松阪 輝久(まつさか てるひさ、1926年4月5日 - 20… 松阪 輝久(まつさか てるひさ、1926年4月5日 - 2006年3月4日)は、日本出身の数学者。ブランダイス大学教授。後にアメリカ国籍を取得した。代数幾何学に業績を残した。アンドレ・ヴェイユの弟子。 1952年、京都大学理学博士。ヴェイユの代数幾何学の研究を継続し、ヴェイユの在籍していたシカゴ大学で1954年から1957年まで研究者として在籍した。 その後、ノースウェスタン大学やプリンストン高等研究所(IAS)に在籍。 1958年にはエジンバラで開催された国際数学者会議に招待される。 1959年から60年までグッゲンハイム・フェロー。 1961年、ブランダイス大学数学科に赴任。1966年、アメリカ芸術科学アカデミー会員に選出された。
中根 鎭夫(なかね しずお、1925年(大正14年)4月5日… 中根 鎭夫(なかね しずお、1925年(大正14年)4月5日 - 2018年(平成30年)1月3日)は、日本の政治家。岡崎市長(5期)、愛知県議会議員(2期)、岡崎市議会議員(4期)、岩津町議会議員(1期)、東海市長会長、全国市長会副会長などを歴任した。 愛知県額田郡常磐村大字大柳(現・岡崎市大柳町)に元常磐村長の大山巌の長男として生まれた。祖母の実家である奥殿村(現・岡崎市奥殿町)の中根八郎の養子となるも、8歳のときに養父を胃がんで亡くす。奥殿尋常高等小学校(現・岡崎市立奥殿小学校)、岩津農商学校(現・愛知県立岩津高等学校)卒業。愛知第二師範学校本科に入学するが、1944年(昭和19年)5月に特別甲種幹部候補生制度が導入されると、これに志願。
田中 真晴(たなか まさはる、1925年4月5日 - 200… 田中 真晴(たなか まさはる、1925年4月5日 - 2000年6月21日)は、日本の経済学者。 京都市生まれ。1947年、京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。大学院をへて1950年に京都大学経済学部助手、講師へ就任。1954年には助教授、1967年には教授に就任した。1968年、「ロシア経済思想史の研究 プレハーノフとロシア資本主義論史」で京大経済学博士。1974年、甲南大学経済学部教授、1986年京大名誉教授、甲南大学理事、経済学部長。1987年には経済学史学会代表幹事に。1991年には名誉教授、龍谷大学経済学部教授。1994年、退職。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。
稲葉 益巳(いなば ますみ、1925年4月5日 - 1998… 稲葉 益巳(いなば ますみ、1925年4月5日 - 1998年2月14日)は日本の医師。東京都出身。稲葉クリニック院長。臨床毛喪医学研究会初代会長、日本美容外科医師会会長を務めた。 東京都杉並区阿佐ヶ谷出身。昭和医学専門学校(現・昭和大学)卒業。 体臭研究の第一人者として知られた。1979年、わきがの根治手術の開発により日本医師会最高優功賞受賞している。養毛剤の開発でも知られる。体臭や男性型脱毛症についての執筆もある。 日本には同名の2つの美容外科学会(JSASとJSAPS)があり、晩年は2つの美容外科学会の統一に向けた調整に尽力した。 1998年2月14日、呼吸不全のため、東京都杉並区の自宅にて死去(72歳)。
金森 久雄(かなもり ひさお、1924年4月5日 - 201… 金森 久雄(かなもり ひさお、1924年4月5日 - 2018年9月15日)は、日本の経済官僚・経済評論家。 1924年 、岡田内閣の法制局長官、第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣を務めた 金森徳次郎の子として東京都に生まれる。弟金森博雄は地震学者。1937年、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業、同級生に柳谷謙介(外務事務次官)がいた。1942年、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業する。昆虫採集に夢中になり、水泳、剣道、相撲もやったが上達しないので、将棋に没頭した。大川周明の『日本二千六百年史』、福澤諭吉の『福翁自伝』、斎藤茂吉『万葉秀歌』に感銘、張遷碑の書を習う。
石井 聖光(いしい きよてる、1924年(大正13年)4月5… 石井 聖光(いしい きよてる、1924年(大正13年)4月5日 - 2025年(令和7年)5月30日)は、日本の学者。専門は建築音響工学ならびに騒音。東京大学名誉教授。 ※日本音響学会 「私と音との関わり」 1924年4月5日生まれ。 1947年9月、東京大学工学部建築学科卒業。 1954年12月、同大学助手。 1960年4月、工学博士(東京大学)。 1961年8月、東京大学生産技術研究所助教授。 1970年6月から1985年3月まで、同大学教授。 1985年5月、同大学名誉教授。 1979年から1981年まで、日本音響学会会長を務めた。 2025年5月30日死去。101歳没。
