佐々木 半九(ささき はんく、1896年〈明治29年〉1月1… 佐々木 半九(ささき はんく、1896年〈明治29年〉1月1日 - 1971年〈昭和46年〉10月6日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において特殊潜航艇(甲標的)部隊指揮官として真珠湾攻撃、シドニー湾攻撃に参加。のち第六艦隊参謀長として回天作戦に関わる。最終階級は海軍少将。 広島県出身。三次中学を経て海軍兵学校45期卒。席次は89名中31番。同期に有賀幸作、富岡定俊、古村啓蔵らがいる。佐々木は水雷学校及び潜水学校高等科を修了した潜水艦専攻士官で、大尉、少佐時代に4艦で潜水艦長を務めている。中佐時代は潜水学校と水雷学校で教官を務めた後、「神威」、「八雲」、木更津海軍航空隊で副長を務め、第21潜水隊司令に就任。
小崎 一男(おざき かずお、1896年1月1日 - ?)は、… 小崎 一男(おざき かずお、1896年1月1日 - ?)は、日本の発明家。 岡山県上道郡西大寺町(現・岡山市東区)出身。1914年(大正3年)に岡山県立工業学校機械科を優等で卒業した。その後、三菱造船株式会社神戸造船所に入り、1920年(大正9年)に技師となった。 1933年に全国発明表彰進歩賞を受賞している。
衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - … 衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - 1982年2月26日)は、日本の俳優、映画監督、脚本家。本名:小亀 貞之助(こかめ ていのすけ)。 新派劇団を経て日活向島撮影所で女形スターとして活躍後、牧野省三の下で映画監督へ転身した。新感覚派の作家と組んで前衛映画『狂つた一頁』を製作後、松竹・東宝・大映で長谷川一夫とコンビを組んで多くの時代劇映画を製作した。江戸や明治の情緒を新派劇の素養であでやかに描き出すことにかけては第一人者だった。1953年(昭和28年)公開の『地獄門』は、第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。上記以外の主な作品に『十字路』『雪之丞変化』など。妻は女優の千早晶子、弟は映画監督の衣笠十四三。
剣岳 吉五郎(つるぎだけ きちごろう、1896年1月1日 -… 剣岳 吉五郎(つるぎだけ きちごろう、1896年1月1日 - 1950年4月19日)は、富山県富山市出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は五十里 吉次郎。身長174cm、体重94kg。 富山県富山市出身。立浪部屋に入門し、1916年1月場所に初土俵を踏む。新十両が1925年5月場所、新入幕が1927年5月場所と、昇進のスピードは緩やかだったが、1928年には、大関大ノ里萬助や常陸岩英太郎からも勝ち星を挙げたり、新進気鋭の武蔵山武にも初顔から連勝したりと、時折存在感を示した。その風格について「古武士」と評されたこともある。 右四つからの寄り、蹴返しなどを持ち味とした取り口であった。 1932年1月場所の番付では、東前頭16枚目に位置していたが、その場所前に起きた春秋園事件で、協会を脱退、天竜三郎たちと行動を共にし、以後相撲協会には復帰しなかった。
竹腰 俊蔵(たけごし/たけこし しゅんぞう、1895年〈明治… 竹腰 俊蔵(たけごし/たけこし しゅんぞう、1895年〈明治28年〉12月30日 - 1963年〈昭和38年〉3月28日)は、日本の教員、政治家。群馬県知事(公選第4代)を務めた。群馬県群馬郡箕輪村(のちの箕郷町、現在は高崎市)出身。参議院議員を務めた竹腰徳蔵は実兄であり、群馬県知事に立候補していた兄の急死により補充立候補して当選を果たした。 1895年(明治28年)12月30日、群馬県群馬郡箕輪村西明屋(現・高崎市箕郷町西明屋)の酒造業者・竹腰徳蔵(先代)の次男として生まれる。1909年(明治42年)箕輪小学校を卒業後、1914年(大正3年)高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業。1915年(大正4年)に群馬県師範学校本科二部(現在の群馬大学教育学部)を卒業した。
大塚 好治(おおつか こうじ、1895年12月27日 - 1… 大塚 好治(おおつか こうじ、1895年12月27日 - 1979年4月25日)は、日本の化学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(大阪大学)。元応用化学教室担当。 専門は、無機工業化学・分析化学・物理化学。 鳥取県出身。1917年旧制大阪高等工業学校(のちの大阪大学)卒業。同校助手となり、1929年旧制大阪工業大学(のちの大阪大学工学部)講師。1933年大阪帝国大学工学部応用化学科助教授などを経て、1952年大阪大学大学院工学研究科にて工学博士(大阪大学)。1958年大阪工業大学工学部応用化学科教授、応用化学教室を担当。1977年大阪工業大学名誉教授。1979年逝去。 大阪工業大学工学部応用化学科で、1958年の同学科開設時より18年の長きに渡り教鞭を執り、同学科初期の応用化学(特に、無機工業化学・分析化学・物理化学)の研究・育成に貢献した。
