則武 謙(のりたけ けん、1922年7月18日 - 1994… 則武 謙(のりたけ けん、1922年7月18日 - 1994年3月6日)は日本のサッカー選手。ポジションはFW。 兵庫県立第一神戸中学校時代は岩谷俊夫らと共に1941年に明治神宮大会優勝、翌1942年に橿原神宮大会優勝と明治神宮大会連覇に貢献した。1941年に神戸経済大学に進学し、戦後の1947年4月3日に行われた第1回東西対抗戦に関西選抜の一員として出場した。 日本代表としては1951年3月3日のインド空軍戦で代表デビュー。同月9日の1951年アジア競技大会のアフガニスタン代表戦で国際Aマッチの出場歴を有する。
牛山 善政(うしやま よしまさ、1922年7月18日 - 2… 牛山 善政(うしやま よしまさ、1922年7月18日 - 2000年11月5日)は、日本の実業家。カメラメーカーの株式会社ヤシカ創業者。 長野県諏訪郡下諏訪町出身。高等小学校卒業後、朝鮮総督府所管の京城高等工業学校(現・ソウル大学校工科大学)を卒業。北澤工業株式会社(現・東洋バルヴ株式会社)に勤務し非凡な才能ぶりを発揮。戦後独立して1949年12月、従業員8人でヤシカの前身「八洲(やしま)精機株式会社」を創業し、高度成長期の日本を代表するカメラメーカーの一つに育てた。1971年にヤシカの経理部長による横領事件が起き、責任をとる形で社長から会長に退く。1974年に会長を解任され同社の経営から離れた。
桑名 重治(くわな しげはる、1921年7月18日 - 没年… 桑名 重治(くわな しげはる、1921年7月18日 - 没年不明)は、茨城県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 水戸中学校から満州鉱山、松下飛行機、茨城県庁を経て、1950年に東急フライヤーズへ入団。1年目は33試合に登板して5勝11敗の成績だった。その後は1952年に6勝、1953年は8勝を挙げている。1954年は1勝9敗と成績は振るわずこの年に引退した。横手投げからシュート、カーブを武器とした。
沢田 文吉(さわだ ぶんきち、1920年7月18日 – 20… 沢田 文吉(さわだ ぶんきち、1920年7月18日 – 2006年6月12日)は、日本の棒高跳び選手。 1940年代から1950年代にかけて活躍、日本陸上競技選手権大会優勝9回、アジア大会金メダル2回。1952年ヘルシンキオリンピックでは6位入賞を果たした。 岐阜市出身。1938年、旧制岐阜中学校(現在の岐阜県立岐阜高等学校)在学中、全国中等学校選手権(全国高等学校陸上競技対校選手権大会の前身)で110mハードル走に出場し優勝している(16.8秒)。 東京文理科大学(東京教育大学を経て筑波大学の前身となる官立大学)に進む。1942年、日本学生陸上競技対校選手権大会で優勝(4m00)。同年、日本陸上競技選手権大会で初優勝(4m10)。
服部 治則(はっとり はるのり、1920年(大正9年)7月1… 服部 治則(はっとり はるのり、1920年(大正9年)7月18日 - 2015年(平成27年)2月28日)は、日本の歴史学者・民俗学者である。山梨大学名誉教授。山梨郷土研究会常任理事。正四位。 三重県上野市(現伊賀市)に生まれる。1945年(昭和20年)に東京文理科大学(のちの東京教育大学)史学科国史科を卒業し、1947年には山梨師範学校(のちの山梨大学)助教授になる。山梨県の農村地域における柳田國男の調査にも同行している。 歴史学と民俗学の手法を組み合わせた歴史民俗学的アプローチの研究を行い、1950年代から60年代には山梨県独自の民俗事例として知られる親分子分慣行の研究を行う。これは非血縁の親子関係を結び、親分は子分に経済的庇護を加え子分は親分に対して奉仕する伝統的な人間関係で、服部はその起源を求め武田氏研究へと研究対象を移行する。
山下 俊彦(やました としひこ、1919年7月18日 ‐ 2… 山下 俊彦(やました としひこ、1919年7月18日 ‐ 2012年2月28日)は、日本の実業家。松下電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)の3代目社長。大阪府出身。大阪市立泉尾工業学校卒業。実業学校卒の叩き上げで、創業者松下幸之助による異例の大抜擢を受けて取締役26名中序列25番目から社長に就任した[4][5]。この抜擢人事は、体操選手の山下治広が披露した跳馬の技にちなんで「山下跳び」と呼ばれた[6]。
石田 達郎(いしだ たつろう、1918年(大正7年)7月18… 石田 達郎(いしだ たつろう、1918年(大正7年)7月18日 - 1990年(平成2年)7月19日)は、日本の実業家。ニッポン放送・フジテレビジョン社長を務めた。北海道札幌市出身。 札幌一中(現:北海道札幌南高等学校)、慶應義塾大学経済学部を卒業。 鐘淵紡績、映画プロデューサーを経て、1954年(昭和29年)ニッポン放送に入社。74年社長、85年相談役。この間、フジテレビ社長、産経新聞代表取締役を兼任したほか、パシフィック音楽出版(PMP、現:フジパシフィックミュージック)、ポニー、キャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)、ディノス(現:DINOS CORPORATION)といった、フジサンケイグループで非放送・新聞事業の中核となる企業を設立した。
