磯田 進(いそだ すすむ、1915年1月3日 - 2002年… 磯田 進(いそだ すすむ、1915年1月3日 - 2002年11月4日)は、日本の法学者。専門は労働法、法社会学。東京大学社会科学研究所教授、日本大学法学部教授を務めた。戦後日本の労働法学の形成に大きく寄与し、労働法理論と農村・村落の法社会学的研究で知られる。 京都府亀岡市に生まれ、群馬県で育つ。東京帝国大学法学部を卒業後、1939年に同学部助手となった。その後、法務庁事務官を経て、1949年に東京大学社会科学研究所助教授、1957年に教授へ昇任した。1975年に東京大学を定年退官し、東京大学名誉教授となった。同年から日本大学法学部教授として教育・研究を続け、労働法および法社会学分野の後進の育成に尽力した。
植村 謙二郎(うえむら けんじろう、1914年(大正3年)1… 植村 謙二郎(うえむら けんじろう、1914年(大正3年)1月3日 - 1979年(昭和54年)4月3日)は、日本の俳優。東京府豊多摩郡内藤新宿町(現在の東京都新宿区)出身。 1932年(昭和7年)に東京府立第六中学校を卒業後、日本俳優学校に二期生として入学。尾上菊五郎の下で演技の修行を積み、新興キネマに入所。1936年(昭和11年)6月公開の『街の姫君』で俳優の仲間入りを果たす。以降、新興キネマが大日本映画に合併される1942年(昭和17年)までの間に70本以上の作品に出演した。 合併後は大日本映画専属となるが、当時の日本が戦火の渦中にあったことから、間もなく南方戦線に召集される。 1945年(昭和20年)、終戦によって植村は大映(大日本映画)に復帰、ここでは戦争の爪痕を引きずった役や、当時の大映の基本路線であった多数のサスペンス作品で活躍した。
川本 茂雄(かわもと しげお、1913年1月3日 - 198… 川本 茂雄(かわもと しげお、1913年1月3日 - 1983年8月1日)は、日本の言語学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 東京市本郷区生まれ。1937年早稲田大学文学部卒業。早稲田大学文学部教授を務め、1982年定年、名誉教授。フランス語、英語を研究し、諸種の言語学文献を翻訳した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
塚本 洋太郎(つかもと ようたろう、1912年1月3日 - … 塚本 洋太郎(つかもと ようたろう、1912年1月3日 - 2005年3月12日)は、日本の園芸学者。京都大学名誉教授。専門は花卉園芸学。草花・花木・その他の観賞植物の研究を通じて花卉園芸学を学問的に体系化した。 朝鮮の大邱生まれ。本籍は福岡県北九州市八幡西区。 大阪府立豊中中学校(現:大阪府立豊中高等学校)から第五高等学校(現:熊本大学)を経て、京都帝国大学農学部農学科に入学。 大学では園芸学を専攻。1937年(昭和12年)京都帝国大学農学部農学科卒業後、助手として4年間園芸学第一研究室に勤務。大阪府立園芸学校に転出。この時期、第2次大戦中の園芸の荒廃を見て将来の花卉園芸学への道を決意する。戦後いち早く輸出用球根類の研究を開始。
刈田 元司(かりた もとし、1912年1月3日 - 1997… 刈田 元司(かりた もとし、1912年1月3日 - 1997年3月8日)は、日本の英米文学者・翻訳家。上智大学名誉教授。 1912年、新潟県生まれ。1935年上智大学文学部英文科を卒業。1937年ジョージタウン大学大学院修士課程を修了。上智大学講師、1940年助教授、1945年教授。1955 - 1956年ハーバード大学に留学、1969 - 1972年上智大学文学部長、1983年に定年退職した。その後は中京大学教授として教鞭をとった。 1920年代のアメリカ文学を中心に広く研究、翻訳をおこなった。日本英文学会編集委員、評議員、理事、日本アメリカ文学会会長等を歴任した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
大津 晴弘(おおつ はるひろ、1912年1月3日 - 199… 大津 晴弘(おおつ はるひろ、1912年1月3日 - 1999年3月2日)は、日本の歯科医師、歯学博士(東京歯科大学)である。歯内療法の研究に熱心に取り組み、晩年に独自に発明したオピアン キャリア法は死腔のない根管充填を可能にした画期的な術式で、その後の日本における歯内療法の礎石を築いたことでよく知られている。 宮崎県出身、幼少時代を東京で過ごし東京歯科医学専門学校卒業後中国に渡る。終戦後日本に戻り築地に診療所を開設。趣味は歯医者と言われるほど歯学の研究と治療に没頭した人生だった。良い意味で純粋、悪く言えば世間知らずの内弁慶で、50代くらいまでは、厳格で怖い人であった(三男、隆弘談)。患者さんには「治療代を請求しない先生」(私の街の歯医者さん1999年5月号追悼記事引用)として慕われていた。