黒板 伸夫(くろいた のぶお、1923年(大正12年)4月5… 黒板 伸夫(くろいた のぶお、1923年(大正12年)4月5日 - 2015年(平成27年)5月11日)は、日本の歴史学者。専門は日本古代史。妻は作家の永井路子。歴史学者の黒板勝美は伯父。 1923年(大正12年)、東京府生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。同大学大学院(旧制)修了。平安博物館嘱託、同博物館講師、吉川弘文館編集長を経て、清泉女子大学教授・醍醐寺霊宝館長。 2015年5月11日、肺炎のため死去。92歳没。 2016年、第27回大衆文学研究賞・大衆文学部門を、黒板伸夫・永井路子編「黒板勝美の思い出と私たちの歴史探究」(吉川弘文館)が受賞した。
江口 篤寿(えぐち あつひさ、またはあつとし)1923年4月… 江口 篤寿(えぐち あつひさ、またはあつとし)1923年4月5日-2010年5月20日)は、医師、健康教育学者。 鹿児島県出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)および第七高等学校造士館 (旧制)を経て、1947年東京帝国大学医学部卒、1961年順天堂大学医学博士。学位論文の題は「新生児及び幼若乳児における二、三の反射の消長について 」。 医師。1959年立教学院診療所医師。1974年東京大学講師、1976年筑波大学教授、87年定年退官、名誉教授、和洋女子短期大学教授。日本健康情報科学協会会長。
野村 武史(のむら たけし、1919年4月5日 - 1985… 野村 武史(のむら たけし、1919年4月5日 - 1985年1月29日)は、岐阜県出身のプロ野球選手(投手)。
神前 五郎(こうさき ごろう、1919年(大正8年)4月5日… 神前 五郎(こうさき ごろう、1919年(大正8年)4月5日 - 2015年(平成27年)3月22日)は、日本の外科医、元大阪大学教授。 千葉県出身。大阪帝国大学医学部出身の外科医で、専門は癌、血栓止血学。阪大医学部第二外科教授、後に日本外科学会会長、定年退官後は東京都立駒込病院の院長をつとめた。山崎豊子『白い巨塔』の財前五郎のモデルとされるが、山崎が主治医であった神前の名前と地位を借りたのみで、直接的なモデルではないとされる。孫に作曲家・編曲家の神前暁がいる。2013年、「がんもどき」理論を提唱する近藤誠に反論し、『週刊朝日』誌上で直接討論を行った。2015年3月22日 肺炎のため95歳で死去した。
尚 明(しょう あきら、1915年4月5日 - 1991年6… 尚 明(しょう あきら、1915年4月5日 - 1991年6月11日)は、日本の官僚。元日本住宅公団副総裁。 琉球王国最後の国王・尚泰王の六男・尚光の息子として東京都に生まれる。1933年旧制武蔵高等学校卒業後、1938年に東京帝国大学を卒業し、大蔵省営繕管財局へ入省。1964年、建設省住宅局長を経て、1966年には日本住宅公団理事となり、1971年には日本住宅公団の副総裁に就任。その後も日本住宅リフォームセンター(現在の住宅リフォーム・紛争処理支援センター)初代理事長をはじめ住宅産業情報サービス、性能保証住宅登録機構などの理事長を務めた。 また、日本におけるダイニングキッチンの発明者としても知られている。
岡部 健二(おかべ けんじ、1915年(大正4年)4月5日 … 岡部 健二(おかべ けんじ、1915年(大正4年)4月5日 - 没年不詳)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練38期。最終階級は少尉。 福岡県福岡市出身。旧制修猷館中学卒業後、海兵団に入団。搭乗員を志し、1937年(昭和12年)3月10日、操縦練習生となる。同期生に坂井三郎(首席)。 同年11月30日、操縦練習生課程を修了し、佐伯海軍航空隊に配属された。その後大村海軍航空隊を経て、昭和13年7月にいよいよ戦線を担う第十二航空隊に配属、中国大陸で任務に就いたものの、空戦の機会にあいまみえることはなかった。 翔鶴飛行機隊に転属して間もなく太平洋戦争開戦を迎え、ハワイ・真珠湾攻撃で母艦直衛任務を実施。
斎藤 光(さいとう ひかる、1915年4月5日 - 2010… 斎藤 光(さいとう ひかる、1915年4月5日 - 2010年7月11日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。東京大学名誉教授。 英文学者斎藤勇の長男として東京府に生まれる。 1939年、東京帝国大学英文科卒業、1940年、東北帝国大学副手、1941年、第四高等学校教授、1946年、第一高等学校教授、1950年、東京大学教養学部助教授、のち教授を務める。1976年、定年退官後は日本大学教授、明星大学教授を歴任、1990年から1997年まで自由学園理事長を務める。 1991年、勲三等旭日中綬章受章。 2010年7月11日、肺炎のため死去。95歳没。墓所は多磨霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
