小池 健男(こいけ たけお、1925年(大正14年)4月1日… 小池 健男(こいけ たけお、1925年(大正14年)4月1日 - )は、日本のフランス文学者。 福島県福島市生まれ。1956年東京教育大学卒、58年同大学院修士課程修了、1966年同助教授、1977年筑波大学助教授、大妻女子大学短期大学部教授。
4月1日生まれ:454人
小池 健男(こいけ たけお、1925年(大正14年)4月1日… 小池 健男(こいけ たけお、1925年(大正14年)4月1日 - )は、日本のフランス文学者。 福島県福島市生まれ。1956年東京教育大学卒、58年同大学院修士課程修了、1966年同助教授、1977年筑波大学助教授、大妻女子大学短期大学部教授。
田中 恒利(たなか つねとし、1925年4月1日 - 201… 田中 恒利(たなか つねとし、1925年4月1日 - 2014年1月12日)は、日本の政治家。元日本社会党衆議院議員(6期)。 愛媛県東宇和郡俵津村(現在の西予市明浜町出身)で、半農半漁の家に生まれる。家業だけでなく、青年団活動においても活躍した。1953年に日本大学専門部社会学科を卒業。地元に戻り、愛媛県立宇和高等学校教諭、愛媛労農会議副議長を経て、1969年の総選挙で旧愛媛3区から社会党公認で立候補し初当選した。1972年、1976年、1979年の選挙にも3度立候補したが落選した。それを経て、1980年にはトップ当選となった。その後、1993年まで衆議院議員を6期務めたが、1996年に政界から引退した。
林 正道(はやし まさみち、1925年(大正14年)4月1日… 林 正道(はやし まさみち、1925年(大正14年)4月1日 - 2008年(平成20年)9月8日)は、日本の工学者、元地方公務員・実業家。工学博士(北海道大学)。北見工業大学・道都大学元学長。北見工業大学・道都大学名誉教授。専門は、コンクリート工学。 北海道江別市出身。1948年(昭和23年)に北海道大学工学部土木工学科を卒業し、北海道庁網走土木現業所に入所。1951年(昭和26年)北海道開発局土木試験所に移る。1970年(昭和45年)同所所長。1975年(昭和50年)北海道開発局退官。日本セメント顧問。1977年(昭和52年)北見工業大学工学部教授。1984年(昭和59年)北見工業大学4代学長に就任。
永峰 肇(ながみね はじめ、1925年4月1日 - 1944… 永峰 肇(ながみね はじめ、1925年4月1日 - 1944年10月25日)は、大日本帝国海軍軍人。 1925年4月1日に宮崎県住吉村の貧しい農家に長男として生まれる。家計が貧しかったことから学費をかけずに勉強し、地元では優秀な生徒として知られていた。1942年5月に佐世保第二海兵団へ入団し、同年8月に駆逐艦「初春」へ乗り組む。同年12月1日には三重海軍航空隊へ入隊(丙飛15期)、1943年3月27日には谷田部海軍航空隊(第31期飛行練習生)を経て、同年9月20日には徳島海軍航空隊(戦闘機専修)を終えている。1944年1月29日には築城海軍航空隊を経て、同年2月11日には南方方面へ行くよう命令を受けている。
竹内 清(たけうち きよし、1924年4月1日 - 2000… 竹内 清(たけうち きよし、1924年4月1日 - 2000年5月22日)は、日本の統計学者。専門は統計学、理論経済学、行政計画など。東北大学名誉教授。元日本統計学会会長。 長野県埴科郡坂城町出身。旧制長野県立上田中学校(現長野県上田高等学校)を経て、1952年東京商科大学(現一橋大学)卒業、同年一橋大学大学院特別研究生。山田雄三ゼミ出身。1955年小樽商科大学専任講師。1959年同助教授。1964年文部省在外研究員及びテキサスA&M大学リサーチ・アシスタント。1986年小樽商科大学教授。1971年東北大学経済学部教授。1973年東北大学評議員。1977年ポーランド科学アカデミー客員教授。1980年東北大学経済学部長・大学院経済学研究科長。
橋本 喜典(はしもと よしのり、1924年4月1日 - 19… 橋本 喜典(はしもと よしのり、1924年4月1日 - 1986年1月23日)は、日本の経営者。近鉄百貨店社長を務めた。和歌山県出身。 1947年に京都大学経済学部を卒業し、1948年に近畿日本鉄道に入社。1972年6月に近鉄百貨店に転じ、1973年4月に取締役に就任し、1977年5月に常務、1980年5月に専務、1983年5月に副社長を経て、1985年5月に社長に就任。 1986年1月23日急性心不全のために在任時に死去。61歳没。
