嘉治 元郎(かじ もとお、1925年8月13日 - 2011… 嘉治 元郎(かじ もとお、1925年8月13日 - 2011年7月23日)は、日本の経済学者。専門は経済学。東京大学名誉教授。嘉治隆一の長男。 53-54年フルブライト奨学生としてハーヴァード大学大学院に学ぶ。55年東大専任講師、58年助教授、60-61年フルブライト研究員としてスタンフォード大学に学ぶ。68年教授、68-69年イェール大学に留学、1974年から1975年まで東京大学評議員、1978年から1979年まで東京大学教養学部長、 84-86年アメリカ学会会長。財団法人放送大学教育振興会理事、財団法人国際文化会館理事長、財団法人グルー基金理事長、財団法人アメリカ研究振興会常務理事、財団法人政策科学研究所理事、財団法人渋沢栄一記念財団理事、財団法人日本ユニセフ協会評議員、財団法人ラボ国際交流センター評議員を歴任した。
佐野 浅夫(さの あさお、1925年8月13日 - )は、日… 佐野 浅夫(さの あさお、1925年8月13日 - )は、日本の俳優・童話作家・実業家。神奈川県横浜市、現在の保土ケ谷区出身。アクターズ・セブン所属。身長168cm。神奈川県立横浜第三中学校卒業。
清水川 明於(しみずがわ あきお、1925年8月13日 - … 清水川 明於(しみずがわ あきお、1925年8月13日 - 1979年2月5日)は、兵庫県明石市出身で追手風部屋に所属した大相撲力士。本名は鉾浦 光男(ほこうら みつお)。最高位は東小結(1951年1月場所、1953年5月場所、1958年1月場所)。引退後は、年寄・間垣として日本相撲協会に残った。身長176cm、体重115kg。得意手は左四つ、上手投げ。 14歳の時に角界入りし、1940年5月場所に於いて、元大関・清水川元吉が率いた追手風部屋から初土俵を踏んだ。幕下時代に兵役に服したが帰還後1947年6月場所で十両昇進、僅か1場所で十両を通過して1947年11月場所で新入幕を果たした。1950年9月場所では優勝した横綱・照國から金星を奪い、翌1951年1月場所では小結に昇進した。
小林 清治(こばやし せいじ、1924年8月13日 - 20… 小林 清治(こばやし せいじ、1924年8月13日 - 2007年4月4日)は、日本の歴史学者。福島大学名誉教授。専門は日本近世史。 北海道旭川市出身。東北大学文学部史学科卒、同大学院博士課程満期退学。1972年「奥羽における戦国大名の成立と展開」により東北大学から文学博士の学位を授与される。福島大学学芸学部助教授、教育学部教授。86年定年退官、名誉教授、東北学院大学教授。
鈴木 修次(すずき しゅうじ、1923年8月13日- 198… 鈴木 修次(すずき しゅうじ、1923年8月13日- 1989年6月11日)は、日本の漢文学者。広島大学名誉教授。 1923年、東京府に生まれ、埼玉県に育った。東京文理科大学漢文学科を卒業。卒業後は、北海道教育大学講師に就いた。当初は詩経の研究をテーマとし、その後中国古典詩の研究を進めた。 1968年、学位論文『漢魏詩の研究』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。東京教育大学助教授。1976年、広島大学総合科学部教授となった。それまでの「文学部」から「総合科学部」勤務となったことから、より広い視点で中国文学をとらえ、中国詩学を考察するようになった。1987年に広島大学を定年退官し、名誉教授となった。
山崎 敏夫(やまさき としお、1922年 <大正11年> 8… 山崎 敏夫(やまさき としお、1922年 <大正11年> 8月13日 - 2000年 <平成12年> 6月7日)は日本の外交官。駐英特命全権大使。位階は正三位。勲一等瑞宝章。駐シンガポール大使や駐スウェーデン大使を歴任した山崎純は息子で、駐フランス大使や内閣法制局長官を歴任した小松一郎は義理の息子。 大阪府出身。東京大学法学部を卒業。1946年に外務省に入省。官房長やアメリカ局長、駐エジプト大使、駐南イエメン大使、駐インドネシア大使、駐英大使を歴任した。 1988年10月から公安審査委員会委員を務める。在任中の1995年3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生して一連のオウム真理教事件が注目されたことにより、公安調査庁がオウム真理教について破壊活動防止法が規定する解散請求を公安審査委員会に行なったことから、公安審査委員会委員の1人としてオウム真理教破壊活動防止法問題の審査にあたった(1997年1月に解散請求は棄却となった)。
