上野 雄文(うえの ゆうぶん、1927年11月1日 - 19… 上野 雄文(うえの ゆうぶん、1927年11月1日 - 1997年8月7日)は、日本の政治家、参議院議員(3期、日本社会党)。 栃木県宇都宮市出身。旧制大田原中学校(現・栃木県立大田原高等学校)卒業。専修大学短期大学部法律実務科卒業。1945年12月に栃木県庁に入り1963年2月末まで在籍した。その後は、県職員労働組合の役員を務める。1967年の栃木県議会議員選挙に宇都宮市選挙区から日本社会党公認で立候補して、初当選を果たした。その後連続4期務めた。 1982年10月7日に栃木県知事選挙に立候補し、県議を失職した。社会党推薦を得たが、自民、公明、民社、新自由クラブが推薦する現職の船田譲に敗れた。
和田 静夫(わだ しずお、1926年(大正15年)10月1日… 和田 静夫(わだ しずお、1926年(大正15年)10月1日 - )は、日本の労働運動家、政治家。元参議院議員(3期)、元衆議院議員(1期)。 石川県金沢市生まれ。金沢一中、専修大学法学部を経て、1957年(昭和32年)同大大学院法学研究科私法学専攻を修了。東京都庁に入り新宿区役所に勤務。全日本自治団体労働組合組織部長などを経て、1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙で日本社会党から全国区に立候補し初当選(以後10回・12回と連続3選)。以降3期目の任期終了直前まで務めた。1970年(昭和45年)11月には参議院決算委員会で、自民党と産経新聞の癒着について質している。 1986年(昭和61年)7月6日執行の衆参同日選挙となった第38回衆議院議員総選挙に東京1区から立候補。
高杉 廸忠(たかすぎ みちただ、1925年8月16日 - 2… 高杉 廸忠(たかすぎ みちただ、1925年8月16日 - 2000年5月27日)は、日本の政治家。参議院議員(2期、日本社会党)。 静岡県出身。1950年専修大学法律学科卒。1952年日本社会事業大学研究科卒。参議院議員藤原道子の秘書となり、茨城県中小企業労務協会会長。全国中小商工業団体連合会副会長に就任する。1977年の第11回参議院議員通常選挙で茨城県選挙区から日本社会党公認で立候補して当選。2期務める。この間、参議院物価対策特別委員長、逓信委員長、社会党茨城県委員長などを歴任した。1989年に引退。1995年、勲二等瑞宝章受章。2000年5月27日死去、74歳。死没日をもって従四位に叙される。
卜部 政巳(うらべ まさみ、1922年(大正11年)1月1日… 卜部 政巳(うらべ まさみ、1922年(大正11年)1月1日 - 1999年(平成11年)12月14日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(2期)。 島根県出身。平壌で生まれる。1942年(昭和17年)専修大学専門部商科を修了。召集され陸軍軍曹となる。 郵政省に入省し松江地方貯金局(現貯金事務センター)勤務となる。その後、全逓(のちの日本郵政公社労働組合)島根地区書記長、全逓中央本部執行委員、同執行委員長、島根県労働組合総評議会議長、島根県物価対策協議会議長などを務めた。 1963年(昭和38年)11月の第30回衆議院議員総選挙に島根県全県区から日本社会党公認で出馬して初当選。第31回総選挙、また1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙に島根県地方区から出馬したがいずれも落選。
李 鍾麟(イ・ジョンニン、朝鮮語: 이종린、1921年6月2… 李 鍾麟(イ・ジョンニン、朝鮮語: 이종린、1921年6月29日 - 1985年6月24日)は、大韓民国の大学教授、政治家。第5代韓国国会議員。 咸南咸州または釜山出身。専修大学予科修了。1944年専修大学経済学部卒、その後東亜大学校法政学部経済学科卒。1948年ソウル大学校大学院法科卒。同年にUN韓国委員団外交代表を務め、その後は咸興医学専門学校講師、戦時連合大学教授、釜山工科大学教授、東亜大学校講師・同大学院政治科主任教授を務めた。1960年の第5代総選挙では民主党の候補として国会議員に当選した。 政界引退後は東国大へ移った。東国大法政大学長在任中の1985年6月24日、ソウル市恩平区の自宅で持病により死去した。
崔 栄喜(チェ・ヨンヒ、1921年3月1日 - 2006年1… 崔 栄喜(チェ・ヨンヒ、1921年3月1日 - 2006年1月11日)は、大韓民国の軍人、外交官、政治家。朝鮮戦争の指揮官であり、陸軍中将で陸軍参謀総長(第12代)を務めた。退役後は国会議員(第7代・第8代・第9代・第10代)、国防長官(第16代)、維新政友会院内総務などを歴任した。太極武功勲章授与者。本貫は隋城崔氏(朝鮮語版)、仏教徒。 1921年、日本統治下の朝鮮京城府(現ソウル特別市)生まれ。1944年に日本の専修大学法学部卒業後、日本陸軍工兵学校に入校し、日本陸軍工兵少尉に任官される。 戦後、韓国に帰国した後、1946年2月18日付で軍事英語学校を卒業し、任少尉(軍番10051番)。1947年、第1旅団人事参謀。
佐野 進(さの すすむ、1920年(大正9年)8月7日 - … 佐野 進(さの すすむ、1920年(大正9年)8月7日 - 2009年(平成21年)1月20日)は、昭和期の地方公務員、労働運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県出身。召集され兵役に就いた。東京都交通局に入局。1955年(昭和30年)専修大学商経学部経済学科を卒業した。東京交通労働組合青年部長や、東京都労働組合連合会、日本都市交通労働組合(現全日本自治団体労働組合都市公共交通評議会)、港区労協の各役員を務めた。 東京都港区議会議員を経て、東京都議会議員に選出され3期在任した。この間、同都議会公営企業委員長、同中小企業対策審議会委員、東京オリンピック大会組織委員などを務めた。 1967年(昭和42年)1月の第31回衆議院議員総選挙で東京都第6区から日本社会党公認で出馬し初当選。