名和 弓雄(なわ ゆみお、1912年(明治45年)1月3日 … 名和 弓雄(なわ ゆみお、1912年(明治45年)1月3日 - 2006年(平成18年)9月1日、94歳没)は、日本の時代考証家、武術家(正木流万力鎖術第10代宗家、江戸町方十手捕縄扱様宗家)、舞踊家。 福岡県北九州市生まれ。武蔵野音楽大学卒。先祖は美濃大垣藩の与力を務めたという。時代劇の時代考証、武術指導を行った。捕り物道具を収集し、その捕り物道具コレクションは現在、明治大学博物館に収蔵されている。 杉良太郎など、史実に近い小道具を好む時代劇俳優に信頼されており、新五捕物帳、同心暁蘭之介などの時代考証では、従来の時代劇に使われていた小道具とは違う史実に基づいた小道具を提供した。そのため、従来の時代劇視聴者から、御用提灯のデザインがおかしいと苦情を受けたが、名和はその苦情に対し、史実を交えてきちんと説明し、視聴者を納得させた。
高井 悌三郎(たかい ていざぶろう、1911年(明治44年)… 高井 悌三郎(たかい ていざぶろう、1911年(明治44年)1月3日 - 2004年(平成16年)9月28日)は、日本の考古学者・教育者。考古学者としては、日本の地方郡衙の調査研究で先駆的な成果を上げた。元甲陽学院中学校・高等学校教諭。 1911年(明治44年)1月3日、富山県射水郡伏木町(現・高岡市)中道に生まれる。伏木町立尋常高等小学校、富山県立高岡中学校、第四高等学校を経て、1931年(昭和6年)4月に京都帝国大学文学部に入学。大学では西田直二郎らの教えを受ける。大学を1934年(昭和9年)3月に卒業した翌月に茨城県立水戸第二高等女学校講師兼茨城県女子師範学校(茨城県女子師範学校は後,茨城師範学校となる)講師として茨城県に着任する。
吉田 義夫(よしだ よしお、1911年1月3日 - 1986… 吉田 義夫(よしだ よしお、1911年1月3日 - 1986年12月22日)は、1950年代から1980年代にかけて活躍した日本の俳優である。本名は同じ。 京都府京都市出身。京都市立絵画専門学校卒業。東映出身。プロモーション・プラスワンに所属していた。 京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)で日本画を学び、卒業後は法隆寺昭和大修理の一環として行われた金堂壁画模写事業に壁画摸写技官として参加し、入江波光画伯の指導の下、第八号壁(文殊菩薩像)を主任として担当した。失火による壁画損傷で模写事業が中止されると下鴨中学や立命館高等学校の美術講師を務めた。そうした才能を活かしてか、役者転向後は自分の衣装を自分で考えていたという。
豊永 幸三(とよなが こうぞう、1911年1月3日 - 19… 豊永 幸三(とよなが こうぞう、1911年1月3日 - 1987年3月3日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。山口県出身。 1936年に慶応義塾大学経済学部を卒業し、同年に王子製紙に入社。1949年に十條製紙に転じ、1965年11月に取締役に就任し、1968年5月に専務を経て、1973年5月に副社長に就任し、1976年6月には社長に就任。1982年6月に会長に就任。 1984年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年3月3日呼吸不全のために死去。76歳没。
清水 公照(しみず こうしょう、本名:東道 睦治(とうどう … 清水 公照(しみず こうしょう、本名:東道 睦治(とうどう むつじ)、1911年1月3日 - 1999年5月6日)は、華厳宗の僧侶。兵庫県飾磨郡曽左村(現・姫路市)出身。 第207世、第208世東大寺別当、華厳宗管長となり、大仏殿昭和大修理を行った。独特の味わいのある書画、陶芸で知られる。1963年頃から「泥仏(どろぼとけ)」と称するユニークな小さな仏像を制作した。泥仏庵と号す。また、「今良寛」の異名がある。
安藤 太郎(あんどう たろう、1910年(明治43年)1月3… 安藤 太郎(あんどう たろう、1910年(明治43年)1月3日 - 2010年(平成22年)5月9日)は、日本の実業家。住友銀行副頭取、住友不動産社長・会長・相談役を務めた。第1次・第2次オイルショックの際に住友不動産を黒字化した実績から、「救世主」「中興の祖」と賞された。 安藤源治郎の長男として宮城県刈田郡七ヶ宿町で出生した。仙台二中、旧制水戸高校を経て、1934年(昭和9年)東京帝国大学法科を卒業して、住友銀行へ入行する。 住友銀行では、東京副支店長、東京事務所次長、本店営業部次長、そして銀座・日本橋の各支店長を歴任し、1959年(昭和34年)6月には東京事務所長、同11月取締役に就任する。