島津 亮(しまづ りょう、1918年7月18日 - 2000… 島津 亮(しまづ りょう、1918年7月18日 - 2000年3月1日)は、俳人。 香川県出身。旧制大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)蒙古語学科卒。1946年、応召先の天津から引揚げ、句作開始。鈴木六林男らの「青天」を通じて西東三鬼に会い師事する。1948年「雷光」創刊同人(1950年廃刊)。1951年「梟」創刊同人。1957年「夜盗派」同人(1960年終刊)。1960年「縄」同人。1962年「海程」創刊同人。1968年「ユニコーン」創刊同人。代表句に「怒らぬから青野でしめる友の首」など。この句は金子兜太が『今日の俳句』(1965年)で取り上げて広く知られるようになった作品で、同性愛的な趣があるとも評されている。
坂田 道太(さかた みちた、1916年〈大正5年〉7月18日… 坂田 道太(さかた みちた、1916年〈大正5年〉7月18日 - 2004年〈平成16年〉1月13日)は、日本の政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。 衆議院議長(第64代)、法務大臣(第40代)、防衛庁長官(第33代)、文部大臣(第91・92代)、厚生大臣(32代)、衆議院議員(17期)等を歴任した。 父は衆議院議員や八代市長を務めた坂田道男。 坂田道男の長男として熊本県八代市で生まれる。旧制八代中学校、旧制成城高等学校(現・成城大学)、1938年東京帝国大学文学部独文科卒業。石井光次郎商工大臣の秘書官を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に熊本県全県区から出馬し、初当選した。以後、17期連続当選。
萩原 竜夫(はぎわら たつお、1916年7月18日 - 19… 萩原 竜夫(はぎわら たつお、1916年7月18日 - 1985年6月19日)は、日本の民俗学者、日本史研究者。 東京市深川区門前仲町生まれ。幼時受洗。1941年、東京文理科大学文学部国史学科卒業。1942年、国民精神文化研究所嘱託。1949年、東京学芸大学助教授を経て、1967年、明治大学文学部教授。1962年、博士論文「中世祭祀組織の研究」により、東京教育大学から文学博士の学位を授与される。
山崎 六哉(やまざき ろくや、1916年7月18日 - 20… 山崎 六哉(やまざき ろくや、1916年7月18日 - 2001年8月12日)は、日本の経営者。シチズン時計社長、会長を務めた。 東京都出身。1941年に東京工業大学機械工学科を卒業し、1945年にシチズン時計に入社。 1962年5月に取締役に就任し、1969年11月に常務、1977年6月に専務、1979年6月に副社長を経て、1981年6月には社長に就任。1987年6月から1990年6月までに会長を務めた。 1982年4月に藍綬褒章を受章し、1987年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2001年8月12日肺炎のために死去。85歳没。
伊藤 三郎(いとう さぶろう、1915年7月18日 - 19… 伊藤 三郎(いとう さぶろう、1915年7月18日 - 1978年1月19日)は、日本の競泳選手。現役時代の種目は平泳ぎで、明治大学在学中に1936年ベルリンオリンピック日本代表のひとりとなり、男子200m平泳ぎ決勝で2分47秒6のタイムを出し、5位に入賞した。 静岡県磐田郡豊浜村(後の磐田市の南東部)出身。中泉農学校(後の静岡県立磐田農業高等学校の前身)から、明治大学に進んだ。 1938年に明治大学を卒業し、昭和製鋼所に入社と報じられた。 1941年、陸軍少尉となっていた伊藤は、第23軍第38師団の一員として香港島の戦いに参加した。そして、12月22日、戦闘中に銃創を負ったと報道された。 明治大学水泳部監督、日本水泳連盟常務理事、埼玉県水泳連盟副会長を歴任。
大塚 和(おおつか かのう、1915年7月18日 - 199… 大塚 和(おおつか かのう、1915年7月18日 - 1990年9月26日)は、日本の映画プロデューサー、映画プロダクション社長。1955年に日活とプロデューサー契約を結び、今村昌平、浦山桐郎、藤田敏八、神代辰巳、長谷川和彦ら13名もの新人監督を世に送り出したことで知られる。 高知県長岡郡田村(現・南国市田村)に生まれる。父親は開業医で、9人姉弟の末っ子。 1937年、東京外国語学校ロシア語科(現・東京外国語大学)卒業。映画世界社に入社。1943年、同社が戦時雑誌統合令によって解散したため、都新聞社(現・東京新聞社)文化部に転職した。 1946年、再開した映画世界社に復職。『映画ファン』の編集長になる。
