浪花 博(なにわ ひろし、1922年2月19日 - 1987… 浪花 博(なにわ ひろし、1922年2月19日 - 1987年5月3日)は、日本の心理学者。 大阪府生まれ。立命館大学卒、佛教大学助教授、同心理学研究所教授。65歳で在職中に死去した。
2月19日生まれ:318人
浪花 博(なにわ ひろし、1922年2月19日 - 1987… 浪花 博(なにわ ひろし、1922年2月19日 - 1987年5月3日)は、日本の心理学者。 大阪府生まれ。立命館大学卒、佛教大学助教授、同心理学研究所教授。65歳で在職中に死去した。
大石 巌(おおいし いわお、1921年〈大正10年〉2月19… 大石 巌(おおいし いわお、1921年〈大正10年〉2月19日 - 2002年〈平成14年〉3月3日)は、日本の実業家、経営者、ジャーナリスト、証券アナリスト。新日本証券会長。毎日新聞社社友。静岡県出身。 静岡県立静岡中学校から、静岡高等学校 (旧制)に進み、1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部卒業。同年、東京日日新聞社入社、経済部記者。日銀記者クラブのキャップなどを務めた。のちに、毎日オリオンズ出向、営業部長。1961年(昭和36年)、毎日新聞を離籍し大商証券に転じ、福岡支店長を経て、1964年(昭和39年)、取締役。1967年(昭和42年)、合併により新日本証券取締役。1975年(昭和50年)、同副社長。
目崎 徳衛(めざき とくえ、1921年2月19日 - 200… 目崎 徳衛(めざき とくえ、1921年2月19日 - 2000年6月13日)は、国文学者、王朝文化研究者、専攻は日本文化史、平安文学研究。 新潟県生まれ。1945年東京帝国大学文学部国史学科卒業、長岡工業高等専門学校助教授、文部省教科書調査官、聖心女子大学教授、のち同名誉教授。1980年に『西行の思想史的研究』で東京大学文学博士、第一回角川源義賞。1996年に『南城三余集私抄』で第三回(95年度)やまなし文学賞<研究評論部門>を受賞。また俳句同人誌「花守」を半世紀近く主宰し、若井新一などを輩出した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
西尾 邑次(にしお ゆうじ、1921年2月19日 - 201… 西尾 邑次(にしお ゆうじ、1921年2月19日 - 2013年7月23日)は、日本の政治家。鳥取県知事。東京高等農林学校(現東京農工大学)卒業。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
岡本 辰巳(おかもと たつみ、1921年2月19日 - 20… 岡本 辰巳(おかもと たつみ、1921年2月19日 - 2008年2月29日)は、日本の政治家。愛知県議会議員(7回、1971年-1999年)、愛知県議会議長(1984年-1985年)、刈谷市議会議員(4回、1955年-1971年)、自由民主党愛知県連幹事長(1985年-1989年)などを歴任。 1921年(大正10年)2月19日に愛知県碧海郡富士松村(現・刈谷市泉田町)に生まれた。富士松村立尋常高等小学校を卒業すると、1951年(昭和26年)4月に30歳で富士松村会議員に初当選した。1955年(昭和30年)4月に富士松村が刈谷市に合併された際には刈谷市議会特別委員となり、1955年(昭和30年)7月に刈谷市議会議員に初当選した。
安永 蕗子(やすなが ふきこ、1920年(大正9年)2月19… 安永 蕗子(やすなが ふきこ、1920年(大正9年)2月19日 - 2012年(平成24年)3月17日)は、歌人、書家。 1998年から2007年まで、宮中歌会始選者を務めた。書家としての号は春炎。毎日書道展名誉会員。熊本県熊本市御徒町(現・中央区安政町)出身。熊本県熊本市名誉市民。ノンフィクション作家の永畑道子は妹。 以下の経歴はおもに安永蕗子著『安永蕗子全歌集 資料編』(河出書房新社、2000年)、『みずあかりの記』(新評論、1979年)、『風のメモリイ』(熊本日日新聞社、1995年)、『自解百選 安永蕗子集』(牧羊社、1987年)、安永蕗子聞書,野口郁子 著『月花の旅』(西日本新聞社、1997年)、松平盟子著「天窓からすべてを望めよ:安永蕗子の短歌と人生(連載)」(短歌研究、短歌研究社、2014年-2015年)に基づく。
金瀬 俊雄(かねせ としお、1919年(大正8年)2月19日… 金瀬 俊雄(かねせ としお、1919年(大正8年)2月19日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(1期)。 千葉県君津郡佐貫町(現在の富津市)生まれ。千葉県立木更津中学(現在の千葉県立木更津高等学校)を経て、千葉師範学校卒業。君津郡内の小学校や青年学校の教員となる。戦後直ぐに千葉県教職員組合の結成に関わり、日本社会党に入党。1947年に千葉県議会議員(君津郡選出)に当選し、途中離党して民主社会党に参加するも直ぐに社会党へ復党し7期務める。長年、県議会議員として公共の福祉に奉仕して地方自治の発展に貢献したとして1968年、藍綬褒章受章。1972年の第33回衆議院議員総選挙で千葉3区から社会党公認で立候補し、初当選。
