片山 信夫(かたやま のぶお、1910年1月17日 - 19… 片山 信夫(かたやま のぶお、1910年1月17日 - 1997年3月4日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱物学・鉱床学。 1910年1月17日、東京都に生まれる。父の片山正夫(1877 - 1961)は東京帝国大学理学部化学教室教授を務めた化学者であり、液体の表面張力と温度の関係式(片山の式)で知られている。 1933年(昭和8年)に東京帝国大学理学部鉱物学科を卒業、直ちに同理学部助手となり、1938年(昭和13年)講師に昇任。1939年(昭和14年)に商工省工業技術院地質調査所(戦時中は地下資源調査所と呼ぶ)へ転任し、主に東南アジアの鉱産物資源調査・開発に従事。1946年(昭和21年)同省地質調査所(現産業技術総合研究所)勤務となる。
番神山 政三郎(ばんしんざん せいざぶろう、1909年1月1… 番神山 政三郎(ばんしんざん せいざぶろう、1909年1月17日 - 1982年1月7日)は、新潟県刈羽郡(現:新潟県柏崎市)出身の元大相撲力士。本名は長谷川 政三郎(はせがわ せいざぶろう)。 1909年1月17日に新潟県刈羽郡(現:新潟県柏崎市)で生まれる。尋常高等小学校を卒業後に前橋の作り酒屋へ奉公に出たが、周囲から勧められて出場した宮相撲で優勝したところを雷部屋の元力士・群馬ヶ嶽に見出されて雷部屋に入門、1927年1月場所で初土俵を踏んだ。入門から僅か半年後に雷が死去すると、所属していた力士全員が白玉部屋へ転属、ところが白玉もまもなく没したことから八角部屋へ再転属するなど、いくつかの部屋を転々とする生活が続いた。
岩倉 具方(いわくら ともかた、1908年1月17日 - 1… 岩倉 具方(いわくら ともかた、1908年1月17日 - 1937年10月14日)は洋画家。公爵岩倉具張の三男。母方の祖父は西郷従道。 東京府出身。学習院初等科卒業後、東京府立第一中学校を卒業。母桜子からは海軍大将になることを望まれていたが太平洋画会に入り、有島生馬に師事。1930年12月からパリに留学。このときシベリア鉄道車内で東京音楽学校教授アウグスト・ユンケルの長女ベラ綾子と知り合い、のち結婚し、三子を儲ける。 1937年9月9日から海軍従軍画家として上海に赴任。同年10月14日、呉遜路上で敵軍の迫撃砲による直撃弾に当たって戦死。1938年、岩倉綾子編『故岩倉具方従軍画集』が故岩倉具方従軍遺作画集刊行会により出版された。
植田 敏郎(うえだ としろう、1908年1月17日 - 19… 植田 敏郎(うえだ としろう、1908年1月17日 - 1992年10月21日)は、日本のドイツ文学者・翻訳家。静岡高等学校教授、東京外国語学校教授、学習院教授、学習院大学教授、一橋大学教授、東北歯科大学教授を歴任。 広島県広島市生れ。旧制広島高等師範学校附属中学校、旧制広島高校を経て1931年東京帝国大学独文科卒、同年渡欧、ウィーン大学、ボン大学、ベルリン大学で学び1936年帰国。1937年静岡高等学校教授。専門はゲーテ時代のドイツ文学で、のち東京外国語学校教授、学習院教授、1949年学習院大学教授、1953年一橋大学社会学部教授、1971年定年となり東北歯科大学教授。1973年『クリュス選集』の翻訳により日本翻訳文化賞受賞。
桂 広太郎(廣太郎、かつら こうたろう / ひろたろう、19… 桂 広太郎(廣太郎、かつら こうたろう / ひろたろう、1908年(明治41年)1月17日 - 2002年(平成14年)1月21日)は、日本の実業家、薬学者、華族。貴族院公爵議員、薬学博士。 東京市で桂与一(桂太郎長男)、てい(新田忠純二女)夫妻の長男として生まれる。祖父・桂太郎の死去に伴い1913年11月28日、公爵を襲爵。1938年1月16日、満30歳に達し貴族院公爵議員に就任。火曜会に所属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1931年、東京帝国大学医学部薬学科を卒業。同年、同薬学科副手となる。その後、国民体力審議会委員、内閣委員、厚生省委員、国土計画審議会委員などを務めた。 1948年、桂化学研究所を設立し社長に就任。
三戸 寿(みと たもつ、1908年〈明治41年〉1月17日 … 三戸 寿(みと たもつ、1908年〈明治41年〉1月17日 - 1971年〈昭和46年〉8月27日)は、昭和期日本の法制史学者。学位は法学博士(京都大学)。「三戸壽」とも表記される。法制史学会発起人の1人。専門はローマ法。神戸史学会評議員、法制史学会理事を歴任。 宮城県仙台市出身。第二高等学校 (旧制)(1928年卒業)を経て、1931年に東北帝国大学法文学部を卒業した。同年に同学部副手となる。1937年に関西学院大学法文学部講師に転じ、助教授(1939年)を経て、1942年に教授に就任した。1947年に学部改編で法学部所属となり、1951年に法学部長・同大学院法学研究科委員長に就任した。1952年2月、京都大学より論題「ローマ法継受史の研究」で法学博士の学位を取得した。
