田代 照勝(たしろ てるかつ、1934年6月27日 - 20… 田代 照勝(たしろ てるかつ、1934年6月27日 - 2003年10月8日)は、岡山県出身のプロ野球選手、プロ野球審判員。ポジションは投手。
6月27日生まれ:277人
田代 照勝(たしろ てるかつ、1934年6月27日 - 20… 田代 照勝(たしろ てるかつ、1934年6月27日 - 2003年10月8日)は、岡山県出身のプロ野球選手、プロ野球審判員。ポジションは投手。
戸部 実之(とべ みゆき、1934年6月27日- )は、日本… 戸部 実之(とべ みゆき、1934年6月27日- )は、日本の語学書ライター、教育者(大学教授)。 岐阜県出身。東京外国語大学英米学科卒。NHK国際局報道部、東海大学外国語教育センター教授を歴任。 1986年から1998年までの間に、泰流社(1998年に廃業)から文法書や辞書などの語学書を出版していた。語学書の対象とした言語は非常に多く、アラビア語やイタリア語といったメジャーな言語はもとより、ミウォク語やパパゴ語(英語版)といったマイナーな言語までカバーしていた。これらの語学書の出版点数は、1998年には83点を数えるに至ったが、同年の泰流社の廃業により出版元を失って以降は出版されていない。そのほか、評論社から国木田独歩や二葉亭四迷の作品の英訳を出版した。
島津 忠広(しまづ ただひろ、1933年〈昭和8年〉6月27… 島津 忠広(しまづ ただひろ、1933年〈昭和8年〉6月27日 - )は、玉里島津家の第4代当主。学習院大学卒業後、中越パルプに勤務。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 忠久????-1227 | 忠時1227-1265 | 久経1265-1284 | 忠宗1284-1318 | 貞久1318-1363 | 総州家と奥州家に分裂 師久1363-1376 | 伊久1376-1404 | 守久1404-???? | 久世????-1417 | 久林1417-1430 | 断絶 氏久1363-1387 | 元久1387-1411 | 久豊1411-1425 | 忠国1425-1470 | 立久1470-1474 | 忠昌1474-1508 | 忠治1508-1515 | 忠隆1515-1519 | 勝久1519-1526 | 貴久1526-1566 | 義久1566-1587 | 義弘1587-1602 | 家久1602-1638 | 光久1638-1687 | 綱貴1687-1704 | 吉貴1704-1721 | 継豊1721-1746 | 宗信1746-1749 | 重年1749-1755 | 重豪1755-1787 | 斉宣1787-1809 | 斉興1809-1851 | 斉彬1851-1858 | 忠義1858-1897 | 忠重1897-1968 | 忠秀1968-1996 | 修久1996-2024 | 忠裕2024- 久長1281-1317 | 宗久1317-1354 | 親忠1354-1371 | 久義1371-1422 | 勝久1422-1433 | 教久1433-1442 | 犬安丸1442-1458 | 久逸1458-???? | 善久????-1494 | 忠良1494-1526 | 相州家相続
青木 次生(あおき つぎお、1932年6月27日 - )は、… 青木 次生(あおき つぎお、1932年6月27日 - )は、日本の英文学者。京都大学名誉教授。 長野県生まれ。1955年信州大学教育学部英語科卒業、フルブライト奨学生としてイェール大学で1956年まで学ぶ。京都女子高等学校教諭、1959年京都大学大学院文学研究科英文科修士課程修了、姫路工業大学講師、1964年京大教養部助教授、1969年文学部助教授、1980年教授、1991年定年退官、名誉教授、甲南女子大学教授、2001年『ヘンリー・ジェイムズ』で文学博士(京都大学)の学位を取得。2005年甲南女子大退職。 ヘンリー・ジェイムズを専門とし、後期三部作を訳した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
清水 敏允(しみず としよし、1932年6月27日 - )は… 清水 敏允(しみず としよし、1932年6月27日 - )は、日本の経営学者、神奈川大学名誉教授。レック株式会社社外取締役監査等委員。 大阪生まれ。1956年上智大学文学部卒、1959年日本能率協会に入る。69年退職。1962年スイスのザンクトガレン大学修士課程で学び、ケルン大学に移り、1970年同経済・社会科学部博士課程修了、博士号取得(1970年2月10日)。獨協大学助教授、教授、福島大学経済学部、同大学院教授、1991年神奈川大学経済学部教授、2003年退任、名誉教授。
