片山 純男(かたやま すみお、1930年 <昭和5年> 3月… 片山 純男(かたやま すみお、1930年 <昭和5年> 3月7日 - 1998年 <平成10年> 10月10日)は、日本の経営者、農学博士。雪印乳業社長を務めた。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 兵庫県神戸市出身。1953年に東京大学農学部農芸化学科を卒業し、同年に雪印乳業に入社。1983年6月に取締役に就任し、1985年6月に常務、1988年7月に専務を経て、1990年6月に副社長に就任し、1993年6月に社長に昇格。1997年6月に副会長を経て、1994年5月に会長に就任。 1998年10月10日呼吸不全のために死去。68歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲三等旭日中綬章を追贈された。
松永 久次郎(まつなが ひさじろう、Joseph Hisaj… 松永 久次郎(まつなが ひさじろう、Joseph Hisajiro Matsunaga, 1930年3月7日-2006年6月2日)は、日本のカトリック教会聖職者。カトリック長崎大司教区補佐司教およびカトリック福岡司教区第3代司教を務めた。洗礼名は「ヨゼフ」。 長崎県平戸市深川町出身。小学校時代は鹿児島教区糸永真一司教と侍者仲間であった。長崎公教神学校(現長崎カトリック神学院)で学び、1949年4月に福岡サン・スルピス大神学院に入学。 1953年にローマのプロパガンダ・ウルバノ大学へ留学。1956年12月22日に司祭に叙階され、ラテラノ大学で教会法博士号、アテネオ・アンゼリコ大学で神学博士号を取得した。
絹川 正吉(きぬかわ まさきち、1929年3月7日 - 20… 絹川 正吉(きぬかわ まさきち、1929年3月7日 - 2025年1月23日)は、日本の数学者。国際基督教大学名誉教授・元学長。専門は解析学、フーリエ解析。Ph.D.(ノースウェスタン大学)。神奈川県横浜市出身。 2025年1月23日召天。95歳没。 『教養と大学スタッフ』、東信堂、2022年 (出典:『ACADEMIA』2021年・No.180、全国日本学士会)
小島 美子(こじま とみこ、1929年3月7日 - 2026… 小島 美子(こじま とみこ、1929年3月7日 - 2026年2月27日)は、日本の音楽学者、国立歴史民俗博物館名誉教授。専攻は日本音楽史、民俗音楽学で、歴史的な観点から日本音楽について論じている。 福島県生まれ。1949年、当時は専門学校だった日本女子大学国語科から、東京大学に進む。1953年、東京大学文学部国史学科卒業。大学院に1年だけ籍を置いた後、中学校教員となるが、3年で退職し、1958年に東京藝術大学音楽学部楽理科に入学する。1964年、東京藝術大学音楽学部楽理科卒業。お茶の水女子大学、早稲田大学、東京藝術大学で非常勤講師、1985年国立歴史民俗博物館教授、1994年定年退官。日本民俗音楽学会会長、江戸東京博物館研究員などを歴任。
森川 時久(もりかわ ときひさ、1929年(昭和4年)3月7… 森川 時久(もりかわ ときひさ、1929年(昭和4年)3月7日 - 2022年(令和4年)8月28日)は、日本の映画監督、テレビドラマ演出家。立教大学卒業。 立教大学卒業後、文化放送に就職。1959年にフジテレビのディレクターになり、社会派ドラマを多く手がける。1967年、人気ドラマ『若者たち』の劇場版で映画監督デビュー。その後はフリーランスとして活動した。 2022年8月28日、消化管出血のため死去。93歳没。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
平田 正蔵(ひらた しょうぞう、1929年3月7日 - 20… 平田 正蔵(ひらた しょうぞう、1929年3月7日 - 2012年2月10日)は、日本の経営者。元福岡放送社長。元日本民間放送連盟副会長。 大分県出身。1953年に早稲田大学法学部を卒業し、九州電力に入社。九州電力では宮崎支店長、理事、福岡支店長、取締役、総務部長、常務を歴任した。1991年6月から1997年までに福岡放送社長を務めた。 2012年2月10日、急性心不全のために死去。82歳没。
井上 篤太郎(いのうえ とくたろう、1929年(昭和4年)3… 井上 篤太郎(いのうえ とくたろう、1929年(昭和4年)3月7日 - 2020年(令和2年)9月27日)は、昭和から平成時代の政治家。東京都西多摩郡羽村町長、羽村市長。 東京府西多摩郡西多摩村(羽村町を経て、現在の東京都羽村市)で生まれる。東京都立農林高等学校卒業。 羽村町議会議長を経て、1985年(昭和60年)以来羽村町長に3選。1991年(平成3年)市制施行に伴い羽村市長となった。2001年(平成13年)まで務めた。 2020年(令和2年)9月27日、老衰のため死去した。
