徳川 良子(とくがわ よしこ、1906年(明治39年)8月1… 徳川 良子(とくがわ よしこ、1906年(明治39年)8月1日 - 没年不明)は、日本の女優。日活向島・帝国キネマ・新興キネマにそれぞれ所属した。 愛知県名古屋市出身。椙山高等女学校卒業後、1923年(大正12年)に日活向島からデビュー。1930年(昭和5年)に帝国キネマに移籍、新興キネマをへて1935年(昭和10年)まで活躍した。 その後は満洲に渡ったとされるが、詳細は不明。
耕 治人(こう はると、1906年8月1日 - 1988年1… 耕 治人(こう はると、1906年8月1日 - 1988年1月6日)は、日本の小説家・詩人。本名の姓は「たがやす」と読む。 熊本県八代市生まれ。明治学院英文科卒業。千家元麿に師事して詩作を始め、1930年(昭和5年)『耕治人詩集』を上梓する。 戦前の1937年(昭和12年)から川端康成を頼り、1939年(昭和14年)7月には、『文學界』に初めての小説を載せてもらうなど世話になっていた。 戦中の1945年(昭和20年)3月に、左翼思想犯として逮捕される。 戦後、主として私小説を書き始め、長く不遇だったが、1970年(昭和45年)に『一条の光』で読売文学賞、1972年 (昭和47年に『この世に招かれてきた客』で平林たい子文学賞受賞。
本坊 豊吉(ほんぼう とよきち、1905年8月1日 - 19… 本坊 豊吉(ほんぼう とよきち、1905年8月1日 - 1992年1月6日)は、日本の経営者。鹿児島県加世田市出身。 1932年に慶應義塾大学法学部を卒業。長崎自動車、上海食品工業各社長を経て、1961年に薩摩酒造、本坊酒造各社長に就任し、鹿児島放送の設立にも携わり、社長と会長を務め、九州コカ・コーラボトリング社長も務めた。1974年5月に会長を経て、1978年6月から相談役を務めた。「さつま白波」ブランドを育て、焼酎ブームの立役者となった 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1976年4月に勲四等瑞宝章を受章した。 1992年1月6日心不全のために死去。86歳没。
直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 - 2… 直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 - 2005年9月30日)は、日本の画家、禅僧、俳人。 岡山県赤磐郡(現:赤磐市)生まれ、兵庫県の淡路島で育つ。本名は正。大阪美術学校卒業。帝国美術展に初入選後、日展に16回入選する。南画の第一人者。社団法人日本南画院会長・理事長、現代南画協会理事長、財団法人青少年文化研修道場理事、守口市美術協会会長、青玲社主宰、黄檗宗国清寺住職、俳誌「早春」選者などを務める。洲本市名誉市民、守口市名誉市民、南あわじ市名誉市民。 52歳の時、「自然の実相が禅」との柴山全慶老師(当時)の言葉に触れ、禅に傾倒。以来、老師の提唱は欠かさず聞いた。また当時の村瀬玄妙黄檗宗元管長とも幼馴染みで、臨済宗黄檗宗の僧籍をもつ。
杉 勇(すぎ いさむ、1904年8月1日- 1989年11月… 杉 勇(すぎ いさむ、1904年8月1日- 1989年11月25日)は、日本の歴史学者、東京教育大学名誉教授。専攻は古代オリエント史。 1904年、大阪で生まれた。東京帝国大学文学部西洋史学科で学び、1927年に卒業。 卒業後は東京教育大学助教授に就いた。後に教授昇格。1968年に東京教育大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は明治大学教授、跡見学園女子大学教授を務めた。1989年に死去。死去と同時に正四位受勲。
樋端 久利雄(といばな くりお、1903年(明治36年)8月… 樋端 久利雄(といばな くりお、1903年(明治36年)8月1日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、日本の海軍軍人。海兵51期首席、海大甲種33期首席。海軍甲事件で戦死し、一階級特進で最終階級は海軍大佐。 1903年(明治36年)8月1日、香川県白鳥本町(現在の東かがわ市)で農業を営む父・樋端荒吉と母・モトの六人兄弟の第五子、三男として生れる。大川中学校を経て、1920年(大正9年)8月26日、海軍兵学校第51期入校。同期に小園安名、山本祐二、大井篤らがいる。樋端は兵学校の前後数クラスで群を抜いた秀才であり、将来を嘱望されていた。しかし、人柄は一見鋭さを感じさせないもので、思考に集中しているときは口元が締まらずぼんやりしているように見え、特に体力的に恵まれていたわけではなかった。
田中 修吾(たなか しゅうご、1903年8月1日 - 199… 田中 修吾(たなか しゅうご、1903年8月1日 - 1996年12月16日)は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長を務めた。福井県出身。 1924年に小樽高等商業学校を卒業し、同年に大福海上火災保険に入社。1942年に共栄火災海上保険に転じ、1949年5月に取締役に就任し、1958年2月に常務、1965年6月に専務を経て、1970年に副社長に就任し、1973年6月には社長に昇格。1977年7月に会長を経て、1979年7月から相談役を務めた。 1975年11月に勲四等旭日小綬章を受章した。 1996年12月15日老衰のために死去。93歳没。