崔 泰奎(チェ・テギュ、朝鮮語: 최태규、1919年3月30… 崔 泰奎(チェ・テギュ、朝鮮語: 최태규、1919年3月30日または1923年 - 2009年10月16日)は、大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国の政治家、ジャーナリスト。制憲韓国国会議員、最高人民会議代議員(代不明)。 崔 泰圭(読み、ハングル表記同じ)という表記も見られる。 日本統治時代の江原道旌善郡出身。軍花洞公立国民学校を卒業後、専修大学法学部3年時に徴兵のため帰国した。戦災同胞援護会消費組合理事、大韓日報政経部、大東新聞の記者などを務めた後、1948年の初代総選挙に旌善郡選挙区より無所属で出馬し当選した。その後、国会フラクション事件に関与したとして投獄中、1950年6月ごろに北朝鮮に拉致された。
成田 友三郎(なりた ともさぶろう、1917年6月6日 - … 成田 友三郎(なりた ともさぶろう、1917年6月6日 - 1989年10月17日)は、青森県青森市出身のプロ野球選手、政治家。 青森中学校から専修大学へ進学も中退。仙台鉄道局から青森林友を経て1936年に東京巨人軍へ入団。選手としての才能はなかったが、何となく好感のもてる選手だった。1938年秋季頃に体調を崩し、療養に努めたが同年で退団。 1974年に青森市議会へ自由民主党から出馬し当選。4期議員を務めた。
金 南中(キム・ナムジュン、朝鮮語: 김남중、1915年10… 金 南中(キム・ナムジュン、朝鮮語: 김남중、1915年10月8日または1917年10月8日 - 1982年3月30日または1987年3月31日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、随筆家、コラムニスト、実業家、政治家。全南日報(現・光州日報)会長、第5代韓国国会議員(参議員)を歴任した。 本貫は光山金氏、号は南鳳(ナムボン、남봉)。 日本統治時代の全羅南道光州郡(現・光州広域市)に富農の次男として生まれた。1930年光州公立普通学校(現・光州瑞石初等学校)卒、1942年専修大学専門部中退あるいは卒業。同年から報知新聞(現・スポーツ報知)記者を務めた後、翌1943年に帰郷し、全南新報編集局社会部長・主幹、湖南新聞主筆・編集局長を経て朝鮮戦争中の1951年に全南日報を創刊し、発行者・主筆・社長・会長(~1980年)を務めた。
高 永完(コ・ヨンワン、朝鮮語: 고영완、1914年 - 1… 高 永完(コ・ヨンワン、朝鮮語: 고영완、1914年 - 1991年8月6日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。初代長興郡郡守(アメリカ軍政下)、第2・5代韓国国会議員を歴任した。号は霧渓(ムゲ、무계)。仏教徒。 本貫は長興高氏(朝鮮語版)。壬辰倭乱の時の義兵長の高敬命(朝鮮語版)の直系の15世孫である。元大法院長の李容勲(朝鮮語版)は娘婿。また、2人の妹は金性洙の2人の息子、金相万(朝鮮語版)と金相欽(朝鮮語版)の妻である。 日本統治時代の全羅南道長興郡出身。専修大学法科卒。抗日運動で活躍したため、日本軍憲兵に捕まえられ、咸興刑務所で3年間服役した。光復後は長興郡守、大韓独立促成国民会長興支部長、大韓民族青年団長興支団長、韓民党中央執行委員・長興党部総務を歴任した。
依田 勇雄(よだ いさお、1911年(明治44年)1月10日… 依田 勇雄(よだ いさお、1911年(明治44年)1月10日 - 1993年(平成5年)8月9日)は、日本の政治家。長野県議会議員(3期)、長野県佐久市長(4期)を歴任した。位階は正五位。 長野県北佐久郡中込村(後の中込町、現:佐久市)で、依田米治・ませの二男として生まれた。1935年(昭和10年)専修大学経済学部卒業。自営業から、1947年(昭和22年)長野県議会議員となり3期在任。 1961年(昭和36年)4月、佐久市長選挙で当選し、初代市長に就任し1977年(昭和52年)4月まで4期務めた。在任中は財政の立て直しや行政改革、社会基盤を整備し、北陸新幹線や高速道路の誘致・期成に尽力した。同58年(1983年)佐久市名誉市民に選出された。
寿原 正一(壽原、すはら しょういち、1911年(明治44年… 寿原 正一(壽原、すはら しょういち、1911年(明治44年)1月1日 - 1975年(昭和50年)12月13日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 北海道古平郡古平町で寿原要太郎の息子として生まれる。1958年(昭和33年)専修大学会計学本科を卒業した。 1928年(昭和3年)頃、札幌市に移り海産物商のトラック助手となる。1932年(昭和7年)頃、日の出ハイヤーに運転手として就職。その後上京し、病人輸送専門の東京寝台自動車に務め、戦後に労働組合を結成して委員長に就任し、1948年(昭和23年)常務として経営陣に加わり、1953年(昭和28年)社長となった。同年、札幌つばめ自動車会長、1955年(昭和30年)新宿交通社長に就任。
