槙枝 元文(まきえだ もとふみ、1921年3月4日 - 20… 槙枝 元文(まきえだ もとふみ、1921年3月4日 - 2010年12月4日)は、日本の教育者、労働運動家。日本教職員組合委員長、日本労働組合総評議会(総評)議長を務めた。計30年に渡って日教組の中央役員を務めて大きな影響力を持ったことからミスター日教組とも呼ばれた。子息の槙枝一臣は弁護士。 岡山県生まれ。1940年に岡山県立青年学校教員養成所(現・岡山大学教育学部)卒業し、都窪郡の早島青年学校に教師として赴任。1942年から終戦まで召集され、最終経歴は陸軍憲兵中尉。終戦後1946年同校に帰任し、翌年の新学制に伴い中学校の教師に。計5年、教壇に立った。地元の組合づくりに携わり、都窪郡教組の青年部長に就任や岡山県教組の役員を務める。
三枝 正裕(さいぐさ まさひろ、1921年〈大正10年〉3月… 三枝 正裕(さいぐさ まさひろ、1921年〈大正10年〉3月4日 - 2001年〈平成13年〉10月19日)は、日本の医学者、医師。専門は心臓血管外科学。東京大学胸部外科第二代教授。東京大学名誉教授。医学博士。 1921年(大正10年)、広島県呉市に生まれる。旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、1945年(昭和20年)9月、東京帝国大学医学部卒業。海軍軍医(4月見習士官、9月復員)。同年10月、第二外科(都築正男教授)に入局。当時木本誠二を中心に開発が進められていた心臓外科の研究に従事、その成果が「非チアノーゼ性先天性心疾患の血行動態に関する研究」としてまとめられ、1956年(昭和31年)、医学博士。
甲斐ノ山 福人(かいのやま ふくひと、1921年3月4日 -… 甲斐ノ山 福人(かいのやま ふくひと、1921年3月4日 - 没年不明)は、山梨県東山梨郡塩山町(現・同県甲州市)出身で錦嶋部屋に所属した大相撲力士。本名は田草川 次夫(たくさがわ つぎお)。現役時代の体格は170cm、113kg。得意手は右四つ、寄り。引退後は、およそ9年半の間、年寄として後進の指導に努めた。 14歳の時に錦嶋部屋へ入門し、1935年5月場所で初土俵を踏んだ。 「大蛇嶋」の名で初めて番付に載るまでに3年近くを要し、その後も出世は遅々として進まず、1944年1月場所で漸く新十両に昇進。そして、これを機に、四股名を故郷・山梨県の旧称に因んだ「甲斐ノ山」に改めた。 以降は、幕下と十両との往復を繰り返した。
佐藤 昌祐(さとう しょうすけ、1920年3月4日 - 20… 佐藤 昌祐(さとう しょうすけ、1920年3月4日 - 2005年6月30日)は日本の洋画家。大正9年3月4日に山形県酒田市中之口町12番地(現-本町)に生まれる。旧制琢成第一小学校、山形県立酒田中学校、東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業。山形師範学校(現・山形大学地域教育文化学部)助教授となる。山形大学を退職後、東京へ移住。上京後は美術団体展や個展等で作品を発表。昭和34年に同志とともに洋画の公募美術団体「蒼騎会」を創立。1978年には第18回蒼騎会展が文部大臣賞を受賞。練馬区文化事業功労者表彰。
関 俊治(せき しゅんじ、1920年〈大正9年〉3月4日 -… 関 俊治(せき しゅんじ、1920年〈大正9年〉3月4日 - 2001年〈平成13年〉11月29日)は、昭和時代に活躍した日本の随筆家・文芸評論家。群馬県立図書館長・群馬県文学会議議長などを歴任した。 1920年(大正9年)群馬県吾妻郡中之条町に生まれる。旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)から関西学院大学に進み卒業。 県立高校教諭として勤めたのち、群馬県教育委員会社会教育課に勤務。県立社会教育館長、県立図書館長などを歴任。『形成』『果実』『みやま』などの同人誌に評論・随筆の発表を続けた。 1970年(昭和45年)風雷文学賞、1972年(昭和47年)高橋元吉文学賞を受賞。1987年(昭和62年)群馬県文学会議議長となる。
荒金 天倫(あらかね てんりん、大正9年(1920年)3月4… 荒金 天倫(あらかね てんりん、大正9年(1920年)3月4日 - 平成2年(1990年)1月7日)は、日本臨済宗の禅僧。 臨済宗方広寺派第九代管長。道号は天倫、諱は義堂、室号は碧雲室(へきうんしつ)。俗姓荒金。禅僧からジャーナリスト、そして再び禅僧になるという、ユニークな経歴を持つ。
