野口 雅昭(のぐち まさあき、1940年10月13日 - )… 野口 雅昭(のぐち まさあき、1940年10月13日 - )は、日本の元外交官。アラビスト。元京都文教大学人間学部長、現代社会学科教授。龍谷大学客員教授。京都聖母女学院短期大学非常勤講師。福島県会津若松市出身。父は旧帝国陸軍で参謀などを務めた野口省己。登山家の野口健は次男。野口絵子は孫(健の長女)。 外交官時代は、アラビア語の専門教育を受けたアラビストであった。1991年1月31日、イエメン大使在任時に、大使公邸に手榴弾が投げ込まれた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
丹藤 佳紀(たんどう よしのり、1940年 - )は、日本の… 丹藤 佳紀(たんどう よしのり、1940年 - )は、日本のジャーナリスト、元読売新聞記者。中国研究者。 福島県会津若松市生まれ。福島県立会津高等学校卒、1963年東京外国語大学中国語科卒、読売新聞社入社。横浜支局を経て外報部勤務。サイゴン・ソウル・北京各特派員、北京支局長、編集委員。2000年から2006年まで東洋大学教授を務める。日中友好協会参与。
太田原 高昭(おおたはら たかあき、1939年 <昭和14年… 太田原 高昭(おおたはら たかあき、1939年 <昭和14年> 9月18日 - 2017年 <平成29年> 8月11日)は、日本の農業経済学者。北海道における農業経済学の第一人者の一人。学位は、農学博士(北海道大学・論文博士・1977年)。北海道大学名誉教授。日本学術会議会員。位階は正四位。瑞宝中綬章。指導教授は川村琢。門下生に佐藤信(北海学園大学教授)らがいる。 福島県会津若松市生まれ。福島県立会津高等学校を経て、1963年に北海道大学農学部農業経済学科を卒業。恵迪寮出身。1968年に北海道大学大学院農学研究科農業経済学専攻博士課程を修了。 1968年北星学園大学経済学部経済学科講師。1971年北海道大学農学部農業経済学科助手。
笹川 ひろし(ささがわ ひろし、本名・笹川浩、1936年7月… 笹川 ひろし(ささがわ ひろし、本名・笹川浩、1936年7月9日 - )は、日本の男性アニメ監督、漫画家、作家。タツノコプロ顧問。福島県会津若松市出身。 手塚治虫のアシスタントから漫画家を経て、タツノコプロの創立時から演出家として活躍。1970年代から1980年代にかけてのタツノコ黄金時代の立役者の一人。代表作は『タイムボカンシリーズ』など。ギャグ作品を多く手がけており、マンネリを生かしたギャグの演出を得意とする。「ギャグアニメの帝王」「アニメ界の欽ちゃん」とも言われた。しかし、当人は『新造人間キャシャーン』のようなシリアスなストーリーが好みであるという。タツノコプロを退社していた80〜90年代前半にかけては『忍者ハットリくん』『パーマン』『オバケのQ太郎』『ポコニャン!』など藤子不二雄作品を多く手掛けていた。
長嶺 ヤス子(ながみね やすこ、昭和11年(1936年)2月… 長嶺 ヤス子(ながみね やすこ、昭和11年(1936年)2月13日 - )は、日本の舞踏家、ダンサー。福島県会津若松市出身。 昭和30年(1955年)スペイン舞踊を習い始める。昭和35年(1960年)青山学院大学を中退し、スペインに渡る。マドリッドでダンスを学び、フラメンコに触れる。しかし、当初は、日本人学生として好意的に受け止められていたが、プロのダンサーとして活動を始める中で苦闘する。たまたま、アドバイスがあって裸足でフラメンコを踊る。この裸足での舞踏がフラメンコの原型の再現ということで現地で絶賛される。 昭和50年(1975年)、 「イグナシオ・サンチェス・メヒーアスへの哀歌」で文化庁芸術祭優秀賞、舞踏評論家協会賞を受賞する。
本田 弘(ほんだ ひろし、1935年3月11日 - )は、日… 本田 弘(ほんだ ひろし、1935年3月11日 - )は、日本の行政学者、日本大学名誉教授。 福島県会津若松市出身。1964年明治大学大学院政治学専攻博士課程修了、1978年「現代都市行政論 都市化過程と行政変動」で政治学博士。 日本大学法学部助教授、教授。2005年定年となり、名誉教授。1974年日本都市学会奥井賞受賞。
福田 晃(ふくだ あきら、1932年1月26日 - 2022… 福田 晃(ふくだ あきら、1932年1月26日 - 2022年1月9日)は、日本の国文学者・民俗学者。専門は説話文学。学位は、文学博士(國學院大學・論文博士・1985年)(学位論文「神道集説話の成立」)。立命館大学名誉教授。 福島県会津若松市出身。1950年3月に福島県立会津工業高等学校を卒業後、5年間の社会人生活を経て、1955年4月に國學院大學文学部に入学する。入学当初は、国語の教員をしながら小説を書く生活を送りたい、と考えていたため近現代文学を志し、当時同大学英文科で教鞭を採っていた丸谷才一と親交を深める。ただし、丸谷は近現代文学を専攻することをよしとせず、同大学の中でも教学条件が整っている古典文学を専攻するように勧めたことで、その後の進路を決めた。