小平 芳平(こだいら よしへい 1921年(大正10年)8月… 小平 芳平(こだいら よしへい 1921年(大正10年)8月13日 - 2001年(平成13年)6月18日)は、日本の政治家、宗教家。参議院議員(4期)。 長野県生まれ。1936年、高等科2年を卒業、造り酒屋に奉公、1937年愛知県名古屋市で水道局に勤める傍ら、夜学に通い、中学卒業検定試験に合格。1941年(昭和16年)春、上京し、中央大学に通う。 同年秋、時習学館の新聞の講師求人広告に応募し、創価教育学会の牧口常三郎に出会い、入会する。その後、学徒出陣で、徴兵検査を受け、入隊、終戦を迎える。 戦後、復員すると、創価教育学会から名前を改めた創価学会で、教学部長、機関誌『大白蓮華』編集長などを歴任。
若林 實(わかばやし みのる、1921年8月13日 - 20… 若林 實(わかばやし みのる、1921年8月13日 - 2009年1月17日)は、日本の建築構造学者。京都大学名誉教授、専門は脆性構造耐震、鉄骨鉄筋コンクリート構造。 東京都出身。東京大学生産技術研究所本所第5部助手(1951年~1957年まで)京都大学防災研究所教授、財団法人日本建築総合試験所所長などを歴任した。 著書に、『鉄骨の設計』(大学講座建築学構造編)『新建築学大系 42 合成構造の設計』『耐震建築の設計』『鉄骨構造学詳論』など。 1992年、日本建築学会賞大賞受賞。1995年、勲二等瑞宝章を受章。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
関口 武(せきぐち たけし、大正6年(1917年)8月13日… 関口 武(せきぐち たけし、大正6年(1917年)8月13日 - 平成9年(1997年)2月20日)は、日本の地理学者。理学博士(東京大学)。 長野県大町市出身。旧制東京府立第九中学を経て、昭和16年(1941年)に東京文理科大学を卒業する。1942年東亜研究所、1943年中央気象台職員となり、1953年東京教育大学助教授、1952年から翌年までアメリカのジョンズ・ホプキンズ大学の客員教授。昭和48年(1973年)にポーランドからコペルニクス勲章を受賞する。のち法政大学教授となる。 日本各地の気候要素について地点間の相関係数を求め、総合的な気候区分を導き出し、地理学の中の気候学を専門に広範囲な研究を進めた。
加崎 英男(かさき ひでお、1917年8月13日 - 200… 加崎 英男(かさき ひでお、1917年8月13日 - 2007年3月27日)は日本の生物学者、理学博士。東京都立大学 (1949-2011)名誉教授。専門は藻類学。 東京帝国大学理学部を卒業後、1947年に都立高等学校講師となる。1949年に再編により東京都立大学講師、1951年に理学部助教授となり、1972年に教授に昇格した。1977年に東京都立大学附属高等学校校長を兼務する。1981年に東京都立大学を退職後、東邦大学生物学科教授となる。1983年から東邦大学大学院理学研究科生物学専攻専任教授を経て、1987年に退職した。主に車軸藻類の分類学的研究や生態学的研究を行い、1967年には『日本湖沼産車軸藻類の研究』で理学博士(東京大学)を授与された。
中山 周三(なかやま しゅうぞう、1916年(大正5年)8月… 中山 周三(なかやま しゅうぞう、1916年(大正5年)8月13日 - 1999年(平成11年)9月22日)は、日本の歌人、国文学者。北海道出身。 札幌一中を経て、國學院大學高等師範に入学後、北原白秋『桐の花』や、釈迢空の歌との出会いで作歌を始める。卒業後、1936年(昭和11年)に「歌と観照」に入会し、岡山巌に師事する。札幌商業学校に就職し結婚。12月に応召を受けて満州に渡るが、1941年(昭和16年)に帰国して、札幌商業学校に復職。その後、母校札幌一中や、札幌東高校で教職に就く。1946年(昭和21年)「原始林」創刊に参加し、後に山下秀之助に師事して共同で作歌を始めた。 1953年(昭和28年)からは田辺杜詩花没後の後継として同誌編集発行の代表となる。
草川 俊(くさかわ しゅん、1914年8月13日 - 200… 草川 俊(くさかわ しゅん、1914年8月13日 - 2000年3月6日)は、日本の作家。宮城県石巻市に生まれる。宇都宮高等農林学校(現在の宇都宮大学農学部)卒業。本名:高橋善三郎。1958年、『黄色い運河』、『長城線』、1964年、『赤い運河』、それぞれ直木賞候補。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
武士 桑風(たけし そうふう、1913年〈大正2年〉8月13… 武士 桑風(たけし そうふう、1913年〈大正2年〉8月13日 - 2008年〈平成20年〉12月17日)は、日本の書家。本名、今治(いまじ)。 群馬県佐波郡上陽村(現・玉村町)に生まれる。群馬県師範学校卒。教員となり県内で勤めた後、1939年に上京し都内の小中学校で教壇に立った後1973年に退職。書道は半田神来・比田井神来に師事、前衛書道(墨象)の分野で新境地を開拓する。戦後いち早く毎日書道展等の設立に参加し、現代書作家協会代表、全日本書道連盟顧問などを務めた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937… 後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937年7月28日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(一塁手)。