諸谷義武(もろたに よしたけ、1907年1月17日 - 20… 諸谷義武(もろたに よしたけ、1907年1月17日 - 2002年4月16日)は、日本の政治家。元長崎市長(在任1967年 - 1979年)。 熊本県出身。長崎高等商業学校卒業後、長崎市内で底引き網の網元の支配人となる。1945年(昭和20年)8月9日、長崎市内の自宅で原爆投下に遭遇。水を求めながら亡くなった被爆者を多数目撃した体験から、市長就任後に平和公園内に「平和の泉」を造らせている。1947年(昭和22年)より長崎市議会議員を2期、1955年(昭和30年)より長崎県議会議員を3期務め、この間1963年5月~1964年12月まで副議長になった。1967年(昭和42年)4月の統一地方選挙で執行された長崎市長選に出馬し当選、以後1979年(昭和54年)4月の市長選で本島等に敗れるまで3期12年間長崎市長を務めた。
水谷 浩(みずたに ひろし、1906年1月17日 - 197… 水谷 浩(みずたに ひろし、1906年1月17日 - 1971年5月16日)は、日本の映画美術家・美術監督。 1906年(明治39年)1月17日、岐阜県に生まれる。 東京に移り、旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学する。同校在学中である1927年(昭和2年)、松竹蒲田撮影所に入社、大道具課装置係に配属される。同校はのちに卒業した。同撮影所では、1929年(昭和4年)、清水宏監督の『不壊の白珠』、1930年(昭和5年)、小津安二郎監督の『朗かに歩め』にいずれも「舞台設計」としてクレジットされたほか、作品名は定かではないが牛原虚彦、豊田四郎、斎藤寅次郎らの作品も手がけた。 その後、関西の映画会社・帝国キネマ演芸に移籍し、再びクレジットが見られるのは同社が新興キネマに改組されたのちの1933年(昭和8年)、溝口健二監督の『祇園祭』であり、「美術」とクレジットされている。
河野 広道(こうの ひろみち、1905年(明治38年)1月1… 河野 広道(こうの ひろみち、1905年(明治38年)1月17日 - 1963年(昭和38年)7月12日)は、日本の昆虫学者、考古学者。 1905年1月17日、北海道史研究者の河野常吉の息子として生まれる。北海道帝国大学農学部にて、昆虫学を学ぶ。 大学卒業後の1930年に、北海道帝国大学農学部の助手として採用される。1932年、27歳の時に「日本産象鼻虫科ノ研究(独文)」により、農学博士の学位を授与される。 また、考古学などの研究も始める。1935年に、「貝塚人骨とアイヌのイオマンテ」の論文を発表し、縄文遺跡の貝塚は、ゴミ捨て場というよりは、アイヌ儀礼の「物送り場」という解釈を論じる。1944年、北海道帝国大学を退職。
朴 鐘煥(パク・チョンファン、朝鮮語: 박종환、1904年1… 朴 鐘煥(パク・チョンファン、朝鮮語: 박종환、1904年1月17日または1909年1月27日 - 没年不詳) は、大韓民国の実業家、政治家。制憲韓国国会議員。本貫は竹山朴氏(朝鮮語版)。 慶尚北道清道郡出身。京城中央高等学校、中央大学法学部卒。清道ファンサム精米合資会代表、朝鮮食糧営団参事兼清道工場長、京城大同建物株式会社取締役、京城大韓工業土建株式会社社長、米軍政庁人事行政処考試課長を歴任。 1950年7月20日ごろ敦岩洞の友人宅にいたところ拉致され、以後北朝鮮で在北平和統一促進協議会中央委員などを務めた。1959年3月ごろに咸鏡北道富寧郡(当時古茂山)に移住したとされる。以後消息、没年不明。
藤田 親昌(ふじた ちかまさ、1904年(明治37年)1月1… 藤田 親昌(ふじた ちかまさ、1904年(明治37年)1月17日 - 1996年(平成8年)11月13日)は、日本の出版人、編集者。元文化評論社社長・中央公論社編集部長。横浜事件に連座する。 1904年(明治37年)1月17日、神奈川県鎌倉に生まれる。法政大学予科を経て、1930年(昭和5年)に法政大学法文学部英文科を卒業する。中央公論社に入社し、出版部長、編集部長を歴任する。1944年(昭和19年)にいわゆる横浜事件により検挙、一年に渡り拘禁され、1945年(昭和20年)に起訴留保処分により釈放される。 戦後、1946年(昭和21年)に文化評論社を設立し、社長に就任する(1961年(昭和36年)に閉鎖)。
綿谷 雪(わたたに きよし、1903年〈明治36年〉1月17… 綿谷 雪(わたたに きよし、1903年〈明治36年〉1月17日 - 1983年〈昭和58年〉5月18日)は、日本の作家、時代考証家、日本武術(古武道)史研究家。 和歌山県和歌山市出身。牧師だった父に「キヨシ」と名付けられるも、生後間もなく死別。母の再婚に伴い、綿谷家に入る。旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を経て、1930年に早稲田大学政治経済学部卒。在学中、教授の山口剛から推薦を受け真山青果に師事し、創作、歴史考証を学ぶ。 戸伏 太兵(とぶし たへい)の筆名で小説や戯曲も書き、『戯曲集 天ノ川辻』所収の「天ノ川辻」「十津川秋雨の譜」「遊撃四番隊」の3作が第11回直木賞の候補になっている。
山本 祐二(やまもと ゆうじ、1903年(明治36年)1月1… 山本 祐二(やまもと ゆうじ、1903年(明治36年)1月17日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。戦艦「大和」を旗艦とする第二艦隊の沖縄海上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)で戦死。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少将。