木暮 山人(こぐれ やまと、1928年3月7日‐1998年5… 木暮 山人(こぐれ やまと、1928年3月7日‐1998年5月26日)は、日本の歯科医・政治家。参議院議員(2期)。 新潟県新発田市出身。旧制新発田中を経て日本歯科医学専門学校を1949年に卒業。更に法政大学法学部に進学し、1951年に卒業した。その後、日本歯科大学歯科薬理学教室研究生として在学,歯学博士の学位を取得する。 政治に早くから関心を持ち、法政大学在学中に亜細亜青年連盟を結成して1953年の総選挙に立候補。この時は得票が法定得票数にも満たず泡沫候補に終わるが、その後5回も総選挙に出馬し続けて得票を伸ばし続けた。その一方で歯科医として歯友会歯科技術専門学校の創設に関わり、歯科技工から実業界にも進出。
角 梨枝子(すみ りえこ、1928年3月7日 - 2005年… 角 梨枝子(すみ りえこ、1928年3月7日 - 2005年10月12日)は、日本の女優。 本名は角 泰枝(すみ やすえ)。広島県広島市翠町(現・南区)出身。父親は広島文理科大学数学教授だった。五人姉妹の末女。広島文理科大学付属小学校ー広島第一高女(現・広島皆実高校)を経て、1945年、神戸女学院音楽部に進学したが、同年8月帰郷したおり被爆したため中退。1947年大阪音楽大学進学。翌1948年、初代・ミスヒロシマに選定され、東宝からスカウトされて映画界入り。豊田四郎監督の『エデンの海』の主役に抜擢されるが、東宝争議により製作中止された。 同郷の杉村春子と親交があり、演技力をつけるため文学座の研究生として1年在籍。
大河内 昭爾(おおこうち しょうじ、1928年3月7日 - … 大河内 昭爾(おおこうち しょうじ、1928年3月7日 - 2013年8月15日)は、日本の文芸評論家、武蔵野大学名誉教授。専攻は日本近代文学の研究、特に日本近代文学への仏教の影響(他力思想の影響について)及び近代日本文学と風土との関わりについての研究。 鹿児島県鹿児島市生まれ(本籍宮崎県都城市)。 丹羽文雄主宰の同人誌『文学者』に所属して評論を書いた。同じ雑誌の吉村昭とは親友関係。 1981年から2008年12月号まで雑誌『文學界』の同人誌評を担当し、現代文学に取り組む全国の多くの文学愛好者への指導的役割、作品誕生への励ましを続け、新たな書き手として村田喜代子ら多くの作家の誕生を手助けした。 雑誌『食食食』(みき書房)、『食の文学館』(紀伊国屋書店)など文学と食を結ぶ季刊誌を主宰して、風土と食の文学の研究を20年以上継続。
高垣 佑(たかがき たすく、1928年(昭和3年)3月7日 … 高垣 佑(たかがき たすく、1928年(昭和3年)3月7日 - 2009年(平成21年)5月24日 )は、日本の銀行家。東京銀行頭取、東京三菱銀行初代頭取を務めた。 東京出身。1953年に東京大学経済学部を卒業し、同年に東京銀行に入行した。 ハーバード大学への留学、アジア開発銀行出向を経て、国際投資部次長、同副部長、同部長、企画部長を歴任。 1979年6月に取締役に選任。取締役欧州駐在兼ロンドン支店長委嘱、常務、専務、副頭取を経て、1990年6月には頭取に就任した。 1996年4月に三菱銀行との合併に伴い、東京三菱銀行初代頭取となり、1998年1月に会長、2000年6月に相談役、2006年7月からは特別顧問を務めた。
重兼 芳子(しげかね よしこ、1927年3月7日 - 199… 重兼 芳子(しげかね よしこ、1927年3月7日 - 1993年8月22日)は、小説家。北海道空知郡上砂川町生まれ。福岡県立田川高等女学校(現・福岡県立西田川高等学校)卒業。 1946年、プロテスタントの洗礼を受ける。1947年に結婚し主婦となる。1969年に「一路」短歌会に入会し歌人として文学活動を出発。同人雑誌『まくた』に参加、日本民主主義文学同盟の「文学教室」や駒田信二の小説教室に通い、1978年、『まくた』に載せた「ベビーフード」、「髪」で続けて芥川賞候補となり、『文學界』掲載の「やまあいの煙」で1979年、芥川賞受賞、主婦作家として話題になった。 しかしその後、がん宣告を受けて大手術の後夫を失うという経験を経て、老い、病、死についての著作を精力的に執筆、がんの再発により66歳で死去した。
内藤 昭(ないとう あきら、1927年3月7日 - 2007… 内藤 昭(ないとう あきら、1927年3月7日 - 2007年1月8日)は、京都府京都市出身の日本の元大映京都撮影所の美術監督。祖父は陸軍軍人の内藤新一郎。 京都工業専門学校建築科卒業後、1951年大映京都撮影所の美術助手として大映に入社。水谷浩に師事し溝口健二監督作品を手掛ける。1956年柳生連也斎 秘伝月影抄で美術監督に昇格。 大映京都を代表する美術監督の一人で、大映時代の主な担当作品には『座頭市シリーズ』、『眠狂四郎シリーズ』、1961年の『釈迦』、1966年の『大魔神』などがある。三隅研次監督とは相性が良く、まるで三隅の参謀の様であったという。 1961年の『釈迦』で映像技術賞美術特別賞を受賞。