笠井 鎮夫(かさい しずお、1895年12月27日 - 19… 笠井 鎮夫(かさい しずお、1895年12月27日 - 1989年5月21日)は、日本の文学研究者、スペイン語学・文学者、翻訳家。東京外国語大学名誉教授。日本の怪異譚にも関心をもち、僖真 学人を名乗った。 岡山県岡山市出身。1919年東京外国語学校西語学科卒業。同年4月同校助教授。1929年同校教授。1949年東京外国語大学教授、同年7月から1951年まで同大学附属図書館長を兼任。1959年定年退官、名誉教授、南山大学教授、1972年退職。 日本とスペイン語圏文化の交流に尽力し、日本ボリビア協会理事、日本アルゼンチン協会評議員などを歴任。『西譯古今名句選』では、俳句のスペイン語訳を行った。 1965年6月、スペイン政府からイサベル・ラ・カトリカ勲章(スペイン語版、英語版)を受章。
金子 光晴(かねこ みつはる、1895年〈明治28年〉12月… 金子 光晴(かねこ みつはる、1895年〈明治28年〉12月25日 - 1975年〈昭和50年〉6月30日)は、日本の詩人。本名:金子安和(かねこ やすかず・後に保和を名乗る)。弟に詩人で小説家の大鹿卓がいて、衆議院議員の河野密(妹・捨子の夫)は義弟にあたる。妻も詩人の森三千代、息子に翻訳家の森乾。 愛知県海東郡越治村(現:津島市)生まれ。暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。 渡欧して西洋の詩を研究し、詩集『こがね虫』(1923年)を刊行。その後世界を放浪して無国籍者の視野を獲得。反権力、反戦の詩を多く残した。作品に『鮫』(1937年)、『落下傘』(1948年)など。
山下 陸奥(やました むつ、1895年(明治28年)12月2… 山下 陸奥(やました むつ、1895年(明治28年)12月24日 - 1967年(昭和42年)8月29日)は、日本の歌人。 広島県尾道市千光寺通りに生まれる。 尾道市立土堂小学校、広島県第一中学校(現広島県立広島国泰寺高校)を経て、東京高等商業学校(現一橋大学)中退。住友合資に入社し、愛媛県新居浜住友工業所に勤務。上司の川田順の勧めで佐佐木信綱の竹柏会に入り、新井洸、木下利玄に私淑。のち上京して信綱、石槫千亦を助けて「心の花」の編集を担当。信綱、久松潜一から国文学を学ぶ。 1930年(昭和5年)、歌誌「一路」を創刊、主宰した。「一路」には岡部桂一郎や山崎方代、塩野崎宏、角宮悦子などが参加したが、戦後に多く離反していった。
田中 一松(たなか いちまつ、1895年12月23日 - 1… 田中 一松(たなか いちまつ、1895年12月23日 - 1983年4月19日)は、日本の美術史家である。 山形県鶴岡市に生まれ、旧制中学校の山形県立荘内中学校、旧制高等学校の第一高等学校を経て、1918年に東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、1923年に卒業した。 1924年から東京帝室博物館(現東京国立博物館)に勤務し、文化財の調査研究・保護にあたった。1952年に東京文化財研究所美術部長、1953年に同所長となった。1964年に退任し、1965年から國華社主幹、1977年から死去まで編集顧問を務めた。 田中は研究者としても精力的に活動した。1926年に古社寺保存計画調査嘱託、1935年に国宝保存に関する調査嘱託、1936年に重要美術品等調査委員会の臨時委員を務めた。
辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月1… 辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月19日 - 1988年(昭和63年)2月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。公職追放中にもかかわらず、吉田茂とGHQの橋渡しを務めた。そのとき、吉田にウィロビーを引き合わせた。戦後の連合軍占領中にウィロビーの発案で河辺機関が組織された。 佐賀県出身。商業・辰巳兵三郎の二男として生まれる。佐賀中学校を経て1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。独立守備隊第4大隊付、陸軍歩兵学校付などを経て1925年11月、陸軍大学校(37期)を優等で卒業し歩兵第21連隊中隊長に就任した。
長 勇(ちょう いさむ、1895年1月19日 - 1945年… 長 勇(ちょう いさむ、1895年1月19日 - 1945年6月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