堂森 芳夫(どうもり よしお、1903年〈明治36年〉8月1… 堂森 芳夫(どうもり よしお、1903年〈明治36年〉8月1日 - 1977年〈昭和52年〉1月13日)は、日本の政治家。位階は正三位。日本社会党所属の衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。医学博士。 福井県出身。1929年(昭和4年)金沢医科大学を卒業。市立敦賀病院内科医長を経て開業医になる。 1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙で福井県から立候補し、定数5名のうち第5位になるが、法定得票数に満たなかったため当選者にならなかった(4位との差は981票)。5月に行なわれた再選挙で福田一(自由党)や中野重治(共産党)らを制し、衆議院議員に初当選した。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙で落選。
西尾 愛治(にしお あいじ、1902年8月1日 - 1990… 西尾 愛治(にしお あいじ、1902年8月1日 - 1990年4月3日)は、日本の政治家。鳥取県知事。 鳥取市出身。九州帝国大学法文学部卒。鳥取県経済部開拓第一課長を経て、1947年の第1回鳥取知事選に立候補して初当選。当時は課長から知事への「三段跳び知事」と話題になった。同年11月、鳥取県に昭和天皇の戦後巡幸があり、随行役を務めた。 1952年の鳥取大火の復興に力を尽くした。2期目の1953年に南米への大量移住を唱え、議会を反対を押し切って5ヶ月にわたる南米視察の外遊をめぐってリコール運動に発展し、任期途中で辞職。出直し知事選で3期目を目指したものの落選し、1963年の鳥取市長選にも出馬したがこちらも落選に終わっている。
横川 信夫(よこかわ のぶお、1901年8月1日 - 197… 横川 信夫(よこかわ のぶお、1901年8月1日 - 1975年11月10日)は、昭和期の農林官僚、政治家。参議院議員(1期)、栃木県知事(公選第4-7代)。 栃木県宇都宮市の出身。宇都宮中学校、第二高等学校理科甲類を経て、1925年東京帝国大学農学部卒業、農林省に入省。青森営林局の技手を振り出しに林野畑を歩き、1939年満洲国林野局計画課長、1944年同林野総局林産課長、1945年東満総省林政庁長となる。 同年、ソ連軍の侵攻によりシベリアに抑留される。1948年に帰国。林野庁に入り、1950年に林野庁長官になる。 退官後の1953年の第3回参議院議員通常選挙全国区に自由党から出馬して当選する。
細井 徳次郎(ほそい とくじろう、1900年 <明治33年>… 細井 徳次郎(ほそい とくじろう、1900年 <明治33年> 8月1日 - 1975年 <昭和50年> 6月5日)は、日本の経営者。明治製菓社長を務めた。位階は従四位。 埼玉県出身。1925年に東京商科大学本科を卒業し、同年に明糖産業に入社。1929年に明治製菓に転じ、取締役、常務、専務、副社長を経て、1964年11月に社長に就任。1970年11月に相談役に就任。 1966年5月に藍綬褒章を受章し、1972年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1975年6月5日心臓衰弱のために死去。74歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
細野 史郎(ほその しろう、1899年8月1日 - 1989… 細野 史郎(ほその しろう、1899年8月1日 - 1989年5月6日)は、日本の医者。東洋医学の発展に貢献した人物の一人。 京都府綾部市出身。1927年京都帝国大学医学部卒業。幕末から明治時代にかけて活躍した浅田宗伯の流れを汲む漢方医学の医師新妻良輔の弟子となり、東洋医学を学んだ。弟子には坂口弘らがいる。1950年に日本東洋医学会が設立され、坂口らとともに参加した。また、漢方エキス製剤の臨床研究を重ね、今日のエキス製剤による漢方治療の道を開いた。
松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月… 松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日)は、日本の登山家、ジャーナリスト、実業家。ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事、東京ロータリークラブ会長。従三位勲一等瑞宝章。松方家第3代当主。本名は義三郎。筆名として後藤 信夫(G.N.)など。 日本の登山界の草分けの一人で、キスリング・ザックを日本に紹介し、その名称を定着させた人物でもある。 父は明治の元勲で第4代、第6代内閣総理大臣の松方正義。兄は川崎造船所(現・川崎重工)、川崎汽船、国際汽船などの社長を務めた松方幸次郎(幸次郎は三男、義三郎は十五男の末子である)。