石田 哲一(いしだ てついち、1910年〈明治43年〉1月3… 石田 哲一(いしだ てついち、1910年〈明治43年〉1月3日 - 没年不明)は、日本の裁判官。日本で最初のプライバシー侵害裁判(被告・三島由紀夫)の裁判長だった。父は石田運送(名)代表社員の石田章之進。 鳥取県西伯郡成実村大字西大谷(現・米子市明治町)出身。 旧制鳥取県立米子中学校、旧制松江高校を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学法学部卒業。1933年(昭和8年)、司法官試補。1934年(昭和9年)、予備判事に任官。 1949年(昭和24年)、東京高等裁判所判事。1955年(昭和30年)、東京地方裁判所判事。 趣味は歌舞伎、長唄。宗教は神道。 (鳥取県米子市糀町・米子市明治町)
全 禮鎔(전예용 チョン・イェヨン 1910年1月3日 - … 全 禮鎔(전예용 チョン・イェヨン 1910年1月3日 - 1994年7月4日)は、韓国の政治家・官僚。韓国銀行総裁や復興部長官、建設部長官などを務めた。日本名は江原 禮三。 京城府(現ソウル特別市)西大門区で銀行家の父のもとに生まれる。南大門商業学校を経て、1930年京城高等商業学校卒業。1933年に九州帝国大学法文学部法科を卒業後、同年高等文官試験に合格。朝鮮総督府内務局社会課長などを務め、終戦時には朝鮮総督府財務部長の職にあった。その後、復興部長官や韓国銀行総裁などを経て建設部長官に就任する。在韓国九州大学同窓会会長も務めた。 朝鮮戦争が勃発した1950年にソウル市の副市長を務めていたが、朝鮮人民軍がソウルを占拠したときに、市民に通知することなくあらかじめ避難していた。
上野 景福(うえの かげとみ、1910年 <明治43年> 1… 上野 景福(うえの かげとみ、1910年 <明治43年> 1月3日 - 1996年 <平成8年> 2月5日)は、日本の英語学者。東京大学・昭和女子大学名誉教授。位階は従四位。祖父は、明治期に外交官を務めた上野景範。 父は上野景明。学習院高等科を経て、1933年東京帝国大学英文科卒業、大学院入学。1935年、東京帝大副手。1939年、成城高等学校教授。1943年、陸軍大学校教授。1946年、成蹊高等学校教授。1949年、東京大学第一高等学校教授。1950年、東京大学教養学部助教授。1959年、同教授。1967年、財団法人語学教育研究所所長。1970年、東大を定年退官、名誉教授、武蔵大学人文学部教授。
大礒 義雄(おおいそ よしお、1910年1月3日 - 201… 大礒 義雄(おおいそ よしお、1910年1月3日 - 2015年)は、日本の国文学者。 東京市本郷区本郷生まれ。実は明治42年12月12日生まれだが届けが遅れて戸籍上は明治43年1月3日生まれになったという。1922年元町小学校、1927年東京府立第五中学校卒業、1年間浪人して1928年静岡高等学校文科甲類に入学。1931年東京帝国大学文学部国文科入学、志田義秀に師事する。1934年3月卒業するが不況下で就職口がなく、9月群馬県立渋川中学校に就職、1938年、新設の東京府立第十一高等女学校に移る。1944年6月愛知第二師範学校に移り、愛知学芸大学助教授、愛知教育大学教授、1976年定年退官。名誉教授となり、愛知大学教授を務める。
篠田 康雄(しのだ やすお、1908年〈明治41年〉1月3日… 篠田 康雄(しのだ やすお、1908年〈明治41年〉1月3日 - 1997年〈平成9年〉2月1日)は日本の神職。神社本庁総長、熱田神宮宮司、皇學館大学理事長、同総長などを歴任した。 1908年 三重県宇治山田市(現伊勢市)に篠田幸雄(神宮禰宜)の三男として出生。1930年 神宮皇學館本科を卒業と同時に国幣大社多度神社に奉職。その後、1932年別格官幣社北畠神社主典、1933年官幣大社多賀神社主典を経て1939年官幣大社熱田神宮禰宜となる。1942年同神宮権宮司に就任。1945年に神道指令により官制職廃止。引き続き権宮司として長谷外余男宮司(当時)を助け熱田神宮戦災復興を成し遂げ1964年熱田神宮宮司に任命され1986年まで在職し名誉宮司となり1997年逝去した。
相京 光雄(あいきょう みつお、1908年1月3日 - 19… 相京 光雄(あいきょう みつお、1908年1月3日 - 1984年4月29日)は、日本の経営者。神奈川県横浜市出身。 1932年に東京商科大学本科を卒業し、同年4月に三菱鉱業に入社。1957年5月に三菱金属鉱業取締役に就任し、1959年8月に常務を経て、1963年5月に副社長に就任し、1967年5月には社長に昇格した。1973年5月に三菱鉱業セメント会長に就任し、1977年6月から相談役を務めた。日本鉱業協会会長も務めた。 1969年10月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲一等瑞宝章を受章。 1984年4月29日急性心不全のために死去。76歳没。
