大川 宏(おおかわ ひろし、1945年10月17日 - )は… 大川 宏(おおかわ ひろし、1945年10月17日 - )は、日本の空手家・拳眞塾塾長。旧名は及川 宏(およかわ ひろし)。千葉県匝瑳郡栄村(現在の匝瑳市)出身。 1960年に日本空手道極真会 大山道場 成増支部へ入門。極真会館本部道場へ移籍し、1967年4月15日に黒帯(初段)を允許された。一緒に昇段した仲間に山崎照朝・添野義二・鈴木浩平・盧山初雄らがいる。 1969年4月からNETは、TBS・日本テレビに続き、「ワールドキックボクシング」を放映すると決定。NETはムエタイ選手や日本拳法空手道ら空手の各流派に出場要請をして選手集めをする他、極真会館へも同年2月に参戦依頼をしてきた。館長の大山倍達は当時の高弟から山崎照朝・添野義二・大川を選出し、極真ジム所属として参戦させ、彼らは「極真三羽烏」と紹介された。
芦原 英幸(あしはら ひでゆき、1944年〈昭和19年〉12… 芦原 英幸(あしはら ひでゆき、1944年〈昭和19年〉12月4日 - 1995年〈平成7年〉4月24日)は、日本の空手家。極真会館出身で芦原会館創始者・初代館長。 広島県佐伯郡能美町出身。少年時代は、本人によればごく平凡な普通の子供だったが、他人に頭を下げる事が異常に嫌いでプライドが高く、強情な子供だったためつまらない事でケンカになる事が多く、「ワル」とレッテルを貼られ、何か問題が起こると必ず芦原が悪者にされたという。もっとも、実際の自分がやった悪さと濡れ衣の比率は7対3ほどだったため、悪ガキだったのは事実と本人も認めている。空手との出会いは五年生の頃、隣家の息子が関西の大学の空手部に入っており、帰省していた時に自宅の庭で稽古をしているのを見たのが初めてだが、当時はいたずらやケンカに忙しく、夢中になる事はなかった。
タケマサ・オクヤマ (Takemasa_Okuyama、19… タケマサ・オクヤマ (Takemasa_Okuyama、1944年 - ) は、日系人空手家。 カナダ国際空手協会の会長で、「館長」と呼ばれている。 八丈島に生まれ、7歳のとき日本で武道を始めた。家族の伝統に従い相撲や柔道も習った。13歳の時、 沖縄から伝来する金城空手を学び始める。1960年、日本の拓殖大学に進学。 政治学と貿易を学び、田畑、浜中、小沢、津山などの空手師範を定期的に養成 。1966年、留学のためアメリカに渡り、窪田孝行の指導のもと3年間の修行を積む。 1970年、彼はカナダに移り 、そこで剛速流と松濤館の空手方面で有力な人物となっていく。同年、第5回年次オールスターズトーナメントで組手で3位になる。
大山 泰彦(おおやま やすひこ、1942年7月2日 - )は… 大山 泰彦(おおやま やすひこ、1942年7月2日 - )は、日本の空手家。国際大山空手道連盟の創士・最高師範。段位は九段。東京都文京区小石川生まれ、修徳高校卒業 明治大学法学部卒業。極真会館出身で、山崎照朝と並び天才と称された。 中学でサッカーをやっていた泰彦は、ケンカも頻繁にやる問題児でもあった。それをみかねた兄大山茂が既に空手道を修行していた事から、泰彦の鼻っ柱をへし折る目的で大山道場へ連れて行った。「いつもやっているケンカのようにやればいいんだよ」と言われた泰彦は、いきなり組手をやらされる事になる。「中足蹴りがわからないのでサッカーの蹴りをしたが、結果的にはそれが背足蹴りだった」と泰彦は述懐しているが、同い年の春山一郎や茂に組手で、散々に痛めつけられた。
中村 忠 (なかむら ただし、1942年2月22日 - ) … 中村 忠 (なかむら ただし、1942年2月22日 - ) は、日本の空手家で、世界誠道空手道連盟誠道塾の会長。段位は十段。樺太真岡郡真岡町(現在のロシア極東連邦管区サハリン州ホルムスク)出身。駒場東邦高校一期生。日本大学理工学部建築学科卒業。極真会館の発展に貢献し、大山倍達を支えた高弟で、大山の後継者とも云われた、初代首席師範である。 東京の椎名町に移住してから宮城敬のもとで空手道を習い始める。高校1年生の時に大山道場へ入門。大山倍達以下、師範代である安田英治・石橋雅史・黒崎健時らの指導を受ける。先輩の岡田博文・大山茂・渡辺一久・大山泰彦・千葉真一・郷田勇三らと稽古を重ね、1962年5月6日に黒帯 (初段) を允許された。
岡本 秀樹(おかもと ひでき、1941年7月30日 – 20… 岡本 秀樹(おかもと ひでき、1941年7月30日 – 2009年4月30日)は日本の空手家。日本空手協会空手指導者。 岡本は、1970年から世界中、特に中東、アラブ、アフリカで空手家のための伝統的な武道空手道を宣伝するために人生を捧げる。岡本はまた地域の多くの人道的救援活動にも携わっていく。地域のさまざまな国が彼に対して賞を授与している。海外で空手を教えるJKAインストラクターの最初期の世代のひとりである岡本は、多くのアフリカや中東の国々や地方および地域の空手連盟を設立するのにも尽力した。 1941年7月30日に岡山県美作市に生まれた。実家はスーパーマーケットを営んでいた。中学で柔道を学び、 1956年岡山県立津山商業高等学校を卒業。