瀬戸 道一(せと みちかず、1899年(明治32年)8月1日… 瀬戸 道一(せと みちかず、1899年(明治32年)8月1日 - 1974年(昭和49年)10月17日)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡南道知事、京畿道知事。 瀬戸新左衛門の六男として広島県に生まれる。1924年(大正13年)東京帝国大学法学部独法科を卒業し高等試験に合格。同年朝鮮総督府に出仕し、全羅北道内務部学務課長、同地方課長、江原道財務部長、京畿道財務部長、新義州税関長、江原道警察部長、平安南道警察部長、慶尚北道内務部長、京畿道警察部長などを経て、1942年(昭和17年)4月、咸鏡南道知事に就任した。のち京畿道知事となった。
伊藤 熹朔(いとう きさく、1899年8月1日 - 1967… 伊藤 熹朔(いとう きさく、1899年8月1日 - 1967年3月31日)は、日本の舞台美術家、美術監督である。伊藤熹朔賞に名を残す。 1899年(明治32年)8月1日、東京市神田区(現東京都神田)三崎町に建築家伊藤為吉の四男として生まれる。兄に舞踊家の伊藤道郎、弟に演劇人の千田是也、妹暢子はのちに画家の中川一政を夫とした。 旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学、在学中から土方与志の模型舞台研究所に参加した。1923年(大正12年)に同校を卒業し、1924年(大正13年)、『ジュリアス・シーザー』の装置で舞台美術家としてデビューする。その後、築地小劇場、分裂後の劇団築地小劇場、築地座、新協劇団などの舞台美術を手がけ、舞台美術の先駆者となる。
浜田 幸雄(濱田 幸雄、はまだ たかお、1898年8月1日 … 浜田 幸雄(濱田 幸雄、はまだ たかお、1898年8月1日 - 1974年3月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)、参議院議員(1期)。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。位階は従三位、勲等は勲二等。
大内 経雄(おおうち つねお、1898年〈明治31年〉8月1… 大内 経雄(おおうち つねお、1898年〈明治31年〉8月1日 - 1966年〈昭和41年〉12月27日)は、日本の経営学者。 宮城県生まれ。東北帝国大学経済学部卒。1960年「欧米に於ける現場監督制度の研究」で東北大学経済学博士。立教大学経済学部教授、1964年定年、名誉教授、青山学院大学教授。1964年『フォアマン制度の研究』で日経・経済図書文化賞受賞。
蔵内 数太(くらうち かずた、1896年8月1日 - 198… 蔵内 数太(くらうち かずた、1896年8月1日 - 1988年7月6日)は、日本の社会学者。 岡山県後月郡西江原村(現井原市西江原町)出身。興譲館中学校、第六高等学校を経て、1920年東京帝国大学文科大学哲学科社会学専修卒。文部省嘱託を経て、1935年九州帝国大学教授、1947年「分科社会学」で東京大学文学博士。1948年大阪大学教授、1960年定年退官、名誉教授、関西学院大学教授、1967年追手門学院大学教授。教育社会学から出発して、後に社会学理論の研究に進み、日本思想や東洋思想をふまえた独自の理論体系を構築した。
木舎 幾三郎(きや いくさぶろう、1896年8月1日 - 1… 木舎 幾三郎(きや いくさぶろう、1896年8月1日 - 1977年2月8日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家。号(別名):湘南隠士。 現在の広島県府中市出身。真言宗京都大学(現・種智院大学)を卒業後、時事新報記者を経て、1930年『政界往来』を創刊。戦後、公職追放となるが、追放解除後の1952年に「政界往来」を株式会社化し社長に就任する。近衛文麿の私設秘書でもあった。1977年に死去した。 1928年と1930年の総選挙で郷里の広島3区(当時)から立憲政友会公認で立候補したがいずれも落選した。
久野 朔郎(くの さくろう、1896年(明治29年)8月1日… 久野 朔郎(くの さくろう、1896年(明治29年)8月1日 - 1968年(昭和43年)9月6日)は、日本の英語学者。 愛知県出身。1918年第八高等学校卒。東京帝国大学文学部英吉利文学科にて市川三喜に師事し1921年卒業。1922年4月–1946年3月学習院大学教授、1950年3月愛知女子短期大学教授、1957年4月–1965年3月愛知県立女子大学教授、1958年4月–1964年7月同学長、1965年4月–1968年立正大学大学院英文学専攻教授。久野昭、小笠原暁、久野暲は息子。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