坂口 二郎(さかぐち じろう、1895年(明治28年)1月1… 坂口 二郎(さかぐち じろう、1895年(明治28年)1月19日 - 1975年(昭和50年)6月16日)は、日本の実業家。ユニチカ初代社長。関西棋院理事長。 揖野要太郎の四男として、島根県安濃郡大田町(現:大田市)に生まれる。 1918年(大正7年)神戸高等商業学校(現:神戸大学)、1920年東京高等商業学校(現:一橋大学)専攻部をそれぞれ卒業する。同年坂口製糸合資会社を前身とする日本製糸に入社する。翌年、坂口財閥の初代・坂口平兵衛に懇望されて長女の婿養子となり、1922年に常務に抜擢され、1926年には副社長に昇格した。社長は初代・平兵衛で二郎は事実上のトップだった。 1942年(昭和17年)、戦時下の企業統合で日本製糸は大日本紡績(現:ユニチカ)の子会社・日本レイヨンに吸収合併されると、常務に転じ、戦後の1946年、社長に昇格した。
浜田 平(濱田、はまだ ひとし、1895年(明治28年)1月… 浜田 平(濱田、はまだ ひとし、1895年(明治28年)1月18日 - 1945年(昭和20年)9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡大篠村明見(現・南国市明見)出身。浜田正之・礼の四男として生まれた。高知第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校普通科を卒業し、1919年(大正8年)11月、同校高等科(25期)を卒業。陸軍工科学校教官などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1925年12月、野砲兵第4連隊中隊長に就任。
畠山 鶴吉(はたけやま つるきち、1895年(明治28年)1… 畠山 鶴吉(はたけやま つるきち、1895年(明治28年)1月18日 - 1973年(昭和48年)5月31日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県北都留郡梁川村(現大月市梁川町)で生まれる。尋常小学校卒業後、1906年(明治39年)に上京し、1912年(明治45年)神田工科学校を卒業した。 1914年(大正3年)神田今川橋で酒店を開業。1923年(大正12年)の関東大震災で財産の全てを失ったが、同年、土木建築請負業「畠山組」を設立して復興事業で事業を拡大した。1931年(昭和6年)「大森かに料理つるや」を開業。1934年(昭和9年)帝国無尽 (株) 社長に就任。同年11月、熱海温泉につるや旅館を開業し、のち(株) つるやホテルに改組して社長に就任した。
河石 九二夫(かわいし くにお、1895年(明治28年)1月… 河石 九二夫(かわいし くにお、1895年(明治28年)1月17日 - 1973年(昭和48年)1月28日)は、日本の医師、医学者。 水泳選手で、1932年ロサンゼルスオリンピック銀メダリストの河石達吾は親戚に当たる。 1895年(明治28年)1月17日、現在の広島県江田島市大柿町大原に生まれる。 第一高等学校を経て東京帝国大学医学部に進み、1921年(大正10年)に大学を卒業。その後、愛知医科大学・名古屋医科大学斉藤外科の講師・助教授となる。1938年(昭和13年)には、台北帝国大学教授となり、河石外科教室を創設。1944年から1945年にかけて、医学部付属病院の第4代院長を務めた。 1949年(昭和24年)に日本に帰国し、広島医科大学教授、後に学長となる。
長井 満(ながい みつる、1895年(明治28年)1月16日… 長井 満(ながい みつる、1895年(明治28年)1月16日 - 1978年(昭和53年)12月13日)は、昭和期の大日本帝国海軍軍人。 最終階級は従四位勲二等海軍少将。福井県丹生郡殿下村(現福井市風尾町)出身。長井斎藤別当実盛の後裔と伝える浄土真宗勝鬘寺の長井真応住職の四男。長兄に仏教学者長井真琴博士、三兄に真向法の創始者として知られる長井津がいる。弟の長井洗は陸軍中佐。 東京府立第四中学校を経て、1917年(大正6年)11月、海軍兵学校(45期)を卒業。卒業席次は89名中5位(首席は皇族の名誉席次であり、実質上の4位)で、優等生として恩賜品を下賜されている。1918年(大正7年)8月1日、海軍少尉に任官。
高橋 潔(たかはし きよし、1895年1月16日 - 196… 高橋 潔(たかはし きよし、1895年1月16日 - 1961年12月29日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。青森県出身。 1921年(大正10年)3月に東京帝国大学法学部を卒業。同年5月にいったん司法官試補となるが、1922年(大正11年)9月に依願退官し、すぐ弁護士登録をした。1952年4月から2年間、司法研修所の教官を務めた。 弁護士としては湯浅倉平内大臣暗殺計画事件や人民戦線事件などを扱い、極東国際軍事裁判で旧制一高・東京帝大時代の友人である岸信介の弁護人をした。 子供が無く、夫人と二人暮らしであった。楽しみは若い相撲取りや弁護士たちの面倒を見ることで、特に相撲が好きで若い力士を子供のようにかわいがっており、学生時代は仕度部屋に通いづめだったほどである。