星 和男(ほし かずお、1930年9月28日 - 2004年… 星 和男(ほし かずお、1930年9月28日 - 2004年2月3日)は日本の作曲家、声楽家、音楽教諭。福島県出身。 声楽家で東京音楽大学准教授の星洋二は長男。 1930年(昭和5年)、福島県若松市(現在の会津若松市)馬場町に生まれる。旧制会津中学校(現在の福島県立会津高等学校)を経て国立音楽学校(現在の国立音楽大学)声楽科へ進学するが、1年で中退する。1949年(昭和24年)、藤原歌劇団合唱部に入部。 帰郷後に中学校の音楽教諭となり、会津若松市立河東第一中学校在職中の1967年(昭和42年)に県が募集していた「福島県県民の歌」の作曲部門で応募作が入選する。その後も南会津郡下郷町の町民歌「飛躍の明日へ」や会津若松市立松長小学校、喜多方市立姥堂小学校など会津地方の公立学校の校歌で作曲を手掛けた。
柏木 繁男(かしわぎ しげお、1930年 - )は、日本の心… 柏木 繁男(かしわぎ しげお、1930年 - )は、日本の心理学者、千葉大学名誉教授。 福島県会津若松市生まれ。東京大学文学部心理学科卒、同大学院教育学研究科をへて1967年教育学博士。旧国鉄の鉄道労働科学研究所を経て、千葉大学教授・文学部長、1996年定年退官、名誉教授、城西国際大学教授、慶應義塾大学教授。 内田クレペリン精神検査など心理検査の研究など人格心理学に関する研究者として著名である。また計量行動学や心理学における多変量解析を用いた心理学研究法に関する著書や論文を国内外の学術誌で多数執筆している。特に因子分析に関する研究で国際学術誌に数多くの業績を残している。最近は主要5因子性格検査の研究を中心に行っている。
佐藤 慶(さとう けい、1928年〈昭和3年〉12月21日 … 佐藤 慶(さとう けい、1928年〈昭和3年〉12月21日 - 2010年〈平成22年〉5月2日)は、日本の俳優、ナレーター。福島県会津若松市生まれ。本名:佐藤 慶之助(さとう けいのすけ)。 佐藤家は先祖代々会津藩士で、戊辰戦争に敗れて以降は漆器材料の卸商を営んでいた。また、二・二六事件に参加し刑死した渋川善助の妻絹子は叔母。 福島県立会津工業学校(現・福島県立会津工業高等学校)染織科卒業後、会津若松市役所戸籍係に勤務するかたわら、地元で結成した新劇愛好会で演劇に打ち込んでいたが、会の発表会の日に無断欠勤をして役所を免職されたという「根っからの新劇人」。 その後1951年に上京し、俳優の小沢栄太郎の芝居を見て、「ふてぶてしいまでに人間の暗い面を表現している」と憧れた。
大原 光憲(おおはら みつのり、1926年5月1日 - 19… 大原 光憲(おおはら みつのり、1926年5月1日 - 1992年7月23日)は、日本の政治学者。中央大学名誉教授。 福島県会津若松市出身。1948年水戸高等学校 (旧制)卒業。1953年中央大学法学部卒業、1955年同大学院法学研究科政治学専攻修士課程。1956年明治大学大学院政治経済研究科政治学専攻博士課程中退。1956年中央大学法学部助手。1960年同法学部助教授。1967年同法学部教授。中央大学では「政治学原論」「政治過程論」「地域政治」の講義を担当していた。1982年中央大学学生部長。1983年中央大学にて法学博士受く。1991年東京都知事選挙に日本社会党推薦で出馬。横山桂次、篠原一、吉武輝子らの推薦を受けたが落選。
宮崎 十三八(みやざき とみはち、1925年(大正14年)7… 宮崎 十三八(みやざき とみはち、1925年(大正14年)7月8日 - 1996年(平成8年)5月11日)は、日本の郷土史家。福島県会津若松市生まれ。旧制新潟高等学校文科卒業。会津若松市商工観光部長。会津史学会会長、顧問。会津史談会相談役。 1993(平成5)年に出された「教育委員会表彰推せん調書」によれば次の通り。 福島県若松市融通寺町(現在の本町)に生れ、市立第四(城西)小学校・県立会津中学校を経て、旧制官立新潟高等学校文科卒業。県立安積高校教員の後、昭和二十六年若松市役所に奉職。三十三年間勤務。商工観光課長のとき、天守閣再建担当。社会教育課長、文化福祉センター初代所長、商工観光部長。五十九年三月定年退職。
渡部 行雄(わたなべ ゆきお、1925年(大正14年)1月2… 渡部 行雄(わたなべ ゆきお、1925年(大正14年)1月27日 - 1997年(平成9年)9月16日)は、昭和から平成初期の司法書士、政治家。日本社会党衆議院議員(6期)。 福島県若松市(現会津若松市)出身。福島県立会津中学校(旧制)を卒業後、942年(昭和17年)東京物理学校を中退。司法書士、福島県議会議員(4期)、全日本農民組合連合会中央常任委員、同福島県連合会会長、福島県日中友好協会顧問、同県労農会議顧問、日本司法書士会連合会顧問などを務めた。 1972年(昭和47年)第33回衆議院議員総選挙で旧福島2区から日本社会党公認で立候補したが落選。1976年(昭和51年)第34回総選挙で初当選。
五十嵐 平達(いがらし へいたつ、男性、1924年 - 20… 五十嵐 平達(いがらし へいたつ、男性、1924年 - 2000年12月17日)は、日本の自動車デザイナー。後に自動車評論家に転身する。産業考古学の立場から自動車の歴史を論ずるという独自の視点を持っていた。 1924年、会津若松市に生まれ、旧制都立工業高校で機械工学を学んだ。1940年、16歳で運転免許を取得し、卒業後ヂーゼル工業(後のいすゞ自動車)に入社、軍用トラックなどの設計を担当する。その後、乗用車のボディ設計を学ぶために、オオタ自動車工業創立者の子息太田祐一が経営したコーチビルダーのワイドフィールド・モータースに移籍する。 その傍ら、1949年頃より自動車の写真撮影に取り組み、専門雑誌に寄稿するなど、自動車評論家の草分けとしても活動を開始する。