本間 精(ほんま きよし、1895年8月1日 - 1948年… 本間 精(ほんま きよし、1895年8月1日 - 1948年9月1日)は、昭和時代の内務・警察官僚。官選の秋田県知事、岡山県知事、福岡県知事。 本間啓太郎(農林省勅任技師)の長男として生まれる。横浜一中、第二高等学校を経て、1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年9月、大学院に進み経済行政を専攻した。 1920年(大正9年)7月、神奈川県属となり内務部地方課に配属。同年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年(大正10年)8月、神奈川県警視に就任し、以後、沖縄県内務部学務課長、山口県内務部学務兵事課長、群馬県書記官・警察部長、山口県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、栃木県内務部長、広島県書記官・内務部長、警視庁警務部長、北海道庁総務部長などを歴任。
原田 義和(はらだ よしかず、1895年8月1日 - 197… 原田 義和(はらだ よしかず、1895年8月1日 - 1973年6月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
清水 董三(しみず とうぞう、1893年〈明治26年〉8月1… 清水 董三(しみず とうぞう、1893年〈明治26年〉8月1日 - 1970年〈昭和45年〉12月8日)は、日本の外交官、書家、教育者。書画家として号を東翠。兄は画家の清水登之。 栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)出身。1915年東亜同文書院政治科卒。1919年東亜同文書院教授(中国語担当)。1929年外務省嘱託、1933年外務省翻訳官、1943年中華民国大使館一等書記官。1946年同大使館参事官、1955年中華民国台北大使館公使、1956年外務審議官。1959年外務省退官、その後は外務省、日本クラブなどで書画を教えた。
藤森 静雄(ふじもり しずお、1891年8月1日 - 194… 藤森 静雄(ふじもり しずお、1891年8月1日 - 1943年5月28日)は、日本の版画家。 福岡県久留米市生まれ。白馬会原町洋画研究所に入り、東京美術学校予備科西洋画科志望に入学後、1914年に田中恭吉や恩地孝四郎とともに版画誌『月映』を刊行した。東京美術学校をその2年後に卒業し、福岡で中学校の教師を務めた。1922年に『詩と版画』の同人となり、1937年から日本版画協会の常任理事・事務を担当した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
渡辺 泰邦(渡邊 泰邦、わたなべ やすくに、1891年(明治… 渡辺 泰邦(渡邊 泰邦、わたなべ やすくに、1891年(明治24年)8月1日 - 1949年(昭和24年)10月5日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。旧名・長一郎。 北海道函館区船見町(現函館市)で渡辺長蔵の長男として生まれる。早稲田実業学校を経て、早稲田大学政治経済科専門部で学んだ。 その後、函館新聞記者となる。1914年、家督を相続し「泰邦」と改名。函館区会議員、函館市会議員を務める。政治家としての見識を広げるため、1923年から1928年まで、中国、蒙古、インドを経てヨーロッパ、アメリカ合衆国を視察した。 1930年、函館市で興民会を組織し、機関誌『興民』を発刊した。同年2月、第17回衆議院議員総選挙で北海道第三区から出馬して当選し、立憲民政党に所属。
那波 利貞(なば としさだ、1890年〈明治23年〉8月1日… 那波 利貞(なば としさだ、1890年〈明治23年〉8月1日 - 1970年〈昭和45年〉10月20日)は、日本の東洋史学者、文学博士、京都大学名誉教授。誠軒と号す。 1890年、徳島県徳島市生まれ。生家は江戸初期以来の藩儒の家柄。11代前の那波道円(号は活所、1595年-1648年)は紀州藩に仕え、道円の子の那波元成(号は木庵、1614年-1683年)には『老圃堂詩集』の著書がある。5代前の那波師曾(字は孝卿、号は魯堂、1727年-1789年)は春秋の学を修め、『左伝標例』の著書があり、阿波藩に使えた。以後、那波家は、利貞の父、那波韋(字は緩卿、号は蜆北)まで、代々阿波藩に藩儒として仕えた。 1898年(明治31年)、利貞が8歳の時、父の韋が亡くなり、利貞は母の旧姓多賀氏より経学の教えを受けた。
林 路一(はやし ろいち、1890年8月1日 - 1938年… 林 路一(はやし ろいち、1890年8月1日 - 1938年6月27日)は、日本の政治家。正五位勲四等、衆議院議員。 1890年(明治23年)8月1日、山口県にて、明治政府の地価調査事業に際し賀見畑村地主総代人として官命を果たした先代・福蔵の長男として生まれる。 2歳の時に福蔵の破産と、福蔵の弟である清輔一家の屯田兵家族としての移住に伴い父母に伴われて北海道上川郡当麻村(現 当麻町)に移住。1907年(明治40年)、17歳の時に日給45銭の同村役場臨時雇となり、後昇任して、1919年(大正8年)に28歳にして同村の村長となった。その後8年にわたり村長を務め、役場職員の時代を含めると20年にわたり村政に携わったこととなる。
