吉田 映子(よしだ あきこ、1937年12月27日 - 19… 吉田 映子(よしだ あきこ、1937年12月27日 - 1997年1月2日)は、日本の英米文学者、翻訳家。 千葉県出身。別名・吉田昤子。一橋大学大学院社会学研究科修了。東京女子医科大学看護短期大学教授を務めた。
12月27日生まれ:268人
吉田 映子(よしだ あきこ、1937年12月27日 - 19… 吉田 映子(よしだ あきこ、1937年12月27日 - 1997年1月2日)は、日本の英米文学者、翻訳家。 千葉県出身。別名・吉田昤子。一橋大学大学院社会学研究科修了。東京女子医科大学看護短期大学教授を務めた。
松本 行雄(まつもと ゆきお、1937年12月27日 - )… 松本 行雄(まつもと ゆきお、1937年12月27日 - )は、日本の銀行家。 沖縄県出身。1960年に琉球大学文理学部商学科を卒業し、1948年6月に琉球銀行に入行。1983年6月に取締役に就任し、1989年6月に常務、1993年6月に専務を経て、1997年6月には頭取に就任。2001年4月には相談役に退いた{。
吉岡 基次(よしおか もとつぐ、1936年12月27日 - … 吉岡 基次(よしおか もとつぐ、1936年12月27日 - 2015年3月22日)は、日本の実業家。第5代松坂屋代表取締役社長。 愛知県名古屋市出身。1959年名古屋大学法学部卒業、松坂屋入社。1989年名古屋駅店長。1991年取締役。1993年常務取締役名古屋店長。1995年専務取締役名古屋店長。1997年から代表取締役社長を務め、総会屋事件を受けて体制整備を行った。1998年名古屋中法人会会長。2015年病没。享年78。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
広田 亮一(ひろた りょういち、1935年12月27日 - … 広田 亮一(ひろた りょういち、1935年12月27日 - 2024年1月3日)は、日本のジャーナリスト、新聞経営者。南日本新聞社社長を務めた。鹿児島県鹿児島市出身。 1958年に鹿児島大学文学部国文学科を卒業し、南日本新聞社に入社。1990年2月に取締役に就任し、1991年12月に常務、1993年12月に専務を経て、1995年12月から1999年12月までに社長を務めた。 2024年1月3日、特発性間質性肺炎のために死去。88歳没。
志摩 篤(しま あつし、1934年〈昭和9年〉12月27日 … 志摩 篤(しま あつし、1934年〈昭和9年〉12月27日 - )は、日本の陸上自衛官。第22代陸上幕僚長。初の防衛大学校卒業の陸上幕僚長である。2012年より偕行社理事長。 熊本県熊本市に5人兄弟の末っ子として生まれる。小学校1年の時に父の転勤により、福岡に移り、戦後は長崎県大村市で高校卒業まで過ごす。防衛大学校(当時は保安大学校)入校の動機は兄が保安隊に入隊しており、以前から入隊を勧められていたことと、当時新聞に掲載された保安大学校の制服を見て格好いいと思い志願した。防大では剣道部に所属する。1957年(昭和32年)に防大を卒業し、幹部候補生として訓練を受けたのち、1958年(昭和33年)に初任地である第1普通科連隊(練馬)に小隊長として配属された。
中尾 嘉伸(なかお よしのぶ、1934年〈昭和9年〉12月2… 中尾 嘉伸(なかお よしのぶ、1934年〈昭和9年〉12月27日 - 2009年〈平成21年〉6月27日)は、日本の政治家、元岡山県津山市長(3期)。 岡山県英田郡美作町(現・美作市)出身。中央大学法学部卒。製紙会社を経営し、津山青年会議所理事長、津山商工会議所副会頭などを務める。1995年、津山市長に当選。3期務める。3期目の途中であった2006年(平成18年)1月、再開発ビル「アルネ・津山」への税金投入が批判を浴び、市長解職(リコール)成立で失職した。同年3月の津山市長選挙に立候補したが、元岡山県議会議長の桑山博之に敗れた。 2009年に胃癌で死去した。
北川 弘治(きたがわ ひろはる、1934年12月27日- )… 北川 弘治(きたがわ ひろはる、1934年12月27日- )は、日本の弁護士、元裁判官。最高裁判所判事を務めた。愛知県出身。2006年4月旭日大綬章受章。 関西水俣病訴訟において、「国と熊本県はチッソを原因企業と認識できたのに排水規制せず、被害を拡大させたことは著しく不合理であり、違法である」とし、実質原告勝訴の判決を下したことで知られている。足利事件の冤罪判決を下した最高裁判事5名のうちの1人。 名古屋大学法学部卒業後は1957年(昭和32年)4月に第11期司法修習生、1959年(昭和34年)4月8日に東京地方裁判所・東京家庭裁判所判事補任官。判事補任官以降の経歴は以下の通り。 2000年(平成12年)2月4日、千葉・高知連続強盗殺人事件で第一審・控訴審で死刑判決を受けた被告人Kの上告を棄却する決定を出したため、被告人Kに対する死刑判決が確定した。
