3代目 桂 春団治(かつら はるだんじ、1930年〈昭和5年… 3代目 桂 春団治(かつら はるだんじ、1930年〈昭和5年〉3月25日 - 2016年〈平成28年〉1月9日)は、上方落語の落語家。本名:河合 一。大阪府大阪市出身。所属事務所は松竹芸能。上方落語協会会員で死去時点で相談役、1977年から1984年までは第3代会長を務めた。出囃子は『野崎』。2代目桂春団治は実父であり師匠。 2代目桂春団治は実父、河本寿栄は義母。実母とは死別している。兄が早世したため、長男の扱いであった。 浪華商業学校(現在の大阪体育大学浪商高等学校)では野球部で夜まで練習する生活を送った。卒業後、兵庫県宝塚市の自動車部品販売会社でサラリーマンとなる。本人にも父にも落語家の道に進む考えはなかった。
久邇 邦昭(くに くにあき、1929年〈昭和4年〉3月25日… 久邇 邦昭(くに くにあき、1929年〈昭和4年〉3月25日 - )は、日本の旧皇族。久邇宮第4代当主。元実業家(川崎汽船役員)、元神職(伊勢神宮大宮司)。皇籍離脱前の名と身位は邦昭王(くにあきおう)。香淳皇后 (昭和天皇后) の甥であり、第125代天皇・明仁(上皇)の従兄にあたる。日本国憲法・現行皇室典範施行後も皇族であったが、GHQの指令により昭和22年 (1947年) 10月14日皇籍離脱した。北朝3代崇光天皇男系19世孫(伏見宮邦家親王男系4世孫)。 1929年(昭和4年)3月25日午後3時35分、東京帝国大学医学部付属病院にて、久邇宮朝融王と同妃知子女王の第1王子として誕生。御七夜の3月31日に「邦昭」と命名された。
鈴木 昭典(すずき あきのり、1929年3月25日 - 20… 鈴木 昭典(すずき あきのり、1929年3月25日 - 2019年1月31日)は、日本のドキュメンタリー作家。ジャーナリスト。元朝日放送報道局次長プロデューサー。 摂南工業専門学校(現 大阪工業大学)卒業。ラヂオプレス通信社を経て大阪テレビ放送(現 朝日放送テレビ)に入社、報道部に配属。報道局次長プロデューサーとして退社するまで、一貫してテレビ・ドキュメンタリー制作に携わる。「憲法シリーズ」の『日本国憲法を生んだ密室の九日間』で「放送文化基金賞・奨励賞」を受賞。その他「放送史シリーズ」の『検証 民放誕生』などの制作を続け、芸術祭賞、民間放送連盟賞、ギャラクシー賞、ABU賞、科学放送賞の多数を受賞。
斎藤 勇(さいとう いさむ、1929年3月25日 - )は、… 斎藤 勇(さいとう いさむ、1929年3月25日 - )は、英文学者。同志社大学名誉教授。滋賀県生まれ。 1950年同志社大学英文科卒、1952年助手、1955年専任講師、1964年助教授、1966年教授。1964年ウィリアム・ラングランドの『農夫ピアズの幻』の研究(「農夫ピヤス」における赦免状破棄の場の研究)により同志社大文学博士。1971年から1972年までケンブリッジ大学で中世英文学を学ぶ。日本中世英語英文学会会長を務めた。1999年定年退任、名誉教授。2010年秋瑞宝中綬章受章。 年長の英文学者、斎藤勇(たけし)と同名であるため、しばしば間違われたらしいが、今なお著作などで混同されることが少なくない。
奥山 澄雄(おくやま すみお、1929年〈昭和4年〉3月25… 奥山 澄雄(おくやま すみお、1929年〈昭和4年〉3月25日 - 2001年〈平成13年〉1月30日)は、日本の政治家。東京都墨田区長(3期)。 愛知県出身。日本大学経済学部卒。東京都墨田区役所に勤務する。企画経営室長、総務部財務課長、建設部計画課長などを経て、助役に就任する。 1987年〈昭和62年〉墨田区長選挙に立候補し、初当選。在任中はJR錦糸町駅北口の再開発、墨田区役所新庁舎、福祉保健センター、郷土文化資料館、すみだトリフォニーホールなどの建設に力を入れ、雨水利用促進制度を発足させるなど、独自の施策を打ち出した。1991年〈平成3年〉に再選。1995年〈平成7年〉には元民社党衆議院議員の伊藤昌弘らを破って三選を果たした。
藤井 繁(ふじい しげし、1929年3月25日 - )は、英… 藤井 繁(ふじい しげし、1929年3月25日 - )は、英文学者、聖徳大学名誉教授。 宮城県栗原郡築館町生まれ。日本大学文理学部英文科卒、同助教授、教授。93年「トマス・ハーディの叙事詩劇The Dynastsの研究」で日本大学文学博士。1990年聖徳大学教授・人文学部長、同名誉教授。筆名・白鳥繁。