新谷 勝(あらたに まさる、1924年(大正13年)4月1日… 新谷 勝(あらたに まさる、1924年(大正13年)4月1日 - 2006年(平成18年)8月3日)は、日本の経営者。東京証券取引所副理事長、日本証券業協会会長を歴任。位階は従四位。 北海道出身。1947年に東京大学法学部を卒業し、同年に山一證券に入社し、取締役にも就任した。1968年11月に常務に就任し、1971年11月に専務を経て、1975年11月に副社長に就任し、1978年12月には内外証券社長に就任し、1988年12月には会長に退いた。1990年7月に東京証券取引所副理事長、1991年6月に日本証券決済社長、1993年7月に日本証券業協会会長、1994年6月に平和不動産社長、2000年6月に同社相談役を歴任した。
真喜屋 実男(まきや さねお、1924年4月1日 - 198… 真喜屋 実男(まきや さねお、1924年4月1日 - 1980年3月9日)は、日本の経営者、弁護士。沖縄電力社長を務めた。沖縄県出身。 1951年に東京大学法学法律学科を卒業。1953年6月に琉球巡回裁判所判事に就任し、1954年1月に琉球検察庁検事、1955年1月に琉球政府法務局長、1959年1月に琉球上訴裁判所判事、1970年6月に琉球銀行取締役を経て、1972年10月に琉球生命保険社長に就任。1977年6月には沖縄電力社長に就任。 1980年3月9日脳内出血のために在任中に死去。55歳没。
菅野 壽(かんの ひさし、1923年4月1日 - 2006年… 菅野 壽(かんの ひさし、1923年4月1日 - 2006年8月21日)は日本の政治家、医師。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 参議院議員(連続2期・在職12年)、日本医師会常任理事。医学博士(新潟大学)。 宮城県桃生郡北村(現石巻市)出身。旧制石巻中学から1947年日本大学医学部卒業。1972年東武中央病院(埼玉県和光市)開設。菅野総合病院(同)理事長、埼玉県医師会理事、常任理事を経て、1982年から1984年まで花岡堅而会長のもとで日本医師会常任理事を一期務めた。 1989年第15回参議院議員通常選挙比例代表区に日本社会党から出馬し初当選、連続二期。参議院厚生委員会理事、地方行政委員長、環境特別委員長を歴任。
多賀 潤一郎(たが じゅんいちろう、1923年〈大正12年〉… 多賀 潤一郎(たが じゅんいちろう、1923年〈大正12年〉4月1日 - 2025年〈令和7年〉11月20日)は、日本の実業家。元イビデン社長。岐阜県不破郡垂井町出身。 社長在任時の1982年(昭和57年)に社名を揖斐川電気工業からイビデンに変更。建材などの従来の事業から転換を進め、プリント基板事業を中心とする会社とし、後の電子事業の基礎を築く。 晩年は一般社団法人中部産業連盟相談役を務めた。また、経営者及び自治体の首長のための私塾「多賀塾」、若手経営者のための「平成多賀塾」を開催する他、日本福祉大学経営者講座や中京大学大学院ビジネス・イノベーション研究科、愛知学院大学、岐阜経済大学などの臨時講師も行なっていた。
坂上 壽夫(さかうえ としお、1923年 <大正12年> 4… 坂上 壽夫(さかうえ としお、1923年 <大正12年> 4月1日 - 2011年 <平成23年> 7月19日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。和歌山県出身。位階は正三位。 1944年(昭和19年)に東京帝国大学法科を卒業。海軍に応召となり、敗戦の時には法務大尉。1946年(昭和21年)に司法官試補となり、約1年判事補生活をした後で1949年(昭和24年)に弁護士に。海野晋吉弁護士事務所に入り、実務を学んだ。 企業側の立場に立ったことが多く、森永ヒ素ミルク事件や石油ヤミカルテル事件などでは会社側被告の代理人を務めた。ロッキード事件では若狭得治全日空社長の控訴審弁護人を務めた。司法研修所で刑事弁護の教官も務め、法制審議会民法部会の委員を2年務めた。
金津 滋(かなつ しげる、1923年(大正12年)4月1日 … 金津 滋(かなつ しげる、1923年(大正12年)4月1日 - 1996年(平成8年)7月25日)は、日本の染色工芸家。島根県松江市出身。 出西窯が創業まもなく方向性も定まっていなかった昭和24年晩春、金津は松江美術工芸研究所の同窓であった石村英一、多々納利雄とともに出西窯を訪れた。窯の様子をみた金津は、「美しさも志も感じられん」と言葉を残して帰っていった。数日後、出西窯を再訪した金津は、柳宗悦著『私の念願』と浜田庄司作の急須等を置いていった。その本を読んだ出西窯の多々納弘光は、柳の工芸論に感銘を受け、民藝の考え方による実用の陶器をつくろうと決心する。その後、多々納をはじめとする出西窯のメンバーたちは、金津が仲介となり河井寛次郎と会い、民藝運動の指導者たちに指導を受けたことで、民藝運動に本格的に参加することとなった。