二世 清元一壽郎(にせい きよもと いちじゅろう、本名:新野… 二世 清元一壽郎(にせい きよもと いちじゅろう、本名:新野幸三、1927年(昭和2年)3月7日 - 1994年(平成6年)9月7日)は昭和から平成にかけて活動した清元節三味線方。歌舞伎公演の立三味線(首席奏者)を長年務めた。 六世清元延壽太夫の立三味線も勤めた。また現家元の七世清元延壽太夫を指導するなど、同い年の清元榮三郎と並び清元節三味線方の代表格として活躍した。 師である清元榮壽郎譲りの歯切れのよい撥捌きと冴えた音色で、師の信頼も厚く、師の存命中の舞台にはその横に顔が見えないことが無いほどであった。実兄清元壽國太夫とのコンビでも活躍したが、晩年は体調を崩し、万全とは言えない体調で舞台を務める事も多く、稀有な才能を惜しまれつつ70歳を迎えずして亡くなった。
萩原 延壽(はぎはら のぶとし、1926年(大正15年)3月… 萩原 延壽(はぎはら のぶとし、1926年(大正15年)3月7日 - 2001年(平成13年)10月24日)は、日本の歴史家・作家。1976年から1990年まで、休載を挟みつつ1,947回にわたり朝日新聞に連載した『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』(全14巻)の著者で知られる。姓の萩原は「はぎはら」と読むのが正しいが、間違って「はぎわら」と読まれることがある。名の「延壽」は「延寿」と表記されることがある。 東京・台東区浅草(現在の隅田公園周辺)出身。父宮治、母タケヨ(旧姓茂木)は共に群馬県群馬郡の人、父は8年間の兵役を退き、母は小学校教員の勤務を終え、1925年に結婚。1927年に東京府豊多摩郡淀橋町柏木(現在の新宿区西新宿成子坂周辺)に転居。
野口 正明(のぐち まさあき、1925年3月7日 - 200… 野口 正明(のぐち まさあき、1925年3月7日 - 2004年3月24日)は、福岡県飯塚市出身のプロ野球選手(内野手、外野手、投手)。 飯塚商業学校卒業後、1942年名古屋軍に内野手として入団。同年5月、プロ野球史上最長イニング記録の28イニングを戦った対大洋戦では、六番・一塁手として出場。翌1943年、投手に転向し12勝をあげ、石丸進一、西沢道夫らと共に投手陣の柱として活躍した。この頃、晩年の沢村栄治からも安打を放っている。1944年9月に行われた日本野球総運動大会にも参加し、その後応召された。 戦時中は満州で憲兵として活躍していたが、シベリア抑留を経験。栄養失調で倒れ、生死の境を彷徨ったが、戦友の看護により一命を取り留める。
安部 公房(あべ こうぼう、本名:漢字同じ(あべ きみふさ)… 安部 公房(あべ こうぼう、本名:漢字同じ(あべ きみふさ)、1924年〈大正13年〉3月7日 - 1993年〈平成5年〉1月22日)は、日本の小説家、劇作家、演出家。東京府北豊島郡(現:東京都北区)出身。昭和中期から平成初期にかけて活躍した現代日本文学を代表する作家の一人。 東京府で生まれ、満洲で少年期を過ごす。高校時代からリルケとハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、世界30数か国で翻訳出版されている。 主要作品は、小説に『壁 - S・カルマ氏の犯罪』 (芥川賞受賞)、『砂の女』 (読売文学賞受賞)、『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』など、戯曲に『幽霊はここにいる』『友達』『棒になった男』『緑色のストッキング』などがある。
中島 司有(なかじま しゆう、1924年〈大正13年〉3月7… 中島 司有(なかじま しゆう、1924年〈大正13年〉3月7日 - 2002年〈平成14年〉7月5日)は、日本の書家、書道教育者、元NHKアナウンサー。文学博士。國學院大學名誉教授。現代書道研究所創設者。本名は中島壌治。 東京都神田区(現千代田区)出身。小学校時代に左利きを矯正するために書を習い始め、栄田有宏に師事。1948年(昭和23年)に21歳で毎日展かな部で最高賞、翌年の日書展では最高賞、文部大臣賞を受賞し名を広めた。 京華商業高校、國學院大學国文科を卒業後、NHKに入局。主にアナウンサーを6年、演出を7年、計13年徳島・松山局などで勤め、1965年(昭和40年)より母校である國學院大學の教員を開始(のちに名誉教授となる)。