砂田 重民(すなだ しげたみ、1917年3月4日 - 199… 砂田 重民(すなだ しげたみ、1917年3月4日 - 1990年9月24日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。衆議院議員、文部大臣、沖縄開発庁長官兼北海道開発庁長官などを務めた。父は自民党総務会長を務めた砂田重政。従弟は元衆議院議員の砂田圭佑。 兵庫県神戸市出身。暁星学園を経て、立教大学経済学部卒業。河野一郎の秘書を経て、1963年の第30回衆議院議員総選挙に父・重政の後継者として旧兵庫1区から出馬し初当選。当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮などがいる。以後2回連続当選後、3期目途中で議員を辞職し、1972年の神戸市長選挙に、自民党と袂を分かった現職の宮崎辰雄に挑む形で立候補したが落選。
石原 忠男(いしはら ただお、1917年3月4日 - 200… 石原 忠男(いしはら ただお、1917年3月4日 - 2006年3月25日)は、日本の経済学者。 東京出身。1940年中央大学経済学部卒業、東京芝浦電機調査課勤務、1942年から1944年まで中央大学大学院に在籍。1948年中央大学経済学部講師、1950年助教授、1955年教授、商学部教授。1987年定年、名誉教授。日本科学者会議の創立に参加し、全国幹事、のち参与。1975年から1979年まで経済理論学会代表幹事。1990年勲三等旭日中綬章受章。
森岡 貞香(もりおか さだか、女性、1916年3月4日 - … 森岡 貞香(もりおか さだか、女性、1916年3月4日 - 2009年1月30日)は、歌人。
荒木 武(あらき たけし、1916年3月4日 - 1994年… 荒木 武(あらき たけし、1916年3月4日 - 1994年6月15日)は、日本の政治家、広島市市長(第27~30代)。
尾澤 千春(おざわ ちはる、1915年3月4日 - 2004… 尾澤 千春(おざわ ちはる、1915年3月4日 - 2004年)は、日本の工芸家、彫刻家。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、尾沢 千春(おざわ ちはる)とも表記される。 長野県農民美術連合会会長などを歴任した。 長野県小県郡神川村(現上田市)生まれの工芸家である。初代中村實の下で学び、主に木彫などを手掛けていた。長野県の「農民美術運動」の第一人者として知られている。長野県農民美術連合会の会長など要職を歴任した。また、後継者や愛好者の育成にも力を注ぎ、木彫の流行に対しても影響を与えた。 神川実業補習学校卒業。初代中村實に弟子入りし、木彫など工芸を学んだ。尾澤を指導した中村は、「農民美術運動」を提唱した版画家の山本鼎に共感し、山本の主宰する農民美術講習会に第1期生として馳せ参じ、山本の一番弟子となった。
緑川洋一(みどりかわ よういち、1915年(大正4年)3月4… 緑川洋一(みどりかわ よういち、1915年(大正4年)3月4日 - 2001年(平成13年)11月14日)は、写真家、歯科医師。生来の名は横山知(さとし)。二科会写真部会員。 岡山県邑久郡裳掛村虫明(現・瀬戸内市邑久町虫明)の呉服商の長男として生まれる。1932年(昭和7年)に上京し、日本大学専門部歯科に入学。1934年(昭和9年)、模型飛行機店の店主と合作でコンテストに応募したボート用スチームエンジンを、海軍省が50円で買い取る。これを元手にドイツ製カメラ・ペルケオを購入し写真撮影を始める。1936年(昭和11年)、日大専門部歯科を卒業。歯科医師国家試験に合格し、東京市蒲田区(現・大田区蒲田)の総合病院に勤務する。
日比野 丈夫(ひびの たけお、1914年(大正3年)3月4日… 日比野 丈夫(ひびの たけお、1914年(大正3年)3月4日 - 2007年(平成19年)7月2日)は、日本の東洋学者、歴史学者(歴史地理学)。京都市生まれ。祖先は高須藩(現在の岐阜県海津市)に代々仕えた漢学者の家柄。 京都一中、三高を経て、1936年京都帝国大学文学部史学科東洋史専攻卒業。1936年東方文化学院京都研究所嘱託、1942年東方文化研究所副研究員。この間、中国留学(39-41年)や出張(43年)によって、中国国内の遺跡の実地調査に当たる。 1948年京都大学人文科学研究所研究員。49年助手、51年講師、57年助教授、68年教授。59年「居庸関」(共同研究)により、日本学士院賞受賞。
佐藤 晃一(さとう こういち、1914年3月4日 - 196… 佐藤 晃一(さとう こういち、1914年3月4日 - 1967年7月7日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。元東京大学文学部教授。主としてトーマス・マンを研究した。 秋田県出身。旧制福岡中学(現福岡県立福岡高等学校)、福岡高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学独文科卒。その後、兵役に就き、第一高等学校教授、東京大学教養学部助教授から、1948年同大学文学部助教授、1961年教授、1967年主任教授となり日本独文学会理事長となるが、7月7日急逝した。 1942年アドルフ・ヒトラーの『吾が闘争』の翻訳が刊行された際には、木村謹治、相良守峯らとともにこれを絶賛し、戦後口を拭ってマンのナチスへの抵抗を礼賛した(池田浩士『ファシズムと文学』)。