田中 昌彦(たなか まさひこ、1941年2月24日 - )は… 田中 昌彦(たなか まさひこ、1941年2月24日 - )は、東京都出身の空手家。日本空手協会八段・前副首席師範・現技術局顧問IAKF世界大会の第一回、二回の優勝者。 東京都出身。父親の仕事の都合で小学生、中学生時代は日本各地へ転校を繰り返す。中学時代は柔道に明け暮れ、高校一年を京都の立命館高等学校で過ごした後、二年生から東京の日本大学鶴ヶ丘高等学校へ転校、ラグビー部を創設し右のロックで活躍する。 日本大学経済学部にラグビー推薦で入学、大学一年生の時に父親を亡くし、林業を専門に勉強するため二年生の時に農獣医学部に転部、在学中に日本空手協会本部の四谷道場に通う。日本大学空手部にも入部。 大学卒業後会社員となり、その後、31歳の時、空手の指導員としてデンマークに渡った。
南里 宏(なんり ひろし、男性、1941年2月12日 - )… 南里 宏(なんり ひろし、男性、1941年2月12日 - )は、日本の武道家・空手家(七段)。佐賀県小城市出身。佐賀県立佐賀工業高等学校出身。NPO法人全世界空手道連盟新極真会の東京東支部支部長。 空中のブロックを粉砕するなど試割りの第一人者。 昭和16年(1941年) 東京に生まれ、少年時代を九州で過ごす。高校時はボクシング部に所属。その後上京。 昭和46年(1971年)、30歳の時に極真会館入門。極真会館本部道場師範代と合宿時の隊長を長きに渡り務める。 昭和53年(1978年)、37歳の時で初めて全日本空手道選手権大会に出場を果たす。その時の様子は、真樹日佐夫著『極真空手27人の侍たち』“第18話中年で全日本に挑んだ情熱…南里 宏参段”に詳しい。
儀武 息一(ぎぶ そくいち、1941年 - 2012年8月2… 儀武 息一(ぎぶ そくいち、1941年 - 2012年8月27日)は、沖縄県島尻郡知念村出身の沖縄の空手家であり、沖縄空手道小林流武徳館・総本部の会長である。範士十段。 幼少の頃より空手に親しみ、1956年に剛柔流・古武道を学ぶ。1960年に知花朝信の弟子である仲里周五郎より空手の手ほどきを受ける。1971年に六段を仲里より授与。1975年には仲里の沖縄空手道小林流小林館協会の副会長に就任。1980年に七段教士を授与され、小林流小林館浦添道場を開設。1989年に八段免状を授与。 1993年に沖縄空手道小林流小林館協会を脱会し、沖縄空手道小林流武徳館を設立し、会長に就任する。同年に九段免状を国際武道空手連盟より授与される。
久高 正之 空観(ひさたか まさゆき くうかん、1940年1… 久高 正之 空観(ひさたか まさゆき くうかん、1940年11月18日 - )は少林寺流拳行館空手道を主宰する空手家。 清和源氏子孫であり、少林寺流拳行館空手の 久高幸利の息子。 彼は3歳で柔道と空手を始め、13歳になるまでに両方の分野で初段を取得した。 彼は1961年と1962年に全日本オープン空手道選手権と1958年から1962年に少林寺流拳行館選手権を勝ち取る。彼は日本大学に進学し卒業までに四段に、柔道や空手は五段を取得。 久高正之はニューヨーク市 (1964)とモントリオール (1967)の世界博覧会で日本代表となる。 コロンビア大学 、ニューヨーク州立大学 、 マギル大学 、 ロヨラカレッジ 、 カナダ国立劇場学校 、少林寺流拳行館空手道のカナダ本部で空手道を指導した。
真樹 日佐夫(まき ひさお、1940年〈昭和15年〉6月16… 真樹 日佐夫(まき ひさお、1940年〈昭和15年〉6月16日 - 2012年〈平成24年〉1月2日)は、日本の漫画原作者・小説家・空手家。本名:高森 真土(たかもり まつち)。 世界空手道連盟真樹道場宗師 キックボクシング真樹ジム会長。株式会社真樹プロダクション代表取締役、元極真会館本部道場師範代、元マス大山カラテスクール責任者。元ビッグマウス・ラウド特別顧問。NPO・アジア地域戦没者慰霊協会名誉顧問。映画・Vシネマの企画プロデュースや、格闘技のイベント興行・マッチメイクも不定期に手がけていた。 ペンネームは、高森3兄弟の本名の構成漢字を組み合わせる案を梶原が出し、これに従ったという。すなわち、梶原の「朝樹」と「真土」から1字ずつとって姓を「真樹」とし、下の名は三男の名「日佐志」を基に「志」を語呂良く「夫」に置き換えたものである。
郷田 勇三(ごうだ ゆうぞう、1940年(昭和15年)3月1… 郷田 勇三(ごうだ ゆうぞう、1940年(昭和15年)3月17日 - )は、日本の空手家で、極真会館(松井派)最高顧問である。東京都出身。極真空手九段。 東京都豊島区雑司が谷生まれ。高校時代に「牛と戦う空手家の大山倍達」の噂を耳にするも、道場移転の関係で入門できず、高校卒業直後の1959年(昭和34年)4月、大山道場へ入門した。ボクシングか空手かで迷った結果、月謝の安かった大山空手を選択したという。これが空手家として生きていく運命のきっかけとなる。 入門後は大山以下、石橋雅史・安田英治・黒崎健時らの指導を受けながら修行し、黒帯を取得をする。一時空手から離れるが、芦原英幸に中村忠の渡米の見送りに誘われ、羽田空港で大山と再会、これが縁で道場に復帰する。