高平 公友(たかひら きみとも、1914年7月18日 - 2… 高平 公友(たかひら きみとも、1914年7月18日 - 2000年2月10日)は、日本の政治家。参議院議員(2期、自由民主党)。 富山県出身。滑川商卒。立山町議を1期、富山県議を5期、同議長も務める。1975年、町議や県議として公共の福祉に奉仕して地方自治の発展に貢献したとして藍綬褒章受章。1977年の第11回参議院議員通常選挙に富山県選挙区から自民党公認で立候補して初当選し、2期務める。自民党参議院国会対策副委員長、鈴木善幸内閣科学技術政務次官、内閣委員長などを歴任した。1989年に引退。1990年秋の叙勲で勲二等瑞宝章受章。 2000年2月10日、胃癌のため富山県富山市の流杉病院で死去、85歳。
浜野 政雄(はまの まさお、1914年(大正3年)7月18日… 浜野 政雄(はまの まさお、1914年(大正3年)7月18日 - 2007年(平成19年)1月9日)は、日本の音楽教育学者。 東京出身。1941年東京音楽学校甲種師範科卒。1941年福井県鯖江師範学校、42年8月青山師範学校(のち東京第一師範学校)教授、1949年東京都教育庁指導主事、56年文部省教科書調査官、1965年東京芸術大学講師、助教授、教授、音楽学部長。1983年名誉教授、武蔵野音楽大学教授。90年春、勲三等旭日中綬章受勲。
笠原 恒彦(かさはら つねひこ、1911年7月18日 - 1… 笠原 恒彦(かさはら つねひこ、1911年7月18日 - 1989年4月17日)は、日本の元ラグビー選手、俳優。本名同じ。東京市小石川区(現在の東京都文京区)生まれ、北海道育ち。 ラグビー選手として現役時代の主なポジションはフルバック(FB)及びファイブエイス(FE)。 北海中等学校(現 北海高等学校)を経て、明治大学(以下、明大)に進学。明大ではラグビー部で活動し、1930年度シーズンから1935年度シーズンまで、6年連続で明早戦に出場した他、同部在籍時代は全ての公式戦(全45試合)に出場した経験を持つ。トライゲッターであるとともに、キッカーとしても明大の得点源選手として活躍した。 また、1932年のカナダ代表来日試合を手始めに、ラグビー日本代表(以下、代表)としてキャップ6を獲得。
柄沢 十三夫(からさわ とみお、1911年7月18日 - 1… 柄沢 十三夫(からさわ とみお、1911年7月18日 - 1956年10月20日)は、日本の陸軍軍人、軍医。 長野県小県郡(現・上田市)で小学校教員の次男として生まれた。貧しい柄沢家を背負って立つ跡継ぎとして期待され育てられた。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1929年東京医学専門学校(現東京医科大学)に入学。1933年卒業、陸軍少尉。1936年4月、陸軍軍医学校に入学。軍医中将梶塚隆二が主幹を務める軍陣防疫学教室に所属、細菌学を学んだ。1937年7月、日華事変により学生のまま防疫部の一員として天津に渡り、防疫活動に従事した。この半年前に結婚し、天津にいる間に一女をもうけている。 1939年9月、陸軍軍医学校を卒業。
色部 義明(いろべ よしあき、1911年7月18日 - 20… 色部 義明(いろべ よしあき、1911年7月18日 - 2001年8月12日)は、日本の経営者。協和銀行頭取を務めた。東京都出身。 1936年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1966年5月に協和銀行に転じ、1971年5月に頭取に就任し、1980年9月には会長に就任した。1986年9月に相談役を経て、1998年4月から名誉顧問を務めた。 また頭取在任時に安宅産業破綻処理に立ち向かう事となった。 また、1981年から死去するまで全日本学生囲碁連盟会長をつとめた。1986年7月から1987年12月までに日本棋院理事長を務めた。1986年、日本棋院から大倉賞を受賞する。 2001年8月12日気管支喘息のために東京都三鷹市の病院で死去。
清原 道壽(清原 道寿、きよはら みちひさ、1910年7月1… 清原 道壽(清原 道寿、きよはら みちひさ、1910年7月18日 - 2002年6月18日)は、日本の技術科教員、教育学者。東京工業大学名誉教授。 福岡県生まれ。1935年東京帝国大学文学部教育学科卒、滝野川区(現北区)立滝野川東高等小学校教師となり工業技術を教える。1943年治安維持法違反で逮捕投獄され、敗戦後45年釈放。目黒区立第六中学校で職業(技術科)を教える。1949年職業教育研究会(のちの産業教育研究連盟)を設立、代表。國學院大學教授、東京工業大学教授。71年定年退官、名誉教授、大東文化大学教授。83-84年学長。
勝見 勝(かつみ まさる、1909年7月18日 - 1983… 勝見 勝(かつみ まさる、1909年7月18日 - 1983年11月10日)は、日本の美術評論家、フランス文学者。 東京都出身。東京帝国大学文学部美学科卒業。同大学院に学ぶ。 日本デザイン学会設立委員。1959年、『グラフィックデザイン』を創刊。東京オリンピックのデザイン専門委員会委員長として、幅広くデザインディレクターも務めた。。初期はフランス文学の翻訳を行った。 1983年、東京都内の仕事場で死去。享年74歳。 勝見の葬儀の香典は「勝見勝著作集」の刊行と、「勝見勝賞」の制定にあてられた。
