小野 栄(おの さかえ、1910年(明治43年)1月19日 … 小野 栄(おの さかえ、1910年(明治43年)1月19日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 宮城県仙台市出身。1934年(昭和9年)3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年10月、高等試験行政科に合格。1937年(昭和12年)4月、台湾総督府交通局書記に任じ、鉄道部自動車課勤務、庶務課勤務、殖産局商工課勤務を経て、1939年(昭和14年)7月、台北州蘇澳郡守に就任した。その後、拓務事務官・殖産局、拓北局青年課勤務を経て、1942年(昭和17年)10月、陸軍司政官に任じた。
水原 茂(みずはら しげる、1909年〈明治42年〉1月19… 水原 茂(みずはら しげる、1909年〈明治42年〉1月19日 - 1982年〈昭和57年〉3月26日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)・監督、解説者・評論家。 1955年から1959年の登録名は「水原 円裕(みずはら のぶしげ)」。 現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ、以下巨人)で活躍し、引退後は巨人、東映フライヤーズ、中日ドラゴンズの監督を歴任した。巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、セ・パ両リーグでチームを日本一に導いた(セ - 巨人、パ - 東映)。 幼少時に両親が離婚、父親が入り婿になり再婚した先の「水原」姓になったという。野球を始めたのも、実家の環境からの気晴らしであったという。
坂本 政一(さかもと まさいち、1909年1月19日 - 1… 坂本 政一(さかもと まさいち、1909年1月19日 - 1995年5月2日)は、日本のバンドネオン奏者。タンゴ楽団『坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニア』代表 1909年生まれ。大阪音楽大学卒業。 1939年以前より、バンドネオン奏者として活躍していた。桜井潔楽団のコンサートマスターを務める。 1951年より、『坂本政一楽団』を設立する。1952年『坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニア』と改称する。1966年に、アルゼンチンなど、世界演奏旅行を果たす。日本におけるタンゴの黄金期で、タンゴ楽団代表およびバンドネオン奏者として、早川真平と人気を二分する。レパートリーでは、アルゼンチンの古典タンゴとされる曲や、コンチネンタルタンゴとされる曲の他、日本の民謡のタンゴ風アレンジの『FUJIYAMA TANGO』もある。
太田 清之助(おおた せいのすけ、1909年(明治42年)1… 太田 清之助(おおた せいのすけ、1909年(明治42年)1月19日 - 1989年(平成元年)2月26日)は、日本の実業家。元・博多大丸会長。元・大日本麦酒技師。 第一徴兵保険(後の東邦生命保険)社長、衆議院議員、貴族院議員などを務めた四代目太田清蔵の四男。東邦生命保険社長五代目太田清蔵の弟。元・自民党衆議院議員太田誠一、ホテル日航福岡社長太田輝幸の実父。妻・俊子は商工大臣、農林大臣、大蔵大臣など歴任した櫻内幸雄の三女。 福岡県福岡市出身。旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1933年に九州帝国大学農学部農芸化学科を卒業。大日本麦酒に入り1938年、兵役。1946年香椎農園、1949年日東食品を各経営。
小野 忠重(おの ただしげ、1909年1月19日 - 199… 小野 忠重(おの ただしげ、1909年1月19日 - 1990年10月17日)は日本の版画家。版画史や古地図、浮世絵の研究者でもある。 1932年から藤牧義夫らとともに「新版画集団」(その後、造形版画協会に名称変更)を結成。失踪した藤牧が最後に会った人物としても知られる。 東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)の向島小梅一丁目の酒屋の子として生まれる。 1924年、蒼原会に加入、白日会第2回展に出品。 1927年、早稲田実業学校卒業。在学中から卒業まで本郷絵画研究所に学ぶ。卒業後は絵描きになりたいと思いつつも、建築資材の商店で働いたり、小説家、俳優、代用教員の道を模索したりもするも叶わず、家業の酒屋を手伝う。
金 正晧(キム・ジョンホ、朝鮮語: 김정호、1909年1月1… 金 正晧(キム・ジョンホ、朝鮮語: 김정호、1909年1月19日 - 1970年3月9日)は、満州国および大韓民国の陸軍軍人、警察官僚、政治家。陸軍准将、第3代韓国国会議員。 1909年1月19日、全羅南道光陽郡(現・光陽市)出身。 普成中学校(朝鮮語版)、法政大学卒業。満州国中央陸軍訓練処(奉天軍官学校)3期卒業。 国立警察専門学校(現・警察人材開発院)校長、慶北警察庁長、慶北鉄道警察庁長、忠南鉄道警察庁長、公安局長、陸軍護国軍第105旅団長、全南地区兵事区司令官、全北戒厳民事部長、全北地区兵事区司令官、陸軍106師団長、陸軍本部兵務監、国防部第3局長、合同参謀本部第1部長・第3部長、韓米合経国防部代表を務めた後、陸軍准将として予備役に編入。