川島 廣守(かわしま ひろもり、1922年(大正11年)2月… 川島 廣守(かわしま ひろもり、1922年(大正11年)2月27日 - 2012年(平成24年)12月9日)は、日本の官僚。第10代プロ野球コミッショナー、第3代セントラル・リーグ会長、第2代本田財団理事長、内閣調査室長、内閣官房副長官、日本鉄道建設公団総裁などをつとめた。位階は従三位。 福島県湊村(現会津若松市)出身。会津中学校を経て、中央大学法学部専門部法科入学。在学中に高等試験に合格。中大卒業後、内務省入省。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入学し、1944年3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年3月、海軍主計大尉に昇進してインドネシア・サバン島で終戦を迎えた。
猪俣 良記(いのまた よしき、1920年(大正9年)10月2… 猪俣 良記(いのまた よしき、1920年(大正9年)10月27日 - 2007年(平成19年)5月22日)は、昭和時代の政治家。位階は正五位。福島県会津若松市長。 会津若松市出身。1943年(昭和18年)日本大学商経学部卒業。 門田村議会議員、会津若松市議会議員を経て、1967年(昭和42年)より福島県議会議員に5選する。1983年(昭和58年)会津若松市長に当選し、1987年(昭和62年)落選した。
奥田 鑛一郎(おくだ こういちろう、1920年(大正9年)3… 奥田 鑛一郎(おくだ こういちろう、1920年(大正9年)3月19日 - 1995年(平成7年)3月17日)は、日本の会社経営者(三宅坂経営よろず相談所主宰、梁山泊・三宅坂倶楽部会長)、著述業、元陸軍軍人および陸上自衛官。陸士53期卒(歩兵)。最終階級は陸軍少佐、二等陸佐。旧名:奥田重武。 福島県会津若松市出身。奥田重栄少将の四男。ペンネームの「鑛一郎」は祖父の名で、家憲により1978年ごろ襲名した。 父の予備役編入に伴い京都市で育ち、京都府立第六中学より東京幼年学校を経て陸士53期卒。原隊は歩兵第9連隊。当時の第16師団長は石原莞爾であった。連隊旗手を拝命後、下志津陸軍飛行学校にて特別偵察学生としての訓練を受け、1941年6月、参謀本部課員として南方での空中偵察に従事。
長沢 節(ながさわ せつ、1917年5月12日 - 1999… 長沢 節(ながさわ せつ、1917年5月12日 - 1999年6月23日)は、日本のイラストレーター、水彩画家、デザイナー、エッセイスト、ファッション評論家、映画評論家。セツ・モードセミナー創設者。日本のファッション・イラストレーターの草分け。 本名は、長沢 昇(ながさわ のぼる)。 福島県会津若松市に生まれる。 小学校時代、画家で小学校教師の渡部菊二と出会う。会津中学入学。 軍事教練をボイコットした為、官立校の東京美術学校(東京芸大)への受験資格を失う。文化学院へ入学。卒業後水彩画家へ。 春日部たすく画伯と親交。戦前から中原淳一の推薦で女性誌『新女苑』にデビュー。『それいゆ』や『ひまわり』といった雑誌にイラストやエッセイを掲載。
猪俣 甚弥(いのまた じんや、1916年(大正5年)4月30… 猪俣 甚弥(いのまた じんや、1916年(大正5年)4月30日 - )は、日本の陸軍軍人。陸軍中野学校1期生で、ポツダム宣言受諾後の皇統護持作戦に参加し、「本丸」計画の責任者であった。最終階級は陸軍少佐。 福島県若松市(現会津若松市)に生まれる。1934年(昭和9年)会津中学を卒業し二高に進学したが、学費滞納で中退する。1937年(昭和12年)歩兵第29連隊に入隊し、翌年には歩兵学校で通信を専攻した。 この1938年(昭和13年)7月には、秋草俊や岩畔豪雄らが中心になり陸軍中野学校の前身である後方勤務要員養成所が設立される。猪俣は騎兵学校の推薦で、養成所の入所試験に合格した。事前の知識としては情報関係の仕事である程度しかなく、入所後に長期海外勤務要員と知らされる。
伊東 正義(いとう まさよし、1913年〈大正2年〉12月1… 伊東 正義(いとう まさよし、1913年〈大正2年〉12月15日 - 1994年〈平成6年〉5月20日)は、日本の政治家、農林官僚。 衆議院議員(9期)、外務大臣(第109代)、内閣総理大臣臨時代理、副総理、内閣官房長官(第43代)、自由民主党政務調査会長(第32代)、自由民主党総務会長(第30代)を歴任した。 1913年、福島県若松市(現・会津若松市)に生まれる。祖父の伊東健輔は会津藩士、父の伊東秀三郎は旧制会津中学校(現・福島県立会津高等学校)の一回生で同校教諭となった。 旧制会津中学校、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学)を経て、東京帝国大学法学部を卒業。農林省に入省する。農務局嘱託。その後、間もなく興亜院に出向する。