高田 利種(たかだ としたね、1895年(明治28年)1月1… 高田 利種(たかだ としたね、1895年(明治28年)1月15日 - 1987年(昭和62年)10月25日)は、日本の海軍軍人、実業家。海兵46期、海大28期。最終階級は海軍少将。戦後は生化学工業株式会社社長。 1895年(明治28年)1月15日、鹿児島県で税務署長・高田利英の二男として生まれる。現在の西之表市出身。京北中学校を経て、海軍兵学校に45期生として入校したが、病気のため留年し1918年(大正7年)11月、46期生として卒業。公的な席次は次席であったが、首席は皇族(伏見宮博義王)の名誉席次であり、実質的には首席である。翌年8月、海軍少尉任官。海軍大学校航海学生として学び、優等で卒業。「第5号駆逐艦(春風 [II])」「野風」の各航海長、横須賀鎮守府付、練習艦隊参謀、「長鯨」航海長などを経て、1930年(昭和5年)11月、海軍大学校(甲種28期)を次席で卒業した。
重政 庸徳(しげまさ ようとく、1895年1月15日 - 1… 重政 庸徳(しげまさ ようとく、1895年1月15日 - 1977年9月28日)は日本の政治家。元参議院副議長。衆議院議員の重政誠之は弟。正三位勲一等。 広島県深安郡神辺町出身。広島県立福山中学(現広島県立福山誠之館高等学校)から第五高等学校を経て東京帝国大学農学部卒業後、1923年農林省入省。岡山農地事務局長などを歴任した後1953年第3回参議院議員通常選挙で初当選。1962年に参議院副議長に就任。1967年、副議長在任時に重政の秘書が参議院副議長室を舞台に、暴力団幹部に対し拳銃を不法売買したという「国会内短銃密売事件」で逮捕されたため、2月2日に参議院本会議で議員辞職勧告決議が上程される。決議は否決されたが、重政は本会議場で自民党籍の離を脱し登院を控え謹慎することを表明し、謹慎は77日間になった。
浜川 友十朗(濱川、はまがわ ともじゅうろう、1895年 <… 浜川 友十朗(濱川、はまがわ ともじゅうろう、1895年 <明治28年> 1月15日 - 1981年 <昭和56年> 9月5日)は、日本の経営者。三菱倉庫社長を務めた。位階は従四位。 高知県出身。1917年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に三菱倉庫に入社。取締役、常務を経て、1949年9月に副社長に就任し、1959年8月には社長に昇格。1968年5月に相談役に退いた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1981年9月5日老衰のために死去。86歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
伊藤 松雄(いとう まつお、1895年〈明治28年〉1月13… 伊藤 松雄(いとう まつお、1895年〈明治28年〉1月13日 - 1947年〈昭和22年〉8月5日)は、日本の劇作家、脚本家、演出家である。 1895年(明治28年)1月13日、長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に生まれる。 東京に移り、旧制・早稲田大学を卒業、満18歳になる1913年(大正2年)、有楽座に加わり、劇作者兼演出家となる。新文芸協会、のちに森英次郎、山田隆弥らの舞台協会で新劇を演出した。 1920年(大正9年)、戯曲集『危急』を上梓、翌1921年(大正10年)、ショーレム・アッシュの戯曲『夜』を翻訳して上梓している。 舞台協会に属していた1923年(大正12年)、日活向島撮影所と同協会が提携、3作を製作することとなり、うち『忘れな草』、『三つの魂』にオリジナル脚本を書き下ろし、いずれも田中栄三が監督した。
今井 兼次(いまい けんじ、1895年〈明治28年〉1月11… 今井 兼次(いまい けんじ、1895年〈明治28年〉1月11日 - 1987年〈昭和62年〉5月20日)は、日本の建築家。早稲田大学理工学部建築学科卒業。母校の教授を長く務め、建築作品とともに教育者として研究室から優れた建築家、研究者を多数輩出した。昭和初期にガウディを日本に紹介した人物である。 東京市赤坂区青山権田原町(現:東京都港区元赤坂2丁目)に生まれる。青山尋常小学校、日本中学校(現:日本学園中学校・高等学校)を経て早稲田大学理工学部建築学科へ入学。1919年、大学卒業と同時に助手に任命され、翌年、助教授に就任。1926年から1927年にかけて東京地下鉄道(現:東京メトロ銀座線浅草駅 - 新橋駅間)の各駅の構内・出入口の設計、車両の内装や職員の制服デザインを担当し、ヨーロッパの地下鉄駅の研究及び早稲田大学からの近代建築視察を行うため外遊。
きだ みのる(本名・山田吉彦、1895年(明治28年)1月1… きだ みのる(本名・山田吉彦、1895年(明治28年)1月11日 - 1975年(昭和50年)7月25日) は、鹿児島県奄美大島出身の小説家、翻訳者。代表作『気違い部落』シリーズは映画化もされた。