児玉 利一(こだま りいち、1919年2月19日 - 200… 児玉 利一(こだま りいち、1919年2月19日 - 2008年9月3日)は、大分県大分市出身のプロ野球選手(内野手)、野球解説者。
小林 国夫(こばやし くにお、1918年2月19日 - 19… 小林 国夫(こばやし くにお、1918年2月19日 - 1979年6月19日)は、日本の地質学者。 1918年、静岡県に生まれる。 1942年に東京帝国大学理学部地質学科卒業。後に信州大学講師、信州大学助教授を経て、1959年に信州大学教授に就任。 この年には研究グループとともに放射性炭素年代測定を用いて日本列島の成立時期(約2万年前)を提唱した。また、長野県内の地質を研究する中で日本アルプスの地質、自然に関する著作も多く執筆。1963年には氷河地形の研究で日本地質学会賞を受賞した。 1979年、心臓発作のため長野県松本市の自宅で死去。61歳。戒名は羣氷院釈浄國居士。墓所は東京都調布市の深大寺墓地。
貴島 清彦(きじま きよひこ、1917年〈大正6年〉2月19… 貴島 清彦(きじま きよひこ、1917年〈大正6年〉2月19日 - 1998年〈平成10年〉7月14日)は日本の作曲家。 東京小石川茗荷谷で生まれる。父親は薩摩琵琶、姉は生田流の箏をよくした家庭であった。東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)在学中、16歳の時に作曲したいという熱望から草川信に和声を学び始め、1934年、日本大学芸術科に入り、理論、作曲を小松耕輔、池内友次郎に、ピアノをジェームス・ダンに学び、1938年卒業。1938年11月、《交響曲の第1楽章》が第7回日本音楽コンクールに第2位入賞。翌年大学より芸術賞を受賞した。卒業後はしばらく療養生活を送り、創作を断ち、この間読書、音楽鑑賞などをしながら音楽観や作曲態度について思考する時間を持った。
峠 三吉(とうげ さんきち、1917年(大正6年)2月19日… 峠 三吉(とうげ さんきち、1917年(大正6年)2月19日 - 1953年(昭和28年)3月10日)は、日本の詩人。本名は、三吉(みつよし)。1951年(昭和26年)に自費出版した『原爆詩集』で知られる。 父・嘉一はタイル製造などを手がける実業家で、三吉は父の勤務地大阪府豊能郡(現・豊中市)に生まれ、生後まもなく家族とともに父の故郷広島市に転居した。幼い頃から気管支の病気に苦しめられしばしば喀血、広島商業学校(現在の広島県立広島商業高校)在学時から詩作にいそしんだが、卒業後は長期の療養生活を余儀なくされ、この病気は三吉を生涯苦しめることとなった。 さらに1945年(昭和20年)8月6日、爆心地より3kmの広島市翠町(現在の南区翠)で被爆。
岡野 喜一郎(おかの きいちろう、1917年2月19日 - … 岡野 喜一郎(おかの きいちろう、1917年2月19日 - 1995年8月13日)は、日本の経営者、銀行家。駿河銀行頭取、会長を務めた。静岡県沼津市出身。 1941年に慶應義塾大学法学部を卒業。三井銀行での勤務を経て、1949年に駿河銀行に転じ、1954年11月に取締役に就任し、1958年に常務、1963年に専務を経て、1964年8月には頭取に就任した。1981年3月に会長に就任。 1995年8月13日心不全のために死去。78歳没。
海邉 忠治(かいべ ちゅうじ、1917年〈大正6年〉2月19… 海邉 忠治(かいべ ちゅうじ、1917年〈大正6年〉2月19日 - 2010年)は、日本の教育者、哲学者、宗教学者。甲子園短期大学元学長。相愛大学名誉教授。兵庫県出身。大阪府池田市に在住していた。 海邉藤八・てい夫妻の長男に生まれる。1941年(昭和16年)龍谷大学文学部を卒業。1947年(昭和22年)京都帝国大学文学部哲学科を卒業し、龍谷大学講師を務める。 1948年(昭和23年)相愛女子専門学校教授となり、1950年(昭和25年)相愛女子短期大学助教授(哲学担当)・同教務部長に就任。1958年(昭和33年)相愛女子大学教授(哲学担当)・同教務部長に就任。1984年(昭和59年)同大学人文学部長に就任。
朴 永鍾(パク・ヨンジョン、朝鮮語: 박영종、1917年2月… 朴 永鍾(パク・ヨンジョン、朝鮮語: 박영종、1917年2月19日 - 1959年4月28日)は、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第3代韓国国会議員。 本貫は咸陽朴氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 日本統治時代の全羅南道光州郡出身。早稲田大学政治学部政治科卒。民族陣営の運動を行った後、光州青年団を組織した。解放後は独立促成中央協議会全南支部組織者、外務部書記官、ソウル新聞記者、湖南新聞編集局長、大韓青年団全羅南道団副団長を歴任した。1954年の第3代総選挙では自由党の候補として潭陽郡選挙区から当選し、国会内務委員・予決委員を務めたが、与党内のよくない所を糾弾したため、自由党から除名され民主党に入党した。