北小路 健(きたこうじ けん、1913年1月25日 - 19… 北小路 健(きたこうじ けん、1913年1月25日 - 1991年10月22日)は、国文学者、古文書学者。本名は渡部 栄(わたなべ さかえ)。 1913年、福島県会津若松市生まれ。両親ともに教師。父親の転勤に従い渡満し、大連春日小学校、 大連一中を経て1931年に東京高等師範学校文科第二部国漢科(1934年東京文理科大学国文科に転入)に入学。能勢朝次、山岸徳平らに師事して「源氏物語」研究を志す。父の死後、父に世話になったという人から家宝だという古書の『源氏物語』54冊を贈呈され、それが従一位麗子本源氏物語であることを発見し、これを論文にした。 1937年、東京文理科大学国文科を卒業。召集されたものの、病のため除隊となり、満州で中学教師として勤める傍ら研究を続けた。
白井 震四郎(しらい しんしろう、1911年(明治44年)7… 白井 震四郎(しらい しんしろう、1911年(明治44年)7月15日 - 1982年(昭和57年)10月23日)は、日本の実業家。 日本高周波鋼業元取締役会長。神戸製鋼所元常務取締役。日本発条・尼崎製釘所(現・アマテイ)元各取締役。鋼材倶楽部・日本鉄鋼輸出組合(現・日本鉄鋼連盟)各元理事。 福島県会津若松市出身。衆議院議員を務めた白井新太郎の四男として生まれる。 祖父の白井五郎太夫は林安定とともに藩大砲隊頭を務め、鳥羽・伏見の戦いで討死した。なお父・新太郎の先妻は盛岡藩家老のち外交官の南部次郎(東政図)の次女・恵子、後妻は湯長谷藩の藩主家当主内藤政潔の叔母・董子である。また、兄(父・新太郎の養子)の白井龍一郎は加波山鉄道社長などを務めた実業家であり、龍一郎の妻は子爵山内豊健の姉で、幕末の土佐藩主山内容堂の孫にあたる。
木野 二郎(きの じろう、1910年10月17日 - 197… 木野 二郎(きの じろう、1910年10月17日 - 1976年12月19日)は、日本の経営者、工学博士。藤倉電線(現在のフジクラ)社長を務めた。 福島県会津若松市出身。1933年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に藤倉電線に入社。 1957年11月に取締役に就任し、1962年に常務、1965年11月に副社長を経て、1973年11月に社長に就任。 1976年12月19日、くも膜下出血のために死去。66歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
西川 満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 199… 西川 満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 1999年2月24日)は日本の装幀家、小説家、詩人。長男は経済学者の西川潤。 福島県会津若松市生まれ。父親の仕事の関係で、3歳で台湾に渡る。台北一中を経て、早稲田大学仏文科へ進学、吉江喬松に師事。卒論のテーマはアルチュール・ランボー。1933年に卒業して台湾日日新報に就職。『台湾風土記』(1939年)、『華麗島』(1939年)、『文芸台湾』(1940年)などを創刊。敗戦後の1946年、日本に引き揚げる。1947年、小説「会真記」で第1回夏目漱石賞の佳作に入選。 台湾の真理大学に蔵書2万冊余りを寄贈した。占星術もやり、天中殺の占いを得意とした。
星 冬四郎(ほし とうしろう、1907年(明治40年)12月… 星 冬四郎(ほし とうしろう、1907年(明治40年)12月23日 – 1989年(平成元年)8月7日 ) は、日本の農学者。家畜生理学を専門とした東京大学農学部教授、同名誉教授である。「馬の不妊症に関する内分泌学的研究」で東京帝大農学博士、「哺乳期における卵巣機能に関する研究」で日本農学賞を受賞。家畜繁殖研究会会長。 「ラットの卵巣静脈血中の黄体ホルモンの化学的測定法の確立に関する研究」は世界で最初の取り組みで、のちに体外受精、胚移植へと発展した。昭和38年度の日本農学賞を受賞した「ラットの哺乳期における内分泌機能に関する研究」(「哺乳期における卵巣機能に関する研究」)は低受胎症の改善に、「家畜不妊症に対する性腺刺激ホルモンの応用に関する研究」は家畜繁殖障害のホルモン療法に貢献した。
星 光一(ほし こういち、1907年(明治40年)9月11日… 星 光一(ほし こういち、1907年(明治40年)9月11日 - 1991年(平成3年)4月13日)は、日本の工学者。切削工学を専門とした北海道大学教授、同名誉教授である。旭川工業高等専門学校校長、精密工学会名誉会員。「金属切削における構成刃先の研究」で東京大学工学博士。 福島県会津若松市出身。会津中学などを経て1933年(昭和8年)に北海道帝国大学を卒業。基隆炭鉱、栗本鉄工所、新潟鐵工所に勤務する。北大に精密工学科が設置された1958年(昭和33年)に教授となり、1972年(昭和47年)には名誉教授の称号を授与される。この間の1970年(昭和45年)に旭川工業高等専門学校校長に就任。1979年(昭和54年)の退官までに、同校では設備の充実が図られた。