高津 春繁(こうづ はるしげ、1908年1月19日 - 19… 高津 春繁(こうづ はるしげ、1908年1月19日 - 1973年5月4日)は、日本の言語学者、比較言語学研究者、古代ギリシア文学研究者。学位は、文学博士(東京大学)。東京大学名誉教授。東京大学文学部教授、武蔵大学人文学部教授、人文学部長(初代)を歴任。 高津はオックスフォード留学から帰国後まもなく、東京帝国大学(東京大学)においてそれまで福島直四郎(後に改名し辻直四郎)が担当していた印欧語比較文法の講義を始めた。そしてその成果が初めて公にされたのが「印欧語母音変化と Laryngales の発見」(『言語研究』第3号、1939年)である。これは、近代言語学の祖とも言われるフェルディナン・ド・ソシュールが1878年に提唱し、当時は一般には受け入れられなかった印欧比較文法における Laryngales(喉音)理論を詳論したものである。
重園 贇雄(しげぞの よしお、1908年1月19日 - 19… 重園 贇雄(しげぞの よしお、1908年1月19日 - 1980年12月29日)は、日本の作詞家、中等教育教員。おもに「ひろしま平和の歌」の作詞者として知られる。 1908年(明治41年)1月19日、アメリカ合衆国ハワイ島のヒロで日系移民の重園梅太郎・セキ夫妻の一子として出生する。2歳で両親と共に日本へ帰国し、広島県豊田郡椹梨村(賀茂郡大和町を経て現在の三原市)で育った。 旧制忠海中学校を首席で卒業後、満洲へ渡り満洲教育専門学校文科一部へ入学。卒業後、長春市室町尋常高等小学校訓導に着任する。 1931年(昭和8年)、満洲事変勃発に伴い新聞紙上で懸賞募集が行われた「噫 南嶺三十八勇士の歌」で一等入選。
吉岡 力(よしおか つとむ、1908年(明治41年)1月19… 吉岡 力(よしおか つとむ、1908年(明治41年)1月19日 - 1975年(昭和50年)10月25日)は、日本のオリエント史学者。 1908年、山口県生まれ。東京帝国大学で学び、卒業した。 卒業後は旧制浦和高等学校教授に就いた。戦後、東京大学教養学部助教授となった。1951年に教授に昇進。1968年に東京大学を定年退官した。その後は東海大学教授として教鞭をとった。また、歴史教育研究所を設立し、所長を務めた。 専門は古代オリエント史。一般には世界史に関する受験参考書を多く書いたことで知られている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
谷田 専治(たにだ せんじ、1908年1月19日 - 199… 谷田 専治(たにだ せんじ、1908年1月19日 - 1994年1月1日)は、日本の生物学者、北海道大学名誉教授。 1908年、宮城県仙台市生まれ。1933年、東北帝国大学理学部を卒業。卒業後は、三井海洋生物研究所の研究員となり、下田で暮らす。1942年、北京・同仁会の華北防疫処に衛生昆虫研究室を開設するため赴任。1944年、学位論文『日本産石灰海綿の研究』を提出して理学博士号を取得。 1945年に太平洋戦争が終結すると、1946年に日本へ引き上げ帰国。その後は函館水産専門学校教授となった。1950年、水産資源研究所増殖部に着任。同研究所では、陸奥湾におけるホタテガイの耳づり養殖を試みるなどしている。
久世 竜(くぜ りゅう、1908年〈明治41年〉1月19日 … 久世 竜(くぜ りゅう、1908年〈明治41年〉1月19日 - 1985年1月5日)は、日本の殺陣師・俳優。俳優活動時の旧芸名は岬 弦太郎(みさきげんたろう)。 1908年(明治41年)1月、愛媛県東宇和郡野村町高瀬に生まれる。 叔父の経営する神戸の久保田商会で襦子()の裁縫箱を輸出する業務を見習っていたが、1922年(大正11年)ぐらいの頃に「いやなことがあって」辞め、京都へ出る。これが14歳だか15歳だか、久世本人の記憶にも定かでないという。 尾上松之助の忍術映画や外国の連続ものの活動写真を休みのたびに観ていて、「役者になろう」と決心。まず長谷川伸を訪ね、牧野省三に紹介を受ける。が、牧野は「やめとけ、役者になる顔じゃない」とぴしゃりと言い、「仕事の世話をしてやるから、当分俺のところで飯食って遊んどけ」と久世を居候させてくれた。
椎名 時四郎(しいな ときしろう、1907年1月19日 - … 椎名 時四郎(しいな ときしろう、1907年1月19日 - 2007年12月3日)は、日本の実業家。栃木県出身。元住友商事副会長。 1924年(大正13年)、旧制栃木県立栃木中学校(現 栃木県立栃木高等学校)修了。東京商科大学(現 一橋大学)卒業。元住友商事副会長。1973年(昭和48年)、(財)日本ラグビーフットボール協会会長に就任。1979年(昭和54年)、同 名誉会長に就任。1995年(平成7年)、同 名誉相談役に就任。 2007年12月3日、肺炎により100歳で死去。