横銭 重吉(よこぜに じゅうきち、1914年〈大正3年〉3月… 横銭 重吉(よこぜに じゅうきち、1914年〈大正3年〉3月4日 - 1978年〈昭和53年〉6月22日)は、日本の政治家。日本社会党所属の衆議院議員(1期)。 千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)出身。福田高等小学校卒業後野田醤油に入り、その傍ら野田商業補習学校に通い、卒業した。戦後、野田醤油に労働組合が結成され、これに加入し、書記長、副委員長、執行委員長になる。千葉県議、千葉県労働金庫理事長も務めた。1955年の第27回衆議院議員総選挙において千葉1区から日本社会党左派公認で立候補して当選した。衆議院議員は1期務め、1958年の第28回衆議院議員総選挙で落選した。1978年死去。没後、従五位勲四等旭日小綬章が贈られた。
栗原 貞子(くりはら さだこ、1913年3月4日 - 200… 栗原 貞子(くりはら さだこ、1913年3月4日 - 2005年3月6日)は、詩人。「生ましめんかな」や「ヒロシマというとき」で知られる。 広島県広島市生まれ。可部高等女学校(現広島県立可部高等学校)在学中の17歳から、短歌・詩を中心に創作活動を始めた。1930年、山本康夫が広島で創刊した歌誌『処女林』(1932年に『真樹』に改題)の同人となる。1945年8月6日(広島市への原子爆弾投下)に爆心地の4キロ北の自宅で被爆。戦後は夫の栗原唯一とともに執筆活動を行い、平和運動に参加し、反戦、反核、反原発、反差別、反天皇制を主張、特に昭和天皇の戦争責任を言及しており、『戦前・戦中派にとって天皇絶対主義の恐怖は母斑のように肉体にしみついている。
朴 世東(パク・セドン、朝鮮語: 박세동、1913年3月4日… 朴 世東(パク・セドン、朝鮮語: 박세동、1913年3月4日 - 没年不詳)は、大韓民国の実業家、政治家。第2代韓国国会議員。 江原江陵出身。日本大学法科卒。商会支配人、鉱山経営者、鉱業評論社社長、大韓青年団江陵郡団長、建青首席総務、大韓農民総連盟中央総本部副委員長、大韓独立青年団中央広報部副団長、経済新聞主幹、現代日報創刊主幹・総務局長、大韓反共団中央総本部副団長、大韓啓蒙協会副会長などを務めた。光復後は共産党打倒に尽力し、国会議員在任中は李承晩の政治路線に従って自由党の発展に貢献をしたが、その後族青系と見なされ、除名処分を受ける危機に陥った。
小島 正雄(こじま まさお、1913年〈大正2年〉3月4日 … 小島 正雄(こじま まさお、1913年〈大正2年〉3月4日 - 1968年〈昭和43年〉1月20日)は、日本のジャズ演奏家・評論家、司会者。愛称はチャーさん。 東京生まれ。早稲田大学在学中に、服部正が創設したコンセール・ポピュレール(後の青年日本交響楽団)にトランペット奏者として参加した。卒業後、1941年(昭和16年)にNHKに就職。翌年召集され、1947年(昭和22年)に復員後、戦後再結成した名門ジャズバンドであるブルーコーツのバンドマスターとして活躍。また、日本を代表するコーラスグループであるダークダックス、ボニージャックス、スリー・グレイセス等の育ての親である。 9500万人のポピュラーリクエスト(文化放送)、味の素ミュージックレストラン、オーナー(水・木)(以上、TBSラジオ)。
森村 浅香(もりむら あさか、1912年〈明治45年〉3月4… 森村 浅香(もりむら あさか、1912年〈明治45年〉3月4日 - 2011年〈平成23年〉8月6日)は、歌人。夫は作家の豊田三郎と、長女は森村桂。 群馬県伊勢崎市の旧家の生まれ。東京府立第五高等女学校卒。女子高等学園で西角井正慶に和歌の教えを受ける。同人誌『海石榴』を発行。1946年『鶏苑』に参加。1953年加藤克巳を中心に『近代』を創刊。1954年に『古今』に入会。1960年北沢郁子らと同人誌『藍』を創刊する。現代歌人協会会員。
大野 昭和斎(おおの しょうわさい、1912年3月4日 - … 大野 昭和斎(おおの しょうわさい、1912年3月4日 - 1996年8月30日)は、日本の木工芸家。 本名は片岡誠喜男(かたおか せきお)。重要無形文化財「木工芸」の保持者(いわゆる人間国宝)。木工芸の人間国宝としては中臺瑞真とともに3番目の認定者(1984年)である。 岡山県総社市八代生まれで、1920年に西阿知町に移り住む。父で指物師の片岡斎三郎に14歳で師事、指物や象嵌を修行する。23歳のころ文人画家柚木玉邨(ゆのきぎょくそん)に師事、絵画を習い昭和斎と命名される。作品には桑を好む。桑のほかに欅、柿、黄楊木、肥松(こえまつ)も使う。指物・象嵌の技術に優れ、作品は箱や文机、卓、飾り棚、小箪笥、盛器、香盆、菓子鉢などを作り、箱の四方の直線に線象嵌を用いて指物独特の直線の美しさを見せる。