高橋 達也(たかはし たつや、本名:高橋 達朗(たかはし た… 高橋 達也(たかはし たつや、本名:高橋 達朗(たかはし たつろう)、1931年12月27日 - 2008年2月29日)は、日本のジャズ・テナーサックス奏者、バンドリーダー。 山形県鶴岡市生まれ。1951年、仙台の米軍キャンプでプロデビューしその後上京する。1964年にビッグバンド「東京ユニオン」に加入、1966年には4代目バンドリーダーに就任、「高橋達也と東京ユニオン」として名実共に日本一のビッグバンドに成長させる。 1977年、三木敏悟作品アルバム『北欧組曲』でスイングジャーナルジャズディスク大賞、日本ジャズ賞受賞。1978年・1980年、モントルー・ジャズ・フェスティバル出演。1980年代を中心にテレビ音楽を始め数々の演奏を行ってきたが、人気絶頂の1989年11月に心筋梗塞に倒れ緊急入院。
宮崎 直男(みやざき のぶお、1931年12月27日 - )… 宮崎 直男(みやざき のぶお、1931年12月27日 - )は、日本の教育学者・文部官僚。専門は特殊教育。 埼玉県加須市出身。1953年埼玉大学教育学部卒、文部省に入る。1972年文部省初等中等教育局特殊教育課教育調査官。1981年国立特殊教育総合研究所精神薄弱教育研究部長。特別支援教育の実技研究所所長/独立行政法人国立特別支援教育総合研究所名誉所員。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
多木 浩二(たき こうじ、1928年12月27日 - 201… 多木 浩二(たき こうじ、1928年12月27日 - 2011年4月13日)は、日本の美術評論家・写真評論家・建築評論家。専門は芸術学。元千葉大学教授。 写真評から出発し、美術、建築、思想と多岐にわたって批評活動を展開した。スポーツと社会の関連も論究。著書に『眼の隠喩』(1982年)、『天皇の肖像』(1988年)、『シジフォスの笑い』(1997年)などがある。 兵庫県神戸市生まれ。神戸一中、旧制第三高等学校、東京大学文学部美学美術史学科卒業。和光大学助教授、東京造形大学教授、千葉大学教授、神戸芸術工科大学客員教授を歴任。 1955年、『美術批評』誌の第2回芸術評論賞にて「井上長三郎論」で佳作入選。
阪田 誠造(さかた せいぞう、1928年(昭和3年)12月2… 阪田 誠造(さかた せいぞう、1928年(昭和3年)12月27日 - 2016年(平成28年)7月21日)は、日本の建築家。 大阪府大阪市出身。1951年(昭和26年)、早稲田大学理工学部建築学科卒業。同年坂倉準三建築研究所入所。 1969年(昭和44年)の坂倉準三死去に伴い、西沢文隆らと共に坂倉建築研究所を設立し、取締役東京事務所長、1985年(昭和60年)から1999年(平成13年)まで代表取締役、1999年(平成13年)以後は最高顧問を務めた。 1990年(平成2年)から1991年(平成3年)まで新日本建築家協会副会長、1993年(平成5年)から1999年(平成11年)まで明治大学理工学部建築学科教授を務めるなど、建築界の発展や教育にも貢献した。
二見 富雄(ふたみ とみお、1927年12月27日 - 20… 二見 富雄(ふたみ とみお、1927年12月27日 - 2007年1月25日)は、日本の経営者。日野自動車社長を務めた。東京都出身。 1953年に東京大学法学部を卒業し、同年に日野ヂーゼル工業(のちの日野自動車)に入社。 1978年6月に取締役に就任し、1987年6月には社長に就任。1997年6月に相談役に就任し、2000年6月から顧問を務めた。 2007年1月25日肺がんのために死去。79歳没。
岩崎 正視(いわさき まさみ、1925年12月27日 - 2… 岩崎 正視(いわさき まさみ、1925年12月27日 - 2019年3月1日)は、日本の実業家。勲等は勲二等。学校法人名城大学名誉顧問。 トヨタ自動車工業株式会社常務、トヨタ自動車株式会社副社長、トヨタ自動車株式会社副会長、株式会社名古屋グランパスエイト社長(第2代)、社団法人日本自動車工業会会長(第7代)、学校法人名城大学理事長(第13代)などを歴任した。 静岡県出身。1948年神戸経済大学(現神戸大学)卒業、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)入社。 1973年取締役に昇格。1979年常務取締役。1982年専務取締役。1986年取締役副社長。1992年取締役副会長。 1995年には豊田達郎社長が病気のため不在となるなかで、日本自動車工業会会長に就任し、豊田章一郎トヨタ自動車会長とともに日米自動車交渉にあたった。