風間 栄一(かざま えいいち、1916年2月19日 - 20… 風間 栄一(かざま えいいち、1916年2月19日 - 2001年5月8日)は、新潟県出身のアマチュアレスリング選手。日本レスリング界の第一人者として知られる。 1933年、新潟商業学校(現在の新潟県立新潟商業高等学校)から早稲田大学に進み、第1回全日本選手権でライト級を制覇した。 1936年ベルリンオリンピックにも出場してフリースタイル・ライト級で5位入賞を果たす。1938年には全日本学生選抜チームを率いてアメリカに遠征し、12戦全勝の記録を残した。 日本国内でも、2階級(66キロ級、72キロ級)に渡り全日本選手権で10度の優勝を達成し、1950年までの間不敗を維持するなど、日本のアマチュアレスリング創成期をけん引した選手であった。
金 翼基(キム・イッキ、朝鮮語: 김익기、1916年2月19… 金 翼基(キム・イッキ、朝鮮語: 김익기、1916年2月19日 - 1992年10月1日)は、大韓民国の実業家、政治家。安東邑長、制憲・第2・3・4・6代韓国国会議員。 本貫は新安東金氏。号は一江(イルガン、일강)。元錦湖アシアナグループ会長の朴定求(朝鮮語版)と元ヘテグループ会長の朴健培は娘婿。 日本統治時代の慶尚北道安東郡出身。日本大学専門部法学科卒。安東酒造株式会社専務取締役、安東金融組合長、独促国民会安東支部副委員長、安東邑長、制憲国会憲法および政府組織法起草委員、第2・3・4代国会社会保健分科委員会委員長、国会憲法委員会委員、酒類業組合中央会長、自由党安東乙区党委員長・院内政策委員長、民政党中央委員会副議長・党務委員、民衆党中央常務委員、イランテヘランIPU総会韓国代表、雲岩鉱山社長、憲政同友会副会長を務めた。
石塚 庸三(いしづか ようぞう、1915年2月19日 - 1… 石塚 庸三(いしづか ようぞう、1915年2月19日 - 1982年4月24日)は、山形県米沢市出身の実業家。東京帝国大学法学部政治学科卒。パイオニア2代目社長としてレーザーディスク事業を推進した。父は山形県立米沢興譲館高等学校教頭の石塚澄[要出典]。 1937年に東芝入社。東芝から1955年に日本電子機械工業会へ業務部長として出向。輸出問題で手腕を発揮。その後、ミツミ電機を経てスカウトされパイオニアに入社。常務、専務などを経て昭和46年社長に就任。パイオニアでは技術開発力の向上や無借金経営など財務体質の強化を図る傍ら、人材拡充にも注力。当時一介の中小企業であったパイオニアをオーディオのトップメーカーとして一流企業にまで発展させた。
宮村 定男(みやむら さだお、1915年〈大正4年〉2月19… 宮村 定男(みやむら さだお、1915年〈大正4年〉2月19日 - 2011年〈平成23年〉11月25日)は、日本の細菌学者、医師。医学博士。新潟大学名誉教授。趣味はバイオリンと水泳。 新潟県北蒲原郡川東村大字下羽津(現 新発田市下羽津)出身。1931年(昭和6年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1934年(昭和9年)3月に新潟高等学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に新潟医科大学を卒業。 1938年(昭和13年)3月に新潟医科大学細菌学教室(担任:宮路重嗣教授)副手に就任、12月に助手に就任、1943年(昭和18年)1月に医学博士の学位を取得、10月に新潟医科大学細菌学教室(担任:伊藤泰一教授)講師に就任。
大刀 豊(だいとう ゆたか、1914年2月19日 - 199… 大刀 豊(だいとう ゆたか、1914年2月19日 - 1998年1月10日)は、日本の地方公務員。札幌市交通局長、札幌副都心開発公社社長などを歴任した。 北海道札幌市または石狩郡当別町出身。実家は旅館「大刀館」を営んでいた。札幌第二中学校(現・北海道札幌西高等学校)を経て、1932年に北海道帝国大学予科農類へ入り、1938年に北海道帝国大学農学部卒業、卒業論文は「インドネシアの植民政策」。 大学卒業後は満洲興業銀行に入社、日中戦争の勃発に伴い、入社から8ヶ月後の同年12月に月寒連隊に現役招集され1943年5月まで兵役につき、復職後1945年3月に満州で再招集され、北支戦線で3年間に84回の戦闘を経験し「人斬り大刀中隊長」の異名で報じられ、大尉に進むものの、その後1945年8月にソ連軍に捉えられ、戦後3年間のシベリア抑留の後、1948年に引き揚げし当別町で郵便局長を務めていた弟の家に居候しながら職を求めた。
内海 五十雄(うつみ いそお、1914年2月19日 - 19… 内海 五十雄(うつみ いそお、1914年2月19日 - 1992年)は、京都府出身のプロ野球選手(内野手)。