上村 健太郎(うえむら けんたろう、1908年(明治41年)… 上村 健太郎(うえむら けんたろう、1908年(明治41年)7月18日 - 1981年(昭和56年)8月4日)は、兵庫県出身の内務官僚、航空自衛官、実業家である。初代航空幕僚長。位階は従三位。 1908年(明治41年)7月18日、兵庫県で陸軍中将・上村良助の長男として生まれる。東京府立四中、旧制一高卒業。府立四中、一高同期に河野一之、佐々木直がいる。1930年(昭和5年)、東京帝国大学法学部政治学科卒業し、内務省に入省。秋田県属。1944年(昭和19年)8月、警視庁官房主事。1945年(昭和20年)4月、警視庁特別高等警察部長に就任。 1952年(昭和27年)9月、保安庁長官官房長。1954年(昭和29年)7月、初代航空幕僚長に就任。
泊 宝徳(とまり ほうとく、1908年7月18日 - 198… 泊 宝徳(とまり ほうとく、1908年7月18日 - 1986年2月10日)は日本の政治家。鹿児島県加世田市長(6期)。 鹿児島県生まれ、加世田市(現南さつま市)出身。1926年鹿児島県立川辺中学校(旧制、現鹿児島県立川辺高等学校)四年修了。1933年から加世田町役場に勤務し、書記を務め、1945年より税務主任。1947年8月加世田町助役に就任し、1954年7月に加世田町と万世町が合併して加世田市となるまでに2期務める。合併後の新市長就任までの間、市長職務執行の代理者を務める。1954年9月から1962年7月まで加世田市収入役(初代、2期)。1962年8月の市長選挙に立候補をして松山賢太郎初代市長と争って当選し、1962年8月10日、第2代加世田市長に就任。
高木 俊朗(たかぎ としろう、1908年(明治41年)7月1… 高木 俊朗(たかぎ としろう、1908年(明治41年)7月18日 - 1998年(平成10年)6月25日)は、日本の映画監督、脚本家、ノンフィクション小説家である。 東京生まれ。1933年早稲田大学政治経済学部卒業後、松竹蒲田撮影所に入社し、清水宏に師事した。 その後、富士スタジオ、日本映画社に勤務した。1939年から陸軍映画報道班員として、日中戦争に従軍し、記録映画を製作した。 太平洋戦争中、1942年に陸軍航空本部映画報道班員として、マレーシア、インドネシア、タイ、仏印などに従軍。映画報道班員としての体験をもとに、新聞や放送の発表と現実の戦況の違い、戦場の苛酷なありさまの見聞等々、インパール作戦の悲惨さを明らかにして陸軍指導部の無謀さを告発することを決意した。
松田 解子(まつだ ときこ、本名:大沼 ハナ、1905年〈明… 松田 解子(まつだ ときこ、本名:大沼 ハナ、1905年〈明治38年〉7月18日 - 2004年〈平成16年〉12月26日)は、日本の小説家。秋田県仙北郡荒川村出身。長男に記録映画作家の大沼鉄郎がいる。 三菱鉱山経営の荒川鉱山に育った松田は、大盛小学校を卒業すると鉱山の事務所でタイピストなどをしながら文学に触れていた。1923年に秋田女子師範(本科第二部、一年制)に入学、卒業後母校の大盛小学校に赴任する。1926年に職を辞して上京した。上京後、労働運動に参加し、その中で大沼渉と結婚する。結婚、子育てのなかの体験が初期の作品のなかに生かされている。1928年、読売新聞の女流新人短編募集に応じた「産む」が入選し、1929年には『女人芸術』に「乳を売る」が掲載された。
木村 文男(きむら ふみお、1904年7月18日 - 19… 木村 文男(きむら ふみお、1904年7月18日 - 1965年3月20日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(3期)。息子は青森県知事や衆議院議員を務めた木村守男。孫は元衆議院議員の木村太郎、木村次郎。 青森県南津軽郡藤崎町出身。父健一は藤崎町の助役や町長を務めた。1925年青森県師範学校を卒業。卒業後は教員となり、その後は青森県属、小学校校長、地方事務官などを務めた。 戦後、政治家を志し、1947年に青森県議に当選。1952年の第25回衆議院議員総選挙で青森2区から自由党公認で立候補して初当選。以来連続3回当選した(その後、所属は日本民主党→自由民主党)。この間、第1次鳩山内閣で北海道開発政務次官に就任した。
森田 民夫(もりた たみお、1902年(明治35年)7月18… 森田 民夫(もりた たみお、1902年(明治35年)7月18日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 和歌山県那賀郡に生まれる。1928年(昭和3年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業し、同年高等試験行政科に合格。1930年(昭和5年)4月、台湾総督府内務局に出仕する。1933年(昭和8年)10月、地方理事官となり新竹州中壢郡守に任じ、花蓮港庁庶務課長、府事務官、興亜院事務官、官房情報課長などを歴任し、1942年(昭和17年)1月に官を辞し、皇民奉公会中央本部参事となった。