関 敬六(せき けいろく、本名:関谷 敬二(せきや けいじ)… 関 敬六(せき けいろく、本名:関谷 敬二(せきや けいじ)、1928年3月25日 - 2006年8月23日)は、日本のコメディアン、俳優、声優。栃木県足利市出身。 1945年3月旧制栃木町立栃木商業学校(現・栃木県立栃木商業高等学校)を卒業して、陸軍特別幹部候補生として入隊するも、終戦で除隊。その後、法政大学政治経済学部に入学、1951年最後の旧制大学専門部を卒業した。 浅草の税務署に勤務していたが、出征中に演じた素人芝居が忘れられずに仕事をさぼって度々喜劇の舞台に出演するようになる。榎本健一のエノケン劇団を経て、浅草フランス座に所属した。当時は渥美清や谷幹一と出会い、三人で下積み時代を支えあった。
池原 義郎(いけはら よしろう、1928年3月25日 - 2… 池原 義郎(いけはら よしろう、1928年3月25日 - 2017年5月20日)は、日本の建築家、早稲田大学名誉教授、日本芸術院会員。 東京都渋谷区生まれ。明治学院中学校、早稲田大学高等学院を経て1951年早稲田大学理工学部建築学科卒業、1953年同大学院工学研究科建設工学専攻建築計画専修修了、山下寿郎設計事務所勤務、1956年早大理工学部建築学科今井兼次研究室助手、1964年には、多摩美術大学美術学部で講師を務め、1965年早大理工学部建築学科専任講師、1966年助教授、1971年教授、1974年日本建築学会賞、1988年池原義郎・建築設計事務所設立、日本芸術院賞、1989年日本芸術院会員。1995年早大名誉教授。
佐谷 和彦(さたに かずひこ、1928年3月25日 - 20… 佐谷 和彦(さたに かずひこ、1928年3月25日 - 2008年5月23日)は、日本の画商。京都府生まれ。1978年に佐谷画廊を設立。東京画廊・山本孝、南画廊・清水楠男を日本において近代・現代の美術を扱う画商の第一世代とすると、第二世代を代表する一人であった。 「企画展の内容こそが、画廊の仕事を表現するものだ」とする信念によって、国内外の20世紀美術の作家を取り扱い、数多くの展覧会を実施。展覧会に際して制作した自らのあとがきエッセイを付したカタログは100冊を超え、自著も少なくない。1988年刊の著書「画廊のしごと」は、画商自身が画廊経営について論じた本の嚆矢として、美術業界を目指す後進の参考にされることがしばしばあった。
小林 美夫(こばやし よしお、1928年 <昭和3年> 3月… 小林 美夫(こばやし よしお、1928年 <昭和3年> 3月25日 - 2017年 <平成29年> 10月5日)は、日本の建築家、教育者。勲等は瑞宝中綬章。位階は従五位。学位は工学博士。株式会社アトリエ・K主宰、日本大学名誉教授。 1950年、日本大学卒業後、日本放送協会建築部に採用された。1958年には母校である日本大学の講師に就任し、1973年より理工学部教授に就任した。日本大学では長く後進の育成にあたった。 また、自身の建築設計事務所としてアトリエ系建築設計事務所「アトリエ・K」を主宰した。 主要な作品としては、岩手県営体育館、秋田県立体育館、日本薬学会長井記念館、東京薬科大学八王子キャンパス、静岡県立大学などが挙げられる。
小出 昭一郎(こいで しょういちろう、1927年3月25日 … 小出 昭一郎(こいで しょういちろう、1927年3月25日 - 2008年8月30日)は、日本の物理学者、東京大学名誉教授。専攻は、分子物理学・固体物理学。 東京府出身。府立六中(現都立新宿高等学校)、旧制静岡高等学校を経て、東京大学理学部卒業。 1950年東京大学教養学部助手、講師、助教授、1958年理学博士。1966年教授、1984年教養学部長、1986年11月定年退官、名誉教授。1986-1992年山梨大学長。1993-1997年山梨県立女子短期大学学長。 1957〜1958年 仁科記念財団海外派遣研究者として英国ブリストル大学へ留学、金属錯塩の光スペクトルを研究。1962〜1964年にわたり、招聘教授としてスイスのジュネーブ大学において固体論の講義と研究を担当した。
松田 幸雄(まつだ ゆきお、1927年3月25日 - 201… 松田 幸雄(まつだ ゆきお、1927年3月25日 - 2013年4月29日)は、日本の詩人、翻訳家。 千葉県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。 三井物産に勤務。『荒地』『詩学』同人。1966年、『詩集 1947 - 1965』で第6回室生犀星詩人賞受賞。2002年、D・H・ロレンス『鳥と獣と花』の翻訳で日本詩人クラブ詩界賞受賞。また、「H氏賞」の選考委員なども務める。