一湊 政五郎(いちみなと まさごろう、1890年8月1日 -… 一湊 政五郎(いちみなと まさごろう、1890年8月1日 - 1945年12月14日)は、秋田県北秋田郡森吉町(現・北秋田市)出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は久住 政五郎。174cm、92kg。最高位は東前頭4枚目。 1909年1月初土俵、入門時は仙台地方の草相撲の大関で、上京して横綱常陸山の門弟となる。地道に昇進して1916年1月十両昇進。2場所連続で勝ち越して1917年1月入幕。右四つからの上手投げを得意技とする相撲巧者で、堅実な取り口には定評があった。1918年5月場所には自己最高位の東前頭4枚目まで進んだ。しかし以降は振るわず、1920年5月場所十両に陥落し、翌1921年1月場所で廃業した。
佐野 隆一(さの りゅういち、1889年8月1日 - 197… 佐野 隆一(さの りゅういち、1889年8月1日 - 1977年5月29日)は、日本の実業家・慈善家。自身が設立した鉄興社(現・東北東ソー化学)を日本有数の総合電気化学メーカーに成長させ、社長・会長を務めた。また、自身が蒐集した古美術品をもとに佐野美術館を設立したほか、出身地の三島市にたびたび寄付を行い、図書館や学校、福祉施設などの開設に貢献した。「三島のお父さん」と呼ばれ、三島市名誉市民(第1号)に推挙されている。静岡県田方郡三島町(現・三島市)出身。 1889年(明治22年)8月1日、静岡県田方郡三島町久保町(現・三島市中央町)の商家に生まれた。父親は佐野米吉、母親はたみであり、実家は秋月堂という和菓子舗を営んでいた。
古川 静夫(ふるかわ しずお、1888年(明治21年)8月1… 古川 静夫(ふるかわ しずお、1888年(明治21年)8月1日 - 1967年(昭和42年)5月27日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 鹿児島県日置郡日置村麓(現在の日置市日吉町日置)出身。古川直衛の三男として生まれた。第七高等学校造士館を首席で卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し静岡県警部となる。 以後、静岡県引佐郡長、同県磐田郡長、同県産業課長、熊本県学務課長、兵庫県学務課長、京都府学務課長、栃木県書記官・警察部長、福岡県学務部長、警視庁書記官・保安部長、同警務部長、同官房主事、神奈川県内務部長などを歴任。
迫 栄吉(さこ えいきち、1888年(明治21年)8月1日 … 迫 栄吉(さこ えいきち、1888年(明治21年)8月1日 - 1953年(昭和28年)1月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 鹿児島県姶良郡、のちの加治木町(現姶良市)出身。陸軍経理学校第4期主計候補生として1910年(明治43年)5月24日に卒業した。1934年(昭和9年)6月28日に陸軍省経理局監査課長に就任し、8月1日に陸軍一等主計正に進級した。1937年(昭和12年)8月に第1軍経理部長に就任し、日中戦争に出動した。 1938年(昭和13年)7月に陸軍主計少将に進級し、1939年(昭和14年)8月に関東軍倉庫長に転じた。1941年(昭和16年)8月25日に陸軍主計中将に進級し、12月1日に陸軍経理学校長に就任。
安達 十九(あだち じゅうく、1886年(明治19年)8月1… 安達 十九(あだち じゅうく、1886年(明治19年)8月1日 - 1951年(昭和26年)7月20日)は、日本の陸軍軍人。陸軍科学研究所第二部長を務め、階級は陸軍中将に至る。陸軍教授安達松太郎の子で、兄に安達十六陸軍少将、弟に第18軍司令官安達二十三陸軍中将が、義理の叔父に陸軍大臣石本新六陸軍中将男爵がいる。石本寅三陸軍中将・石本五雄陸軍少将は従兄弟。 東京に生まれ陸軍士官学校に学ぶ。1905年(明治38年)11月25日卒業し、1906年(明治39年)6月26日陸軍工兵少尉に任官される。士官候補生第18期の安達の同期には山下奉文大将・岡部直三郎大将・藤江恵輔大将・阿南惟幾大将・山脇正隆大将らがいる。
加納 久朗(かのう ひさあきら、1886年〈明治19年〉8月… 加納 久朗(かのう ひさあきら、1886年〈明治19年〉8月1日 - 1963年〈昭和38年〉2月21日)は、日本の銀行家、政治家。子爵。千葉県一宮町出身。元千葉県知事、元国際決済銀行取締役、副会長。父は、最後の上総国一宮藩主であった加納久宜。 1886年8月1日、子爵加納久宜・文子の次男として東京府小石川の私邸に生まれる。兄・久元は夭逝していたため、事実上の嫡男であった。 1894年、県知事に任命された父に従い鹿児島県に移り、その後現地に赴任してきたアメリカ・オランダ改革教会宣教師ピークから英語とキリスト教を弟の久憲とともに学ぶ。 1900年、久宜が鹿児島県知事の業務を辞して一家は東京へ戻り、父が設立に関わった学習院中等科へ編入した。
