安藤 庄平(あんどう しょうへい、1933年9月2日 - 2… 安藤 庄平(あんどう しょうへい、1933年9月2日 - 2011年5月20日)は、日本映画のキャメラマン、映画特撮監督。 東京都目黒区出身。日活で姫田真佐久のキャメラマン助手を務め、後にキャメラマンとなる。ロマンポルノ初期では小柳深志という変名を使っていた。 2011年5月20日、心不全のため東京都内の病院で死去。77歳没。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鶴岡 洋(つるおか ひろし、1932年〈昭和7年〉9月2日 … 鶴岡 洋(つるおか ひろし、1932年〈昭和7年〉9月2日 - 2021年〈令和3年〉2月10日)は、昭和から平成期の政治家。衆院で1期、参院で4期計27年間務めた。 千葉県印旛郡酒々井町出身。千葉県立佐倉高等学校を経て1957年(昭和32年)早稲田大学商学部卒業。同年、日野自動車に入社し、その後、西武鉄道、国土計画で勤務した。公明党参議院議員辻武寿、同北条浩、衆議院議員竹入義勝、同斎藤実の各議員秘書、公明党衆参両院事務局長を務めた。 1969年(昭和44年)第32回衆議院議員総選挙に公明党公認で旧千葉2区から立候補し、初当選。1期務める(1972年および1976年では落選)。 1980年(昭和55年)第12回参議院議員通常選挙に旧全国区へ鞍替え立候補し当選。
佐藤 重臣(さとう しげちか、1932年9月2日 - 198… 佐藤 重臣(さとう しげちか、1932年9月2日 - 1988年2月27日)は、日本の映画雑誌編集者、映画評論家、映画コレクター、映画上映活動家である。「アングラのジューシン」と呼ばれた。
藤渡 辰信(ふじと たつのぶ、1932年9月2日 - 201… 藤渡 辰信(ふじと たつのぶ、1932年9月2日 - 2016年9月26日)は、元拓殖大学総長、前学校法人拓殖大学理事長。拓殖大学卒業、拓殖大学大学院修了。佐賀県出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
稲生 永(いのう ひさし、1932年9月2日 - )は、日本… 稲生 永(いのう ひさし、1932年9月2日 - )は、日本のフランス文学者。立教大学名誉教授。ジェラール・ド・ネルヴァルを専門としたが、古典音楽に趣味が深い[要出典]。 大阪府吹田市生まれ。1957年東京大学文学部仏文科卒業。1962年から1964年までフランス政府給費留学生としてパリ大学に留学。1965年東京大学大学院博士課程中退。同年、同大学文学部助手、1966年明治学院大学専任講師、1969年同大学助教授。1970年立教大学文学部助教授、1975年同教授。1998年同大学定年退職、名誉教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小松崎 邦雄(こまつざき くにお、1931年9月2日 - 1… 小松崎 邦雄(こまつざき くにお、1931年9月2日 - 1992年12月28日)は、東京都出身の画家。浦和画家のひとり。 日暮里に生まれ、9歳の時、浦和で料亭を営んでいた叔母の縁で浦和市高砂町に転居。浦和中学校(現埼玉県立浦和高等学校)に入学し、2年生だった14歳の時に高田誠につきデッサン、油彩を学んだ。 東京芸術大学油画科に入学すると高田の師であった安井曾太郎の教室に入った。翌年に安井が退職したため林武の教室に入った。大学卒業後、同大学油絵専攻科に進み、一水会への出品が始まった。東京芸術大学講師も務めた。
山本 進(やまもと すすむ、1931年9月2日 - 2022… 山本 進(やまもと すすむ、1931年9月2日 - 2022年11月4日)は、日本の落語研究家、芸能研究家。諸芸懇話会会員。 兵庫県に生まれ、横浜市で育つ。1954年東京大学法学部卒業。日本放送協会に勤務し、職員局人事部副部長、秘書室担当部長、同室次長、85年監事事務局長を経て退職し、のち日本放送出版協会監査役。東大落語研究会OBで、かたわらゴーストライター、聞き書きの名手として、6代目三遊亭圓生の全集や著書を編集、執筆。退職後はさらに活発に、落語を中心とする芸能の研究と著述活動をおこなっている。2013年、第19回横浜文学賞受賞。[要出典] 6代目三遊亭圓生没後、山崎はな(6代目圓生未亡人)・稲葉修・京須偕充・5代目三遊亭圓楽とともに、「三遊亭圓生」の名跡を止め名にするという連名の署名人の一人となっていた[要出典]。