森永 大(もりなが ひろし、1925年〈大正14年〉12月2… 森永 大(もりなが ひろし、1925年〈大正14年〉12月27日 - 1995年〈平成7年〉3月18日)は、日本の政治家。福井県大野市出身。札幌文科専門学院(現札幌学院大学)経済本科中退。元・北海道歌志内市長(1980年-1988年)。位階は従六位。 1951年歌志内町役場に入り、税務課長、水道課長、民生部長を経て、1971年同市助役。1980年に歌志内市市長選挙に出馬し当選。以後、2期8年市政を担うが、1988年の市長選挙で落選。1995年3月18日、肝臓癌のため死去。死没日付をもって従六位に叙された。 囲碁、観劇、絵画を好んだという。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
佃 實夫(つくだ じつお、1925年(大正14年)12月27… 佃 實夫(つくだ じつお、1925年(大正14年)12月27日 - 1979年3月9日)は、日本の小説家、文献学者。 徳島県阿南市出身。徳島青年師範学校中退。郵便局員、教員、徳島県立図書館司書、横浜市立図書館司書。 1959年「ある異邦人の死」で芥川賞候補。晩年徳島に在住したモラエスを描いたもので、1966年には大部の『わがモラエス伝』を上梓した。幕末・明治期を舞台として、『阿波自由党始末記』などの小説を書いた。1969年にポルトガル文化勲章受章。また文献学にも通じ、日外アソシエーツの『現代日本執筆者大事典』の編纂に携わった。 ポルトガル文化勲章(1969年) この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
井上 和男(いのうえ かずお、1924年12月27日 - 2… 井上 和男(いのうえ かずお、1924年12月27日 - 2011年6月26日)は、神奈川県小田原市出身の日本の映画監督。 神奈川県小田原市出身。神奈川県立小田原中学校(現・神奈川県立小田原高等学校)をへて早稲田第一高等学院に入る、1944年3月学徒応召し海軍飛行少尉に任官。1945年8月復員、早稲田大学商学部に入る。在学中に小田原で劇団こゆるぎ座を創立し劇作家を目ざす。 1948年に大学を卒業し、松竹大船撮影所脚本部に入る。新藤兼人に師事し、その勧めで助監督試験を受け、12月に助監督となる(松山善三と同期)。渋谷実、川島雄三、小津安二郎『東京物語』で助監督を務める。 1955年、京都映画『父と子と母と』で監督を務め、1958年松竹大船の監督に昇進する。
小口 伯郎(おぐち はくろう、1924年12月27日 - 2… 小口 伯郎(おぐち はくろう、1924年12月27日 - 2005年11月3日)は日本の物理学者。東京大学名誉教授。宇宙科学研究所名誉教授。理学博士(1970年、東京大学)。専門は流体力学、気体力学。 長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、昭和21年(1946年)東京帝国大学物理工学科卒業。同理工学部研究所助手、同30年(1955年)助教授、同37年(1962年)教授に就任。また昭和35年(1960年)ブラウン大学客員准教授、同36年(1961年)コーネル大学客員研究員、同56年(1981年)宇宙科学研究所宇宙輸送研究系教授を務めた。
原 子朗(はら しろう、1924年12月27日 - 2017… 原 子朗(はら しろう、1924年12月27日 - 2017年7月4日)は、日本の詩人、日本近代文学研究家、早稲田大学名誉教授、元宮沢賢治イーハトーブ館館長、早稲田大学出版部取締役。宮沢賢治、文体論などを研究する。 長崎県出身。早稲田大学文学部卒業、早稲田大学大学院中退。 日夏耿之介、吉田一穂に師事。1950年『詩世紀』創刊に参加。『文藝首都』編集同人として近代詩論などを執筆。立正女子大学、早稲田大学政治経済学部教授を歴任。 1986年『石の賦』で現代詩人賞受賞。 1993年『宮沢賢治語彙辞典』で宮沢賢治賞受賞。 1995年、早稲田大学を定年退職し、名誉教授。昭和女子大学教授に転じる。 2012年、瑞宝小綬章受章。
岡部 冬彦(おかべ ふゆひこ、1922年12月27日 - 2… 岡部 冬彦(おかべ ふゆひこ、1922年12月27日 - 2005年5月16日)は、東京出身の漫画家、科学ジャーナリスト。埼玉県さいたま市に在住していた。 東京生まれ。東京美術学校(現東京芸術大学)卒。卒業後、ライオン歯磨宣伝部を経て、漫画家となった。漫画集団同人。名取洋之助が編集していた『岩波写真文庫』の現場で、三木淳、稲村隆正らともに学ぶ。またスタッフだった女性デザイナーと結婚した。 1956年から13年間『週刊朝日』に『アッちゃん』を連載し、サラリーマン家庭の暮らしぶりを子どもの視点からユーモラスに描いた作風で人気を博す。せりふのない4コマ漫画『ベビーギャング』、外国漫画の影響を受けた『アツカマ氏』『オヤカマ氏』などの作品で人気を博した。