加藤 俊夫(かとう としお、1885年〈明治18年〉8月1日… 加藤 俊夫(かとう としお、1885年〈明治18年〉8月1日 - 1943年〈昭和18年〉6月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。広島市会議長(19代)。広島市会副議長(27代)。 愛媛県新居郡新居浜村(現在の新居浜市)出身。加藤省吾の長男。 東京正則中学校、日本大学専門部法律科を修業。1908年より広島市に出て、日の丸電線株式会社広島出張所を経営するなどし、さらに広島市場信用組合専務理事を務めた。 1921年、広島市会議員に当選、同副議長、同議長、広島県会議員、同議長を歴任する。1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では広島1区(当時)から非推薦で立候補して当選した。当選後は翼賛政治会に入り、大政翼賛会広島県協力会議長、同中央協力会議員となった。
木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年(明治18年)… 木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年(明治18年)8月1日 - 1945年(昭和20年)10月15日。本名:太田正雄)は、静岡県出身の詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家。 東京帝国大学医科大学で学ぶ傍ら「パンの会」を興し、これと前後して『明星』『中央公論』『スバル』『白樺』で、詩のほか短歌・戯曲・小説などを発表。作風は南蛮情緒的、切支丹趣味、耽美享楽的などと評された。のち、自費によるヨーロッパ留学を経て愛知医科大学、東北帝国大学、東京帝国大学の医学部教授を歴任し、傍らで文明批評や随筆紀行を著述した。筆名はほかに、堀花村(ほりかそん)、地下一尺生、葱南(そうなん)、北村清六などがある。
永松 利熊(ながまつ としくま、1885年(明治18年)8月… 永松 利熊(ながまつ としくま、1885年(明治18年)8月1日 - 1955年(昭和30年)1月13日)は、昭和時代に活動した日本の実業家。 日本興業銀行出身。大同電力常務取締役、次いで日本発送電理事となり経理部門を担当した後、藤田組(現・DOWAホールディングス)常務取締役、日産火災海上保険(現・損害保険ジャパン)社長を務めた。鹿児島県生まれ。 永松利熊は1885年(明治18年)8月1日、鹿児島県薩摩郡永野村(現・さつま町)で士族永松愛熊の長男として生まれた。1908年(明治41年)に長崎高等商業学校を卒業。はじめ専売局へと入るが、1916年(大正5年)に退官し、株式会社日本興業銀行(興銀)に転じた。
近藤 由太郎(こんどう よしたろう、1884年(明治17年)… 近藤 由太郎(こんどう よしたろう、1884年(明治17年)8月1日 - 1965年(昭和40年)2月17日)は、日本の政治家、実業家、福井県大野町長、呉服店店主。 福井県南条郡武生町(現:越前市)の老舗呉服屋とがのや呉服店店主・古市幸助の三男として生まれた。1910年(明治43年1月)、大野町のこちらも老舗呉服屋あらごろ呉服店の店主で後に福井県会議員となる近藤金次郎の婿養子となり、店舗を一任される。 他に北陸絹布株式会社取締役、大越木材工業社長、大野町商工会議所の会頭を歴任し、1947年(昭和22年)4月に戦後初の市町村選挙にて大野町長に就任する。戦後の復興に力を注ぎ、1952年(昭和27年)10月に引退。
井下 清(いのした きよし、1884年8月1日 - 1973… 井下 清(いのした きよし、1884年8月1日 - 1973年8月8日)は、日本の造園家。長く東京市の公園課長をつとめ、東京内の公園緑地を多く生み出し、東京の公園行政の基礎を築いた。また、東京高等造園学校およびその後身である東京農業大学を通じて多くの造園人材者を養成した。 京都府愛宕郡聖護院村(現・京都市左京区)に、陸軍軍医・井下気一の子として生まれる。母親は京都の旧家の出。 1905年(明治38年)7月に東京高等農学校(後の東京農業大学)本科を卒業した。農学校に入学する前は高等工業学校の選科生をしていたが、母方のつてで農学校に入学。縁戚に灘の酒造家がいて、自身も醸造を志していたが、夜学で通っていた英語学校がメソジスト系だったため禁酒論をたたき込まれたのと、同級に内村鑑三の内弟子であった長崎渉(後に月寒牧羊場長)がいて親しかったことから、「酒造りは悪魔の業」という考えになり、子供時代から好きな途であった園芸に転向した。
小柳 篤二(おやなぎ とくじ、1883年〈明治16年〉8月1… 小柳 篤二(おやなぎ とくじ、1883年〈明治16年〉8月1日 - 1985年〈昭和60年〉12月23日)は、日本のドイツ文学者、ドイツ語学者。元東京高等学校独語主任教授、元早稲田大学教授。日出学園名誉園長。 新潟県新潟区学校町通(現 新潟市中央区学校町通)出身。1903年(明治36年)3月に新潟中学校を卒業、9月に第一高等学校大学予科理科に入学するも、病気で中退。 新潟中学校の5年先輩の櫻井天壇の所によく遊びに行き、ゲーテやシラーの話を聞いたり、ドイツ語の詩を教えられたりしたことがきっかけで、ドイツ語の道に入ろうと思うようになる。 1909年(明治42年)3月に東京外国語学校独語学科を卒業、1912年(明治45年)に東京帝国大学文科大学文学科選科を修了。