岡田 博文(おかだ ひろふみ、1940年3月6日 - 202… 岡田 博文(おかだ ひろふみ、1940年3月6日 - 2025年4月9日[要出典])は、日本の空手家。東京都出身。1967年に立教大学経済学部卒業。 中学生の頃より柔道を稽古し、立教高校1年の秋に極真会館の前身である大山道場へ入門。同期に大山茂・黒崎健時らがいる。1959年12月6日に大山道場で初めて黒帯(初段)を允許され、極真会館の公式年度別昇段登録簿にも一人目として掲載されている。当時の大山道場で黒帯だった者は、他流派・道場で修業してきた師範の大山倍達、師範代の石橋雅史・南本一郎・安田英治らのみだった。 岡田は大山倍達のもっとも気に入った弟子の一人で、当時個性的な戦い方をする門下生が多い中で、岡田は地に則った基本技、理にかなった型、華麗な組手をし、試割りなど何をやらせても「これぞ空手だ」という動きを見せた空手家であった。
柳川 昌弘(やながわ まさひろ、1939年12月9日 - )… 柳川 昌弘(やながわ まさひろ、1939年12月9日 - )は、日本の空手家。東京都出身。和道流空手道八段。全日本空手道連盟和道会柳川道場支部長。日本伝・二聖二天流柔術憲法創始者[要出典]。 幼少期は身体障害をかかえていたが、徹底的な鍛錬によって達人と呼ばれる程の境地にまで上り詰めた異色の武道家として知られる[要出典]。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高見 成昭(たかみ しげあき、男性、1939年4月22日 -… 高見 成昭(たかみ しげあき、男性、1939年4月22日 - )は、愛媛県宇和島市出身の空手家。大山倍達の命により設立された極真会館愛媛県支部長・極真会館(松井派)四国本部長を歴任し、現在は空手道 高見空手の総師。 この項目は、格闘技およびその選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ総合格闘技/PJプロレスラー)。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
植木 政明(うえき まさあき、1939年3月24日 - 20… 植木 政明(うえき まさあき、1939年3月24日 - 2024年7月14日)は、日本の松濤館流空手家。 東京都出身。16歳の時、杉浦初久二の下で高校3年の時に空手を、1人だけの生徒として開始。柔道から始めたにもかかわらず、自分は体が小さすぎることを気にしていたが、スピードを重視する空手に興味を持つ。このとき彼は1年を通して訓練、開発し、その後亜細亜大学に進学し卒業した後には指導者のプログラムに参加するように励まされた。 植木の空手は基本とスタンスに重点を置いており、彼は形のトレーニングを十分に理解することが上達への恩恵を受けると信じている。 青年時代、競技にも非常に興味があり、第8回JKA全国空手道選手権大会(1965年)では、形の部1位と組手の部2位で大会の総合優勝者となり、3年後の第11回JKA全日本空手道選手権(1968年)で彼は組手と形を制して、再び総合優勝を飾っている。
千葉 真一[注釈 1](ちば しんいち、JJ Sonny C… 千葉 真一[注釈 1](ちば しんいち、JJ Sonny Chiba [注釈 2], 1939年1月22日 - )は、日本の俳優・体操選手・空手家・歌手・芸能プロモーター・アクション監督・映画監督・映画プロデューサー・作詞家・作曲家・ナレーター・声優。
阿部 圭吾(あべ けいご、1938年10月28日 - 201… 阿部 圭吾(あべ けいご、1938年10月28日 - 2019年12月21日)は、日本の松濤館流空手家。 1999年からは師範代 で九段位 。中山正敏 (空手家) (1913–1987), に師事。日本空手協会師範。 阿部は1938年10月28日、 愛媛県 伊予町( 四国島)生まれ 。先祖には侍 で過去に2人の泥棒が彼の家族の家に入った事件について、「私の家族が殺した; 2つの墓がまだ私の家の近くに立っている」と語った 。15歳の1953年に、彼は空手と柔道の武道の訓練を始めた。彼は当初、 志都流風の空手の勉強を始めた。 1956年、日本大学に入学し、工学を学び 、4年後に卒業した。1958年に中山正敏のもとで日本空手協会(JKA)本部道場でトレーニングを開始。
杉浦 健五(すぎうら けんご、1935年(昭和10年)8月1… 杉浦 健五(すぎうら けんご、1935年(昭和10年)8月12日 - 2006年(平成18年)5月7日)は、日本の空手家および実業家。静岡県浜松市出身。愛知大学出身。元全日本空手道連盟和道会理事長。政治活動家・田中清玄の秘書だった。