山舗 公義(やましき きみよし、1924年3月7日 - 19… 山舗 公義(やましき きみよし、1924年3月7日 - 1999年9月14日)は日本の柔道家(講道館9段)。 柔道家としての現役時代は全日本選手権準優勝や世界選手権3位等の成績を残し、引退後は三重県津市の市議会議員、三重県柔道協会会長を歴任した。 1924年三重県に生まれる。進学先の旧制・京都中学は柔道か剣道が必須科目であったため、柔道を選択したのが柔道を始めるきっかけとなった。教師を務める海部勇次5段の元で立技を中心に稽古し、1941年の第12回明治神宮大会中等学校府県対抗試合に京都府代表の一員として出場し優勝に貢献。その時の監督が、生涯の師として仰ぐ事となる森下勇9段(のち全日本柔道連盟副会長)であった。
桧 瑛司(ひのき えいじ、1923年3月7日 - 1996年… 桧 瑛司(ひのき えいじ、1923年3月7日 - 1996年1月10日)は、徳島県鳴門市出身の舞踊家。早稲田大学文学部卒業。 1948年(昭和23年)に桧瑛司創作舞踊研究所創設。現代舞踊協会四国支部長。民俗芸能集団・阿波三郎座主宰。徳島民謡協会会長、徳島県文化財保護審議委員、民俗芸能学会会員などを歴任。文部大臣賞地域文化功労賞や徳島県文化賞などの賞を受賞。 この項目は、舞台芸術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:舞台芸術)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
琴錦登(ことにしき のぼる、本名:藤村登、1922年3月7日… 琴錦登(ことにしき のぼる、本名:藤村登、1922年3月7日 - 1974年7月14日 )は、香川県観音寺市出身で二所ノ関部屋所属の大相撲力士。身長177cm、体重120kg。得意手は右四つ、寄り、とったり。最高位は東小結。現役引退後は佐渡ヶ嶽部屋を興し、横綱琴櫻たちを育てた。
山田 晶(やまだ あきら、1922年〈大正11年〉3月7日 … 山田 晶(やまだ あきら、1922年〈大正11年〉3月7日 - 2008年〈平成20年〉2月29日)は、日本の哲学研究者で、西洋中世哲学研究の第一人者であった。京都大学名誉教授。 長野県諏訪市出身。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、第八高等学校文科乙類を経て、1944年(昭和19年)京都帝国大学文学部哲学科卒業、山内得立に師事。翌年まで徴兵された。 1951年(昭和26年)大阪市立大学文学部講師、1955年(昭和30年)同助教授、1965年(昭和40年)京都大学文学部助教授、1968年(昭和43年)同教授、1976年(昭和51年)同大文学部長。1985年(昭和60年)京大を停年退官、名誉教授。
石井 淑普(いしい よしなみ、1922年(大正11年)3月7… 石井 淑普(いしい よしなみ、1922年(大正11年)3月7日 - 1999年(平成11年)10月3日 )は、日本の陸軍軍人。インドネシア独立の英雄の一人。インドネシア名はサトゥリア。 佐賀県において陸軍将校の一人息子として生まれる。父は後に満州国陸軍の中将をつとめた。1943年(昭和18年)10月、学徒出陣に伴い拓殖大学商学部を繰り上げ卒業。拓殖大学在学中、大川周明のゼミに所属し、大アジア主義について学ぶ。 その年の12月、陸軍久留米工兵隊(西部第52部隊)に入隊し、間もなく、陸軍特別操縦見習士官(三期)を経て、陸軍少尉に任官し、インドネシアに進駐。 1945年(昭和20年)8月15日、インドネシアで終戦を迎えたが、日本に復員することなく、軍を離脱し、インドネシア独立義勇軍に参加し、インドネシア独立戦争に身を投じる。
上條 馨(かみじょう かおる、大正10年(1921年)3月7… 上條 馨(かみじょう かおる、大正10年(1921年)3月7日 - 昭和36年(1961年)1月3日)は、山梨県の郷土史家、神職。 山梨県甲府市に御崎神社の宮司を務める上條定久、多津の二男として生まれる。昭和13年(1938年)3月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、神宮皇學館(現在の皇學館大学)に入学し同校を卒業。山梨県立甲府中学校、山梨県立甲府第一高等学校に勤務し、昭和23年(1948年)には母校である山梨県立甲府第一高等学校の校歌を作詞、また、父の後を継ぎ御崎神社宮司を務める。その後、病気のため同校教諭を辞職。後に山梨学院大学講師、山梨学院大学附属高等学校教諭となる。
