田浦 直蔵(田浦 直藏、たうら なおぞう、1898年(明治3… 田浦 直蔵(田浦 直藏、たうら なおぞう、1898年(明治31年)10月15日 - 1965年(昭和40年)8月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、長崎県議会議長。 長崎県北松浦郡平村(平町、宇久町を経て現佐世保市宇久町)で、田浦甚吉の二男として生まれる。1916年(大正5年)長崎県水産講習所(現長崎県立長崎鶴洋高等学校)を卒業した。 1916年、長崎県農林技手となる。1924年(大正13年)長崎県漁業組合連合会が設立され同会主事に就任。1932年(昭和7年)長崎水産商事(株)を設立して取締役社長に就任。上海支店を設け、その他、長崎魚市場取締役、グランドサービス取締役なども務めた。
岩内 とみゑ(いわうち とみえ、1898年(明治31年)10… 岩内 とみゑ(いわうち とみえ、1898年(明治31年)10月15日 - 1986年(昭和61年)3月26日)は、日本の社会運動家である。旧姓は和田。夫は同じく社会活動家の岩内善作。 山梨県東山梨郡加納岩村(現在の山梨市)に生まれ、幼年期に小学校を中退し製糸工場の女工として活動する。1917年(大正6年)に単身上京し、亀戸にあったセルロイド工場の女工として活動した。同工場に勤務中にキリスト教に受洗し、1921年(大正10年)には日暮里で同教の社会事業団体であった愛隣団の診療所の看護婦として活動を始める。 1927年(昭和2年)には日本労働党傘下の全国婦人同盟の結成に携わり、その幹事も務めた。また後に社会大衆婦人同盟の幹事も務め、中間派の無産婦人運動の指導に尽力した。
都田 恒太郎(みやこだ つねたろう、1897年(明治30年)… 都田 恒太郎(みやこだ つねたろう、1897年(明治30年)10月15日 - 1983年(昭和58年)11月16日)は、日本の牧師、日本基督教団の指導者、キリスト教学者、日本基督教協議会総書記、日本聖書協会総主事、青山学院理事長。長年、毎年秋にバックストン記念聖会の指導を行っていた。 岳父は、ホーリネスの都田友次郎。 1897年(明治30年)、鳥取県境港市に生まれる。旧制佐倉中学校に入学して、1908年(明治41年)笹尾鉄三郎が佐倉に巡回伝道に来た時に、佐倉中学四年生だった都田は笹尾の説教を聞いて深い感銘を受けた。1914年に笹尾鉄三郎から洗礼を授けられた。旧制佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を卒業する。
三宅 幾三郎(みやけ いくさぶろう、1897年10月15日 … 三宅 幾三郎(みやけ いくさぶろう、1897年10月15日 - 1941年5月1日)は、小説家、翻訳家。兵庫県生まれ。東京帝国大学英文科卒業。在学中に十一谷義三郎とともに同人雑誌『行路』を創刊し、小説を書く。高知高等学校教授。十一谷とともに川端康成らの『文藝時代』に参加。1926年高知高校を辞職し上京、文化学院講師となる。のち翻訳に力を入れ、『嵐が丘』『虚栄の市』などを翻訳した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
平井 泰太郎(ひらい やすたろう、1896年10月15日 -… 平井 泰太郎(ひらい やすたろう、1896年10月15日 - 1970年7月2日)は、日本の経営学者。神戸大学名誉教授。第2代日本経営学会理事長。 兵庫県神戸市出身。1918年神戸高等商業学校(現神戸大学)を卒業し、東京高等商業学校(現一橋大学)商工経営科に進学。1920年に卒業して、商学士の学位を取得した。同期に福田敬太郎第3代神戸大学学長がいる。上田貞次郎門下。神戸高等商業学校講師となり、1921-1925年欧米に留学し、ベルリンでハインリヒ・ニックリッシュ(ドイツ語版)に、ライプツィヒでバルドウィン・ペンドルフ(ドイツ語版)に、フランクフルトでフリッツ・シュミットに師事。留学中1923年に教授となる。
本田 喜代治(ほんだ きよじ、1896年10月15日 - 1… 本田 喜代治(ほんだ きよじ、1896年10月15日 - 1972年10月22日)は、日本の社会学者。
林 好次(はやし こうじ、1895年(明治28年)10月15… 林 好次(はやし こうじ、1895年(明治28年)10月15日 - 1959年(昭和34年)12月4日)は、昭和期の漁業経営者、政治家。衆議院議員、網走市名誉市民。 滋賀県 坂田郡春照村(伊吹村、伊吹町を経て現米原市)で生まれる。1918年(大正7年)網走に移住して雑貨店(林屋商店前身)を経営。1935年(昭和10年)ごろに水産不況に対応するため北洋出漁組合を結成して、鮭鱒漁で成果を収めた。網走漁業会長、北海道水産業会理事、林屋商会取締役、北見綜合木材取締役、藤林商会取締役社長、網走水産冷蔵取締役社長などを務めた。 網走町会議員、北海道会議員、網走市議会議長に在任。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で北海道第5区から民主党所属で出馬して当選。