小林 春男(こばやし はるお、1911年3月4日 - 200… 小林 春男(こばやし はるお、1911年3月4日 - 2005年9月21日)は、日本の経営者。八十二銀行頭取を務めた。長野県出身。 1937年に九州帝国大学法文学部経済学科を卒業。東洋拓殖、大蔵省での勤務を経て、1951年に八十二銀行に入社し、常任監査役に就任。 1967年に取締役に就任し、1969年に常務を経て、1973年5月に副頭取に就任し、1975年12月に頭取に昇格。1989年6月から会長を務めた。 1981年11月に勲三等瑞宝章を受章し、1990年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2005年9月21日心不全のために死去。94歳没。
長谷川 松治(はせがわ まつじ、1911年3月4日 - 19… 長谷川 松治(はせがわ まつじ、1911年3月4日 - 1998年1月28日)は、日本の言語学者、英語学者、翻訳家。 翻訳に多くの業績があり、1948年(昭和23年)ルース・ベネディクトの『菊と刀』の翻訳に携わった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
籠瀬 良明(かごせ よしあき、1911年3月4日 - 200… 籠瀬 良明(かごせ よしあき、1911年3月4日 - 2000年12月21日)は、日本の地理学者。 富山県入善町の黒部川扇状地で生まれる。日本大学卒。 日大第三中学校教諭を経て、日本大学文学部助教授、横浜市立大学文理学部教授、日本大学文理学部教授を歴任。1981年に定年退任。 1960年に『わが国に於ける低位生産水田地域の地理学的研究』で日本大学より文学博士の学位を取得。 1990年に『自然堤防の諸類型に関する研究 - 河岸平野と災害』で日本大学より理学博士の学位を取得。 黒部川扇状地研究所名誉所長、日本城郭史学会名誉会長。 地図と現地調査を重視し、平野の水害や土地利用、集落や歴史的変遷の研究を専門とした。
進藤 貞和(しんどう さだかず、1910年3月4日 - 20… 進藤 貞和(しんどう さだかず、1910年3月4日 - 2002年2月22日)は、日本の実業家。三菱電機社長を歴任。広島県呉市生まれ、長崎県、高知県育ち。九州帝国大学工学部電気科卒。
土方 正巳(ひじかた まさみ、1909年3月4日 - 199… 土方 正巳(ひじかた まさみ、1909年3月4日 - 1997年2月7日)は日本のジャーナリスト、評論家。 弟は、飯沢匡作のNHK人形劇のデザインなどで知られる、画家の土方重巳。 北海道生まれだが、父が日本郵船勤務で幼時は各地を転々とする。 1926年6月、開成中学(旧制)同級生の川尻東次、中村伸郎、鳥山榛名、青柳忠正らとともに「ダナ人形座」の名で人形劇の公演を行う。これが人形劇団プークの始まりである。 1932年、東京帝国大学文学部心理学科を卒業し、都新聞社(1942年に國民新聞社と合併して東京新聞社となる)に入社。同期に北原武夫がいる。1940年、文化部長。1950年、論説委員。1956年、編集局長。
赤松 啓介(あかまつ けいすけ、1909年3月4日 - 20… 赤松 啓介(あかまつ けいすけ、1909年3月4日 - 2000年3月26日)は、日本の在野の民俗学者、郷土史家、社会運動家。本名は栗山一夫。 兵庫県加西郡下里村(現加西市)出身。昭和初期に10代から独学で、行商をしながら都市とムラを行き来し民俗学的調査に取り組む。戦前非合法であった日本共産党に入党し、治安維持法違反で検挙され収監された経験を持つ。 戦後は神戸市史編集委員、神戸市埋蔵文化財調査嘱託などを務めた。 柳田國男などが性とやくざと天皇の民俗学を話題にしない事に反発し、階級闘争史観の視座とフィールドワークを中心とした研究手法で「非常民」の民俗学を研究発表した。関西を中心に活動し、ムラを維持するための公事でありムラの性的規範として夜這いに注目し、庶民の性生活を調査研究、それを体系化したことで知られる。
高田 一郎(たかだ いちろう、1908年(明治41年)3月4… 高田 一郎(たかだ いちろう、1908年(明治41年)3月4日 - 1992年(平成4年)2月11日)は、昭和期の政治家。刈谷市長(1959年7月20日~1967年7月19日)。 1908年(明治41年)3月4日、愛知県一宮市に生まれた。父親は公務員。1930年(昭和5年)に明治大学政治経済学科を卒業し、愛知県庁に就職した。土木課、農林課、経済課、食糧課を経て、海部地方事務所長、渥美地方事務所長、中島地方事務所長などを歴任した。 愛知県額田地方事務所長を務めていた1956年(昭和31年)12月、1955年(昭和30年)から刈谷市長を務めていた竹中七郎によって刈谷市助役に起用された。刈谷市と愛知県のパイプ役を期待された人選である。