秋月 俊幸(あきづき としゆき、1931年(昭和6年)6月2… 秋月 俊幸(あきづき としゆき、1931年(昭和6年)6月27日 - 2023年(令和5年)9月23日 )は、日本の歴史学者。北海道大学付属図書館の職員として勤めた後、大学教員に転じ、日露関係史や日本北辺地図学史を研究した。 長崎県佐世保市で生まれる。佐世保北高等学校を経て、1955年(昭和30年)に東京教育大学文学部卒業。文部省図書館職員養成所で司書資格を取得した後、北海道大学附属図書館で勤務する。北大図書館では、長年北方資料室主任を務め、北方資料や札幌農学校資料の整理などを精力的に行った。1992年(平成4年)に図書館を定年退職した後は北海道大学法学部講師となり、1995年(平成7年)2月には法学部助教授に昇任、同年3月に退官した。
寺田 和雄(てらだ かずお、1931年(昭和6年)6月27日… 寺田 和雄(てらだ かずお、1931年(昭和6年)6月27日 - 2015年(平成27年)5月2日)は、日本の政治家。元東京都町田市長(4期)。 市内原町田にて寺田要と母アイの長男として生まれる。父が失明したため働きながら、東京都立町田高等学校に通い卒業。1958年、法政大学経済学部卒業。 1949年、小松製作所(現在の相模工業)に入社。1957年、東京都職員となる。1970年に大下勝正が町田市長となると、誘われて町田市役所に転職。町田市秘書課長、企画部長、開発部長、総務部長、教育長、助役を歴任。 大下の後任として、1990年から2006年までの4期16年に渡って町田市長を務める。人口急増期の町田市の秩序ある発展をはかりながら、多摩丘陵の誇れる緑と自然環境を守り、福祉と文化のまちづくりを推進した。
出縄 茂(いでなわ しげる、1931年6月27日 - 202… 出縄 茂(いでなわ しげる、1931年6月27日 - 2021年4月11日)は、日本の銀行家。 神奈川県中郡旭村(現平塚市)出身。元横浜銀行常務取締役、元浜銀ファイナンス代表取締役社長、元横浜ファイナンス代表取締役会長を歴任した。 孫は、シュティフター研究者の出縄祐介である。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
加藤 廣(かとう ひろし、1930年6月27日 - 2018… 加藤 廣(かとう ひろし、1930年6月27日 - 2018年4月7日)は、日本の小説家。 東京生まれ。東京都立新宿高等学校、東京大学法学部卒業。1954年に中小企業金融公庫に入庫。 京都支店長、本店調査部長などを歴任後、山一證券に勤務し、同経済研究所顧問、埼玉大学経済学部講師などを経て、中小企業やベンチャー企業のコンサルタントを務める。 2005年に構想15年の作品『信長の棺』で小説家デビュー。デビュー当時75歳という年齢が話題を呼ぶ。 それ以前からビジネス書を著していたが、『信長の棺』は『日本経済新聞』に連載され、ベストセラーとなった。同作は第12回中山義秀文学賞の候補作にも選ばれた。 その後『秀吉の枷』『明智左馬助の恋』と本能寺三部作を発表して大きな話題を呼ぶ。
大島 通義(おおしま みちよし、1929年〈昭和4年〉6月2… 大島 通義(おおしま みちよし、1929年〈昭和4年〉6月27日 - )は、日本の経済学者。東京都出身。慶應義塾大学名誉教授。財政学専攻。 研究テーマはドイツ財政社会学。
辛 光洙(シン・グヮンス、シン・グァンス、1929年〈昭和4… 辛 光洙(シン・グヮンス、シン・グァンス、1929年〈昭和4年〉6月27日 - )は、韓国の政治犯。日本人拉致に関わった北朝鮮の工作員である。通称「坂本(さかもと)」。1978年に福井県若狭に住む若い男女地村保志と妻の富貴恵を拉致した実行犯で、1980年に原敕晁を拉致し、戸籍を横領して「原敕晁」名義の運転免許証や旅券を取得してなりすまし、日本や韓国で工作活動を行った。 1929年(昭和4年)に静岡県浜名郡新居町(現・湖西市)で、土木作業員の辛チョンダルを父に、徐ミョンダムを母に五男二女の五男として生まれた。幼少期の日本名は「立山 富蔵」(たてやま とみぞう)で、のちに兵庫県尼崎市へ一家で移住して立花第一尋常小学校に入学する。
谷沢 永一(たにざわ えいいち、谷澤 永一とも、1929年6… 谷沢 永一(たにざわ えいいち、谷澤 永一とも、1929年6月27日 - 2011年3月8日)は、日本の国文学者、文芸評論家、書誌学者。専門は書誌学、日本近代文学。関西大学名誉教授。 大阪府大阪市出身。大阪市立大江小学校、旧制大阪府立天王寺中学校(現在の大阪府立天王寺高等学校)を経て、1947年関西大学予科に入学。1952年関西大学文学部国文学科卒業。1955年関西大学文学部助手、1957年関西大学大学院文学研究科博士課程単位取得。1959年同大学文学部専任講師、1962年同助教授、1968年同教授。1972年「日本近代文学評論史研究」で関西大学より文学博士の学位を取得。 1980年、書評コラムを集めた『完本 紙つぶて』でサントリー学芸賞を受賞。