椿 三四郎(つばき さんしろう、1907年1月3日 - 没年… 椿 三四郎(つばき さんしろう、1907年1月3日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名間瀬 松太郎(ませ まつたろう)、別芸名津島 慶一郎(つしま けいいちろう)。 1907年(明治40年)1月3日、東京府東京市日本橋区のうち、のちの江戸橋地域(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。 1924年(大正13年)3月、東京・神田錦町の旧制・錦城商業学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業し、西巣鴨町の国際活映(国活)に入社する。しかしながら当時の国活は経営が悪く、減産体制となっており、翌1925年(大正14年)には同社は倒産、椿は同年12月、兵庫県西宮市甲陽園にある東亜キネマ甲陽撮影所に移籍する。
満岡 忠成(みつおか ただなり、1907年1月3日 - 19… 満岡 忠成(みつおか ただなり、1907年1月3日 - 1994年8月22日)は、日本の陶磁器研究者。 三重県生まれ。1930年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒。大和文華館勤務、1968年京都市立芸術大学教授。1972年滴翠美術館館長。1974年大手前女子大学教授、1986年退任。1987年小山富士夫記念賞功績褒章受章。1994年8月22日、肺癌のため死去。 数代前の先祖に佐賀藩士で儒学者の満岡允成(俗称:一兵衛、白里)がいる。
八嶋 三郎(やじま さぶろう、1906年1月3日 - 196… 八嶋 三郎(やじま さぶろう、1906年1月3日 - 1968年6月3日)は、日本の都市計画家、行政官僚。 内務省や厚生省、建設省で官僚として活動し、全国区画整理協会連合会会長、歴史的風土審議会委員、帝都高速度交通営団管理委員会委員、財団法人都市計画協会理事を歴任した。 富山県新湊町(現・射水市)に生まれる。旧制高岡中学校(現・富山県立高岡高等学校)から旧制第四高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科に入学する。在学中高等文官試験に合格し、1930年に卒業後、内務省に勤める。福島県や岩手県、愛知県、兵庫県を転任し、1942年鹿児島県官房長となる。1943年に福島県経済部長に移る。ここまでは警察や経済部といった部署を歩んだ。
田中 伊三次(たなか いさじ、1906年〈明治39年〉1月3… 田中 伊三次(たなか いさじ、1906年〈明治39年〉1月3日 - 1987年〈昭和62年〉4月11日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(15期)。位階は正三位、勲章は勲一等旭日大綬章。 衆議院副議長(第44代)、法務大臣(第22・23・31代)、自治庁長官(第7・8代)等を歴任した。 兵庫県にて田中宗吉の二男として生まれる。家が貧しく、17歳の時に郷里の兵庫県姫路の在からナマ米をかじりながら鉄道線路を歩いて大阪に出る。新聞配達、めし屋の注文取りなどをしながら貯めた金で汽車に乗り、京都に移る。 立命館中学、府立第二中学校、京都予備学校(のちの京都商業)を経て、立命館大学に入学した。1931年、高等文官試験に合格。
豊田 四郎(とよだ しろう、1906年1月3日 - 1977… 豊田 四郎(とよだ しろう、1906年1月3日 - 1977年11月13日)は、日本の映画監督。多くの文芸映画を作り、「文芸映画の巨匠」と呼ばれた。
南部 政二(なんぶ まさじ、1906年1月3日 - 1987… 南部 政二(なんぶ まさじ、1906年1月3日 - 1987年7月4日)は、日本の経営者。東亜燃料工業社長を務めた。 東京都出身。1930年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。大和鉱業、小倉石油での勤務を経て、1944年8月に東亜燃料工業に転じ、1950年1月に取締役に就任し、1951年11月に常務、1959年9月に専務、1963年8月に副社長を経て、1965年9月には社長に就任した。1976年3月に会長を経て、1984年3月には相談役に就任。 1966年10月に藍綬褒章を受章。 1987年7月4日、脳梗塞のために死去。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
木下 重範(きのした しげのり、1906年(明治39年)1月… 木下 重範(きのした しげのり、1906年(明治39年)1月3日 - 1977年(昭和52年)8月13日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 大分県西国東郡岬村(のち香々地町、現豊後高田市)で生まれる。1926年(大正15年)日本大学専門部法律科を卒業した。 弁護士を開業し、日本弁護士連合会理事、同代議員、福岡県弁護士会小倉部会長、小倉市信用組合監事などを務め、日本水産、朝日新聞西部本社、三菱化成工業などその他多くの企業の顧問弁護士を務めた。 1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で福岡県第4区から無所属で出馬して当選し、同友会に所属し衆議院議員に1期在任した。