本川弘一(もとかわ こういち、1903年1月17日 - 19… 本川弘一(もとかわ こういち、1903年1月17日 - 1971年2月3日)は、日本の生理学者。東北大学教授・学長。石川県出身。加賀市名誉市民。 1903年、石川県江沼郡桑原村(現在の加賀市桑原)で、本川弘の4番目の子として生まれる。五人姉弟中、唯一の男子であり、農家の後を継ぐのが当然のものとして育てられた。小学校を卒業する時、「この子は成績が抜群だから是非中学に進学させるように」と担任が自宅まで親を説得に来た。弘一も是非進学したいと懇願したが、「農家の跡継ぎだから家を継がせる。代々肝煎の家を絶やしたのでは御先祖様に申し訳がない」という父親の強い意向により、卒業後は家業の農業に従事した。 しかし勉学への思いは断ち難く、17歳で家出する。
英 修道(はなぶさ ながみち、1902年1月17日 - 19… 英 修道(はなぶさ ながみち、1902年1月17日 - 1994年9月9日)は、日本の国際政治学者。学位は、法学博士(東京帝国大学・1945年)(学位論文「中華民国に於ける列国の条約権益」)。慶應義塾大学名誉教授。1975年勲三等旭日中綬章受章。 東京生まれ。1926年慶應義塾大学法学部卒業。1945年「中華民国に於ける列国の条約権益」で東京帝国大学より法学博士の学位を取得。慶應義塾大学法学部助教授、教授、1968年定年、名誉教授。1968-1972年日本国際政治学会理事長。1975年勲三等旭日中綬章受勲。 長男は医学博士の英清道(慶應義塾大学医学部卒)。次男は外交官の英正道(慶應義塾大学経済学部卒)。
長谷川 海太郎(はせがわ かいたろう、1900年1月17日 … 長谷川 海太郎(はせがわ かいたろう、1900年1月17日 - 1935年6月29日)は、日本の小説家、翻訳家。 林不忘(はやし ふぼう)、牧逸馬(まき いつま)、谷譲次(たに じょうじ)の3つのペンネームを使い分けて執筆した。林不忘は時代小説「丹下左膳」シリーズ、牧逸馬は犯罪実録小説、家庭小説、翻訳、谷譲次は米国体験記「めりけんじゃっぷ」物で知られる。 幕府の金座役人を祖父に持ち、新潟県立佐渡中学校で英語教師をし、後にジャーナリストとして活動する長谷川清(のちに改名した長谷川淑夫の名前で知られる。楽天、あるいは世民とも号した)の長男として新潟県佐渡郡赤泊村(現在の佐渡市赤泊)に生まれる。父・清は佐渡中学校の寄宿舎の舎監も務めており、当時佐渡中学校に在学していた北一輝にも感化を及ぼし、鈴木重嶺門下の清楽社同人として和歌を新潟新聞に寄稿していたが、海太郎が1歳のとき、北海新聞主筆に招かれ、のちに犬養木堂の依頼で函館新聞の主筆となる父に従って一家で函館に移住した。
和田 傳(わだ つとう、1900年(明治33年)1月17日 … 和田 傳(わだ つとう、1900年(明治33年)1月17日 - 1985年10月12日)は、神奈川県厚木市生まれの小説家。一般的には「わだ でん」と呼ばれている。農村を舞台とした作品を得意とした。代表作に「沃土」、「大日向村」、「日本農人傳」、「鰯雲」などがある。 小説の他、評論や随筆、伝記などを著した。ここでは、再版・改訂版などは除いて、「小説名」(発表月日)で表記している。
細川 隆元(ほそかわ りゅうげん、1900年〈明治33年〉1… 細川 隆元(ほそかわ りゅうげん、1900年〈明治33年〉1月17日 - 1994年〈平成6年〉12月19日)は、日本の政治評論家、衆議院議員。熊本県熊本市出身。 中学濟々黌、旧制第五高等学校大学予科(現熊本大学)を経て1923年、東京帝国大学法学部を卒業、同年朝日新聞社に入社する。記者を務め1936年政治部長、1940年ニューヨーク支局長、1944年編集局長。 1947年朝日新聞社に在籍したまま熊本県知事選に出馬するも落選した。同年、朝日新聞を退社して日本国憲法成立直後の第23回衆議院議員総選挙で日本社会党から熊本2区から出馬して初当選、衆議院議員を1期務めた。 その後、政治評論家に転身し1957年から始まったTBSの『時事放談』で小汀利得(後に藤原弘達)とホストを務めた。
佐藤 孝二(さとう こうじ、1900年(明治33年)1月17… 佐藤 孝二(さとう こうじ、1900年(明治33年)1月17日 - 1972年(昭和47年)2月2日)は、日本の物理学者。専門は建築音響工学および騒音。また、実業家でもあり、補聴器メーカー・リオンを創始した。 1900年1月17日、大分県生まれ。1925年3月、東京帝国大学理学部物理学科卒業。1929年2月、同大学助教授。同年5月、理学博士。1941年8月、東京帝国大学教授。1948年12月、小林理学研究所理事長。1949年5月、学習院大学教授・理学部長。1960年4月、東京大学教授を停年退職、同大学名誉教授。1960年5月、リオン取締役会長。同年11月、東京都都市公害対策審議会委員。1970年11月、紫綬褒章を受章。