長尾 良(ながお はじめ、1915年4月5日 - 1972年… 長尾 良(ながお はじめ、1915年4月5日 - 1972年3月29日)は、日本の作家。 兵庫県飾磨郡(現:姫路市)家島町真浦出身。東京帝国大学文学部卒。平林英子・中谷孝雄に師事、『コギト』同人として小説を書く。 太宰治らと親しく、檀一雄の異父妹の高岩忍と結婚。 また、出版社「ぐろりあ・そさえて」の編集者としても働いていた。同社は播磨の大地主で貴族院議員の伊藤長次郎の弟・伊藤長蔵が設立した出版社で、小説や歌集、評論を多く出していた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
佐橋 滋(さはし しげる、1913年〈大正2年〉4月5日 -… 佐橋 滋(さはし しげる、1913年〈大正2年〉4月5日 - 1993年〈平成5年〉5月31日)は、日本の官僚。通商産業事務次官。 高度成長期日本の官僚主導型政治システムにおける典型的トップ官僚として知られる一方で、その官僚らしからぬ大胆さでも有名であり、城山三郎の『官僚たちの夏』(ISBN 4101133115)の主人公・風越信吾は佐橋をモデルとしている。作中では風越の一派に庭野が描かれているがその庭野のモデルは三宅幸夫であり、八高、東大の後輩・同窓にあたる。娘の夫に中小企業金融公庫副総裁であった横田捷宏がいる。合気道を趣味のひとつにしていた。 岐阜県土岐市出身。東海中学、第八高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業。
辻 清明(つじ きよあき、1913年4月5日 - 1991年… 辻 清明(つじ きよあき、1913年4月5日 - 1991年7月30日)は、日本の政治学者、行政学者。東京大学名誉教授。 京都生まれ。三高を経て、1937年東京帝国大学法学部政治学科卒業、同学部助手となる。1938年6月、臨時召集のため歩兵第9連隊に入隊、1940年5月、同除隊し、研究に戻る。1942年東京大学法学部助教授、1951年同教授、1967年から1968年まで法学部長を務める。1974年定年退官、名誉教授、国際基督教大学教授。1979年文化功労者。1985年日本学士院会員。1987年12月、品川区名誉区民(服部良一(作曲家)ともに授賞)。1989年春、勲二等旭日重光章受勲。
藤野 渉(ふじの わたり、1912年4月5日 - 1983年… 藤野 渉(ふじの わたり、1912年4月5日 - 1983年5月3日)は、日本の哲学者。名古屋大学名誉教授。 1912年、熊本県熊本市で生まれた。愛媛県出身。京都帝国大学文学部哲学科で学び、1935年に卒業。 戦後、名古屋大学文学部助教授に就いた。後に教授昇格。1976年に名古屋大学を定年退官し、名誉教授となった。マルクス主義を主として研究した。
市川弘勝(いちかわ ひろかつ、1911年4月5日 - 198… 市川弘勝(いちかわ ひろかつ、1911年4月5日 - 1984年2月29日)は、日本の経済学者。東洋大学名誉教授。鉄鋼について研究した。 東京出身。東京帝国大学経済学部卒。日本鉄鋼協議会調査課長、政治経済研究所所員、理事長。東洋大学教授を務め、1981年定年、名誉教授。
木村 武千代(きむら たけちよ、1910年〈明治43年〉4月… 木村 武千代(きむら たけちよ、1910年〈明治43年〉4月5日 - 2000年〈平成12年〉11月28日)は、昭和期の官僚、政治家。衆議院議員(6期)。位階は正四位。 香川県大川郡津田町(現さぬき市)で生まれた。1937年(昭和12年)東京帝国大学法学部を卒業。高等試験行政科試験に合格し拓務省に入省。外務省に移り外務書記生となりメキシコ公使館などで勤務。その後、陸軍中野学校を卒業し、陸軍大尉に進み除隊した。 三土忠造代議士の秘書を経て、大映に入社。永田雅一の社長秘書、外国部長などを務めた。東瀝青建設取締役も務めた。 1963年(昭和38年)、第30回衆議院議員総選挙に旧香川1区から自由民主党公認で出馬し初当選。
春名 好重(はるな よししげ、1910年4月5日 - 200… 春名 好重(はるな よししげ、1910年4月5日 - 2004年6月27日)は、書の研究家、国士舘大学名誉教授。 岡山県生まれ。東京帝国大学文学部国文学科卒業。国士舘大学教授・文学部長を務めた。日本書道史を研究。本名・斎藤秀雄。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日… 狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日 - 1977年〈昭和52年〉3月10日)は、日本のジャーナリスト。毎日新聞社取締役、スポーツニッポン新聞社社長。 群馬県群馬郡古巻村八木原(現・渋川市八木原)に生まれる。旧制高崎中学校を経て、1932年(昭和7年)早稲田大学法学部を卒業。福田赳夫は高崎中学校の同級。 大学卒業後毎日新聞記者となる。東京裁判の取材ではキャップとして活躍。中部本社編集局長、印刷局長、東京出版局長、東京編集局長を歴任し、1965年(昭和40年)取締役に就任。中部本社代表、西部本社代表、常務取締役も務める。 1971年(昭和46年)よりスポーツニッポン新聞社社長、1975年(昭和50年)同会長。
浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 20… 浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 2000年12月25日)は、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)出身の版画家。 銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチント技法の開拓者となった。同じく版画家の南桂子は妻。本名は濱口 陽三(はまぐち ようぞう)だが、筆名としては新字体の「浜」を用いていた。 1909年(明治42年)4月5日、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)に生まれた。生家の濱口儀兵衛家はヤマサ醤油の創業家であり、陽三は濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛)の三男である。幼少時に一家で千葉県銚子市に転居した。 東京美術学校(現・東京藝術大学)では彫刻科塑造部に入学したが、2年で退学しパリへ渡航した。
永田 義直(ながた よしなお、1908年4月5日 - 198… 永田 義直(ながた よしなお、1908年4月5日 - 1983年4月18日)は、日本の国文学者、民俗学者、翻訳家。 神奈川県横浜市生まれ。1931年東洋大学卒。兵庫県の公立高校の教員、校長を経て文筆家。古典文学、日本神話、民俗学、芸能などについて執筆した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
牛尾 三千夫(うしお みちお、1907年4月5日 - 198… 牛尾 三千夫(うしお みちお、1907年4月5日 - 1986年9月17日)は、日本の民俗学者、神職、歌人。現代に神がかりを残す大元神楽の伝承者で主に神楽と田植歌の分野で功績を残している。 1907年4月5日、島根県邑智郡市山村(現江津市桜江町市山)に生まれる。実家は神職を家職としていた。 1921年、市山村尋常高等小学校を卒業し島根県立浜田中学校に入学するも、長期の病気療養を経て1925年に退学、広島市の私立山陽中学校に編入し1927年に卒業した。医科大学進学を希望していたが、兄の死により牛尾が家業を継ぐことになり國學院大學神道部に進学する。なお母の死によって上京は1年遅れる。 在学中、鈴木棠三、三谷栄一らとともに方言研究会を創設し会誌「方言」を発刊するも3号で廃刊する。
金 起林(キム・ギリム、朝鮮語: 김기림、1907年4月5日… 金 起林(キム・ギリム、朝鮮語: 김기림、1907年4月5日 - 没年不詳)は、大韓民国の詩人、文学評論家。 本名は金 仁孫(キム・インソン、김인손)。幼名は金 寅孫(読み、ハングル同じ)。号は片石村(ピョンソクチョン、편석촌)。 咸鏡北道鶴城郡生まれ。普成高等普通学校(現・普成高等学校)を経て日本大学英文学科中退、東北帝国大学(現・東北大学)英文学科卒業。帰国後朝鮮日報学芸部記者を務め、朝鮮日報に『行け新しい生活で』を発表し、文壇に登場した。同紙には評論『詩の技術認識の現実など諸問題』を発表し、文学評論も行なった。 1933年、李箱、李孝石、趙容万、朴泰遠らとともに九人会を結成し、この頃より本格的に詩作を始め、1936年に詩集『気象図』を発表した。
滝本 清八郎(たきもと せいはちろう、1906年4月5日 -… 滝本 清八郎(たきもと せいはちろう、1906年4月5日 - 1971年5月2日)は、日本の経営者。日本板硝子社長を務めた。 富山県富山市出身。1933年に神戸商業大学を卒業し、1934年に日本板硝子に入社。1951年11月に取締役に就任し、1958年5月に常務、1967年2月に専務を経て、1968年11月に社長に就任した。 1971年5月2日、肺癌のために死去。65歳没。
山田 弥一(山田 彌一、やまだ やいち、1906年4月5日 … 山田 弥一(山田 彌一、やまだ やいち、1906年4月5日 - 1978年8月5日)は、昭和期の日本の政治家。衆議院議員(当選5回、自由民主党所属)、運輸政務次官(第1次池田内閣)、全国旅館生活衛生同業組合連合会(全旅連)、社団法人全国生活衛生同業組合中央会各会長。早稲田大学専門部商科卒業。 静岡県熱海市出身。1925年創業の老舗旅館・大月ホテル(2005年経営破綻、再建中)創業者であり、熱海町議、熱海市議・同議長、静岡県議・同議長を経て、1952年の第25回衆議院議員総選挙で初当選。以降、同じく熱海の老舗旅館・つるや(2001年に廃業)の創業者で共に自由民主党衆議院議員である畠山鶴吉と選挙・事業の両面で激しく覇を争った。