土田 國保(つちだ くにやす、1922年〈大正11年〉4月1… 土田 國保(つちだ くにやす、1922年〈大正11年〉4月1日 - 1999年〈平成11年〉7月4日)は、日本の警察官僚、警視総監(第70代)、防衛大学校長(第4代)。愛称は「ミスター警視庁」。剣道7段(居合)。位階は正四位。 父・土田誠一、母・敬子の長男として東京府生まれ。小学校6年間は学習院初等科で学び、5年生より生涯の趣味となる剣道を始める。旧制東京高校を経て、1943年(昭和18年)、東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省。同年9月に短期現役主計科士官(第10期)に採用されて海軍経理学校で短期間の教育を受け、1944年(昭和19年)3月に同校を卒業して海軍主計中尉に任官した。戦艦武蔵にも乗り組み、主計大尉で終戦を迎えた。
久住 宏 (くすみ ひろし、1922年(大正11年)4月1日… 久住 宏 (くすみ ひろし、1922年(大正11年)4月1日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の海軍軍人。海兵72期。大東亜戦争の末期、人間魚雷「回天」で出撃して戦死した。死後二階級特進し、最終階級は海軍少佐。 1922年(大正11年)4月1日に埼玉県川越市の素封家に生まれる。旧制東京府立第九中学校から海軍兵学校へ進学し、72期で卒業した。卒業後は同日中に軽巡洋艦「多摩」へ乗り組んで実習を重ね、さらに海軍潜水学校11期普通科学生として採用、1944年(昭和19年)8月に卒業したが、久住は当時極秘だった人間魚雷の存在をどのように知ったのか、必死兵器への配属を強く希望し、潜水学校を卒業した海軍兵学校72期卒業生ではただ一人の「回天」搭乗員として、同年9月6日に人間魚雷「回天」を創案した黒木博司大尉・仁科関夫中尉と共に第一特別基地隊大津島基地に着任、「回天」搭乗員として出撃までの時間を訓練にて過ごす。
元良 誠三(もとら せいぞう、1922年4月1日 - 202… 元良 誠三(もとら せいぞう、1922年4月1日 - 2020年5月1日)は、日本の船舶工学者、工学博士。東京大学名誉教授。東京府(現・東京都)出身(出生地は長崎県長崎市)。 祖父は心理学者・元良勇次郎。造船工学者で三菱重工業社長を務めた元良信太郎は父。由美子夫人は元三菱製紙会長・岩崎隆弥の長女なので三菱商事の社長・会長を歴任した槙原稔(2016年現在同社特別顧問)は元良の義弟にあたる(槙原夫人・喜久子は岩崎隆弥の三女で由美子の妹)。隆弥の祖父・岩崎弥太郎は三菱財閥の創始者。そして隆弥の父・岩崎久弥は弥太郎の長男で、三菱の3代目総帥である。岩崎弥太郎の曾孫にあたる由美子との結婚により三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係で結ばれることになった。
関 弥三郎(せき やさぶろう、1922年4月1日 - )は、… 関 弥三郎(せき やさぶろう、1922年4月1日 - )は、日本の経済統計学者、立命館大学名誉教授。 京都市出身。1947年立命館大学経済学科卒。1992年「寄与度・寄与率の理論と応用」で経済学博士の学位の取得。立命館大学助教授、教授を務めた。1986年定年、名誉教授、京都学園大学教授。
川井 春三(1922年4月1日 - 1989年)は、日本の政… 川井 春三(1922年4月1日 - 1989年)は、日本の政治活動家、実業家。 奈良市の魚問屋の四男に生まれた。1940年、旧制大阪城東商業学校卒業。1942年3月、大阪YMCA無線電機学校高等科卒業。同時に大日本帝国陸軍参謀本部に入り、北多摩陸軍通信所に配属されて無線情報活動に従事した。1943年1月、関東軍特殊情報部隊に入営し、幹部候補生として教育を受けた。同年末、北多摩通信所に教育要員として復帰。1945年、派遣先の長野分遣隊で終戦を迎えた。1946年4月、旧制大阪専門学校(現在の近畿大学)経済学部に入学。のち中途退学し、父の営む奈良県魚株式会社で働いた。 1957年の父の死を契機に、民族運動への挺身を決意した。
滝平 二郎(たきだいら じろう、1921年(大正10年)4月… 滝平 二郎(たきだいら じろう、1921年(大正10年)4月1日 - 2009年(平成21年)5月16日)は、日本の版画家・きりえ作家である。日本美術会委員、日本児童出版美術家連盟会員、日本きりえ協会代表委員。 ※四国新聞記事以外の出典は『滝平二郎望郷編』。 茨城県新治郡玉川村(現:小美玉市)に生まれる。実際には4月10日生まれだが、父親が早く学校に入れたいために4月1日と繰り上げて誕生日を届け出たため、入学が1年繰り上がった。 茨城県立石岡農学校(現:茨城県立石岡第一高等学校)在学中は風刺漫画に関心を寄せていた。1938年に農学校を卒業し、同年若林一男や高林宏一らと漫画研究同人展を開くが、卒業後は木版画へと向かった。