後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937… 後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937年7月28日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(一塁手)。 神戸市立第一神港商業学校(現・神戸市立神港高等学校)在学中に甲子園に2回出場(春2回〔1929年、1930年〕)。チームの2連覇に一塁手として貢献。自身も1929年春の大会で、打撃賞と塁打賞を受賞した。第一神港商卒業後は慶應義塾大学に進むも中退し、立命館大学に転校して卒業。立命館大学時代のチームメイトに青柴憲一(後に巨人)、村川幸信(後に大東京)がいる。 1936年、名古屋軍の結成に参加し、そのまま入団。堅実な打撃と守備で、草創期の名古屋軍を支えた。4番高橋吉雄の後の5番打者を打つことが多かった。
山口 興一(やまぐち おきかず、1909年8月13日 - 2… 山口 興一(やまぐち おきかず、1909年8月13日 - 2008年12月31日)は、日本の実業家。元関西テレビ放送代表取締役社長、元阪急電鉄副社長、元新阪急ホテル監査役、元京都大学蹴球部OBクラブ会長。 1909年、兵庫県神戸市に生まれる。1927年、甲陽中学校(現在の甲陽学院、6回卒)を卒業。その後、旧制山口高等学校を経て京都大学法学部を卒業。同大学では蹴球部に所属し、後にOBクラブ会長を務めた。 関西テレビ放送代表取締役社長、阪急電鉄副社長、新阪急ホテル監査役、阪急ブレーブスオーナー代行などを歴任した。
祐田 善雄(ゆうだ よしお、1909年(明治42年)8月13… 祐田 善雄(ゆうだ よしお、1909年(明治42年)8月13日 - 1973年(昭和48年)8月23日)は、日本の国文学者、浄瑠璃・歌舞伎研究者。 1909年(明治42年)、大阪府大阪市東区北久宝寺町で生まれた。1928年(昭和3年)に大阪府立今宮中学校を卒業し、第三高等学校文科乙類へ入学。1932年、同校を卒業後、京都帝国大学文学部文学科国語学国文科専攻に進んだ。1936年に卒業し、同大学大学院に進学。 京都大学に在籍のまま、1938年に天理図書館嘱託となる。これに合わせて、この頃天理市に居を移した。翌1939年2月に天理図書館司書を退職。1941年3月に京都帝国大学大学院を修了し、1942年4月から天理中学校嘱託に就職した。
松平 賴明(まつだいら よりひろ、1909年8月13日 - … 松平 賴明(まつだいら よりひろ、1909年8月13日 - 1990年2月23日)は、高松松平家13代当主。華族制度廃止までは伯爵。第2代本郷学園理事長、第4代本郷中学校・高等学校長。ボーイスカウト日本連盟理事、同国際コミッショナー、日本ユネスコ協会連盟理事長などを歴任した。ブロンズ・ウルフ章受章者。戦前は陸軍技術将校(最終階級は技術少佐)。 1909年(明治42年)、東京市本郷区池之端七軒町(東京都文京区七軒町)に、松平胖・俊子夫妻の長男として生まれる。初名は廣。父胖は高松松平家の12代当主・伯爵松平頼寿の同母弟で海軍軍人(のちに海軍大佐)であり、母俊子は侯爵鍋島直大の六女。 1915年(大正4年)、暁星小学校へ入学。
井田 誠一(いだ せいいち、1908年(明治41年)8月13… 井田 誠一(いだ せいいち、1908年(明治41年)8月13日 - 1993年(平成5年)10月12日)は、昭和期の作詞家。 東京都八王子市出身。早稲田大学文学部卒業。 戦後、ビクター専属作詞家として活躍し、「東京シューシャンボーイ」、「水色のスーツケース」、「若いお巡りさん」などを作詞。明るい内容の歌詞が特徴的だった。その他、外国曲の訳詞を行った。 1993年(平成5年)10月12日死去。享年85。墓所は八王子市の富士見台霊園。 1999年、高尾山薬王院の境内に「若いお巡りさん」の歌詞を刻んだ歌碑が建立された。
山口 薫(やまぐち かおる、1907年〈明治40年〉8月13… 山口 薫(やまぐち かおる、1907年〈明治40年〉8月13日 - 1968年〈昭和43年〉5月19日)は、群馬県出身の洋画家。元東京芸術大学教授。 1907年(明治40年)8月13日、群馬県群馬郡箕輪村金敷平(現・高崎市箕郷町金敷平)の大地主山口家で、父彦太郎、母佐登の間に11人きょうだいの末子として生まれる。 箕輪尋常小学校卒業後、旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)に進む。中学時代の絵日記が、のちに『山口薫中学時代絵日記』として出版されている。絵日記には油絵を描いたり、帝展を見に東京に出かける等の逸話が現れる。4年次に旧制水戸高校理科を受験するも失敗し、5年の冬に上京し当時藤島武二が洋画を指導していた川端画学校で学ぶ。