柏村 信雄(かしわむら のぶお、1907年〈明治40年〉6月… 柏村 信雄(かしわむら のぶお、1907年〈明治40年〉6月5日 - 1989年〈平成元年〉1月16日)は、日本の内務・警察官僚。第三代警察庁長官として60年安保時代の治安対策責任者であった。 福島県会津若松市出身で、1925年(大正14年)会津中学を卒業した。中学時代の同級生には星冬四郎東大教授、星光一北大教授、終戦時の第11方面軍参謀などがいた。柏村は静岡県での代用教員を経て、1928年(昭和3年)旧制静岡高校に進む。1934年(昭和9年)東京帝大を卒業。在学中に高等文官試験に合格しており、内務省に入省した。 官歴は京都府属に始まる。戦前の警察関係の履歴としては、警保局に2度配属されたほか岩手県特高課長職があるが、同職からは短日間で地方局へ転任し、警察経験は少なかった。
澁川 善助(しぶかわ ぜんすけ、1905年12月9日 - 1… 澁川 善助(しぶかわ ぜんすけ、1905年12月9日 - 1936年7月12日)は、日本の政治運動家。 福島県若松市七日町の海産物問屋に生まれた。会津中学校、仙台陸軍地方幼年学校を経て陸軍士官学校予科に進む。予科卒業時に「恩賜の銀時計」を贈られるほど成績優秀であったが、陸軍士官学校(39期)本科卒業目前に教官と衝突し退学となる。その後1928年(昭和3年)、明治大学専門部政治経済科に学び、国家主義運動にかかわる。明大卒業後の1932年(昭和7年)に、杉田省吾、西田税、福井幸、加藤春海等とともに維新同志会を結成した。1933年の救国埼玉青年挺身隊事件では取り調べを受けた。1935年には、渋川の拳銃が襲撃事件に使用された嫌疑で起訴されている。
大平 善梧(おおひら ぜんご、1905年9月19日 - 19… 大平 善梧(おおひら ぜんご、1905年9月19日 - 1989年3月10日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(慶應義塾大学・論文博士・1960年)。一橋大学名誉教授、青山学院大学名誉教授。キリスト教徒であり青山学院大学学長も務めた。従三位勲二等瑞宝章。妻は宮城県会議長・南條秀夫の長女。 1905年、福島県会津若松市で生まれた。1923年3月、 会津中学校を卒業して小樽高等商業学校(現小樽商科大学)に入学。1926年3月に小樽高等商業学校を卒業し、東京商科大学(現一橋大学)に進んだ。1929年3月に同校を卒業。 卒業後は、1929年7月より母校である東京商科大学の補手に着任。1930年11月、高等試験司法科試験に合格。
和田 晋(わだ しん、1898年〈明治31年〉 - 1982… 和田 晋(わだ しん、1898年〈明治31年〉 - 1982年〈昭和57年〉9月17日)は、日本の剣道家。段位は範士九段(全日本剣道連盟)。一刀流溝口派剣術の継承者。 旧会津藩士・和田又四郎の子として福島県会津若松市に生まれる。祖父・井深宅右衛門は戊辰戦争の際、切腹前の萱野長修から箸で一刀流溝口派を伝授された。明治維新後、井深から又四郎に、又四郎から晋に受け継がれた。 1919年(大正7年)、東京高等師範学校に入学し、高野佐三郎に師事。卒業後、石川県師範学校、金沢第四高校、府立第七中学校、攻玉社中学校、若松商業高校、会津短期大学などで剣道を指導した。 晋は他言他見無用の掟を守り、一刀流溝口派を秘密にしていたが、自分が死去すれば貴重な形が失われてしまうため公開した。
加藤 榮吉(かとう えいきち、1897年(明治30年)1月1… 加藤 榮吉(かとう えいきち、1897年(明治30年)1月10日- 1946年(昭和21年)8月1日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校46期で、最終階級は大佐。ブーゲンビル島の戦いで島の北部を固守した。住民殺害を命じた戦争犯罪の有罪判決を受け、死刑となった。 1897年(明治30年)に会津若松市に住む商人の家に5男として生まれる。尋常小学校3年生の時に、仙台市で私塾の育英塾を開いていた15歳年上の次兄の加藤利吉の下へ、母と三兄の利喜松とともに移り住む。その後、利吉の養子として育てられ、立町尋常高等小学校2年から東北学院普通科(後の東北学院中学部)3年に編入し、卒業。 1915年(大正6年)9月に海軍兵学校へ入り、46期で卒業。
星野 喜代治(ほしの きよじ、1893年(明治26年)11月… 星野 喜代治(ほしの きよじ、1893年(明治26年)11月11日 - 1979年(昭和54年)10月14日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。銀行局検査課長を最後に退官し、朝鮮銀行副総裁を務める。第二次世界大戦終結後は同行の特殊清算人に選ばれ、第二会社として日本債券信用銀行の前身となる日本不動産銀行を設立し、頭取、会長を歴任。日債銀相談役。 福島県出身。父は酒造業を営み、その次男であった。会津中学、一高を経て1918年(大正7年)7月東京帝大を卒業。水野敏雄は中学以来の同級生である。在学中に文官高等試験に合格し、大蔵省に入省した。臨時調査局属。総務部総務課、外国為替管理部総務課、大臣官房秘書課のほか、銀行局の普通銀行課、銀行課、検査課で課長を務め、1938年(昭和13年)7月辞職。