植田 清次(うえだ せいじ、1902年7月18日 - 196… 植田 清次(うえだ せいじ、1902年7月18日 - 1963年10月30日)は、日本の哲学研究者。兵庫県出身。早稲田大学卒。早大助教授、1946年、教授。1963年、「プラグマティズムの基礎的研究」で文学博士。授与は死去の日付。英米哲学。
川合義虎(かわい よしとら、1902年7月18日 - 192… 川合義虎(かわい よしとら、1902年7月18日 - 1923年9月4日)は、大正時代の労働運動活動家で、初期の共産主義運動活動家。本名は川江善虎。関東大震災の混乱時に、亀戸警察署に検束され、労働運動の活動家であったために虐殺される。 長野県上田市出身。小学校を終えた後、日立鉱山の旋盤工となる。 1920年同志とともに上京して暁民会に参加。同年、日本社会主義同盟創立大会で検挙され入獄。1922年、日本共産党(第一次)の創立とともに入党し、渡辺政之輔らと南葛労働協会を結成、野田醤油労働争議など各地の労働争議に当たる。1923年4月5日、日本共産青年同盟(共青)の創立とともに委員長となる。 同年9月1日関東大震災発生時、川合は東京市麻布区(現・東京都港区)におり、東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)の自宅に帰る途中母子が家の下敷きになっているのに遭い、母親は助け出せなかったが3人の幼児を救い出し、食べ物を与えたりして一晩下谷区(現・台東区)上野公園で抱いて過ごした。
谷 幹一(たに かんいち、1901年7月18日 - 1939… 谷 幹一(たに かんいち、1901年7月18日 - 1939年9月12日)は、日本の俳優である。愛称は「タニカン」、本名は岡村 文雄(おかむら ふみお)である。第二次世界大戦後、同姓同名のコメディアン・俳優の谷幹一が登場したころにはすでに他界していた。 1901年(明治34年)7月18日、東京市京橋区(現在の東京都中央区)に「岡村文雄」として生まれる。 神田区錦町(現在の千代田区神田錦町)にあった錦城学校尋常中学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業し、美術学校に入学、日本画を専攻する。19歳になる1920年(大正9年)10月に設立された松竹キネマ研究所に入所、小山内薫に師事した。翌1921年(大正10年)8月には同研究所は解散した。
日野 草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月1… 日野 草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月18日 - 1956年(昭和31年)1月29日)は、日本の俳人。東京都出身。本名は克修(よしのぶ)。 『ホトトギス』で学んだ後、『旗艦』を創刊、男性が眼差す女性のエロスを主題とした句や無季俳句を作り、昭和初期の新興俳句運動を主導。戦後は『青玄』を創刊・主宰し、一転して静謐な句を作った。 東京市下谷区上野山下町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。1905年より朝鮮に移住し、京城(現在のソウル特別市)の小学校を経て京城中学校(現在のソウル高等学校)で学ぶ。その後帰国し、1918年、第三高等学校第一部乙類(英文科)入学。歌俳をたしなんだ父の影響で、草城もその影響で10代から文学に親しんだ。
林 佳介(はやし よしすけ、1900年〈明治33年〉7月18… 林 佳介(はやし よしすけ、1900年〈明治33年〉7月18日 - 1987年〈昭和62年〉11月9日)は、日本の政治家、実業家、家主。衆議院議員(日本進歩党)。下関倉庫社長。山口合同ガス社長。サンデン交通会長。下関商工会議所会頭。 山口県佐波郡和田村(現・周南市)、松田忠治の七男として生まれる。松田正三の弟。林長五郎の養子となる。東京帝国大学法学部卒業。「大津屋」と称し、醤油醸造業を営んだ。陸軍歩兵中尉に任ぜられた。1937年、支那事変に出征した。大政翼賛会山口県支部常務委員を委嘱された。 山口県翼賛壮年団理事、同下関団長、下関倉庫、山陽電気、下関瓦斯、下関精密工業、百十銀行など各種会社の重役をつとめた。
稲垣 長賢(いながき ながかた、1899年(明治32年)7月… 稲垣 長賢(いながき ながかた、1899年(明治32年)7月18日 - 1982年(昭和57年)3月12日)は、大正から昭和期の農林技官、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧志摩鳥羽藩主家当主・稲垣長昌の長男として生まれる。父の死去に伴い、1940年(昭和15年)12月28日、子爵を襲爵した。 1924年(大正13年)東京農業大学本科を卒業。同年、農林省畜産試験場助手に就任。以後、山形県農林技手、農林省嘱託、帝国畜産会理事などを務めた。 1943年(昭和18年)1月9日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選。研究会に所属し調査部第五部理事を務め、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 その他、養鶏組合中央会技師に就任し、以後、同会の奨励部長、出版部長、検査部長、事業部長、同会理事などを務めた。