森脇 将光(もりわき まさみつ、1900年1月17日 - 1… 森脇 将光(もりわき まさみつ、1900年1月17日 - 1991年6月2日)は、日本の実業家。 島根県簸川郡平田町(現・出雲市)出身。慶應義塾大学経済学部経済学科中退。大学在学中に金融業を始め、東京・日本橋に事務所を構えた。1948年度の長者番付で所得9,000万円で1位となり、「金融王」と呼ばれ名を馳せた。戦後の混乱期に乗じて高利で莫大な利益を得た所得は、2位・4,530万円の倍であった。しかし、その翌年、巨額な国税滞納額が発覚して、話題を呼んだ。また、金融業と共に出版業も手掛け、戦後出版した尾崎秀実の獄中書簡集『愛情はふる星のごとく』(世界評論社)は大ベストセラーとなり、1959年には週刊誌『週刊スリラー』を創刊した。
高砂 松子(たかさご まつこ、本名:平松壽子、旧姓:稲垣、1… 高砂 松子(たかさご まつこ、本名:平松壽子、旧姓:稲垣、1900年(明治33年)1月17日 - 1961年(昭和36年)10月8日)は元宝塚少女歌劇団花組男役の人物である。鳥取県東伯郡倉吉町(現・倉吉市)。出身。妹は神代錦である。初代春日花子、沖津浪子と共に『宝塚の三幅對』と呼ばれた。 芸名は小倉百人一首の第34番:藤原興風の 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役) 秩父晴世 - 打吹美砂 - 楓茂美 - 玉野ひかり - 日下輝子 - 櫻野美也子 - 玉野ひか留 - 美山しぐれ - 桃山千歳 - 桂木ゆたか - 睦千賀&桂木ゆたか - 御幸沙智子&歌川波瑠美 - 歌川波瑠美 - 藤園さとみ - 銀あけみ - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 磯野千尋 - 一原けい - 梨花ますみ - 高翔みず希 - 悠真倫 - 紫峰七海 - 花野じゅりあ - 芽吹幸奈 - 冴月瑠那 - 美風舞良 - 航琉ひびき - 紫門ゆりや(現役) 紅羽真希(現役)
須田 一二三(すだ ひふみ、1899年(明治32年)1月17… 須田 一二三(すだ ひふみ、1899年(明治32年)1月17日 - 1951年(昭和26年)8月14日)は、大正時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 福岡県遠賀郡八幡村字枝光北本町(現・北九州市八幡東区枝光)に生まれる。小倉中学校、第五高等学校を経て、1920年(大正9年)9月、東京帝国大学に入学。在学中の1922年(大正11年)11月に高等試験行政科に合格し、1923年(大正12年)3月、同大法学部政治学科を卒業する。
豊沢 勇治(豊澤、とよさわ ゆうじ、1899年〈明治32年〉… 豊沢 勇治(豊澤、とよさわ ゆうじ、1899年〈明治32年〉1月17日 - 1974年〈昭和49年〉1月4日)は、大正から昭和時代の台湾総督府官僚。政治家。弁護士。秋田県能代市長(3期)。 秋田県山本郡響村仁鮒(現能代市二ツ井町仁鮒)出身。第一高等学校を経て、高等試験行政科に合格し、1927年(昭和2年)3月、東京帝国大学政治科を卒業後、1928年(昭和3年)6月、台湾総督府に出仕。台南州文書課配属となる。 同年12月、高等文官試験に合格し、1931年(昭和6年)5月に地方理事官に進み、高雄州岡山郡守に就任する。その後、台北市助役、総督府事務官、内務局地理課長などを歴任したのち、1942年(昭和17年)8月に財務局税務課長を経て、同年11月、書記官に就任した。
間宮 精一(まみや せいいち、1899年(明治32年)1月1… 間宮 精一(まみや せいいち、1899年(明治32年)1月17日 - 1989年(昭和64年)1月6日)は日本の発明家、カメラ設計者で、マミヤ光機製作所(後マミヤ光機株式会社を経て現マミヤ・オーピー)の創業者。 父は事業家兼発明家の間宮勝三郎で静岡県伊豆の国市大仁で木屋呉服店等様々なビジネスを営んでいた。木屋は「まみや宝くじたばこ店」(木屋間宮商店)として間宮勝三郎の末裔で鈴木貫太郎総理の縁戚者[要出典]により営業が続いている[いつまで?]。発明家でもあり生涯に計算機や金庫で30件程特許や実用新案を登録している。1919年(大正8年)間宮式金庫を発明し、同年間宮堂を創業しその事業に専念するようになった。
田辺 平学(たなべ へいがく、1898年1月17日 - 19… 田辺 平学(たなべ へいがく、1898年1月17日 - 1954年2月3日)は、日本の建築構造学者、防災研究者、建築家。日本の建築物、都市の不燃化の研究、啓蒙に務めた。東京工業大学名誉教授。 田辺政之助の子として京都府で生まれる。1922年、東京帝国大学工学部建築学科卒業後、神戸高等工業学校講師。1925(大正14)年、建築構造学研究のため、欧米に出張。ドイツとイギリス、アメリカ合衆国へ2年間滞在する。ドイツでは商店で火事に遭遇する。 帰国後の1929年、神戸高等工業学校教授。「鉄筋混凝土版の基本的事項に関する研究」で工学博士号を取得。東京工業大学教授を兼任。 1931年、日本建築学会学術賞受賞。
中村 為治(なかむら ためじ、1898年1月17日 - 19… 中村 為治(なかむら ためじ、1898年1月17日 - 1991年6月30日)は、日本のイギリス文学者。 東京銀座に生まれる。第一高等学校で川端康成と同級。1923年東京帝国大学英文科卒。関西学院英語講師、1926年東京商科大学(現一橋大学)予科教授。同僚の上原専禄と親しかった。1943年、45歳で辞職し、長野県乗鞍高原に隠棲した。農業と翻訳で暮らすが、1967年中部女子短期大学(現中部学院大学)教授となり、1972年まで務めた。 ロバート・バーンズを専門とし、キップリング詩集の翻訳などがある。大江健三郎は少年時代に中村の訳した岩波文庫の『ハックルベリー・フィンの冒険』を愛読した。