八木 林作(やぎ りんさく、1883年(明治16年)8月1日… 八木 林作(やぎ りんさく、1883年(明治16年)8月1日 - 1974年(昭和49年)6月11日)は、日本の内務官僚。官選島根県知事、尼崎市長。 京都府天田郡出身。八木新造の六男として生まれる。第三高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、北海道庁事務官補・同理事官、栃木県理事官、兵庫県事務官、朝鮮総督府道事務官、山梨県警察部長、高知県内務部長、石川県内務部長、兵庫県書記官・警察部長、長崎県書記官・内務部長などを歴任。 1927年5月、島根県知事に就任。1928年7月、第四次産業計画を決定。
石原 謙(いしはら けん、1882年8月1日 - 1976年… 石原 謙(いしはら けん、1882年8月1日 - 1976年7月4日)は、日本の歴史学者。日本学士院会員。専門は神学史、キリスト教史。 1882年、東京市本郷区本郷4丁目39番地に本郷教会牧師石原量、母ちせの次男として生まれた。「少年の頃既に聖書を教えられ、中学四、五年の頃その研究に少なからず興味を覚えて、その頃受洗」(『石原謙著作全集』11巻214頁)したと、牧師である父の強い影響でキリスト教信仰を持ったことを記している。洗礼は1900年1月7日、18歳の時数寄屋橋教会(現日本基督教団巣鴨教会)の田村直臣牧師から受けた。 早稲田中学を経て、1901年(明治34年)7月一高に入学し、1903年に最初の論文「ナザレの聖者を論ず」を書いた。
会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年… 会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年〈明治14年〉8月1日 - 1956年〈昭和31年〉11月21日)は、日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人・渾斎。1951年に新潟市名誉市民。 早大英文科卒。奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、『南京新唱』(1924年)を刊行。のち上京、早大教授となり、「東洋美術史」等を講じた。晩年は新潟市に戻り、書に専念。歌集に『鹿鳴集』(1940年)など。 新潟県新潟市古町通五番町に生まれる。中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。1900年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。
鍵和田 良平(かぎわだ りょうへい、明治14年(1881年)… 鍵和田 良平(かぎわだ りょうへい、明治14年(1881年)8月1日 - 昭和31年(1956年)7月24日)は、日本の工学者。 電気起重機の発明で有名。 神奈川県足柄下郡足柄村(現・小田原市)出身。父は明治13年(1880年)頃に村長を務めた。明治40年(1907年)に京都帝国大学機械工学科を卒業した。すぐに芝浦製作所に入所し、設計係となった。明治44年(1911年)に石川島造船所に転じ、多くの発明を行った。昭和3年(1928年)9月に昭和肥料会社理事に就任した。 1956年7月24日、脳出血のため東京都渋谷区青葉町の自宅で死去。 娘の貴代は、子爵の堤経長と結婚した。
原田 維織(はらだ いおり、1880年(明治13年)8月1日… 原田 維織(はらだ いおり、1880年(明治13年)8月1日 - 1953年(昭和28年)11月14日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事。 鹿児島県姶良郡加治木町(現在の姶良市)出身。原田経治の長男として生まれた。第七高等学校造士館を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省を経て、1910年、内務省に転じ福井県属兼同県警視となる。 以後、福井県今立郡長、同県敦賀郡長、青森県警察部長、北海道庁土木部長、福岡県内務部長、熊本県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長、長野県書記官・内務部長などを歴任。 1928年2月、三重県知事に就任。
阿部 栄之助(あべ えいのすけ、1880年8月1日 - 19… 阿部 栄之助(あべ えいのすけ、1880年8月1日 - 1954年4月26日)は、日本の郷土史研究家である。岐阜県の郷土史研究に従事。岐阜大学学芸学部講師。 長野県小県郡滋野村(現・東御市)に生まれる。長野師範学校在学中、小諸義塾の教師として赴任していた島崎藤村に英語を学ぶ。1908年、東京高等師範学校を卒業。東京高師では三宅米吉に師事。卒業後は、岐阜師範学校教諭となる。以後、岐阜県の歴史研究を志し、1915年「濃飛仏教史綱」(『岐阜県教育会雑誌』(途中から『岐阜県教育』に改題)に連載)を発表し、1923~1924年に『濃飛両国通史』(上下2冊)の大著を刊行。 1922年、岐阜県立恵那中学校(現在の岐阜県立恵那高等学校)が創設されると、初代校長に就任。