飯沼 一省(いいぬま かずみ、1892年(明治25年)2月1… 飯沼 一省(いいぬま かずみ、1892年(明治25年)2月15日 - 1982年(昭和57年)11月14日)は、日本の内務官僚、貴族院議員。戦前から戦後にかけ、日本の都市計画行政を牽引した人物の一人である。妻は南弘の娘・櫂子。 福島県会津若松市生まれ。父は白虎隊士飯沼貞吉の弟で会津松平家家令・飯沼関弥。東京小石川の旧黒田小学校(現在の文京五中の敷地)、府立四中、一高を経て、東京帝国大学法科大学を卒業後、内務省に入省。土木局属。神社局総務課長、都市計画課長、埼玉県知事、紀元二千六百年式典の事務局長を務めた後、静岡県知事、広島県知事、神奈川県知事、内務省神社局長、神祇院副総裁を歴任。 第二次世界大戦後の1946年3月12日に貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。
草刈 英治(くさかり えいじ、1891年(明治24年)6月1… 草刈 英治(くさかり えいじ、1891年(明治24年)6月1日 - 1930年(昭和5年)5月20日)は、日本の海軍軍人。ロンドン海軍軍縮条約に反対し自決した海軍少佐である。 草刈の遠祖は小野木公郷である。父・鉄太郎は旧会津藩士で、14歳のおり戊辰戦争における会津若松城籠城戦を戦った。長兄・雄治は東京帝国大学出身の関東都督府技師、のち九州電気軌道専務、次兄・哲治は海軍大主計(主計大尉)、二人の妹はそれぞれ同郷の陸軍将校(外井氏)、陸軍軍医(石田氏)に嫁いでいる。草刈は会津中学に学び、元来は一高志望であったが、海軍兵学校に在校していた同窓生の短剣姿に憧れ海兵進学を目指す。1910年(明治43年)、草刈は78名中3番の成績で中学を卒業する。
柳澤 健(やなぎさわ たけし、1889年(明治22年)11月… 柳澤 健(やなぎさわ たけし、1889年(明治22年)11月3日 - 1953年(昭和28年)5月29日)は、日本の外交官、詩人。 旧会津藩士で女学校校長柳澤良三の長男として福島県会津若松市に生まれる。会津中学校(のち福島県立会津高等学校)から一高、東京帝国大学仏法科に学び、1915年(大正4年)5月卒業。逓信省に入り同年10月文官高等試験に合格。横浜郵便局長心得在職中の1919年(大正8年)4月辞職。大阪朝日新聞社に入社し論説班に所属した。 その後外務省に勤務し、フランス、イタリア、メキシコなどに駐在。外務省文化事業部第2課長や、新設された第3課(国際文化事業担当)の初代課長を務めた。上司にあたる文化事業部長は、のちに初代駐タイ大使となった坪上貞二。
長谷川 昇(はせがわ のぼる、1886年5月11日 - 19… 長谷川 昇(はせがわ のぼる、1886年5月11日 - 1973年8月26日)は、日本の洋画家、日本芸術院会員。 福島県会津若松市生まれ、両親と死別して北海道小樽市の祖父母に養育される。札幌中学校を経て、1905年、東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝に師事した。在学中の1908年、第2回文展に「海辺」が初入選した。1910年(明治43年)に東京美術学校を卒業、第4回文展に「白粉」が入選した。1911から渡欧し、ルノワールらに傾倒した。1915年(大正4年)、帰国して日本美術院洋画部同人となる。再度渡欧し、帰国後の1923年(大正12年)、同志と春陽会を設立した。1937年(昭和12年)、海洋美術会(後に大日本海洋美術協会)の設立メンバーとなる。
松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1… 松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1984年8月1日)は、日本の医学者、皮膚科医。京都帝国大学名誉教授、元大阪医科大学学長。福島県会津若松市生まれ。 再感染免疫をスピロヘータを使用した実験等、病理組織学や細胞免疫学の各方面から梅毒の研究を行う。1917年5月14日、医学博士の学位を受けた。1966年文化功労者、1976年勲一等瑞宝章。主著に『皮膚病学』等。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年(明治16年)7月… 藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年(明治16年)7月18日 - 1937年(昭和12年)8月21日)は、日本の陸軍軍人。歩兵大佐で予備役となったのち、靖安軍司令官に就任し、熱河支隊長として戦死した。最終階級は陸軍少将、満州国陸軍中将。 福島県出身。農業を営む塩谷家の六男で、藤井家の養子となる。長男の藤井毅は陸軍獣医大尉、三男の藤井信は陸軍士官学校57期出身で戦死した陸軍大尉である。藤井は創設以来の稚松会会員であった。会津中学から仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、陸軍士官学校16期を卒業。1904年(明治37年)11月、歩兵少尉に任官した。 歩兵第32連隊附となり、翌年5月から1906年(明治39年)3月まで日露戦争に従軍した。