伊佐 千尋(いさ ちひろ、1929年6月27日 - 2018… 伊佐 千尋(いさ ちひろ、1929年6月27日 - 2018年2月3日)は、日本のノンフィクション作家。 実父はアメリカ合衆国で活動した画家・絵本作家の八島太郎。俳優マコ岩松は異母弟、女優八島桃(本名:岩松桃子)は異母妹。 現在の東京都に生まれる。母の伊佐正子(旧姓:仁科)は、山梨県甲府市の士族の家系に生まれ、実家は資産家だった。1928年夏頃に、当時「岩松淳」を名乗っていた八島太郎が東京から甲府を訪れた際に出会い、後を追う形で上京、父の持ち家に住みながら交際した。しかし、翌年4月の四・一六事件の際に、プロレタリア芸術運動にかかわっていた太郎の家が捜索を受けて正子も拘留される。そのあと正子は太郎と別れる。
中村 勝人(なかむら かつと、1927年〈昭和2年〉6月27… 中村 勝人(なかむら かつと、1927年〈昭和2年〉6月27日 - 2011年〈平成23年〉7月22日)は、日本の政治家、地方公務員。山口県宇部市長(第21・22代)。 1927年(昭和2年)6月27日、山口県吉敷郡東岐波村(現・宇部市)に生まれる。旧制宇部工業専門学校(現・山口大学工学部)を卒業したのち、1950年(昭和25年)に東岐波村役場へ入所。東岐波村が宇部市に編入された後は、宇部市役所で庶務課長、財務課長、企画調整部次長、市民部長を歴任した。 市役所退職後は常勤監査委員を務めていたが、1987年(昭和62年)7月18日、当時の二木秀夫参議院議員(第18・19・20代宇部市長)に後継市長候補者として推薦され、宇部市議会の正副議長と議会主要5会派から市長選への出馬要請を受けた。
野田 武義(のだ たけよし、1927年(昭和2年)6月27日… 野田 武義(のだ たけよし、1927年(昭和2年)6月27日 - 2005年(平成17年)5月8日)は、日本の政治家。釜石市長(3期) 。位階は従四位。 岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)出身。1945年、岩手県立釜石商業学校(のち岩手県立釜石商業高等学校、現・岩手県立釜石商工高等学校)卒。釜石市議会議員を4期務め、1971年、岩手県議会議員に当選し、4期務める。1987年、釜石市長に当選し、市長を3期務める。1999年に市長を退任した。2005年に死去。死没日付をもって従四位に叙された。
内野 二朗(うちの じろう、1927年6月27日 - 200… 内野 二朗(うちの じろう、1927年6月27日 - 2004年6月15日)は、日本のプロモーター、キョードー東京を中心とするキョードー・グループの創立者。 現在の埼玉県狭山市で、生まれ育った。「貧しい中で小学校を卒業し」、実家近くの陸軍航空士官学校付属飛行機工場に勤めながら、夜間の青年学校に学んで、中学校卒業資格を得る。海軍飛行予科練習生甲種に志願し、合格するも、既に飛行機の生産がままならない状況の中で、人間魚雷(回天)の乗員として山口県防府の海軍基地に配属された。しかし、直後に病気で入院を余儀なくされ、そのまま終戦を迎えた。 戦後は、陸軍航空士官学校を接収した米第5空軍のジョンソン基地(現在の航空自衛隊入間基地)で働きながら、英語を学ぶために明治学院大学の夜間英語学校に通い、後にはジョンソン基地の経理担当者となった。
清原 啓一(きよはら けいいち、1927年6月27日 - 2… 清原 啓一(きよはら けいいち、1927年6月27日 - 2008年10月11日)は、洋画家、日本芸術院会員。 富山県砺波市出身。辻永、新道繁に師事し、1959年日展特選、1994年日展内閣総理大臣賞、日展常務理事、顧問。2002年日本芸術院賞・恩賜賞、芸術院会員。光風会常務理事。花と鶏を描く。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
萩原 宏(はぎはら ひろし、1926年6月27日 - 201… 萩原 宏(はぎはら ひろし、1926年6月27日 - 2014年1月8日)は、日本の工学者。京都大学名誉教授。京都情報大学院大学初代学長。 石川県金沢市生まれ。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
村上 三郎(むらかみ さぶろう、1925年6月27日 - 1… 村上 三郎(むらかみ さぶろう、1925年6月27日 - 1996年1月11日)は、日本の芸術家。 息子は漫画評論家の村上知彦。 兵庫県神戸市に生まれる。1943年、関西学院大学予科に入学。絵画部「弦月会」に入部する。神原浩に師事し、油絵を始める。1948年、同大学文学部哲学科を卒業。1950年、同大学大学院美学科を修了。 1952年、田中敦子、金山明、白髪一雄らと「0会」結成。1955年、田中、金山、白髪らと共に、吉原治良をリーダーとする具体美術協会に参加。木枠に張った多数の紙を突き破って通り抜けるパフォーマンス『紙破り』で知られる。 1990年、神戸松蔭女子学院大学短期大学部の教授となる。1996年1月11日、自宅で死去。