丸山 三四子(まるやま みよこ、1907年〈明治40年〉3月… 丸山 三四子(まるやま みよこ、1907年〈明治40年〉3月4日 - 1995〈平成7年〉12月26日)は、詩人・丸山薫の妻。詩人としてまだ収入の乏しかった時期の丸山を、マネキンとしての仕事で支えた。昭和初期のマネキンの事情を綴った書籍『マネキン・ガール』の著者として知られる。旧姓は高井。 1907年、愛知県知多郡有松町(現・名古屋市)で誕生した。先進的な父の方針で、横浜の捜真女学校に入学後、家庭の事情で名古屋の金城女学校に転校した後、愛知県立第一高等女学校専攻科(現・愛知県立明和高等学校)を卒業した。 1927年(昭和2年)、丸山薫と結婚した。丸山薫が詩人としてまだ芽が出ていなかったため、働き口を捜して知人のもとを訪れたところ、三四子の働き口ならあるとして、東京マネキン倶楽部を紹介され、マネキンとなった。
亀田 孜(かめだ つとむ、1906年(明治39年)3月4日 … 亀田 孜(かめだ つとむ、1906年(明治39年)3月4日 - 1982年(昭和57年)12月5日)は、日本の美術史学者。 宮城県伊具郡角田町(現・角田市)出身。吉野臥城(甫)の三男として生まれ、1922年(大正11年)亀田よねの養子となる。宮城県立第一中学校、第二高等学校理科甲類、東北帝国大学文学部卒、奈良国立博物館学芸員、1950年(昭和25年)東北大学文学部助教授、1952年(昭和27年)教授。1969年(昭和44年)定年退官、名誉教授。1962年(昭和37年)「白鳳後期美術の諸形相」で東北大学文学博士。
橋本 福夫(はしもと ふくお、1906年3月4日 - 198… 橋本 福夫(はしもと ふくお、1906年3月4日 - 1987年1月13日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。 兵庫県宍粟郡(現・宍粟市)出身。実家は田路家だが、直ぐに叔母の橋本家へ養子に出る。1930年、同志社大学英文科卒。パン屋、英語教師等の職を転々とし、戦後長野県追分にコミューンを建てる。1951年東邦大学講師、1953年聖書学園短期大学助教授、1954年専修大学商経学部専任講師、1956年助教授、1960年青山学院大学文学部第二部専任講師、1963年助教授、1966年教授。1976年定年退職。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
船越 平八郎(ふなこし へいはちろう、1905年(明治38年… 船越 平八郎(ふなこし へいはちろう、1905年(明治38年)3月4日 - 没年不明)は、昭和時代の政治家。福岡県筑紫野市長。 福岡県筑紫野市出身。 1922年(大正11年)福岡県立朝倉中学校卒業。 1937年(昭和12年)山口村議会議員当選。1942年(昭和17年)、1947年(昭和22年)の連続三選する。 1949年(昭和24年)山口村長選当選、山口村村長となり、1953年(昭和28年)まで村長を務める。 1955年(昭和30年)筑紫野町議会議員当選。1959年(昭和34年)、1963年(昭和38年)の連続三選する。 1967年(昭和42年)筑紫野町長選にて当選、筑紫野町長となる。 1972年(昭和47年)4月1日の市制施行にあたり、初代筑紫野市長となる。
鵜崎 多一(うざき たいち、1905年(明治38年)3月4日… 鵜崎 多一(うざき たいち、1905年(明治38年)3月4日 - 1971年(昭和46年)9月11日)は日本の政治家。福岡県知事(公選)を2期8年務めた。 1905年(明治38年)、学校法人鎮西学院院長などを務めた宗教家鵜崎庚五郎の四男として京都府京都市で生まれる。鎮西中学校、第二高等学校理科甲類を経て1928年(昭和3年)に東京大学農学部農経科卒業。卒業後、農林省に入省し、福島県農地部長や福岡地方経済安定局調整部長、福岡県知事室長などを歴任した。 1959年(昭和34年)4月に行われた福岡県知事選に出馬し当選。当時、全国で唯一の社会党公認知事として、日本のエネルギー政策の転換期において産炭地域であった福岡県が直面した問題に取り組んだ。
山口 勇(やまぐち いさむ、1904年3月4日 - 1982… 山口 勇(やまぐち いさむ、1904年3月4日 - 1982年)は、日本の俳優である。本名同じ。成瀬巳喜男の現存する最古の監督作『腰辨頑張れ』の主演俳優であり、戦後も東映京都撮影所の脇役俳優として知られる。 1904年(明治37年)3月4日、東京府東京市麻布区麻生竹谷町(現在の東京都港区南麻布)に生まれる。小林信彦によれば、赤坂区青山(現在の港区青山1丁目付近)出身の小林の母は、山口の従姉妹にあたるといい、つまり山口からみて小林は従甥にあたる。 麻布区内の東京市立南山尋常小学校(現在の港区立南山小学校)を卒業し、旧制・高輪中学校(かつての第一仏教中学校、現在の高輪高等学校)に進学する。2学年上にのちの俳優の江川宇礼雄がいた。