榎枝 慶之輔(えのえだ けいのすけ、1935年7月4日 – … 榎枝 慶之輔(えのえだ けいのすけ、1935年7月4日 – 2003年3月29日)は、日本の松濤館流空手家。英国空手連合師範代、松濤館空手八段で、死後には九段位に認定された。 1935年7月4日に日本の九州生まれ。若いころは剣道と柔道の訓練を受け、野球もしていた 榎枝は16歳で柔道二段に達していた。 その後拓殖大学に進学し、そこで空手のデモンストレーションに感銘を受け、その武道を始めた。 大学卒業後、 日本空手道協会 (JKA) 本部道場 ( 中山正敏 )に師事。 また、 加瀬泰治の指導の下、組手修行を積んだ 。 1961年に顕著なトーナメントの試合を戦い、決勝で6回の延長の末に阿部圭吾を破る 。
宮城 驍(みやぎ たけし、1935年6月8日 - )は、日本… 宮城 驍(みやぎ たけし、1935年6月8日 - )は、日本の空手家。沖縄県浦添市城間出身。沖縄小林流空手道協会範士十段。 沖縄小林流空手道協会第四代会長。沖縄伝統空手道振興会元副会長。沖縄県空手道連盟元会長・現顧問。浦添市城間3丁目7番14号にある宮城道場の創設者。兄は元浦添市長の宮城健一。 座右の銘・稽古理念は、「努力」「忍耐」「継続」「世界平和」。 空手を学んでいた父親に憧れ、高校3年生の時に空手を始める。琉球大学卒業後、教師になり定年まで中学校にて英語や社会科を教えた。 1953年(昭和28年)4月、首里高校空手クラブ入部(顧問は石川逢英)。 1954年(昭和29年)4月、高良繁に師事。
浅井 哲彦(あさい てつひこ、1935年6月7日 - 200… 浅井 哲彦(あさい てつひこ、1935年6月7日 - 2006年8月15日)は、愛媛県出身、松濤館流の空手家。日本空手協会(JKA)、国際日本武術空手協会(IJKA)、日本空手松濤連盟(JKS 旧日本空手松濤連盟)の創設者。 浅井は1935年6月7日に愛媛県 で生まれた。彼は7人兄弟の長男で少年時代、 相撲の修行を積んだほか、父親(警官)から柔道・剣道・槍術を教えられた。12歳の時、彼は空手道場でボクサーと空手家の戦いを目撃。空手家はキックで相手を倒し、それを見た浅井は感銘を受けた。 浅井は1958年に拓殖大学を卒業し、船越義珍と中山正敏のもとで空手を学んだ。彼は一生懸命訓練し、入寮することを許された。
須賀 信行(すが のぶゆき、1934年9月28日 - 201… 須賀 信行(すが のぶゆき、1934年9月28日 - 2018年1月18日)は、日本の空手家。 千葉県流山市出身。15歳のときに、高校の体育館で韓武舘の稽古風景をたまたま覗いたことから韓武舘に入門。1954年(昭和29年)、20歳のときに開催された空手界最初の全国大会である、第一回全国空手道選手権大会において優勝をする。第二回大会でも優勝し、連覇を果たすが、翌年の第三回大会では準決勝で足払いの後に突きを決められ一本負けをし、それを機に23歳にして現役選手を引退する。以降は当時新宿に所在した全日本空手道連盟錬武会の本部道場にて指導者となり、第5回大会、第7回大会で優勝した豊倉宏眞(現、錬武会副会長)などを指導する。
石橋 雅史(いしばし まさし、1933年〈昭和8年〉1月4日… 石橋 雅史(いしばし まさし、1933年〈昭和8年〉1月4日 - 2018年〈平成30年〉12月19日)は、日本の俳優、空手家。段位は剛柔流九段・極真カラテ七段。本名:石橋 雅美()。 台湾花蓮港庁花蓮港街で生まれ、福岡県柳川市へ転居。福岡県立伝習館高等学校、日本大学藝術学部演劇学科卒業。竹内事務所に所属していた。 父は職業軍人で、弟が二人いる。終戦で福岡県柳川市へ引き揚げ、高校卒業まで過ごす。 1956年、大学卒業と同時に文化座演劇研究所、文学座付属演劇研究所に入り俳優の道を進む。やがて文化座の劇団員となるが、八百屋の小僧、パチンコ屋の店員、荷かつぎ人夫、学生時代から修行をしている空手では大山道場と草創期の極真会館で師範代をして生活費を稼ぎ、演劇『その人を知らず』(1957年)、『炎の人』(1958年)などの舞台に立つ。
道原 伸司(みちはら しんじ、1932年8月28日 - 20… 道原 伸司(みちはら しんじ、1932年8月28日 - 2025年8月11日[要出典])は、日本の空手家。 広島県因島市土生町生まれ。和道流の流れを汲む日本空手道教育研究会の最高師範であり、日本体育大学空手道部名誉師範、東京海洋大学名誉師範、公益財団法人全日本空手道連盟相談役、全日本空手道連盟九段。 日本大学空手部の出身であり、和道流の開祖であるに大塚博紀からも指導を受けた。 道原は中学2年生より空手を始め、師である村上麟祥から空手を学ぶ。日本大学経済学部へ進学し、村上麟祥の内弟子修行後、3年生から日本大学空手部に所属。当時の日本大学空手部は、和道流の大塚博紀が師範を務め、1学年先輩に真野高一や鈴木達夫、同期に荒川通や高島甫などが所属していた。