飯守 重任(いいもり しげとう、1906年8月13日 - 1… 飯守 重任(いいもり しげとう、1906年8月13日 - 1980年11月5日)は、日本の裁判官。最高裁判所長官を務めた田中耕太郎の弟。 佐賀県出身。1930年東京帝国大学独法科卒業後、裁判官生活に入る。 1930年代に満州国司法部に移り、審判官や司法部参事官を務め、治安立法や統制経済法の立法に関与した。戦後、中国から戦犯に問われ、撫順収容所で「熱河粛正工作に於いてのみでも、中国人民解放軍に協力した愛国人民を1700名も死刑に処し、約2600名の愛国人民を無期懲役その他の重刑に処している」と手記に書いたが、日本帰国後はこれを否定した。 戦後、シベリアや中国・撫順戦犯管理所に抑留されて、1956年8月に帰国し、東京地裁判事に復職した。
田辺 弥八(たなべ やはち、1905年(明治38年) 8月1… 田辺 弥八(たなべ やはち、1905年(明治38年) 8月13日 - 1990年(平成2年)4月29日)は、日本の海軍軍人。海兵56期。ミッドウェー海戦において、伊号第百六十八潜水艦長として米空母ヨークタウンを撃沈した武功で知られる。最終階級は海軍中佐。 香川県出身。旧制香川県立三豊中学校(第21回)を経て海軍兵学校(56期)を卒業。海兵56期の同期生に高橋赫一、大谷藤之助、三上作夫らがいる。 田辺は通信学校甲種を修了していわゆる「通信屋」となったが、次いで潜水艦水雷長養成過程である潜水学校乙種を修了し、潜水艦乗りとなる。海軍大尉時代は「伊八潜」通信長を5ヶ月、第二潜水戦隊参謀を1年8ヶ月務め、1940年(昭和15年)11月海軍少佐へ進級。
葛西 康(かさい やすし、1905年〈明治38年〉8月13日… 葛西 康(かさい やすし、1905年〈明治38年〉8月13日 - 1990年〈平成2年〉3月26日)は、日本の洋画家。青森県出身。秋田大学教授、一陽会会員、菁々会会員。 1905年(明治38年)に青森県弘前市で生まれる。1925年(大正14年)に青森師範学校(現・弘前大学)を卒業。1930年(昭和5年)に青森師範学校(現・弘前大学)専攻科を卒業。 1933年(昭和8年)に上京し、板橋区江古田町1856番地に落ち着き、東京・滝野川小学校に訓導として勤める。その後、東京・四谷第一小学校に移り同校訓導として勤める。鈴木信太郎に師事する。1941年(昭和16年)に菁々会の会員に推挙され、同年12月9日から銀座・菊屋画廊で開催された第3回菁々会展に『海』・『山』・『川』・『風景』の4点を出品。
黒田 嘉一郎(くろだ かいちろう、1905年(明治38年)8… 黒田 嘉一郎(くろだ かいちろう、1905年(明治38年)8月13日 - 1988年(昭和63年)5月13日)は、日本の医学者。息子は徳島大学医学部教授の黒田泰弘。 京城帝国大学を卒業。京城帝国大学助教授、三井産業医学研究所医化学部長を務めた後、1950年に徳島医科大学(現徳島大学)教授、1959年医学部長、1971年徳島文理大学学長を歴任。 1975年に坂口あさと共に第1回徳島県文化賞を受賞。1976年勲三等旭日中綬章受章。徳島ペンクラブや四国文芸協議会では理事や会長を務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
平山 諦(ひらやま あきら、1904年8月13日 - 199… 平山 諦(ひらやま あきら、1904年8月13日 - 1998年6月22日)は、日本の数学者、和算史研究家。 千葉県成田生まれ。第二高等学校を経て、1930年東北帝国大学数学科卒業。1950年「和算に関する研究」で理学博士(理学)の学位を取得。林鶴一、藤原松三郎に師事。中学校教師をへて、1941年東北帝大講師。1968年退任。息子は天文学者の平山智啓(東京天文台)。
古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ、古川 緑波とも、1903年〈… 古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ、古川 緑波とも、1903年〈明治36年〉8月13日 - 1961年〈昭和36年〉1月16日)は、1930年代の日本の代表的コメディアン。本名は古川 郁郎(ふるかわ いくろう)。編集者、エッセイストとしても活動した。 古川郁郎は東京帝国大学総長を務めた加藤弘之男爵の長男である加藤照麿男爵の六男として東京市麹町区に生まれた。嫡男以外は養子に出すという家訓により、生後間もなく義理の叔父(父の妹婿)で満鉄役員の古川武太郎(元陸軍中将の古川宣誉の長男)の養子となる。幼少期より文才に優れ、のちに芸名として用いた「緑波」の号は尋常小学校3年生の頃、童話作家の巖谷小波にちなんで自らつけた筆名である。