柳沢 義男(柳澤、やなぎさわ よしお、1907年(明治40年… 柳沢 義男(柳澤、やなぎさわ よしお、1907年(明治40年)8月1日 – 1990年(平成2年)12月2日)は、昭和期の法学者、弁護士、計理士、実業家、政治家。衆議院議員、法学博士。 千葉県流山市出身出身。専修大学経済学部卒を経て、1931年(昭和6年)中央大学法学部を卒業し、さらに同大学院を修了。1938年(昭和13年)パリ大学を卒業した。 その後、弁護士、計理士の業務に従事しながら中央大学教授に就任。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で千葉県全県区に無所属で出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で千葉県第1区に日本自由党所属で出馬して次点で落選。1949年(昭和24年)1月、第24回総選挙で民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
松井 政吉(まつい まさきち、1906年(明治39年)3月2… 松井 政吉(まつい まさきち、1906年(明治39年)3月27日 - 1993年(平成5年)9月19日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(当選6回)。日本対外文化協会理事長、日本電信電話公社経営委員会委員。 新潟県南魚沼郡五十沢村(現南魚沼市)生まれ。1930年、専修大学卒業。日本運輸労働組合組合長など労組幹部を歴任。1933年、社会大衆党中央執行委員。1949年、第24回衆議院議員総選挙に福島3区から出馬し当選。以後当選6回。この間、衆議院逓信委員長、社会党の労働部長、農民部長、組織部長などを歴任。社会党の左右分裂時代は右派社会党に所属していた。 1966年、ソ連政府の提案によるソ連・東欧との交流組織、日本対外文化協会(対文協)を松前重義、石原萠記らとともに設立。
具 乙会(ク・ウルェ、朝鮮語: 구을회/具乙會、1905年5… 具 乙会(ク・ウルェ、朝鮮語: 구을회/具乙會、1905年5月9日 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家、実業家。第2代韓国国会議員。本貫は綾城具氏。 忠清南道唐津郡あるいはソウル出身。20歳までに漢文を学び、普成専門学校法科卒、専修大学法学部修了(3年時に中退したという情報もある)。図們東興銀行監査役、大韓物産株式会社共同管理人、大韓独立促成国民会唐津支部副委員長、大韓国政会中央分科委員を経て、1950年の第2代総選挙で唐津郡選挙区から無所属で当選し、国会において外務委員、捕虜実情調査委員などを歴任した。
吉川 兼光(よしかわ かねみつ、1902年10月27日 - … 吉川 兼光(よしかわ かねみつ、1902年10月27日 - 1973年3月31日)は、日本の政治家。民社党衆議院議員(7期)。 福岡県京都郡行橋町(現行橋市)の被差別部落の出身。早稲田大学で学んだ後、1925年専修大学経済科を卒業する。その後、ウィーン大学で留学する。毎日新聞記者、京城日報論説委員、中央大学講師、船橋農林学校(現在の千葉県立薬園台高等学校園芸科)校長を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙で千葉県から日本社会党公認で立候補して初当選する。1947年の第23回総選挙でも当選。この選挙で当選した部落出身議員には、ほかに田中松月、田中織之進、加藤静雄、松井豊吉、宮村又八がいた。以来、第25回から第28回までと第30回総選挙で再選され、衆議院議員を通算7期務める。
中村 庸一郎(なかむら よういちろう、1896年〈明治29年… 中村 庸一郎(なかむら よういちろう、1896年〈明治29年〉5月20日 - 1983年(昭和58年)11月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。位階は正四位。 漢学者・中村時中の長男に生まれ、専修大学経済学部を卒業。1942年の第21回衆議院議員総選挙に千葉3区から翼賛政治体制協議会推薦で立候補し、初当選。翼賛選挙の推薦候補だったため戦後に公職追放された。追放解除後は改進党公認で1952年の第25回衆議院議員総選挙に立候補し当選、政界に返り咲いた。日東交通の合併設立に尽力し社長に就任。また大日本セロファンや桜ゴムなど20数社の役員、千葉銀行の監査役などを務めていた。 改進党・日本民主党・自由民主党内では大麻唯男ら旧立憲民政党系右派の政治家が結集した大麻派に属し、大麻の死後、宮沢胤勇・野田武夫・小泉純也・浜野清吾・真鍋儀十・山本粂吉ら他の大麻派のメンバーとともに岸派に合流。
依光 好秋(よりみつ よしあき、1894年8月29日 - 1… 依光 好秋(よりみつ よしあき、1894年8月29日 - 1968年1月10日)は、日本のジャーナリスト・政治家。衆議院議員総選挙に通算3回当選した。 依光重義の三男として高知県幡多郡奥内村(現・大月町)泊浦に生まれた。芳の沢小学校を卒業した後弘見小学校高等科に入学、同校卒業後は高知県立第三中学校(現・高知県立中村中学校・高等学校)に入学した。県立三中の4年次を修了後専修大学政治経済科に入学し、同大学卒業後読売新聞社に入社し、のちに同社政治部長に就任した。1927年12月に時の内閣総理大臣・田中義一の内閣書記官長だった鳩山一郎らに認められ、朝鮮総督・山梨半造の秘書官に就任。だが山梨の側近らと意見が合わず秘書官を辞して帰郷。