大塚 敏文(おおつか としふみ、1931年9月2日 - 20… 大塚 敏文(おおつか としふみ、1931年9月2日 - 2001年12月16日)は、日本の医学者、医師。専門は救急医学、外傷外科学、外科学。学位は、医学博士。 元日本医科大学理事長、元日本医科大学主任教授、元日本医科大学付属病院病院長。 日本医科大学第一外科学教室入局後、日本医科大学付属病院救急医学科(現在の救命救急科)に勤務。 日本医科大学救急医学教室の初代主任教授に就任後は、日本医科大学付属病院病院長、日本医科大学理事長を歴任した。後任の主任教授は山本保博。 日本救急医学会理事長、救命救急士国家試験委員会委員長を務めた。 2001年12月16日、急性呼吸不全のため死去。
佐橋 慶女(さはし けいじょ、1930年9月2日 -2020… 佐橋 慶女(さはし けいじょ、1930年9月2日 -2020年12月27日)は、日本のエッセイスト。 愛知県出身。本名・恆苑(浄土宗僧侶)。愛知県立女子専門学校(現・愛知県立大学)英文科卒。中日新聞記者となり、1963年3月に日本で初めての女だけの会社「アイディア・バンク」を設立。 1969年より佐橋慶の名で著書を刊行、のち慶女と名乗る。 1971年に日本の生活文化を伝承するための「傳承塾」を始める。1976年出家、1984年『おじいさんの台所』で日本エッセイストクラブ賞を受賞し、3回にわたってテレビドラマ化された。 後年は高齢問題に取り組み、「オパール・ネットワーク」を主宰した。
今井 宏(いまい ひろし、昭和5年(1930年)9月2日 -… 今井 宏(いまい ひろし、昭和5年(1930年)9月2日 - 平成14年(2002年)10月16日)は、日本の歴史学者。専門はイギリス近代史。東京女子大学名誉教授。 1930年、大阪府で生まれた。。東京大学大学院文学研究科西洋史学専攻に進み、1958年に博士課程を満期退学。 1958年より41年間、東京女子大学で教鞭をとった。1999年に東京女子大学を定年退職し、名誉教授となった。2002年10月16日、リンパ腫のため死去 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
迎 靜雄(むかえ しずお、1928年9月2日 - 2010年… 迎 靜雄(むかえ しずお、1928年9月2日 - 2010年11月3日)は、九州工業大学第8代学長で、株式会社北九州テクノセンター代表取締役社長、学校法人九州国際大学理事長を歴任。 1928年福岡県に生まれ、1948年3月明治工業専門学校(現:九州工業大学)冶金科、1952年3月九州大学工学部冶金学科を卒業後、1957年3月九州大学大学院研究奨学生前後期を修了し、1958年7月に九州工業大学講師として母校の教壇に立つ。その後1960年4月助教授、1970年4月教授と、九州工業大学で29年に亘って溶接工学、特に鋼及びアルミニウム合金溶接部の金属学的特性に関する教育研究に尽力する。これらの研究成果は軽金属溶接構造協会賞、溶接学会賞、日本溶接協会業績賞及び嘉村記念賞などで高く評価され、溶接学会会長などの要職を歴任する。
岩佐 義朗(いわさ よしあき、1928年(昭和3年)9月2日… 岩佐 義朗(いわさ よしあき、1928年(昭和3年)9月2日 - 2013年(平成25年)3月20日)は、昭和から平成時代の土木工学者。京都大学名誉教授。専門は水工学、河川工学。 1951年(昭和26年)京都大学土木工学科卒業。 建設省に入省し、河川局治水課、土木研究所を経て、1953年(昭和28年)京都大学助手に転じる。ついで、1954年(昭和29年)同大講師、1955年(昭和30年)助教授を経て、1964年(昭和39年)教授に進んだ。1992年(平成4年)退官し、地球工学研究会会長となった。 ほか、1965年(昭和40年)マサチューセッツ工科大学客員教授、1979年(昭和54年)水理委員会委員長、国際水資源学会副会長、国際水理学会副会長(同名誉会員)、日本学術会議第13・14期会員、土木学会関西支部長、同学会長などを歴任した。
京極 興一(きょうごく おきかず、1927年9月2日 - 2… 京極 興一(きょうごく おきかず、1927年9月2日 - 2009年6月23日)は、日本の国語学者。 長野県上水内郡戸隠村(現・長野市)の戸隠神社宮司の家に生まれる。1951年(昭和26年)、東京大学文学部国文学科卒業。1975年(昭和50年)、信州大学教育学部教授に就任、1993年(平成5年)に退官した。同年より上田女子短期大学学長を務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、言語学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 言語学)。