藤森 朋夫(ふじもり ともお、1898年7月18日 - 19… 藤森 朋夫(ふじもり ともお、1898年7月18日 - 1969年8月29日)は、日本の歌人、国文学者。 長野県諏訪郡四賀村(現・諏訪市四賀)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1925年に東京高等師範学校卒業、1929年東北帝国大学文学部国文科卒業。陸軍大学教授となる。戦時中は群馬県に疎開した。 1923年「アララギ」に加わり、島木赤彦、斎藤茂吉に師事。『万葉集』を中心とした上代文学を研究。1956年から1961年まで『茂吉研究』を発行。日本大学教授、東京女子大学教授、1964年定年退任、名誉教授。 この項目は、文学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJライトノベル)。
高松 静男(たかまつ しずお、1896年7月18日 - 19… 高松 静男(たかまつ しずお、1896年7月18日 - 1945年9月8日)は、日本の元アマチュア野球選手。愛知県名古屋市出身。兄は名古屋商工会議所会頭を務めた高松定一。妻は伊藤由太郎の三女。 愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)から1915年に早稲田大学へ進学し、野球部の選手となる。ポジションは左翼手だったと伝わる。1919年に早大の主将として龍ヶ崎中(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)を指導した記録が残っている。 早大卒業後、大学野球部のアメリカ遠征に主将として加わっている。また、一年志願兵となり、陸軍三等主計に任じられた。1924年に大日本人造肥料(現・日産化学)に入社、1928年に大阪鉄道に転職し、1938年時点では藤井寺球場係長を務めていた。
加藤 宗厚(かとう しゅうこう、1895年7月18日 - 1… 加藤 宗厚(かとう しゅうこう、1895年7月18日 - 1981年9月22日)は、日本の図書館司書、図書館学者。国立図書館館長、駒澤大学教授を歴任。日本十進分類法の著名な研究者。 終戦後の「図書館法」草案と『学校図書館の手引』作成にも尽力。「図書館奉仕」を理念の根底に据えることで日本の公共図書館サービスの向上に貢献。 愛知県稲沢市生まれ。1908年に得度。曹洞宗第四中学林(多々良高校の前進)、1922年に曹洞宗大学(現駒澤大学)卒業。1925年文部省図書館講習所修了。同年、帝国図書館勤務。1930年、帝国図書館司書。1940年、富山県立図書館長。1944年、東京都立深川図書館長。1947年、文部省嘱託。
山中 謙二(やまなか けんじ、1893年7月18日 - 19… 山中 謙二(やまなか けんじ、1893年7月18日 - 1974年2月15日)は、日本の西洋史学者。専門はドイツ中世史。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学西洋史学科卒業。日本大学予科講師、東京府立第一高等女学校(現東京都立白鷗高等学校・附属中学校)講師、第一高等学校講師を経て、1925年(大正14年)東京帝国大学文学部講師、助教授。1938年(昭和13年)同大学教授。退官後、東京大学名誉教授。日本大学文理学部講師。 1950年(昭和25年)6月から7月にかけて、昭和天皇は歴史関係の科学委員による合同進講を催し、山中は委員の1人となった。
木戸 幸一(きど こういち、1889年〈明治22年〉7月18… 木戸 幸一(きど こういち、1889年〈明治22年〉7月18日 - 1977年〈昭和52年〉4月6日)は、日本の華族・官僚・政治家。 昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となったが後に仮釈放された。 1889年(明治22年)7月18日に東京府赤坂区新坂町六二において侯爵木戸孝正の長男として生まれた。父の木戸孝正は、明治の元勲である木戸孝允の妹治子と長州藩士来原良蔵の長男である。 学習院高等科では原田熊雄、織田信恒などと同級だった。近衛文麿は1学年下に当たる。
今川 淵(いまがわ ふかし、1886年(明治19年)7月18… 今川 淵(いまがわ ふかし、1886年(明治19年)7月18日 - 1955年〈昭和30年〉)は、台湾総督府官僚。 福井県福井市出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格。台湾総督府属、同事務官、台北庁庶務課長、内務局地方課長、殖産局糖務課長、専売局参事・庶務課長などを歴任。一時退官したが、1932年(昭和7年)に台南州知事となり、1936年(昭和11年)に台北州知事に転じた。同年、専売局長に就任し、1939年(昭和14年)に退官した。 退官後は、南方協会常務理事を経て、台湾石炭株式会社社長を務めた。