古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ 、古川 緑波とも、1903年… 古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ 、古川 緑波とも、1903年(明治36年)8月13日 - 1961年(昭和36年) 1月16日)は、1930年代の日本の代表的コメディアン。編集者、エッセイストとしても活動した。
佐竹 金次(さたけ きんじ、1903年〈明治36年〉8月13… 佐竹 金次(さたけ きんじ、1903年〈明治36年〉8月13日 - 1964年〈昭和39年〉10月18日)は大日本帝国陸軍の軍人・工学者。 陸軍科学研究所、ドイツ任官を経て日本陸軍のレーダー開発に貢献した。 1903年(明治36年)、愛知県豊川市森町にて、父幹方、母ときの4男(8人兄弟)として生まれる。幼少期から学業に優れ、名古屋陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、1924年(大正13年)7月18日に陸軍士官学校(36期)を卒業し、同年10月25日に工兵少尉に任官、工兵第1大隊付となる。1927年(昭和2年)12月22日に陸軍砲工学校(33期)高等科を首席卒業後、更に員外学生として京都帝国大学電気工学科に在学。
矢田 恒久(やだ つねひさ、1903年8月13日 - 199… 矢田 恒久(やだ つねひさ、1903年8月13日 - 1991年12月27日)は、日本の経営者。第一生命保険社長、会長を務めた。 島根県出雲市出身。1928年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に第一生命保険に入社した。1946年7月に総務部長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1959年5月に副社長に就任し、1964年5月に社長に昇格した。1970年5月に会長に就任し、京王帝都電鉄監査役も務めた。 1968年10月に藍綬褒章を受章し、1974年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1991年12月27日、呼吸不全のために死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高橋 信三(たかはし しんぞう、1901年〈明治34年〉8月… 高橋 信三(たかはし しんぞう、1901年〈明治34年〉8月13日 - 1980年〈昭和55年〉1月19日)は、毎日放送(MBS、現・MBSメディアホールディングス)元代表取締役社長・会長、東京12チャンネル(TX、現・テレビ東京)元取締役。東京都出身。民間放送の創始者の一人。 慶應義塾大学経済学部卒業後、1926年(大正15年)[元号要検証]に大阪時事新報社に入社、1928年(昭和3年)毎日新聞社に移り、副主筆などをつとめた後1950年(昭和25年)にMBSの前身である新日本放送(NJB)設立に参加し、常務取締役に就任した。 MBSの設立・開局の中心人物として知られる。同局は毎日新聞系とされているが、実際には毎日新聞を依願退職した高橋が個人のコネクションをフルに活用し尽力して開局に漕ぎ着けたものであり、毎日新聞自体は余り積極的に支援しなかった。
西田 安逸(にしだ やすいつ、1900年 <明治33年> 8… 西田 安逸(にしだ やすいつ、1900年 <明治33年> 8月13日 - 1970年 <昭和45年> 3月10日)は、日本の経営者。青森銀行頭取を務めた。 青森県出身。1925年に早稲田大学商学部を卒業し、1929年に日本勧業銀行に入行。1954年5月に常任監査役に就任し、同年11月に青森銀行副頭取を経て、1955年2月から1968年11月までに頭取を務めた。 1965年9月に藍綬褒章を受章。 1970年3月10日急性心不全のために死去。69歳没。
川石 酒造之助(かわいし みきのすけ、1899年8月13日 … 川石 酒造之助(かわいし みきのすけ、1899年8月13日 - 1969年1月30日)は日本の柔道家。講道館柔道七段。兵庫県飾磨郡手柄村(のちの姫路市)出身。フランス柔道の父と称され、日本よりも日本以外で著名な柔道家である。 「川石メソッド」 (Méthode de Judo Kawaishi) 、「メトードK」と呼ばれる。パリの道場に迎えられた川石は柔道の技の系統的分類を、従来の講道館五教の技よりも多い147の技数でまとめた。川石は技の分類の上で、技毎に番号をつけ記号化したものを教えることで外国人に教授することに奏功した。ボルドー大学教授ミッシェル・ブルースの研究によると川石メソッドは科学者でありヨーロッパで最初の黒帯取得者と言われているモーシェ・フェルデンクライスの影響を受けていることが言及されている。