吉野 龍男(よしの たつお、1927年9月2日 - )は、日… 吉野 龍男(よしの たつお、1927年9月2日 - )は、日本の経営者。伊藤組土建社長を務めた。北海道札幌市出身。 1947年に北海道大学工学部専門部を卒業し、同年に鹿島建設に入社。1949年5月から1950年12月までに北海道大学工学部土木科で助手を務め、1951年4月に伊藤組土建に入社。1977年3月に取締役に就任し、1984年6月に常務、1986年6月に専務、1994年6月に副社長を経て、2002年6月に社長に就任。2008年4月から2009年3月までに会長を務めた。
藤井 一雄(ふじい かずお、1927年9月2日 - )は、日… 藤井 一雄(ふじい かずお、1927年9月2日 - )は、日本の実業家、馬主、競走馬生産者。 1960年代に障害競走で活躍したフジノオーの馬主として知られる。 1927年、山口県出身。明治大学商学部卒業後、1971年に果実、家畜などの貿易を行う藤井治商事株式会社の取締役社長に就任。1963年11月には日本バナナ輸入組合理事長、1969年7月には日本柑橘輸入組合理事長に就任している。1967年11月には農事功労章を受章した。1978年には、藤井治商事が日本中央競馬会の代理としてアメリカから種牡馬・ハンザダンサーを購入したが、その際に日本中央競馬会へ提出した明細と、アメリカの売主が証言した売却額に食い違いがあったことで、藤井治商事が「手数料」を不正に受領した疑惑が持ち上がった(詳細はハンザダンサー事件を参照)。
土井 輝生(どい てるお、1926年9月2日 - 2018年… 土井 輝生(どい てるお、1926年9月2日 - 2018年9月8日)は、日本の法学者。専門は、著作権法・商標法・知的財産権法。早稲田大学名誉教授。弁護士。武具甲冑研究家。 1926年9月2日福岡県門司市にて出生。幼少期を山口県で過ごす。1943年、旧制山口県立防府中学校4年時に陸軍士官学校に合格し、陸士59期に飛び級入学。1944年より航空士官学校にて航空通信部隊に所属。1945年終戦により士官学校より復員。米軍基地で働きながら法政大学通信科に通う。米軍基地での勤務を通じて英語の重要性を痛感し、働きながら独学で英語を習得。 1952年早稲田大学大学院法学研究科に入学。1954年修士課程修了。同年フルブライト奨学生としてミシシッピ大学ロースクールに留学。
岡野 恒也(おかの つねや、1926年9月2日 - 2003… 岡野 恒也(おかの つねや、1926年9月2日 - 2003年7月21日)は、日本の心理学者、動物行動学者。 東京市(現大田区大森)生まれ。1950年東京文理科大学心理学科卒。1956年同大学院修了。1955年松商学園短期大学助教授、1956年東横学園女子短期大学助教授、1967年明星大学人文学部助教授。1972年「類人猿の知能的行動に関する心理学的研究」で東京教育大学文学博士、静岡大学教養部教授、1982年日本女子大学文学部教育学科教授、1990年同人間社会学部心理学科教授、1995年愛知みずほ大学教授、1997年学長、1999年退任。
塚本 哲人(つかもと てつんど、1925年9月2日 - 20… 塚本 哲人(つかもと てつんど、1925年9月2日 - 2008年4月9日)は、日本の社会学者。東北大学名誉教授。専門は、農村社会学、社会教育学。戦後の日本農村社会学を福武直らとともに基礎づけた。 1925年、東京生まれ。1945年旧制山形高校卒業後、1948年東京帝国大学文学部社会学科卒業。1951年東京大学大学院社会学専攻満期退学。 1950年東洋大学文学部助教授、1951年東京大学文学部助手、1955年北海道大学文学部助教授を経て、1958年東北大学教育学部助教授。1972年同教授。東北大学では、1989年に定年退官をむかえるまで、東北地方の農村調査を精力的に進めるとともに、数多くの弟子を輩出した。
中島 敏次郎(なかじま としじろう、1925年9月2日 - … 中島 敏次郎(なかじま としじろう、1925年9月2日 - 2011年12月13日)は、日本の外交官。条約局長、外務審議官、駐オーストラリア大使、駐中国大使、最高裁判所判事、あさひ法律事務所顧問等を歴任[要出典]。妻の康子は、第61代警視総監、のちに自由民主党衆議院議員であった田中栄一の次女[要出典]。 中島房吉、中島静子の間の4人兄弟の二男として生まれる。旧制第一高等学校、東京大学法学部を卒業し、1948年に外務省入省。在中国日本国特命全権大使として在任中に六四天安門事件が起こり、在留邦人を無事国外に避難させた。 婚外子相続差別訴訟の1995年7月5日の最高裁大法廷の判決では民法の婚外子相続差別規定を合憲とする多数意見に対して、違憲とする少数意見を表明した。