川島 正次郎(かわしま しょうじろう、1890年〈明治23年… 川島 正次郎(かわしま しょうじろう、1890年〈明治23年〉7月10日 - 1970年〈昭和45年〉11月9日)は日本の政治家。旧姓柳原。栄典は従二位勲一等旭日桐花大綬章。衆議院議員当選14回、自治庁長官、行政管理庁長官等を歴任した。 自治庁長官、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、第18回オリンピック東京大会担当国務大臣、自民党幹事長、自民党副総裁を歴任。 閣僚としては軽量級ポストしか経験しなかったが、党の幹部としては重職を得た。川島派(交友クラブ)領袖であり、長く自由民主党副総裁として、自民党のナンバー2に君臨した。当選14回。 専修大学総長、千葉工業大学理事長・会長、成田山奉賛会初代会長を歴任。
関 俊吉(せき しゅんきち、1888年(明治21年)1月 -… 関 俊吉(せき しゅんきち、1888年(明治21年)1月 - 1961年(昭和36年)5月8日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(奈良県第一区選出、当選1回)。岡合名会社、大和毎日新聞社各社長。関藤商店取締役。族籍は奈良県平民。 奈良市生まれ。呉服商、実業家関藤次郎の二男。実業家関信太郎の弟。専修大学経済科卒業。東洋拓殖、豊国火災保険各会社員となる。1915年、分家して一家を創立する。 1924年、第15回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。立憲民政党に所属。関は新思想の所有者として普通選挙の即行を高唱していた。奈良県在籍で、住所は奈良市紀寺町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
斎藤 巳之吉(さいとう みのきち、1881年(明治14年)9… 斎藤 巳之吉(さいとう みのきち、1881年(明治14年)9月14日 - 1965年(昭和40年)2月17日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家。山形県酒田市長。 斎藤茂助の四男として、山形県飽海郡大町村(西平田村を経て現酒田市地内)に生まれ、社会事業家・斎藤千里の婿養子となる。専修大学を卒業し、新潟県官房主事、北魚沼郡長、佐渡支庁長、赤十字新潟支部病院事務長などを歴任した。ほか、郷里出身の高級官僚・太田政弘の知遇を受け、台湾、朝鮮などに赴任した。 1933年(昭和8年)初代酒田市長の中里重吉に招かれ同市助役に就任。1937年(昭和12年)10月、中里の引退した後を受けて酒田市長に就任した。戦時下の市政に手腕を発揮し、酒田港築港整備、軍需産業の誘致、学童疎開、建物疎開による空襲対策などに尽力した。
妹尾 順平(せのお じゅんぺい、1880年〈明治13年〉2月… 妹尾 順平(せのお じゅんぺい、1880年〈明治13年〉2月2日 - 1942年〈昭和17年〉5月20日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。妻・ミツは林忠崇の次女。 妹尾与一郎の次男として岡山県真庭郡木山村(現・真庭市)に生まれる。1904年(明治37年)、専修大学卒。妹尾銀行(現・中国銀行)に入り、行員となる。岡山商事(株)社長、日丸米肥(株)監査役を務める。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙において岡山8区から立憲政友会公認で立候補して当選した。2年後、岡山8区の選挙が無効となった。1922年(大正11年)3月6日付けで失職した。 1942年(昭和17年)5月20日、横浜市磯子区の自宅で死去した。
15代 西野 嘉右衛門(にしの かえもん、1878年(明治1… 15代 西野 嘉右衛門(にしの かえもん、1878年(明治11年)1月10日 - 1967年(昭和42年)5月16日)は、日本の実業家、政治家。藍商・酒造業、西野嘉右衛門家15代当主、貴族院多額納税者議員。旧名・保太郎。 徳島県勝浦郡小松島浦(現小松島市)で、豪商・西野保太郎の二男として生まれた。西野家は創業万治元年といわれる阿波藍商人(屋号・野上屋)で、現在は酒造の西野金陵として知られる。 1900年、専修学校(現専修大学)理財課を卒業。一年志願兵として入隊し陸軍二等主計に進み日露戦争に出征した。兄・14代嘉右衛門の死去により、1905年3月27日に家督を継承し15代嘉右衛門を襲名した。 家業の藍商が、外国産の安価な藍の輸入によって影響を受けたため、化学染料製造を開始した。
横山 隆俊(よこやま たかとし、1876年(明治9年)9月2… 横山 隆俊(よこやま たかとし、1876年(明治9年)9月25日 - 1933年(昭和8年)12月19日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。従三位勲四等。加賀八家横山家第14代当主。 石川県石川郡金沢で加賀八家横山家当主・横山隆平の長男として生まれる。父の死去に伴い、1903年(明治36年)8月14日に男爵を襲爵した。 第四高等学校補充科で学び、その後、東京に出て専修学校に入学し、田尻稲次郎、阪谷芳郎などから理財学を学び、1897年(明治30年)に卒業し帰郷した。父が経営していた尾小屋鉱山に入り事業の拡大を図った。また親族横山隆興が経営していた平金鉱山(岐阜県)と合併して横山鉱業部を設立し、さらに大蔵鉱山(山形県)、宮田又鉱山(秋田県)などを買収して経営を拡大した。