服部 清道(はっとり せいどう、1904年3月4日 - 19… 服部 清道(はっとり せいどう、1904年3月4日 - 1997年7月19日)は、日本の郷土史家、教員。本名は服部 清五郎(はっとり せいごろう)。 茨城県生まれ。清五郎と名付けられる。1929年に大正大学予科を卒業し、さらに同大学文学部史学科に進学し、1932年に卒業。1936年に比叡山専修院に入学し仏教学を学び、1941年3月に卒業。藤嶺学園で教員を務めたのち、横浜商科大学教授となり、藤沢市文化財保護委員会委員長、湘南考古同好会会長なども務めた。鳥居龍蔵が主宰する武蔵野会に入会し、鳥居から仏教考古学を勧められ、また同会で三輪善之助の指導を得て、板碑を研究とするようになる。1953年、「戒壇の研究」により法政大学から文学博士の学位を授与される。
別府 節彌(べっぷ せつや、1904年 <明治37年> 3月… 別府 節彌(べっぷ せつや、1904年 <明治37年> 3月4日 - 1992年 <平成4年> 5月17日)は日本の外交官。初代ダブリン総領事。初代ラオス駐箚特命全権大使。元バチカン駐箚特命全権大使。位階は正三位。 1941年の開戦に先立つ1940年、英国のリバプール領事であった別府は、イースター蜂起をきっかけに英国から分離していたアイルランドに民家を借りて領事館を開設し、早くから日本とアイルランドの関係深化に努めた。第二次世界大戦中、中立国であったアイルランドでは諜報合戦が繰り広げられており、日本側はわずかな人員(領事と副領事のみ)であったにもかかわらず、十分に機能したというのは別府の功績によるものが大きい。
池田幸太郎(いけだ こうたろう、1904年3月4日 - 19… 池田幸太郎(いけだ こうたろう、1904年3月4日 - 1989年8月14日)は、日本の政治家・官僚・薬剤師。北海道旭川市出身。1925年東京薬学専門学校(現・東京薬科大学)卒。北海道名寄市市長(1958年 - 1974年)。名寄市名誉市民。 1925年内務省東京衛生試験所に入所。1929年内務省退官。名寄町で家業である薬局を継ぐ。1951年北海道薬剤師会理事。1952年名寄町商工会議所副会頭に就任。同年、名寄町教育委員会委員にも就任(~1956年)。1955年名寄町議会議員に初当選。1958年名寄市が市制施行後、初となる市長選出馬し、名寄市長に初当選。連続3期を務め、1974年同市長を勇退。同年、名寄女子短期大学非常勤講師(薬局運営論)・旭川大学非常勤講師(地方自治論)。
岩倉 政治(いわくら まさじ、1903年3月4日 - 200… 岩倉 政治(いわくら まさじ、1903年3月4日 - 2000年5月6日)は、日本の小説家である。 富山県東礪波郡高瀬村(現南砺市高瀬)出身。大谷大学哲学科で鈴木大拙に師事。 戦前は一時期プロレタリア文化運動にかかわったが、その後〈転向〉し、1939年の作品「稲熱病」(いもち)が芥川賞候補作となる。戦時下には日本文学報国会の小説部会の幹事として、全国を講演したりもした。 戦後は富山市に在住。戦時下の行動を自己批判し、社会変革の運動にかかわりながら文学活動をつづける。1949年の児童文学作品、「空気のなくなる日」は映画化やその後も教材として長く読まれた。1950年代には『人民文学』にも作品を発表した。
鳥海 青児(ちょうかい せいじ、1902年3月4日 - 19… 鳥海 青児(ちょうかい せいじ、1902年3月4日 - 1972年6月11日)は、日本の洋画家。神奈川県中郡須馬村(現在の平塚市)生まれ。本名は正夫。 茶色を基調とした渋い色調の絵具を多用し、土壁のような絵肌の単純化された構図の作品を数多く制作した。 砂を混ぜた渋い色調の絵具を厚く盛り上げたのち、それをノミで削り取る技法を好んで用い、単純な構成とざらざらとした絵肌の重厚な質感により、雅趣に富む味わいと気品を湛える画風を確立した。この技法には、鳥海がたびたびアジア諸国へ旅行した際に見た土が影響しているとも考えられる。また彼の茶を基調にした作品は、日本の油彩画の一典型とも見なされている。
一瀬 正巳(いちのせ まさみ、1902年〈明治35年〉3月4… 一瀬 正巳(いちのせ まさみ、1902年〈明治35年〉3月4日 - 1953年〈昭和28年〉ごろ)は、日本の物理学者。 1902年、熊本県玉名郡小田村に生まれる。熊本県立玉名中学校(1919年卒業、同級生に宮崎世民がいる)、旧制第五高等学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業した。 京大卒業後は南満洲鉄道に勤務し、1927年より旧制名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の教授となり、1941年に従五位に叙された。 主著に『誤差論』(培風館、1953年)がある。