中村 孝(なかむら たかし、1932年2月18日 - 201… 中村 孝(なかむら たかし、1932年2月18日 - 2013年9月16日)は日本の空手家。 日本空手道研修会会長、武蔵野市空手道連盟初代会長をつとめた。中学生のころから内弟子として金城裕に師事し、生涯を空手道一筋に過ごした。 大東文化大学卒。全空連二級資格審査員、全空連7段(後に研修会十段)。沖縄空手の研究に生涯を懸けて研鑽したとして文部大臣賞受賞[要出典]。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
黒崎 健時(くろさき けんじ、もしくは名前の読みが「たけとき… 黒崎 健時(くろさき けんじ、もしくは名前の読みが「たけとき」、1930年3月15日 - )は、日本の空手家。別名:黒崎 明。栃木県下都賀郡桑村出身。キックボクシング・目白ジム、新格闘術・黒崎道場、黒崎総合格闘技スクールを主宰。元・極真会館最高師範(七段)。 当初は国士舘大学の一期生である福田久一郎に剣道を習っていたが、その後、革新系皇道派思想の佐郷屋留雄に預けられ、師事していた時に、佐郷屋の紹介で大山倍達の門下生となった。 自著『必死の力必死の心』には1953年目白野天道場に入門したと書いているが、当時の黒帯門下生は「黒崎と言う人を見たことがない」と言われ「立教裏道場時代からではないか」と答えている。
鈴木 正文(すずき まさふみ、1929年3月11日 - 19… 鈴木 正文(すずき まさふみ、1929年3月11日 - 1991年9月18日)は、日本の空手家(十段)。日本正武館館長、全日本硬式空手道連盟会長。 福島県郡山市に生まれ、青年期に柔道、合気道、剣道、居合道や古武道等の多数の武術を学んだ。中央大学に通い、検事になり辞めてからは弁護士資格を保有した。 宮里栄一のもとで剛柔流空手を修行し1955年に、京都で日本正武館を設立した。 千葉真一主演映画『激突! 殺人拳』(1974年)への出演を皮切りに、空手家や合気道の達人などで、複数の東映製作映画に出演していた。 鈴木は長く日本プロレスコミッションのコミッショナーを務め、アントニオ猪木のウィレム・ルスカ戦や、ザ・モンスターマン戦のレフェリーを務める。
加瀬 泰治(かせ たいじ、1929年2月9日 – 2004年… 加瀬 泰治(かせ たいじ、1929年2月9日 – 2004年11月24日) は日本の空手家で、松涛館流 空手をヨーロッパに普及するため海外に渡った最初期のひとりで、 1960年代後半から1980年代半ばまでフランスで空手のスタイル、松濤館流加瀬派空手を教えた 。晩年、彼は空手を教えて世界中を旅したが、パリからは離れなかった 。段位は九段を保持した。 1929年2月9日に千葉市 で生まれた 。父は 柔道五段の加瀬信明。 彼は6歳になる前に柔道を学び始め、その後少年時代には合気道と剣道も学ぶ。 1944年、15歳の時、加瀬は柔道で2 段の 黒帯ランクを獲得。 同年、 船越義珍の空手に関する本を読み、船越自身のもとでその芸術を学び始めた 1945年に船越が亡くなる前に、船越の息子である船越義豪のもとで訓練を積んだ 以降は広西元信から手ほどきを受けた。
鈴木 辰夫(すずき たつお、1928年4月27日 - 201… 鈴木 辰夫(すずき たつお、1928年4月27日 - 2011年7月12日)は、日本の空手家。日本空手の創始者の1人で和道流開祖の大塚博紀最高師範の直弟子。和道流八段。横浜市出身。 空手は14歳のころからはじめる。日本大学経済学部卒業後、田中清玄の秘書を勤めながら大学等で空手を教える。以前から海外へ行くことを夢見ていたが、1963年に大学の後輩らとともに、欧米各国を回り空手のデモンストレーションなどを行った。以降ロンドンを拠点に、空手普及のため世界各地で指導を続けていた。
初代・祝嶺 正献(しゅくみね せいけん、1925年 - 20… 初代・祝嶺 正献(しゅくみね せいけん、1925年 - 2001年11月26日)は、沖縄県出身の空手家。玄制流空手道創始者。躰道創始者。初代・日本武藝躰道宗家、最高師範。本名、祝嶺 春範(しゅくみね はるのり)。「祝嶺正献」の名は襲名されており現在三代目であるが、ここでは初代・祝嶺正献について解説する。かつては祝嶺制献と号す。 祝嶺正献には数々の人間離れした伝説の事実がある。 「最高師範」の肩書は初代・祝嶺正献にのみ用いられる。
大山 倍達(おおやま ますたつ、1923年〈大正12年〉6月… 大山 倍達(おおやま ますたつ、1923年〈大正12年〉6月4日 - 1994年〈平成6年〉4月26日)韓国名は崔 倍達(チェ・ベダル、韓国語: 최배달)、民族名は崔 永宜(チェ・ヨンイ、チェ・ヨンウィ、韓国語: 최영의)は、空手家、極真会館創始者、国際空手道連盟総裁。段位は十段。別名はマス大山。 1970年代に『週刊少年マガジン』に連載された劇画『空手バカ一代』での主人公であり国内外に極真カラテの普及に努めた。 妻は大山智弥子、三女は大山喜久子。 父・崔承玄(チェ・スンヒョン、韓国語: 최승현)と母・金芙蓉(キム・ブヨン、韓国語: 김부용)との間に、6男1女の第4子として日本領朝鮮全羅北道金堤市で生まれた。