小玉 正任(こだま まさとう、1925年(大正14年)6月2… 小玉 正任(こだま まさとう、1925年(大正14年)6月27日 - 2016年(平成28年)9月6日)は、日本の官僚、民俗学者。正四位。 秋田県出身。1951年東京文理科大学卒業後、総理府に入庁。1972年の復帰時に沖縄開発庁総務局総務課長、1974年迎賓館次長、1976年沖縄開発庁総合事務局長、1978年内閣広報室長、1979年賞勲局長、1982年に沖縄開発事務次官、1984年退職、公害等調整委員会委員。1995年、勲二等旭日重光章受章。 1995年から2006年まで沖縄協会の4代目会長を務めた。国立公文書館長、統計情報研究開発センター理事長なども務めた。官僚時代には、琉球大学図書館による琉球関係資料の収集予算の確保に尽力。
碧海 純一(あおみ じゅんいち、1924年6月27日 - 2… 碧海 純一(あおみ じゅんいち、1924年6月27日 - 2013年7月18日)は、日本の法学者、法哲学者。東京大学名誉教授。日本バートランド・ラッセル協会理事。 分析哲学、批判的合理主義に近い立場から理論哲学として法哲学を展開し、以後の日本の法哲学に大きな影響を及ぼした。主著に『法哲学概論』『法と社会』など。 愛知県名古屋市出身。旧制武蔵高等学校では、講師であった下村寅太郎に紹介され、バートランド・ラッセルに触れる(後に日本バートランド・ラッセル協会設立発起人となっている)。 1944年(昭和19年)短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。同年9月、海軍経理学校に入学。1944年10月、海軍主計見習士官。
鶴美山 侑宏(つるみやま ともひろ、1924年6月27日 -… 鶴美山 侑宏(つるみやま ともひろ、1924年6月27日 - 1989年10月18日)は、井筒部屋、時津風部屋(当初は双葉山相撲道場)、再度井筒部屋、陸奥部屋に所属した元力士、元若者頭。本名は近藤 貢(こんどう みつぐ)。現在の東京都荒川区出身。176cm、113kg。最高位は西十両16枚目。得意技は左四つ、寄り。 1939年1月場所に初土俵。序ノ口で全敗したり、幕下から序二段まで下がるなど、出世が遅かったが、初土俵が同期の栃錦に「十両に上がったら俺の化粧廻しをやるから」と励まされて奮起し、初土俵から16年が経った1955年3月場所に30歳で十両昇進。1957年1月場所に32歳で引退し、若者頭に転じた。
竹田 喜之助(たけだ きのすけ、大正12年(1923年)6月… 竹田 喜之助(たけだ きのすけ、大正12年(1923年)6月27日 - 昭和54年(1979年)9月5日)は、日本の人形師。本名は岡本 隆郎(おかもと たかお)。 1923年(大正12年)、岡山県邑久郡邑久町豊安(現・瀬戸内市邑久町)に生まれる。岡本家は呉服商の大店であり、隆郎は長男だった。邑久村尋常小学校(現・瀬戸内市立邑久小学校)、岡山第一中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を卒業後、旧制第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1943年(昭和18年)に東京帝国大学工学部航空工学科に入学。1950年(昭和25年)に東京大学第二工学部航空工学科を卒業。卒業と同時に人形芝居の結城孫太郎一座に弟子入りし、隆郎は結城糸城三(しきぞう)を名乗った。
石風呂 良一(いしぶろ りょういち、1923年6月27日 -… 石風呂 良一(いしぶろ りょういち、1923年6月27日 - 1985年5月12日)は、広島県出身のプロ野球選手。 広島県立忠海中学校卒業後、広島県内の運送会社のノンプロチーム(会社名不明)に所属。1949年11月に24歳で大阪タイガースへ入団。入団から間もない11月16日の対阪急戦(明石)でプロ初登板・初先発。初回から四球連発で痛打を浴び、1アウトもとれずに降板、4失点で敗戦投手となった。「カーブも投げらない者を先発させるとは」と内外から批判され、この先発起用が若林忠志監督退団の切っ掛けといわれる。この後、一軍で登板することはなく、1951年に引退した。このため、石風呂の通算防御率は、算出不可能(無限大)となっている。
神 彰(じん あきら、1922年6月27日‐1998年5月2… 神 彰(じん あきら、1922年6月27日‐1998年5月28日)は、北海道出身の興行師、事業家、国際芸能プロモーター。
植芝 吉祥丸(うえしば きっしょうまる、1921年6月27日… 植芝 吉祥丸(うえしば きっしょうまる、1921年6月27日 - 1999年1月4日)は武道家。日本の合気道の二代目の継承者。父は合気道開祖植芝盛平。次男は三代目道主植芝守央。 昭和20年代の合気会は新規の入門者が中々集まらず、塩田剛三の養神館道場に対して劣勢であった。吉祥丸はこの状況を挽回するために、 といった当時としては革新的な試みを行い、合気道の全国的な普及に成功した。現在合気会は合気道界で最大勢力の合気道統括組織であり、日本国内100万人・世界全体で160万人ともいわれる合気道人口の8割を占める。