高橋 茂(たかはし しげる、1921年4月1日 - 2005… 高橋 茂(たかはし しげる、1921年4月1日 - 2005年11月22日)は、日本の工学者。東京工科大学名誉教授。工学博士。 慶應義塾大学工学部電気工学科卒業。1944年6月、慶應義塾大学卒業前に運輸通信省電気試験所第5部に入所する。 1953年に「電気絶縁材料の誘電特性とその測定法の研究」において、慶應義塾大学第一号となる工学博士の学位を授与された。 その後トランジスタ計算機の開発に着手し、ETL Mark IIIを完成させた。ETL Mark IIIは、日本では2番目、トランジスタ式計算機としては日本初の電子式コンピュータである。 さらに次いで、接合型トランジスタの採用で安定性を増し、多くの計算機メーカーが製品化のベースとしたETL Mark Ⅳを完成させるなど、国産電子計算機の発展に大きな貢献をした。
松浦 巖(まつうら いわお、1921年4月1日 - 1980… 松浦 巖(まつうら いわお、1921年4月1日 - 1980年2月18日)は、日本の経営者。東京都出身。 1941年に東京商科大学経済学部を卒業し、同年に兼松江商に入社。 1971年11月に取締役に就任し、1974年5月に常務に就任した。1977年に副社長に就任し、1978年6月に社長に昇格した。 1980年2月18日心筋梗塞のために死去。58歳没。 学生時代にはサッカー選手として活躍していた。
久保 赳(くぼ たけし、1920年 <大正9年> 4月1日 … 久保 赳(くぼ たけし、1920年 <大正9年> 4月1日 - 2011年 <平成23年> 4月1日)は、日本の建設技官。初代建設省下水道部長や、日本下水道事業団理事長、日本下水道協会理事長を務め、日本の下水道行政の基礎を築いた。1994年には日本人として初めてストックホルム水賞を受賞した。勲二等瑞宝章受章。位階は正五位。 北海道夕張市生まれ。北海道庁立札幌第一中学校(現北海道札幌南高等学校)を経て、1944年北海道帝国大学工学部土木工学科卒業。満洲国政府高等官試補、神戸市復興本部を経て、建設省が発足した1948年に同省に入省し、水道課に配属された。建設省下水道課長を経て、初代建設省下水道部長や、日本下水道事業団理事長、日本下水道協会理事長を務め、流域下水道計画を推進し、長與專齋、關一、ウィリアム・K・バートン、中島鋭治らと並んで、日本の下水道事業を軌道に乗せた技術者と評された。
佐藤 久(さとう ひさし、1920年4月1日 - 2020年… 佐藤 久(さとう ひさし、1920年4月1日 - 2020年3月23日)は、日本の地理学者、地形学者、東京大学名誉教授。 1938年に旧制・秋田県立秋田中学校(秋田県立秋田高等学校の前身)、1941年に旧制・水戸高等学校理科甲類を卒業し、東京帝国大学理学部地理学科に学ぶ。1943年9月に学部を卒業し、10月に大学院に進む。これは、第二次世界大戦戦時下での、繰り上げ卒業であり、また徴兵延期の扱いを受けた大学院特別研究生としての進学であった。戦時下では、田山利三郎が率いたニューギニア島調査に加わったり、陸地測量部嘱託となり、この頃から空中写真を利用して地形研究に取り組んだ。また、ニューギニアではマラリアに罹患し、その後の健康を損なったとされる。
添田 清美(そえだ きよみ 1920年4月1日 - 2021… 添田 清美(そえだ きよみ 1920年4月1日 - 2021年12月11日)は、日本の寺庭婦人、高野山の宿坊ビジネスの元祖。センテナリアン。旧姓・土生川。 和歌山県出身、和歌山県立橋本高等女学校卒業、東京女子大学卒業。 教師の家に生まれ育つ。女学校で英語が好きになり、教育熱心な親のおかげで大学進学し英語を専攻する。卒業後は横浜正金銀行に就職したものの、東京が空襲を受けるようになったことから帰郷。帰郷後は周囲から女学校での家庭科教師になるように望まれていたのに対し、本人は英語教師を希望していたが敵性語のために叶わなかった。1946年に高野山の宿坊・蓮華定院に嫁ぐ。戦後の宿坊には進駐軍が訪れるようになり英語力が役立った。