江藤 智(えとう あきら、1907年(明治40年)1月19日… 江藤 智(えとう あきら、1907年(明治40年)1月19日 - 1982年(昭和57年)6月26日)は、日本の鉄道官僚、政治家。工学博士。位階は従三位、勲等は勲一等。 山口県下関市貴船町で陸軍将校・江藤鋪の二男として生まれた。文関尋常小学校(現下関市立文関小学校)、豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1929年(昭和4年)3月、京都帝国大学工学部土木工学科を卒業。同年4月、鉄道省に入省した。 函館保線事務所長、大臣官房幹線調査課勤務、広島鉄道局施設部長、本省施設局停車場課長、同施設局次長、札幌鉄道局長、兼北海道営業支配人、本省施設局長、日本国有鉄道理事などを歴任。 1952年(昭和27年)7月30日、『重力操車場の設計について』により京都大学から工学博士の学位を授与された。
菅野 矢一(すがの やいち、1907年1月19日 - 199… 菅野 矢一(すがの やいち、1907年1月19日 - 1991年6月15日)は、洋画家、日本芸術院会員。本名は彌一。 山形市生まれ。山形商業学校を中退した後、小学校代用教員や会社員を経て、画家を志して上京。川端絵画研究所に学び、1936年文展鑑査展に「黒牛」で初入選。1939年から安井曾太郎に師事し、翌年一水会展に初入選。1953年に渡仏し、グラン・ショーミエールで、ゴエルグやクラヴェに師事する。1954年に帰国した後、日展への入選を重ね、日展評議員、同参事、日展顧問などを歴任した。1982年「くるゝ蔵王」で日本芸術院賞受賞、1986年日本芸術院会員。 『菅野矢一画集』(日動出版部 1990)がある。
牛島 義友(うしじま よしとも、1906年 <明治39年> … 牛島 義友(うしじま よしとも、1906年 <明治39年> 1月19日- 1999年 <平成11年> 8月20日)は、日本の教育心理学者。学位は、文学博士(日本大学・論文博士・1953年)(学位論文「精神発達の規準に関する研究」)。九州大学名誉教授。位階は正四位。 長崎県長崎市生まれ。1923年福岡県立中学修猷館、1925年旧制福岡高等学校文科乙類を経て、1928年東京帝国大学文学部心理学科を卒業。 卒業後、東京帝国大学文学部副手となり、立教大学助手も兼務。1929年立教大学文学部教授、1945年10月東京女子高等師範学校教授、1949年6月校名変更でお茶の水女子大学教授、1949年愛育幼稚園園長、1950年九州大学教育学部教授を兼務、恩賜財団母子愛育会愛育研究所教養部長、1953年「精神発達の規準に関する研究」で日本大学より文学博士の学位を取得。
上田 保(うえだ たもつ、1906年(明治39年)1月19日… 上田 保(うえだ たもつ、1906年(明治39年)1月19日 - 1973年(昭和48年)4月11日)は、日本の英文学者。 1906年(明治39年)、山口県吉敷郡大道村(現・山口市)で生まれた。慶應義塾大学文学部英文科で学び、1929年に卒業。 1934年に第一書房に入社し、『セルパン』で西洋文化の紹介を担当。1941年、慶應義塾大学予科教員に転じた。1949年、慶應義塾大学経済学部教授に就いた。1972年に慶應義塾大学を定年退職し、名誉教授となった。
東光 武三 (とうこう たけぞう、1906年1月19日 - … 東光 武三 (とうこう たけぞう、1906年1月19日 - 1945年4月1日)は、日本の外交官。阿波丸事件で死去した。死後設立された阿波丸会では、妻の孝子(日加協会事務局長)が中心的立場となった。 この項目は、外交官に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ政治)。
木曽 栄作(きそ えいさく、1905年1月19日 - 198… 木曽 栄作(きそ えいさく、1905年1月19日 - 1984年)は、日本の英語学者。専門は商業英語。 北海道小樽市出身。1927年(昭和2年)小樽高等商業学校卒業。1931年(昭和6年)小樽高等商業学校助教授。1937年、アメリカペンシルベニア大学経営学部大学院に入学し、商業英語と国際貿易の研究のため、文部省在外研究員として在留。1939年、同大学修士課程修了。1943年、正六位に叙される。1944年、小樽経済専門学校教授。翌年、勲六等に叙せられ瑞宝章を授与される。1950年、小樽商科大学教授と小樽経済専門学校教授を兼務。1960年、再びアメリカへの出張を命じられ、ミシガン大学大学院言語学科において、英語学と外国語教授法を学ぶ。
金 鳳祚(キム・ボンジョ、朝鮮語: 김봉조、1905年1月1… 金 鳳祚(キム・ボンジョ、朝鮮語: 김봉조、1905年1月19日または1907年 - 1983年5月5日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、公務員、政治家。制憲・第2代韓国国会議員。 本貫は義城金氏(朝鮮語版)、朝鮮時代の文臣の金漢卿の子孫である。字は致勲、号は松崗。 慶尚北道青松郡出身。和睦公立普通学校(現・和睦初等学校(朝鮮語版))、大邱啓聖中学校(朝鮮語版)、平壌崇実専門学校(現・崇実大学校)農科、中央大学法学科卒。 啓聖中学校教員を経て、光復後は金泉中学校(朝鮮語版)校長、金泉女子中学校(朝鮮語版)校長、慶北女子中学校(現・慶尚中学校(朝鮮語版)に統合)校長、釜山東新中学校(朝鮮語版)校長、嶺南商業高等学校(現・釜山情報高等学校(朝鮮語版))校長、慶尚北道学務課長を歴任した。