佐々木 醇三(ささき じゅんぞう、1920年12月27日 -… 佐々木 醇三(ささき じゅんぞう、1920年12月27日 - 2002年4月30日)は、日本の経営者。ニチロ社長を務めた。北海道出身。 1946年に北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業し、1947年に農林中央金庫に入社し、1973年には理事に就任。1980年12月に日魯漁業(のちのニチロ)に転じ、最高顧問に就任し、1981年2月に副社長を経て、1986年2月には社長に就任。1990年1月に取締役相談役を経て、同年6月には相談役に就任。社長在任時には、積極的な海外展開による加工食品事業の強化などにより、当時経営不振に陥っていた自社の再建に尽力した。 1997年に勲三等瑞宝章を受章。 2002年4月30日に心筋梗塞のために死去。
天川 清三郎(あまかわ せいざぶろう、1919年12月27日… 天川 清三郎(あまかわ せいざぶろう、1919年12月27日 - 1944年10月26日)は京都府出身のプロ野球選手(投手、外野手)。
河村 喜典(かわむら よしぶみ、1915年12月27日 - … 河村 喜典(かわむら よしぶみ、1915年12月27日 - 2010年5月25日)は、日本の経営者。三共株式会社(現第一三共)代表取締役社長・会長。 1915年12月27日山口県生まれ。豊浦中学校、第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。 サラリーマン社長ながら1975年から25年間の長期にわたって三共株式会社社長を務め、抗炎症剤ロキソニンや高脂血症治療剤メバロチンなどを大型製品に育てた。1997年、勲二等旭日重光章受章。2000年に代表取締役会長に就任するが、同年、取締役である息子の不祥事によって会長を退任する。2011年5月25日死去、95歳。
肥後 正典(ひご まさのり、1915年(大正4年)12月27… 肥後 正典(ひご まさのり、1915年(大正4年)12月27日 - 2004年(平成16年)9月28日)は、日本の政治家、鹿児島県指宿市長(2期)。医師、医学博士。鹿児島県議会議員、山川町議会議員も務めた。位階は正五位。 鹿児島県指宿市出身。旧制鹿児島県立指宿中学校(現鹿児島県立指宿高等学校)、日本医科大学予科を経て、1943年日本医科大学卒業。陸軍に入隊し、陸軍軍医学校卒業後、上海検疫官(陸軍軍医大尉)。1946年7月復員、1946年10月開業。復員後は旧揖宿郡山川町に居住。1953年新制鹿児島大学・旧制県立鹿児島医科大学の桝屋富一内科教室専攻生。1955年4月30日から山川町議会議員を務める。
岩尾 裕純(いわお やすずみ、1915年12月27日 - 1… 岩尾 裕純(いわお やすずみ、1915年12月27日 - 1991年2月11日)は、日本の経営学者。中央大学・名古屋経済大学名誉教授。 岡山県出身。1940年中央大学商学部卒、1962年「中小企業の近代化」で商学博士。満州農産公社調査役、運輸調査局調査役を経て、1948年中央大学商学部講師、1950年助教授、1956年教授、商学部長、同大学企業研究所所長。1986年定年、名誉教授。名古屋経済大学教授、名誉教授。日本学術会議委員。
斉藤 武(さいとう たけし、1914年12月27日~2001… 斉藤 武(さいとう たけし、1914年12月27日~2001年3月6日)は、日本の工学者。工学博士(北海道大学)。専門は、熱工学。札幌市出身 1939年北海道帝國大學工学部機械工学科卒業。1939年同工学部助手。1940年同工学部助教授。1949年北海道大学工学部教授。1957年同工学部教授。1960年北海道大学にて論題「高速流動域における管内熱伝導に関する研究」で工学博士受く。北海道大学工学部長や北海道大学副学長を経て、1978年同停年退官。同名誉教授。豊橋技術科学大学副学長。1980年同工学部教授。1984年同定年退職。同名誉教授。日本工学院北海道専門学校自動車整備科客員講師。1987年同退職。
赤松 秀雄(あかまつ ひでお、1910年12月27日 - 1… 赤松 秀雄(あかまつ ひでお、1910年12月27日 - 1988年1月8日 )は、日本の物理学者・化学者。学位は、理学博士(東京大学・1942年)(学位論文「固液界面における吸着現象の実験的研究」)。東京大学教授・横浜国立大学工学部長・岡崎国立共同研究機構分子科学研究所初代所長を歴任。有機半導体の発見者として知られる。1981年勲二等旭日重光章受章。 1954年、井口洋夫らとともにペリレンと臭素の錯体が高い導電性を示すことを発見し、有機半導体の概念を提唱した。これは後に白川英樹らによる導電性高分子の発見にもつながった。 門下に井口洋夫、中川鶴太郎ら。日本の炭素研究の先駆者である他、水素エネルギーの研究にも先駆的な役割を果たした。