太田 三郎(おおた さぶろう、1905年4月5日 - 197… 太田 三郎(おおた さぶろう、1905年4月5日 - 1978年7月19日)は、日本の外交官、政治家。初代公選横須賀市長を経て、駐ビルマ特命全権大使、駐ポーランド特命全権大使、駐オーストラリア特命全権大使を歴任した。 茨城県出身。1925年第五高等学校文科甲類卒業。1928年東京帝国大学法学部卒業、外務省入省。1930年任外交官補、英国在勤。1931年在シドニー領事館補。1937年在ソビエト連邦大使館三等書記官。1940年外務省欧亜局第三課長。1943年外務省調査局第三課長。 1945年8月ポツダム宣言による終戦受諾により終戦連絡中央事務局第三部長、9月2日、ミズーリの艦上での降伏文書調印式では日本側全権団随員で参列した。
寺尾 威夫(てらお たけお、1905年4月5日 - 1974… 寺尾 威夫(てらお たけお、1905年4月5日 - 1974年5月25日)は、日本の実業家。大和銀行元頭取、会長。奈良県吉野郡十津川村出身。 1929年に東京帝国大学法学部を卒業し、野村銀行(のちの大和銀行、統合により、現在はりそな銀行となる。)に入行した。 1947年1月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1950年8月には社長に就任し、1951年11月からは大和銀行頭取を務め、1973年4月からは会長を務めた。頭取在職中に、1965年に大蔵省から行政指導により、信託業務を分離するように命令を受けたが、これを拒否し、信託併営を堅持した。 その一方で、関西経済同友会幹事、大阪商工会議所副会頭などを歴任した。
小川 喜一(おがわ きいち、1904年(明治37年)4月5日… 小川 喜一(おがわ きいち、1904年(明治37年)4月5日 - 1979年(昭和54年)8月18日)は、日本の内務官僚。栃木県知事。 徳島県出身。京都高等蚕糸学校を卒業。1927年、京都帝国大学農学部農林経済科を卒業。同年12月、高等試験行政科試験に合格。京都帝大で勤務し、1928年、内務省に転じ茨城県属となる。 福井県書記官・警察部長、警視庁警務部長、広島県部長・警察部長などを務め、1946年1月、栃木県知事となり、1947年3月、初の公選知事選に出馬のため知事を辞任するが次点で落選した。 1955年2月、日本社会党の支援を受けて二度目の知事選出馬で当選を果たした。任期の後半は少数与党のため困難な議会運営を強いられた。
石堂 清倫(いしどう きよとも、1904年4月5日 - 20… 石堂 清倫(いしどう きよとも、1904年4月5日 - 2001年9月1日)は、日本の評論家、社会思想研究家、社会運動家である。 1904年、石川県石川郡松任町(現白山市)生まれ。第四高等学校で先輩である中野重治を知り、東京帝国大学在学中、新人会で共に活動する。1927年東京帝国大学文学部英文科卒業後、関東電気労働組合に勤務、東京府荏原郡馬込村で西田信春、大間知篤三、岩田義道、栗原佑との5人で共同生活。同年10月、日本共産党入党、11月無産者新聞の編集に携わる。1928年、「三・一五事件」に連座し逮捕。その後釈放と逮捕を繰り返し、執行猶予となって、1933年11月保釈。獄中でロシア語や中国語を独学、ペンネームでウラジーミル・レーニンなどの著作を翻訳。
桝田 啓三郎(ますだ けいざぶろう、1904年〈明治37年〉… 桝田 啓三郎(ますだ けいざぶろう、1904年〈明治37年〉4月5日 - 1990年〈平成2年〉12月12日)は、日本の哲学者(ドイツ・アメリカ哲学)。東京都立大学名誉教授。キェルケゴール研究では、日本国内の第一人者であった。 愛媛県喜多郡大洲町(現大洲市)生まれ。生糸繭屑物商桝田與三郎の三男。1930年、法政大学文学部哲学科卒業。三木清の弟子であった。大学卒業後、法政大学で長く教鞭をとった。千葉大学、旧・東京都立大学などでも教えた。 卓越した語学力の持ち主で、キェルケゴール、ウィリアム・ジェームズ、フォイエルバッハ、フィヒテ、ベルクソン、デカルトを翻訳。特にキェルケゴールは、独学でデンマーク語を学び原典翻訳を行い、それまでドイツ語訳を使用することの多かった日本の研究状況を一変させた。
川﨑 千春(かわさき ちはる、1903年〈明治36年〉4月5… 川﨑 千春(かわさき ちはる、1903年〈明治36年〉4月5日 ‐ 1991年〈平成3年〉6月6日)は、日本の実業家。京成電鉄第5代代表取締役社長、京成百貨店代表取締役社長、オリエンタルランド初代代表取締役社長、北総開発鉄道代表取締役社長、成田空港交通代表取締役社長、日本民営鉄道協会会長を務めた。また、日本大学第一学園の第6代同窓会長も歴任した。茨城県出身。趣味はゴルフ、邦楽、古いヴァイオリンの修理。 日本にディズニーパークを誘致する構想を提案した人物であり、東京ディズニーランドの建設計画にも中心的に関わった。京成電鉄では21年間にわたり社長を務め、京成グループの発展に尽力した。 尾張徳川家に仕えた絵師の家系の出身で、従兄に川﨑小虎、小虎の長女・川﨑すみの夫に東山魁夷がいる。