大倉 敬一(おおくら けいいち、1927年3月25日 - 2… 大倉 敬一(おおくら けいいち、1927年3月25日 - 2016年8月15日)は、日本の実業家。位階は正五位。 月桂冠株式会社元代表取締役会長。13代目当主。 1927年(昭和2年)3月25日、月桂冠創業家の大倉家12代目・治一の長男として、京都府京都市伏見区(紀伊郡伏見町)で生まれる。 1952年(昭和27年)3月、同志社大学大学院経済学研究科修了後、同年4月に第一銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)入行。のち退行し、1956年(昭和31年)、大倉酒造(現・月桂冠)株式会社に入社。1978年(昭和53年)、同代表取締役社長に就任。その後、1997年(平成9年)に会長、2008年(平成20年)に相談役を歴任した。
肥後 亨(ひご とおる、1926年〈大正15年〉3月25日 … 肥後 亨(ひご とおる、1926年〈大正15年〉3月25日 - 1964年〈昭和39年〉3月8日)は、日本の政治活動家。広義の行動右翼に該当するが任侠系人士ではない。東京商科大学(現・一橋大学)中退。 1950年代から1960年代にかけて、各地の選挙に出馬して奇怪なパフォーマンスを繰り広げた右翼活動家である。個人的な信念によって選挙に出馬しているように見えたが、実際は政界の大物から資金の提供を受け、革新陣営に対する選挙妨害を目的とした政治ゴロであった。保守・革新の対立する時代(55年体制)において、「権力の選挙」「金力の選挙」の象徴的人物。 最終的に、1963年4月のニセ証紙事件に関連して発覚した「はがき横流し事件」で1963年5月に逮捕された。
井上 忠(いのうえ ただし、1926年3月25日 - 201… 井上 忠(いのうえ ただし、1926年3月25日 - 2014年9月20日)は、日本の哲学者。博士(学術)(論文博士・1996年)。東京大学名誉教授。古代ギリシア哲学が専門だが、言語哲学や自然科学との関係の上に哲学研究を行った。2006年瑞宝中綬章受勲。 広島県呉市生まれ。広島県立呉第一中学校を経て、1943年、第一高等学校に入学。田中小実昌は呉第一中学の同級。1945年春、戦中の特例で2年で一高を卒業し、東京大学法学部政治学科に入学。1948年、法学部を卒業後、文学部哲学科に入学。出隆の指導のもと今道友信や加藤信朗の後輩として古代哲学を専攻、同大学院特別研究生満期退学。1957年、東京大学教養学部専任講師となる。
林 周二(はやし しゅうじ、1926年3月25日 - )は、… 林 周二(はやし しゅうじ、1926年3月25日 - )は、日本の経営学者、統計学者。東京大学名誉教授、静岡県立大学名誉教授。
翠川 修(みどりかわ おさむ、1926年3月25日 - 20… 翠川 修(みどりかわ おさむ、1926年3月25日 - 2017年11月6日)は、日本の医学者。京都大学名誉教授。専門は病理学。 長野県小県郡出身。父は、京城帝国大学助教授の翠川磐。旧制長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制静岡高等学校を経て、1949年京都大学医学部卒業。1958年同大学医学部助教授。1959年ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン医学部に留学。1962年岐阜県立医科大学(現・岐阜大学医学部)教授。1963年京都大学医学部教授。1978年フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞選考委員。1983年ドイツ病理学会名誉会員。1989年京都大学退官、同大学名誉教授。
鈴木 明雄(すずき あきお、1926年3月25日 - )は、… 鈴木 明雄(すずき あきお、1926年3月25日 - )は、日本の経営者。エステー化学社長を務めた。東京都出身。 1950年に東京大学工学部計測工学科を卒業し、同年にエステー化学に入社。 1958年に取締役に就任し、1963年に常務、1966年に専務を経て、1987年9月には社長に就任。1998年9月から2002年6月までに会長を務めた。
西岡 久雄(にしおか ひさお、1926年3月25日 - 20… 西岡 久雄(にしおか ひさお、1926年3月25日 - 2015年8月24日)は、日本の地理学者。専門は経済地理学。学位は、経済学博士(青山学院大学・論文博士・1980年)。青山学院大学名誉教授。立地論、経済地理学が専門。 奈良県出身。1948年東京帝国大学経済学部卒、1955年東京大学大学院経済学研究科経済地理学修了。1957年青山学院大学経済学部専任講師、1962年助教授、1967年教授、1985年経済学部学部長・経済研究所所長、1987-1991年学長。1989-1990年青山学院院長代行。1994年定年、名誉教授、駿河台大学教授、2001年退任。 1980年「立地と地域経済 経済立地政策論」で青山学院大学より経済学博士の学位を取得。