斎藤 弘吉(さいとう ひろきち、1899年〈明治32年〉8月… 斎藤 弘吉(さいとう ひろきち、1899年〈明治32年〉8月13日 - 1964年〈昭和39年〉9月19日)は、日本の日本犬研究家、芸術家、古美術研究家である。 東京都渋谷駅前の『忠犬ハチ公』を広く知らしめたことや、第1次南極地域観測隊の『タロとジロ』他の樺太犬救出のために尽力した事でも知られる。ペンネームは、斎藤弘。 社団法人日本犬保存会初代会長。財団法人日本動物愛護協会理事長。社団法人日本庭園協会常務理事。日本哺乳動物学会理事。世界動物保護連盟日本代表理事。動物友の会代表。空気銃対策協議会代表。ハチ公銅像維持会顧問。 洋画家を目指して東京美術学校を卒業したが、病気療養中に日本犬と出会い、当時、絶滅が危惧される状況にあった日本犬の保存活動をする事を決めた。
藤田 西湖(ふじた せいこ、1899年(明治32年)8月13… 藤田 西湖(ふじた せいこ、1899年(明治32年)8月13日 - 1966年(昭和41年)1月4日)は、甲賀流忍術を受け継いだ忍術家・武術家。甲賀流忍術第14世(甲賀二十一家の和田惟政から14代目と称した)。本名は「藤田 勇治」(ふじた ゆうじ)。生涯本名を嫌い、著書では「藤田 勇」(ふじた いさむ)を本名とし「藤田 西湖」(ふじた せいこ)と称す。「西湖」は画家(忍術修行の一つとして画業にも熟達していた)としての雅号。幼少より家伝の忍術を修行し継承、「最後の忍者」という異名を持つ。甲賀流忍術以外に南蛮殺到流拳法、大円流杖術、心月流手裏剣術、一伝流捕手術も継承。 東京・浅草出身。日本大学宗教科卒業。
矢崎 美盛(やざき よしもり、1895年8月13日 - 19… 矢崎 美盛(やざき よしもり、1895年8月13日 - 1953年4月7日)は日本の哲学者、美術史家。
長井 源(ながい げん、1894年(明治27年)8月13日 … 長井 源(ながい げん、1894年(明治27年)8月13日 - 1966年(昭和41年)9月19日)は、日本の政治家、弁護士。三重県飯南郡粥見町(現松阪市)出身。戦前の大日本帝国の帝国議会の民政党衆議院議員。戦後の日本進歩党・改進党・日本民主党・自由民主党の衆議院議員。 三重師範学校(現在の三重大学)を卒業した。三重県内の尋常小学校の教員を経て、法律を学ぶため1923年(大正12年)明治大学法学部法律学科を卒業した。高等文官試験をパス(合格)した。衆議院議員に初当選する前のキャリアとして、弁護士、松阪市会議員、三重県会議員、第33代三重県会副議長(昭和8年11月~昭和10年10月在任)を務めた。
寺崎 覚(本姓:寺﨑 覺、てらさき さとる、1894年(明治… 寺崎 覚(本姓:寺﨑 覺、てらさき さとる、1894年(明治27年)8月13日 - 1984年(昭和59年)2月2日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員、久留米市功労者。 福岡県久留米市津福本町で生まれる。 久留米市鳥飼産業組合理事、同鳥飼農業会長、久留米市農地委員会長、福岡県農村青年連盟久留米地区委員長、久留米市鳥飼農業協同組合理事などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に福岡県第3区から出馬して初当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙で再選され、衆議院議員に連続2期在任した。この間、日本農民党情報部長などを務めた。 その後、久留米市教育委員会委員長に就任した。
岡田 次作(おかだ じさく、1893年(明治26年)8月13… 岡田 次作(おかだ じさく、1893年(明治26年)8月13日 - 1942年(昭和17年)6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。栄典は正五位勲三等功四級。 石川県金沢市千日町出身。金沢第一中学校(現:石川県立金沢泉丘高等学校。中第18回生、鈴木貫太郎内閣の大蔵大臣・広瀬豊作と同級生)を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(第42期)を63番/117名で卒業。 1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官し防護巡洋艦「須磨」乗組。海軍砲術学校高等科で学ぶ。1921年(大正10年)12月、駆逐艦「桂」乗組となる。 1922年(大正11年)1月、臨時航空術講習部部員兼横須賀海軍航空隊付となり航空畑に転じた。