高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年… 高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年〈明治38年〉1月3日 - 1987年〈昭和62年〉2月3日)は、日本の皇族、海軍軍人。有栖川宮の祭祀を継承。御称号は光宮(てるのみや)。身位は親王。お印は若梅(わかうめ)。栄典は大勲位功四級。 大正天皇と貞明皇后の第三皇子。皇長兄に昭和天皇、皇次兄に秩父宮雍仁親王、皇弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。 当時の皇太子嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)の第3皇男子として青山東宮御所で誕生。幼称(御称号)を光宮(てるのみや)といった。 高松宮は四親王家の一つ、有栖川宮の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承したのには故がある。
三岸 節子(みぎし せつこ、1905年1月3日 - 1999… 三岸 節子(みぎし せつこ、1905年1月3日 - 1999年4月18日)は、日本の女性洋画家で、新制作協会会員。 愛知県中島郡小信中島村(現・一宮市小信中島)の織物工場を営む裕福な家の十人兄弟の6番目(4女)に生まれた。父は吉田永三郎、母は菊。母の菊は、安政の大獄で死罪となった水戸藩士・鵜飼吉左衛門(幼名は菊三郎)の一族であった(節子生家近くの頓聴寺住職も鵜飼家の人物であった)。しかし、吉田家は不況のあおりで倒産した。先天性股関節脱臼(現・発育性股関節形成不全)を患っており、両親に抑圧されて育った節子も、この大きなショックから当時興味を抱いていた絵の道へと向かっていく。戦前・戦後の画壇における女性画家の地位向上に努め、その生涯を通じてたくましい精神力で生命を賛歌する作品を描き続けた。
福田 久雄(ふくだ ひさお、1905年1月3日 - 1984… 福田 久雄(ふくだ ひさお、1905年1月3日 - 1984年2月16日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長を務めた。徳島県出身。 1925年に東京商科大学専門部を卒業し、同年に大阪商船に入社した。 1953年5月に取締役に就任し、1957年11月に専務、1959年5月に副社長を経て、1967年5月に社長に就任。1972年5月に会長、1975年5月に取締役相談役を経て、1976年6月には相談役に就任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1984年2月16日肺炎のために死去。79歳没。
黒田龍馬(くろだ りょうま、1904年(明治37年)1月3日… 黒田龍馬(くろだ りょうま、1904年(明治37年)1月3日 - 1986年(昭和61年)6月18日)は、日本のジャーナリストで経営者。 毎日新聞社取締役、中部本社社長や毎日大阪会館社長を務めた。1921年 全国中学校大会で走高飛1m69cmの日本記録を樹立しアジア大会(当時:極東選手権大会)に出場。日本学生陸上競技連合の設立に関わる。 1904年 (明治37年)1月3日 東京市神田区小川町3番地にて父 安吉と母 くりの長男として生まれる。二人の弟と3人の妹の6人兄弟。 1911年(明治44年)4月 東京市小川尋常小学校(平成2年に閉校)に入学 1917年(大正6年)龍馬13歳 小川尋常小学校卒業。
湯藤 実則(ゆとう みのり、1904年1月3日 - 1989… 湯藤 実則(ゆとう みのり、1904年1月3日 - 1989年8月24日)は、日本の経営者、銀行家。日本不動産銀行頭取を務めた。広島県出身。 1925年に山口高等商業学校を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行した。1957年に日本不動産銀行に就任し、1963年に副頭取を経て、1965年には頭取に就任。1969年に会長に就任。 経済団体連合会、全国銀行協会連合会の各理事も務めた。 1970年に藍綬褒章を受章し、1976年に勲二等旭日重光章を受章。 1989年8月24日脳梗塞のために死去。85歳没。
岩野 喜久代(いわの きくよ、1903年1月3日 - 199… 岩野 喜久代(いわの きくよ、1903年1月3日 - 1996年3月7日)は、歌人、大東出版社代表。 広島県江田島海軍兵学校官舎に生まれる。1922年東京府女子師範学校(現東京学芸大学)卒業。1924年東洋大学倫理教育部入学。1925年10月大東出版社創立者、浄閑寺第24世岩野真雄と結婚。同11月仏教学者・高楠順次郎に師事する。1930年1月與謝野寛・晶子夫妻に師事し、新詩社同人となる。1942年9月與謝野晶子のあとを受け、文化学院にて短歌を指導。『明星』の後継誌『浅間嶺』を主宰。1948年1月法学者であり仏教研究者であった小野清一郎の聖典講座に参加。1968年夫の岩野真雄が死去、大東出版社の代表となる。