水谷 静夫(みずたに しずお、1926年3月25日 - 20… 水谷 静夫(みずたに しずお、1926年3月25日 - 2014年7月2日)は、日本の国語学者、言語学者。東京女子大学名誉教授。 1926年、東京浅草で生まれた。東京大学文学部国文学科で学び、1948年に卒業。 1949年より国立国語研究所に勤務。1964年、東京女子大学教授に就いた。1991年に東京女子大学を定年退職し、名誉教授となった。 2014年7月2日午後10時47分、肺炎のため東京都板橋区の病院で死去。88歳没。 早くから、言語学に統計学的手法を導入して論ずる計量言語学、さらには数理言語学、計算言語学の分野を国語学においても確立するため、コンピュータの導入による日本語の自然言語処理を論じ、その普及に貢献した(計量国語学会の記事も参照のこと)。
丸山 吉五郎(まるやま きちごろう、1925年3月25日 -… 丸山 吉五郎(まるやま きちごろう、1925年3月25日 - 2020年8月9日)は、日本の体育学者。法政大学名誉教授、元関東学生陸上競技連盟会長。 1925年3月25日、埼玉県大里郡に生まれる。1943年に法政大学予科第二部に入学。大学では陸上競技部に属した。1944年10月、学徒出陣で前橋陸軍予備士官学校に配属され、終戦は宇都宮で迎えた。 復員後は法政大学に復学。1947年、復活した日本学生陸上競技対校選手権大会に出場し、110mハードルと走り幅跳で優勝した。 1948年に法政大学経済学部を卒業。体育教員として母校に務めた。1964年東京オリンピックでは強化コーチを務める。陸上競技に関する指導書・解説書を多く著し、NHKの陸上競技中継のテレビ解説も知られた。
田中 穣(たなか じょう、1925年(大正14年)3月25日… 田中 穣(たなか じょう、1925年(大正14年)3月25日 - 2005年(平成17年)4月25日)は、日本の美術評論家。 神奈川県平塚市生まれ。1949年(昭和24年)早稲田大学文学部英文学科卒。読売新聞社入社。1959年(昭和34年)美術部記者となり、1970年(昭和45年)から日曜版「日本の四季」の解説を担当した。1969年(昭和44年)『藤田嗣治』で直木賞候補。1981年(昭和56年)退社、美術評論家となる。写楽別人説では歌麿説を唱えた。 2005年(平成17年)4月25日、胃がんのため死去。葬儀は東京都文京区小石川の伝通院で行われた。
遠藤 豊(えんどう ゆたか、1925年3月25日 - 200… 遠藤 豊(えんどう ゆたか、1925年3月25日 - 2001年3月26日)は、日本の教育者、自由の森学園の創設者。 栃木県矢板市生まれ。1946年栃木師範学校(宇都宮大学)卒業、1947年に栃木県の中学の理科教師として教員生活をスタートさせる。栃木県矢板中学校・船生中学校教諭、宇都宮大学附属学校教官などを経て、1962年明星学園小中学校教諭。1975年明星学園小中学校校長。1985年自由の森学園を創立し、学園長となる。 2001年3月26日、心不全のため死去。
牛原 陽一(うしはら よういち、1924年3月25日 - 1… 牛原 陽一(うしはら よういち、1924年3月25日 - 1977年2月7日)は、昭和期の映画監督。 大正13年(1924年)京都府に映画監督、牛原虚彦と元女優、三村千代子の長男として生まれる。関東大震災で罹災した虚彦・千代子の2人は、横浜より救難船・米国船籍ウェスト・オロワ号に乗り神戸へ。その後、京都へ移り、陽一誕生。 慶應義塾幼稚舎入学後、普通部、経済学部と進学。戦局が悪くなる中、慶應義塾大学を仮卒業し、短期現役海軍主計科士官(12期)を志願し、1944年9月、海軍経理学校に入学。1945年に経理学校を卒業し、同年6月、海軍主計少尉任官と同時に舞鶴海軍施設部配属。終戦後、復員、慶應義塾大学に復学し卒業。
江頭 匡一(えがしら きょういち、1923年〈大正12年〉3… 江頭 匡一(えがしら きょういち、1923年〈大正12年〉3月25日 - 2005年〈平成17年〉4月13日)は、日本の実業家。ファミリーレストランロイヤルホストなどを展開するロイヤル(現・ロイヤルホールディングス)の創業者。 福岡県三潴郡城島町(現在の久留米市)に父・江頭佳造、母・照代の長男として生まれる。旧制嘉穂中学校(現福岡県立嘉穂高等学校)卒業。授業を抜け出してプールで泳いだり、買い食いをしたりと父親泣かせであり、教師泣かせであったと本人は振り返っている。中学校卒業から3か月たって米子地方航空機乗員養成所に入所する。明治大学専門部中退。 1946年、米軍春日原ベース内のPX(売店)の指定商人を始めたことを切っ掛けに、1950年、ロイヤルの前身会社・キルロイ特殊貿易を設立。