古荘 四郎彦(ふるしょう しろひこ、1884年(明治17年)… 古荘 四郎彦(ふるしょう しろひこ、1884年(明治17年)7月18日 - 1967年(昭和42年)10月24日)は、日本の銀行家。初代千葉銀行頭取、千葉工業大学理事。千葉銀行レインボー事件で有罪となった。熊本県熊本市出身。陸軍大将の古荘幹郎はいとこ。 熊本藩士・古荘幹実の四男として生まれる。第五高等学校 (旧制)を経て、1912年(大正元年)東京帝国大学独法科を卒業、帝国商業銀行(後の富士銀行)に入行する。支配人まで昇進したのち、1923年(大正12年)に、帝大同窓の業界仲間で親しい友人の河合良成の紹介で、河合の弟の岳父川崎八右衛門 (2代目)が経営する川崎銀行の営業局長代理に転進。1925年(大正14年)には川崎系の房州銀行と安房銀行が合併して発足した安房合同銀行の常務に就任する。
藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年(明治16年)7月… 藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年(明治16年)7月18日 - 1937年(昭和12年)8月21日)は、日本の陸軍軍人。歩兵大佐で予備役となったのち、靖安軍司令官に就任し、熱河支隊長として戦死した。最終階級は陸軍少将、満州国陸軍中将。 福島県出身。農業を営む塩谷家の六男で、藤井家の養子となる。長男の藤井毅は陸軍獣医大尉、三男の藤井信は陸軍士官学校57期出身で戦死した陸軍大尉である。藤井は創設以来の稚松会会員であった。会津中学から仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、陸軍士官学校16期を卒業。1904年(明治37年)11月、歩兵少尉に任官した。 歩兵第32連隊附となり、翌年5月から1906年(明治39年)3月まで日露戦争に従軍した。
古木 章光(ふるき あきみつ、1880年(明治13年)7月1… 古木 章光(ふるき あきみつ、1880年(明治13年)7月18日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 原籍は静岡県。学習院高等科を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。台湾総督府財務局、殖産局に勤務し、財務局打狗出張所長、財務局金融課長、財務局税務課長を歴任した。 1924年(大正13年)、新竹州知事に就任し、1927年(昭和2年)に退官した。
小峰 満男(おみね みつお、1880年〈明治13年〉7月18… 小峰 満男(おみね みつお、1880年〈明治13年〉7月18日 - 1935年〈昭和10年〉10月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。旧姓・島村。 茨城県東茨城郡水戸上市備前町(現水戸市)で島村新一の三男として生まれ、多賀郡松原町の酒造業・小峰くりの入夫となり家督を相続した。 1907年(明治40年)明治大学法律経済科、翌年同大学の高等研究科を卒業。松原町議、多賀郡会議員、茨城県会議員となる。また高萩運送、常盤商事、茨城無煙炭礦、水戸ツウリング自動車各(株)取締役社長、多賀製塩所、多賀銀行、多賀電気、久慈川電気工業、東部電力、茨城電力、小里川電気、茨城醤油各(株)取締役を務める。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において茨城2区から立憲民政党公認で立候補してトップ当選し1930年(昭和5年)第17回総選挙で再選し、衆議院議員を2期務めた。
山崎 寿春(やまざき としはる、1878年7月18日 - 1… 山崎 寿春(やまざき としはる、1878年7月18日 - 1964年11月19日)は、日本の教育者。駿台グループの創業者でもある。 1878年(明治11年)7月18日、鳥取県で生まれる。1902年(明治35年)に東京外国語学校を卒業後、高岡市立商業学校などで教鞭を執った後に米国へ留学する。リベラル・アーツ・カレッジとして有名なアマースト大学やハーバード大学などで学び、イェール大学大学院で英語学・英文学を修める。帰国後は明治大学教授となり、1918年(大正7年)に東京高等受験講習会(駿台グループ)を神田錦町に設立する。 受験勉強で心身を消耗する学生を憂え、知識や能率的な教育法による才能の開発を始めた。
柴田 常恵(しばた じょうえ、1877年〈明治10年〉7月1… 柴田 常恵(しばた じょうえ、1877年〈明治10年〉7月18日 - 1954年〈昭和29年〉12月1日)は、日本の考古学者。慶應義塾大学講師・文化財専門審議会委員などを歴任。 1877年、愛知県春日井郡大曽根村(現・名古屋市東区)の浄土真宗・瑞忍寺の住職の三男として生まれた。1897年に上京し、苦学しながら私立真宗東京中学高等科に入り、さらに私立郁文館内の史学館で歴史学を学んだ。この頃、坪井正五郎の講演を聴き、考古学に興味を持ったという。1902年に東京帝国大学雇となり、理学部人類学教室に勤務し、1906年には理科大学助手となった。坪井を助け、『東京人類学雑誌』の編輯にあたり、各地の遺跡・遺物の調査に従事した。