米沢 与三七(よねざわ よそしち、1879年(明治12年)8… 米沢 与三七(よねざわ よそしち、1879年(明治12年)8月1日 - 1966年(昭和41年)5月9日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。子に電電公社総裁を務めた米沢滋がいる。 富山県に生まれる。1906年(明治39年)東京帝国大学電気工学科卒業後、逓信省に入り、通信技手、同技師、名古屋郵便局電話課長、鹿児島郵便局工務課長などを経て、1920年(大正9年)逓信省臨時電話局第3課長、工務局電話課長、工務局長となる。この間欧米留学、1932年(昭和7年)にはマドリードの万国無線会議に政府代表委員として出席した。1934年(昭和9年)退官すると、日本放送協会理事、技術局長、電波技術協会会長などを歴任した。
家坂 幸三郎(いえさか こうさぶろう、1878年(明治11年… 家坂 幸三郎(いえさか こうさぶろう、1878年(明治11年)8月1日 - 1952年(昭和27年)10月24日)は、日本の医師。ハンセン病療養所である国立療養所宮古南静園、国立療養所沖縄愛楽園所長を務めた。クリスチャンで、現在でも宮古南静園に教会がある甦生会(よみがえりのかい)を結成した。 1878年、新潟県見附市に出生。早稲田大学の前身、東京専門学校、英語政治科卒業。外交官になりたかったが、既に医師になっていた五兄の勧めにより医学に進む。1906年に熊本医学専門学校を卒業後、同校実習病院、牧野研究所(東京)、芦屋町立病院(福岡県)に勤めた。1922年、沖縄県衛生技師としてマラリア予防に従事、1930年にアメリカの大学から沖縄県に「沖縄におけるらい事情」についての照会があったが、家坂が書いた報告書は高い評価をうけ、これを基にした論文で細菌学博士を贈られた。
安倍 仲雄(あべ なかお、1877年(明治10年)8月1日 … 安倍 仲雄(あべ なかお、1877年(明治10年)8月1日 - 1942年(昭和17年)2月5日)は日本の内科医。医学博士。 秋田県北秋田郡阿仁前田村出身。医師安倍全庵の長男として生まれる。 秋田師範学校附属小学校、秋田尋常中学校、第四高等学校を出た後、1902年(明治35年)京都帝国大学医科大学を卒業。そのまま大学院で学び、同大学助手、助教授を務めた。 京都市衛生技師を経て1909年(明治42年)には満洲に渡り南満州鉄道医長に就任。数々の論文を著し、1910年(明治43年)医学博士の学位を得、1911年(明治44年)南満医学堂教授となる。 1912年(明治45年)から1914年(大正3年)までアメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、スイス、イタリア、オーストリア等の欧米諸国に遊学し、医療・衛生事情を巡察。
西田 博太郎(にしだ ひろたろう、1877年8月1日 - 1… 西田 博太郎(にしだ ひろたろう、1877年8月1日 - 1953年1月26日)は、日本の染色学者。 東京府東京市下谷(現・東京都台東区)出身。父の転任で島根県松江市に転居し、松江中学校でラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に英語を習う。山口高等学校を経て1901年東京帝国大学工科大学応用化学科卒業。1903年からイギリス・ドイツに留学し、マンチェスターの高等工芸学校、フランクフルトの染料会社、ミュールハウゼンの化学専門学校で染色化学を研究し、1905年8月に帰国。 名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)教授を経て、1909年に日本セルロイド人造絹株式会社(現ダイセル)に工務部長として入社、網干工場において人造絹糸(レーヨン)製造の研究に当たった。
松本 義一郎(まつもと よしいちろう、1877年〈明治10年… 松本 義一郎(まつもと よしいちろう、1877年〈明治10年〉8月1日 - 没年不詳)は、明治初期から昭和初期にかけて活動した実業家。松本家第8代当主。掛川葛布商会会長。掛川銀行取締役。 松本家は江戸時代中期から掛川城下で「松屋」の屋号で葛布の販売を行っていた商家であった。松本家は19世紀には掛川藩から御用達に任じられ、帯刀と苗字の使用が許されていた。 松本義一郎は第7代松本家当主松本文治の婿養子として城東郡の名家であった黒田家(黒田源五郎3男)から1879年(明治12年)2月に入籍していた。しかし、文治が39歳の若さで亡くなると、1881年(明治14年)11月松本家当主となった。1882年(明治15年)、義一郎は城内農学社に製糸工場(資本金1万円)の設立の話が持ち上がると、6名の上位出資者に名を連ねて、豊田郡深見村の分社にも出資した。