金井 幸佐久(かない こうさく、1903年1月19日 - 没… 金井 幸佐久(かない こうさく、1903年1月19日 - 没年不明)は、日本の郷土史家。群馬県吾妻郡中之条町出身。民俗学・教育史・宗教史に造詣が深く、多くの著書があり、100歳を超えてなお執筆活動に取り組んでいることでも話題を呼んだ。 1936年 群馬県師範学校専攻科を卒業。坂上村坂上小学校に就職し同校教頭をへて、群馬県立吾妻高等学校教頭を勤める。中之条町誌編集委員、群馬県文書館調査委員、群馬県地域文化研究協議会評議員などを歴任した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大串 兎代夫(おおぐし とよお、1903年(明治36年)1月… 大串 兎代夫(おおぐし とよお、1903年(明治36年)1月19日 - 1967年(昭和42年)1月3日)は、日本の法学者、国家学者。東洋大学教授、國學院大學教授、名城大学教授、名城大学法商学部長、名城大学総長。従四位勲三等瑞宝章。 国民精神文化研究所では哲学者の小島威彦、教育学者の伏見猛弥と共に三羽烏と呼ばれる。 1903年、判事大村大代の三男として、大阪市に生まれる。1907年、長崎県西彼杵郡面高村の大串一郎の養子となる。1923年、第五高等学校卒業。1926年、東京帝国大学法学部英法科を卒業、同大学大学院に進学して上杉慎吉に師事する。1927年、高等試験司法科合格。1928年、大学院を修了すると、ドイツに留学。
渡辺 俊平(わたなべ しゅんぺい、1901年(明治34年)1… 渡辺 俊平(わたなべ しゅんぺい、1901年(明治34年)1月19日 - 1972年(昭和47年)11月28日)は、日本の科学者・教育者・実業家。ホトフィニ株式会社(現在の株式会社JPF)創設者。日本大学芸術学部長を務めた。 現在の東京都文京区に、父・三平と母・勝の長男として生まれる。明化小学校、豊島師範付属小学校、開成中学校、官立旧制第四高等学校を経て、東京大学工学部造兵学科を卒業し、1925年(大正14年)、財団法人理化学研究所に入所した。 理化学研究所に入所した渡辺は、理化学研究所3代目所長を務めた大河内正敏の研究室に所属し、工学士としての長年に亘る研究生活を経て、独自の多面積式録音方式および自動現像方式を発明した。
宮川 庚子(みやかわ かのえこ、1900年1月19日 - 1… 宮川 庚子(みやかわ かのえこ、1900年1月19日 - 1993年11月21日)は、日本の女性医師。 女性として日本で最初に医学博士の学位を授与された(昭和6年1月、東京帝国大学)。 父が農林学校長として盛岡市に在住していたときに生まれる。このとき住んでいた家の隣には原敬の生家があった。 3歳の時に父が甲府の農学校長及び農事試験場長となったため一緒に移り住み7歳までそこで過ごす。その後、父が関西の肥料王である多木久米次郎に招聘され多木製肥所の技師長となったのに伴い、兵庫県別府に移住した。その後、父が多木製肥所を辞職し、深川で肥料問屋の経営者となったため上京し、初等教育を東京府青山師範学校附属小学校で終えた。
内海 十楼(うつみ じゅうろう、1899年1月19日 - 1… 内海 十楼(うつみ じゅうろう、1899年1月19日 - 1962年12月24日)は、日本の裁判官。東京高等裁判所判事、仙台地方裁判所所長などを務めた。 内海重男の長男として福岡市に生まれる。1919年福岡県立中学修猷館、1922年3月第五高等学校文科甲類を経て、1925年3月東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年高等試験司法科に合格。 1926年司法官試補となり、1928年千葉地方裁判所判事に進み、その後、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京民事地方裁判所判事部長、札幌控訴院判事部長を経て、1947年秋田地方裁判所所長に就任。仙台地方裁判所所長を経て、1951年4月東京高等裁判所判事に就任。
野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月1… 野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月19日 - 昭和53年(1978年))は、日本の土木技術者、都市計画家。内務官僚として都市計画事業に手腕を揮い、戦後には新潟県副知事を務めた。息子は直木賞作家の野坂昭如。孫は作家、エッセイストの野坂麻央、女優の愛耀子(共に元宝塚歌劇団娘役)、株式会社ジャパンダイニングリンク(英語表記:Japan Dining Link Co., ltd.)代表取締役の野坂龍。