加藤 厚太郎(かとう こうたろう、1895年(明治28年)1… 加藤 厚太郎(かとう こうたろう、1895年(明治28年)1月11日 - 1959年(昭和34年)2月3日)は、日本の実業家。伯爵。 加藤高明・春路夫妻の次男として東京府東京市(現・東京都)に生まれた。当時、加藤家に居候して厚太郎に勉強を教えていた家庭教師は、後に東急の創業者となる五島慶太であった。1919年(大正8年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、三菱財閥の持株会社・三菱合資会社に入社。イギリスに留学しオックスフォード大学で学び、帰国後三菱系の都市銀行・三菱銀行に入行。その間1926年(大正15年)4月2日に伯爵位を襲爵している。後に三菱系の損害保険会社・東明火災海上保険(現・日新火災海上保険)の取締役を務めた。
早見 一十一(はやみ いそい、1895年〈明治28年〉1月1… 早見 一十一(はやみ いそい、1895年〈明治28年〉1月11日 - 1990年〈平成2年〉6月23日)は、日本の美容師。大正時代から昭和時代にかけ、洋髪(女性の西洋風の髪形)の普及に努めると共に、戦後の生活に困窮する女性たちのために早見美容学校(後の早見芸術学園)の創設など、生涯を美容師の地位向上に尽くした。夫(後夫)は早見美容学校初代校長の遠藤千之。栃木県出身。 東京市芝区(後の東京都港区)で、二男二女の兄弟姉妹の次女、三子として誕生した。誕生日の1月11日にちなんで「一十一」と命名された。 小学校卒業までを栃木県小山町(後の小山市)で過ごした後、東京高等女学校、日本女子大学教育学部一部へ進学した。
西島 麦南(にしじま ばくなん、1895年1月10日 - 1… 西島 麦南(にしじま ばくなん、1895年1月10日 - 1981年10月11日)は、熊本県出身の俳人、校正者。本名・西島九州男(にしじま くすお)。 熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区植木町)生まれ。済々黌卒業。1915年、雑誌「雲母」の前身「キラヽ」に参加。1916年、上京し、出版社の警眼社に入社。1918年、武者小路実篤の「新しき村」に参加し、3年ほど農耕に従事。1922年12月、上京し、大鐙閣などを経て、1924年、岩波書店に入社する。戦後は校正課の初代課長を務め、55歳の停年後も特別嘱託として勤務し、1970年に75歳で退職するまで校正実務を担当し、「校正の神様」とたたえられた。 俳句は飯田蛇笏に師事。
増本 量(ますもと はかる、1895年(明治28年)1月9日… 増本 量(ますもと はかる、1895年(明治28年)1月9日 - 1987年(昭和62年)8月12日)は、日本の金属物理学者。東北大学名誉教授。広島県安芸郡矢賀村(現広島市東区矢賀町)出身。
三浦 義男(みうら よしお、1895年(明治28年)1月8日… 三浦 義男(みうら よしお、1895年(明治28年)1月8日 - 1965年(昭和40年)2月8日)は、日本の政治家。参議院議員、宮城県知事を歴任した。 宮城県の大崎地方(旧古川市域)生まれ。宮城県立古川中学校、第二高等学校を経て、1920年(大正9年)に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業、鉄道省に入省した。 1943年(昭和18年)、運輸省(現在の国土交通省)施設局長に就任。1953年(昭和28年)、参議院議員選挙に全国区から無所属で立候補し初当選、参議院議員となった。翌1954年(昭和29年)、日本民主党に入党、国会対策委員長などを務めた。1950年から1951年までは、土木学会の会長職にもあった。
北村 寿夫(きたむら ひさお、1895年1月8日 - 198… 北村 寿夫(きたむら ひさお、1895年1月8日 - 1982年1月3日)は、日本の脚本家、児童文学作家。 東京麹町区下六番町出身。本名・寿雄。早稲田大学中退。小山内薫に師事し、『劇と評論』同人となる。 1936年(昭和11年)NHK文芸部主事。 1947年(昭和22年)、ラジオドラマ『向う三軒両隣』の脚本を八住利雄、伊馬春部、北条誠とともに交代で執筆。終戦直後の民主的で明るい人間関係を描くホームドラマは人気番組となった。 1952年(昭和27年)から「白鳥の騎士」に始まる「新諸国物語」を五年連続してラジオ放送し、「笛吹童子」「紅孔雀」などがヒットして映画化もされた。墓所は雑司ヶ谷霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
鳥原 ツル(とりはら ツル、1895年(明治28年)1月8日… 鳥原 ツル(とりはら ツル、1895年(明治28年)1月8日 - 1981年(昭和56年)11月24日)は、日本の教員。日本で最初の女性校長とも言及されるが、鳥原より先に校長となった女性が複数確認されている(後述)。 宮崎市出身。宮崎県最初の訓導の一人である鳥原定静を父として生まれる。 1915年(大正4年)、宮崎県立宮崎県師範学校女子部(のちの県立宮崎女子師範学校→官立宮崎師範学校、現在の宮崎大学教育文化学部の前身)を卒業し、教員となる。25歳であった1920年(大正9年)7月3日に、宮崎県師範学校附属小学校(現・宮崎大学教育文化学部附属小学校)訓導から大淀町立古城尋常小学校(現・宮崎市立古城小学校)の校長に着任した。