吉田 璋也(よしだ しょうや、1898年1月17日 - 19… 吉田 璋也(よしだ しょうや、1898年1月17日 - 1972年9月13日)は、日本の民藝運動家。医師。鳥取県鳥取市出身。 医学生時代より交流のあった柳宗悦の民藝運動に共感して活動。柳宗悦が見出した民藝の美を日常の生活の中に取り入れるため、1931年(昭和6年)新たな民藝品を作り出す活動を開始した。工種は陶芸・木工・家具・竹工・漆工・染織・金工・石工・和紙・建築等に及び、このような運動は全国各地でも起こりのちに新作民藝運動と呼ばれることになる。吉田は「民藝のプロデューサー」を自認し、「たくみ工芸店」(鳥取・東京)を開き民藝の普及に大きな足跡を残した。新作民藝のプロデューサーとして、企画・デザイン・生産・流通に関わり、また自らも多くのデザインを残しており、衣食住に渡る幅広いデザイナーとしての業績も大きい。
甲斐中 文治郎(かいなか ぶんじろう、1898年(明治31年… 甲斐中 文治郎(かいなか ぶんじろう、1898年(明治31年)1月17日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員 (1期) を務めた。 兵庫県城崎郡五荘村(現・豊岡市)栃江に生まれる。苦学の末、弁護士となり、内務省嘱託や斎藤隆夫の秘書になった。1947年五荘村長に就任、1950年に合併による豊岡市発足まで務めた。斎藤隆夫の死(1949年)を受けて地盤を受け継ぎ、1952年の第25回衆議院議員総選挙において兵庫5区から自由党公認で出馬して初当選。1953年の第26回衆議院議員総選挙で落選。1958年の豊岡市長選では現職の佐川辰夫に敗れた。
米山 久(よねやま ひさ、1897年(明治30年)1月17日… 米山 久(よねやま ひさ、1897年(明治30年)1月17日 - 1981年(昭和56年)2月9日)は、日本の政治家、歌人。石川県出身の婦人運動家。衆議院議員(1期)。本名は米山 久子。 石川県金沢市で生まれる。1914年、石川県立第一高等女学校(現・石川県立金沢二水高等学校)卒。市川房枝の婦人参政権運動に参加。大日本国防婦人会金沢地方本部理事、大日本婦人会石川県支部副支部長を務めた。 1946年4月10日、第22回衆議院議員総選挙石川県全県区に日本社会党から出馬し初当選、石川県初の女性国会議員となる。1947年4月25日、第23回衆議院議員総選挙に出馬し落選した。 日本仏教婦人連盟顧問となり、仏教婦人運動にも尽くした。
竹内 俊一(たけうち しゅんいち、1896年1月17日 - … 竹内 俊一(たけうち しゅんいち、1896年1月17日 - 1976年10月26日)は日本の実業家。三菱石油(現ENEOSホールディングス)社長・会長や、石油連盟会長を務めた。 大阪府出身。津山中学校(現岡山県立津山高等学校)を経て、1917年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三菱合資会社入社。三菱商事を経て、1941年から三菱石油。 1946年三菱石油社長、1936年同会長。社長就任後、各ポストの職名を変え、責任を明確化。方針決定は、合議制で行われるように組織改編を行った。 石油連盟会長や、日経連常任理事、東京ロータリークラブ会長等も歴任。 趣味はゴルフと歌舞伎鑑賞。
河石 九二夫(かわいし くにお、1895年(明治28年)1月… 河石 九二夫(かわいし くにお、1895年(明治28年)1月17日 - 1973年(昭和48年)1月28日)は、日本の医師、医学者。 水泳選手で、1932年ロサンゼルスオリンピック銀メダリストの河石達吾は親戚に当たる。 1895年(明治28年)1月17日、現在の広島県江田島市大柿町大原に生まれる。 第一高等学校を経て東京帝国大学医学部に進み、1921年(大正10年)に大学を卒業。その後、愛知医科大学・名古屋医科大学斉藤外科の講師・助教授となる。1938年(昭和13年)には、台北帝国大学教授となり、河石外科教室を創設。1944年から1945年にかけて、医学部付属病院の第4代院長を務めた。 1949年(昭和24年)に日本に帰国し、広島医科大学教授、後に学長となる。
岩井 弼次(いわい ひつじ、1894年1月17日 - 196… 岩井 弼次(いわい ひつじ、1894年1月17日 - 1969年1月11日)は、日本の医師。 農家の三男として大阪府三島郡磐手村(現・高槻市)で生まれた。1910年、林家の養子になるも、1912年、京都府立医学専門学校(現・京都府立医科大学)に入学。1916年卒業。卒業と同時に実家の岩井家に戻る。 1927年、昭和文化学会に参加。同年末、労働農民党に加入。1928年、労働農民党大阪府連合会常任委員、同党解散後は新党準備会の活動に参加。 1929年、共産党シンパ事件で初検挙。1932年2月、日本共産党に入党。 1933年、治安維持法違反で再検挙、1934年5月に出獄。 1947年、大阪市長選挙(公選1回目)、第23回衆議院議員総選挙に立候補。