杉山 忠平(すぎやま ちゅうへい、1921年3月7日 - 1… 杉山 忠平(すぎやま ちゅうへい、1921年3月7日 - 1999年3月21日)は、日本の経済学者。英国経済学史専攻。一橋大学社会科学古典資料センター第2代主任教授、経済学史学会代表幹事、経済資料協議会会長等を歴任。東京経済大学名誉教授、静岡大学名誉教授。日本学士院賞受賞。 静岡県沼津市出身。旧制沼津中学(現静岡県立沼津東高等学校)を経て、東京商科大学(現一橋大学)在学中、学徒出陣で第3師団野戦重砲兵第3連隊入隊。結核で除隊後、1945年に大学を卒業し、沼津の芝浦工作機械(現芝浦機械)入社。吹田順助ゼミ出身。 1947年退社、日本大学専任講師。専門部教授、教養部助教授、静岡大学助教授を経て、一橋大学大学院に内地留学し大塚金之助に師事。
藤原 審爾(ふじわら しんじ、1921年3月7日 - 198… 藤原 審爾(ふじわら しんじ、1921年3月7日 - 1984年12月20日)は、日本の小説家。幾度も大病を患いながら、純文学からサスペンス、恋愛ものやハードボイルドなど、幅広いジャンルの作品を発表し、「小説の名人」の異名をとった。また映画化された作品の多さから「映画に愛された小説家」とも評される。女優藤真利子は息女。直木賞、小説新潮賞受賞。 東京市本郷に生まれる。3歳で母と生別、6歳で父と死別し、父の郷里である岡山県片上町(現在の備前市・法鏡寺がある場所)で祖母に育てられた。閑谷中学校在学中に祖母とも死別、青山学院高等商業部に進むが、肺結核のため中退する。療養生活を続けながら雑誌社で編集を手伝う傍ら、外村繁に投書雑誌の選者をしていた縁で師事して創作活動を行い、同人誌『曙』を発行。
李 鍾寿(イ・ジョンス、朝鮮語: 이종수/李鍾壽、1921年… 李 鍾寿(イ・ジョンス、朝鮮語: 이종수/李鍾壽、1921年3月7日 - 2015年5月24日)は、大韓民国の実業家、政治家。第2・3・4代韓国国会議員。 本貫は慶州李氏、号は芝圃。キリスト教徒。 日本統治時代の慶尚南道金海郡(現・金海市)出身。ソウル培材高等学校を経て、1943年中央大学法科卒。韓青団長、朝鮮農具製作所経営者、釜山明仁学院理事長、東亜学塾監事、三豊産業株式会社社長、金海乙選挙区選出の自由党所属の国会議員3期、国会財政経済委員会幹事・交通逓信分科委員会委員長、慶州李氏中央花樹会副会長・諮問委員、大韓民国憲政会元老諮問委員・副会長・理事・元老会議副議長、ノジャン育成中央連合会諮問委員、第3代国会議員親睦会会長などを務めた。
本橋 保正(もとはし やすまさ、1921年(大正10年)3月… 本橋 保正(もとはし やすまさ、1921年(大正10年)3月7日 - 2015年(平成27年)9月21日)は、日本の政治家。東京都杉並区長(1期)。 杉並区内で生まれ育った。明治大学専門部政治経済学科卒業後東京都に入職。1963年芝授産事業所長を経て、1965年に杉並区役所に移る。土木部管理課長、1969年総務部総務課長、1971年区民部長、1974年総務部長を務める。 1979年にエコー保険企画社長に就任、1980年、安田火災海上保険顧問に就く。同年杉並区収入役、1983年に助役就任。 1995年4月23日に行われた杉並区長選挙に自民党・社会党・公明党の推薦を得て立候補。3人の候補者を破り初当選した。
鷹觜 テル(たかのはし テル、1921年3月7日 - 200… 鷹觜 テル(たかのはし テル、1921年3月7日 - 2000年3月24日)は、日本の栄養学者。岩手大学で初の女性助教授となった研究者で栄養学研究に生涯を捧げ、後年は「長寿村」研究をし「健康長寿の秘訣は雑穀を中心とする日本型食事」の実践的解明。医学博士。岩手大学名誉教授。 岩手県江刺郡田原村(のち江刺郡江刺町→江刺市、現在の岩手県奥州市江刺)に生まれ、岩谷堂高等女学校(現在の岩手県立岩谷堂高等学校)を経て、岩手女子師範学校卒業。卒業後は愛宕小、仁王小、盛岡高等女学校(現在の岩手県立盛岡第二高等学校)各教諭を経て、岩手大学の前身のひとつである岩手師範学校女子部の教員となり、新制大学移行後に岩手大学で初の女性助教授となった。
三根谷 徹(みねや とおる、1920年3月7日 - 2000… 三根谷 徹(みねや とおる、1920年3月7日 - 2000年9月5日)は、日本の言語学者。
佐古 純一郎(さこ じゅんいちろう、1919年〈大正8年〉3… 佐古 純一郎(さこ じゅんいちろう、1919年〈大正8年〉3月7日 - 2014年〈平成26年〉5月6日)は、日本の文芸評論家、二松学舎大学名誉教授、日本基督教団中渋谷教会名誉牧師。 大正8年(1919年)、徳島県名西郡神山町生まれ。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)を経て朝鮮全羅南道光州東中学校を卒業。 昭和13年(1938年)、二松学舎専門学校入学。在学中の昭和15年(1940年)に亀井勝一郎を訪問。以後師事する。昭和16年(1941年)、二松学舎専門学校卒業。同年、日本大学法文学部宗教学科入学。同年5月、改造社が募集した第一回文芸推薦評論に『歴史と人間』が佳作入選。大学在学中の昭和18年(1943年)、創元社に入社。