矢毛石 栄造(やけいし えいぞう、1895年1月7日 - 没… 矢毛石 栄造(やけいし えいぞう、1895年1月7日 - 没年不明)は、日本の技術者。 熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、九州帝国大学工学部を卒業した。その後、八幡製鉄所に入所し、1933年化工課長となる。 1946年には自らタール製品工業会を立ち上げ、その後、日本タール協会と改組し専務理事を務めた。
小笹 耕作(おざさ こうさく、1895年〈明治28年〉1月7… 小笹 耕作(おざさ こうさく、1895年〈明治28年〉1月7日 - 1979年〈昭和54年〉5月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県佐用郡三日月村(三日月町を経て現佐用町)で、小笹力之助の長男として生まれた。1919年(大正8年)京都帝国大学法科大学仏法科卒。三日月町議、兵庫県会議員、同副議長、同議長となり、佐用合同銀行頭取、兵和銀行(現:神戸銀行)取締役、兵庫県食糧営団理事、同森林組合連合会副会長、同林材協会長、兵庫県地方木材(株)社長となる。 1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙で兵庫県第2区(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補して当選、1期務める。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 198… 堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 1984年8月18日)は、日本の建築家。 気象学者の堀口由己は兄。 佐野利器によって耐震力学が重視されていた当時の東大建築学科への反動と、ヨーロッパの新しい建築運動への憧憬から、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。 論文「利休の茶」で北村透谷賞を受賞。また歌人として、さらには日本庭園の研究家としても知られる。日本の建築と庭園の関係を「空間構成」としてとらえ、昭和戦前期より庭園に関する資料を収集し、1962年に神代雄一郎と共著で外国人向けに『Tradition of Japanese Garden』を、1965年に庭園論集『庭と空間構成の伝統』を出版、1975年に出版された自らの作品集の名称は『家と庭の空間構成』としている。
堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 198… 堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 1984年8月18日)は、日本の建築家。ヨーロッパの新しい建築運動に心惹かれ、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。
下田 喜久三(しもだ きくぞう、1895年〈明治28年〉1月… 下田 喜久三(しもだ きくぞう、1895年〈明治28年〉1月6日 - 1970年〈昭和45年〉2月17日)は、日本の農学博士。日本および東洋におけるアスパラガス栽培の先駆者であり、日本全国に先駆けて北海道岩内町でアスパラガス栽培の研究を手がけ、大正期に冷害に強い品種改良に成功、日本で初めてアスパラガスの本格的な生産に取り組んだ。「日本のアスパラガスの父」と呼ばれる。昭和期以降も肝油ビタミンや生活科学など、多方面で活躍した。女子教育の先駆者でもあり、女学校の設立により女子教育に尽力した。兄は日本ボーイスカウト創始者の下田豊松、長男は医学者にして元旭川医科大学学長の下田晶久。 岩内の農家で、三男として誕生した。
板沢 武雄(いたざわ たけお、1895年1月5日 - 196… 板沢 武雄(いたざわ たけお、1895年1月5日 - 1962年7月15日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授・法政大学教授を歴任。専門は、日本近世史・日蘭貿易史。 1895年(明治28年)1月5日に岩手県南閉伊郡釜石町(現・釜石市)の天台寺門宗の名刹観音寺住持・板沢真小雄と喜智の五男として生まれた。旧制遠野中学校に入学し、中学時代に『台湾文化志』の著者・伊能嘉矩の家に寄寓してその感化を受け、これがのちに歴史学を志す契機となった。中学卒業後に第二高等学校に進学し、1916年7月に同校大学予科第一部英文科卒業。同年9月に東京帝国大学文科大学国史学科に進んだ。1919年7月に卒業。 その後、宮内省図書寮勤務を経て、1921年に学習院講師となり、翌年教授に就任した。
中原 益治郎(なかはら ますじろう、1895年〈明治28年〉… 中原 益治郎(なかはら ますじろう、1895年〈明治28年〉1月5日 - 1958年〈昭和33年〉2月22日)は、日本の工学者。工学博士。大阪大学名誉教授。三菱重工業、芝浦共同工業各顧問。 大阪府大阪市で、中原庄兵衛の二男として生まれる。中原繁之助の弟である。分家した。1916年、東京帝国大学工科大学機械工学科に入学する。 1921年、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業する。1923年、横浜高等工業学校教授となり、1927年、東京帝国大学工学部講師、1929年、大阪工業大学助教授を歴任。同大学が大阪帝国大学工学部に昇格後、引き続き助教授の任にあり1935年、教授に進む。 1934年、工学博士の学位を受く。