重見 伊三雄(しげみ いさお、1894年(明治27年)10月… 重見 伊三雄(しげみ いさお、1894年(明治27年)10月15日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍山口県。東京府で重見熊雄陸軍中将の二男として生まれる。早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し歩兵第49連隊付となる。同年12月、歩兵少尉に任官した。 1922年(大正11年)2月、陸士予科生徒隊付となり、歩兵第49連隊中隊長、第1戦車隊副官、第1戦車隊付を経て、1932年(昭和7年)2月、独立戦車第2中隊長に発令され第一次上海事変に出動した。
板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年(明治27年… 板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年(明治27年)10月15日 - 1966年(昭和41年)7月3日)は、美術評論家。西洋美術史の研究者として、その業績を著作に残す。また、明治以降から同11年代までの日本近代建築についての論評をはじめ、映画、写真など新たな美術領成をメディア論として論じた草分け的存在でもあった。 モダニズム研究で文芸、美術、建築、文学にまで射程は広い。終戦後に早稲田大学文学部教授となり、最晩年まで教鞭を取った。ほか明治大学教授、東京写真大学教授を歴任した。 東京神田生まれ。文芸評論家の平山直子(板垣直子)と結婚。 1915(大正4)年、第一高等学校第二部退学後、東京帝国大学文科大学哲学科の選科生として西洋美術史を学ぶ。
山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん、1893年10月15日 -… 山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん、1893年10月15日 - 1971年5月31日)は、大正時代から昭和時代後期にかけて活躍した日本画家。本名、三郎(さぶろう)。文化勲章受章者。 同項目の多くは後述する「山口蓬春記念館」公式サイト内の「年譜」による。 北海道松前郡松城町(現・松前町)生まれ。日本銀行員だった父の転任に伴って松前や札幌に住んだ後、1913年(大正2年)に東京府(現東京都)高輪中学校を卒業後、1年間の志願兵として帝国陸軍に従軍した後に除隊し、1915年(大正4年)に東京美術学校(現東京芸術大学)に進学。当初は西洋画学科だったが、1918年(大正7年)に中途退学の上で日本画学科へ再入学し、松岡映丘に師事し、大和絵を習得した。
伊礼 肇(伊禮 肇、いれい / いれ はじめ、1893年(明… 伊礼 肇(伊禮 肇、いれい / いれ はじめ、1893年(明治26年)10月15日 - 1976年(昭和51年)6月7日)は、沖縄県出身の日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 沖縄県中頭郡北谷村(現北谷町)字北谷で、農家・伊礼昆正の三男として生まれる。沖縄県立第一中学校から第七高等学校造士館に進学し、1916年に同校理科を卒業。京都帝国大学法学部法律学科(独法)に進学し、1919年7月に卒業した。 同年に帰郷して沖縄県属となり地方課に配属。要請を受け1920年8月に北谷村長に就任。村政改革を進めたが保守勢力との対立を引き起こした。1923年11月に村長を辞して那覇に法律事務所を開設。1924年5月の第15回衆議院議員総選挙に憲政会の公認を受けて沖縄県から出馬したが落選。
等々力 巳吉(とどりき みよし、1893年(明治26年)10… 等々力 巳吉(とどりき みよし、1893年(明治26年)10月15日 - 1959年(昭和34年)6月7日)は、日本の洋画家。 長野県南安曇郡柏原村(現・安曇野市)に生まれる。高等小学校を卒業後、豊科や堀金の小学校で代用教員となり、本科正教員となった後も、教育に専念する傍ら画業の研鑽を積む。昭和3年(1928年)教師を休職し、シベリア鉄道経由でパリに3年間留学し、アカデミー・ランソン(英語版)に入学、オトン・フリエスに師事し、ダゲール街(英語版)で西洋画を学ぶ。昭和5年(1930年)1月、スイス・イタリアを歴遊して帰国後、二科展で「ヴェニスの船着場」が初入選する。昭和8年(1933年)、東京市郊外の練馬にアトリエを構える。
醍醐 忠重(だいご ただしげ、1891年〈明治24年〉10月… 醍醐 忠重(だいご ただしげ、1891年〈明治24年〉10月15日 - 1947年〈昭和22年〉12月6日)は、日本の海軍軍人、貴族院議員。 海軍中将。爵位は侯爵。 1891年10月15日に、東京市麹町区元園町で公卿華族(清華家)の醍醐侯爵家の嫡子(三男)として生まれる。父・醍醐忠敬は戊辰戦争において奥羽鎮撫副総督を務めたが、1899年に家督相続に絡む怨恨によって甥(忠敬の兄忠告の子)の格太郎に射殺された。この事件が大スキャンダルに発展してしまい、これが原因で醍醐家は没落、忠重は公卿摂家の一条家に引き取られて養育された。賀陽宮恒憲王は忠重の従兄弟にあたる。 1897年東京市麹町尋常小学校(現・麹町小学校)に入学。