松本 奉山(まつもと ほうざん、1925年9月2日 - 20… 松本 奉山(まつもと ほうざん、1925年9月2日 - 2010年1月5日)は、日本の水墨画家。愛媛県今治市生まれ。本名は松本 由美子(まつもと ゆみこ)。 1942年、松本尚山に入門。1963年に渡米し、海外でも活躍した。外務省文化使節や国際交流基金文化使節として海外で多くの活動を行った。シアトルにあるコーニッシュ芸術大学の講師を務めたこともある。 2010年1月5日、大阪市福島区の病院で肝臓がんにより84歳で死去した。 国内だけでなく、欧米や南米の風景を描いた作品も描いて個展を開き、高い評価を得た。 1999年のしまなみ海道開通時には、橋と島を組み合わせた作品を多数描いた。 2000-2001年には、琵琶湖と淀川の風景を描いた「みず紀行」を、毎日新聞夕刊(大阪本社発行版)に連載した。
溪内 謙(たにうち ゆずる、1923年9月2日 - 2004… 溪内 謙(たにうち ゆずる、1923年9月2日 - 2004年2月13日)は、日本の歴史学者、政治学者。専門はロシア/ソ連政治史。東京大学名誉教授。 石川県生まれ。金沢一中、四高を経て、1942年、東京帝国大学入学。約1年在学後の1943年12月、学徒出陣により、徴兵検査を受け、合格。大学を休学し、海軍の舞鶴海兵団へ入営し海軍二等水兵任官。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業。同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進む。同年10月に予備役編入・復員。その後、東京大学へ復学する。 復学から1年半後、1947年春に東京大学法学部を卒業し、大学院へ入学。
前川 道介(まえかわ みちすけ、1923年9月2日 - 20… 前川 道介(まえかわ みちすけ、1923年9月2日 - 2010年6月11日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。同志社大学名誉教授。 京都市出身。京都大学文学部卒業。同大学院中退、1954年天理大学助教授、1956年西京大学助教授(1958年、京都府立大学に改称)、1967年同志社大学教授、1989年定年退任し名誉教授。 国書刊行会「ドイツ・ロマン派全集」責任編集を務めた。ドイツ文学の怪奇・幻想文学を多く翻訳し、評論を刊行した。 2001年春、勲三等瑞宝章を受章。2010年、呼吸不全により死去(没年86歳)。
近藤 等(こんどう ひとし、1921年9月2日 - 2015… 近藤 等(こんどう ひとし、1921年9月2日 - 2015年11月29日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、登山家。早稲田大学名誉教授。 京都生まれ。暁星中学校在学中よりフランス語と登山に親しむ。早稲田大学仏文科卒。在学中は山岳部に所属し、朝鮮冠帽峰に遠征。卒業後、同部監督、部長もつとめた。。 早稲田高等学院講師、早大商学部助教授をへて、1955年から教授。フランス文学者としてフランスの山岳文献を多数紹介した。1992年に定年退任、名誉教授。 1962年、パリ大学研究員としてフランスに滞在。この機会にフランス国立登山スキー学校の研修会に参加。以後18回の登山シーズンをアルプスで過ごし、150回ほどの山行で120余峰に登る。
綱島 新八(つなしま しんや、1919年9月2日 - 199… 綱島 新八(つなしま しんや、1919年9月2日 - 1997年1月28日)は、群馬県出身のプロ野球選手(外野手)。1966年に綱島新哉に改名。 高崎市立商業補習学校から立教大学、社会人野球の明電舎、増田化学工業、山藤商店を経て、1949年に大映スターズへ入団。 1950年に松竹ロビンスへ移籍。1953年は前年に球団が吸収合併されたため洋松ロビンス所属となり、同年限りで現役を引退。 1958年にPL学園高等学校の監督に就任。1961年に退任するが1963年に復帰し、同年再び退任。1966年に拓殖大学の監督を務めた。