上野 重雄(うえの しげお、1923年3月25日 - )は、… 上野 重雄(うえの しげお、1923年3月25日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
益田義賀(ますだ よしか、1922年3月25日 - 2019… 益田義賀(ますだ よしか、1922年3月25日 - 2019年6月29日)は、日本の物理学者。 島根県出身。1949年大阪大学理学部物理学科卒、大学院に進み、1958年「金属カドミユウムの核磁気共鳴の研究」で理学博士。神戸大学理学部講師、助教授、1965年阪大基礎工学部助教授、1967年名古屋大学理学部教授、1985年定年退官、名誉教授、愛知学院大学教授を務めた。1998年勲三等旭日中綬章受勲。米国留学中に伊藤整と知り合いだった。低温物理が専門。
関口 武士(せきぐち たけし、1922年3月25日 - 19… 関口 武士(せきぐち たけし、1922年3月25日 - 1997年5月2日)は、日本の経営者。中央信託銀行社長を務めた。新潟県出身。 1947年に東京大学経済学部商業学科を卒業し、同年に東海銀行に入行。1962年6月に中央信託銀行に転じ、1971年5月に取締役に就任し、1973年11月に常務、1976年6月に専務を経て、1979年12月には社長に就任。1987年3月に会長に就任し、1993年6月に取締役相談役を経て、1995年6月には相談役に就任。 1986年11月に藍綬褒章を受章し、19954月に勲三等旭日中綬章を受章。 1997年5月2日に脳出血のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
楠田 薫(くすだ かおる、1921年3月25日 - 2012… 楠田 薫(くすだ かおる、1921年3月25日 - 2012年6月1日)は、日本の女優。本名は内野 薫。福岡県出身。夫は大学教授の内野和夫。 十文字高等学校卒業。 1938年、日活に入社し。 1939年に『女性の力』でデビュー。 興亜映画、瑞穂劇団を経て、1946年に俳優座に入団。 1971年、劇団内でベテランの域にあったが、中村敦夫、原田芳雄ら若手らの動きに同調して退団。 2012年6月1日、死去。
村田 昭(むらた あきら、1921年(大正10年)3月25日… 村田 昭(むらた あきら、1921年(大正10年)3月25日 - 2006年(平成18年)2月3日)は、実業家である。村田製作所創業者・名誉会長・元会長・社長。 京都府京都市東山区泉涌寺生まれ。父親が陶器店を営む。 幼少期の頃は「病気のデパート」と呼ばれるほど病弱で、病床で文学書、子供向けの科学誌「子供の科学」などを読んで過ごしていた。 1936年(昭和11年)、京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)を肺結核のため中退後、家業に専念。特殊陶器、精密特殊磁器に注目し、製品化することにより事業を拡大。1944年(昭和19年)10月、村田製作所を創業する。 1950年(昭和25年)、法人化の後、京都大学との「産学協同」で酸化チタンコンデンサの開発に成功。
近藤 啓太郎(こんどう けいたろう、1920年(大正9年)3… 近藤 啓太郎(こんどう けいたろう、1920年(大正9年)3月25日 - 2002年(平成14年)2月1日)は、日本の作家。 三重県四日市市生まれ。第一東京市立中学校(現東京都立九段高等学校)を経て、東京美術学校日本画科卒業。戦後、千葉県鴨川で1年ほど漁業に従事する。その後鴨川中学校の図工科教師となり、教職のかたわら創作を行う。1952年、「遭難」を『早稲田文学』に発表してデビュー、1956年、「海人舟」で芥川賞受賞。第三の新人の一人に数えられ、阿川弘之、吉行淳之介、安岡章太郎らとは終生親しくつきあった。 愛犬家で中学生の頃からの日本犬保存会の会員であり、鴨川で家を建てた後は「八色犬舎」という犬舎号を登録して柴犬や紀州犬の繁殖を行い井上靖、遠藤周作ら作家仲間に柴犬の仔犬を譲ったり、安岡章太郎に紀州犬の仔犬を世話したりした。