北村 匡登(きたむら まさと、1889年(明治22年)10月… 北村 匡登(きたむら まさと、1889年(明治22年)10月15日 - 1985年(昭和60年))は、日本の政治家。長野県更埴市長。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)生まれ。1907年(明治40年)旧制長野中学(現長野県長野高等学校)卒業。屋代町役場に入り、税務官吏を経て1922年(大正11年)第六十三国立銀行入行。のち八十二銀行篠ノ井支店長を経て1945年(昭和20年)に退職した。 1942年(昭和17年)屋代町会議員に就任。同議長、農業協同組合監事なども務め、1953年(昭和28年)6月、屋代町長に当選。2町2村による「更埴中部市制」実現を掲げ研究協議会を設置し、更埴市の誕生に貢献した。 1959年(昭和34年)7月、初代更埴市長に就任し、1963年(昭和38年)7月まで1期在任した。
野村 与曽市(のむら よそいち、1889年(明治22年)10… 野村 与曽市(のむら よそいち、1889年(明治22年)10月15日 - 1975年(昭和50年)1月12日)は、日本の実業家。電気化学工業社長や日本カーバイド工業会会長、電気化学協会会長等を歴任し、カーバイド石灰窒素工業の発展に尽力した。 滋賀県愛知郡東押立村大字大沢生まれ。東押立尋常高等小学校を経て、1909年東京府立第四中学校(現東京都立戸山高等学校)卒業。1913年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、北海カーバイド工場入社。1915年電気化学工業青海工場長。1936年電気化学工業常務取締役。1946年電気化学工業専務取締役・特別管理人。1949年電気化学工業代表取締役副社長。1951年電気化学工業代表取締役社長。
池田 永治(いけだ えいじ、1889年10月15日 - 19… 池田 永治(いけだ えいじ、1889年10月15日 - 1950年12月30日)は、日本の漫画家、洋画家、挿絵画家、俳画家。京都府出身。大正期から昭和20年代にかけて活躍した。 1889年、京都市木屋町生まれ、大阪育ち。 本名は池田永治。1928年以降は(妹繁子の死を悲しみ)池田永一治(読みはエイジのまま)と称した。他の画名に永一路、牛、牛歩、田牛(たのもう)などで、これらは丑年うまれにちなむ。 父直次郎の木版印刷業を継がずに上京して、太平洋美術学校を卒業、同校教授となる。珊瑚会に加わり、太平洋画会を中心に活動し、1910年第4回文展褒状「牧場」から1946年日展入選「鳥渡る」まで、日展(帝展、文展)関係の褒状2回、招待2回、無鑑査4回、入選16回に及び、風景画を得意とした。
古屋 菊男(ふるや きくお、1888年(明治21年)10月1… 古屋 菊男(ふるや きくお、1888年(明治21年)10月15日 - 1980年(昭和55年)2月1日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員。 山梨県出身。1912年(大正元年)金沢医学専門学校を卒業し、その後、京都医科大学大学院で学んだ。 神戸掖済会病院副院長を務めた後に開業。その後、浅間村国民健康保険診療所長、結核予防会山梨県支部長、山梨診療所長を歴任した。 政界では、山梨県会議員、同副議長、山梨県公安委員会委員を務めた。1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から改進党所属で出馬して当選し、その後日本民主党に所属して衆議院議員を1期務めた。この間、改進党中央常任委員、社会保障制度調査特別副委員長など務めた。
吉田 徳次郎(よしだ とくじろう、1888年(明治21年)1… 吉田 徳次郎(よしだ とくじろう、1888年(明治21年)10月15日 - 1960年(昭和35年)9月1日)は、大正から昭和時代の土木工学者。 兵庫県に生まれる。1912年(明治45年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、九州帝国大学工科大学講師となり、1914年(大正3年)助教授、1924年(大正13年)教授に進み、1938年(昭和13年)まで構造力学、鉄筋コンクリート工学を担当した。同年、東京帝国大学教授に転じ、1949年(昭和24年)に定年退官するまでコンクリート工学、鉄筋コンクリート工学の講義を担当した。この間、イリノイ大学に留学し、アーサー・ニューウェル・タルボット(英語版)に師事し、コンクリートの実験的研究に従事して研鑽を積んだ。