川村 明義(かわむら あきよし、1919年〈大正8年〉9月2… 川村 明義(かわむら あきよし、1919年〈大正8年〉9月2日 - 2006年〈平成18年〉6月9日)は、日本の免疫学者、医師。医学博士(東京大学・1957年)。東京大学名誉教授。 新潟県新潟市学校町通2番町(現 新潟市中央区学校町通2番町)の新潟医学専門学校病理学教室教授・川村麟也の三男として出生。 1938年(昭和13年)3月に新潟中学校を卒業、1942年(昭和17年)3月に新潟高等学校を卒業、1945年(昭和20年)9月に千葉医科大学を卒業。 1945年(昭和20年)10月に東京帝国大学伝染病研究所第二研究部(部長:田宮猛雄教授)に嘱託として入所、1948年(昭和23年)に東京大学伝染病研究所第五研究部(部長:田宮猛雄教授)副手に就任、1949年(昭和24年)に助手に就任、1959年(昭和34年)7月に東京大学伝染病研究所第二細菌研究部(部長:山本郁夫教授)助教授に就任、1971年(昭和46年)4月に東京大学医科学研究所免疫学研究部長・教授に就任、1980年(昭和55年)4月に東京大学を定年退官、5月に東京大学名誉教授の称号を受称。
石井 勲(いしい いさお、1919年9月2日 - 2004年… 石井 勲(いしい いさお、1919年9月2日 - 2004年)は、日本の教育者。大東文化大学幼少教育研究所所長、大東文化大学附属青桐幼稚園園長などを歴任し、また、石井教育研究所、日本漢字教育振興協會を創設して、特に幼児への漢字教育に取り組み、いわゆる「石井式漢字教育(石井方式)」を開発した。 山梨県に生まれる。山梨県立都留中学校(後の山梨県立都留高等学校)を経て、1937年に大東文化学院(後の大東文化大学)本科へ入学、さらに同高等科へ進んだ。しかし、1942年12月に、戦時体制下で繰上げ卒業となって、直ちに陸軍航空本部へ召集された。 敗戦後は、1948年に山梨県立都留高等学校で英語科と国語科を兼ねる教諭となったが、1950年に東京都八王子市の中学校教諭へ転じ、さらに小学校教教諭の教員免許を取得して、新宿区の小学校の教諭となった。
伴 勝久(ばん かつひさ、1918年(大正7年)9月2日 -… 伴 勝久(ばん かつひさ、1918年(大正7年)9月2日 - 1942年(昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において特殊潜航艇「甲標的」艇長としてシドニー湾攻撃に参加し、戦死。二階級特進により最終階級は海軍少佐。 伴は愛知県で材木店を営む家の三男として生まれた。父は日露戦争で個人感状、功六級を授けられた陸軍軍曹である。海辺に近く、家業のため馬が身近にいる環境で成長した伴は、活発な幼少期を過ごし、水泳、乗馬を得意としていた。進学した刈谷中学では、サッカー選手であった。中学5年での海兵受験には失敗したが、1年の浪人生活のすえ、海兵と陸士に合格し、海兵進学を選択した。伴は16年ぶりの300人クラスであった海兵68期生であったが、最上級生の海兵65期は鉄拳で68期を鍛え上げ、豊田穣によれば68期は「土方クラス」と呼ばれるようになった。
阿部 重四郎(あべ じゅうしろう、1917年9月2日 - 没… 阿部 重四郎(あべ じゅうしろう、1917年9月2日 - 没年不明)は、東京府出身のプロ野球選手。 東京工業学校から1936年に大東京軍へ入団。代走で1試合に出場したのみで、1937年秋に退団した。
江川 友治(えがわ ともじ、1917年9月2日 - 2012… 江川 友治(えがわ ともじ、1917年9月2日 - 2012年8月8日)は、日本の土壌学者。元農林水産省農業技術研究所長・明治大学教授。日本の畑土壌の改善に関わる研究に従事した。 現在の静岡市清水区に生まれる。静岡県立静岡中学校に学ぶ。1941年、東京帝国大学農学部農芸科学科卒業。同年4月、農林水産省農事試験場助手、三井進午研究室に配属。1942年2月、農事試験場技手となった後、同年4月、臨時召集された。福知山連隊、中国保定、武昌、鹿児島の知覧・万世特攻隊基地、東京の立川、大阪府の貝塚飛行場と転戦・移動し、1945年8月、敗戦、復員した。 1946年4月、復職。同年9月、農事試験場勤務、1947年、農事試験場土壌肥料部、1950年4月、農業技術研究所化学部土壌第1科土壌化学第2研究室長、1964年8月、農林水産省北海道農業試験場農芸化学部長、1973年、農林水産省農業技術研究所長。
吉國 一郎(吉国 一郎、よしくに いちろう、1916年9月2… 吉國 一郎(吉国 一郎、よしくに いちろう、1916年9月2日 - 2011年9月2日)は、日本の商工・法制官僚。位階は正三位。 内閣法制局長官。第9代プロ野球コミッショナー。神奈川県出身。 旧制東京高等学校を経て、東京帝国大学卒業。 1940年、商工省入省。同期に熊谷典文、国井真、小島慶三、加藤悌次(鉱山局長)等。 戦後は新制通商産業省から出向で内務省解体後の総理府において、主に法令審査畑を歩む。法制局長官総務室主幹、法制局第三部長、内閣法制局第一部長、内閣法制次長等を歴任。 1972年、第1次田中角榮内閣の下において内閣法制局長官に就任。その後、田中角栄・三木武夫の2人の首相に合計4年半仕えた。