多田 正剛 ( ただ せいごう、1922年2月18日 - 1… 多田 正剛 ( ただ せいごう、1922年2月18日 - 1997年9月18日)は、 日本の空手家であり、日本正剛館空手道士会の創設者。 剛柔流八段位。京都府京都市出身。立命館大学卒業。 1922年大正11年生まれ。中国上海市にて15歳で中国武術を学ぶ。立命館大学空手部にて、宮城長順流祖より直々に剛柔流空手道を伝授される。のち同大学空手部監督を務める。1945年より京都市に日本剛柔流空手道士会を設立。京都市内に数道場を構え、立命館大学空手部直系の本土剛柔流の名門道場として栄える。のち日本正剛館空手道士会と改称。国内支部20数箇所の他に、10大学空手道部(大阪大学・滋賀大学・仏教大学・大阪歯科大学・京都外大・京工繊大・京薬大・山口大学・徳山大学・九州共立大)および海外20支部を指導した。
赤嶺 誠一(あかみね せいいち、1920年5月14日 – 1… 赤嶺 誠一(あかみね せいいち、1920年5月14日 – 1995年7月18日 赤嶺至冠 や Yoshitaka Akamine としても知られる)は 日本の剛柔流空手家。芸術空手の先駆者で南アメリカをはじめアメリカ、スペイン、オーストラリアなどさまざまな国で活動し、健心空手道場を主宰した。この学校は、世界の一部では健心流または史観流とも呼ばれている。赤嶺は、南米に来る最も空手の指導者の一人で大日本武徳会八段であり、南米で最初の剛柔流師であった。 赤嶺は1920年5月14日に沖縄県那覇市泉崎で生まれる。彼は6人の兄弟の末っ子であり、武士であった父方の祖父の下の子として武術の訓練を始める(兄弟の中では武道を嗜んだのは唯一であった)。
金城 裕(きんじょう ひろし、1919年 - 2013年10… 金城 裕(きんじょう ひろし、1919年 - 2013年10月10日)は、沖縄県出身の空手家。韓武舘において防具付き空手による組手稽古を主導し、空手における最初の全国大会である全国空手道選手権大会の開催に貢献した。多くの人物に師事した経験から評論家としての面を持ち、雑誌や著作物での執筆活動も精力的に行った。 1919年、沖縄県首里区桃原町(現那覇市首里桃原町)に生まれる。 1926年、唐手を始め奥里將現、1927年、知念三良、1932年、大城朝恕、1933年、徳田安文、1935年、真栄城朝徳、1938年、花城長茂に師事。 1939年、日本大学に入学、唐手同好会を設立。修道館の遠山寛賢に師範免状を授与される。
渡口 政吉(とぐち せいきち、1917年5月20日 - 19… 渡口 政吉(とぐち せいきち、1917年5月20日 - 1998年8月31日 ) は、日本の空手家。沖縄県那覇市出身。剛柔流開祖の宮城長順と比嘉世幸に教えを受ける。沖縄空手道剛柔流尚禮館初代館長。 沖縄空手道剛柔流尚禮会初代会長、元代々木修練会空手道場師範、元東京都空手道連盟相談役、元東京都中野区空手道連盟相談役、元法政大学沖縄空手道剛柔会師範 少年時代、父から空手(唐手)の基本技を学ぶ。15歳の時、比嘉世幸の道場で剛柔流空手を学び、後に宮城長順の門下生となる。比嘉世幸には33年以上、宮城長順には25年以上師事した。宮城長順は渡口の父と個人的な友人であったため、渡口の家を何度も訪れており、その時の会話はほとんど空手の話となり、朝方まで続いたという。
座波 仁吉(ざは じんきち、1914年3月5日 - 2009… 座波 仁吉(ざは じんきち、1914年3月5日 - 2009年[要出典])は、空手家。沖縄県那覇市出身。「心道流空手道心道会」最高師範。 「心道流空手道心道会」は、1951年(昭和26年)の宮崎大学空手道部創立とともに、座波を会長として迎え設立された(以後、座波は「心道流空手道心道会」の最高師範を務める)。 2002年に座波は初代宗家となる。 弟子に、佐伯幸一(宮崎大学空手部歴代OB会長)、松山公大(「心道流空手道心道会」第2代会長)、田中静雄、宇城憲治がいる。
中村 日出夫(なかむら ひでお、民族名:姜 昌秀(カン・チャ… 中村 日出夫(なかむら ひでお、民族名:姜 昌秀(カン・チャンス、강 창수)、1913年6月16日 - 2013年1月8日)は、朝鮮半島出身の空手家。空手道拳道会初代会長。空手十段。 素手で材木を切断する『垂木切り』の演武で知られている。これは、中村の正拳突きや手刀で打たれた材木が「折られた」というよりは「切られた」ような滑らかな断面になることから名付けられた。 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』によれば、同じく朝鮮半島北部出身の力道山と力士時代から親交があり、力道山から朝鮮語で兄さんを意味する「ヒョンニム」と呼ばれ慕われていたという。相撲を廃業しプロレスに転向する際には空手を伝授、これが力道山の代名詞となった必殺技・空手チョップ誕生に繋がったとされる。