福島 鉄次(ふくしま てつじ、1914年2月19日 - 19… 福島 鉄次(ふくしま てつじ、1914年2月19日 - 1992年)は、絵物語作家。本名:加藤 興(かとう たかし)。別名は上山 路夫である。 福島県白河市出身。19歳のころより、洋画家の岡吉枝に師事する。 戦前は小学館の学年別学習雑誌や朝日新聞社の『アサヒグラフ』などに挿絵を描いた。 戦後、一時日本鋼管に勤務したが、1948年に秋田書店より単行本『コングの猛襲』、『コンドル魔島』を出版する。1949年、秋田書店から創刊された『冒険王』に「ポップ少年の冒険 ダイヤ魔神」を描き、2号から『沙漠の魔王』(のちに『砂漠の魔王』に改題)を連載する。巨大な魔王は少年たちの間で話題を呼び、絶大な人気を得た。
福田 保朝(ふくだ やすとも、1913年2月19日 - 19… 福田 保朝(ふくだ やすとも、1913年2月19日 - 1994年9月7日)は朝日放送元社長。 香川県高松市出身。1936年に関西大学専門部卒業後、朝日新聞社へ入社。社会部次長、整理部次長をつとめた後、1951年に朝日放送設立に参加。放送部報道課長、編成局次長、総務局長、営業局長、1962年取締役、1968年常務、1971年専務、1974年9月副社長、1983年6月社長就任。1990年6月相談役就任。1994年9月、呼吸不全のため81歳で死去。 毎年、兵庫県西宮市の自宅の庭で500株以上のチューリップを植えて育てた。 1988年、勲二等瑞宝章受章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
小笠原 忠春(おがさわら ただはる、大正2年(1913年)2… 小笠原 忠春(おがさわら ただはる、大正2年(1913年)2月19日 - 昭和51年(1976年)5月27日)は、小笠原伯爵家第31代当主。第30代当主小笠原長幹長男。 弟に小笠原忠幸(小笠原長丕養子)、小笠原忠統、妹に鞠子(伊達興宗夫人)他。子に忠利、忠明。 法政大学に学ぶ。1935年(昭和10年)3月、父長幹の死去により、家督を相続する。1944年(昭和19年)、新劇女優と結婚したことで長幹の三男である忠統に家督を譲り隠居、分家させられた。次弟の忠幸はすでに旧安志藩の小笠原子爵家を継いでいたため、忠統が忠春の後継となったものである。 長清 - 長経 - 長忠 - 長政 - 長氏 - 宗長 貞宗 - 政長 - 長基 - 長将 - 長秀 - 持長 - 清宗 - 長朝 - 貞朝 - 長棟 - 長時 - 貞慶 秀政 - 忠脩 - 忠真 - 忠雄 - 忠基 - 忠総 - 忠苗 - 忠固 - 忠徴 - 忠嘉 - 忠幹 - 忠忱 長幹 - 忠春 - 忠統 - 長雅 光康 - 家長 - 定基 - 貞忠 - 信貴 - 信嶺 - 信之 - 政信 - 貞信 - 信辰 - 信成 - 信胤 - 信房 - 長教 - 長貴 - 長守 - 長育 - 勁一 - 牧四郎 - 長定
谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年〈明治45年〉2月… 谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年〈明治45年〉2月19日 - 2007年〈平成19年〉10月29日)は、日本の映画監督。妻は女優の八千草薫。東京府南葛飾郡寺島村(現在の東京都墨田区)出身。 東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)卒業。早稲田大学文学部英文科在学中は、千田是也、東野英治郎と演劇活動を行い[要出典]左翼系新劇の演出家を目指すも弾圧を受けて[要出典]1930年に中退。1933年に助監督としてP.C.L.(東宝の前身)に入社する。山本嘉次郎、島津保次郎らの助監督を務める。同期には、亀井文夫、本多猪四郎がいた。ともに山本の助監督についていた黒澤明、本多は親友である。 1947年、山岳アクション映画『銀嶺の果て』で監督デビュー。
白木 茂(しらき しげる、1910年2月19日 - 1977… 白木 茂(しらき しげる、1910年2月19日 - 1977年8月5日)は、日本の児童文学者・翻訳家。 青森県三戸郡向村(現在の南部町)生まれ。日本大学英文科卒業。戦前は大久保康雄の翻訳工房に参加。田中西二郎、中村能三らと下訳を担当し翻訳工場と呼ばれた。 英米児童文学の紹介で数多くの翻訳、編著を刊行、日本児童文芸家協会常任理事、少年文芸作家クラブ初代会長として大衆的児童文学の育成に努めた。国際アンデルセン賞国内選考委員などを歴任。 『児童文学辞典』(共編、東京堂出版、1970)がある。欧米の少年向けSF「少年少女世界科学冒険全集」(講談社、1956)の企画者で、自らもイーラム『少年火星探検隊』を訳した。
向江 璋悦(むかえ てるよし、1910年2月19日 - 19… 向江 璋悦(むかえ てるよし、1910年2月19日 - 1980年3月25日)は、元検察官、弁護士、刑事法学者である。自他共に認める司法試験の神様としてまた死刑廃止論者として著名。 1910年石川県羽咋市に生まれる。粟ノ保村立尋常小学校卒業後、大阪の薬局でぼんさん生活(いわゆる丁稚生活)を送る。薬局を辞め、パイプ工場に勤務しながら私立成器商業学校夜間部で学ぶ。その後、上宮中学校(旧制)に転学し4年で修了する。上京し専修大学予科に入学するも中央大学に転学。1934年有志で中央大学真法会を創設。1935年の高等文官試験司法科試験を2番で合格する。1936年3月・中央大学法学部卒業。司法官試補を経て検察官となり、思想検事系列に名を連ねる。