鈴木 義男(すずき よしお、1894年1月17日 - 196… 鈴木 義男(すずき よしお、1894年1月17日 - 1963年8月25日)は、日本の政治家、法学者、弁護士。位階は正三位、勲等は勲一等。 衆議院議員(7期)、司法大臣・法務総裁を歴任。日本国憲法における生存権の制定・平和主義の誕生に寄与した。 1894年(明治27年)1月17日に福島県西白河郡白河町で生まれる。その後、東北学院普通科に進学し、同学校の第2代院長のD.B.シュネーダーら宣教師たちからキリスト教に基づく教育を受けた。同校卒業後は、仙台の第二高等学校(旧制二高)に進学した。そして1915年に東京帝国大学法科大学法律学科に進学し、美濃部達吉・吉野作造・牧野英一らのもとで学んだ。卒業後は同大の助手を務め、任期満了後の1921年(大正10)年から2年8ヶ月にわたり、欧米留学に向かった。
小澤 國平(おざわ くにへい、1893年1月17日 - 19… 小澤 國平(おざわ くにへい、1893年1月17日 - 1980年2月12日)は、日本の郷土史家、考古学者、教員。 埼玉県児玉郡長幡村(現上里町)の立石半五郎の三男として生まれる。1913年埼玉県師範学校師範学科第一部卒業。師範学校に訓導として勤務。1917年、文部省から「博物ノ内植物」の「師範学校、中等学校、高等女学校教員免許状」を授与され、1918年埼玉県立熊谷高等女学校教諭。1920年には「博物科ノ内動物及生理」の「師範学校、中学校、高等女学校教員免許状」を授与される 。1947年熊谷市立桜田中学校校長を経て、1949年熊谷市立女子高等学校校長となり、翌1950年熊谷市立公民館長。 高校の教員として教壇に立つ傍ら、鳥類の観測記録を日本鳥学会の機関誌に投稿を続けた一方で、埼玉郷土会などに活動の場を広げ、民俗・伝承や考古資料の調査・研究を行い、1939年には熊谷郷土会の例会で、熊谷地方の板碑について発表している 。
田中 武雄(たなか たけお、明治24年(1891年)1月17… 田中 武雄(たなか たけお、明治24年(1891年)1月17日 - 昭和41年(1966年)4月30日)は、日本の官僚。三重県出身。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
稲村 豊二郎(いなむら とよじろう、1891年〈明治24年〉… 稲村 豊二郎(いなむら とよじろう、1891年〈明治24年〉1月17日 - 1972年〈昭和47年〉1月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 1891年(明治24年)に群馬県桐生市東久方町で生まれた。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第37期卒業。1935年(昭和10年)に関東軍参謀に就任し、1937年(昭和12年)に陸軍兵器本廠附となり、1938年(昭和13年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級。12月10日に第106師団参謀長に転じ、日中戦争に出動。南昌作戦で指揮を執った。 1940年(昭和15年)4月17日に留守第6師団参謀長に就任し、12月2日に陸軍少将に進級。1941年(昭和16年)8月1日に北部軍兵務部長、10月21日に駐蒙軍参謀長と歴任し、1942年(昭和17年)に樺太混成旅団長に着任した。
松浦 伊平(まつうら いへい、1890年(明治23年)1月1… 松浦 伊平(まつうら いへい、1890年(明治23年)1月17日 - 1971年(昭和46年)3月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。幼名・浜吉。 香川県阿野郡青海村(綾歌郡松山村を経て現坂出市大屋冨町)出身。林田高等小学校を卒業し、家業を手伝い、土木請負業「松浦組」を設立して社長に就任。松山村議、同村長、香川県議、同副議長などを経て、1937年の第20回衆議院議員総選挙において香川2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。1939年の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎とともに正統派に所属した。政友会正統派内は鳩山・三土忠造・安藤正純ら鳩山系の議員が多かったが松浦は岡田忠彦・津雲国利・肥田琢司・西村茂生・東条貞らとともに久原系の議員とみなされた。
尾崎 旦(おざき たん、1889年(明治22年)1月17日 … 尾崎 旦(おざき たん、1889年(明治22年)1月17日 – 1932年(昭和7年)6月4日)は、日本の歴史家・実業家。陽明社の創始者。高知県出身。中岡慎太郎の伝記を日本で初めて著した歴史家・尾崎卓爾の兄。 1889年(明治22年)1月17日、尾崎旦爾(手島熊吉)の三男として高知県安芸郡北川村大字野川896番地に生まれる。初名は「旦子(たんし)」のち、「子」がつくことによって女子を間違われるのを避けて「旦(たん)」と改名した。母は尾崎旦信(折蔵)の長女・亀。 1908年(明治41年)旧制高知県立安芸中学校を卒業し、慶應義塾大学部理財科(現・慶應義塾大学経済学部)へ進学。東京市芝区三田へ下宿。1913年(大正2年)3月31日、同校卒業。