原 吉郎(はら きちろう、1874年〈明治7年〉9月30日 … 原 吉郎(はら きちろう、1874年〈明治7年〉9月30日 - 1955年〈昭和30年〉12月17日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、新潟県刈羽郡枇杷島村(のち同郡柏崎町、現在の柏崎市)長、同郡柏崎町長、初代柏崎市長。 現在の新潟県柏崎市出身。東京専修学校(現専修大学)に学び、日露戦争に参加する。その後は代々続く造酒屋(原酒造)の四代目として経営、同社の中興の祖となる。枇杷島村会議員、同村長、刈羽郡会議員を歴任した。1903年(明治36年)、新潟県会議員選挙に刈羽郡選挙区から進歩党公認で立候補して当選した。同年10月から1904年(明治37年)3月まで第17代新潟県会副議長を務めた。
荒井 建三(あらい けんぞう、1873年〈明治6年〉9月15… 荒井 建三(あらい けんぞう、1873年〈明治6年〉9月15日 - 1956年〈昭和31年〉7月22日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・正村。 新川県射水郡高岡町源平町(現富山県高岡市)で、実業家・正村義平の三男として生まれ、1887年(明治20年)実業家・荒井荘蔵の養子となる。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)を経て、1897年(明治30年)専修大学卒。高岡市参事会員、富山県議、同議長、高岡商業会議所会頭、高岡紡績(株)常務取締役、高岡銀行、高岡商業銀行、高岡電燈、山又機業、オリエンタル写真工業各(株)取締役、北陸信託(株)、高岡信用組合各社長、日本米穀(株)高岡市場参与となる。
米沢 与三次(米澤 與三次、よねざわ よそじ / よさじ、1… 米沢 与三次(米澤 與三次、よねざわ よそじ / よさじ、1872年3月10日(明治5年2月2日)- 1947年(昭和22年)1月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・伊東、幼名・貞三。 新川県新川郡沼保村(富山県下新川郡泊町沼保を経て現朝日町)で、伊東次郎左衛門祐明の三男として生れ、1890年12月、同郡入善町入善の米沢家の養子となり与三次と改名した。1895年、専修学校(現・専修大学)理財科卒。農業を営み、入善町農会長、入善商工会長、下新川郡教育会副会頭、泊銀行、入善銀行各頭取、入善倉庫、富山水力電気各(株)社長、生地銀行、富山県模範織物工場、小川温泉各(株)取締役、越中銀行、茨木商店各(株)監査役となる。
西沢 定吉(にしざわ さだきち、明治4年11月4日(1871… 西沢 定吉(にしざわ さだきち、明治4年11月4日(1871年12月15日) - 昭和16年(1941年)9月24日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、天童町長。 山形県西村山郡大谷村(現在の朝日町)出身。1890年(明治23年)、宮城農学校(現在の宮城県農業高等学校)を卒業。翌年、専修学校(現在の専修大学)理財科に入学し、1893年(明治26年)に卒業した。 1900年(明治33年)より郡農会議員・県農会議員を務め、1903年(明治36年)には県会議員・東村山郡会議員に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4期務めた(第10回、第14回、第15回、第17回)。
江畑 新之助(えばた しんのすけ、明治4年7月20日(187… 江畑 新之助(えばた しんのすけ、明治4年7月20日(1871年9月4日)- 昭和8年(1933年)8月2日)は、日本の政治家。秋田県仙北郡飯詰村(のち仙南村、現美郷町)の村長。号は貴新。 1871年(明治4年)、秋田県仙北郡飯詰村中島の素封家江畑宇三郎の家に長男として生まれた。江畑家は当時仙北郡では高梨村の池田家に次ぐ大地主であった。1901年(明治34年)から1933年(昭和8年)までの長きにわたって飯詰村長を務めた。 若いころから学問熱心で、「人格高邁の国士」として知られる杉浦重剛の塾に通い、田尻稲次郎らによって創立された専修学校(現在の専修大学)では経済学を修めた。1894年(明治27年)5月、北秋田郡大館町出身で秋田市の『遐邇新聞』(現在の秋田魁新報)の主幹も務めた新聞人・漢学者の狩野旭峰を飯詰村の自宅に招き、邸宅内に私塾(漢学塾)「酔経学舎」を設立し、1900年ころまでみずからも学び、子弟の教育にあたった。
岩田 大中(いわた だいちゅう、1871年6月23日(明治4… 岩田 大中(いわた だいちゅう、1871年6月23日(明治4年5月6日) - 1945年(昭和20年)8月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。幼名・徳太郎。 越中国礪波郡今石動町(富山県西礪波郡石動町を経て現小矢部市)で岩田安益の長男として生まれた。明治末に富山市山王町に転籍した。 専修学校(現・専修大学)理財科で学び、1888年に卒業。小間物商と売薬商を営む。1907年9月、富山県会議員に当選した。1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙において富山市選挙区から立憲政友会公認で立候補して落選。1910年(明治43年)5月、富山市会議員に当選した。1911年(明治45年)9月に県会議員を退任した。