伊庭 長之助(いば ちょうのすけ、1916年9月2日 - 2… 伊庭 長之助(いば ちょうのすけ、1916年9月2日 - 2004年)は、日本の広告制作者。 東京都出身。慶應義塾大学文学部を卒業(昭和16年)。戦後、在日駐留軍中央購買局に勤め、昭和33年に日本天然色映画を設立し、社長に(1990年に東北新社に売却)。全日本CM協会理事や、JAC(日本テレビCM制作社連盟)会長なども務めた。平成16年に88歳で死去。 2007年に伊庭記念会が設立された。
加藤美雄(かとう とみお、1915年9月2日 - 2000年… 加藤美雄(かとう とみお、1915年9月2日 - 2000年6月16日)は、日本のフランス文学者。 大阪府生まれ。京都帝国大学文学部仏文科卒。1962年「モーリス・セーヴ作品研究」で京都大学文学博士。大阪市立大学法文学部助教授、教授、1979年関西大学教授。86年退職。
南川 潤(みなみかわ じゅん、1913年9月2日 - 195… 南川 潤(みなみかわ じゅん、1913年9月2日 - 1955年9月22日)は東京府出身の小説家。風俗小説で知られた。本名、秋山賢止(けんじ)。
森川 晃卿(もりかわ こうきょう、1913年 <大正2年> … 森川 晃卿(もりかわ こうきょう、1913年 <大正2年> 9月2日 - 1989年 <平成元年> 11月23日)は、ドイツ文学者。位階は従三位。勲二等瑞宝章。 兵庫県生まれ。旧制姫路中学、旧制姫路高等学校を経て1936年東京帝国大学文学部独文科卒。1939年宇部工業専門学校教授、1946年姫路高等学校教授、1949年京都大学教養部助教授、1954年大阪市立大学教授、67年文学部長、71年学長、80年定年退官、名誉教授、相愛女子大学学長、相愛大学学長。1985年秋の叙勲で勲二等瑞宝章を受章。1988年流通科学大学学長。1984年大阪市民特別功労賞受賞。1989年死去。死没日付をもって従六位から従三位に進階した。
蘭 郁二郎(らん いくじろう、1913年9月2日 - 194… 蘭 郁二郎(らん いくじろう、1913年9月2日 - 1944年1月5日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家。本名は遠藤 敏夫(えんどう としお)。林田 葩子(はやしだ はなこ)というペンネームもある。 東京都生まれ。東京高等工業学校電気学科卒業。SF好きだった母の影響を受け、SF小説同人誌を学生時代に多数発表。その後、1931年に平凡社刊『江戸川乱歩全集』の月報付録「探偵趣味」にショートショート『息を止める男』を応募し、これがデビュー作となった。1935年には、大慈宗一郎、中島親、荻一之助らとともに同人誌『探偵文学』を創刊。1937年に『シュピオ』と改題してからは、海野十三、小栗虫太郎、木々高太郎とともに編集を務めた。
阿部 俊子(あべ としこ、1912年9月2日 - 1993年… 阿部 俊子(あべ としこ、1912年9月2日 - 1993年)は日本の国文学者。学習院名誉教授(元学習院女子短期大学教授)、元大正大学教授。『伊勢物語』の研究で著名。 岡山県出身。1934年(昭和9年)、東京女子高等師範学校卒業。1937年(昭和12年)、東京文理科大学国語学国文学科卒業。国文学(古代)専攻。1964年(昭和39年)、「大和物語を中心とした歌物語の研究」で文学博士(東京教育大学)。1955年学習院女子短期大学着任、1978年退職、学習院名誉教授、のち大正大学教授等を務める。夫は文学者の阿部秋生。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
竹田 助一(たけだ すけかず、1911年9月2日 - 没年不… 竹田 助一(たけだ すけかず、1911年9月2日 - 没年不明)は、兵庫県出身のプロ野球選手。 旧制姫路中学、同志社大学を経て1936年に阪急軍へ入団。同年秋季リーグ終了後退団。
林 弥一郎(はやし やいちろう、1911年9月2日 - 19… 林 弥一郎(はやし やいちろう、1911年9月2日 - 1999年8月14日)は、大日本帝国陸軍の軍人、最終階級は陸軍少佐。日中友好会会長。中国人民解放軍空軍の父。大阪府出身。