盛本 完(もりもと かん / ゆたか、1902年(明治35年… 盛本 完(もりもと かん / ゆたか、1902年(明治35年)4月5日 - 1955年(昭和30年)11月17日)は、日本の内務・警察官僚。最後の官選宮崎県知事。 広島県出身。盛本縫之助の養子となる。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、中央大学法学部を卒業。1925年、内務省に入省し、警視庁警部補となる。 以後、警視庁衛生主事、同衛生部衛生課長、同警視、中野警察署長、早稲田警察署長、四谷警察署長、警視庁刑事部捜査第二課長、千葉県地方課長、同庶務課長兼人事課長、同知事官房主事、北海道庁事務官・経済部商業課長、神奈川県警察部特別高等課長、山梨県書記官・経済部長、富山県書記官・警察部長、三重県書記官・警察部長、山口県内務部長などを歴任。
羽衣 歌子(はごろも うたこ、1902年(明治35年)4月5… 羽衣 歌子(はごろも うたこ、1902年(明治35年)4月5日 - 1979年(昭和54年)9月7日)は、青森県出身の歌手。本名:加藤絢子。民謡歌手の三島一声は元夫。 東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を卒業後、1930年(昭和5年)にデビュー。1931年(昭和6年)に、広津和郎の小説を原作とした映画「女給」の主題歌「女給の唄」がヒット。日本ビクター蓄音機社の社歌や、「満州行進曲」などを吹き込む[要出典]。その後「東京音頭」で知られる、民謡歌手の三島一声と結婚するが、離婚。 戦後は引退していたが、音楽塾を経営し、歌の指導を行っていた。 昭和40年代の懐メロブームで復帰。1966年(昭和41年)に、田谷力三や榎本健一と共に出演した、第202回三越名人会「浅草オペラ」の歌唱が認められ、文部省芸術祭大衆芸能部門奨励賞を受賞し、再び表舞台へと返り咲いた。
信田秀一(しだ ひでかず-しゅういち、1902年4月5日 -… 信田秀一(しだ ひでかず-しゅういち、1902年4月5日 - 1974年5月3日)は、児童文学作家。青森生まれ。1922年青森師範学校卒、小原圀芳の自由教育に参加、成城学園のイデア書院の編集部に勤務。小学館、誠文堂新光社、日本出版、二葉株式会社の児童出版の企画編集。1973年日本児童文芸家協会から児童文化功労者。別筆名・石上十地、斎藤久児。
松波 直秀(まつなみ なおひで、1901年4月5日 - 20… 松波 直秀(まつなみ なおひで、1901年4月5日 - 2000年6月14日)は、日本の経営者。荏原製作所社長を務めた。東京都出身。 1926年に東京帝国大学工学部機械工科を卒業し、同年に荏原製作所に入社。1940年6月に取締役に就任し、1947年8月に常務、1956年12月に専務を経て、1965年1月に副社長に就任し、1970年12月には社長に昇格。1976年4月に会長を経て、1978年7月には相談役に就任。 1972年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年6月14日老衰のために死去。99歳没。
尾見 半左右(おみ はんぞう、1901年4月5日 - 198… 尾見 半左右(おみ はんぞう、1901年4月5日 - 1985年1月30日)は、日本の通信技術者。富士通の常務取締役、電気通信学会及び情報処理学会の会長などを歴任。 茨城県真壁郡明野に生誕。1923年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。南満州鉄道の鉄道研究所に入社し、電気通信の研究に従事する。1936年、富士通信機製造株式会社に入社。情報・通信の技術開発・研究に従事し、同社の取締役、常務取締役、富士通研究所の代表取締役社長などを歴任。その他、鉄道通信協会の副会長、電気通信学会会長、情報処理学会会長、神戸工業株式会社の取締役社長、富士電機化学株式会社の代表取締役社長なども務めた。 情報・通信分野で技術発展・産業振興に国内外で広く尽力し、国産大型電子計算機の開発にとくに貢献した。
渡辺 清彦(わたなべ きよひこ、1900年4月5日 - 20… 渡辺 清彦(わたなべ きよひこ、1900年4月5日 - 2000年2月7日)は日本の植物学者である。第二次世界大戦中に日本占領下のマレーシアのペナン植物園の園長を務めた。 静岡県森町に生まれた。父親は小学校長である。旧制掛川中学校、第八高等学校を経て、東京帝国大学の植物学科で学んだ。新設された旧制広島高等学校の教授を務め、1941年に陸軍司政官として日本が占領したマレーシアのペナン植物園の園長として派遣された。戦後は静岡大学を経て、千葉大学の教授となり、定年まで勤め、和洋女子大学の教授も務めた。1942年から1945年のペナン植物園の園長をしていたときに書き溜めた植物の図2200枚にE・J・H・コーナー(E. J. H. Corner; 『思い出の昭南博物館』の著者)らが説明をつけた『図説 熱帯植物集成』などを出版した。