中村 継男(なかむら つぐお、1888年(明治21年)10月… 中村 継男(なかむら つぐお、1888年(明治21年)10月15日 - 1946年(昭和21年))は、日本の衆議院議員(立憲民政党→国民同盟)、大蔵官僚。 熊本県熊本市に中村午五郎の長男として生まれる。1912年(明治45年)に長崎高等商業学校(現在の長崎大学経済学部)を卒業後、一年志願兵となり、陸軍三等主計として退役した。熊本税務監督局に属官として勤務し、認められて1917年(大正6年)に東京税務監督局事務官に昇進した。1923年(大正12年)、官を辞して税務懇話会を組織し、納税思想の普及と税務に関する官民協調に尽力した。後の1938年(昭和13年)には税務懇話会は社団法人化された。 1925年(大正14年)、滝野川町の町会議員に当選した。
松永 東(まつなが とう、1887年〈明治20年〉10月15… 松永 東(まつなが とう、1887年〈明治20年〉10月15日 - 1968年〈昭和43年〉1月22日)は、日本の実業家、弁護士、弁理士、政治家。位階は正三位。 第45代衆議院議長。第76代文部大臣。さいたま市名誉市民。 長崎県南高来郡北串山村(のち小浜町、現雲仙市)の農家に生まれる。松永道広の長男。鎮西学院を卒業。1905年、上京した。弁護士事務所の書生をしたり、新聞配達をした。 早稲田実業学校出身。早稲田大学商科に学び中退した(1934年に推薦校友)。また日本大学に学び、法律の勉強をした。1911年、家督を相続した。弁護士試験に合格後弁護士、弁理士を開業した。傍ら武州鉄工所社長、武州瓦斯取締役を兼ねた。
木宮泰彦(きみや やすひこ、1887年10月15日 - 19… 木宮泰彦(きみや やすひこ、1887年10月15日 - 1969年10月30日)は、日本の歴史学者、教育家。 静岡県浜名郡入野村(現・浜松市中央区)に、龍雲寺 (浜松市)の二男として生まれる。1913年、東京帝国大学文科大学史学科国史学専修を卒業し、1915年に「足利時代ノ文化」の研究のため、京都帝国大学大学院に入学。1920年山形高等学校教授、1923年水戸高等学校教授、1927年静岡高等学校教授となり、1946年同校長事務取扱を最後に退官し、静岡に静岡女子高等学院(のち学校法人常葉大学)を創立。1959年同理事長となり、1966年常葉女子短期大学を設立し、学長を務めた。日中関係史の研究で知られる。
前田 穰(まえだ みのる、1887年〈明治20年〉10月15… 前田 穰(まえだ みのる、1887年〈明治20年〉10月15日 - 1955年〈昭和30年〉6月28日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、実業家、政治家。参議院議員(1期)。 三重県四日市出身。第五高等学校を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学を卒業。鉄道院(のち鉄道省)に入り神戸鉄道管理局書記に任官。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、大阪鉄道局課長、門司鉄道局課長、運輸局総務課長、大臣官房人事課長、大阪鉄道局長、仙台鉄道局長、鉄道省運輸局長などを歴任。1934年(昭和9年)8月、同省監督局長に就任し、1937年(昭和12年)7月まで在任して退官した。 その後、阪和電鉄監査役、南海電鉄常任監査役、都市計画三重地方委員、三重県労働調停委員、三重交通社長、ユネスコ三重協力会会長、三重県経営者協会会長、同県社会福祉協議会会長などを務めた。
小錦 八十吉(こにしき やそきち、1887年(明治20年)1… 小錦 八十吉(こにしき やそきち、1887年(明治20年)10月15日 - 1943年(昭和17年)3月3日)は、山形県西村山郡三泉村(現:山形県寒河江市)出身で二十山部屋に所属した大相撲力士。本名は後藤 鶴松(ごとう つるまつ)。最高位は小結。 1887年10月15日に山形県西村山郡三泉村(現:山形県寒河江市)で生まれる。上京して二十山部屋へ入門後、1901年5月場所で初土俵を踏んだ。四股名は出身地に因んで「山泉」と名乗った。当初は苦戦して出世まで時間が掛かったが、両國國技館(初代)のこけら落としとなった1909年6月場所で新入幕を果たし、この場所で7勝2敗1預の好成績を収めると、1910年1月場所では梅ヶ谷藤太郎(2代)を破って金星を獲得するなど、上位に通用するまでに力を付けた。
古田 俊之助(ふるた しゅんのすけ、1886年(明治19年)… 古田 俊之助(ふるた しゅんのすけ、1886年(明治19年)10月15日 - 1953年(昭和28年)3月23日)は、日本の実業家で、第七代住友総理事である。第2次大戦の敗戦により、住友財閥が解体され、住友最後の総理事となる。 京都府葛野郡衣笠村字等持院(現・京都市北区等持院北町)の寺侍井上数馬・エンの五男として生まれる。1899年(明治32年)14歳の時、大阪製鎖所を経営する古田敬徳の養子となり、大阪府一中(現・大阪府立北野高等学校)に進んだ。六高を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学工科大学を卒業し、住友総本店に入社する。 入社以来、ほとんど住友伸銅所の技術畑を歩き、1935年(昭和10年)の住友金属工業誕生とともに、専務取締役に任ぜられ、翌1936年(昭和11年)には合資理事として住友の大幹部の1人となった。
柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年〈明治18年〉… 柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年〈明治18年〉10月15日 - 1967年〈昭和42年〉2月22日)は、大正から昭和時代にかけての歌人。本名は宮崎燁子(みやざきあきこ)、旧姓:柳原(やなぎわら)、北小路(きたこうじ)、伊藤(いとう)。大正三美人の一人。白蓮事件で知られる。 父は柳原前光伯爵。大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。 東京に生まれた。父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから「燁子」と名付けられる。母のりょうは没落した新見正興の娘で、前光の妾のひとりで柳橋の芸妓であった。燁子は生後7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍される。
霜山 精一(しもやま せいいち、1884年(明治17年)10… 霜山 精一(しもやま せいいち、1884年(明治17年)10月15日 - 1975年(昭和50年)3月12日)は、日本の司法官僚、弁護士。大審院長、最高裁判所判事、貴族院議員。従二位勲一等。 1910年(明治43年)に東京帝国大学を卒業。1912年(大正元年)12月に判事に任官。司法省参事官も務め、1924年(大正13年)1月に大審院判事、1934年(昭和9年)5月に札幌控訴院院長になった時は51歳で全国控訴院長のうち最年少であった。この後、広島控訴院長を経て、1939年(昭和14年)に東京控訴院長と昇進。1942年(昭和17年)に控訴院判事人事は部長会議(分科会)の合議で決めることになっていたが、霜山院長の独断で代理部長の人事を決めた際に、法律違反だとして若手判事らが徒党を組んで抗議して撤回を迫られるという控訴院分科会事件が発生した。
上村 清太郎(うえむら せいたろう、1883年(明治16年)… 上村 清太郎(うえむら せいたろう、1883年(明治16年)10月15日 - 1947年(昭和22年)3月11日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 秋田県出身。1901年(明治34年)12月[要出典]、士官候補生(15期)として陸軍に入る。1903年(明治36年)陸軍士官学校を卒業し、翌年2月に陸軍砲兵少尉任官。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)卒業し、参謀本部要塞課に配属された。 陸軍重砲兵学校教導大隊長、同教育部長、横須賀重砲兵連隊長等を歴任し、1932年(昭和7年)8月、陸軍少将へ昇進。陸軍重砲兵学校幹事、野戦重砲兵第4旅団長、陸軍重砲兵学校長などを経て、1936年(昭和11年)4月、陸軍中将に進級。
窪田 駒吉(くぼた こまきち、1883年(明治16年)10月… 窪田 駒吉(くぼた こまきち、1883年(明治16年)10月15日 - 1935年(昭和10年)6月9日)は、日本の実業家。鈴木商店東京支店長を経て、日本製粉社長として同社の経営再建にあたった。 高知県長岡郡介良村(現高知市介良)の貧しい肴屋の子として生まれる。15歳で神戸に出て、阪神樟脳合資会社を経て、金子直吉の知遇を得て鈴木商店に入社。上海出張所詰や天津出張所詰を務めて、鈴木商店が東京進出を果たし1912年に東京支店が設立されると、支配人から東京支店長に就任した。1927年から鈴木商店傘下の日本製粉社長を務め、経営再建にあたった。鈴木商店破綻後、三井物産に支援を求め、1933年まで日本製粉相談役を務めた。
野村 胡堂(のむら こどう、1882年(明治15年)10月1… 野村 胡堂(のむら こどう、1882年(明治15年)10月15日 - 1963年(昭和38年)4月14日)は、日本の小説家・人物評論家。『銭形平次捕物控』の作者として知られる。音楽評論家としての筆名はあらえびす、野村あらえびすとも。本名:野村 長一(のむら おさかず)。娘は作家の松田瓊子。 1938年発行の『レコード音楽』昭和13年3月号に、読者からの投書に答える形で、次のように述べている。 「ところで震災の前の年から私は美術と音楽のことも書くやうになつた。さうなると胡堂といふ名では少々堅苦しい感じがあるので、何か他の名を考へることにしたのが抑々あらえびすの名の出来るきつかけだつた。有名な浄瑠璃の「袖萩祭文」の中で「奥州のあらゑびす……」云々と阿倍貞任が威張るくだりがあるが、胡堂の胡がそのあらゑびすに相当するので(ゑびすに「にぎゑびす」即ち熟蛮と「あらゑびす」即ち生蛮の二種がある、その荒つぽい方なのである)ゑはえに変えて、斯くして茲にあらえびすの名が誕生を見た次第だ。