中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月18日 - 1… 中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月18日 - 1942年9月4日)は、日本の数学者、学校教授。 1876年7月、石川県で士族の中川富三と、きくの間に生まれ、1895年7月3日に第四高等学校第二部理科を卒業。1897年7月10日東京帝国大学理科大学数学科で特待生を勝ち得て、1898年に卒業した。 1898年(明治31年)8月13日、第二高等学校教授を任ぜられた。1899年9月5日、高等官七等で高等師範学校教授に任命された。 1901年11月16日、文部科学省外国留学生として、日本を発ち、ドイツに留学した。1905年2月27日に帰国した。 1904年11月25日、東京帝国大学理科大学助教授に任命された。
嵐 橘楽(あらし きらく、1874年7月18日 - 1922… 嵐 橘楽(あらし きらく、1874年7月18日 - 1922年3月)は、日本の俳優、元歌舞伎役者、元子役である。嵐 橘樂と表記されることもある。また、芸名の読みは「あらし きつらく」と表記されることもある。本名は永田 長治郎(ながた ちょうじろう)。幼名は中村 成子(なかむら なるこ)、旧芸名は中村 鳥次郎(なかむら ちょうじろう)、嵐 喜樂(あらし きらく)。三代目中村翫雀、四代目嵐橘三郎門下の歌舞伎役者から横田商会、日活京都撮影所の旧劇俳優に転じ、子供芝居時代からの幼馴染みである尾上松之助を支える名脇役として活躍したが、志半ばで病没した。 1874年(明治7年)7月18日、大阪府大阪市南区久左衛門町(現在の同市中央区西心斎橋2丁目及び心斎橋筋2丁目辺り)に生まれる。
南条 金雄(なんじょう かねお、1873年〈明治6年〉7月1… 南条 金雄(なんじょう かねお、1873年〈明治6年〉7月18日 - 1948年〈昭和23年〉12月30日)は、日本の実業家。大正海上火災保険会長や、三井物産会長、三井合名筆頭常務理事を務めた。 群馬県邑楽郡館林町(現館林市)出身。前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を経て、1892年に高等商業学校(現一橋大学)卒業後、横浜外国商館に入り、海外貿易に従事し海陸保険の事務につき英国と東京を往来する。 1901年三井物産入社。大阪支店保険掛主任等を経て、1910年大阪支店長。1913年ロンドン支店長。1918年取締役ロンドン支店長。同年安川雄之助、武村貞一郎とともに常務取締役に昇格。大正海上火災保険設立前に小田柿捨次郎の家で飯田義一、馬越恭平、岩原謙三、平生釟三郎、磯村豊太郎らと保険会社設立懇談会に参加し、1924年には大正海上火災保険会長に就任。
川上 貞奴(かわかみ さだやっこ、戸籍名 川上 貞(旧姓:小… 川上 貞奴(かわかみ さだやっこ、戸籍名 川上 貞(旧姓:小山)、明治4年7月18日(西暦1871年9月2日) - 昭和21年(1946年)12月7日)は、戦前の日本の女優。 東京・日本橋の両替商・越後屋の12番目の子供として誕生。生家の没落により、7歳の時に芳町の芸妓置屋「濱田屋」の女将、可免吉の養女となる。伝統ある「奴」名をもらい「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがる。日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は時の総理伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となった。 1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。しかし当初は苦労も多く、音二郎の2度もの衆議院選挙落選により資金難に陥る。
岡田 温(おかだ ゆたか、明治3年6月20日(1870年7月… 岡田 温(おかだ ゆたか、明治3年6月20日(1870年7月18日)-昭和24年(1949年)7月25日)は、明治・大正・昭和期の農業技師。後に衆議院議員を務めた。 伊予国久米郡(後に愛媛県温泉郡石井村を経て松山市)出身。明治32年(1899年)に東京帝国大学卒業後、全国農事会に務めるが、家庭の事情によって1年で帰郷して農業を継ぐが、温泉郡の要請を受けて郡の農業技師となり実績を挙げ、次いで明治38年(1905年)には愛媛県の農業技師となった。明治41年(1908年)に別子銅山の四阪島製錬所からの煙害が問題化した際には、農民達とともに住友財閥の責任を追及、住友側もこれを認めて再発防止策と賠償に応じた。
岡田 朝太郎(おかだ あさたろう、慶応4年5月29日(186… 岡田 朝太郎(おかだ あさたろう、慶応4年5月29日(1868年7月18日) - 昭和11年(1936年)11月13日)は、日本の法学者。専門は刑法。弟子に穂積重遠など。 号は三面子、虚心。川柳の研究家としても知られ、「岡田三面子」名義で『日本史伝川柳狂句』全27巻(遺稿、古典文庫、1972年 - 1981年)などの著作がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。