し、日本山岳史に残る快挙となっている。日本山岳会元理事。津村順天堂(現・ツムラ)で常務・静岡工場長を務めた。 日本学園高等学校卒業。1934年(昭和9年)、立教大学商学部卒業。大学では山岳部に所属し、1933年(昭和8年)3月には、同部員の湯浅巌とともに鹿島槍ヶ岳天狗尾根登攀で積雪期初登頂を果たした。その際の登山案内人は大町の櫻井一雄らが務めた。 日本山岳会が、1952年(昭和27年)4月16日、マナスル遠征を決定し、それ以来、登頂成功までの約5年間、幾多の苦労が重ねられることとなる。
諏訪多 栄蔵(すわた えいぞう、1911年2月10日 - 1… 諏訪多 栄蔵(すわた えいぞう、1911年2月10日 - 1992年5月5日)は、日本の登山家。 東京市日本橋馬喰町生まれ。1928年工学院(現工学院大学)冶金学科卒、トキワ鉛工業に入社。大阪に住み、西岡一雄らの手引きで登山を始める。吉沢一郎、望月達夫、深田久弥らとともに日本のヒマラヤ研究の第一人者であった。
堀田 弥一(ほった やいち、1909年1月30日 - 201… 堀田 弥一(ほった やいち、1909年1月30日 - 2011年2月23日)は、日本の登山家。1936年に立教大学山岳部遠征隊を率いて、ヒマラヤ山脈のナンダ・コート(英語版)(標高6867メートル)の登頂に成功した。 富山県下新川郡石田村(現在の黒部市)出身。富山県立魚津中学校(現・富山県立魚津高等学校)に進み、野球部や陸上競技部に所属する傍ら、スキーにも取り組んで、黒部鉄道(現・富山地方鉄道本線)が開通すると宇奈月まで出向いて滑っていた。 1927年、立教大学予科2年に編入学し、立教大学山岳部に入部する。大学についてはのちに商学部経済学科に進む。山岳部へは当初はスキーをやる目的での入部であったが、実際に立山連峰の冬山に入るとスキーではなくアイゼンで歩けることを知ったという。
高須 茂(たかす しげる、1908年10月28日 - 197… 高須 茂(たかす しげる、1908年10月28日 - 1979年1月27日)は、日本の登山家、民俗学者。 東京出身。大東文化学院(現大東文化大学)卒業後、フランス語専修学校に学ぶ。15歳で白馬岳に登ったのが登山のきっかけで、20歳頃から本格的な登山を始める。山旅倶楽部を主宰し、『山小屋』『山』などの雑誌の編集に携わった。戦時中は軍務に服し、1949年以来は『岳人』の編集同人として活動した。 スポーツとしての登山を提唱した人物である。佐藤春夫に師事した俳人であり、江戸時代の故事習俗の考証家でもあった。
小川 登喜男(おがわ ときお、1908年 - 1949年)は… 小川 登喜男(おがわ ときお、1908年 - 1949年)は、日本の登山家。東京都出身。 東京高等学校 (旧制)、東北帝国大学、東京帝国大学で、山岳部に属し、スキー登山により、蔵王、八幡平で活躍し、東大では、谷川岳一之倉沢、穂高岳屏風岩、剣岳雪稜などを初登攀した。肺結核で若死にし、長く、その登山の偉業が知られることがなかったが、東北帝国大学時代に残した日記の精査により、近年、伝記が上梓され、昭和の天才登山家と評されるまでになっている。
磯野 計蔵(いその けいぞう、1907年(明治40年)9月2… 磯野 計蔵(いその けいぞう、1907年(明治40年)9月29日 - 1966年(昭和41年)6月27日)は、日本の実業家、登山家。元明治屋代表取締役社長。元日本商品学会顧問。 東京出身。磯野長蔵の長男。1931年、東京商科大学(現一橋大学)卒業。同大学山岳部出身で、在学中冬の鹿島槍ヶ岳登頂に成功。1933年からイギリスで商社実務研修を受け、ウォルター・ウェストンと交流を持った。明治屋取締役を経て、1944年、明治屋取締役副社長。1950年、日本商品学会顧問。1959年、明治屋代表取締役社長、キリンビール監査役。1966年6月27日、膀胱癌のため慶應義塾大学病院で死去。 1987年、磯野文庫創設。
佐々 保雄(ささ やすお、1907年3月22日 - 2003… 佐々 保雄(ささ やすお、1907年3月22日 - 2003年5月16日)は、日本の地質学者・地球科学者・登山家。北海道大学名誉教授で日韓トンネル研究会名誉会長も務めた。北海道札幌市出身。父は函館高等水産学校校長を務めた佐々茂雄。 化石燃料などの資源開発に関する調査・立案や、青函トンネル建設の際の調査に携わった。