中山 正敏(なかやま まさとし、1913年(大正2年)4月6… 中山 正敏(なかやま まさとし、1913年(大正2年)4月6日 - 1987年(昭和62年)4月15日)は、昭和時代の空手家。山口県出身。日本空手協会設立者、初代首席師範。松濤館流空手道の中興の祖。日本空手協会主席師範で九段。死後、十段を授与された。 1913年4月13日、 山口県で生まれたが 、先祖は信濃国(現在の長野県)出身で剣術師・ 真田家の家臣で、後の信州松代藩で先祖代々剣術指南を務めていた家柄である。 曾祖父の中山兵右衛門は神道無念流の剣術家としてしられ、中山の祖父は東京で外科医を開業し家族の中で最後に剣術を教えていた。 中山の父親は軍医で柔道家の中山直道。父親は台北に配属されたので形成期の時期はそこで過ごした。
山口 剛玄(やまぐち ごうげん、1909年1月21日 - 1… 山口 剛玄(やまぐち ごうげん、1909年1月21日 - 1989年5月20日)は、日本の空手家。全日本空手道剛柔会の創始者。本名は山口 實実。 鹿児島県鹿児島市出身。幼少時より薩摩示現流や柔術等の武道を嗜む。14歳から沖縄県出身の丸田武雄より空手を習い始める。 1928年に関西大学に入学するも翌29年に退学。同年、新選組屯所跡に「剛柔流空手道拳法道場」を開設し「昭和新選組」と称す。同年、立命館大学専門部法科に入学すると、相撲部と応援団に籍を置く傍ら、唐手術研究会(空手道部)を創設した。当時、宮城長順は空手道普及のため毎年頻繁に関西地方を訪れており、長順が入洛すると剛玄は決まってお供をして武道関係者の間を回り、武徳会の福島清三郎など満州国建国に連なる武人や軍人とも知遇を得たという。
島袋 龍夫(しまぶくろ たつお、1908年9月19日 - 1… 島袋 龍夫(しまぶくろ たつお、1908年9月19日 - 1975年5月31日)は、沖縄県の空手家。沖縄空手の流派の一つ、一心流を創始した空手の大家の一人である。娘婿に上江洲安儀。 島袋龍夫は、1908年(明治41年)に具志川村宇喜屋武(現うるま市喜屋武)士族の長男として生まれた。1907年(明治40年)に旧藩時代に「間切」は現在の行政区「村に改められたので、屋取(やーどぅい)(士族の集落)出身の人々はまだ士族意識を持っており、その出自を誇ったものである。龍夫は兄弟10名の子宝家庭の出身で何かと将来を期待されていた。末っ子の弟・島袋永三も空手をやり、後世少林流の使い手として世に知られる存在となる。
曺 寧柱(そう ねいちゅう、朝: 최배달、1908年 - 1… 曺 寧柱(そう ねいちゅう、朝: 최배달、1908年 - 1996年)は、朝鮮の民族運動家、空手家。初代全日本空手道剛柔会副会長。剛柔流空手の大家で、日本本土における剛柔流の祖の一人。 山口剛玄と本土最古の剛柔流道場である立命館大学空手道部を創設。大山倍達の師としても著名である。 慶尚北道醴泉にて裕福な地主の家系に生まれる。大邱の嶠南学校在学中に学生運動に関わり検挙された。日本に留学し、立命館大学法学部に入学。京都朝鮮留学生学友会の会長に推挙された。また学生時代に空手を習得している。1939年、石原莞爾の知遇を得て、東亜連盟論に共鳴し、朝鮮の処遇改善を求めて、立命館大学や同志社大学の留学生を東亜連盟運動に勧誘し、1939年には釜山で講演を行っており、この講演会で大山倍達(崔永宣)に出会う。
長嶺 将真(ながみね しょうしん、1907年7月15日 - … 長嶺 将真(ながみね しょうしん、1907年7月15日 - 1997年11月2日)は、沖縄県の空手家、警察官。松林流開祖。昭和期を代表する空手家の一人であり、空手史研究家としても知られている。 1907年(明治40年)、那覇市泊村生まれ。17歳から空手を習い始め、19歳から当時の空手の大家・喜屋武朝徳の高弟であった新垣安吉に師事した。1928年(昭和3年)、那覇市立商業学校(現・沖縄県立那覇商業高等学校)卒業後、翌年には歩兵大分連隊に入隊し、済南事変にも参戦した。 1931年(昭和6年)、沖縄県巡査となり嘉手納警察署勤務になったことから、地元に住む喜屋武朝徳に師事することになった。1936年(昭和11年)には、東京にて本部朝基にも師事する機会に恵まれた。
玉得 博康(たまえ ひろやす、明治39年(1906年)4月2… 玉得 博康(たまえ ひろやす、明治39年(1906年)4月21日 - 昭和60年(1985年)5月2日)は、日本の空手家。王統流命名者。全日本空手道連盟錬武会初代最高師範。全日本空手道連盟初代元老。群馬県空手道連盟副会長。 1906年に沖縄那覇に生まれ、幼少の頃より父から那覇手を教授され、後に首里手の大浜賢助、城間真繁に師事する。師範学校においても、那覇手や棒術を習得。また戦前に訪中した際に北京にて中国拳法も学んでいる。 戦後は群馬県伊勢崎市を中心に空手を指導し、全日本空手道連盟錬武会の最高師範として防具付き空手の普及に尽力。また1964年の全日本空手道連盟発足時に東京へ移り、審議委員、初代元老、中央資格審査員を務めた。