菊池 徹(きくち とおる、1921年6月27日 - 2006… 菊池 徹(きくち とおる、1921年6月27日 - 2006年4月10日)は、日本の南極探検家。 1921年、兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市)に生まれる。大阪府立北野中学校卒業。中学時代より、登山部に入り登山活動を行う。浪人し、北海道大学予科に入学、1946年3月、北海道大学理学部地質学鉱物学科を卒業する。 大学卒業後、父親の経営する会社の役員につくも、地質学の知識が買われ、商工省の地質調査所に就職する。 1956年、第一次南極地域観測隊の隊員53名の一人に抜擢される。1957年1月29日、南極地域観測隊のメンバーが、南極の東オングル島に上陸する。昭和基地が設営され、菊池徹は、11名の南極越冬隊員の一人となり、1957年の『冬』の越冬活動に参加する。
小倉 志祥(おぐら ゆきよし、1921年6月27日 - 19… 小倉 志祥(おぐら ゆきよし、1921年6月27日 - 1996年5月11日)は、日本の倫理学者、哲学者。東京大学名誉教授。 1921年、愛知県生まれ。東京大学文学部哲学科で倫理学を専修し、1948年に卒業。同大学大学院に進学。 1955年、東京大学文学部非常勤講師に就いた。1957年より東京大学文学部専任講師。1963年に助教授、1971年に教授昇進。1982年、東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、1987年より大妻女子大学教授として教鞭をとった。学界では、日本倫理学会の代19代、代20代会長(1984年10月~1990年10月)をつとめた。 1996年、くも膜下出血のため死去。
白光 (はく こう、バイ・クァン、Bai Kwong、192… 白光 (はく こう、バイ・クァン、Bai Kwong、1921年〈民国10年〉6月27日 - 1999年8月27日)は、1940年代から1950年代にかけて活躍した中国の歌手・女優。七大歌后の1人。本名は史永芬。 一筋の白い光がスクリーンに映像を映し出す姿に強い印象を受けたことから芸名を白光とした。女優として『蕩婦心』『一代妖姫』『玫瑰花開』といった映画がヒット。1950年代末に芸能界を引退の後、マレーシアの首都クアラルンプールに移り住み、1999年8月27日に結腸癌で病死。 白光は本名を史永芬といい、1921年に京都市(現:北京市)で生まれた。女学校時代に史永芬は北平沙龍劇団という劇団で、端役ながら新劇女優として曹禺の『日出』などの作品の舞台に立っていた。
伊藤 冨雄(いとう とみお、1920年6月27日 - 200… 伊藤 冨雄(いとう とみお、1920年6月27日 - 2003年11月25日)は、日本の土木工学者。工学博士(京都大学)。大阪大学名誉教授。大阪工業大学名誉教授・第8代学長。土木学会名誉会員。地盤工学会関西支部元支部長。日本地下水理化学研究所元理事長。日本学術会議元会員。勲二等旭日重光章受章。 専門は、地盤工学・土質工学、建設工学(特にトンネル工学)。 1920年神奈川県横浜市生まれ。1943年京都帝国大学工学部土木工学科卒業。のちに、工学博士(京都大学)。1947年大阪大学工学部講師となり、助教授を経て、1962年教授。1984年に大阪大学名誉教授。 同年、大阪工業大学工学部土木工学科教授。1987年から1994年まで大阪工業大学第8代学長を務めた。
上田 祖峯(うえだ そほう、1920年(大正9年)6月27日… 上田 祖峯(うえだ そほう、1920年(大正9年)6月27日 - 1996年(平成8年)8月18日)は、日本の仏教学者。第2代駒沢女子短期大学学長。駒澤学園理事長・学園長。 熊本県生まれ。1944年、駒澤大学仏教学部仏教学科卒業。1971年、駒沢女子短期大学教授。 1974年、駒沢女子短期大学学長に就任(小川弘貫の後任)。駒澤学園理事長・学園長を歴任。1996年8月18日、肺炎のため死去。 著書に『修証義入門: 道元禅師の教え』『新釈修証義:「正法眼蔵」の教え・仏たちの生きざま』『新釈典座教訓: 調理と禅の心』『禅と食事』『禅と心』など。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
塩川 優一(しおかわ ゆういち、1918年(大正7年)6月2… 塩川 優一(しおかわ ゆういち、1918年(大正7年)6月27日 - 2016年(平成28年)4月28日)は、日本の内科学者である。 兵庫県神戸市に生まれる。東京帝国大学医学部(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)卒業後は、第二次世界大戦により従軍しビルマ等で軍医として活動した。戦後の1946年(昭和21年)に帰国し、その後は母校附属の第2内科に勤務した。1955年(昭和30年)には順天堂大学の助教授として活動し、1964年(昭和39年)には教授に昇格する。1969年(昭和44年)には同大学に膠原病を専門とした内科の開業に携わり、1979年(昭和54年)には順天堂大学医学部附属順天堂病院の院長も務めた。