水野 祥太郎(みずのしょうたろう、1907年2月6日 - 1… 水野 祥太郎(みずのしょうたろう、1907年2月6日 - 1984年5月10日)は、日本の整形外科医・登山家。大阪大学名誉教授。 神戸市生まれ。1930年大阪府立医科大学(現大阪大学医学部)卒、同第一外科に入る。1946年「荷重と足骨骼構造」で大阪帝国大学より医学博士の学位を取得。1947年大阪市立大学整形外科教授。1960年大阪大学医学部教授。1964年日本リハビリテーション医学会第1回会長。70年大阪大を定年退官[要出典]、名誉教授、川崎医科大学教授。72-80年同学長。 山歩きとスキーを趣味とした。1928年、西岡一雄、藤木九三らとロック・クライミング・クラブ(RCC)を創立した。アフガニスタンへ赴任したこともある。
竹節 作太(たけふし さくた、1906年4月17日 - 19… 竹節 作太(たけふし さくた、1906年4月17日 - 1988年8月12日)は、長野県下高井郡平穏村(現・山ノ内町)出身のジャーナリスト、クロスカントリースキー選手、登山家。 旧制飯山中学校を経て、1929年早稲田大学商学部卒。全日本スキー選手権大会クロスカントリースキーのリレーでは早大チームのメンバーとして1925年の第3回大会、翌年の第4回大会と連覇を果たした。日本初参加となった1928年サンモリッツオリンピックでは、クロスカントリースキー個人18kmで30位、個人耐久(50km)で26位だった。研究熱心な竹節は同大会で欧米の選手が用いていた距離スキー専用のワックスや、ヒッコリー材のスキーを大会後いち早く導入するなど、日本のスキー技術の向上につとめた。
加藤 誠平(かとう せいへい、1906年2月7日 - 196… 加藤 誠平(かとう せいへい、1906年2月7日 - 1969年5月7日)は、日本の林学者・造園家・登山家。森林利用学の分野で活躍、索道の技術研究、自然保養林制度制定にかかわり、また観光学や風景学、さらに橋梁の美学についても研究を重ねた人物。学位は、農学博士。東京大学名誉教授。放物線索理論による架空索理論の研究や伐木運材技術についての研究で業績をあげ、1957年日本農学賞受賞。著書に「林業土木学」「森林土木」などがある。元ヒマラヤ登山隊長。1963年夏、東大カラコルム遠征隊長を務めた。登山で全身リューマチにかかり、国立伊東温泉病院に入院し治療を受けていた。 父は宗教学者加藤玄智。東京生まれで、東京高等師範学校附属中学校を経て、1926年(大正15年)に旧制静岡高等学校卒業。
福田 蓼汀(ふくだ りょうてい、1905年(明治38年)9月… 福田 蓼汀(ふくだ りょうてい、1905年(明治38年)9月10日 - 1988年(昭和63年)1月18日)は、日本の俳人、登山家。本名は福田幹雄(みきお)。 山口県萩町(現在の萩市)生まれ。父は陸軍中将の福田彦助、母は「ホトトギス」の俳人であった福田無声女。 東北帝国大学法文学部法科在学中に学友の勧めで高浜虚子門に入る。山口青邨の「夏草」にも所属し、1940年には「ホトトギス」同人。虚子が指導する「九羊会」の一員となり、川端茅舎、松本たかし、中村草田男らと交流を深める。1948年、「山火」を創刊・主宰。1958年、橋本鶏二の「年輪」、野見山朱鳥の「菜殻火」、波多野爽波の「青」と共同で四誌連合会を結成し、その世話役を務めた。
加藤 文太郎(かとう ぶんたろう、1905年(明治38年)3… 加藤 文太郎(かとう ぶんたろう、1905年(明治38年)3月11日 - 1936年(昭和11年)1月5日)は日本の登山家。大正から昭和にかけて活躍した。兵庫県美方郡新温泉町出身。兵庫県立工業学校夜間部卒業。 複数の同行者が協力し、パーティーを作って登るのが常識とされる山岳界の常識を覆し、単独行によって数々の登攀記録を残した。登山に対する精神と劇的な生涯から、小説(新田次郎著『孤高の人』、谷甲州著『単独行者 アラインゲンガー 新・加藤文太郎伝』)やドラマのモデルとなった。 1905年(明治38年)3月11日、兵庫県美方郡浜坂町(現在の新温泉町)浜坂にて、加藤岩太郎・よねの四男として生まれる。 1919年(大正8年)に浜坂尋常高等小学校高等科卒業後、郷里を出て神戸の三菱内燃機製作所(三菱重工業の前身)に勤務しながら、1923年(大正12年)兵庫県立工業学校別科卒業、1926年(大正15年)神戸工業高等専修学校電気科を卒業。