浜野 豊(濱野 豊、はまの ゆたか、1919年〈大正8年〉3… 浜野 豊(濱野 豊、はまの ゆたか、1919年〈大正8年〉3月25日 - 1972年〈昭和47年〉9月7日)は、日本の経営者。 北海道でリゾートホテルグループを経営する株式会社萬世閣(ホテル万世閣)の2代目社長。晩年、父の功績にあやかり、通称「2代目増次郎」を襲名。 薪炭商をしていた父・浜野増次郎の長男として北海道で生まれる。翌年には弟も生まれる。家は薪炭商として商売が軌道に乗りつつある時期で、幼児期は比較的、不自由のない生活をしていた。しかし小学生時代は父が事業に失敗。その後父は精肉店を開業したが、生活はドン底であったと言われる。精肉店時代は同級生と遊ぶ暇もなく、学校から帰宅後、弟と家業を手伝っていた。
福田 正臣(ふくだ まさおみ、1919年3月25日 - 20… 福田 正臣(ふくだ まさおみ、1919年3月25日 - 2012年3月28日 )は、日本の医師、医学者。内科医。医学博士。心筋梗塞研究の権威だった。 鹿児島県の奄美大島名瀬の生まれで、大島郡龍郷町出身。1942年第七高等学校造士館 (旧制)理科卒業。1945年九州帝国大学医学部を卒業して、操坦道教授の第一内科に副手として入局し、1951年九州大学第一医学部内科助手。1952年鹿児島市立病院内科医長に就く。1953年九州大学より医学博士授与。論文の題は「抗痙攣剤の人体脳波に及ぼす影響について」。1955年1月鹿児島大学医学部第一内科助教授に就任。鹿児島大学助教授を長く務めた後、再び鹿児島市立病院に転じて循環器内科部長。
原 二郎(はら じろう、1919年3月25日 - 2000年… 原 二郎(はら じろう、1919年3月25日 - 2000年8月21日)は、日本の哲学研究者。 宮城県亘理郡生まれ。第二高等学校卒、1941年京都帝国大学経済学部卒、大阪商船入社。1942年応召、1944年召集解除、大阪商船退社、宮城県築館中学校嘱託、1949年東北大学法文学部哲学科卒、同大学院中退、東北大学教養部講師、1961年助教授、1965年教授。1982年定年退官、名誉教授となる。没する直前に、師の河野与一の新訂再刊も行った。
高山 廣子(たかやま ひろこ、1919年3月25日 - 没年… 高山 廣子(たかやま ひろこ、1919年3月25日 - 没年不詳)は、日本の女優である。新漢字表記高山 広子、旧芸名仲上 八洲子(なかがみ やすこ)、君千代(きみちよ)、藤原 八洲子(ふじわら やすこ)、のちに高山 裕子とも名乗った。出生名仲上 ヤスエ(なかがみ やすえ)、結婚後本名上田 ヤスエ(うえだ やすえ)。『阿波狸合戦』、『歌ふ狸御殿』等の主演女優として知られる。 1919年(大正8年)3月25日、福岡県嘉穂郡飯塚町(現在の同県飯塚市)に生まれる。 1927年(昭和2年)、子役として、妹の仲上萩江とともに「仲上 八洲子」の名で、京都の阪東妻三郎プロダクションに入社、映画界にデビューした。
加藤 春雄(かとう はるお、1917年3月25日 - 196… 加藤 春雄(かとう はるお、1917年3月25日 - 1961年2月27日)は、岐阜県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。後、加藤久幸に改名。弟は戦前の名捕手で特攻死した加藤三郎と、近鉄の内野手だった加藤政一。
國枝 忠雄(くにえだ ただお、1917年3月25日 - 20… 國枝 忠雄(くにえだ ただお、1917年3月25日 - 2015年1月10日)は、日本の実業家。中部日本放送社長を務めた。富山県富山市出身。 高岡高等商業学校を経て、1944年に九州帝国大学社会学科卒業。同年に日本放送協会に入社した。しかし、1950年に公職追放を受けたことにより解雇され、1952年に小嶋源作の紹介により、中部日本放送に入社した。 東京支社長、取締役、常務、専務を経て、1975年12月に社長に就任した。1987年6月から副会長に就任し、1989年6月から相談役に就任した。 1980年に藍綬褒章を受章し、1987年に勲二等瑞宝章を受章した。また、1979年にイタリア政府から「共和国有功勲章コンメダトーレ章」を受章し、1982年にオーストリア大使館からオーストリア大栄誉金章を受章し、1985年にフランス政府から国家功労章を受章した。
高田山 惠助(たかだやま けいすけ、1917年3月25日 -… 高田山 惠助(たかだやま けいすけ、1917年3月25日 - 1983年12月7日)は、岩手県東磐井郡千厩町(現・一関市)出身の昭和時代の元大相撲力士。白玉部屋→芝田山部屋→高田川部屋→高砂部屋所属。本名は金野 恵助。最高位は東十両8枚目。得意技は右四つ、寄り。 同郷の横綱宮城山が引退直後に部屋を興した白玉部屋(のち芝田山部屋)に入門。1931年5月場所に初土俵を踏んだ。当初の四股名は師匠が以前名乗った「岩手川」。幕下時代の1940年1月場所に「高田山」と改名した。1941年5月場所に十両に昇進。この場所8勝7敗と勝ち越した。翌1942年1月場所には東十両8枚目まで番付を上げたが、右膝を捻挫して途中休場。