島田 秀夫(しまだ ひでお、1915年6月27日 - 200… 島田 秀夫(しまだ ひでお、1915年6月27日 - 2005年11月3日)は、岡山県出身の会社役員、サッカー選手、第7代日本サッカー協会会長。 1928年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1933年に同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、石川馨(東京大学名誉教授)、中村光夫(文芸評論家)、小川平四郎(初代駐中国大使)などがいる。 旧制水戸高校(現・茨城大学)を経て、1936年に東北帝国大学法文学部に入学。1940年3月に大学を卒業して三菱重工業に入社した。1941年に太平洋戦争の召集を受けて従軍、1945年にシベリア抑留に遭い、1947年に帰国。
霧島 昇(きりしま のぼる、1914年(大正3年)6月27日… 霧島 昇(きりしま のぼる、1914年(大正3年)6月27日 - 1984年(昭和59年)4月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は坂本 榮吾。福島県双葉郡大久村(現在のいわき市)出身。1979年(昭和54年)紫綬褒章受章。 1914年(大正3年)に福島県双葉郡大久村(現在のいわき市大久町)の農家の三男として生まれる。小学校を卒業後上京し、中学に通いながらボクサーを目指すが断念、テノールの藤原義江のレコードを聴き、日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思い、苦学しながら東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を卒業。 浅草のレビュー小屋でアルバイトをする傍ら吹き込んだエヂソン・レコード『僕の思い出』がコロムビア文芸部長・松村重武(俳優の松村達雄の実父)の目にとまり、1936年(昭和11年)にコロムビアに入社。
伊藤 律(いとう りつ、1913年6月27日 - 1989年… 伊藤 律(いとう りつ、1913年6月27日 - 1989年8月7日)は、日本の政治運動家、元日本共産党政治局員。岐阜県土岐郡土岐村市原(現・瑞浪市)出身(広島県生まれ)。幼名は、恵一。中国名は、顧青。 父・連次郎の勤務先である広島で生まれた。間もなく父の故郷岐阜県瑞浪に戻る。幼少期から神童の誉れが高かったといわれ、旧制岐阜県立恵那中学校(現・岐阜県立恵那高等学校)4年生修了後、1930年に第一高等学校(現・東京大学教養学部)に入学する(飛び級入学。いわゆる「四修進学」)。同期に後に作家となる杉浦明平がいた。杉浦の後年の回想では、入学の時点で伊藤はすでに社会主義に関心を持ち、1年生から読書会を主催していたという。
藤本 東一良(ふじもと とういちりょう、1913年6月27日… 藤本 東一良(ふじもと とういちりょう、1913年6月27日 - 1998年9月17日)は、日本の洋画家、日本芸術院会員。リズミカルな筆触、明快な色調の風景画を得意とした。 静岡県伊豆下田生まれ。生後間もなく大阪に移住。1930年、鹿子木孟郎、赤松麟作に師事する。1931年(昭和6年)大阪天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)卒業後、上京して川端画学校に学ぶ。1935年(昭和10年)東京美術学校入学。寺内萬治郎、藤島武二に師事。1937年(昭和12年)ポール・ゴーギャンに憧れて南洋旅行。1939年(昭和14年)光風会展で初入選、F氏賞を受賞、第3回海洋美術展でも海軍協会賞を受賞。1940年、東京美術学校を卒業、第4回海洋美術展で朝日新聞社賞を受賞。
吉田 武(よしだ たけし、1911年6月27日 - 1990… 吉田 武(よしだ たけし、1911年6月27日 - 1990年4月13日)は、昭和時代後期日本の歌人。福島県出身。 1911年(明治44年)、福島県田村郡小野新町(現在の小野町)に生まれる。福島県郡山商工学校(現在の福島県立郡山商業高等学校)を卒業し、日立製作所に入社。同社を退職して帰郷した後、町立小野中学校教員となる。 1954年(昭和29年)、朴の花短歌会を結成し会長に就任。1966年(昭和41年)に県が募集していた「福島県県民の歌」の作詞部門で応募作が入選し、翌1967年(昭和42年)2月11日に制定される。1972年(昭和47年)、角川書店『短歌』特選。1975年(昭和50年)、東北アララギ郡山に入会。
猪俣 勝人(いのまた かつひと、1911年6月27日 - 1… 猪俣 勝人(いのまた かつひと、1911年6月27日 - 1979年8月7日)は、日本の脚本家・映画監督、映画評論家。東京府出身。 牛込出身。父が検事という厳格な家庭に育つ(のちに初期テレビドラマ『検事』の脚本も手がけている)。父の転任のたびに、長野、東京、千葉、新潟、福岡と転々とする。少年時代から学業を嫌い、文学書に親しみ、中学3年生の時には新聞『万朝報』の長編小説募集に応募、落選するもそれ以降は雑誌にの懸賞小説に毎年応募をし続けたが、当選することは一度もなかった。 日本大学芸術学部卒業後は、福岡で1年半ほど職に就けないでいたが、『九州日報』の短編小説募集で一等に入り、賞金5円を貰い、1934年に松竹蒲田撮影所にシナリオ・ライターの研究生として入社した。