半田 神来(はんだ しんらい、1882年〈明治15年〉10月… 半田 神来(はんだ しんらい、1882年〈明治15年〉10月15日 - 1956年〈昭和31年〉)は日本の書家。本名は半田時之進。 半田丑松とチイの長男として[独自研究?]、栃木県河内郡野澤村(現・宇都宮市野沢)に生まれる。旧制宇都宮中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)を卒業。 旧制宇都宮商業、佐野中学校、花巻高等女学校に在職。1926年(大正15年)群馬師範学校に転任し1932年(昭和7年)まで勤務。退職後は桐生に在住し、晩年に郷里宇都宮に戻った。叙従七位。 書は岩田鶴皐、近藤雪竹、比田井天来に学ぶ。天来の書学院教授も務めた。天来の死去の際は、葬儀委員長を仰せつかっている。月刊誌『大成』を刊行して後進を指導した。
玉井 幸助(たまい こうすけ、1882年10月15日 - 1… 玉井 幸助(たまい こうすけ、1882年10月15日 - 1969年1月11日)は、日本の国文学者。 1905年、新潟師範学校卒、1909年、東京高等師範学校国語漢文科卒。 1950年、「更級日記錯簡考」で東洋大学・文学博士。 1910年、東京高等師範学校助教諭兼訓導、1915年同校教諭、1925年教授。1946年定年退官し、日本女子専門学校教授、1962年昭和女子大学長に就任。 専門は、平安鎌倉女流日記文学。
三津木 春影(みつぎ しゅんえい、1881年10月15日 -… 三津木 春影(みつぎ しゅんえい、1881年10月15日 - 1915年7月8日)は、小説家・翻訳家。本名は一実(かずみ)。男性。
横濱 勉(よこはま つとむ、1880年10月15日 - 19… 横濱 勉(よこはま つとむ、1880年10月15日 - 1960年12月23日)は、日本の建築家。旧第九十銀行本店(国の重要文化財)などの設計で知られる。盛岡市出身。
多田 耕太郎(ただ こうたろう、1878年(明治11年)10… 多田 耕太郎(ただ こうたろう、1878年(明治11年)10月15日 - 1928年(昭和3年)10月13日)は、明治から昭和時代初期の水産功労者、漁業経営者、政治家。高知県多額納税者。 多田嘉七の長男として高知県安芸郡津呂村(現・高知県室戸市室戸岬町)に生まれ、1912年(大正元年)家督を相続する。大正期に発展した定置網漁業の経営者として県内外にて漁場を開発。三重県志摩半島にも進出しブリ飼付漁業を経営した。ほか、大北漁業、並村製糸場などの取締役を歴任した。 政治家としても活躍し、安芸郡会議員を経て、1923年(大正12年)高知県会議員に当選。1927年(昭和2年)再選される。立憲民政党の成立と同時に総務となり、1928年(昭和3年)7月に24代県会議長に就任した。
中島 守利(なかしま もりとし、1877年(明治10年)10… 中島 守利(なかしま もりとし、1877年(明治10年)10月15日 - 1952年(昭和27年)1月28日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡新宿町長。 東京府南葛飾郡新宿町(現東京都葛飾区新宿)で、農業・中島藤左衛門の長男として生まれる。5歳で勝鹿小学校(現在の葛飾区立新宿小学校)に入学し、13歳で同高等小学校を卒業。独学で学問を修め、17歳で新宿郵便局長に就任。その後、新宿町長、東京府会議員、同参事会員、同郡部会副議長、同農会議員、同教育会議員などを歴任。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で東京府第十五区から立憲政友会所属で出馬して当選。その後、第18回総選挙まで連続5回の当選を果たしたが、1928年、京成電車疑獄事件に連座。
棚次 辰吉(たなつぐ たつきち、明治7年(1874年)10月… 棚次 辰吉(たなつぐ たつきち、明治7年(1874年)10月15日 - 1958年5月19日)は、日本の発明家、実業家。 東かがわ市における手袋産業の育ての親とされる人物である。東かがわ市の白鳥神社の敷地内にある手袋神社に銅像がある。 讃岐国大内郡松原村(現在の香川県東かがわ市松原)出身。明治22年に教蓮寺に奉公に出る。明治24年に大阪に行き、メリヤス商店に入り、従兄弟の両児舜礼の下で手袋などの製造販売を修得する。明治27年に独立した。明治30年にメリヤス加工のミシンを考案した。明治32年に教蓮寺内に積善商会を起こし、手袋の製造を始める。大正5年に大阪手袋工場を創業した。 その後、第一次世界大戦の特需により、東かがわ市内に手袋会社や工場が多く作られ、現在まで続く東かがわ市における手袋産業発展のきっかけになった。
橘川 司亮(きっかわ しりょう/もりあき、1873年(明治6… 橘川 司亮(きっかわ しりょう/もりあき、1873年(明治6年)10月15日 - 1937年(昭和12年)1月2日)は、日本の明治 - 昭和初期の官吏、勅任官。 度量衡(どりょうこう/計量単位)の専門家。「我國メートル法の創始者」「日本のメートル法の創始者」と称される。パリ国際度量衡総会(第4回)日本政府代表。位階勲等は従三位・勲三等。 氏名の欧文表記はSHIRIO KIKKAWA。 明治6年(1873年)現在の宮城県仙台市に宮城縣士族として生まれる。父は第一回仙台市議会議員橘川鋿。明治34年(1901年) 東京帝国大学理科大学(現東京大学理学部物理学科)で度量衡を田中館愛橘に学び卒業。引き続き大学院にて度量衡の研究を続ける。