小南 弘久(こなみ ひろひさ、1911年 <明治44年> 9… 小南 弘久(こなみ ひろひさ、1911年 <明治44年> 9月2日 - 1977年 <昭和52年> 7月24日)は、日本の経営者。日動火災海上保険社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1932年に同志社大学予科を中退し、1939年に日動火災海上保険に入社。 1959年に取締役に就任し、1960年に常務、1962年に専務を経て、1964年に社長に就任。1966年2月までに社長を務め、同年6月には相談役に就任した。 1968年12月に日本サラリーマンユニオンを設立し、代表にも就任した。 1977年7月24日、出血性脳梗塞のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
城 秀男(じょう ひでお、1911年9月2日 - 2010年… 城 秀男(じょう ひでお、1911年9月2日 - 2010年1月22日)は、日本の染織家。染織工芸を専門に佐賀大学の名誉教授でもあり、多くの染織家を輩出してきた。 2010年1月22日、肺炎により佐賀市内の病院にて死去。98歳だった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、布や繊維、それを素材とする製品に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:ファッション/P:技術と産業)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
金 徳烈(キム・ドギョル、朝鮮語: 김덕열/金德烈、1910… 金 徳烈(キム・ドギョル、朝鮮語: 김덕열/金德烈、1910年9月2日 - 消息不明)は、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 京畿道楊州郡州内面維楊里(現・楊州市維楊洞)出身。中央高等普通学校(現・中央高等学校)を卒業した後、1930年に京城法学専門学校(現・ソウル大学校)、1933年に普成専門学校(現・高麗大学校)法科にそれぞれ入学した。1936年に卒業後、渡日し中央大学法学部に入学し、1940年に卒業した。光復後は米軍政庁で管財処の監察官、楊州郡の州内面長などを務めた。1948年5月の初代総選挙に無所属で楊州郡甲区より立候補して当選し、制憲国会議員となった。当選後の6月に無所属倶楽部に参加し、常任委員会の産業労農委員会に所属した。
鮫島 眞男(さめしま さねお、1909年9月2日 - 199… 鮫島 眞男(さめしま さねお、1909年9月2日 - 1995年10月2日)は、日本の国会職員、日本の法学者。第4代衆議院法制局長。衆議院法制局退官後は、城西大学と近畿大学の教授を務めながら商法を研究。位階は正三位。 鹿児島県日置郡東市来村長里(現・日置市東市来町長里)にて生まれ、1922年3月鶴丸尋常小学校卒業。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)へ入学し、2年次から修了まで首席。1926年に同中を4年修了して、第七高等学校造士館 (旧制)へ進学し同校文科でも首位の成績。1930年3月第七高等学校造士館文科卒業。同年東京帝国大学法学部法律学科に入学、1933年、同学科を卒業。 1932年の高等試験司法科に合格し、1933年大学卒業後函館地方裁判所司法官補に任じられ、1934年12月より判事(東京地方裁判所、水戸地方裁判所)。
小林 静雄(こばやし しずお、1909年(明治42年)9月2… 小林 静雄(こばやし しずお、1909年(明治42年)9月2日 - 1945年(昭和20年)1月24日)は、日本の能楽研究者。研究のみならず能評、さらに新作能の創作など才気にあふれた活動で将来を嘱望されたが、第二次世界大戦で戦死した。 東京世田谷の生まれ。1932年(昭和7年)、早稲田大学文学部国文学科卒業。卒業論文は能作者・観世信光について研究した「観世小次郎信光事蹟考」。これら能作者の研究は後に、代表作『謡曲作者の研究』(1942年(昭和17年))に結実することとなる。大学卒業後から読売新聞・国民新聞などに能評を掲載する一方、大学院在学中の1933年(昭和8年)には『能楽史料・第一輯』を刊行。
石橋 毅(いしばし たけし、1909年〈明治42年〉9月2日… 石橋 毅(いしばし たけし、1909年〈明治42年〉9月2日 - 1943年〈昭和18年〉9月23日)は、日本の実業家、政治家、千葉県多額納税者。計器製作業、合資会社石橋計器製作所代表社員。 千葉県香取郡本大須賀村久井崎(のち昭栄村、大栄町、現成田市)出身。石橋敬五郎の長男。石橋計器を創立、自動車関係メーターの製作に従事する。 本大須賀教育会長、村会議員、郡農副会長、県山林会評議員、郡産業組合共同処理所管理組合長、郡家禽購買販売利用組合長、東京市葛飾産業報国連合会理事、千葉木材工業社長、石橋計器製作所長、北総自動車合同、成鉄タクシー、常総合同運輸各取締役をつとめる。 その他、1935年〈昭和10年〉3月、千葉県立中央図書館落成記念として、父敬五郎蒐集の漢籍類1,041冊を寄贈したことでも知られる。