淡中 忠郎 (たんなか ただお、1908年12月27日 - … 淡中 忠郎 (たんなか ただお、1908年12月27日 - 1986年10月25日)は、日本の数学者。専門は代数学。 愛媛県松山市生まれ。東北帝国大学卒。1945年東北帝国大学教授、後に東北学院大学教授を務めた。ポントリャーギン双対性をコンパクト群へ拡張した淡中-クラインの双対定理で著名。 この定理はグロタンディークによる淡中圏の概念へと発展した。 東京出版の月刊誌『大学への数学』で、「数学雑談」という連載記事の執筆を1960年(昭和35年)から晩年まで担当していた。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
長広 敏雄(長廣 敏雄、ながひろ としお、1905年12月2… 長広 敏雄(長廣 敏雄、ながひろ としお、1905年12月27日 - 1990年11月28日)は、日本の美術史学者。専攻は東洋美術史。文学博士(京都大学・論文博士・1962年)(学位論文「中国石窟寺院の研究」)。京都大学名誉教授。 東京府葛飾生まれ(牛込とする記述もあり)。1929年京都帝国大学文学部卒業、東方文化学院京都研究所所員となり、梅原末治の助手となる。1934年の中国旅行を経て仏教石窟研究へ関心が移り、1936年に水野清一と中華民国・河北省南北響堂山および河南省龍門石窟の調査を行った。1938年から1944年にかけては、山西省雲崗石窟の調査を行った。 1930年代後半には反ファシズムの隔週刊新聞『土曜日』の執筆に参加したこともある。
安中 忠雄(あんなか ただお、1905年 <明治38年> 1… 安中 忠雄(あんなか ただお、1905年 <明治38年> 12月27日 - 1999年 <平成11年> 8月17日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。宮崎県知事。位階は従四位。 新潟県出身、東京帝国大学卒。1928年内務省に入省。厚生省大臣官房会計課長を経て1945年宮崎県知事(官選)に就任。 1947年に知事が公選となったのに伴い、初の知事選挙に出馬。一位の二見甚郷が法定得票数に届かず、二見との決選投票となったが、二見の公職追放により無投票当選した。知事を1期務めた後1951年に郷里・新潟県の知事選に鞍替え出馬するが落選。翌1952年の総選挙において新潟2区から自由党公認で立候補したが落選。1959年に返り咲きを目指して再度宮崎県知事選に出馬するも黒木博に敗れた。
太田 敬三(おおた けいぞう、1902年12月27日 - 1… 太田 敬三(おおた けいぞう、1902年12月27日 - 1996年4月1日)は、日本の医学者、東宮侍医。専門は、小児科学。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高等学校理科を経て、1926年東京帝国大学医学部医学科卒業。 1926年東大医学部薬理学教室に入り、1927年小児科副手となり、外来診察所医長、1934年医学部附属病院小児科医長兼講師、1937年宮内省侍医寮勤務を経て、1945年東京医学歯学専門学校(現・東京医科歯科大学)講師、のち教授。1949年初代東京医学歯学専門学校附属医院国府台分院長。1956年東京医科歯科大学医学部附属病院長。
小林 太市郎(こばやし たいちろう、1901年12月27日 … 小林 太市郎(こばやし たいちろう、1901年12月27日 - 1963年5月7日)は、美術史家・芸術学者。 京都西陣生まれで生家も西陣織の織り元である。母テウは京都御所の東で塾を開いていた宮津藩士宮城盛信の次女。京都帝国大学哲学科卒。 ソルボンヌ大学に三年間留学し、帰国後、東方文化学院研究嘱託、大阪市立美術館学芸員を経て、1950年、神戸大学教授となり芸術学の講座を担当した。1947年、『大和絵史論』で毎日出版文化賞受賞(また、同論文によって東大より博士号を授与されている)。没後、淡交社から『小林太市郎著作集』が刊行された。膨大な蔵書が神戸大学に寄贈され、神戸大学人文科学図書館に「小林文庫」として保管されている。
三輪 知雄(みわ ともお、1899年12月27日 - 197… 三輪 知雄(みわ ともお、1899年12月27日 - 1979年12月27日)は、日本の植物学者、生化学者。筑波大学初代学長。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)出身。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1922年(大正11年)に東京高等師範学校理科第三部卒業。千葉県の旧制中学校教諭を経て、同12年(1923年)東京帝国大学理学部植物学科入学、昭和2年(1927年)卒業。 昭和4年(1929年)東京高師講師、同5年(1930年)東京文理科大学助教授、同15年(1940年)教授を経て、同24年(1949年)東京教育大学理学部教授に就任。同29年(1954年)理学部長、同37年(1962年)学長を歴任した。