川崎 俊雄(かわさき としお、1908年2月19日 - 19… 川崎 俊雄(かわさき としお、1908年2月19日 - 1993年3月11日)はダイワボウ代表取締役相談役。香川県出身。 1934年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。1974年6月21日にダイワボウ代表取締役社長に就任。1979年から1年間、日本紡績協会の会長を務めた。 1993年3月11日に心不全の為、死亡。
武田 文吾(たけだ ぶんご、1907年2月19日(1907年… 武田 文吾(たけだ ぶんご、1907年2月19日(1907年12月28日説もあり) - 1986年12月3日)は、元騎手(京都競馬倶楽部、阪神競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(阪神競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会〈JRA〉)。北海道石狩国札幌郡江別村(現・江別市)出身。1978年11月3日、勲五等双光旭日章を授章。1986年、正六位叙位。息子の武田博は日本中央競馬会の元騎手・元調教師。名馬シンザンの鞍上としてクラシック三冠を制した元騎手・元調教師の栗田勝は娘婿。 尾形藤吉とともに「東の尾形、西の武田」と並び称された名調教師。タケブン、ブンテキなどの愛称で親しまれた。五冠馬シンザン・二冠馬コダマ・牝馬二冠馬ミスオンワードなどの名競走馬、また栗田勝・福永洋一などの名騎手を育て、人馬両面において中央競馬、とくに関西地区の競馬の発展に大きな足跡を残した。
岩田 英一(いわた えいいち、1906年〈明治39年〉2月1… 岩田 英一(いわた えいいち、1906年〈明治39年〉2月19日 - 1999年〈平成11年〉8月23日)は、労働運動家、政治家。 東京市牛込区矢来町(現東京都新宿区神楽坂)生まれ。市谷尋常小学校を経て、1917年4月早稲田実業学校に入学し、おもに理工系の科目を履修した。 卒業後、1924年7月に牛込区でラジオ商を開業し、のちソウル市の京城ラジオ商会や東京市大森区の日本真空管製作所に勤務した。 1926年12月、労働農民党に入党。1929年、日本共産青年同盟(共青)に加盟。同年5月の京浜合同労働組合結成の中心となり、前後して日本労働組合全国協議会(全協)のオルグとなった。同年11月、大山郁夫らの新労農党の結成に参加し、世田谷支部の実質的な責任者となった。
米倉 壽仁(よねくら ひさひと、1905年(明治38年)2月… 米倉 壽仁(よねくら ひさひと、1905年(明治38年)2月19日 - 1994年(平成6年)3月18日)は、日本のシュルレアリスムの洋画家、詩人。 山梨県甲府市にて甲陽館米倉旅館を営む両親のもとに、次男として生まれる。 1922年、山梨県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を卒業。1923年、名古屋高等商業学校(現名古屋大学)経済学部に入学し、後に日本にシュルレアリスムの紹介をおこなう詩人、山中散生と親交を結ぶ。1926年、名古屋高等商業学校を卒業する。 1928年、伯母が経営する伊藤学園甲府女子商業学校および甲府湯田高等女学校(現甲斐清和高等学校)の教諭となる。1930年、甲府市において辻葦夫、中村宗久、小柳津経広、田中常太郎、小宮山堅次とともに六人社を結成し、第1回展を開く。
大月 源二(おおつき げんじ、1904年2月19日 – 19… 大月 源二(おおつき げんじ、1904年2月19日 – 1971年3月18日)は、日本の画家。主にプロレタリア美術の画家として知られる。 東京美術学校を卒業した後、プロレタリア美術運動に参加。プロレタリア文学の代表的作家、小林多喜二は盟友であり、『一九二八年三月十五日』や『蟹工船』等の代表作の装幀を手がけている。後年は故郷北海道の自然を題材にした作品も多い。 1904年(明治37年)函館で生まれ、その後小樽へ移住。小樽区立稲穂小学校に入学する。小学校六年間の成績が、すべて「甲」である優秀な生徒だった。1916年(大正5年)庁立小樽中学校に入学すると、中学三年の頃から小樽洋画研究所に通い、本格的なデッサンや油絵等を学んだ。
筒井 嘉隆(つつい よしたか、1903年2月19日 - 19… 筒井 嘉隆(つつい よしたか、1903年2月19日 - 1989年4月17日)は、日本の動物学者で自然保護活動家。血液型はA型。 藍問屋の三男として大阪府大阪市西区北堀江に生まれ育つ。旧制桃山学院中学校から旧制第三高等学校理科甲類を経て、1924年、京都帝国大学理学部動物学科に入学。京都帝国大学大学院修了まで川村多実二教授に師事する。 1932年から大阪市の吏員として大阪市天王寺動物園に勤務する。「(動物園は)興行師的立場を捨て去り、一般大衆に迎合することなく動物学的な高所に立って、市民を導いてゆかなければならない」という1936年の発言に、学者としての筒井の姿勢がよくあらわれている。1945年から1946年まで天王寺動物園園長。