山沢 和三郎(やまざわ わさぶろう、1895年(明治28年)… 山沢 和三郎(やまざわ わさぶろう、1895年(明治28年)1月5日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。弁護士。 新潟県西頸城郡糸魚川町(現在の糸魚川市)出身。第三高等学校を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部独法科を卒業した。朝鮮総督府試補、事務官、京畿道地方課長、同審査課長、咸鏡南道財務部長、全羅南道財務部長、専売局庶務課長、同製造課長、殖産局商工課長、農林局農産課長、総督官房審議室勤務を歴任。1938年(昭和13年)、慶尚南道知事に就任し、さらに農林局長に転じた。 1942年(昭和17年)に退官した後は、東洋拓殖株式会社理事、朝鮮鉱業振興株式会社理事、朝鮮電業株式会社監事を務めた。
明礼 輝三郎(明禮、みょうれい てるさぶろう、1895年(明… 明礼 輝三郎(明禮、みょうれい てるさぶろう、1895年(明治28年)1月5日 ‐ 1954年(昭和29年)12月16日) は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 愛媛県喜多郡満穂村論田(現内子町)で明礼善助の長男として生まれた。1921年、日本大学法律科を卒業した。弁護士となり、1936年に東京弁護士会副会長に就任した。その他、日本弁護士協会理事、日満法曹協会理事、大東亜法曹協会理事などを務めた。 戦後、1947年4月の第23回衆議院議員総選挙に自由党公認で愛媛県第3区から出馬して当選。第24回総選挙では落選したが、1952年10月の第25回総選挙で再選された。1953年4月の第26回総選挙で落選し、衆議院議員に2期在任した。
浅海 喜久雄(あさみ きくお、1895年〈明治28年〉1月4… 浅海 喜久雄(あさみ きくお、1895年〈明治28年〉1月4日 - 1967年〈昭和42年〉10月10日/12日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1895年(明治28年)に群馬県太田市鳥山で浅海三津三郎の次男として生まれた。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を経て、陸軍士官学校第29期、陸軍大学校第41期卒業。1938年(昭和13年)12月に北支那方面軍司令部附となり、1939年(昭和14年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、1940年(昭和15年)8月に支那派遣軍御用掛となった。1941年(昭和16年)6月に歩兵第76連隊長に転じ、1942年(昭和17年)12月に第39師団参謀長(第11軍)に就任し、中国戦線に出征した。
二見 秋三郎(ふたみ あきさぶろう、1895年(明治28年)… 二見 秋三郎(ふたみ あきさぶろう、1895年(明治28年)1月3日 - 1987年(昭和62年)3月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 神奈川県出身。地主・二見元次郎の二男として生まれる。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第4連隊付となる。1918年(大正7年)3月から1920年(大正9年)10月までシベリア出兵に出征した。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1926年(大正15年)12月、参謀本部付勤務となる。
北村 徳太郎(德太郎、きたむら とくたろう、1895年 <明… 北村 徳太郎(德太郎、きたむら とくたろう、1895年 <明治28年> 1月3日 - 1964年 <昭和39年> 5月8日)は、日本の造園技師・都市研究者・都市計画家。東京大学農学部教授も歴任。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 山形県米沢市で生まれる。父は元米沢藩士で、米沢藩の藩医だった祖父茂助(貞徳)の代に既に東京に出ていたが、母親は米沢の風習により里帰りしたようである。弟は作家の北村謙次郎。獨逸学協会学校、第一高等学校を経て東京帝国大学医科に進学したが、まもなく農科に転籍。 大学卒業後は内務省に入省し、以後、中央官庁で黎明期の都市計画行政の指導監督、戦災復興事業の実践等の任にあたった。主として公園緑地に関わり、全国の都市計画、地方計画、国土計画に参画した。