荻田 保(おぎた たもつ、1908年 <明治41年> 9月2… 荻田 保(おぎた たもつ、1908年 <明治41年> 9月2日 - 2003年 <平成15年> 4月9日)は、日本の内務官僚。位階は従三位。 三重県生まれ。東京帝国大学法学部法律学科卒業。東京帝大在学中の1930年10月、高等試験行政科試験に合格。1931年4月に内務省に入省。東京府内務部地方課属。1948年1月7日に地方財政委員会事務局長。1949年6月に地方自治庁財政部長。同年12月に地方自治庁次長となり、1950年5月30日からは再び地方財政委員会事務局長。1952年7月に地方財政審議会委員となり、1967年10月に公営企業金融公庫総裁。1976年11月から1979年11月まで地方財政審議会会長。
下田 弘(しもだ ひろし、1908年9月2日 - 生没不明)… 下田 弘(しもだ ひろし、1908年9月2日 - 生没不明)は、日本の哲学者、武蔵工業大学名誉教授。 1908年、女子教育者の先導者であった下田次郎の四男として東京に生まれる。1932年、東京帝国大学哲学科を卒業。 1939年より第一高等学校教授となるが、1944年に病気のため退職。戦後1950年より清泉女子大学教授、1956年より武蔵工業大学教授となり、1959年から1967年まで図書館長も務めた。1979年に退職し、名誉教授となった。 1981年勲三等瑞宝章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
川崎 京市(かわさき きょうし、1908年9月2日 - 19… 川崎 京市(かわさき きょうし、1908年9月2日 - 1987年12月)は、日本の化学技術者、実業家、工学博士。日本合成ゴム代表取締役社長や、化学工学協会会長、日本工学アカデミー副会長などを歴任した。 1932年東京工業大学染料化学科卒業、近藤製薬工場入社。1950年「人造麝香に関する研究」により東京工業大学工学博士。1957年日本合成ゴム常務取締役。1961年有機合成化学協会会長。1968年日本合成ゴム取締役副社長。1969年日本合成ゴム取締役社長。1971年藍綬褒章受章。1975年日本合成ゴム取締役会長。1979年日本合成ゴム相談役、勲二等瑞宝章受章。1980年石油学会名誉会員。1981年日本粉体工業技術協会会長、化学工学会名誉会員。
桔梗 利一(ききょう りいち、1907年〈明治40年〉9月2… 桔梗 利一(ききょう りいち、1907年〈明治40年〉9月2日 - 1975年〈昭和50年〉9月23日)は、文藝春秋社編集者(1929年〈昭和4年〉7月 - 1943年〈昭和18年〉9月、1953年〈昭和28年〉12月21日 - 1972年〈昭和47年〉9月2日)。
飯塚 朗(いいづか あきら、1907年9月2日 - 1989… 飯塚 朗(いいづか あきら、1907年9月2日 - 1989年2月23日)は、日本の中国文学者、作家。北海道大学名誉教授。 1907年、神奈川県横浜生まれ。第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部支那哲学文学科に進んだ。在学中、同人誌『東大派』を刊行し、中国文学研究会で竹内好、武田泰淳、松枝茂夫らを知る。1937年、高見順、武田麟太郎らの『日暦』同人となる。1936年、東京帝国大学を卒業。 1938年北京に渡り、中華民国新民会調査部に勤務。1943年からは華北映画公司に勤務。しかし、憲兵隊に逮捕され勾留されることとなり、帰国した。1944年に応召、中国戦線に出た。1945年の太平洋戦争敗戦後、蘇州で捕虜生活を送った。
細谷 源二(ほそや げんじ、1906年(明治39年)9月2日… 細谷 源二(ほそや げんじ、1906年(明治39年)9月2日 - 1970年(昭和45年)10月12日)は、日本の俳人。東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)生まれ。本名は源太郎。旧号は碧葉。 工手学校(現・工学院大学)中退後、同じ俳人の松原地蔵尊の『句と評論』に加わった。1939年(昭和14年)、渡辺白泉、藤田初巳らと「句と評論」(後に「広場」に改題)を創刊した。後に内藤辰雄らと共に工場生活を取材し、口語表現にも挑戦した。1940年(昭和15年)、新興俳句弾圧により検挙され、約2年半収監される。 1945年(昭和20年)、戦後開拓として北海道豊頃村(現・豊頃町)の開拓地に家族とともに入植したが失敗に終わった。