錦小路 頼孝(にしきこうじ / にしきのこうじ よりたか、1… 錦小路 頼孝(にしきこうじ / にしきのこうじ よりたか、1903年〈明治36年〉2月19日 - 1950年〈昭和25年〉6月13日)は、昭和期の教員、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・在孝。 子爵・唐橋在正の五男として生まれる。叔父、子爵・錦小路在明の死去に伴い、その家督を継承して頼孝と改名し、1912年(明治45年)6月10日に子爵を襲爵した。 1927年(昭和2年)東京帝国大学文学部を卒業した。1928年(昭和3年)東京府立園芸学校教諭に就任。その他、逓信省委員、運輸通信省委員、歌会始講頌などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
若瀬川 栄蔵(わかせがわ えいぞう、1903年2月19日 -… 若瀬川 栄蔵(わかせがわ えいぞう、1903年2月19日 - 1990年3月20日)は、秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は楯山部屋)に所属した大相撲力士。本名は佐藤 永藏(さとう えいぞう)→ 中川 永藏(なかがわ えいぞう)。身長167cm、体重90kg。最高位は東前頭筆頭。得意手は左四つ、突き、押し。引退後は一時期、年寄として後進の指導に尽力した。 同郷の縁で清瀬川敬之助のもとに入門、1921年5月場所に初土俵を踏む。丁度この場所より、清瀬川が所属していた熊ヶ谷部屋を出て、楯山部屋預かりの状態になっていたため、書類上は楯山部屋所属となっていた。 1925年1月には三段目で全勝するなど、下位でも力を発揮し、幕下では少しもたつくも1929年1月に十両昇進、1930年の1月場所に新入幕を果たした。
西山 市三(にしやま いちぞう、1902年〈明治35年〉2月… 西山 市三(にしやま いちぞう、1902年〈明治35年〉2月19日 - 1999年〈平成11年〉7月16日)は、日本の遺伝学者。京都大学名誉教授・農学博士。専門は細胞遺伝学。位階は正四位。 群馬県利根郡沼田町(現在の沼田市)町田町に生まれる。旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)を経て、京都帝国大学農学部農林生物学科に入学、木原均に就いて学び、1927年に卒業。 卒業後は同大学でカラスムギの細胞遺伝の研究に取り組む。1937年に助教授、1946年には教授となり、同大食糧科学研究所に勤務。1956年、京都大学農学部に配置替えとなる。1965年定年により退官、同大学名誉教授となる。 退官後も1965年から67年まで米国ウィスコンシン大学客員教授、1967年から68年までミズーリ大学客員教授、帰国後の1971年から84年まで財団法人木原研究所評議員、1972年から74年まで名城大学教授を務めた。
鶴田 知也(つるた ともや、1902年2月19日 - 198… 鶴田 知也(つるた ともや、1902年2月19日 - 1988年4月1日)は日本の小説家、農業指導者。小説『コシヤマイン記』で第3回芥川龍之介賞を受賞。 1902年(明治35年)2月19日、福岡県小倉市大阪町(現:北九州市小倉北区)でに高橋乕太郎、アサの三男として生まれる。実父乕太郎は植村正久門下のクリスチャンであり、リベラルな知識人として知られていた。兄弟に音楽家高橋信夫、画家の福田新生がいる。1909年(明治42年)、7歳の時に母アサの兄にあたる鶴田和彦、ミヨ夫妻の養子となり鶴田姓となる。鉄道技師であった養父和彦の転勤に伴い、小倉市、直方市、田川市、大分市の小学校を転々とし、最後に豊津尋常高等小学校で卒業した。
土井 虎賀壽(どい とらかず、1902年2月19日 - 19… 土井 虎賀壽(どい とらかず、1902年2月19日 - 1971年3月10日)は、哲学者・文学者。香川県出身。 香川県木田郡の医師の家に生まれる。旧姓久保。第三高等学校理科乙類(ドイツ語クラス)から京都帝国大学理学部(物理)へ進むが、哲学科へ再入学、1926年卒業。学生時代は大山定一と下宿が同じで、親友であった。卒業後いったん実家に帰り女学校に勤め結婚する。しかし、二年で妻に先立たれ京都へ戻って大学院に進む。1929年、三高講師となる。1941年、三高教授、京都帝国大学講師となる。1948年、三高、京大を辞職、東京大学仏文科大学院に入学して二年間学ぶ。1953年、相模女子大学教授、学習院大学講師となる。