藤田 一暁(ふじた かずあき、1920年〈大正9年〉4月1日… 藤田 一暁(ふじた かずあき、1920年〈大正9年〉4月1日 - 1991年〈平成3年〉5月16日)は、日本の実業家。フジタ社長・会長。フジタドルフィンクラブ設立者。 広島県広島市出身。広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)、旧制広島一中を経て、1943年に日本大学旧工学部建築学科卒業。藤田組に入り、1949年に監査役、1951年に取締役、1957年に副社長を経て、1962年に社長に就任。 1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下により、東白島町の藤田家はぺしゃんこにつぶれた。自宅にいた一暁は気を失ったが、何秒後かに気がつき、ケガもないため自力で這い出した。家の下にある両親とお手伝いさんを助けようとしたが、一人ではどうにもならず、通りがかりの兵隊の助けを借りて救出した。
細谷 千博(ほそや ちひろ、1920年4月1日 - 2011… 細谷 千博(ほそや ちひろ、1920年4月1日 - 2011年9月21日)は、日本の国際政治学者。一橋大学名誉教授、国際大学名誉教授、日本学士院会員、英国学士院客員会員、元日本国際政治学会理事長。専門は外交史。ちなみに、国際政治学者の細谷雄一との血縁関係はない。
宗政 美三(むねまさ よしぞう、1920年(大正9年)4月1… 宗政 美三(むねまさ よしぞう、1920年(大正9年)4月1日 - 2006年(平成18年)5月25日)は、日本の弁護士。広島県高田郡(現安芸高田市)出身。中央大学法学部卒業。 1943年(昭和18年)、高文司法科合格。1944年(昭和19年)、近衛師団司令部、東部軍管区司令部、中国軍管区司令部の各法務部において軍務及び残務整理に従事する。1947年(昭和22年)に弁護士登録、後に日本弁護士連合会副会長、中国地方弁護士連合会会長、広島県弁護士会会長を務めた。また、日本調停協会連合会副会長を始め、法務省委嘱人権擁護委員、中国船員地方労働委員、広島地方裁判所調停委員、広島家庭裁判所調停委員、広島県選挙管理委員、広島市教育委員等の各委員や、広島連合会会長、広島女子商学園理事、広島山陽学園理事長等を歴任した。
景山 克三(かげやま かつみ、1920年4月1日 - 200… 景山 克三(かげやま かつみ、1920年4月1日 - 2008年9月16日)は、日本の機械工学者、海軍軍人(技術大尉)、日本大学理工学部名誉教授。学位は工学博士。専攻は機械工学。勲三等瑞宝章受章者。 1920年、福岡県八幡市(現北九州市)生まれ。日本大学旧工学部(現・日本大学理工学部)卒業後、大日本帝国海軍技術士官として、航空発動機の製造に従事。戦後、日本大学の機械工学科に戻り、二輪車の研究で工学博士を取得(「二輪自動車の動力性能に関する研究」日本大学工学博士1961-3-31)。その後自動車の操縦性•安定性の研究に従事、(社)自動車技術会車両運動性能部門委員会委員長。後に同学会理事。1990年日本大学理工学部定年退職、名誉教授。
有末 武夫(ありすえ たけお、1919年4月1日 - 202… 有末 武夫(ありすえ たけお、1919年4月1日 - 2020年12月21日)は、日本の地理学者。交通地理学を専門とする。1950年代に日本の交通地理学を発展させ、体系化を進めた人物の1人である。 北海道出身。1946年東京文理科大学地理学科卒。1959年「わが国における旅客交通の地理学的研究」で、理学博士(東京教育大学)の学位を取得。東京文理科大副手、助手、群馬大学教育学部助教授をへて、教授。84年定年退官、名誉教授、上武大学教授を務めた。
永井 厚(ながい あつし、1919年4月1日 - 2006年… 永井 厚(ながい あつし、1919年4月1日 - 2006年11月16日)は、日本の経営者。日立マクセル社長、会長を務めた。 北海道出身。1941年に北海道帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に日立製作所に入社。1973年11月に取締役に就任し、1977年6月に常務を経て、1979年6月には日立マクセル社長に就任。1989年6月に会長を経て、1993年6月から相談役を務めた。 1989年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2006年11月16日急性心不全のために死去。87歳没。
山口 秀和(やまぐち ひでかず、1919年〈大正8年〉4月1… 山口 秀和(やまぐち ひでかず、1919年〈大正8年〉4月1日 - 2004年〈平成16年〉4月30日)は、日本の社会慈善活動家、朝日新聞社嘱託社員。岩手県出身。 戦災孤児支援を目的として山口児童文化研究所を設立し、その活動は子どもにとどまらず、障がい者や高齢者など社会的弱者へと広がった。サンタクロースの姿で北海道から沖縄まで全国の保育園や福祉施設を巡ったことから、「山口サンタ」の名で親しまれた。 1979年「国際児童年」に、児童福祉の功績により、内閣総理大臣・大平正芳から表彰を受けた。 1919年、4月1日、岩手県岩泉町(母親の実家とされる)に生まれる。幼少期を奥州市前沢区で過ごした後、一関市に移る。