梅原 末治(うめはら すえじ、1893年〈明治26年〉8月1… 梅原 末治(うめはら すえじ、1893年〈明治26年〉8月13日 - 1983年〈昭和58年〉2月19日)は、日本の東洋考古学者。京都大学名誉教授。東洋考古学の基礎を築いた。文学博士(京都帝国大学・1939年)(学位論文「支那青銅器時代の研究」)。 大阪府南河内郡古市村(現:羽曳野市)に生まれる。1913年同志社普通学校(現:同志社中学校・高等学校)卒業。1914年(大正3年)京都帝国大学文科大学陳列館助手。1921年(大正10年)朝鮮総督府古跡調査委員[要出典]。1929年(昭和4年)、東方文化学院京都研究所(現:京都大学人文科学研究所)所員、京都帝国大学文学部講師。1933年(昭和8年)6月、同助教授(考古学講座)。
小林 次郎(こばやし じろう、1891年(明治24年)8月1… 小林 次郎(こばやし じろう、1891年(明治24年)8月13日 - 1967年(昭和42年)7月2日)は、日本の内務官僚。位階は正三位。貴族院書記官長、貴族院勅選議員、参議院事務総長。 1891年長野県上水内郡高岡村(現飯綱町)に小学校教員の父小林頼利、母ときの次男として生まれる。当時小林家は家屋の一部を高岡村役場庁舎として貸していたので、次郎は「村役場に生まれた子」であった。また次郎が高岡尋常小学校(飯綱町立牟礼小学校)に通っていた9歳の時、父頼利が校長に着任したため「村の校長先生の子」ともなった。城山尋常高等小学校(長野市立城山小学校)から旧制長野中学校(長野県長野高等学校)へ進学。一年先輩には青木一男(大蔵大臣)、一年後輩には栗林忠道(陸軍大将)がいた。
岩木山 孫平(いわきやま まごへい、1890年8月13日 -… 岩木山 孫平(いわきやま まごへい、1890年8月13日 - 1934年6月25日)は、現在の栃木県宇都宮市出身(出生地は福島県白河市)で清見潟部屋に所属した大相撲力士。本名は横越 孫平(旧姓兼子)。7代清見潟。171cm、87kg。最高位は東前頭6枚目。 1906年1月初土俵、1910年6月新十両昇進。一時幕下に陥落していたが、1912年1月に十両に復帰した後、1915年1月に十両優勝を記録し、1915年6月に新入幕。土俵度胸が良く、立ち合いからの駆け引きもうまく、上突っ張りから右四つ、寄りの速い取り口を得意とした。いつもニコニコして、力士仲間からは「孫さん」と言われ親しまれた。二枚鑑札となった1920年5月に引退し、その後は木戸部長を務めて1930年に廃業した。
落合 太郎(おちあい たろう、1886年8月13日 - 19… 落合 太郎(おちあい たろう、1886年8月13日 - 1969年9月24日)は、日本のフランス文学者。位階は正三位。奈良女子大学名誉教授。 1886年、東京神田駿河台で生まれた。1892年、泰明小学校に入学。御田小学校では吉井勇と同級であった。1989年、東京府立第一中学校に入学したが、翌年肺炎を患ったことにより退学。また、翌1899年には母も死去。2年間の療養を経て明治学院普通部に入学し、卒業。1903年に第一高等学校予科第一部に入学。1908年に卒業し、東京帝国大学法科大学に入学したが、休学。新渡戸稲造に勧められ、京都帝国大学法科大学に転学した。1912年、赤塚季と結婚、また家督を相続した。
今井 茂右衛門 (いまい もえもん、明治17年(1884年)… 今井 茂右衛門 (いまい もえもん、明治17年(1884年)8月13日 - 昭和44年(1969年)2月18日)は、山梨県出身の実業家。官選第19代・民選初代甲府市長。 山梨県甲府市魚町(現在の甲府市中央三丁目)に、父「茂右衛門」、母「ゆき」の長男として生まれる。山梨県立甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、家業の魚問屋に従事した。 大正13年(1924年)2月11日に市政刷新を目指して甲府革新党の結党が企図され、今井は高野孫左衛門(高野毅)、牛山儀助ら同志とともに参加する。大正15年(1926年)5月28日の選挙で甲府市議会議員(在任期間:大正15年(1926年)5月28日 - 昭和9年(1934年)5月27日)に当選し、昭和5年(1930年)6月には甲府市議会議長(議長在任期間:昭和5年(1930年)6月7日 - 昭和9年(1934年)5月27日)に就任している。
穂積 律之助(ほずみ りつのすけ、1884年(明治17年)8… 穂積 律之助(ほずみ りつのすけ、1884年(明治17年)8月13日 – 1959年(昭和34年)2月23日)は、日本の工学者、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍造船少将。
谷口 弥三郎(たにぐち やさぶろう、1883年(明治16年)… 谷口 弥三郎(たにぐち やさぶろう、1883年(明治16年)8月13日 - 1963年(昭和36年)8月19日)は、日本の政治家、産婦人科医師、医学者。熊本県立医学専門学校(現熊本大学)教授、久留米大学長。日本医師会会長、参議院議員(3期)。「不良な子孫の出生を防止する」として、太田典礼、加藤シヅエに一時提携をもちかけながらその影響を排除しつつ、福田昌子らと共に優生保護法の成立に深く関わった。また、熊本県におけるハンセン病患者隔離政策の中心人物である。 1883年(明治16年)8月13日、香川県三豊郡大野原町(現観音寺市)に生れる。1902年(明治35年)に私立熊本医学校(現・熊本大学医学部)を卒業。