伊東 九郎(いとう くろう、1899年(明治32年)1月19… 伊東 九郎(いとう くろう、1899年(明治32年)1月19日 - 1953年(昭和28年)12月15日)は、明治、大正、昭和期の華族。正五位。子爵。 1899年、伯爵・伊東巳代治の八男として、東京都に出生。1923年、明治大学政治経済科卒業。 旧大名家の備中岡田藩主であった伊東子爵家に入り家督を継いでいた、実兄の伊東二郎が死去したことに伴い、その養子となって家督を継ぎ、1926年に子爵を襲爵した。明大卒業後は、鉄道省に勤務した他、東京電燈で支社長などを務めた。 1953年、死去。享年54。墓所は東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある。
田島 淳(たじま じゅん、1898年(明治31年)1月19日… 田島 淳(たじま じゅん、1898年(明治31年)1月19日 - 1975年(昭和50年)1月29日)は、日本の劇作家、脚本家。 神奈川県横浜市出身。田島商事社長・田島啓次郎の長男。1922年、早稲田大学英文科を卒業した。早大在学中に執筆した処女作(戯曲)「能祇と泥棒」が1921年旧帝国劇場で上演(十四代守田勘彌、二代 市川猿之助による)されている。また同じく早大在学中に松竹キネマに入社した。のち松竹本社文芸部に入社した。昭和期に入ってから劇作から遠ざかり、演出などをした。1926年、『田島淳戯曲集』を刊行した。1968年に復刊された『劇と評論』では編集長を務めた。宗教は日蓮宗。住所は神奈川県横浜市中区根岸町。
青木 孝義(靑木孝義、あおき たかよし、1897年1月19日… 青木 孝義(靑木孝義、あおき たかよし、1897年1月19日 - 1962年1月14日)は、日本の経済学者、政治家。位階は正三位、勲等は勲二等。日本大学教授、衆議院議員(3期)、国務大臣、経済安定本部総務長官(第7代)。経済学博士。 愛知県南設楽郡平井村(現在の新城市)出身。1920年3月、日本大学専門部政治科を卒業。さらに1921年に同大高等専攻科を卒業。その後、日大から派遣されドイツに留学し、ベルリン大学、ハイデルベルク大学、ゲッティンゲン大学で、金融などを学び経済学博士の学位を取得。帰国後、日本大学の教授、経済学部長、理事を歴任。 戦後、1946年4月の第22回衆議院議員総選挙で愛知県第2区に日本自由党から立候補し初当選。
政岡 壹實(新字体:壱実。まさおか かつたね、1896年〈明… 政岡 壹實(新字体:壱実。まさおか かつたね、1896年〈明治29年〉1月19日 - 1973年〈昭和48年〉7月9日)は、日本の武道家。段位は全日本剣道連盟居合道範士九段、剣道範士七段。居合の流派は無双直伝英信流。 高知県吾川郡小川村(現・いの町小川柳野)で生まれる。高知県立第一中学校に入学し、吾川郡の中学生用の寄宿舎で生活しながら、剣道を川崎善三郎に学ぶ。寄宿舎の先輩で高知県立第二中学校5年生の森繁樹から、第二中学校で大江正路という剣道教師が希望者に居合(無双直伝英信流)を教えていると聞いた政岡は、居合を習ってみたいと思うようになる。その翌年、第二中学校は第一中学校に合併され、大江は第一中学校に赴任した。
辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月1… 辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月19日 - 1988年(昭和63年)2月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。公職追放中にもかかわらず、吉田茂とGHQの橋渡しを務めた。そのとき、吉田にウィロビーを引き合わせた。戦後の連合軍占領中にウィロビーの発案で河辺機関が組織された。 佐賀県出身。商業・辰巳兵三郎の二男として生まれる。佐賀中学校を経て1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。独立守備隊第4大隊付、陸軍歩兵学校付などを経て1925年11月、陸軍大学校(37期)を優等で卒業し歩兵第21連隊中隊長に就任した。
長 勇(ちょう いさむ、1895年1月19日 - 1945年… 長 勇(ちょう いさむ、1895年1月19日 - 1945年6月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
坂口 二郎(さかぐち じろう、1895年(明治28年)1月1… 坂口 二郎(さかぐち じろう、1895年(明治28年)1月19日 - 1975年(昭和50年)6月16日)は、日本の実業家。ユニチカ初代社長。関西棋院理事長。 揖野要太郎の四男として、島根県安濃郡大田町(現:大田市)に生まれる。 1918年(大正7年)神戸高等商業学校(現:神戸大学)、1920年東京高等商業学校(現:一橋大学)専攻部をそれぞれ卒業する。同年坂口製糸合資会社を前身とする日本製糸に入社する。翌年、坂口財閥の初代・坂口平兵衛に懇望されて長女の婿養子となり、1922年に常務に抜擢され、1926年には副社長に昇格した。社長は初代・平兵衛で二郎は事実上のトップだった。 1942年(昭和17年)、戦時下の企業統合で日本製糸は大日本紡績(現:ユニチカ)の子会社・日本レイヨンに吸収合併されると、常務に転じ、戦後の1946年、社長に昇格した。