愼 道晟(シン・ドソン、朝鮮語: 신도성、1918年3月7日… 愼 道晟(シン・ドソン、朝鮮語: 신도성、1918年3月7日〈陰暦正月25日〉 - 1999年9月6日)は、大韓民国の政治学者、政治家。元慶尚南道知事・国土統一院長官、第3代韓国国会議員。本貫は居昌慎氏。 元国会議員、逓信部長官の李慈憲は娘婿。 1918年に慶尚南道居昌郡または京城府で誕生。1941年に東京帝国大学法学部政治科を卒業。1944年に東京帝国大学大学院を修了。1969年に慶熙大学校で法学博士号を取得。 1945年に延禧専門学校(現延世大学校)助教授。1946年にソウル大学校政治学科教授。1952年に東亜日報論説委員。1954年に民主国民党宣伝部長。1954年から1958年まで民議院議員。
池田 正辰(いけだ まさとき、1916年3月7日 - 198… 池田 正辰(いけだ まさとき、1916年3月7日 - 1982年5月30日)は、日本の政治家。鹿児島県姶良郡蒲生町長(3期)。 鹿児島県蒲生町(当時・蒲生村、現:姶良市の一部)出身。1933年旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)卒業。1936年に第七高等学校造士館(現:鹿児島大学)を卒業。1940年に京都帝国大学経済学部卒業。日本石油株式会社に入社し勤務するが、1941年に応召し、1946年に復員。1947年に鹿児島県庁職員となり、鹿児島県東京事務所長、鹿児島県林務部長などを歴任。旧制中学時代の恩師でもある小山田政弘蒲生町長の後継として、郷里の町長選に出馬し無投票当選して、1973年5月より第11代蒲生町長。
長澤 太郎(ながさわ たろう、1916年3月7日 - 200… 長澤 太郎(ながさわ たろう、1916年3月7日 - 2007年11月5日)は、日本の畜産学者・実業家。農学博士(北海道大学)。専門は、畜産学・畜産製造学・農業経営論。 北海道出身。1939年北海道帝國大学農学部卒業。1939年北海道帝国大学農学部助手。1941年岐阜高等農林学校教授。1944年岐阜農林専門学校教授。1953年岐阜大学農学部教授。1964年岐阜大学退官し、森永乳業取締役に就任。1968年森永乳業代表取締役常務。1972年森永乳業代表取締役専務。1977日本製乳代表取締役社長。1979年日本製乳代表取締役会長。1981年日本製乳を退社。玉川大学大学院農学研究科教授。1986年玉川大学定年退職。
大沼 義之助(おおぬま よしのすけ、1915年〈大正4年〉3… 大沼 義之助(おおぬま よしのすけ、1915年〈大正4年〉3月7日 - 1996年〈平成8年〉5月26日)は、日本の造り酒屋経営者。千代寿虎屋酒造社長(第2代)・会長。山形県酒造組合理事。寒河江酒造組合理事長。寒河江市消防団長(初代)。寒河江市選挙管理委員会委員長(第2代・7期)。社団法人寒河江法人会会長(初代)。寒河江ロータリークラブ会長(初代、第2代)。
相山 武夫(あいやま たけお、1915年3月7日 - 200… 相山 武夫(あいやま たけお、1915年3月7日 - 2000年3月6日)は富山県出身の実業家、ゴルフ場の設計者。 富山県中新川郡水橋町(現富山市水橋町)で海産物商の8男として生まれた。富山県立滑川商業学校(現富山県立滑川高等学校)を経て、1939年東洋音楽専門学校(現東京音楽大学)卒業。 全国石油加工連合会、海軍燃料廠勤務を経て、1946年に石油製品の2次製品である潤滑油のメーカー、日興産業株式会社を設立。 1953年、日興産業の潤滑油工場施設の近隣にあった18ホールの河川敷ゴルフ場「六郷ゴルフ倶楽部」(現ゴルフ練習場)の経営を目的として、株式会社六郷ゴルフ倶楽部を設立、代表取締役就任を契機に、石油ビジネス以外に、ゴルフ場設計者、事業家としての道をも歩む。
木庭 二郎(こば じろう、1915年(大正4年)3月7日 -… 木庭 二郎(こば じろう、1915年(大正4年)3月7日 - 1973年(昭和48年)9月28日)は、昭和期の物理学者(核物理学)。 1945年に東京帝国大学を卒業し、大阪大学助教授等を経て、京都大学教授となる。1963年にコペンハーゲン大学のニールス・ボーア研究所教授となるが、1973年にコペンハーゲンでコレラにより客死。 朝永振一郎の繰り込み理論の研究などに協力し、高エネルギー粒子の衝突における多重発生現象を研究した。 坂田昌一の「凝集力場理論」の検証において計算を間違えた責任を取って、丸坊主になったエピソードは有名である。これは、それだけ朝永振一郎に信頼されていたと言える。 兄は文芸評論家の中村光夫(本名 木庭一郎)。