藤野 博(ふじの ひろし、1910年6月27日 - 2005… 藤野 博(ふじの ひろし、1910年6月27日 - 2005年11月24日)は、日本の口腔外科医。専門は口唇口蓋裂治療。九州大学名誉教授。 1910年、兵庫県にて生まれる。1932年に旧制山口高等学校を卒業し、九州帝国大学医学部に進学。1937年に卒業後、第一外科学教室(赤岩八郎教授)を経て歯科学口腔外科学教室(1922年設置)に入局。初代教授・問田亮次(在任1922年 - 1943年)、第2代教授・加来素六(在任1943年 - 1954年)の後を継いで1954年に第3代教授に就任した。同教室の歯学部昇格運動に尽力し、1967年に東京医科歯科大学・大阪大学・東北大学・新潟大学・広島大学に続く6校目の国立大学歯学部設置を果たした(北海道大学と同時)。
中野 次雄(なかの つぎお、明治43年(1910年)6月27… 中野 次雄(なかの つぎお、明治43年(1910年)6月27日 - 平成11年(1999年)10月13日)は、日本の裁判官。元大阪高等裁判所長官。位階は正三位。父は東京府会議長をつとめた中野勇治郎。 東京市本所区東両国出身。 1933年11月高等試験司法科及行政科合格。1934年3月東京帝国大学法学部卒業。同年6月司法官試補 東京地方裁判所詰。1935年判事に任官。 1957年~1964年司法研修所教官。1966年~1968年最高裁判所調査官(上席)。1968年前橋地方・家庭裁判所所長。1970年東京高等裁判所判事。1973年大阪高等裁判所長官、1975年定年退官。1976年~1981年早稲田大学客員教授。
長谷川 富三郎(はせがわ とみさぶろう、1910年6月27日… 長谷川 富三郎(はせがわ とみさぶろう、1910年6月27日 - 2004年8月19日)は日本の版画家。号は無弟。棟方志功とともに民藝運動を支えた板画家である。 1910年(明治43年)に兵庫県姫路市に生まれる。1929年(昭和4年)に鳥取県師範学校を卒業し、倉吉市の明倫小学校に勤務する傍、1934年(昭和9年)に倉吉の文化団体「砂丘社」同人になり油絵を描くようになる。 そのころに吉田璋也と出会い民藝運動に参加する。そして同運動に関わっていた柳宗悦、河井寛次郎らに師事するようになり、1940年(昭和15年)より棟方志功との交友が始まる。戦後、その棟方のすすめで板画を始める。1954年(昭和29年)には、柳宗悦、濱田庄司、バーナード・リーチを明倫小学校に招いて講演会を開催した。
谷本 清(たにもと きよし、1909年6月27日 - 198… 谷本 清(たにもと きよし、1909年6月27日 - 1986年9月28日)は、日本のキリスト教牧師。ノーモアヒロシマズ運動提唱者。娘は近藤紘子。 香川県坂出市で生まれる。関西学院大学神学部を首席で卒業後、渡米して1940年にエモリー大学大学院修了。鹿児島県国分、加治木の教会、沖縄中央教会牧師を経て、1943年に広島流川教会の牧師に就任。 1945年7月まで、広島は空襲を受けていなかったが、多くの人は被害を予期し、人や荷物を都市から疎開させる作業を進めていた。谷本も教会の記録や備品を西郊外の己斐町の知人の屋敷に疎開させており、妻子は毎晩、北東郊外の牛田で寝るようにしていた。 広島市への原子爆弾投下があった8月6日に、谷本は友人の荷物を同じ屋敷に運ぶ手伝いをしていた。
古田 直弥(ふるた なおや、1908年6月27日 - 没年不… 古田 直弥(ふるた なおや、1908年6月27日 - 没年不詳)は、日本の実業家、帝国ホテル支配人、同常務取締役。 東京出身。立教大学を卒業後、帝国ホテルに入社。 同ホテル支配人を務めたのち、1965年(昭和40年)、同社常任監査役に就任。 1968年(昭和43年)、同社常務取締役に就任。 1970年(昭和45年)、同社常務取締役を退任。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
小早川 元治(こばやかわ もとはる、明治40年(1907年)… 小早川 元治(こばやかわ もとはる、明治40年(1907年)6月27日 - ?)は、日本の自動車技術者。 男爵小早川家の当主。位階は正五位。旧姓名は毛利元治。 東京府出身。明治40年(1907年)、第29代毛利宗家当主の毛利元昭の次男として生まれる。その後、叔父にあたる男爵・小早川四郎の養子となる。広島の旧制崇徳中学校、日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)を卒業。崇徳中学校時代には弁論部で活躍、大学時代にはディーゼル機関の研究を行っていた。卒業後は日産自動車の技術者となる。また、ジェントルマンドライバー (アマチュアドライバー) としても活動し、イギリスからMG・K3マグネットを入手して多摩川スピードウェイに参戦するなどしたという。