加賀 正太郎(かが しょうたろう、1888年(明治21年)1… 加賀 正太郎(かが しょうたろう、1888年(明治21年)1月17日 - 1954年(昭和29年)8月8日)は、日本の資産家、実業家。加賀証券社長。大阪府多額納税者。 1888年、大阪市東区今橋生まれ。加賀市太郎の長男。加賀家は大阪目抜きの場所、高麗橋通りにあり、大阪屈指の資産家として、又著名の旧家として遠近に知られた。12歳の時に父親が亡くなり、船場にあった江戸時代から続く実家の繊維業・米穀仲買業・両替商「富商加賀商店」を継ぐ。 ヨーロッパに渡り、日英博覧会やキューガーデンの見学、アルプス山脈ユングフラウ登頂を行った。 東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)を経て、1911年、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。
益谷 秀次(ますたに しゅうじ、1888年1月17日 - 1… 益谷 秀次(ますたに しゅうじ、1888年1月17日 - 1973年8月18日)は、日本の政治家。位階は従二位。 衆議院議員(14期)、衆議院議長(第46代)、副総理、建設大臣、行政管理庁長官などを歴任した。 1888年1月17日、石川県鳳至郡宇出津町(現在の鳳珠郡能登町)に生まれる。旧制海城中学校から神田神保町にあった大成中学に4年編入後、専検から東京外国語学校(現東京外国語大学)仏語科、京都帝国大学法科大学仏法科を卒業。浦和地方裁判所判事から、弁護士となった。 1920年、第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で石川5区から立候補し初当選。1924年に床次竹二郎一派が政友会を脱党し、政友本党を発足したあたりから政友会で鳩山一郎派に所属していた。
竹上 藤次郎(たけがみ とうじろう、1887年(明治20年)… 竹上 藤次郎(たけがみ とうじろう、1887年(明治20年)1月17日)- 1961年(昭和36年)8月13日)は、大正から昭和期の日本の実業家、政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都商工会議所会頭。 京都府 京都市上京区五辻通大宮五辻町で、生糸問屋「八文字屋」通称「八藤」当主・竹上藤造の二男として生まれる。桃薗校を経て京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)に入学。1902年(明治35年)弁護士を目指して京都法政学校(現立命館大学)に転じたが、同年末、父の意思で第一商業に復帰し、1907年(明治40年)3月に卒業。その後、日本大学法律学科に進んだが、家業の継承のため中退し帰郷した。
坂口 静夫(さかぐち しずお、1887年1月17日 - 19… 坂口 静夫(さかぐち しずお、1887年1月17日 - 1947年3月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本藩士・坂口騏十郎の三男として生まれる。中学済々黌を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、陸軍少尉に任官。 1920年8月、歩兵第48連隊中隊長に就任し、陸軍兵器本廠員、陸士予科中隊長などを経て、1925年4月、近衛歩兵第3連隊付(東京府立第二中学校配属将校)となる。歩兵第27連隊付、第1師団司令部付、第7師団副官、歩兵第24連隊付、独立守備歩兵第9大隊長などを歴任し、1937年8月、陸軍大佐に昇進。 1937年11月、第16師団司令部付(第三高等学校配属将校)となり、歩兵第109連隊長を経て、1939年9月、陸軍少将に進級。
東 季彦(あずま すえひこ、1886年(明治19年)1月17… 東 季彦(あずま すえひこ、1886年(明治19年)1月17日 - 1979年(昭和54年)7月18日)は、日本の法学者。旧姓乾(いぬい)。商法の権威として知られた。佐佐木信綱門下の歌人でもある。 奈良県十津川村出身。親類東武(衆議院議員、出版事業家)の養子となり、東姓を名乗る。1889年(明治22年)8月、故郷が大水害に遭ったため、同年11月、一家で北海道新十津川村に移住。村の小学校を卒業した後、上京して旧制開成中学に入学。同校を卒業後、旧制第一高等学校から東京帝国大学法学部を卒業し、陸軍経理学校の教授に就任。 1922年(大正11年)、文部省留学生として渡欧し、英・独・仏で民法を研究。1924年(大正13年)に帰国し、九州帝国大学法文学部教授に就任。
野辺地 天馬(のべち てんま、本名三右衛門、1885年〈明治… 野辺地 天馬(のべち てんま、本名三右衛門、1885年〈明治18年〉1月17日 - 1965年〈昭和40年〉4月24日)は、岩手県二戸郡福岡町(現二戸市)出身の児童文学者、キリスト教牧師、伝道師である。渡辺善太は義兄である。 1885年(明治18年)1月17日、岩手県二戸郡福岡町(現・二戸市)に生まれ、1890年(明治23年)に郵便局勤務であった父の転勤により盛岡市へ転居。1889年(明治22年)、盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)へ入学した。同級生には石川啄木、伊藤圭一郎(『人間啄木』の著者)らがいた。 幼いころから教会に通い、1899年(明治32年)に洗礼を受けた。その年11月盛岡で行われた中田重治の集会での説教を聞いて献身を決意する。