東 明雅(ひがし あきまさ、1915年3月7日 - 2003… 東 明雅(ひがし あきまさ、1915年3月7日 - 2003年10月20日)は、日本の国文学者、俳人。専門は近世日本文学、特に井原西鶴。俳人としては「めいが」と読む。 熊本市生まれ。旧制第五高等学校を経て、1939年東京帝国大学文学部国文科卒業。同年、文部省宗教局勤務。1942年東京府立第一中学校(現・日比谷高校)教諭。1945年松本高等学校教授、1949年信州大学文理学部助教授、1959年同教授。1980年定年退官、名誉教授。1987年勲三等旭日中綬章を受章。 1961年から根津芦丈に師事し、信州大学連句会を結成した。その後、1982年に猫蓑会発足し、主宰となった。
松田 トシ(まつだ トシ、1915年3月7日 - 2011年… 松田 トシ(まつだ トシ、1915年3月7日 - 2011年12月7日)は、日本の歌手、声楽家(声域はソプラノ)。松田敏江の芸名でも活動した。 神奈川県横浜市出身。東京音楽学校本科卒業。在学中は長坂好子、マリヤ・トルに師事。卒業後、日本大学芸術科や東京女子体操音楽学校の講師となる。 1936年、NHKにおいて「フォーレ歌曲」を初放送。その後は国民歌謡で、「蘭花の頌」「満州帝国皇帝陛下奉迎国民歌」「日本婦人の歌」を放送。戦後もラジオ歌謡で「白鳥の歌」「ブンガワン・ソロ」など吹込みヒットさせた。 1949年8月からは、NHKで放送開始した『うたのおばさん』に約15年間出演。安西愛子と共に「うたのおばさん」として親しまれた。
田多井 吉之介(たたい きちのすけ、1914年3月7日 - … 田多井 吉之介(たたい きちのすけ、1914年3月7日 - )は、日本の医学者、評論家。 東京出身。東京帝国大学医学部卒、1949年東京大学医学博士。ハーヴァード大学に学び、国立公衆衛生院生理医学研究所研究員をへて、東京農業大学教授を務めた。多くの一般向け医学書を著し、バイオリズムの概念を広めた。
牧野 耕二(まきの こうじ、1914年3月7日 - 2003… 牧野 耕二(まきの こうじ、1914年3月7日 - 2003年4月17日)は、日本の経営者。住友信託銀行社長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1939年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に住友信託銀行に入行。1960年5月に取締役に就任し、1963年11月に常務、1969年5月に専務、1972年5月に副社長を経て、1976年9月には社長に就任。1979年9月に会長に就任し、1984年6月に取締役相談役を経て、1990年6月には相談役に就任。 関西経済同友会幹事、南海電気鉄道、江崎グリコ、読売テレビ放送で各取締役なども歴任。 2003年4月17日に膵臓癌のために死去。89歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
原田 恒雄(はらだ つねお、1913年3月7日 - 2004… 原田 恒雄(はらだ つねお、1913年3月7日 - 2004年1月30日)は、日本の農学博士、経営者。和歌山県出身。 1938年に京都帝国大学農学部農芸化学科を卒業し、同年に大日本麦酒に入社し、1949年にアサヒビールに移る。1956年にはビール醸造研究のためにドイツに留学。1960年に西宮工場長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1974年に副社長に就任し、1976年に相談役を経て、1980年から顧問を務めた。 1987年から1992年までに全国清涼飲料工業会会長を務めた。 1968年に農芸化学技術賞を受賞し、1977年に紫綬褒章を受章した。 2004年1月30日肺炎のために死去。90歳没。
宮崎 英修(みやざき えいしゅう、1913年3月7日 - 1… 宮崎 英修(みやざき えいしゅう、1913年3月7日 - 1997年8月9日)は、日本の仏教学者・僧侶。立正大学名誉教授。 兵庫県出身。1937年立正大学文学部宗教学科卒。1943年立正大学生主事補。44年予科講師、48年仏教学部助教授。59年教授。68年「不受不施派の源流と展開」で立正大学より文学博士の学位を取得。現代宗教研究所長、83年定年退任、名誉教授、身延山短期大学学頭。
阿部 竹松(あべ たけまつ、1912年(明治45年)3月7日… 阿部 竹松(あべ たけまつ、1912年(明治45年)3月7日 - 1973年(昭和48年)4月13日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 秋田県雄勝郡で生まれる。北海道上川郡和寒村(現和寒町)に家族と共に移住。1923年(大正12年)和寒尋常高等小学校を卒業。その後、秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を中退した。 農民運動にかかわった後、1937年(昭和12年)三菱鉱業(現三菱マテリアル)に入社し大夕張砿業所(三菱大夕張炭鉱)保安係となる。1945年(昭和20年)大夕張炭鉱労働組合の結成に参画し副委員長となる。日本社会党北海道連の結成に加わる。1947年(昭和22年)大夕張炭鉱労組委員長に就任し、同年、夕張市議会議員となる。