小山 隆(こやま たかし、1900年4月5日 - 1983年… 小山 隆(こやま たかし、1900年4月5日 - 1983年8月4日)は、日本の社会学者。 岡山県出身。1924年東京帝国大学文学部社会学科卒。長崎高等商業学校教授、高岡高等商業学校教授、大阪大学教養部教授、1964年定年退官、名誉教授、東洋大学教授。1962年「近代家族の構造分析」で大阪大学文学博士。戦前は富山・岐阜県境の村の大家族構造を調査。戦後も家族の変容などを研究した。1964年日本社会学会会長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
尾原 勝吉(おばら かつきち、1899年 <明治32年> 4… 尾原 勝吉(おばら かつきち、1899年 <明治32年> 4月5日 - 1981年 <昭和56年> 3月6日)は、日本の指揮者、ヴァイオリニスト。 島根県簸川郡久木村(現、出雲市斐川町美南)に生まれる。父の甚四郎は華道・池坊の宗匠、兄の定次郎は高等女学校の図画教師という芸術一家で育つ。幼少期から音楽を好み、5歳で横笛を吹きこなして周囲を驚かせた。一方、大社中学校(現・島根県立大社高等学校)に進学後はスポーツにも万能で、野球部の主将として、1917年(大正6年)の第3回全国中等学校優勝野球大会に出場し勇名を馳せた。 1919年(大正8年)、同中学校を卒業し明治大学商学部へ入学。在学中の同年、宮内庁音楽部の山井基清にヴァイオリンの手ほどきを受け習得する。
村上 正雄(むらかみ まさお、1898年4月5日 - 194… 村上 正雄(むらかみ まさお、1898年4月5日 - 1943年1月23日)は、日本の新聞記者。東京都千代田区永田町出身。父・萬助(宮内省-内匠寮<たくみ寮>勤務、建築設計士)、母・せき、5人兄弟の長男。家族は、配偶者・志久、長女・眞呂、次女・しま 慶応義塾大学理財科卒業。大正15年、フランス留学ソルボンヌ大学にてフランス民族史専攻。 昭和4年6月、読売新聞社入社。昭和13年、婦人部部長。昭和16年4月、読売新聞経営の静岡新報社取締役兼編集局長。12月、静岡新聞社専務取締役兼編集総務就任。 昭和17年9月、読売新聞本社復帰、部長待遇。昭和18年1月、副理事(読売新聞本社在勤13年8ヶ月)。 インドネシアのセラム新聞社長として赴任する折、昭和18年1月23日夜、敵潜水艦の攻撃を受け、スラウェシ州南岸サラヤル水道東方12km付近にて沈没、戦死。
永田 年(ながた すすむ、1897年(明治30年)4月5日 … 永田 年(ながた すすむ、1897年(明治30年)4月5日 - 1981年(昭和56年)12月31日)は、昭和時代の土木工学者、台湾総督府官僚、内務官僚、実業家。 福岡県出身。1922年(大正11年)東京帝国大学工学部土木工学科卒業。台湾総督府、内務省土木局、満州国交通部を経て、電力界へ転じ東北振興電力および日本発送電にて勤務する。1951年(昭和26年)北海道電力副社長、1952年(昭和27年)電源開発理事を経て、1953年(昭和28年)佐久間発電所建設所長を兼務する。ついで、1957年(昭和32年)土木部長、1960年(昭和35年)電源開発顧問を経て、東京電力技術最高顧問に就任した。 ほか、国際大ダム会議副総裁、日本大ダム会議会長、日本ACI会長などの要職を歴任した。
能登 久(のと ひさし、1897年(明治30年)4月5日 -… 能登 久(のと ひさし、1897年(明治30年)4月5日 - 1980年(昭和55年)11月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 富山県出身。1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業。陸軍砲工学校第29期を優等で卒業。東京帝国大学物理学科卒業。 北支那方面軍気象部長、陸軍技術本部附を経て、1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進み、同年6月、陸軍技術本部課長となる。翌年の1942年(昭和17年)10月に第7陸軍技術研究所員に転じ、1945年(昭和20年)6月、陸軍少将に進んだ。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