関 外余男(せき とよお、1902年(明治35年)1月3日 … 関 外余男(せき とよお、1902年(明治35年)1月3日 - 2000年(平成12年)11月8日)は、日本の内務官僚。官選埼玉県知事、陸軍司政長官。旧姓・乾。 石川県金沢市で乾芳久の五男として生まれ、関薫の養子となる。第四高等学校を首席で卒業。1924年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し千葉県属となる。 以後、愛媛県経済部長、福井県書記官・警察部長、対満事務局行政課長、徳島県書記官・総務部長、内務省監査官などを歴任。1942年8月、陸軍司政長官に発令され、第25軍軍政監部付(スマトラ島)として、ジャンビー州長官を1944年8月末まで務めた。
押本 映治(おしもと えいじ、1900年1月3日 - 194… 押本 映治(おしもと えいじ、1900年1月3日 - 1946年5月26日)は、日本の俳優である。本名は米村 俊民(よねむら としたみ)。芸名の表記は押本 英治、押本 暎治、押本 映二、押本 榮二と揺れがある。創立間もない松竹蒲田撮影所に所属した若手俳優で、大正末期までは冒険活劇のスターとして活躍、後年は日活多摩川撮影所、大映東京撮影所などであらゆる役柄をこなした名脇役として知られる。 1900年(明治33年)1月3日、鳥取県岩美郡富桑村(現在の同県鳥取市行徳、鳥取市行徳町は誤り)に生まれる。富桑尋常高等小学校(現在の鳥取市立富桑小学校)を経て、旧制鳥取県立鳥取中学校(後の旧制鳥取県立鳥取第一中学校、現在の鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業する。
栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年1月3日 - 19… 栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年1月3日 - 1977年8月8日)は、日本の実業家・篤志家・馬主。 実業家・政治家の栗林五朔の息子として北海道に生まれる。札幌中学を経て東京帝国大学農学部獣医学科を卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は父が興した栗林商船に入社し、後に会長を務めた。本業の傍らで競走馬の馬主としても著名であり「ミスター・ケイバ」と呼ばれ、全日本馬主協会連合会(現・日本馬主協会連合会)会長などを歴任した(後述)。1977年8月8日、肺炎により79歳で死去。 兄は栗林商船や栗林商会社長、政治家などを務めた栗林徳一。弟には南方林業の社長を務めた栗林定四朗がいる。長男・定友は栗林商船、三男・英雄は栗林運輸の社長を務めた。
貝塚 武男(かいづか たけお、明治31年(1898年)1月3… 貝塚 武男(かいづか たけお、明治31年(1898年)1月3日 - 昭和19年(1944年)10月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校46期生。
桜井 安右衛門(さくらい やすうえもん、1898年(明治31… 桜井 安右衛門(さくらい やすうえもん、1898年(明治31年)1月3日 - 1994年(平成6年)8月9日)は、日本の内務・厚生官僚。官選栃木県知事。 東京府出身。桜井常次郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1922年(大正11年)、東京帝国大学経済学部を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。農商務省を経て内務省に入省し社会局属となり労働行政畑を歴任。 1925年(大正14年)、第七回国際労働会議にジュネーブ帝国事務所書記兼社会局事務官の肩書で政府代表委員附として参加。 1938年(昭和13年)、厚生省大臣官房文書課長となる。1942年(昭和17年)1月、栃木県知事に就任。戦時下の対応に尽力。
熊澤 貞夫(くまざわ さだお、1898年1月3日 - 198… 熊澤 貞夫(くまざわ さだお、1898年1月3日 - 1986年1月8日)は、日本の経営者。神奈川県出身。 1920年に東京高等商業学校本科を卒業し、同年に王子製紙に入社。 1946年11月に取締役に就任し、1950年1月に常務、1952年11月に専務、1958年2月に副社長を経て、1967年4月に社長に就任した。1968年11月から相談役を務めた。 1986年1月8日心不全のために死去。88歳没。