伊吹山 末吉(いぶきやま すえきち、1895年1月3日 - … 伊吹山 末吉(いぶきやま すえきち、1895年1月3日 - 1930年1月16日)は、現在の滋賀県近江八幡市出身で入間川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は坂本 末吉。8代藤島。189cm、116kg。最高位は西前頭11枚目。 長身で骨格も発達した巨人型の体躯で、上背を利しての突っ張りは強烈であった。1918年5月幕下付出で初土俵、1921年1月十両昇進。1922年1月新入幕したが、病気の為に十両と幕内を往復。1923年1月場所前に起きた三河島事件では横綱・大関を除く全力士が協会と対立したが、ひとり師匠に反旗を翻すのを拒んだという意志強固な性格の持ち主であった。1926年5月に引退し藤島を襲名したが、1929年1月に廃業した。
齋藤 兼吉(さいとう・かねきち、1895年〈明治28年〉1月… 齋藤 兼吉(さいとう・かねきち、1895年〈明治28年〉1月2日 - 1960年〈昭和35年〉10月26日)は、日本の体育学者であり、かつ、陸上競技、水泳、野球で超人的活躍をした運動選手である。 新潟県佐渡郡高千村(現在の新潟県佐渡市)にて生まれる。佐渡の相川町立相川尋常高等小学校(現 佐渡市立相川小学校) から旧制佐渡中学校(現 新潟県立佐渡高等学校)へ進み、佐渡中学校時代から1m75cmの長身でありスポーツ万能の異名を取った。佐渡中学校時代には相撲、柔道、剣道、陸上競技、水泳、野球、端艇とほとんどの競技に選手として参加して活躍したという。 英語を得意としていたことから外交官になりたかったが、実家が貧しかったために教師になることを考え、新潟県高田市の新潟縣高田師範学校(昭和戦後に新潟大学教育学部高田分校となり現在は廃校)に進学し、更に東京高等師範学校に入学する。
黒正 巌(こくしょう いわお、1895年(明治28年)1月2… 黒正 巌(こくしょう いわお、1895年(明治28年)1月2日 - 1949年(昭和24年)9月3日)は、日本の経済学者、農業史家、農村社会史学者。専門は経済史、経済地理学。経済学博士(京都帝国大学)。岡山県出身。大阪経済大学初代学長。 1895年(明治28年)岡山県上道郡可知村(現在の岡山市東区)生まれ。可知尋常小学校、上道高等小学校を経て1909年(明治42年)4月岡山県立岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に入学、1914年(大正3年)3月同校を卒業し同年9月第六高等学校に入学、ドイツ語や英語などを習得し他に歴史や経済史を研究した。1916年に黒正家の養子となる(旧姓中山)。翌1917年(大正6年)7月に六高を卒業し同年9月京都帝国大学法科大学政治経済学科に入学。
大井 又次(おおい またじ、1895年(明治28年)1月2日… 大井 又次(おおい またじ、1895年(明治28年)1月2日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。彰化市長。 佐賀県佐賀市寺町(現・佐賀市唐人)に生まれる。1914年(大正3年)3月に佐賀県立佐賀中学校を卒業後に渡台し、新竹庁財務課に奉職。 ついで新竹州官房税務課、桃園税務出張所州税係長、台北州税務課州税係長、府財務局勤務を経て、1937年(昭和12年)9月に地方理事官に進み、台北州蘇澳郡守に就任した。のち1939年(昭和14年)7月、台中州大甲郡守を経て、1941年(昭和16年)1月に彰化市長に就任した。
八田 四郎次 (はった しろうじ、1895年1月2日 - 1… 八田 四郎次 (はった しろうじ、1895年1月2日 - 1973年3月21日) は日本の化学工学者。石川県出身。
岡本 文弥(おかもと ぶんや、本名:井上 猛一、1895年〈… 岡本 文弥(おかもと ぶんや、本名:井上 猛一、1895年〈明治28年〉1月1日 - 1996年〈平成8年〉10月6日)は、日本の新内節の太夫、新内節岡本派五代目家元、新内節研究家、随筆家、俳人。 東京・谷中上三崎南町に生まれる。父・田崎源次郎は煉瓦職人、母・とらは新内語りの鶴賀若吉(のちに三世・岡本宮染)。幼少時より母親から浄瑠璃を習い、1913年(大正2年)、富士松加賀路太夫を名乗る。早稲田大学中退後、文芸誌の編集者をしながら、夜は新内を流す日々を過ごす。1923年(大正12年)母と共に独立して岡本派を再興、岡本宮太夫を名乗り、後に岡本文弥と改名。母の幼女で妹でもある三味線の名手、四世・岡本宮染とコンビを組み、母から多くの貴重な古曲を継承すると共に、生来の文才を生かして次々と新作を発表。
三宅 剛一(みやけ ごういち、1895年1月1日 - 198… 三宅 剛一(みやけ ごういち、1895年1月1日 - 1982年10月8日)は、日本の哲学者。専攻は臨床哲学・倫理学。文学博士(京都帝国大学)。長男は歴史学者の三宅正樹。 岡山県浅口市鴨方町益坂出身。旧制私立金光中学校(現:金光学園中学校・高等学校)、旧制第六高等学校(現:岡山大学)を経て、1916年に京都帝国大学哲学科に進み西田幾多郎、朝永三十郎、波多野精一に学ぶ。卒業後は旧制新潟高等学校(現:新潟大学)や東北帝国大学理学部の教授を歴任した。ドイツにも留学し、フライブルク大学でフッサールから現象学の手法を学んだ。1943年「学の形成と自然的世界:西洋哲学の歴史的研究」により京都帝国大学文学博士。