岡本 歌子(おかもと うたこ、1918年(大正7年)4月1日… 岡本 歌子(おかもと うたこ、1918年(大正7年)4月1日 - 2016年(平成28年)4月21日)は、日本の医学者。止血剤:ε-アミノカプロン酸とトラネキサム酸の開発者の1人。
木村 威夫(きむら たけお、1918年4月1日 - 2010… 木村 威夫(きむら たけお、1918年4月1日 - 2010年3月21日)は、日本の美術監督、映画監督。 東京都恵比寿出身。日本映画・テレビ美術監督協会顧問、日本映像美術協議会JVA賞審査委員長、日活芸術学院学院長、映画美学校理事、東京工芸大学芸術学部客員教授、京都造形芸術大学映画学科准教授を務めた。 十代の頃より、舞台美術監督伊藤熹朔に師事。1941年、日活に入社。しかし、翌年に日活は新興キネマ、大都映画と合併して大映となる。『海の呼ぶ聲』(1945年 / 伊賀山正徳監督、封切は終戦後)で美術監督に昇進。1954年、映画製作を再開した日活へ移籍。 1963年、『悪太郎』をきっかけに鈴木清順監督作品の美術を担当、「清順美学」と呼ばれるその作風の創造に大きく貢献する。
内海 倫(うつみ ひとし、1917年〈大正6年〉4月1日 -… 内海 倫(うつみ ひとし、1917年〈大正6年〉4月1日 - 2012年〈平成24年〉8月3日)は、日本の内務・警察・防衛官僚。位階は従三位。防衛事務次官。人事院総裁。 姫路高校文科甲類を経て東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1941年(昭和16年)に内務省に入省。同期に高橋幹夫、柴田護、熊崎正夫、島田豊などがいる。内務省16年入省組は、後に「素心会」というOB団体を立ち上げている。 短期現役海軍主計科士官(6期)を志願し、1941年4月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年8月、経理学校を卒業。1942年(昭和17年)11月、主計大尉に進み敗戦を迎えた。同年9月、海軍主計少佐となり予備役に編入。
黒田 和夫(くろだ かずお、1917年4月1日 - 2001… 黒田 和夫(くろだ かずお、1917年4月1日 - 2001年4月16日)はアメリカ合衆国の地球化学者。通称はポール黒田(Paul Kuroda)。 アーカンソー大学名誉教授で、日本から米国に帰化した科学者の第一号とされる。ウラン235の存在比が現在より大きかった昔のウラン鉱床では環境条件が揃うと天然原子炉が形成される可能性があることを公開されたばかりのフェルミの原子炉理論を利用し予想した。発表当初は懐疑的な見方が多かったが、後に西アフリカでオクロの天然原子炉跡が発見され裏付けられた。また初期の太陽系にはプルトニウム244が存在したことを隕石中のPu-244が核分裂を起こした際に放出したとみられるキセノン含有量から証明をした。
丹羽 小弥太(にわ こやた、1917年4月1日 - 1983… 丹羽 小弥太(にわ こやた、1917年4月1日 - 1983年9月28日)は、日本の科学評論家、翻訳家。 宮城県生まれ。東京文理科大学卒。駒澤大学教授。 晩年は、口腔底部ガンに侵され、あごの骨を切除して人工あごとする手術を受けるなど長く闘病し、その状況を書籍にまとめたことで注目された。
森 和夫(もり かずお、1916年(大正5年)4月1日 - … 森 和夫(もり かずお、1916年(大正5年)4月1日 - 2011年(平成23年)7月14日)は、日本の実業家。東洋水産創業者。静岡県賀茂郡田子村(現在の西伊豆町)出身。静岡県立豆陽中学校(旧制)(後の静岡県立下田高等学校)、水産講習所(現在の東京海洋大学)卒業。 実家は元々漁業を営んでいたが、父の代で冷蔵製氷業に転じ、1919年(大正8年)に田子製氷株式会社(2007年(平成19年)に東洋水産に吸収合併される)を設立し、田子村で冷蔵庫を運営していた。 和夫は水産講習所卒業後水産会社に就職するが、間もなく徴兵され、旅順の陸軍予備士官学校を経て1939年(昭和14年)のノモンハン事件に従軍。所属していた部隊がほとんど全滅に近い被害を受ける中、かろうじて生き残り帰国する。