阿部 孝次郎(あべ こうじろう、1897年1月3日 - 19… 阿部 孝次郎(あべ こうじろう、1897年1月3日 - 1990年10月18日)は、日本の実業家。東洋紡績社長・会長。阿部房次郎の長男。滋賀県出身。 滋賀県出身。知られた美術蒐集家でもあった阿部房次郎とゑみの長男として生まれる。大正10年(1921年)、京都帝国大学工学部機械工学科卒業。 同年父・房次郎が社長を務める東洋紡績に入社。昭和17年(1942年)取締役、昭和21年(1946年)常務を経て、昭和22年(1947年)社長に就任。昭和34年(1959年)会長、昭和41年(1966年)相談役、のち名誉顧問となる。 この間、日本紡績協会委員長、関西経済連合会第6代会長、日本繊維機械学会副会長・会長なども務めた。
朝響 信親(あさひびき のぶちか、1897年1月3日 - 1… 朝響 信親(あさひびき のぶちか、1897年1月3日 - 1960年2月22日)は、愛媛県西宇和郡三瓶町(現西予市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は宮本 延近。身長173cm、体重90kg。最高位は東前頭2枚目(1927年5月場所)。引退後は年寄佐ノ山として後進の指導につとめた。 同郷の大関朝汐の佐ノ山部屋に入門し、1914年1月場所に初土俵を踏んだ。稽古熱心で順調に昇進し、1918年5月に、朝見藤と名乗って十両に昇進、1922年1月には朝見富士と改めて新入幕を果たした。その間、師匠が亡くなったので本家の高砂部屋に移籍した。また、入幕後に朝響と改名している。 1926年5月場所、1927年1月場所と連続して8勝3敗と好成績を収めたのがピークであった。
吉野山 要次郎(よしのやま ようじろう、1896年1月3日 … 吉野山 要次郎(よしのやま ようじろう、1896年1月3日 - 1956年2月6日)は、富山県下新川郡(現・黒部市)出身で春日山部屋、立浪部屋に所属した元大相撲力士。本名は大上戸 要次郎。最高位は西前頭筆頭(1932年2月場所、3月場所)。現役時代の体格は175cm、92kg。得意手は左四つ、押し、のど輪、うっちゃり。元前頭清惠波の岳父であり養父でもある。 細身ながら筋骨隆々とした体格で、力も腰も強かった。地味ながら堅実な取り口で、左四つ得意だが腕職を活かしたのど輪押しも強く、また土俵際でのうっちゃりもあった。特にうっちゃりに関しては左四つからの独特の型であり、これが双葉山に伝授されたという。横綱常ノ花との相性が良く、初顔合わせで押し倒して破ったのをはじめ3勝(いずれも金星)を挙げている。
金重 陶陽(かねしげ とうよう、1896年(明治29年)1月… 金重 陶陽(かねしげ とうよう、1896年(明治29年)1月3日 - 1967年(昭和42年)11月6日)は、岡山県出身の陶芸家。備前焼の名門である金重家に生まれ、備前の陶工として初めて人間国宝となった。本名は金重 勇(かねしげ いさむ)。 江戸時代中期以降伊万里焼や九谷焼などに押されて人気を失っていた備前焼を再興させることに成功し「備前焼中興の祖」と称される。自らが優れた陶工であっただけでなく、多くの弟子を育て、その中から次々と人間国宝を輩出するなど備前焼の歴史上果たした功績は計り知れない。陶陽の弟の金重素山、長男の金重道明、三男の金重晃介もそれぞれ陶芸家である。また、漂泊の日本画家の杉本白象は、自らを「金重陶陽の従兄にあたる」と、昭和42年にパトロンに送った作品に付けた手紙に記している。
二見 秋三郎(ふたみ あきさぶろう、1895年(明治28年)… 二見 秋三郎(ふたみ あきさぶろう、1895年(明治28年)1月3日 - 1987年(昭和62年)3月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 神奈川県出身。地主・二見元次郎の二男として生まれる。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第4連隊付となる。1918年(大正7年)3月から1920年(大正9年)10月までシベリア出兵に出征した。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1926年(大正15年)12月、参謀本部付勤務となる。
北村 徳太郎(德太郎、きたむら とくたろう、1895年 <明… 北村 徳太郎(德太郎、きたむら とくたろう、1895年 <明治28年> 1月3日 - 1964年 <昭和39年> 5月8日)は、日本の造園技師・都市研究者・都市計画家。東京大学農学部教授も歴任。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 山形県米沢市で生まれる。父は元米沢藩士で、米沢藩の藩医だった祖父茂助(貞徳)の代に既に東京に出ていたが、母親は米沢の風習により里帰りしたようである。弟は作家の北村謙次郎。獨逸学協会学校、第一高等学校を経て東京帝国大学医科に進学したが、まもなく農科に転籍。 大学卒業後は内務省に入省し、以後、中央官庁で黎明期の都市計画行政の指導監督、戦災復興事業の実践等の任にあたった。主として公園緑地に関わり、全国の都市計画、地方計画、国土計画に参画した。