伊藤 秀五郎(いとう ひでごろう、1905年(明治38年)1… 伊藤 秀五郎(いとう ひでごろう、1905年(明治38年)1月20日 - 1976年(昭和51年)2月22日)は、日本の生物学者・登山家・アルピニスト・エスペランティスト。専門は、生物学・山岳文学論。元札幌静修短期大学学長。日本山岳会名誉会員。 神奈川県横浜市出身。北海道帝國大學予科卒。北海道帝國大學農学部卒。卒業後は、東京帝國大學医学部助手をしながら、日本各地の山々を登る。1935年(昭和10年)にはペンシルベニア大学にも生物学の研究のため留学。 1947年北海道学芸大学教育学部教授に就任。1958年北海道学芸大学退官。北海道教育庁教育長に就任。1965年教育庁停年退官。札幌医科大学教授。1972年札幌医科大学退官。
木村 殖(きむら しげる、1905年 - 1974年12月2… 木村 殖(きむら しげる、1905年 - 1974年12月22日)は、日本の登山家、山岳ガイド、山小屋経営者。北アルプス山中の上高地に永く定住し、山小屋の経営などにあたるかたわら、第二次世界大戦の前後を通して千数百件におよぶ山岳遭難救助活動を行なった。 1905年当時の長野県南安曇郡三田村田多井(現在の安曇野市堀金三田田多井)に生まれる。 1925年、志願兵として陸軍第19師団歩兵第75連隊に入り、会寧の国境守備大隊に配置された。入営後1年半ほどしてから、選抜されて陸軍歩兵学校に学んだ。 兵役を終えた後、外交官を志し、普通文官試験の受験勉強に取り組むべく、1927年に父親が管理人をしていた上高地の温泉ホテルに住み込む。
北上 四郎(きたかみ しろう、1904年(明治37年)9月3… 北上 四郎(きたかみ しろう、1904年(明治37年)9月3日 - 1953年7月25日)は、兵庫県出身の昆虫学者、登山家。男性。特にアミカ科昆虫の分類学的研究で知られる。日本でアミカの幼虫を初めて発見したのも北上である。 1904年、兵庫県武庫郡山田村 上谷上(現在の神戸市北区山田町上谷上)において、北上倉太良・りつの四男として生まれた。旧制第四高等学校(現在の金沢大学)を卒業し、1924年に京都帝国大学(現:京都大学)理学部動物学科に進学。 登山の愛好家でもあった北上は、大学在学中に早月川(富山県)へ出かけてイワナ釣りをしていた所、イワナの胃の中から当時日本未発見であったアミカの幼虫を発見した。
中村 テル(なかむら てる、1904年8月24日 - 200… 中村 テル(なかむら てる、1904年8月24日 - 2009年5月3日)は、日本の登山家、日本山岳会名誉会員。 鉱山経営をしていた父親のもと、北海道夕張市にうまれるものの、父親が事業に失敗、福島県喜多方市に移り住むことになった。さらにその後は東京へと移り住み、文京区の本郷にある桜井ちか子による桜井女塾に入塾し英語を学んだ。10代より登山を始め、夏の富士山に登頂を成功、1927年1月1日に女性として初めて冬の富士山登頂を果たした。1961年には早稲田大学の山岳部OGが中心となって結成されたニュージーランド日本女子親善隊の隊長を勤め、エグモント山、ルアペフ山などの登頂に成功した。 2009年5月3日、老衰のため死去。
長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10… 長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10日 - 1994年(平成6年)8月21日 )は、日本の登山家であり、随筆家でもある。まだ日本では珍しかった山小屋であるヒュッテ・霧ヶ峰を経営した人物として有名。日本山岳会員、日本児童文芸家協会・日本国立公園新社理事。岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市)の長尾家に生れる。大正4年度吹屋小学校を卒業。地元の旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。長尾自身、好奇心旺盛な性格であり、5年生の夏には、神戸市の貧民窟(スラム)へ見物に行く。そこは、人一人やっと通れる位の路地があり、病める者、貧しき者、悩める者、弱き者、虐られた者等、世の中の敗者とされる人々がひしめき合い、これを見て世の中の不平等さを認識した。
吉沢一郎(よしざわ いちろう、1903年11月6日 – 19… 吉沢一郎(よしざわ いちろう、1903年11月6日 – 1998年1月22日)は、日本の登山家。一橋大学山岳部出身。1977年、吉沢が総指揮を取った日本登山隊はK2登頂を試みて成功し、これが世界で2番目のK2登頂成功例となった。 麹町小学校卒業後、旧・明治中学校(現明治大学付属明治高等学校・中学校)中退を経て、1928年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。電通映画社専務取締役。 元社団法人日本山岳会副会長。望月達夫、深田久弥、諏訪多栄蔵らとともに日本のヒマラヤ研究の第一人者であった。英国山岳会会員でもある。1980年には公共広告機構(現:ACジャパン)のCMに起用された。