山岡 慎一(やまおか しんいち、1894年(明治27年)1月… 山岡 慎一(やまおか しんいち、1894年(明治27年)1月19日 - 没年不明。旧字体:山岡愼一)は、日本の陸上競技選手(短距離走)、実業家。東京帝国大学在学中に1920年アントワープオリンピックに出場した。 山岡清直の長男として、京都府に生まれる。東京府立第一中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部に入学。 在学中に1920年アントワープオリンピックの男子100m・200m走に出場。男子100mは8組4着で記録なし、男子200mは1組4着の23秒9でいずれも予選落ちに終わった。 1922年(大正11年)同大を卒業し、1924年(大正13年)父の経営する高野捺染工業所に入り、翌年取締役に就任。
中山 マサ(なかやま まさ、1891年1月19日 - 197… 中山 マサ(なかやま まさ、1891年1月19日 - 1976年10月11日)は、日本の政治家。位階は従三位。 日本初の女性閣僚(厚生大臣)。衆議院議員などを歴任。中山太郎(元衆議院議員)は長男、中山正暉(元衆議院議員)は四男。中山讓治(実業家)と中山泰秀(衆議院議員)は孫。 長崎県長崎市にアメリカ人の父ロドニー・H・パワーズ(Rodney H. Powers)と日本人の母、飯田ナカの一人娘として生まれた。 地元の活水高等女学校を卒業して、1911年にアメリカに渡り、アルバイトをしながら米国オハイオ州のオハイオ・ウェスリアン大学を卒業。帰国後は活水女子英語専門学校、長崎市立高等女学校の教師を務める。
大場 白水郎(おおば はくすいろう、1890年1月19日 -… 大場 白水郎(おおば はくすいろう、1890年1月19日 - 1962年10月10日)は、東京出身の俳人。本名は惣太郎。別号は縷紅亭。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校・附属中学校)を経て慶應義塾大学卒業。宮田製作所(現在の宮田工業)の重役を務めた。16歳で久保田万太郎を知り、慶大俳句、三田句会にて岡本癖三酔、籾山梓月と知り合う。渡辺水巴とは生涯の交友があった。「いとう句会」などで活躍した。
田中 純(たなか じゅん、1890年1月19日 - 1966… 田中 純(たなか じゅん、1890年1月19日 - 1966年4月20日)は、日本の作家、文芸評論家、翻訳家。 広島県広島市に生まれる。関西学院神学部を出て伝道師となるが、早稲田大学英文科に入学。同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、西条八十、細田民樹、細田源吉、木村毅らがいた。1915年に大学を卒業。春陽堂に入り、『新小説』の編集に携わる。ピョートル・クロポトキン、トゥルゲーネフなどの翻訳などをしつつ、久米正雄、里見弴らと知り合い、文芸評論、小説、戯曲などを書くようになり、1920年に発表した「妻」で認められた。1919年、吉井勇とともに外務省の小村欣一の肝煎りで国民文芸会を結成し、演劇復興運動を起こす。
長井 亜歴山(ながい あれきさん、1887年〈明治20年〉1… 長井 亜歴山(ながい あれきさん、1887年〈明治20年〉1月19日 - 1966年〈昭和41年〉6月12日)は、日本の外交官、弁護士、弁理士。東京帝国大学法学部卒業。 父はエフェドリンの発見者で日本薬学の父として知られる長井長義。祖父は徳島藩医の長井琳章。 1887年(明治20年)、近代薬学の開祖である長井長義とドイツ人女性のテレーゼ・シューマッハの長男として生まれる。第一高等学校仏法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、逓信省勤務、久原本店勤務を経て、外交官となり、6ヶ国語に精通した。また勝海舟の孫で、目賀田種太郎の次女・多計代(たけよ)と結婚した。 駐ドイツ日本国大使館付商務官となり、第二次世界大戦のベルリン陥落後はアメリカ軍によりワシントンD.C.に連行された。
山崎 楽堂(やまざき がくどう、1885年(明治18年)1月… 山崎 楽堂(やまざき がくどう、1885年(明治18年)1月19日 - 1944年(昭和19年)10月29日)は日本の建築家、能楽研究者、能楽評論家。法政大学教授。本名は静太郎(せいたろう)。息子は、能楽評論家で前横浜能楽堂館長の山崎有一郎。 1885年(明治18年)1月19日、和歌山県に生まれる。山崎家は旧紀州藩士の家で、父・九一郎は大蔵流の名家松井氏に狂言を学び、楽堂も幼時から能・狂言に親しんだ。1909年(明治42年)に東京帝国大学建築学科を卒業。同期に後藤慶二、長谷部鋭吉などがいる。千葉高等園芸学校講師、法政大学教授などを務め、梅若能舞台、細川家能舞台、染井能楽堂、久良岐能舞台の設計に携わる。