伊吹山 末吉(いぶきやま すえきち、1895年1月3日 - … 伊吹山 末吉(いぶきやま すえきち、1895年1月3日 - 1930年1月16日)は、現在の滋賀県近江八幡市出身で入間川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は坂本 末吉。8代藤島。189cm、116kg。最高位は西前頭11枚目。 長身で骨格も発達した巨人型の体躯で、上背を利しての突っ張りは強烈であった。1918年5月幕下付出で初土俵、1921年1月十両昇進。1922年1月新入幕したが、病気の為に十両と幕内を往復。1923年1月場所前に起きた三河島事件では横綱・大関を除く全力士が協会と対立したが、ひとり師匠に反旗を翻すのを拒んだという意志強固な性格の持ち主であった。1926年5月に引退し藤島を襲名したが、1929年1月に廃業した。
藤川 博(ふじかわ とおる、1894年 <明治27年> 1月… 藤川 博(ふじかわ とおる、1894年 <明治27年> 1月3日 - 1977年 <昭和52年> 3月25日)は、日本の経営者。熊本県出身。位階は従四位。 1922年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に帝国生命保険(のちの朝日生命保険)に入社。東京大学経済学部で講師を務め、1942年7月に常務に就任し、副社長を経て、1953年8月には社長に就任。1961年5月から1965年5月までに会長を務め、京浜急行電鉄取締役も務めた。 1958年に藍綬褒章を受章し、1965年4月に勲三等瑞宝章を受章。 19773月25日心筋梗塞のために死去。83歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 19… 柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 1952年10月7日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。
島津 信夫(しまづ のぶお、1893年(明治26年)1月3日… 島津 信夫(しまづ のぶお、1893年(明治26年)1月3日 - 1990年(平成2年))は大正から昭和期の海軍軍人。正五位勲三等。最終階級は海軍大佐。
馬島 僴(まじま ゆたか、1893年1月3日 - 1969年… 馬島 僴(まじま ゆたか、1893年1月3日 - 1969年10月5日)は、医師・産児制限運動家。 愛知県出身。愛知県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)卒。旧姓は浜田。通称は僴(かん)。新聞ではドクトル馬島として取り上げられた。賀川豊彦に共鳴して神戸で医療救済活動にあたる。1920年(大正9年)欧米に留学して産児調節を学ぶ。1928年(昭和3年)、太田慶太郎、その妻太田操らとともに、解放運動犠牲者救援会(現在の日本国民救援会)を創設、東京市本所松倉町に労働者診療所を開設、1929年(昭和4年)東京市議。1930年(昭和5年)東京市芝公園5号地に愛児女性協会が設立した産児制限相談所に参画。第二次世界大戦後も産児調節運動を推進した。
阿部 茂夫(あべ しげお、1892年(明治25年)1月3日 … 阿部 茂夫(あべ しげお、1892年(明治25年)1月3日 - 1960年(昭和35年)8月3日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 徳島県徳島市富田浦町に生まれる。1912年(明治45年)徳島県師範学校を卒業し、徳島県名東郡沖洲尋常高等小学校訓導、津田尋常高等小学校訓導、津田水産補修学校訓導を務めた。1919年(大正8年)早稲田大学政経科を修了。 古河鉱業(現古河機械金属)に入社し、1922年(大正11年)労働事情調査のためアメリカ合衆国へ派遣されイェール大学で学んだ。1927年(昭和2年)に帰国後、社会民衆党に入党した。1930年(昭和5年)全国民民衆党の結成に参画し中央委員に就任。
笠井 藍水(かさい らんすい、1891年(明治24年)1月3… 笠井 藍水(かさい らんすい、1891年(明治24年)1月3日 - 1974年(昭和49年)11月15日)は、日本の歴史家・郷土史家。徳島県の郷土史研究や各市町村史編纂の基盤確立に大きな役割を果たした。本名は笠井(吉田) 高三郎(かさい(よしだ) たかさぶろう)。 1891年1月3日、徳島県美馬郡脇町に笠井量平の三男として生まれる。 1909年、早稲田中学校を卒業する。卒業後、水彩画講習所でデッサンの勉強をしていたが、家族の要請により、1910年に脇町に帰郷する。 1913年8月23日、脇町収入役に就任し、『美馬郡郷土誌』編纂のために美馬郡教育会嘱託を兼任する。1915年10月19日、辞任する。