森田 俊介(もりた しゅんすけ、1899年(明治32年)12… 森田 俊介(もりた しゅんすけ、1899年(明治32年)12月27日 - 1980年(昭和55年)10月6日)は、日本の台湾総督府・厚生官僚。台中州知事。 福岡県鞍手郡若宮村(現宮若市)で森田栄介の長男として生まれる。第七高等学校造士館を経て、1924年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年5月、台湾総督府に入り、同属・内務局配属となる。同年11月、高等試験行政科試験に合格。 以後、内務局地方課配属、地方理事官・台中州大屯郡守、地方警視・台北州警務課長、警務局警務課配属などを経て、1929年12月、警視・警務局理蕃課長に就任。在任中に霧社事件が起こり、その対応に当たった。さらに、警務局衛生課長、同局警務課長、新竹州内務部長、台北州内務部長、文教局学務課長、台中州知事、文教局長などを歴任し、鉱工局長として終戦を迎えた。
鈴木 彦次郎(すずき ひこじろう、1898年12月27日 -… 鈴木 彦次郎(すずき ひこじろう、1898年12月27日 - 1975年7月23日)は、日本の小説家。 東京府生まれ。岩手県選出の衆議院議員・鈴木巌の二男として生まれた。6歳から父の転勤に伴って盛岡に移る。盛岡中学校、第一高等学校をへて東京帝国大学英文科、のち国文科に転じて1923年卒業。高校時代寮の同室だった川端康成、石浜金作、酒井眞人に今東光の五人で第6次『新思潮』を1921年創刊。1923年文藝春秋同人、1924年川端、横光利一らの『文藝時代』に参加。新感覚派の一人とされた。1928-1930年舟橋聖一、村山知義らと心座の新劇運動に携わる。のち農民小説、大衆小説、歴史小説、相撲小説に転じる。
浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1… 浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1898年(明治31年)12月27日 - 1960年(昭和35年)10月12日)は、日本の政治家。東京府三宅村(現在の東京都三宅村)出身。日本社会党書記長、委員長を歴任。
上原 七之助(うえはら しちのすけ、1898年(明治31年)… 上原 七之助(うえはら しちのすけ、1898年(明治31年)12月27日 - 1945年(昭和20年)2月6日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 本籍・宮崎県。陸軍将校・上原勇作の長男として生まれる。父の死去に伴い、1933年(昭和8年)家督を継承し、1934年(昭和9年)1月15日、子爵を襲爵した。 父は七之助に軍職を進めなかったことから大学へ進み、1925年(大正14年)3月、東京帝国大学経済学部を卒業。同年、東京海上火災保険に入社。その後、南満州鉄道嘱託などを務めた。 1938年(昭和13年)9月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、死去するまで二期在任した。
山田 穣(やまだ みのる、1897年(明治30年)12月27… 山田 穣(やまだ みのる、1897年(明治30年)12月27日 - 1985年(昭和60年)12月4日)は、昭和時代の日本の鉱山学者。採鉱学の権威。主な研究分野は炭坑内のガス爆発や炭塵爆発。九州大学名誉教授。 現在の愛媛県伊予市にて生まれる。1922年(大正11年)九州帝国大学工学部採鉱学科を卒業。1939年(昭和14年)工学博士。同年、母校の九州帝国大学の教授となり、生産科学研究所長、工学部長を歴任。1953年(昭和28年)11月から1961年(昭和36年)11月まで同大学総長を、退官後の1967年(昭和42年)4月から1978年(昭和53年)3月まで九州共立大学の学長を務めた。ほか、1963年(昭和38年)11月に起きた三井三池三川炭鉱炭塵爆発の政府技術調査団団長を務めた。
内田 恵太郎(うちだ けいたろう、1896年(明治29年)1… 内田 恵太郎(うちだ けいたろう、1896年(明治29年)12月27日 - 1982年(昭和57年)3月3日)は、日本の魚類学者。 東京神田小川町駿河下出身。第一高等学校卒、東京帝国大学農学部水産学科を卒業。 卒業後は同大学講師、朝鮮総督府水産試験場技師をへて、1942年九州帝国大学農学部教授となる。戦後、1947年に『朝鮮魚類誌』を九州大学に提出して農学博士の学位を取得。九州大学付属水産実験所所長として勤務した。定年退官、名誉教授。 魚類の生活史を研究テーマとした。 内田清之助、内田勇三郎は従兄。