内藤 幸三(ないとう こうぞう、1916年3月25日 - 2… 内藤 幸三(ないとう こうぞう、1916年3月25日 - 2002年1月31日)は、三重県出身のプロ野球選手・審判員。日本プロ野球最初の大型左腕投手である。
渡辺 道子(わたなべ みちこ、1915年3月25日 - 20… 渡辺 道子(わたなべ みちこ、1915年3月25日 - 2010年1月23日)は、東京都出身の元弁護士。戦後初の女性弁護士で第二東京弁護士会に所属した。日本女性法律家協会会長、婦人少年問題審議会会長、中央労働基準審議会公益委員、日本キリスト教女子青年会(日本YWCA)理事長などを務めた。女子学院、東京女子大学、明治大学専門部女子部法科を経て、早稲田大学法学部卒業。 2010年1月23日に肺炎のため死去した。享年94歳。 日本社会党に所属し党婦人局長を務めた渡辺道子は同姓同名の別人である。 1956年(昭和31年)5月11日参議院法務委員会公聴会にて、死刑廃止に賛成する旨の発言を行っている。 1958年(昭和33年)11月4日衆議院地方行政委員会公聴会にて、警察官職務執行法改正案に対して反対する旨の発言を行っている。
千葉 源蔵(ちば げんぞう、1915年(大正4年)3月25日… 千葉 源蔵(ちば げんぞう、1915年(大正4年)3月25日 - 1988年(昭和63年)9月21日)は、日本の実業家。文藝春秋名誉会長、日本雑誌協会・日本雑誌広告協会・出版健康保険組合各理事長を歴任した。
小杉 二郎(こすぎ じろう、1915年(大正4年)3月25日… 小杉 二郎(こすぎ じろう、1915年(大正4年)3月25日 - 1981年(昭和56年)2月17日)は、日本のインダストリアルデザイナー。東洋工業(現在のマツダ)の乗用車やトラック、新三菱重工業(現在の三菱重工業)のスクーター、蛇の目ミシン工業のミシンなどのデザインを手がけ、日本のインダストリアルデザイナー第一世代を代表する人物として知られる。没後38年を経た2019年(令和元年)11月、日本自動車殿堂の2019年度の殿堂者に選出された。 父は洋画家の小杉放庵、兄は美術史学者の小杉一雄、甥には洋画家の小杉小二郎(一雄の子)がいる。 1915年(大正4年)、東京市滝野川区にて洋画家である父・小杉放庵(国太郎)と母・ハルの二男として生まれる。
笹崎 僙(ささざき たけし、1915年3月25日 - 199… 笹崎 僙(ささざき たけし、1915年3月25日 - 1996年8月7日)は、日本のプロボクサー。北海道空知郡歌志内町(現歌志内市)出身。 戦前、戦後にピストン堀口恒男のライバルとして活躍した昭和初期における日本を代表するボクサーの一人。その鋭いストレートから「槍の笹崎」の異名で呼ばれた。戦後の初代日本ライト級チャンピオン。通算戦績115戦72勝(26KO)28敗11分3EX無判定。引き分けを挟まない26連勝の記録を保持。試合数115戦は日本歴代8位。 1941年に両国国技館で行われた堀口戦は元同門という因縁や、笹崎の公開挑戦状に対し堀口が応戦し、舌戦を繰り広げたことなどにより大きな話題を呼び、「世紀の一戦」と謳われ日本ボクシング界では伝説の試合として語り草となっている。
関戸 力(せきど つとむ、後に矢崎姓、1915年3月25日 … 関戸 力(せきど つとむ、後に矢崎姓、1915年3月25日 - 1987年11月23日)は、北海道小樽市出身のノルディック複合、クロスカントリースキー選手。 旧制小樽商業学校 → 札幌鉄道管理局(現・JR北海道鉄道事業本部) 小樽商業時代の1933年、第11回全日本スキー選手権大会のノルディック複合個人とクロスカントリースキー個人長距離(18km)の少年の部で優勝。卒業後札幌鉄道管理局に入り、1935年の全日本スキー選手権大会のノルディック複合とクロスカントリースキー個人長距離(17km)の成年の部でともに2位となり、翌1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックの代表に選出される。同オリンピックのノルディック複合個人では35位、クロスカントリースキー個人長距離(18km)では55位、4x10kmリレーで12位だった。