兼島 信栄(かねしま しんえい、1900年 - 没年不明)は… 兼島 信栄(かねしま しんえい、1900年 - 没年不明)は、日本の政治家、空手家、弁護士、画家。沖縄県那覇市首里寒川町出身。 東京都北区に疎開し、警察官として勤務した。 日本大学法学部を卒業して弁護士となる。 1947年9月10日、美里村で琉球社会党を結成し、10月20日には兼島信栄の第一次沖縄社会党に合併。沖縄社会党は沖縄民主同盟や沖縄人民党とともに知事・議会議員の公選を訴え、アメリカ合衆国による沖縄統治の下での琉球独立を模索した。 山城善光によれば、1949年5月1日以後、社会党・民主同盟・人民党の3党からなる「民族戦線演舌会」が開催されると、那覇市を皮切りに、糸満、石川、名護、本部、今帰仁、大宜味で盛況を収めたという。
儀間 真謹(ぎま しんきん、1896年 - 1989年)は、… 儀間 真謹(ぎま しんきん、1896年 - 1989年)は、日本の空手家。儀間派松濤館流最高師範。鹿島建設参与、沖縄空手道協会会長、全日本空手道連盟相談役、全日本空手道志誠会連合名誉会長等を歴任した。 沖縄県首里区(現那覇市)出身。旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。1912年糸洲安恒、屋部憲通に師事。1922年船越義珍の手伝いとなり、1923年船越より初段を授与される。日本空手協会技術顧問、甲府市立甲府商業高等学校校長を経て、鹿島建設参与に就任し、同社空手道部師範となる。沖縄空手道協会会長、全日本空手道連盟相談役、儀間派松濤館流会長、全日本空手道志誠会連合名誉会長を歴任した。1956年十段。
小西 康裕(こにし やすひろ、1893年〈明治26年〉 - … 小西 康裕(こにし やすひろ、1893年〈明治26年〉 - 1983年〈昭和58年〉)は、日本の空手家、武道家。神道自然流開祖。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)初代副会長。 1893年(明治26年)、香川県高松市に生まれた。本名は良助。小学校時代、竹内流腰廻を竹内緑に、無相流柔術を松井三蔵に、直心影流剣術を井上正広に学ぶ。中学校時代には、柔道を岡野好太郎に、竹内流を竹内兵衛に、剣道を上原宗九郎、植田平太郎(天真正伝神道流)らに学んだ。 1913年(大正2年)、慶應義塾大学部理財科に入学。剣道部に入り、真貝忠篤(窪田派田宮流)に学ぶ。また中山博道の道場・有信館に入門して神道無念流剣術を修行した。
小西 康裕(こにし やすひろ、1893年(明治26年) - … 小西 康裕(こにし やすひろ、1893年(明治26年) - 1983年(昭和58年))は、日本の空手家、武道家。神道自然流開祖。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)初代副会長。
大塚 博紀(おおつか ひろのり、1892年6月1日 - 19… 大塚 博紀(おおつか ひろのり、1892年6月1日 - 1982年1月29日)は、日本の空手家。昭和期を代表する空手家の一人であり、和道流空手道の開祖。また、自身が修行した柔術に空手を加味して和道流柔術拳法も開いた。 1892年(明治25年)、医師・大塚徳次郎の嫡男として茨城県真壁郡下館町(後の下館市、現在の筑西市)に生まれた。本名は大塚孝(こう)。1897年(明治30年)、江橋長次郎から為我流柔術の手ほどきを受けた。1905年(明治38年)、大塚は茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)に入学、剣術師範でもあった中山辰三郎(神道揚心流第3代目師範)に師事して、神道揚心流柔術と為我流柔術を学んだ。
中村 茂(なかむら しげる、1891年 - 1969年)は、… 中村 茂(なかむら しげる、1891年 - 1969年)は、沖縄県の空手家。昭和期の空手家で、沖縄拳法の創始者。 1891年(明治24年)、父・中村幸吉、母・カメの長男として沖縄本島北部の名護間切(現・名護市)に生まれた。幼少の頃より祖父や親戚から武勇伝を聞いて育ち、武術に興味を持った。夭折した父やその弟にあたる叔父・中村貞一から「手(ティー)」と琉球古武術の手ほどきを受けた後、沖縄県立第一中学校(現・首里高校)に入学。屋部憲通、花城長茂、東恩納寛量、糸洲安恒らから空手の指導を受ける。当時の一中の唐手師範は糸洲安恒、師範代は花城長茂だったので、中村は両者に師事したものと思われる。卒業後は名護に戻り、そこで「久茂地の山原国吉(やんばるくにし)」こと、国吉真吉にも師事した。