中尾 辰義(なかお たつよし、1916年(大正5年)4月1日… 中尾 辰義(なかお たつよし、1916年(大正5年)4月1日 - 2012年(平成24年)12月20日)は、日本の政治家。参議院議員(4期)。 鹿児島県日置郡串木野村(串木野町、串木野市を経ていちき串木野市)下名の後の串木野市元町に生まれる。1930年3月串木野高等小学校卒業。その後大阪市で学び、1936年3月旧制上宮中学校(現上宮高等学校)卒業、1940年3月大阪歯科医学専門学校(現大阪歯科大学)卒業。1940年12月歩兵入隊、1946年6月内地へ復員。1953年4月大阪市東区で歯科医院を開設し、創価学会に入会。 創価学会船場支部長から1957年(昭和32年)4月の参議院大阪府選挙区補欠選挙に創価学会系無所属として出馬したが落選。
水藤 春夫(みずとう はるお、1916年4月1日 - 199… 水藤 春夫(みずとう はるお、1916年4月1日 - 1991年)は、日本の児童文学者、児童文学研究者。 岡山県生まれ。1939年早稲田大学文学部卒業、中央公論社に入社、児童出版研究課員。48年退社。早大在学中から早大童話会に属し、岡本良雄、町本広、鈴木隆らとともに児童文学の創作、研究を行う。坪田譲治に師事し、「びわの実学校」同人。赤い鳥文学賞選考委員。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
直井 潔(なおい きよし、1915年4月1日 - 1997年… 直井 潔(なおい きよし、1915年4月1日 - 1997年11月23日)は日本の小説家。 広島県広島市に生れ、兵庫県滝川中学卒業後は区役所に勤める。応召により中国戦線に出征して病を得、本土に送還のうえ入院する。全身が「石地蔵のように」硬直する奇病で、現地の風土病に罹患したらしい。以降身体の自由を欠き、寝たきりの生活となって、老母の看護を受けながら療養を余儀なくされる。 病床でつれづれのあまり手に取った『暗夜行路』に感激し、これを暗唱するまで読みこみ、著者志賀直哉に師事せんことを願う。文通によって志賀もその境遇に同情し、読書をはげましながらしきりと小説の執筆をすすめたが、1943年小説『清流』の原稿が手元に送られるに至ってその出来栄えを称揚し、これが直井の文壇へのデビューとなった。
鈴木 鶴雄(すずき つるお、1915年4月1日 - 没年不明… 鈴木 鶴雄(すずき つるお、1915年4月1日 - 没年不明)は、和歌山県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手、一塁手、外野手。
宮本 順三(みやもと じゅんぞう、1915年4月1日 - 2… 宮本 順三(みやもと じゅんぞう、1915年4月1日 - 2004年1月13日)は玩具デザイナー。 1915年大阪府に生まれる。生まれた時の名前は村田順三だった。父の村田兼吉は呉服屋の経営者であるとともに羽織裏の友禅デザイナーでもあった。母が病弱だったことから生まれてすぐに親戚の宮本甲造の養子になった。幼少時から玩具と絵に興味を示していた。彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)に進学し美術部を創部して自身の名前をもじったZUNZOの号を使用した。部活動の他に中之島洋画研究所で学んだ。昭和東北大凶作を憂いて募金集めに絵画即売会を彦根土橋町(現・彦根市銀座町)のマルビシ百貨店で開催したこともある。
吉田 富穂(よしだ とみほ、1915年(大正4年)4月1日 … 吉田 富穂(よしだ とみほ、1915年(大正4年)4月1日 - 1991年(平成3年)12月7日)は、日本の農学者。農学博士(北海道大学)。元専修大学北海道短期大学学長。岩手県水沢市生まれ。1989年勲三等旭日中綬章。 農業機械開発研究の権威で、山田忍の後輩にあたる。同氏に引き続き専修大学北海道短期大学の発展に尽力。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
天野 慶之(あまの けいし、1914年4月1日 - 2002… 天野 慶之(あまの けいし、1914年4月1日 - 2002年10月31日)は、日本の水産学者。東京都町田市出身。 水産講習所(現東京海洋大学)卒。1975年より東京水産大学教授。1977年から1979年まで日本冷凍協会会長。1979年から1985年まで東京水産大学学長。 1953年に発表した『主婦の食品手帖 五色の毒』は、日本で初めて食品添加物の有害性を警告したとされている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