高羅 芳光(こうら よしみつ、1902年3月4日 - 198… 高羅 芳光(こうら よしみつ、1902年3月4日 - 1984年5月14日)は、日本の経営者。富士通社長、会長を務めた。山口県出身。 1929年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に富士電機製造に入社。1947年に富士通信機製造に転じ、1949年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1970年5月に社長に就任した。1974年11月から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1978年に勲二等瑞宝章を受章。 1984年5月14日、脳梗塞のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3… 黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3月4日 - 1975年(昭和50年))は、日本の実業家。東京急行電鉄専務のほか、東横映画、東京映画配給、東急自動車、東京トヨタディーゼル社長などを務めた。広島県賀茂郡西条町(現・東広島市)出身。 岡田茂は実家の四軒隣で、医師の息子だった黒川は、旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て1926年(大正15年)、慶應義塾大学経済科卒業。 東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)に入社し同社開発、電燈各課長、東京急行電鉄事業部長、殖産局次長、取締役、専務を歴任。根っこからの野人、バケツの底が抜けたような大酒くらいで大風呂敷。お固い電鉄会社では型破りな人物で五島慶太に可愛がられた。
芦原 義重(蘆原、あしはら よししげ、1901年 <明治34… 芦原 義重(蘆原、あしはら よししげ、1901年 <明治34年> 3月4日 - 2003年 <平成15年> 7月12日)は、昭和期の実業家。関西電力元社長・会長・名誉会長。位階は正三位。芦原義倫は四男。 香川県高松市出身。高松中学、旧制第六高等学校を経て、1924年3月京都帝国大学工学部電気工学科卒業。同年、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄、企業としては現・阪急阪神ホールディングス)に入社した。1942年の配電統制により関西配電へ引継採用され、工務部電務課長に就任した。1946年、同社常務取締役、1950年、同社取締役副社長。 1951年の電気事業再編成により、関西電力常務取締役に就任した。1959年に太田垣士郎の後任として取締役社長に就任し、黒部川開発を始めとした電源開発と共にいち早く原子力発電を導入した。
美根 五郎(みね ごろう、1900年(明治33年)3月4日 … 美根 五郎(みね ごろう、1900年(明治33年)3月4日 - 1971年(昭和46年)2月14日[要出典])は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。黄海道知事。 美根虎吉の五男として福岡県に生まれ、兄虎雄の養子となる。1924年(大正13年)高等試験行政科に合格し、翌年東京帝国大学法学部を卒業する。朝鮮総督府に奉職し、慶尚南道警部、全羅南道学務課長、総督府土地改良事務官、咸鏡北道財務課長、大邱税務監督局税務部長、総督官房審議室事務官文書課長兼人事課長、国勢調査課長、官房人事課長などを経て、1942年(昭和17年)11月、総務局監察課長に就任した。のち黄海道知事に任じた。1944年(昭和19年)退官した。
酒井 協(さかい きょう、1899年3月4日 - 1982年… 酒井 協(さかい きょう、1899年3月4日 - 1982年2月24日)は、日本の作曲家。宝塚歌劇団名誉理事。福井県出身。 1899年(明治32年)、福井市で理髪店を営む家庭に生まれる。少年時代より音楽を志望するも自宅が火災に遭って全焼する不運に見舞われ、家計を助けるため京都市電に就職した。後に病気の母を看護するため帰郷して越前電気鉄道に移り、夜間にヴァイオリンのレッスンへ通う生活を送った。ヴァイオリンの師に薦められて兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)で阪急電鉄が発足させた宝塚歌劇団の管弦楽部へ入部する。 宝塚ではエマヌエル・メッテルから演奏と指揮を学び、劇団の専属作曲家として劇伴曲の作曲や編曲に当たった。