坂本 志魯雄(さかもと しろお、1871年5月19日(明治4… 坂本 志魯雄(さかもと しろお、1871年5月19日(明治4年4月1日) – 1931年(昭和6年)4月11日)は、日本の政治家、実業家、記者。高知県生まれ。号は弔民(ちょうみん)。坂本素魯哉の弟。 1871年5月19日(明治4年4月1日)、土佐国長岡郡瓶岩村亀岩(現・高知県南国市)に生まれる。 1887年(明治20年)土佐立志社に入社。専修学校(現・専修大学)を卒業後、朝鮮政府内務顧問秘書となる。 中外商業新報(現・産経新聞、日経新聞)の記者となり、1894年(明治27年)、日清戦争に際しては、軍事探偵となって満蒙の情報を収集。その後、臨時台湾総督府鉄道隊に奉職。1896年(明治29年)、フィリピン独立運動の時、台湾総督・乃木希典の密命を帯び、フィリピン群島の内情を探査。
田中 定吉(たなか さだきち、1870年3月26日(明治3年… 田中 定吉(たなか さだきち、1870年3月26日(明治3年2月25日)- 1929年(昭和4年)1月5日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、香川県会議長。号・虚堂、俳号・笑蛙。 讃岐国香川郡高松紺屋町(現香川県高松市紺屋町)で、富豪・田中仁八郎の二男として生まれる。1889年(明治22年)に上京し、1892年(明治25年)専修学校理財科を卒業した。1893年(明治26年)3月、家督相続した。 帰郷して、高松銀行取締役を務めた。その他、高松商業会議所会頭、讃紙取締役、高松煉瓦取締役社長、第百十四銀行監査役、高松土地建物監査役、東京郊外土地監査役などに在任。また、讃岐実業新聞社の2代社長に就任し、讃岐日報社に改称して香川新報との競争を繰り広げた。
伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1… 伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1月23日〉- 1945年〈昭和20年〉1月25日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、富山県下新川郡泊町長。幼名・柳太郎。 越中国新川郡沼保村(富山県下新川郡泊町沼保を経て現朝日町沼保)で、温泉業・伊東次郎左衛門祐明の長男として生まれる。祐明の養子・祐寛の相続人となり1891年(明治24年)家督を相続した。岡田信之に師事し漢籍を修めた。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業し、上京して専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。 家業の小川温泉の経営を行う。1912年(明治45年)の大洪水で小川温泉が多大な損害を受けたため、移転も検討されたが泊町での再建が決定され、1913年(大正2年)7月、小川温泉株式会社が設立され社長に就任した。
宮崎 友太郎(みやさき ともたろう、1868年9月23日(明… 宮崎 友太郎(みやさき ともたろう、1868年9月23日(明治元年8月8日) - 1929年(昭和4年)12月18日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(2期)。 駿河国有渡郡弥勒町(静岡県有渡郡大里村、安倍郡大里村、静岡市を経て現静岡市葵区)出身。宮崎安七郎の長男として生まれ、1898年(明治31年)3月、家督を相続する。静岡中学、専修学校に学び、大里村会議員、所得税調査委員、安倍川水害予防組合議員を務める。 財界では、静岡実業銀行常務取締役、静岡印刷取締役、静岡米穀株式取引所、東海瓦斯、静岡軽便鉄道監査役、富士電気工業、銅山川電力、東洋醸造各取締役、静岡瓦斯監査役、駿河銀行取締役、静岡漁業監査役、静岡貯蓄銀行、吉野水電興業、此花商事各取締役などを歴任した。
橋本 辰二郎(はしもと たつじろう、1868年6月30日〈明… 橋本 辰二郎(はしもと たつじろう、1868年6月30日〈明治元年5月11日〉- 1951年〈昭和26年〉4月12日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。位階は正五位。勲等は勲二等。 豊前国、のちの大分県で橋本建平の二男として生まれる。1885年(明治18年)3月、伯父橋本雄造の養子となった。専修学校(現専修大学) を修了し、1911年(明治44年)家督を相続した。 1906年(明治39年)以降、長崎商業会議所会頭、橋本汽船社長、福洋汽船社長、橋本商事社長、山下コークス社長、日本タイプライター社長、九州汽船社長、長崎製鉄社長、長崎県商工経済会会頭などを務めた。 政界では長崎市会議員に選出された。
岩崎 一高(いわさき かずたか、慶応3年2月15日(1867… 岩崎 一高(いわさき かずたか、慶応3年2月15日(1867年3月20日) - 昭和19年(1944年)3月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、松山市長。 伊予国松山に伊予松山藩士岩崎一正の子として生まれる。1886年(明治19年)、専修学校(現在の専修大学)を卒業。卒業後は松山に戻って、海南新聞社の経営に加わり、自由民権思想の普及に尽力した。 1919年(大正8年)、衆議院補欠選挙に出馬し、当選。翌年の総選挙には落選したものの、1923年(大正12年)に松山市長に選出された。さらに道後湯之町長を務め、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に当選した。 その他、松山高等商業学校(現在の松山大学)の理事を務めた。