児玉 亮太郎(こだま りょうたろう、1872年10月15日〈… 児玉 亮太郎(こだま りょうたろう、1872年10月15日〈明治5年9月13日〉 - 1921年〈大正10年〉10月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会)などを歴任。 和歌山県那賀郡粉河村(現在の紀の川市)に、後の衆議院議員児玉仲児の長男として生まれる。同志社卒業後、ミシガン大学に留学し、哲学博士の称号を受けた。帰国後、大阪毎日新聞記者、京都帝国大学法科大学経済学講師、同志社大学講師、北海道拓殖銀行営業部長、富士製紙主事などを歴任した。 原敬の知遇を得、1900年(明治33年)に原が逓信省大臣に就任すると、秘書官に任命された。1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選。
高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(… 高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(明治4年9月2日) - 1949年(昭和24年)4月5日)は、日本の社会統計学者、社会運動家。
松村 八次郎(まつむら はちじろう、1869年10月15日(… 松村 八次郎(まつむら はちじろう、1869年10月15日(明治2年9月11日) - 1937年9月8日)は、日本の陶業家。 肥前国松浦郡曲川村(現在の佐賀県西松浦郡有田町)出身。1891年に東京高等工業学校陶器玻璃工科を卒業し、さらに専攻科で学んだ。1892年に名古屋の松村九助の養子となった。 1896年に硬質磁器の特許を得て、1902年に生産を始めた。
小熊 幸一郎(おぐま こういちろう、1866年10月15日 … 小熊 幸一郎(おぐま こういちろう、1866年10月15日 - 1952年7月4日)は、日本の実業家。北洋漁業の近代化と函館の経済発展に貢献し、「函館の恩人」と呼ばれた。 越後国(現・新潟市)生まれ。8歳で養父母の小熊幸吉・タマ夫妻に引き取られる。1879年4月小学校卒業、翌1880年12月まで代用教員。1881年東京で丁稚奉公、その後新潟で海運業に従事。 1887年函館に渡り、廻船問屋に勤務。1895年独立して仲買店を開業。樺太、カムチャツカ、沿海州で漁業を展開し、母船式サケ・マス漁業を推進。函館の港湾改修や冷蔵施設の充実に尽力。 1918年(大正7年)、柳田藤吉が1901年に建設した赤レンガ倉庫群(柳田倉庫、後の弁天倉庫株式会社)を買収。
榊原 幾久若(さかきばら きくわか、1863年10月15日(… 榊原 幾久若(さかきばら きくわか、1863年10月15日(文久3年9月3日) - 1936年(昭和11年)2月19日)は、明治から昭和時代初期の司法官。大審院検事、同判事。 榊原光次郎の弟としてのちの愛知県に生まれる。普通学を修めたのち、1886年(明治19年)帝国大学法科大学を卒業する。大学院に進んだのち、1890年(明治23年)東京地方裁判所判事となり、東京控訴院判事、宇都宮地方裁判所長を経て、1899年(明治32年)東京控訴院部長となった。その後、大審院検事および判事を歴任した。大審院判決例の編集に功績がある。
小山 益太(こやま ますた、1861年10月15日(文久元年… 小山 益太(こやま ますた、1861年10月15日(文久元年9月12日)- 1924年(大正13年)7月1日)は、日本の園芸家である。号は楽山園。 備前の赤磐郡稗田村に生まれる。幼少時に漢学を学び、後に廃藩置県により赤磐郡議会の書記を務めた。その後園芸栽培の活動を始め、同地で生産されるモモやナシ、ブドウ等多くの果実の品種改良に携わる。 またその果実の袋掛け法の改善や害虫駆除のために、殺虫剤の研究開発にも携わった。この開発は後に石油浸出法による石油乳剤を用いたものであり、「六液」の名で知られ普遍的に多くの農家で使用された。その後も果実の販売向上のために市場の開業や、大原奨農会(現在の岡山大学資源植物化学研究所)からの招聘よって果樹園の経営にも携わった。
丹尾 頼馬(にお たのま、1858年10月15日(安政5年9… 丹尾 頼馬(にお たのま、1858年10月15日(安政5年9月9日)- 1928年(昭和3年)7月8日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、福井県丹生郡岡山村長。 越前国丹生郡下野田村(福井県岡山村、豊村を経て現鯖江市)で、丹尾兵馬の長男として生まれた。その後、大地主、農業、村役、馬売買を営む本家・丹尾清左衛門の養子となる。同郡家久村の木村塾で学び、1866年(慶応2年)福井藩立・立教館に入り漢学、数学、習字を修めた。1869年(明治2年)中學明新館(現福井県立藤島高等学校)に入学。その後上京し、築地のカロゾルス(クリストファー・カロザース)に師事し英語を修めた。1877年(明治10年)慶應義塾に入った。