大塚 好治(おおつか こうじ、1895年12月27日 - 1… 大塚 好治(おおつか こうじ、1895年12月27日 - 1979年4月25日)は、日本の化学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(大阪大学)。元応用化学教室担当。 専門は、無機工業化学・分析化学・物理化学。 鳥取県出身。1917年旧制大阪高等工業学校(のちの大阪大学)卒業。同校助手となり、1929年旧制大阪工業大学(のちの大阪大学工学部)講師。1933年大阪帝国大学工学部応用化学科助教授などを経て、1952年大阪大学大学院工学研究科にて工学博士(大阪大学)。1958年大阪工業大学工学部応用化学科教授、応用化学教室を担当。1977年大阪工業大学名誉教授。1979年逝去。 大阪工業大学工学部応用化学科で、1958年の同学科開設時より18年の長きに渡り教鞭を執り、同学科初期の応用化学(特に、無機工業化学・分析化学・物理化学)の研究・育成に貢献した。
笠井 鎮夫(かさい しずお、1895年12月27日 - 19… 笠井 鎮夫(かさい しずお、1895年12月27日 - 1989年5月21日)は、日本の文学研究者、スペイン語学・文学者、翻訳家。東京外国語大学名誉教授。日本の怪異譚にも関心をもち、僖真 学人を名乗った。 岡山県岡山市出身。1919年東京外国語学校西語学科卒業。同年4月同校助教授。1929年同校教授。1949年東京外国語大学教授、同年7月から1951年まで同大学附属図書館長を兼任。1959年定年退官、名誉教授、南山大学教授、1972年退職。 日本とスペイン語圏文化の交流に尽力し、日本ボリビア協会理事、日本アルゼンチン協会評議員などを歴任。『西譯古今名句選』では、俳句のスペイン語訳を行った。 1965年6月、スペイン政府からイサベル・ラ・カトリカ勲章(スペイン語版、英語版)を受章。
川越 庸一(かわごえ よういち、1893年〈明治26年〉12… 川越 庸一(かわごえ よういち、1893年〈明治26年〉12月27日 - 1983年〈昭和58年〉6月3日)は、日本の実業家。「中京デトロイト化構想」の創案者。大同メタル工業創業者・社長・会長、相談役、名古屋YMCA理事長、豊田式自動織機自動車部初代部長を務めた。 藍綬褒章、勲四等瑞宝章受章、従五位。温かく飾らない謙虚な人柄で慕われた。名古屋商工会議所会頭を務めた佐々部晩穂氏とは姻戚関係にある。 川越直夫の二男として、福岡市に生まれる。福岡県士族。1912年(明治45年)福岡県立中学修猷館を経て、1915年(大正4年)熊本高等工業学校機械工学科(現熊本大学工学部)を卒業する。在学中に自動車に大きな興味を覚え、卒業論文に自動車の設計図を提出している。
岡崎 義恵(おかざき よしえ、男性、1892年12月27日 … 岡崎 義恵(おかざき よしえ、男性、1892年12月27日 - 1982年8月6日)は、日本の国文学者・文芸学者。文学博士。日本学士院会員。 高知市生まれ。東京帝国大学卒、1923年東北帝国大学助教授、のち東北大学教授、1955年共立女子大学教授。1965年日本学士院会員。 美学に基づく日本文芸学を唱えた。1937年谷崎潤一郎が『源氏物語』の現代語訳を出した際、光源氏と藤壺の密通の場面が削除されたことを批判した。『岡崎義恵著作集』全10巻がある。 墓所はさいたま市西区三橋の青葉園。
蔭山 貞吉(かげやま さだきち、1886年〈明治19年〉12… 蔭山 貞吉(かげやま さだきち、1886年〈明治19年〉12月27日 - 1950年〈昭和25年〉6月13日)は、日本の政治家、陸軍軍人。衆議院議員(3期)。旧姓・橘。 大阪府川辺郡、のちの小田村(現尼崎市)の橘家に生まれ、1917年(大正6年)蔭山しな の養子となり、1918年(大正7年)家督を相続した。 1907年(明治40年)陸軍士官学校(19期)卒。卒業後、京都帝国大学に派遣され、政治、経済学を学ぶ。陸軍歩兵少佐に進み大阪歩兵第8連隊大隊長となり退官した。その後、全国土地区画整理組合顧問、三和特殊製鋼、阪神急行自動車、日ノ丸無尽各(株)重役、(株)日本造機所社長となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において兵庫2区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが次点で落選。
十三ノ浦 金四郎(とさのうら きんしろう、1885年12月2… 十三ノ浦 金四郎(とさのうら きんしろう、1885年12月27日 - 1914年10月9日)は、青森県北津軽郡中里町出身で二十山部屋に所属した力士。本名は岩田 金四郎。170cm、120kg。最高位は西前頭9枚目。 東奥義塾を卒業し、二十山部屋に入門。非常に文章・文筆巧みであったという。当時としては体格が良く、「アンコウ」の異名をとり、左四つからの寄りには威力があった。1903年5月初土俵、1909年6月十両昇進。新橋倶楽部事件では力士側の書記役を務めた。1911年2月に入幕し、前頭9枚目まで昇進。しかし病の為に不振に陥り幕下まで転落。1914年1月に廃業したが、年内に没した。