大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年〈明治18年〉… 大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年〈明治18年〉1月17日 - 1923年〈大正12年〉9月16日)は、日本の無政府主義者、思想家、作家、ジャーナリスト、翻訳家、社会運動家。エスペランティスト、自由恋愛主義者でもあった。 愛媛県那珂郡丸亀(現・香川県丸亀市)で生まれた。父親の大杉東(おおすぎ あずま)は愛知県海東郡越治村(現・愛知県津島市)出身の大日本帝国陸軍近衛師団の前身である常時陸軍の軍人で、代々庄屋の家系で親戚にも軍人が多数いる家庭環境だった。その後、東は東京に移って近衛少尉として勤務し、大隊長の仲介によって母・とよ(豊)と結婚した。栄は次男で、はる、きく、伸、まつゑ、勇、進、あき、あやめの兄弟姉妹がいる大家族だった。
植竹 喜四郎(うえたけ きしろう、1884年〈明治17年〉1… 植竹 喜四郎(うえたけ きしろう、1884年〈明治17年〉1月17日 - 1963年〈昭和38年〉12月3日)は、日本の歌人(筆名・岸良雄)、実業家。下野鉄工、東野電力、植竹商業各取締役。 栃木県那須郡黒羽町大字黒羽向町(現・大田原市)の素封家・植竹三右衛門の三男。川西小学校卒業後、東京の日本中学校に入学したが、病気のため退学した。19歳、出家を志したが、両親に許可されず断念。 糠塚の植竹農場で、悶々の空白の歳月を過ごす。1911年に上京、神田佐久間町に文芸出版社の「植竹書院」を創設した。 大正時代の重要な文芸書シリーズ「現代傑作叢書」「現代代表作叢書」「文明叢書」「薔薇叢書」を刊行し、また広津和郎らの同人誌「奇蹟」の発行所となった。
古村 貢三郎(ふるむら こうざぶろう、1884年〈明治17年… 古村 貢三郎(ふるむら こうざぶろう、1884年〈明治17年〉1月17日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。愛知県瀬戸市長。 岡山県勝田郡古吉野村石生(現・勝央町石生)に生まれる。1906年(明治39年)11月、和歌山県属となり、以後、滋賀、鳥取、北海道、大阪、福井各県属を経て、1918年(大正7年)3月に福井県知事官房主事となる。 同年12月に同県大飯郡長、ついで足羽郡長、敦賀郡長、遠敷郡長を経て、1925年(大正14年)1月、地方事務官となり福井県内務部勧業課長に発令される。翌年の1926年(大正15年)8月、辞任し、新潟市主事を経て、1927年(昭和2年)7月に樺太庁に転じ、豊原支庁長、本斗支庁長、真岡支庁長を歴任し、1929年(昭和4年)11月まで務めた。
島田 七郎右衛門(しまだ しちろうえもん、1883年1月17… 島田 七郎右衛門(しまだ しちろうえもん、1883年1月17日 - 1962年7月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 富山県出身。1901年、富山県立富山中学校(現・富山県立富山高等学校)卒。日露戦争に従軍、陸軍歩兵中尉となる。三等郵便局長、福岡町(現・高岡市)議、同町長、富山県議、西砺波郡農会長、富山県農会長、同山林会副会長、福岡信用組合理事長、北陸製絹、高岡新報、中越土木、笹川窯業、高岡電燈、岡吉商事、大岩電気、飛越電気、戸出物産各(株)重役を務める。 1930年の第17回衆議院議員総選挙で富山2区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙で初当選。
清水 銀蔵(しみず ぎんぞう、1879年1月17日 - 19… 清水 銀蔵(しみず ぎんぞう、1879年1月17日 - 1937年4月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。 野洲郡中里村(現・野洲市)生まれ。1902年東京専門学校英語政治科卒。愛国生命保険(株)に入る。その後、江州日日新聞社取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀3区から立憲国民党公認で立候補したが落選。1924年の第15回衆議院議員総選挙では革新倶楽部公認で立候補したが落選。1927年の補欠選挙で初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙で滋賀県全県区から立憲政友会公認で立候補してトップ当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で当選。1932年の第18回衆議院議員総選挙では2度目のトップで当選。
伊藤 貞次(いとう ていじ、1878年〈明治11年〉1月17… 伊藤 貞次(いとう ていじ、1878年〈明治11年〉1月17日 - 1943年〈昭和18年〉)は、日本の実業家、政治家。第15代広島市長。広島商工会議所顧問。族籍は新潟県平民。 元キャンディーズのメンバーで、俳優水谷豊の妻である女優・歌手の伊藤蘭は曽孫、女優の趣里は玄孫にあたる。 新潟県岩船郡関谷村大字下関(現・関川村大字下関)出身。伊藤東蔵の長男。早くに父を亡くし、一家は困窮する。母の実家・渡邊家に身を寄せる。農作業に精を出す。 1896年、家督を相続する。1897年3月、東京数学院中学全科を卒業。鉄道局運輸課傭、北海道庁事業手。1899年7月、大蔵省文官普通試験に合格、同年8月北海道庁鉄道書記試験に合格。