榊 俶(さかき はじめ、安政4年8月28日(1857年10月… 榊 俶(さかき はじめ、安政4年8月28日(1857年10月15日) - 明治30年(1897年)2月6日)は、明治期の医師、医学博士。幼名は善太郎。父は蘭学者の榊令輔。弟の榊順次郎と榊保三郎も医学者である。 はじめ駿府において堀越愛国のもとで英学を学んだとされる。明治13年(1880年)に東京大学を卒業後、明治15年(1882年)にベルリン大学に留学し精神病学を専攻した。明治19年(1886年)に帰国、帝国大学医科大学教授に就任し、精神病学教室を開設、帝国大学医科大学草創期において精神病、精神衛生、小児精神論、看護法を講じ、剖検、司法精神鑑定相馬事件など幅の広い活動を行なった。墓所は染井霊園(1イ-5-8)。
南部 球吾(なんぶ きゅうご、1855年10月15日〈安政2… 南部 球吾(なんぶ きゅうご、1855年10月15日〈安政2年9月5日〉 - 1928年〈昭和3年〉11月4日)は、明治から大正に活動した日本の鉱山技術者。 越前国福井藩士で、維新後官吏となった南部広矛の次男として生まれる。 慶応2年(1866年)、藩の英学者の瓜生寅のもとで英学を修めた。1869年(明治2年)、開成学校に入学する。1870年(明治3年)、大学南校に移り化学を専攻した。 1875年(明治8年)、文部省の第1回アメリカ合衆国への留学生となり、長谷川芳之助とともにコロンビア大学で鉱山学を学んだ。1880年(明治13年)10月に帰国後、三菱に入社し、高島炭鉱の坑長を務め、工学博士となった。
不知火 光五郎(しらぬい こうごろう、1847年10月15日… 不知火 光五郎(しらぬい こうごろう、1847年10月15日〈弘化4年9月7日〉 - 1882年〈明治15年〉7月11日)は、大坂相撲で活躍した元力士。湊部屋(大阪相撲)に所属していた。 本名は佐藤 幸五郎(後に佐藤 光五郎に改名)。身長,体重は不明。出身地は筑前国嘉麻郡下山田(現在の福岡県嘉麻市下山田)。 最高位は大関(大阪相撲)。横綱を締めた錦絵が残るが、図柄は他力士の流用であり、土俵入りを行った記録はない。「山響改 不知火光右衛門」とあり改名の記念品との見方もある。 筑前国嘉麻郡下山田で佐藤利平の次男として出生。幼少の頃から力持ちとの評判で、巡業で訪れた、同じ筑前国出身の梅ヶ谷藤太郎(後の第15代横綱)に見初められ、相撲界に入門。
宮本 谷蔵(みやもと たにぞう、1845年10月15日(弘化… 宮本 谷蔵(みやもと たにぞう、1845年10月15日(弘化2年9月15日)- 1932年(昭和7年)3月20日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 阿波国勝浦郡中郷村(現徳島県小松島市中郷町)で、素封家・宮本本右衛門の長男として生まれ、その後、家督を相続した。 1897年7月3日、徳島市前川町に徳島県初の紡績工場を経営する阿波紡績株式会社が設立され、宮本が初代社長に就任した。次の社長に板東倹吉が就任したが、赤字経営のため再び宮本が社長に就任して整理に当り、会社は堺紡績に合併した。 1904年6月10日に執行された、徳島県下15名の互選による貴族院多額納税者議員選挙で当選し、同年9月29日に就任し、1911年9月28日まで1期在任した。
巌崎 健造(いわさき けんぞう、天保12年9月1日(1841… 巌崎 健造(いわさき けんぞう、天保12年9月1日(1841年10月15日) - 大正2年(1913年)10月2日)は、囲碁の棋士。武蔵国出身、9世安井算知門下、八段。元の名は海老沢健造。方円社3代目社長として、碁界のもう一方の本因坊秀栄とともに明治後半の囲碁界を取り仕切り発展に努めた。 多摩郡田無村(現・東京都西東京市)の旅人宿の次男に生まれ、幼名は鍋吉。父や親戚の影響で7歳の頃から囲碁を嗜んだ。家が零落したため8歳の時に新座郡新倉村東福寺に預けられ忍治となる。和尚実願の碁の相手をしていたが、実願は才能を見て太田雄蔵に弟子入りさせ、当時本因坊秀和に星目で打ち1目勝している。12歳の頃に実願が大病にかかった際には、近隣にて賭碁で薬代を稼いだともいう。
中村 元雄(なかむら もとお、1839年10月15日(天保1… 中村 元雄(なかむら もとお、1839年10月15日(天保10年9月9日) - 1903年(明治36年)1月24日)は、日本の政治家、大蔵・内務官僚。群馬県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。幼名は豊作、別名は平太夫、少介。 豊後国日田出身。町年寄・中村善右衛門の子。咸宜園に入り広瀬淡窓に学んだ。明治元年(1868年)、日田県諸取調掛となり、同県大属、大分県権典事を歴任。1874年頃に大蔵省租税大属に転じ、租税寮七等出仕、大蔵省権少書記官、同権大書記官などを務めた。1886年、大蔵省主税局長に就任。 1891年4月、群馬県知事に就任。廃娼の方針を維持し、水利組合の設置や、養蚕糸業の振興に尽力した。1896年1月に知事を退任し、同年1月31日、貴族院勅選議員に任じられ死去するまで在任。