山田真山(やまだ しんざん、1885年(明治18年)12月2… 山田真山(やまだ しんざん、1885年(明治18年)12月27日 - 1977年(昭和52年)1月29日)は、明治から昭和にかけての彫刻家、画家。本名は渡嘉敷 兼慎(とかしき けんしん)。 沖縄県那覇市壺屋にて、士族で漢学者の渡嘉敷兼礼の五男として生まれるが、幼少時に父が病没したため貧困の少年時代を過ごす。手先の器用さが認められ、大工の修行をする。やがて上京、20歳で東京美術学校へ進んで木彫科・彫塑科を専攻、山田泰雲に師事し、その養子となる。また、高村光雲の教えを受ける。1906年に清国の北京芸徒学堂教授となるが翌1907年に帰国して東京美術学校に戻り、小堀鞆音に日本画を学ぶ。1914年、文展入選。
一ノ瀬 俊民(いちのせ としたみ、1885年(明治18年)1… 一ノ瀬 俊民(いちのせ としたみ、1885年(明治18年)12月27日 - 1958年(昭和33年)6月16日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県杵島郡武雄町長。 佐賀県杵島郡、のちの武雄町(現武雄市)で、一ノ瀬傳三郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)長崎高等商業学校(現長崎大学)を卒業。1920年(大正9年)家督を相続し農業を営む。 政界では、武雄町長、佐賀県会議員を務めた。1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙に佐賀県第2区から立憲政友会公認で出馬して当選し、翼賛議員同盟に所属して衆議院議員に1期在任した。 戦後、公職追放となる。1951年(昭和26年)追放解除。
高田 保馬(たかた やすま、1883年(明治16年)12月2… 高田 保馬(たかた やすま、1883年(明治16年)12月27日 - 1972年(昭和47年)2月2日)は、日本の経済学者、社会学者、歌人。文化功労者。京都大学、大阪大学、大阪府立大学各名誉教授。 1883年12月27日、佐賀県小城郡三日月村(現・佐賀県小城市三日月町)遠江で生まれた。1897年3月に三日月村晩成小学校を卒業し、佐賀県立佐賀中学校(現在の佐賀西高校、佐賀北高校、佐賀東高校)に進んだ。1902年3月に卒業し、第五高等学校第一部に入学。1907年7月に卒業し、同年京都帝国大学文科大学哲学科に進み、米田庄太郎に師事した。1910年7月に京都帝国大学を卒業し、同大学大学院に進学。 1914年9月、京都帝国大学法科大学講師に就いた。
岡 正雄(おか まさお、1882年〈明治15年〉12月27日… 岡 正雄(おか まさお、1882年〈明治15年〉12月27日 - 1948年〈昭和23年〉10月3日)は、日本の内務・警察官僚。憲政会系官選県知事、内務省警保局長。 島根県松江市出身。岡政徳の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入省し、北海道庁属となる。 以後、北海道庁事務官補、同理事官、佐賀県理事官、新潟県理事官、青森県警察部長、鳥取県内務部長、愛知県警察部長などを歴任。 1924年7月、富山県知事に就任。県営林造成、第二次伏木港築港工事、県営電力開発などに尽力。憲政会系と見られていたが、公正な県政運営により県民の信頼を得た。
豊田 勝蔵(とよだ / とよた かつぞう、1882年(明治1… 豊田 勝蔵(とよだ / とよた かつぞう、1882年(明治15年)12月27日 - 1939年(昭和14年)11月23日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選福井県知事、樺太庁長官、台湾総督府内務局長、萩市長を歴任。 山口県阿武郡萩町細工町(現萩市細工町)出身。豊田三蔵の長男。旧制山口高等学校を経て、1908年東京帝国大学法科大学法律学科卒業。内務省に入省し、埼玉県属となる。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、鹿児島県事務官、同理事官、秋田県警察部長、静岡県警察部長、台湾総督府警務官、台北高等商業学校長兼総督府参事官などを歴任。 1924年7月、福井県知事就任。郡役所廃止後に備えた吏員講習所の設置、県営印刷所の設置、自作農創設の新政策の実施などを推進した。
伊波 月城(いは げつじょう)として知られた、伊波 普成(い… 伊波 月城(いは げつじょう)として知られた、伊波 普成(いは ふせい、1880年(明治13年)12月27日 - 1945年(昭和20年)5月30日)は、沖縄県のジャーナリスト、琉歌の歌人。「沖縄学の父」と称される伊波普猷の弟。 1880年(明治13年)12月27日に、当時の那覇西村(後の那覇市西)で、父・伊波普済、母・マツルの間に生まれた。 兄・普猷とともに、沖縄県尋常中学校(後の沖縄県立第一中学校などを経て、沖縄県立首里高等学校に系譜が繋がる)に学び、1895年(明治28年)から1896年(明治29年)にかけて、普猷ら上級生が主導した尋常中学校ストライキ事件の際には、下級生としてこれに加わったが、最終的に学校に残り、1899年(明治32年)に卒業した。