大島 破竹郎(おおしま はちくろう、1882年(明治15年)… 大島 破竹郎(おおしま はちくろう、1882年(明治15年)12月20日 - 1953年(昭和28年)6月12日)は、日本の官僚。佐賀県知事、高知県知事、郡山市長を歴任した。 福島県若松町に生まれる。会津中学、一高を経て、1908年(明治42年)東京帝国大学を卒業。同年文官高等試験に合格した。合格者106名中の首席は後藤文夫で、大島の席次は8番である。 大島の官歴は大蔵属に始まる。警視庁方面監察、兵庫県事務官などを経て、1914年(大正3年)以後群馬県警察部、石川県警察部、熊本県警察部、佐賀県警察部で県警察部長を務める。1921年(大正10年)からは、徳島県、朝鮮総督府忠清南道の内務部長を歴任した。
石川 淳(いしかわ じゅん、1879年〈明治12年〉10月2… 石川 淳(いしかわ じゅん、1879年〈明治12年〉10月25日 - 1933年〈昭和8年〉8月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福島県北会津郡、のちの若松町(若松市を経て現会津若松市)で、石川森の長男として生まれた。 石城耐火煉瓦(株)社長、東洋電線、電機製造各(株)監査役、富士水電(株)嘱託となる。 1920年(大正9年)8月、福島2区から前田兵郎の死去による第14回衆議院議員総選挙補欠選挙で立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年(大正13年)第15回総選挙には立候補しなかった。1933年に死去した。
斎藤 常三郎(さいとう つねさぶろう、1878年(明治11年… 斎藤 常三郎(さいとう つねさぶろう、1878年(明治11年)11月20日 - 1951年(昭和26年)7月22日) は、日本の法学者。和議法、破産法の権威者で、神戸商業大学、京都帝国大学の各教授、会津短大学長を歴任した。「和議制度の研究」で、法学博士(京都帝国大学)。日本学士院会員。 実務経験を有する研究者であり、判事時代に著した『注釈訴訟記録』は実務家、研究者双方に貴重な著作として扱われた。日本の民事訴訟法は1890年(明治23年)に制定されたが、その学問的研究が発展を遂げるのは大正中期以降であり、斎藤はその先駆者の一人である。『日本破産法』は1922年(大正11年)制定された(新)破産法に関するもので、同法に関する書として加藤正治の『破産法要論』と並ぶ代表的著作である。
西 義一(にし よしかず、1878年〈明治11年〉1月1日 … 西 義一(にし よしかず、1878年〈明治11年〉1月1日 - 1941年〈昭和16年〉4月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功二級。 福島県出身。旧会津藩士・西忠義の長男として生れる。忠義は日高地方の開発に功績を挙げたことで生祀され、また臨時帝室編修局嘱託を務めている。弟の西義顕は満鉄社員で、犬養健、松本重治らと汪兆銘工作を行った。西は稚松会の評議員である。 栃木中学校を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、砲兵少尉任官。1902年(明治35年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。陸士生徒隊付、第7師団弾薬大隊付を歴任。日露戦争では第2師団後備野砲中隊長として出征した。
藁谷 勇三郎(わらがや ゆうさぶろう、1877年(明治10年… 藁谷 勇三郎(わらがや ゆうさぶろう、1877年(明治10年)4月24日 - 1966年(昭和41年)7月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 福島県士族の三男である。会津中学を経て、1898年(明治31年)11月25日、陸軍士官学校(第10期)を卒業し、翌年6月27日、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊附となった。戸山学校教官、将校生徒試験常置委員、歩兵第15連隊大隊長、歩兵第59連隊附、松本連隊区司令官等を歴任し、1922年(大正11年)予備役編入となる。日露戦争、シベリア出兵に従軍し、功五級に叙せられた。教官を務めた戸山学校は陸軍歩兵戦術の研究、教育に当たる機関で、藁谷は剣術、水泳、体操に関係する下記の著作を刊行した。
松江 春次(まつえ はるじ、1876年(明治9年)1月15日… 松江 春次(まつえ はるじ、1876年(明治9年)1月15日 - 1954年(昭和29年)11月29日)は、日本の男性実業家。南洋興発の創業者で初代社長。 1876年(明治9年)、現在の福島県会津若松市で旧会津藩士・松江久平の次男として生まれる。 1895年(明治28年)会津中学を卒業(1回生)。特選生として通学していた野口英世と親交があった。 1899年(明治32年)に東京工業学校(東京高等工業学校、東京工業大学を経て、現東京科学大学)を卒業し、大日本製糖(現大日本明治製糖)に入社する。 1903年(明治36年)に農商務省の海外実業練習生試験に合格し、ルイジアナ州立大学に留学。同大学院で修士号(マスター・オブ・サイエンス)を取得した。