山本 弥之助(やまもと やのすけ、1907年(明治40年)6… 山本 弥之助(やまもと やのすけ、1907年(明治40年)6月27日 - 1986年(昭和61年)4月11日)は、日本の警察・朝鮮総督府官僚、政治家、弁護士。衆議院議員、盛岡市長。位階は従四位。 本籍・岩手県。山本幸太郎の長男として大阪市に生まれる。第三高等学校を卒業。1931年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1932年、京都帝国大学法学部を卒業。朝鮮総督府に入府し内務局属となる。 以後、朝鮮総督府道理事官、平安北道学務課長、忠清南道地方課長、京畿道学務課長、総督府殖産局事務官、黄海道警察部長、咸鏡北道警察部長、総督府書記官・警務局経済警察課長などを歴任。 1944年7月、岩手県部長・警察部長へ転任。
竹村 奈良一(たけむら ならいち、1906年6月27日 - … 竹村 奈良一(たけむら ならいち、1906年6月27日 - 1978年11月17日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員(日本共産党公認、1期)、日農統一派総本部書記長などを歴任。 奈良県高市郡金橋村(現・橿原市)出身。青年時代より農民運動に関わり、1929年に全農奈良県連争議部長に就任。1931年には、同県生駒郡片桐村満願寺での小作争議に連座した廉で検挙、懲役2ヶ月・執行猶予3年の判決を受ける。その後、全農が方針転換したことに伴い日本農民連盟へ移籍。 戦後は日本農民組合奈良県支部書記長に就任するが、1949年に組合が分裂した際は容共の統一派に属し、常任中央委員を経て書記長となる。この間1949年の衆院選に奈良県全県区から出馬し初当選。
水野 勝邦(みずの かつくに、1904年〈明治37年〉6月2… 水野 勝邦(みずの かつくに、1904年〈明治37年〉6月27日 - 1988年〈昭和63年〉1月12日)は、日本の華族(子爵)・政治家・中国研究者。水野家(旧結城藩)第19代当主。旧名は邦で、1924年(大正13年)11月26日、勝邦に改名した。 1928年(昭和3年)に学習院を卒業、東京帝国大学文学部に進学して中国に関する研究を行った。外務省派遣中華民国調査員、専修大学講師、外務省在支特別研究員、北支那開発会社調査局嘱託などを歴任。北平(現在の北京)に「水野公館」を開設し日中外交に携わると共に、中国各地を調査し多くの報告書、論文を執筆した。 1939年(昭和14年)7月10日に貴族院子爵議員に選出され、院内会派研究会所属し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
岸本 英夫(きしもと ひでお、1903年6月27日 - 19… 岸本 英夫(きしもと ひでお、1903年6月27日 - 1964年1月25日)は、日本の宗教学者。東京大学教授、東京大学附属図書館の館長などを歴任。文学博士(東京帝国大学)。ユニテリアン主義である日本自由宗教連盟の理事長。 兵庫県明石市出身。宗教学者の岸本能武太の次男として生まれる。1916年、東京高等師範学校附属中学校に入学、同級生に美濃部亮吉、正田英三郎、芳賀檀、諸井三郎などがいた。1920年同校4年次修了(四修)で第六高等学校に進学を果たす。1923年春に六高理科甲類を卒業し、東京帝国大学へ進学する。1926年に東京帝大文学部宗教学科を卒業、同大学院進学を経て1930年からハーバード大学大学院に留学、1934年同大M.A.取得。
藤岡 信吾(ふじおか しんご、1901年 <明治34年> 6… 藤岡 信吾(ふじおか しんご、1901年 <明治34年> 6月27日 - 1977年 <昭和52年> 9月3日)は、日本の経営者。三菱石油社長を務めた。位階は正四位。 茨城県出身。1925年に慶應義塾大学法学部を卒業し、同年に三菱商事に入社。1949年6月に三菱石油に転じ、195年11月に取締役に就任し、1955年11月に常務を経て、1961年5月には社長に就任。1973年5月に会長に就任し、1974年5月には取締役相談役に退いた。1965年5月には石油連盟会長に就任。 1963年11月に藍綬褒章を受章し、1971年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1977年9月3日腎盂腎炎のために死去。76歳没。
古田 誠一郎(ふるた せいいちろう、1897年6月27日 -… 古田 誠一郎(ふるた せいいちろう、1897年6月27日 - 1992年12月3日)は日本の社会事業家、教育者、ラジオ・テレビタレント、政治家。日本におけるボーイスカウト草創期の指導者の一人。初代の公選高槻市長、ボーイスカウト日本連盟理事、日本キャンピング連盟常任理事を歴任した。 1897年(明治30年)6月27日、和歌山市に古田吉兵衛の長男として出生。1914年(大正3年)、和歌山商業学校を卒業。 1919年(大正8年)、和歌山の聖救世主教会で受洗し日本聖公会に入信。同年神戸に移住する。 1921年(大正10年)12月1日、神戸聖ミカエル教会でボーイスカウト神戸第1隊(ウォーカー隊)を指導していたフレデリック・ウォーカー宣教師、竹内宗六神父の援助を受け、平井哲夫と共に神戸ボーイスカウト山手隊を結成。