深田 久弥(深田 久彌、ふかだ / ふかた きゅうや、190… 深田 久弥(深田 久彌、ふかだ / ふかた きゅうや、1903年〈明治36年〉3月11日 - 1971年〈昭和46年〉3月21日)は、石川県大聖寺町(現・加賀市)生まれの小説家、随筆家および登山家、チベット・ヒマラヤ研究家である。 戦前は小説家、編集者として活躍し、戦後は主に山やスキーに関する随筆をもって著名がある。山をこよなく愛し、読売文学賞を受賞した著書『日本百名山』は特に良く知られている。俳号も山の入った九山であり(愛称である「久さん」のもじりで、荏草句会の永井龍男による命名)、自宅の書斎を兼ねた書庫には「九山山房」の名があり、山房の主とも称した。1971年(昭和46年)3月21日、登山中の茅ヶ岳山頂直下で脳卒中のため68歳で死去。
西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年… 西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年)1月28日 - 1989年(平成元年)4月13日)は、日本の登山家、無機化学者、技術者。従四位。 京都府出身。京都一中、三高を経て、京都帝国大学理学部化学科卒業。京大講師、助教授を歴任した後、東京電気(東芝)に移る。 1936年、京都大学より理学博士。論文の題は「分子線による化學的研究」。 東芝技術本部長時代には海軍の要請を受けて真空管「ソラ」を開発し、技術院賞を受賞した。材料不足の状態でも大量生産できるように、微細な部分に至るまで製造マニュアルを完備し、"新橋の芸者を集めてでも製造可能"とされた。 戦後は独立の技術コンサルタントとして統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込み、デミング賞や電電公社総裁賞を受賞。
今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6… 今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6日 - 1992年(平成4年)6月15日)は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。位階は従三位。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学・1939年)。京都府出身。 今西の活動は登山家、探検隊としてのものと、生態学者としてのものがあり、彼の中では両者が不可分に結びついている。探検家としては国内で多くの初登頂をなし、京都大学白頭山遠征隊の隊長などを務めた。生態学者としては初期のものとしては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。
村井 米子(むらい よねこ、1901年11月23日 - 19… 村井 米子(むらい よねこ、1901年11月23日 - 1986年12月19日)は、日本の大正 - 昭和時代の女性登山家、随筆家。日本の女性登山家の草分けとして著名。村井弦斎と村井多嘉子の長女で、『食道楽』、『釣道楽』などに解説を執筆している。神奈川県出身。東京女子大学卒。婚姻中は黒田姓を名乗った。 1917年(大正6年)16歳で富士山に初登頂し、その後、登山家として全国の山々を歩き、マタギの人々とも交わり、彼らの食文化について執筆している。富士山、北アルプスなどにしたしみ、日本の女性登山家の草分けとなる。1923年(大正12年)、黒田鎮夫(黒田正夫の弟)と結婚(のち離婚)。1926年、日本自然保護協会の設立に参加した。
浦松 佐美太郎(うらまつ さみたろう、1901年10月1日 … 浦松 佐美太郎(うらまつ さみたろう、1901年10月1日 - 1981年12月23日)は、日本のジャーナリスト・登山家。 今日では本業のジャーナリストとしてよりも、登山家・山岳作家としての仕事で知られている。 1919年、旧制芝中学校卒業後、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。ロンドンに留学して近代登山に出会い、帰国後『たった一人の山』((1941年刊)など、山岳紀行の分野を開拓する。 ジャーナリストとしては日本太平洋問題調査会に参加し、1929年京都で開かれた「太平洋会議」(太平洋問題調査会の国際会議)の後、その争点を検討する「東京政治経済研究所」を蠟山政道・松本重治・牛場友彦らとともに設立し、近衛文麿の外交問題ブレインを形成した。