八田 宗吉(はった そうきち、1874年(明治7年)10月9… 八田 宗吉(はった そうきち、1874年(明治7年)10月9日 - 1938年(昭和13年)1月16日)は、日本の政治家、実業家、陸軍軍人である。幼名は吉之丞。立憲政友会所属の衆議院議員。馬議員、鉄道代議士、百姓代議士などの異名があった。 日本医科大学教授で衆議院議員の八田貞義は息子。 福島県河沼郡日橋村(現・会津若松市)出身。福島中学を経て、陸軍軍人となり歩兵大尉まで進級している。故郷である日橋村村長となったのが政治家としての第一歩で、県会議員、参事会員を歴任。実業家としては福島県農工銀行、只見川水力電気、日本化学工業、会津電力の役員を務めている。 1917年(大正6年)福島二区から衆議院議員に初当選。
平石 弁蔵(ひらいし べんぞう、1873年(明治6年) - … 平石 弁蔵(ひらいし べんぞう、1873年(明治6年) - 1942年(昭和17年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵少佐。『会津戊辰戦争』の著者として知られる。 父は旧会津藩士・平石甚五郎。平石は再建された会津中学の1回生で、松江春次は同級生である。中途退学し1893年(明治26年)陸軍教導団歩兵科生徒隊に入団。翌年、歩兵第17連隊附二等軍曹となる。日清戦争を迎え、橋頭集、楊家屯、羊亭集と歴戦し、一等軍曹へ昇進した。戦役中は台湾へも渡っている。帰国後歩兵第32連隊附等を務め、曹長として陸軍士官学校に勤務し、陸軍経理学校軍吏学生に採用された。のち日露戦争に出征し、少佐まで昇進している。
松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年… 松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年6月6日)- 1956年(昭和31年)5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第9代若松市長。 第一次世界大戦中に板東俘虜収容所所長を務め、在任中にドイツ人俘虜を人道的に扱い地元の住民とドイツ人俘虜を交流させた。この時、ドイツ人俘虜によって日本で初めてベートーベンの交響曲第9番が演奏された。映画『バルトの楽園』の主人公としても知られる。 1872年6月に現在の会津若松市で会津藩士、警察官・松江久平の長男として生まれる。1889年(明治22年)16歳の時に仙台陸軍地方幼年学校に入校し、1892年(明治25年)には陸軍士官学校(5期)に進んだ。
井深 彦三郎(いぶか ひこさぶろう、慶応2年8月2日〈186… 井深 彦三郎(いぶか ひこさぶろう、慶応2年8月2日〈1866年9月10日〉- 大正5年〈1916年〉4月4日)は、日本の政治家、大陸浪人。明治時代の陸軍工作員であり、衆議院議員当選1回。旧会津藩士族の出身で、兄に松平容保の小姓から後に宣教師、明治学院総理となった井深梶之助、娘にハンセン氏病患者の救済に尽くした井深八重がいる。 会津九家井深家の分家の出身である。父は藩校・日新館の学頭(校長)でもあった井深宅右衛門、母は会津藩家老・西郷頼母近思の娘であり西郷頼母近悳の実妹に当たる八代子。三男の彦三郎は分家の井深守之進家で養子となる。従兄弟には山田重郎、佐瀬(一瀬)熊鉄、西郷四郎らがいる。彦三郎2歳の時に戊辰戦争が勃発、敗れた会津藩は斗南に移され、貧困の内に幼少期を過ごす。
佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年… 佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年5月20日) - 1937年(昭和12年)1月8日)は、日本の農学者。農芸化学を専門とする農学博士で、宇都宮高等農林、盛岡高等農林の各校長を務めた。 幕末の会津若松博労町に生まれる。会津藩藩士佐藤大八郎の長男であり、会津会会員であった。幼少期に佐原盛純らに学び若松予科学校(現会津高校)に入学するが、同校はその翌年に廃校となり、上京した。佐藤は農学を志し、1888年(明治21年)に駒場農学校を卒業した。埼玉師範学校教諭、茨城農業技師を経て、栃木農業技師となり、渡良瀬川流域の農作物被害調査に従事し、古在由直と足尾銅山の鉱毒調査を行った。京都農事試験場長、京都農学校長を歴任。
佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年… 佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年1月31日(慶応元年12月15日)- 1929年(昭和4年)9月5日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員。旧姓・一瀬。 陸奥国会津郡若松城下(現福島県会津若松市)で、会津藩家老・一瀬要人の二男として生まれる。15歳で上京し山川浩の世話を受けて苦学し、1887年(明治20年)海軍医学校を卒業し海軍少軍医候補生となるが、2年ほどで退官した。その後帰郷して、河沼郡金上村の豪農・佐瀬家を継いだ。 1893年(明治26年)に再度上京し、同盟倶楽部の理事に就任し、また立憲革新党の運営に加わった。1894年(明治27年)大韓帝国に渡り、朴泳孝内務大臣の知遇を得て、同国の警務庁・監獄署医務、訓練隊衛生事務、裁判医事の顧問となった。