小島 秀雄(こじま ひでお、1896年〈明治29年〉4月5日… 小島 秀雄(こじま ひでお、1896年〈明治29年〉4月5日 - 1982年〈昭和57年〉3月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。3度に及ぶドイツ駐在歴があり、戦後には日独友好にも尽力した。 1896年(明治29年)、兵庫県神戸市生まれ。旧制第一神戸中学校を経て、海軍兵学校卒業。 海軍兵学校(第44期)では、入校時成績順位 100名中第5位、卒業時成績順位 95名中第7位と、成績優秀だった。日本海軍には珍しく、自他共に認める親ドイツ派の海軍軍人として鳴らし、そのため部内では、「ドイツ小島」と呼ばれることもあった。 ドイツ駐在は3回に及んだが、同じくドイツとの関係が深く、1938年(昭和13年)からは駐ドイツ大使も務めた陸軍軍人で親ナチスの大島浩とは犬猿の仲だった。
中野 和高(なかの かずたか、1896年(明治29年)4月5… 中野 和高(なかの かずたか、1896年(明治29年)4月5日 - 1965年(昭和41年)3月8日)は、愛媛県出身の日本の洋画家。雅号として「和光」の名を持つ 。 幼年期よりキリスト教の洗礼を受け、1955年(昭和30年)以降は聖イエス教団所属、晩年は熱烈なキリスト教徒として生活した。 1896年(明治29年)4月5日、「北野 和高」として愛媛県大洲に生まれる。1908年(明治41年)、家族と共に宮城県へ転居。 1914年(大正3年)に宮城県立仙台第一中学校を卒業。同年上京、葵橋洋画研究所に入所し黒田清輝に師事。1916年(大正5年)、東京美術学校西洋画科へ入学、1921年(大正10年)同校卒業、研究科へ進む。
山口 昇(やまぐち のぼる、1896年〈明治29年〉4月5日… 山口 昇(やまぐち のぼる、1896年〈明治29年〉4月5日 - 1976年〈昭和51年〉3月20日)は、日本の実業家であり、愛知県を主な販売エリアとする自動車ディーラー・愛知トヨタ自動車の創業者である。愛知県自動車配給社長、愛知トヨタ自動車社長・会長(初代)などを歴任した。 1896年(明治29年)、愛知県碧海郡新川町(現・碧南市)に生まれた。 1913年(大正2年)、慶應義塾商工学校に入学した。在学中は慶應普通部の野球部に所属し、腰本寿監督の下、投手・キャプテンとして1916年(大正5年)の第2回全国中等学校優勝野球大会に出場、投打に活躍し優勝に貢献した。この時のチームメイトには、エドウィン・ダンの三男である日米混血のジョン・ダン、ハワイ出身の日独混血の河野元彦などがいた。
中安 閑一(なかやす かんいち、1895年〈明治28年〉4月… 中安 閑一(なかやす かんいち、1895年〈明治28年〉4月5日 - 1984年〈昭和59年〉1月31日)は、日本の経営者。宇部興産株式会社(現:UBE株式会社)会長、経済団体連合会常任理事、日本経営者団体連盟常任理事、経済企画庁経済審議会専門委員、産業機械統制会理事技術部長。 山口県宇部市出身である。宇部尋常高等小学校を卒業後、山口中学校に入学。中学時代は模型飛行機作りに熱中しながら勉学に励んだといい、卒業後は機械工学を学ぶため東京高等工業学校機械科(現・東京工業大学工学部)に入学した。 1918年(大正7年)3月に東京高等工業を卒業すると、三菱重工業に入社した。当時は戦争景気に沸き高給を約束してくれる会社も多かったが、当時三菱がイスパノシーザーと呼ばれる飛行機を製造していたことから入社を決めたという。
尾崎 末吉(おざき すえきち、1894年〈明治27年〉4月5… 尾崎 末吉(おざき すえきち、1894年〈明治27年〉4月5日 - 1982年〈昭和57年〉8月23日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 鹿児島県出水郡阿久根村(後の阿久根町、阿久根市)出身。旧制鹿児島県立出水中学校(現:鹿児島県立出水高等学校)を経て、日本大学専門部法律科を1914年に中退。 その後、東京相愛女学校長、東京土地埋立常務取締役、大森乗合自動車社長、昭和鋼業専務取締役、朝日航空工業取締役、東光興業取締役、日本瓦斯開発社長などを務めた。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙おいて鹿児島県第2区で民主党から出馬して当選し、第26回総選挙まで連続四回の当選を果たした。この間、衆議院予算委員長、民主自由党政調会副会長を務めた。
草光 信成(くさみつ のぶしげ、1892年4月5日 - 19… 草光 信成(くさみつ のぶしげ、1892年4月5日 - 1970年12月21日)は、日本の洋画家。 島根県出雲市出身。1916年東京美術学校(現在の東京芸術大学)卒。和田三造に師事した。1916年の第4回帝展に出品した「簾の影」が初入選した。その後、1927年に「四人の子等」、1928年に「立像」で2年連続帝展特選を受賞した。1930年に「前庭」でも帝展特選を受賞した。 1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に、「スタート」「用意」という作品を出品した。 1938年には従軍画家として中国に赴任した。 1950年には新世紀美術協会の創立に参画し、その委員を務めた。