大塚 淳(おおつか すなお、1885年(明治19年)1月19… 大塚 淳(おおつか すなお、1885年(明治19年)1月19日 - 1945年)は日本の指揮者。 代々医師の家系の一人息子として生まれる。父は医師大塚長寿郎正心。 東京音楽学校(後の芸大)入学バイオリン専攻。卒業後、同校教授となる。明治39年東京音楽学校の生徒時、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラの初代指揮者となり、以後、渡満するまで指揮者を務めた(石坂洋次郎「日本はカルーソーを失ったという話」内に慶應ワグネル・ソサエティ入部の下りがある)。 1938年(昭和13年)、満州国新京市からの招聘により満州国国立音楽学校創設のため渡満する。渡満前に慶應ワグネル・ソサエティ第60回定期公演「ベートーヴェンの夕」に指揮棒を揮う。
哥川 スエ(うたがわ スエ、1884年〈明治17年〉1月19… 哥川 スエ(うたがわ スエ、1884年〈明治17年〉1月19日 - 1997年〈平成9年〉5月4日)は、長寿日本一だった山口県の女性。 山口県吉敷郡大道村(現・防府市大道)に生まれ、1910年に結婚。農業をしながら1男3女を育て、1995年7月12日に長寿日本一となる。 1984年、宇部温泉病院に入院。食事や風呂など身の回りのことは自分でやり、時には民謡を歌ったり踊ったりするなど元気に過ごしていたが、1996年11月に急性心不全を起こし、4人部屋からベッドの2人部屋に移り、看護を受けていた。 1997年5月4日、老衰のため山口県宇部市の宇部温泉病院で死去。113歳105日没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
鈴木 善太郎(すずき ぜんたろう、1883年1月19日 - … 鈴木 善太郎(すずき ぜんたろう、1883年1月19日 - 1950年5月19日)は、日本の小説家、劇作家、翻訳家。雅号は秋風。 福島県郡山市大町生まれ。旧制安積中学校を中退、旧制海城学校に転校し卒業。早稲田大学文学部英文学科卒業。卒業後は、国民新聞、朝日新聞社の記者として活躍し、大正7年に短篇小説『幻想』を発表して作家としての地位を確立する。『文章倶楽部』にて、菊池寛や野村愛正と並んで三大新進作家に数えられた。新劇運動にも参加し、日本近代演劇界に多大な貢献をした。 大正10年欧米各国を歴訪、帰国後、松竹顧問、コロムビア文芸部顧問となる。フェレンツ・モルナールの紹介に貢献した。
國分 勘兵衛(こくぶ かんべえ、1883年1月19日 - 1… 國分 勘兵衛(こくぶ かんべえ、1883年1月19日 - 1975年2月23日)は、日本の実業家。養子として入った國分家の家業を株式會社國分商店(のちの国分グループ本社株式会社)とし、カルピス食品工業株式會社代表取締役社長なども務めた。旧名山本 秀次郎。 現在の三重県松阪市で生まれた。1905年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、國分商店に入った。國分家の養子となり、1924年には國分勘兵衛を襲名した。1938年大日本洋酒食料品商組合の初代会長に就任した。 日本の降伏後、1950年に合名会社国分商店と国分漬物株式会社を合併して国分株式会社(のちの国分グループ本社株式会社)を設立し、同社社長に就任。
小川 貞一(おがわ ていいち、1882年(明治15年)1月1… 小川 貞一(おがわ ていいち、1882年(明治15年)1月19日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は、大正から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧姓・山崎。 鳥取県八橋郡赤崎宿(赤崎村、東伯郡赤崎村、赤碕町を経て現琴浦町赤碕)で山崎元一の長男として生まれ、東伯郡倉吉町(現倉吉市河原町)の小川貞四郎の養子となる。1915年(大正4年)倉吉町会議員に就任したのを皮切りに、東伯郡会議員、鳥取県会議員などを歴任。女子教育の振興に貢献し、鳥取県立倉吉高等女学校(現鳥取県立倉吉西高等学校)、鳥取県女子師範学校、鳥取高等農業学校の設立に尽力した。 また、小川合名会社を設立して酒・醤油醸造業、製糸業を経営した。
白男川 譲介(しろおかわ / しろおがわ じょうすけ、188… 白男川 譲介(しろおかわ / しろおがわ じょうすけ、1880年(明治13年)1月19日 - 1951年(昭和26年))は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事、鹿児島市長。旧姓・池田。 鹿児島県鹿児島市出身。池田休兵衛の四男として生まれ、1885年、母方の白男川渉の養子となる。第三高等学校を卒業。1906年、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、大阪市に入る。1909年12月、文官高等試験に合格。内務省に転じ沖縄県属となる。 以後、福井県三方郡長、富山県警察部長、新潟県警察部長、北海道庁土木部長、奈良県内務部長、京都府内務部長などを歴任。 1921年5月、床次竹二郎内務大臣により起用され福井県知事に就任。