帖佐 美行(ちょうさ よしゆき、1915年〈大正4年〉3月2… 帖佐 美行(ちょうさ よしゆき、1915年〈大正4年〉3月25日 - 2002年〈平成14年〉9月10日)は、彫金家、文化勲章受章者。鹿児島市立美術館顧問 鹿児島県薩摩郡宮之城町(さつま町)生まれ、出身。本名・良行。小学校卒業後、兄を頼って13歳で上京。1930年小林照雲に師事、1940年海野清に師事する。1942年第5回新文展で初入選、1954年の第4回と1955年の第5回の日展で連続して特選、1962年の第5回(民営化後)日展で文部科学大臣賞、1965年第8回日展で日本芸術院賞を受賞。 1957年日展審査員。1958年日本金工作家協会結成に参加、日展評議員、1962年現代工藝美術家協会結成に参加、1969年日展理事、1974年日本芸術院会員、1975年日展常務理事、1978年日本新工芸美術家連盟を結成。
庭野 正之助 (にわの しょうのすけ、1914年3月25日 … 庭野 正之助 (にわの しょうのすけ、1914年3月25日 - 2004年1月11日)は、日本の実業家。日本鉱業(現ENEOSホールディングス)の社長・会長や日本鉱業協会会長を務めた。勲一等瑞宝章。 新潟県十日町市川原町生まれ。旧制新潟県立十日町中学校(のちの新潟県立十日町高等学校)卒業後、1936年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。内池廉吉ゼミ出身。大学予科時代には、文部省による東京商科大学予科および専門部廃止案に反対し籠城闘争を決行(籠城事件)。後藤達郎(のちにホテルオークラ社長)らとともに警察に検挙され勾留されたが、商法の本間喜一教授や民法の常盤敏太教授の尽力で釈放された。 1936年日本鉱業入社、1964年取締役、1971年専務、1973年副社長。
十返 肇(とがえり はじめ、1914年〈大正3年〉3月25日… 十返 肇(とがえり はじめ、1914年〈大正3年〉3月25日 - 1963年〈昭和38年〉8月28日)は、香川県出身の作家、文芸評論家、編集者。 本名は十返 一(とがえり はじめ)。筆名=大方宗多(オオカタ ソウダ)。 高松市生まれ。料亭・淀川楼の長男に生まれる。 旧制高松中学校を経て、1935年(昭和10年)日本大学芸術科卒業。在学中から中河与一主宰「翰林」の同人となり、文芸時評を連載。東京市麹町区土手三番町に下宿していたとき、近所の吉行エイスケに師事。 森永製菓宣伝部に勤務。後に、第一書房に入社して「新文化」(「セルパン」改題) 編集長。 戦後、丹羽文雄に勧められて十返肇という筆名を名乗る。
戸塚 文子(とつか あやこ、1913年〈大正2年〉3月25日… 戸塚 文子(とつか あやこ、1913年〈大正2年〉3月25日 - 1997年〈平成9年〉11月7日)は、日本の紀行文作家、編集者。1983年(昭和58年)に第1回日本旅行作家協会賞を受賞した。 東京府(後の東京都)日本橋浜町生まれ。父の仕事の関係で、5歳の頃から小学4年までを横浜市神奈川区で過ごし、日本国外への憧れを抱いて育った後に、東京への転居を経て兵庫県神戸市に移った。 1934年(昭和9年)に日本女子大学英文科卒業後、女性として初めてジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB)に入社した。東京駅案内所の案内係を経て、同社発行の雑誌『旅』編集部に移り、世界各国の数々の旅行情報を読者へ紹介した。
五代 夏夫(ごだい なつお、1913年3月25日- 2016… 五代 夏夫(ごだい なつお、1913年3月25日- 2016年9月30日)は、日本の作家。 宮崎県(現日向市)生まれ。本名・松尾強。満州建国大学研究院修了。満州国政府に勤務、戦後文筆家となり、1964年「那覇の木馬」で文学界新人賞受賞、芥川賞候補。鹿児島を拠点に地方文化人として活動を続ける。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
島村 利正(しまむら としまさ、1912年3月25日 - 1… 島村 利正(しまむら としまさ、1912年3月25日 - 1981年11月25日)は、日本の小説家。 長野県上伊那郡高遠町(現伊那市)に商家の長男として生まれる。家業を継ぐのを嫌がり、1926年、高遠実業補習学校(現・長野県高遠高等学校)を中退。家出して奈良の古美術写真出版社飛鳥園へ行き、小川晴暘の薫陶を受け、志賀直哉、武者小路実篤、瀧井孝作の知遇を得る。1931年、正則英語学校卒業。 1941年に『高麗人』で、1943年に『暁雲』で芥川賞候補となる。戦時中から撚糸工業会社に勤務し、1955年、会社を設立し代表取締役となるが、1962年、倒産し、以後、作家業に専念。若い頃から釣りを好む。1975年刊行の『青い沼』で平林たい子文学賞、1979年刊行の『妙高の秋』で、翌年に読売文学賞受賞。