原 全教(はら ぜんきょう、1900年5月18日 - 198… 原 全教(はら ぜんきょう、1900年5月18日 - 1981年11月)は、日本の登山家。 石川県金沢市川除町生まれ。旧名・坂部武二。8人兄弟姉妹(上から男2人、女6人)の次男。 1917年神田電機学校(現東京電機大学)卒、1917年から雲水修行に入り北陸路を歩く。その後東京市役所都市計画課に勤務し1943年退職。兵役は1937年から2年間、満蒙へ出征。目黒でガリ版印刷『謄友社』を開業(現在は大田区の株式会社謄友社)。その後「新宿バーテンダースクール」の講師を経て、目黒区自由が丘にトリスバー「アイガー」を開店。その後亡くなるまで渋谷区恵比寿駅近くに焼き鳥バー「すず」を経営。没後は嫡男原信彦が後を継ぎ、再開発で立ち退きするまで営業していた。
三田 幸夫(みた ゆきお、1900年3月31日 - 1991… 三田 幸夫(みた ゆきお、1900年3月31日 - 1991年2月11日)は、大正から昭和にかけての登山家。神奈川県横浜市出身。「山のガキ大将」という異名があった。 慶應義塾大学経済学部在籍中は山岳部に属し、槇有恒の指導の下、大島亮介と共に中心的なメンバーとなった。1923年1月、立山(雄山)へ槇有恒、板倉勝宣らとスキー登山を敢行するが、松尾峠にて遭難してしまう。三田は1人救援を求めて立山温泉への下山を強行するも、疲労によって幻影を見るほどであったとされ、結果的に板倉の死を看取った槇に温泉手前で追いつかれるという苦い経験をしている。 1924年の大学卒業後は実業界に入って、後に岩井産業シンガポール支店長や万邦産業取締役、三和興業常務などを歴任した。
麻生 武治(あそう たけはる、1899年11月21日 - 1… 麻生 武治(あそう たけはる、1899年11月21日 - 1993年5月30日)は、日本のスキー選手、陸上競技選手、登山家。父親は日本銀行の理事、母親はピアニストであった。 東京市麻布区(現在の東京都港区)に生まれる。 旧制暁星中学校を経て、早稲田大学へ進学した。早稲田大学時代には第1回の箱根駅伝より出場し1年目は9区、2年目、3年目は5区で山登り5区を走り、3回とも区間賞を獲得した。その後はベルリン体育大学(ドイツ語版)に留学し、1923年には日本人として初めてマッターホルンに登頂し、翌年にはスキーで冬の槍ヶ岳の登頂に成功している。 1928年にはスイスで開催された1928年サンモリッツオリンピックに日本人として冬季オリンピック初出場を果たす。
大島 亮吉(おおしま りょうきち、1899年9月4日 - 1… 大島 亮吉(おおしま りょうきち、1899年9月4日 - 1928年3月25日)は、大正から昭和初期にかけての日本の登山家・作家。登山に関する多くの文章を著したが、登山中の遭難により死亡した。 東京府東京市芝区桜川町(現在の東京都港区虎ノ門)で大島善太郎・さく夫婦の三男として生まれる。祖父・大島善十郎は越中八尾出身で、東京に出て煙草の販売業を営んできたが、煙草の専売化によって廃業に追い込まれた。しかし、それまでの利益で買った貸家からの収益で、家族はそれなりの生活ができていたという。12歳の時に喘息の発作で倒れ、八尾に住んでいた伯母の元で療養生活を送っている。1914年、八尾尋常高等小学校高等科を卒業したのを機に帰京して慶應義塾商工学校に入学する。
松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月… 松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日)は、日本の登山家、ジャーナリスト、実業家。ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事、東京ロータリークラブ会長。従三位勲一等瑞宝章。松方家第3代当主。本名は義三郎。筆名として後藤 信夫(G.N.)など。 日本の登山界の草分けの一人で、キスリング・ザックを日本に紹介し、その名称を定着させた人物でもある。 父は明治の元勲で第4代、第6代内閣総理大臣の松方正義。兄は川崎造船所(現・川崎重工)、川崎汽船、国際汽船などの社長を務めた松方幸次郎(幸次郎は三男、義三郎は十五男の末子である)。