長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月… 長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月13日 - 1953年(昭和28年)4月29日)は大正・昭和期の日本の大蔵官僚、実業家。日本証券投資協会長。 広島県広島市堺町(現・広島市中区)生まれ。旧広島藩士・長崎正平の三男。旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)卒業後、旧制第一高等中学(一高)、東京帝国大学法科大学と進み、1907年(明治40年)、大蔵省理財局国庫課入り。1910年(明治43年)、台湾銀行を経て、1913年(大正2年)、幻の総合商社、神戸の鈴木商店に帝大出身者として初の入社、大番頭金子直吉の片腕として多くの事業を手がける。特に東京総支配人(東京支店長)時代、当時の政財界人のトップが集った「番町会」のメンバーになるなど縦横に交流する。
杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 … 杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 - 昭和26年(1951年)11月19日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。岡山県高梁市出身。渋谷隆太郎、上田宗重らと同様に機関科出身者として最初の海軍大将候補であった。退官後は、日本製鋼所の社長を務めた。 明治13年(1880年)に岡山県上房郡高梁町の備中松山藩士杉忠三郎と、その妻で由との間に次男として生まれる。地元の高梁男子校高等科を卒業し、創立第一回の県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)の二年生の編入試験に合格。中学時代に母の由が死去する不運に見舞われる。しかし、母の葬式では、一切涙を見せることはなかった。 卒業後、単身で当時、神奈川県横須賀にあったいわゆる「海軍三校」の一つ海軍機関学校へ入学(他二つは、海軍兵学校および海軍経理学校)。
斎藤 勧治(さいとう かんじ、1879年〈明治12年〉8月1… 斎藤 勧治(さいとう かんじ、1879年〈明治12年〉8月13日 - 没年不明)は、昭和時代前期の政治家。広島県尾道市長。 1904年(明治37年)東京法学院大学法律専門部卒業。各府県における勤務を経て、1928年(昭和3年)6月に呉市助役に就任。1932年(昭和7年)6月に任期満了。ついで、1933年(昭和8年)5月に岡山市助役に就任し、1936年(昭和11年)10月に退職する。その後、翌年の1937年(昭和12年)1月13日に尾道市長に就任した。
小出 満二(こいで まんじ、1879年8月13日 - 195… 小出 満二(こいで まんじ、1879年8月13日 - 1955年5月29日)は、農政学者。 兵庫県養父郡伊佐村で、9代続く医家の6人兄弟の次男として生まれる。学制尋常4年を卒業後上京し、13歳で郁文館中学校に進学。同期生に石原純、橋元昌矣(石原の妻の兄)、三宅恒方、物集高量、浮田修身らがいた。 第一高等学校に首席で合格したが、一学年期に落第して人生に悩み、読書を通じて内村鑑三とキリスト教に出会い、隣に住んでいたクリスチャンの村田勤(1866 〜1921、牧師・教育者)と親交した。村田は同志社出身で、イエール大学で教会史学者のウィリストン・ウォーカー(en:Williston Walker)に学び、日本女子大学や明治中学校で教鞭をとった人物。
春山 作樹(はるやま さくき、1876年(明治9年)8月13… 春山 作樹(はるやま さくき、1876年(明治9年)8月13日 - 1935年(昭和10年)12月29日)は、日本の教育学者。東京帝国大学教授。文学博士。 旧姫路藩士春山弟彦の子として大阪市上町に生まれる。姫路中学を経て、1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。卒業後は、大学院に学んだ。1904年(明治37年)、広島高等師範学校教授に就任。1912年(明治45年)から1915年(大正4年)まで欧米に留学。帰国後の1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部教授に就任し、翌年に文学博士号を受けた。 その他、第一高等学校講師、東京外国語学校講師を務めた。 1935年12月29日、脳溢血のため死去。