鈴木 久次郎(すずき きゅうじろう、1866年9月4日(慶応… 鈴木 久次郎(すずき きゅうじろう、1866年9月4日(慶応2年7月26日)- 1931年(昭和6年)11月29日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員(7期)。 上総国望陀郡岩出村(千葉県望陀郡小櫃村、君津郡小櫃村、君津町を経て現君津市岩出)で、農業・醤油醸造業・製糸業、鈴木市太郎の長男として生まれた。小学校卒業後、平島亮胤から漢学を学び、南総英語学校を卒業。1887年(明治20年)専修学校(現専修大学)で英語、経済学を学んだ。 帰郷して家業に従事。文房具、ペン先製造業を開始し、南総銀行取締役、久留里銀行取締役も務めた。その後、東京に拠点を移し、日本緬羊社長、日本衛生肥料取締役、日本炭礦社長、日東炭坑取締役、光行電線取締役、南部製鉄取締役、三重セメント取締役、富士鉱業監査役、満鮮塩業監査役などを務めた。
井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久… 井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久3年6月21日)- 1920年(大正9年)8月6日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県会議長、佐賀県藤津郡南鹿島村長。俳号・黄渓。 肥前国藤津郡高津原村(佐賀県藤津郡南鹿島村、鹿島町、現鹿島市横田)で、鹿島藩士・井原五兵衛(陶一、為助)の長男(長子)として生まれる。谷口藍田(中秋)から漢学を学び、鹿島変則中学で普通学を修めた。その後上京し、専修学校(現専修大学)で学び、慶應義塾を卒業した。1882年(明治15年)12月、家督を相続した。 1886年(明治19年)鹿島銀行の創立に参画し、佐世保支店長、取締役、頭取を歴任。
百瀬 清治(ももせ せいじ、文久3年5月17日(1863年7… 百瀬 清治(ももせ せいじ、文久3年5月17日(1863年7月2日)- 昭和18年(1943年)4月7日)は、日本の政治家。衆議院議員。 信濃国筑摩郡平田村(現長野県松本市)生まれ。武居用拙の猶興塾に学び、東京専修学校を卒業。明治22年(1889年)芳川村会議員、同24年(1891年)東筑摩郡会議員、同26年(1893年)長野県会議員となり、議長も務めた。同42年(1909年)芳川村長となり、大正6年(1917年)第13回衆議院議員総選挙に当選した。 長野県の県道七路線開削事業のうち、松本・上田間の第二線路(現国道143号)の完成や、牛伏川の砂防工事などに功績があった。また扶桑銀行頭取、信濃民報社社長なども務めた。
本田 恒之(ほんだ つねゆき、文久2年4月14日(1862年… 本田 恒之(ほんだ つねゆき、文久2年4月14日(1862年5月12日) - 昭和9年(1934年)2月4日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党)、弁護士。 肥前国高来郡島原町に下田寛平の三男として生まれる。1882年(明治15年)、本多源吉の養子となった。専修学校(現在の専修大学)法律経済科を卒業し、弁護士となった。初めは東京市日本橋区に開業したが、後に長崎市に移った。長崎市会議員、長崎県会議員を経て、1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後7回当選を重ねた。 加藤高明内閣・第1次若槻内閣で司法政務次官を務めた。
森本 確也(もりもと かくや、1862年5月11日(文久2年… 森本 確也(もりもと かくや、1862年5月11日(文久2年4月13日)- 1927年(昭和2年)2月10日)は、明治から大正期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。号・得堂。 志摩国英虞郡、のちの三重県志摩郡鵜方村(鵜方町、阿児町を経て現志摩市阿児町鵜方)で、大地主・森本佐左衛門、なつ の長男として生まれる。1877年(明治10年)三重県師範学校を卒業。さらに同人社英学科及び漢学科を卒業し、専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。帰郷して、しばらく著作業に従事した。 1891年(明治24年)3月、家督を相続して農業を営み、三重県会議員に選出され、同常置委員も務めた。また、三重県農工銀行取締役、同頭取、三重銀行取締役、津商業会議所特別議員などに在任した。
唐端 清太郎(からはた せいたろう、1862年4月6日(文久… 唐端 清太郎(からはた せいたろう、1862年4月6日(文久2年3月8日) - 1920年(大正9年)6月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県飾磨郡谷外村(現・姫路市)に生まれる。東京専修学校(現・専修大学)で学ぶ。青森新報社に入社するも生家の事情により帰郷し兵庫県御用掛に出仕、上司の赤穂郡長就任とともに赤穂郡役所に転勤し郡長を補佐する書記となる。 1892年(明治25年)、相生村に村長として招聘される。神戸の繁栄を見た唐端は当時寒漁村だった相生村に造船所の設立を決断、1907年(明治40年)、神戸の財界人や地元有志から出資を募って播磨船渠株式会社を創立した。これは技術の未熟さから事業は高橋為久の播磨船渠合名会社に引き継がれたが、のちに鈴木商店による買収を経て1916年(大正5年)4月、鈴木商店による株式会社播磨造船所の設立に至る。