佐藤 初重(さとう はつえ、1902年2月19日 - 199… 佐藤 初重(さとう はつえ、1902年2月19日 - 1997年2月25日)は日本の幼児教育者。 1902年(明治35年)大分県直入郡(現・竹田市)の漢学者の家に一人娘として生まれる。17歳のときに医師を志して上京し、高等女学校を経て東京女子医学専門学校に入学するが、体をこわして中退する。青山女学院家政科に移り、そこで幼児教育を生涯の仕事と定め、夜間には東京府教育会附属幼稚園保姆傳習所に通って1923年(大正12年)に卒業する。千駄ヶ谷の幼稚園、ついで阿佐ヶ谷幼稚園に勤めたのち、1936年(昭和11年)に柿ノ木坂幼稚園を設立、1942年(昭和17年)には園長に就任した。幼稚園の運営のかたわら後進の育成にも力をそそぎ、1954年(昭和29年)には原宿高等保育学校(現・草苑保育専門学校)を設立して校長に就任、東洋英和女学院短期大学と青山学院大学の講師も長年にわたって務めた。
角 信雄(すみ のぶお、1901年2月19日 - 1989年… 角 信雄(すみ のぶお、1901年2月19日 - 1989年7月17日)は、日本のドイツ文学者。 京都府生まれ。松山高等学校卒、1926年東京帝国大学文学部独文科卒。横浜市立大学教授を務め、1964年定年退官、名誉教授。
愛野 時一郎(あいの ときいちろう、1900年2月19日 -… 愛野 時一郎(あいの ときいちろう、1900年2月19日 - 1952年12月31日)は、日本の実業家、政治家。祐徳自動車創立者、衆議院議員(4期)、佐賀県藤津郡鹿島村(現・鹿島市)長。 1900年(明治33年)祐徳軌道2代目社長愛野文次郎の息子として、佐賀県藤津郡鹿島村(現・鹿島市)に生まれる。1921年(大正10年) 中央大学経済学部卒業後、横浜興信銀行(現在の横浜銀行)に入行。 1931年(昭和6年)横浜興信銀行を退職。翌1932年(昭和7年)祐徳軌道の廃止・会社解散(1931年)に伴い、地元の要請により同社の乗合バス事業を承継するため、祐徳自動車を創立。 1935年(昭和10年)6月、鹿島村長に就任。
山沢 栄子(やまざわ えいこ、1899年2月19日 - 19… 山沢 栄子(やまざわ えいこ、1899年2月19日 - 1995年7月16日)は、大阪市出身の写真家。 女性写真家のパイオニアであり、関西を拠点にポートレートや広告写真の分野で活躍した。1960年以降は抽象的な形態のモティーフを組み合わせた「What I'm doing」のシリーズを制作した。「What I'm doing」のシリーズは大阪市中之島美術館に収蔵されている。 14歳から写真を始め、1918年女子美術学校(現・女子美術大学)日本画科選科卒業。1926年カリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アーツ(後のサンフランシスコ芸術大学(英語版))に留学し油絵を学ぶ。その間、写真家コンソエロ・カネガの助手として、本格的に写真を学ぶ。
菊井 維大(きくい つなひろ、旧姓田中、1899年(明治32… 菊井 維大(きくい つなひろ、旧姓田中、1899年(明治32年)2月19日 - 1991年(平成3年)11月15日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。東京大学名誉教授。日本学士院会員。長崎県長崎市出身。学習院大学教授の水野謙は長女の子(外孫)。加藤正治門下。弟子に三ケ月章、斎藤秀夫、大須賀虔、木澤克之など。 1923年(大正12年)東京帝国大学法学部卒業。 その後、東京帝国大学法学部助教授を経て、1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部教授。1947年(昭和22年)東京大学法学部教授。 1959年(昭和34年)4月、立教大学法学部法学科教授に就任。1967年(昭和42年)立教大学総長事務取扱。
藤田 雄蔵(ふじた ゆうぞう、1898年(明治31年)2月1… 藤田 雄蔵(ふじた ゆうぞう、1898年(明治31年)2月19日 - 1939年(昭和14年)2月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐。1938年の飛行によって、距離と1万キロ速度において、当時の世界新記録を達成した。 本籍青森県。日本郵船社員・藤田未類二の長男として横浜で生まれる。横浜一中卒を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第2連隊付となる。 1924年(大正13年)10月、砲兵中尉に昇進。1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵中尉に任官し所沢陸軍飛行学校付となる。1926年(大正15年)1月、第21期操縦学生となり操縦訓練を受ける。
河野 百錬(こうの ひゃくれん、1898年〈明治31年〉2月… 河野 百錬(こうの ひゃくれん、1898年〈明治31年〉2月19日 - 1974年〈昭和49年〉5月20日)は、日本の居合道家、剣道家、武道家。無双直伝英信流第20代宗家。段位称号は全日本居合道連盟範士、名人位。旧大日本武徳会剣道錬士。現大日本武徳会剣道九段。百錬は号で、本名は稔。 無双直伝英信流第18代宗家、穂岐山波雄ならびに第19代宗家、福井春政に師事し、その後第20代宗家を継いだ。居合に関する書籍を多数出版しており、中でも『大日本居合道図譜(1943年)』、『無雙直傳英信流居合兵法叢書(1955年)』、『居合道真諦(1962年)』などは名著であり、半世紀以上経った現在でもこれをバイブルとする居合道家は少なくない。