鈴木 聞多(すずき ぶんた、1913年4月1日 - 1939… 鈴木 聞多(すずき ぶんた、1913年4月1日 - 1939年7月10日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。 埼玉県比企郡三保谷村(現在の川島町)に生まれる。父は同村の村長も務めた鈴木庸三で、三人兄弟の末っ子。鈴木家は江戸時代には名主を務めた家で、生家(鈴木家住宅)は国登録有形文化財となっている。 1926年(大正15年)4月、旧制埼玉県立川越中学校(現在の埼玉県立川越高等学校)に入学し、陸上競技に取り組む。旧制中学5年次の1930年(昭和5年)、第16回全国中学校陸上競技選手権大会(インターハイの前身。神戸)に出場、100m(11秒7)と200m(22秒7)で優勝。 1931年(昭和6年)4月、旧制川越中学から慶應義塾大学予科に進学。
黒田 正巳(くろだ まさみ、大正2年(1913年)4月1日 … 黒田 正巳(くろだ まさみ、大正2年(1913年)4月1日 - 没年不詳)は日本の建築学者。熊本大学名誉教授。工学博士。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)栄町出身。 境尋常高等小学校(現・境港市立境小学校)、鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)、旧制松江高等学校理科甲類を経て1938年(昭和13年)、東京工業大学工学部建築学科卒業。 1943年(昭和18年)、熊本高等工業学校(現・熊本大学工学部)教授。 1960年(昭和35年)、工学博士(東京工業大学)。論文は「建築における大きさと形の恒常視に関する実験的研究」。
長谷川 峻(はせがわ たかし、1912年4月1日 - 199… 長谷川 峻(はせがわ たかし、1912年4月1日 - 1992年10月19日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。自由民主党衆議院議員。宮城県栗原郡築館町(現在の栗原市)出身。 旧制宮城県築館中学校(現・宮城県築館高等学校)、早稲田大学専門部政経科卒業後、1933年に九州日報社(現 ・西日本新聞社)に入社。記者として活躍。この頃、緒方竹虎、中野正剛との知遇を得て、両雄の下で政治のイロハを学ぶ。1945年、緒方が東久邇宮内閣の国務大臣に就任すると、その秘書官を務めた。内閣では総理大臣の東久邇宮稔彦王の「国民諸君から直接手紙をいただきたい」との意向のもとで緒方のアイデアにより国民からの投書を募っていたが、稔彦王がすべての手紙を読むわけにもいかず、「平衡感覚を持った人」たる元記者の長谷川が手紙の整理役を務めた。
木辺 宣慈 (きべ せんじ、旧名:成麿(しげまろ)、1912… 木辺 宣慈 (きべ せんじ、旧名:成麿(しげまろ)、1912年4月1日 - 1990年5月2日)は、日本の浄土真宗の僧侶、真宗木辺派21代門主。光学技術者。レンズ磨きの名人として知られ、「レンズ和尚」と呼ばれた。父親は木辺孝慈、母親は醍醐忠敬の娘・静子。長姉の彰子は子爵藤谷為寛の二男・為隆の妻。次姉の弘子は、真宗誠照寺派の28世法主、二条秀淳に嫁いだ。妹の行子は、徳山毛利家の子爵毛利元靖の妻。 父方祖父は大谷光尊、父方伯父叔母に大谷光瑞、大谷尊由、九条武子ら、母方伯父に醍醐忠重がいる。
前川 八郎(まえかわ はちろう、1912年4月1日 - 20… 前川 八郎(まえかわ はちろう、1912年4月1日 - 2010年3月16日)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手、内野手、外野手)・アマチュア指導者。
関屋 光彦(せきや みつひこ、1912年4月1日 ー 199… 関屋 光彦(せきや みつひこ、1912年4月1日 ー 1994年)は、日本の哲学者。 朝鮮京城生まれ。第一高等学校卒、1935年東京帝国大学文学部哲学科卒、同大学院、1939年青山学院中学部教諭、1941年文部省専門学務局学務課嘱託、1943年松本高等学校教授、1949年信州大学文理学部助教授、1950年教授、1951年津田塾大学教授、1954年国際基督教大学教授。1966年退職、1967年東海大学文学部教授、1971年東京女子大学短期大学部教授、1978年定年退職。 聖書研究会を主催した。妻は森有正の妹。松本高校では辻邦生を教えた。
秋田 全一(あきた ぜんいち、1912年4月1日 - 197… 秋田 全一(あきた ぜんいち、1912年4月1日 - 1977年10月28日)は、日本の経営者。大東京火災海上保険社長を務めた。 静岡県出身。1932年に横浜高等商業学校を卒業し、同年に野村證券に入社。 1958年に取締役に就任し、1960年に常務、1964年6月に大東京火災海上保険専務を経て、1966年4月に副社長に就任し、1970年6月には社長に昇格し、1976年7月までに務めた。 1944年8月に勲五等瑞宝章を受章。 1977年10月28日、急性心筋梗塞のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。