伊藤 直純(いとう なおずみ、万延元年12月30日(1861… 伊藤 直純(いとう なおずみ、万延元年12月30日(1861年2月9日) - 昭和8年(1933年)8月8日)は、日本の政治家。秋田県横手市生まれ。号は耕余(こうよ)。農村振興、交通網の整備、文化・教育振興など秋田県の近代化を進めた。 出羽国仙北郡金沢中野村に、後に初代金沢村長となる豪農・伊藤兵吉の長男として生まれる。慶応2年(1866年)から横手町の漢学塾「三近堂」で須田水明に学び、明治10年(1877年)に上京し根本通明の私塾で漢学、大沼枕山から漢詩を学ぶ。明治14年(1881年)、父の命で明治天皇巡幸を歓迎するため帰郷。その後再び上京し専修学校(後の専修大学)で学ぶ。卒業後は帰郷し青年会活動に力を入れる。
持田 若佐(もちた / もちだ わかさ、1860年10月30… 持田 若佐(もちた / もちだ わかさ、1860年10月30日(万延元年9月17日)- 1931年(昭和6年)2月28日)は、明治から昭和初期の神職・政治家・実業家。衆議院議員。1913年(大正2年)「若狭」に改名した。 下野国都賀郡高椅村(栃木県下都賀郡絹村字高椅、桑絹村、桑絹町を経て現小山市高椅)で、持田和泉の長男として生まれる。明治元年(1868年)結城藩黌に入り和漢学を修め、栃木県中教院を終えて上京し、専修学校(現専修大学)で法律学、経済学を学んだ。 1875年(明治8年)教導職試補となり、郡吏、絹村戸長、少講義などを歴任。1885年(明治18年)高椅神社祠官に就任。1887年(明治20年)栃木県会議員に選出され4期在任し、同常置員、絹村会議員、下都賀郡会議員、同参事会員、教育諮問会員、郡徴兵参事会員、農林会特別会員、地方森林会議員、神道栃木分局顧問、神道教師尋常検定委員なども務めた。
平岡 萬次郎(ひらおか まんじろう、1860年3月29日〈万… 平岡 萬次郎(ひらおか まんじろう、1860年3月29日〈万延元年3月8日〉 - 1923年〈大正12年〉12月3日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。兵庫県平民。 内務官僚・平岡定太郎の兄。定太郎の孫に作家・三島由紀夫、外交官・平岡千之がいる。 万延元年(1860年)、播磨国印南郡志方村上富木(現在の兵庫県加古川市)の農家に生まれた。父・太吉と、母・つるの長男。 15歳まで、皇道精神を基調とする鼎(かなえ)塾に学ぶ。ここでは忠君愛国の講話が行われた。萬次郎はやがて姫路の洋学塾へ進んだ。 上京し、明治14年(1881年)明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、明治16年(1883年)卒業、更に専修学校(現在の専修大学)を卒業。
岩崎 総十郎(いわさき そうじゅうろう、安政7年2月5日(1… 岩崎 総十郎(いわさき そうじゅうろう、安政7年2月5日(1860年2月26日) - 大正9年(1920年)5月2日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 仙台市出身。岡鹿門が開いた私塾「麟経堂」で学んだ後、専修学校(現在の専修大学)で法学・経済学を学んだ。1881年(明治14年)に専修学校を卒業すると、明治法律学校(現在の明治大学)に進み、翌年に卒業した。その後判事補に任ぜられ、大阪地方裁判所に勤務したが、やがて官を辞し、弁護士を開業した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第13回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他に塩水港精糖拓殖株式会社、七十七銀行、仙台瓦斯株式会社、大崎水電株式会社の監査役を務めた。
有森 新吉(ありもり しんきち、安政7年1月26日(1860… 有森 新吉(ありもり しんきち、安政7年1月26日(1860年2月17日) - 昭和8年(1933年)11月18日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→庚申倶楽部)。実業家。ジャーナリスト。教育者。 岡山藩士有森吉清の長男として岡山に生まれる。岡山藩藩学、温知学校、岡山変則中学校などで学んだ後、1879年(明治12年)に商法講習所(現在の一橋大学)に入学した。1881年(明治14年)、専修学校(現在の専修大学)経済科に転じた。専修学校卒業後の1882年(明治15年)に東京大学に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。その後、ドイツに留学し、イェーナ大学、ベルリン大学、テュービンゲン大学、シュトラスブルク大学で学んで、1891年(明治24年)に法学博士号を得た。
田島 達策(たじま たつさく/たっさく、1858年6月13日… 田島 達策(たじま たつさく/たっさく、1858年6月13日(安政5年5月3日)- 1938年(昭和13年)2月5日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。ミツウロコ創業者。衆議院議員。 上野国緑野郡神田村(群馬県緑野郡美九里村、多野郡美九里村を経て現藤岡市神田)で、田島長十郎の二男として生まれた。東京小石川の芳野塾、塩谷塾で学ぶ。1883年(明治16年)専修学校(現専修大学)を卒業。同年3月、家督を相続した。 1886年(明治19年)多野郡新町駅前に運送店を開業。明治運送取締役、日本逓業取締役に就任。また、三鱗運送、三鱗石炭、群馬電力などを設立して取締役社長に就任した。 1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙(群馬県郡部、無所属)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
小熊 慎司 は、日本の政治家。