長谷川 テル(はせがわ てる、1912年〈明治45年〉3月7… 長谷川 テル(はせがわ てる、1912年〈明治45年〉3月7日 - 1947年〈昭和22年〉1月10日ないし1月14日(文献により異なる)は、日本のエスペランティスト、反戦・反帝国主義運動家。 本名は長谷川 照子(はせがわ てるこ)。筆名は緑川 英子(みどりかわ えいこ)。エスペラント名は Verda Majo (ヴェルダ・マーヨ:緑の五月)。父は土木技師。女優の吉永小百合の母和枝とその妹の評論家川田泰代は遠縁にあたる。 山梨県大月市に生まれる。1929年、東京府立第三高女(現在の東京都立駒場高等学校)を卒業後、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)に進学。学内で文化サークルを同級生と伴に作り、エスペラントを学ぶ。
吉川 猛夫(よしかわ たけお、1912年(明治45年)3月7… 吉川 猛夫(よしかわ たけお、1912年(明治45年)3月7日 - 1993年(平成5年)2月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少尉。
原 純夫(はら すみお、1911年(明治44年)3月7日 -… 原 純夫(はら すみお、1911年(明治44年)3月7日 - 1997年(平成9年)10月30日)は、日本の大蔵官僚。国税庁長官、東京銀行頭取を務めた。 神奈川県出身。旧制一高を経て、東京帝国大に進学、在学中の1933年に高文行政科と司法科に合格。翌34年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し大蔵省に入省。 理財局属。国税庁次長、主計局次長などを経て、1956年7月6日に主税局長。1960年4月12日に国税庁長官。 1962年5月をもって、退官し、同月東京銀行に入行。副頭取に就任。1965年5月には頭取に就いた。1973年5月に会長に退き、その後相談役を務めた。 1997年10月30日、心不全のために死去。
月岡 朝太郎(つきおか あさたろう、1911年3月7日 - … 月岡 朝太郎(つきおか あさたろう、1911年3月7日 - 1984年)は、日本の自転車競技選手、指導者。 長野県下水内郡岡山村(現飯山市)に生まれ、1928年に上京し、法政大学専門部第二部政治経済学科卒業後、様々な職業を転々とする。1937年月刊雑誌『鉱業冶金』の編集長となり、1941年三井鉱業北越鉱山事業部長となる。また1937年には、日本自転車競技連盟関東支部が主催した第1回関東自転車断郊競走の実用車部門に出場したのをきっかけに、自転車競技に取り組み、1940年に予定されていた東京オリンピックの候補選手になった。 戦後、1947年に雑誌『自転車』を創刊、1949年には大宮競輪場の開設と同時に競輪予想紙「競輪新聞」(現在の赤競)を創刊。
大森 義夫(おおもり よしお、1909年3月7日 - 198… 大森 義夫(おおもり よしお、1909年3月7日 - 1983年11月17日)は、日本の俳優。本名は菅沼 常吉。
五来 重(五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉… 五来 重(五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉3月7日 - 1993年〈平成5年〉12月11日)は、日本の民俗学者。大谷大学名誉教授。専門は日本仏教史、仏教民俗学。 茨城県久慈郡久慈町(現:日立市)に生まれる。旧制茨城県立太田中学校(現:茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)、旧制水戸高等学校文科甲類を経て、1932年に東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業。高野山大学助手に就任するも、歴史学を修めるため京都帝国大学文学部史学科に再入学し、1939年に京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業。卒業論文は「中世に於ける神仏習合思想の変遷と元寇の影響」。 以後、京都師範学校教諭、高野山大学助教授、同教授を経て、1955年、大谷大学文学部教授に就任。