関内 正一(關内、せきうち しょういち、1897年(明治30… 関内 正一(關内、せきうち しょういち、1897年(明治30年)3月4日 - 1962年(昭和37年)4月26日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・新妻。 福島県岩城郡大浦村上仁井田(四倉町を経て現いわき市)で素封家・新妻伊之助の長男として生まれ、岩城郡平町(平市を経て現いわき市平)の老舗・関内家の養子となる。福島県立磐城中学校(現福島県立磐城高等学校)を経て早稲田大学商科で学んだ。 28歳で平町会議員に就任。同議長、福島県会議員、平市会議員、同議長を務めた。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で福島県第3区から自由党公認で出馬して当選。第24回総選挙で再選され、1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙では次点で落選。
内山 貞三郎(うちやま ていざぶろう、1896年3月4日 -… 内山 貞三郎(うちやま ていざぶろう、1896年3月4日 - 1976年10月2日)は、日本のドイツ文学者。 新潟県出身。1920年東京帝国大学文学部独文科卒。第三高等学校教授、1949年大阪大学文学部ドイツ文学科初代教授。1956年「工匠歌人ハンス・ザックスとその舞台」で東京大学文学博士。1960年阪大を定年退官、名誉教授、関西大学教授、1967年京都外国語大学教授。ドイツ戯曲を研究した。 ドイツ文化の普及に尽くしたとして西ドイツ政府からゲーテ・メダルの贈呈を受けた。1976年10月2日、老衰のため京都府向日市の自宅にて死去。80歳。
三宅 晴輝(みやけ せいき、1896年3月4日 ‐ 1966… 三宅 晴輝(みやけ せいき、1896年3月4日 ‐ 1966年9月1日)は、日本の実業家、経済評論家。 兵庫県出身。1919年早稲田大学商科卒。三菱商事をへて1924年東洋経済新報社の記者となり、電力部門を担当、松永安左エ門、小林一三らの知遇を得た。1940年常務理事ののち退社。戦時中、九州の旅館で朝香宮の行状を女中に話したことが刑事に知れ、不敬罪で懲役1年半(執行猶予2年)の判決を受けた。戦後はNHK理事ののち1948年東宝取締役、東宝争議で退社。産経新聞論説委員、NHK放送審議会委員。日本エッセイスト・クラブ賞選考委員。子に英語学者の三宅鴻。
藤本 了泰(ふじもと りょうたい、1892年〈明治25年〉3… 藤本 了泰(ふじもと りょうたい、1892年〈明治25年〉3月4日 - 1945年〈昭和20年〉3月16日)は、日本の仏教学者、教育者、僧侶。大正大学文学部教授、立教大学文学部教授。京都・帰命院住職、東京芝・天徳寺住職。近代的な研究手法により、従来から不明瞭な部分が多かった浄土教の歴史解明に深く貢献した。号は摂蓮社心誉常阿。 1892年(明治25年)3月4日、茨城県猿島郡岩井村(岩井町、岩井市を経て、現在の坂東市)に生まれる。 1907年(明治40年)に得度(出家)し、東京・増上寺において堀尾貫務から宗脈・戒脈を授けられる。 1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大史学科国史学専修を卒業したのち、1921年(大正10年)、同大史料編纂所に史料編纂補助嘱託として入り、のちに史料編纂官補となり、1929年(昭和4年)まで勤務した。
妹尾 韶夫(せのお あきお、1892年3月4日 ‐ 1962… 妹尾 韶夫(せのお あきお、1892年3月4日 ‐ 1962年4月19日)は、日本の翻訳家・探偵小説作家。創作では妹尾アキ夫名義での活動が多い。 岡山県津山市生まれ。早稲田大学英文科卒業後、1922年(大正11年)頃から雑誌『新青年』等で英米中心の探偵小説の翻訳を手がける。ステイシー・オーモニア(英語版)、L.J.ビーストン、R.A.フリーマン、ハリス・バーランド、ブリットン・オースティン、アガサ・クリスティーの短編が特に多かった。1925年(大正14年)以降はアキ夫名義で創作も手がけ、30作から40作ほどの短編を発表している。 また、『新青年』で月評を担当していた胡鉄梅、『宝石』で月評を担当していた小原俊一は、共に妹尾の変名だといわれている。
八杉 角五郎(やすぎ かくごろう、1890年(明治23年)3… 八杉 角五郎(やすぎ かくごろう、1890年(明治23年)3月4日 - 1977年(昭和52年)1月25日)は、日本の実業家。八杉商店社長、会長を務めたほか、広島地方裁判所司法委員、福山家庭裁判所調停委員、福山商工会議所副会頭などを歴任した。位階勲等は従五位勲五等。藍綬褒章受章。 現在の広島県府中市にて、小川良平の子として生まれた。旧制福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学し、1907年(明治40年)に卒業した。中学校では剣道部に所属した。1910年(明治43年)に長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)を卒業し、教員となった。 福山市深津町の八杉家の婿養子となって八杉商店6代目社長に就任、福山ガス(株)、ニコニコバス(株)、福山合金(株)、福山興業(株)の取締役を務めた。