宮川 實(みやかわ みのる、1896年2月19日 - 198… 宮川 實(みやかわ みのる、1896年2月19日 - 1985年10月21日)は、日本のマルクス経済学者。「宮川 実」とも。 山口県出身、東京帝国大学卒業。河上肇に師事。和歌山高等商業学校教授を経て、1939年立教大学教授。1942年治安維持法違反により入獄。戦後立教大学に復職、労働者教育協会会長を務めた。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
金子 小一郎(かねこ こいちろう、1895年〈明治28年〉2… 金子 小一郎(かねこ こいちろう、1895年〈明治28年〉2月19日 - 1983年〈昭和58年〉10月17日)は、日本の政治家。神奈川県会議員。藤沢市長(通算6期)。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 神奈川県高座郡明治村大庭出身。金子角之助の長男。1916年、東京農業大学専門部卒業、農業を営んだ。父・角之助が亡くなると藤沢町農会長となり、1942年に市議会における旧村町間の対立を収める格好で藤沢市長となる。同時に大政翼賛会の推薦候補として神奈川県会議員に当選するが、戦後このことが問題となり1946年に藤沢市長を辞職。続いて公職追放処分となる。 追放解除後の1952年に藤沢市長選挙に出馬。市政運営につまづき赤字財政に転落させた現職の伊沢十郎に対し、財政再建を訴え市長に返り咲く。
永見 俊徳(ながみ としのり、1888年2月19日 - 19… 永見 俊徳(ながみ としのり、1888年2月19日 - 1971年3月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 永見松太郎陸軍大尉の長男として東京で生まれる。小田原中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第27連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を優等で卒業。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付仰付(南京駐在)を経て、1925年(大正14年)3月、歩兵少佐に昇進。1926年(大正15年)5月、参謀本部員となり、馮玉祥顧問、参謀本部付仰付(漢口駐在)を歴任し、1928年(昭和3年)8月、歩兵中佐に進級。
福井 資明(ふくい すけあき、1888年〈明治21年〉2月1… 福井 資明(ふくい すけあき、1888年〈明治21年〉2月19日 - 1972年〈昭和47年〉4月14日)は、日本の将棋棋士。青森県弘前市出身。関根金次郎十三世名人門下。 北海道将棋連盟を結成するなど、北海道での将棋の普及活動や後進育成に尽力し、福井と師弟関係にあった棋士はいないが、のちに福井の弟弟子となる五十嵐豊一や、同じく福井の兄弟弟子である渡辺東一門下となる勝浦修の発掘に貢献している。 昭和40年代の将棋名鑑では「地方棋士」として掲載されている。死没後の2006年に九段位を追贈された。 1888年(明治21年)、津軽藩御用菓子司の弘前市の老舗「大阪屋」に生まれる。 幼少の頃、青森の杉野六段に将棋道の手解きを受け、その後旭川市に移り家業を手伝いながら将棋に打ち込んだ。
岡田 徳輔(おかだ とくすけ、1886年(明治19年)2月1… 岡田 徳輔(おかだ とくすけ、1886年(明治19年)2月19日 - 1971年(昭和46年))は、日本の政治家、実業家。埼玉県蕨市長。 第5代埼玉県蕨町長、蕨町会議員、埼玉県町村議会議長会会長、全国町村議会議長会会長、自治大学校運営審議会委員、地方制度審議会委員、町村合併促進審議会委員、自治庁参与をつとめたのち第二代蕨市長に就任した。ほか実業界でも秩父セメント連合会関東支部長、セメント共版会社常務取締役社長、埼北自動車取締役社長など歴任した。
小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月… 小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月19日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。国務大臣。栄典は、正四位・勲一等(昭和20年8月19日時点)。本籍高知県。 いわゆる皇道派の中心人物とされる。同じ陸軍士官学校16期生である岡村寧次、永田鉄山と共に陸軍三羽烏の一人とされている。妻は第24代衆議院議長元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。 東京府麴町区上六番町で、男爵小畑美稲の四男として生まれる。兄は男爵小畑大太郎、小畑厳三郎(陸軍少将)。京都府立第一中学校、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校を卒業(16期優等)。