五明 砂(ごみょう すな/いさご、1878年(明治11年)1… 五明 砂(ごみょう すな/いさご、1878年(明治11年)1月19日 - 没年不詳)は、日本の外交官。バンクーバー領事、特許弁理士、弁護士。 長野県更級郡今里村出身。法政大学在学中の1907年(明治40年)に第14回文官高等試験行政科合格。同年更級郡会議員。翌年の1908年(明治41年)に法政大学卒業後、中央大学、東京帝国大学法科大学政治学科選科に進学。外務省入省。通商局を経て1916年(大正5年)ポートランド領事事務代理。1918年(大正7年)に副領事。 1923年(大正12年)にバンクーバー領事に就任。1924年(大正13年)、前年の関東大震災による影響で一時帰国、内務省経理部供給課に配属。
岩崎 豊弥(いわさき とよや、1875年1月19日 - 19… 岩崎 豊弥(いわさき とよや、1875年1月19日 - 1926年1月10日)は、明治・大正時代の日本の実業家。 郷純造の四男として東京府に生まれる。幼名(出生名)は郷 昌作(ごう しょうさく)。2歳で三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の養子となり、同時に岩崎豊弥と改名した。 東京府中学校(現・東京都立日比谷高等学校)卒業後1年志願兵として軍務に服した。兵役を終えた後は専ら英語を勉強した。1898年イギリスに渡りはじめロンドン大学に学んだ。翌1899年3月ケンブリッジ大学に入学しはじめ機械工学を学んだが、1901年同大学の法科に転じて法学・経済学・財政学を学んだ。1904年ケンブリッジ大学卒業後実務練習のためロンドンの会社に入社し諸般の事務を修習した。
穴水 要七(あなみず ようしち、1875年(明治8年)1月1… 穴水 要七(あなみず ようしち、1875年(明治8年)1月19日 - 1929年(昭和4年)1月3日)は、明治後期から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓は小野。 山梨県巨摩郡、のちの北巨摩郡旭村(現韮崎市)で、小野八左衛門の二男として生まれる。甲府市金手町の穴水嘉三郎の店に奉公し、1898年(明治31年)7月、嘉三郎の養子となる。米相場で失敗して破産した。 1901年(明治34年)横浜に移り米穀、肥料、食塩商を営む。1908年(明治41年)上京して富士製紙に入社し、実績を積み1918年(大正7年)専務取締役に就任した。製紙業に重要な電力に関心を向け、1921年(大正10年)北海道電燈(のち大日本電力)を設立して社長となる。
常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん、1874年1月19… 常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん、1874年1月19日 - 1922年6月19日)は、茨城県東茨城郡(のちの水戸市)出身の大相撲力士。第19代横綱。本名は市毛 谷右衛門(いちげ たにえもん)。 大相撲を「国技」に押し上げ、その品格力量から角聖と呼ばれた。出羽ノ海部屋師匠として3横綱4大関など多くの力士を育て、出羽海一門を角界の保守本流として確立したほか、ちゃんこ鍋や後援会などの風習を始めたとされる。 1874年(明治7年)、旧水戸藩士だった市毛高成の長男として水戸の宝鏡院の門前に生まれる。市毛高成は明治維新後に河川運送業と倉庫業を営んだが、荷主から預かった商品を騙し取られ、責任を一身に負って弁償してからは経営が悪化して両方とも倒産してしまった。
木田川 奎彦(きたがわ ふみひこ / けいひこ、1873年(… 木田川 奎彦(きたがわ ふみひこ / けいひこ、1873年(明治6年)1月19日 - 1951年(昭和26年)3月30日)は、日本の会計検査院・内務官僚。官選奈良県知事、小樽市長。旧姓:桑名。 福井県坂井郡で桑名金五郎の三男として生まれ、木田川梅吉の養子となる。福井中学校を卒業。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、農商務省に入省し農商務属となり鉱山局に配属された。 1901年1月、会計検査院に転じ検査官補に発令され第一部第二課勤務となる。以後、同院書記官兼検査官補などを務めた。1909年8月、内務省に転じ内務大臣秘書官兼内務省参事官に就任。以後、内務事務官、神奈川県港務部長、同内務部長などを歴任。
上野 英三郎(うえの えいざぶろう、うえの ひでさぶろう、1… 上野 英三郎(うえの えいざぶろう、うえの ひでさぶろう、1872年1月19日〈明治4年12月10日〉 - 1925年〈大正14年〉5月21日)は、日本の農学者。農学博士。東京帝国大学教授。日本の農業土木、農業工学の創始者である。また東京都渋谷駅前に銅像が建つ忠犬ハチ公の飼い主としても知られる。 三重県一志郡本村(後の久居市、現在の津市久居元町)出身。上野六兵衛の三男。1887年(明治20年)に東京農林学校に入り、1890年(明治23年)に農科大学予科に編入され、1892年(明治25年)に同大学農学科に転じ、1895年(明治28年)7月、東京帝国大学農科大学を卒業する。農学士の称号を受け直に大学院に入り農業土木及び農具に関する事項を研究する。