虫明 亜呂無(むしあけ あろむ、1923年9月11日 - 1… 虫明 亜呂無(むしあけ あろむ、1923年9月11日 - 1991年6月15日)は、日本の作家、評論家、随筆家、翻訳家。
東京都 文京区:96人
虫明 亜呂無(むしあけ あろむ、1923年9月11日 - 1… 虫明 亜呂無(むしあけ あろむ、1923年9月11日 - 1991年6月15日)は、日本の作家、評論家、随筆家、翻訳家。
井手 久美子(いで くみこ、1922年〈大正11年〉9月23… 井手 久美子(いで くみこ、1922年〈大正11年〉9月23日 - 2018年〈平成30年〉7月1日)は、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の孫。作家。 東京府東京市小石川区小日向第六天町(現在の東京都文京区春日)出身。 徳川慶喜の七男・徳川慶久の四女として誕生した。慶喜の孫だが慶喜の死から9年後に誕生しているため、面識はない。 自宅の所在地から「第六天」と称され、慶喜が晩年も過ごした3400坪の広大な屋敷で幼少期を過ごす。屋敷には50人近くが住んだ。女子学習院には車ではなく、市電で通学。テニスや乗馬、木登りを楽しんだ。 1941年に19歳で徳川家と縁も深い、福井松平家(越前松平家)第19代当主の松平康昌侯爵の長男・松平康愛と結婚する。
鮎川 信夫(あゆかわ のぶお、1920年〈大正9年〉8月23… 鮎川 信夫(あゆかわ のぶお、1920年〈大正9年〉8月23日 - 1986年〈昭和61年〉10月17日)は、日本の詩人・評論家・翻訳家。別名・二宮 佳景(にのみや よしかげ)。本名・上村 隆一(うえむら りゅういち)。 戦後の詩壇で一貫して重要人物とされる。第1次、第2次『荒地』の創刊に関わる。「詩人の条件」「なぜ詩を書くか」などの詩論で、戦後詩を性格づける中心的役割を果たした。作品に詩「死んだ男」(1947年)、『鮎川信夫詩集』(1955年)など。 東京小石川の高田豊川町に生まれる。父・上村藤若(「帝国文化協会」主催の出版者・文筆家)は農本主義的なナショナリストで、世間的には温厚な人格者でありながら、家庭内ではすこぶる冷淡な人間であったため、鮎川にとってのモダニズムは〈父親イメージへの反逆から始まった〉と後に語っている。
井手 文子(いで ふみこ、1920年7月13日 - 1999… 井手 文子(いで ふみこ、1920年7月13日 - 1999年12月10日)は、日本の近代女性史研究家。 東京府東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)生まれ。自由学園高等部卒業。在学中、羽仁五郎を囲む世界史研究講座に参加し、1945年治安維持法により検挙される。戦後は民主主義科学者協会(略称:民科)に所属して1948年の婦人問題研究会(1957年 日本女性史研究会に発展、1963年ごろ 活動停止)の結成に参加、松下圭一らと1960年現代婦人問題研究会(1969年解散)にも参加。平塚らいてうや雑誌「青鞜」の研究、『伊藤野枝全集』(學藝書林)の編纂を行った。1961年に刊行した『青鞜』(弘文堂)では、従来は平塚らいてうを中心として研究されていた青鞜社を、集団としての女性解放運動の視点からとらえ直した画期的な研究書として支持を得た。
山崎 富栄(やまざき とみえ、1919年〈大正8年〉9月24… 山崎 富栄(やまざき とみえ、1919年〈大正8年〉9月24日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の美容師。作家・太宰治の愛人の一人であり、最晩年の太宰の看護や執筆活動の介助を続けたことと太宰と共に入水自殺を遂げたことでも知られる。 東京府東京市本郷区(現:東京都文京区本郷)に生まれる。父・山崎晴弘は日本最初の美容学校であるお茶の水「東京婦人美髪美容学校」(通称・お茶の水美容学校。後継校が現存するかは不明)の設立者。富栄はその次女。 父の下で美容技術の英才教育を受けて育つ。京華高等女学校から錦秋高等女学校(後の錦秋学園高等学校、現在は廃校)に転じて卒業。女学校卒業後、YWCAで聖書や英語、演劇を習う。
三代目 杵屋 五三郎(さんだいめ きねや ごさぶろう、191… 三代目 杵屋 五三郎(さんだいめ きねや ごさぶろう、1918年(大正7年)12月11日 - 2013年(平成25年)2月2日)は、歌舞伎の長唄三味線方。杵五派家元。位階は従四位。本名は増田 元弘(ますだ ちかひろ)。秘曲、難曲、大曲など古典の上演、継承に力を入れた。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
久米 宏一(くめ こういち、1917年11月18日 - 19… 久米 宏一(くめ こういち、1917年11月18日 - 1991年5月1日)は、日本の画家。 東京・小石川区(現在の東京都文京区)に生まれる。豊島師範学校卒業。小学校教員を務めながら、太平洋美術研究所で絵画を学ぶ。 1964年に、いわさきちひろ、滝平二郎、箕田源二郎らと「童画ぐるーぷ車」を結成した。このため、絵本雑誌のちひろ追悼の座談会にも出席している。子ども向けの本の挿絵の他に、月刊『宝石』のミステリー小説などにも挿絵を描いた。 日本児童出版美術家連盟に所属し、理事を務めた。1950年代から亡くなるまでに挿画を描いた児童文学作品や絵本は200冊以上にのぼる。主に親交のある古田足日の作品が多い。
坪内 美子(つぼうち よしこ、本名:山崎 登美子、1915年… 坪内 美子(つぼうち よしこ、本名:山崎 登美子、1915年6月22日 - 1985年11月3日)は、昭和期の女優。 東京市小石川区白山御殿町(現・文京区白山)に生れる。牛込高等女学校(現・豊島岡女子学園)卒業後、銀座の有名カフェの女給(源氏名・孔雀)をしているところをスカウトされ、1932年松竹蒲田撮影所に入社する。 1933年、野村芳亭監督の『涙の渡り鳥』で竹内良一の相手役に抜擢され、映画デビュー。続く『島の娘』でも主演し、人気スターの仲間入りをする。その後、島津保次郎監督の『春琴抄 お琴と佐助』、小津安二郎監督の『浮草物語』などの話題作に出演し、その美貌が人気を集めると共に、1935年には幹部に昇進し、名実共に、松竹の看板女優となる。
福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年〈大正元年〉8月25… 福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年〈大正元年〉8月25日 - 1994年〈平成6年〉11月20日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、演出家。現代演劇協会理事長、日本文化会議常任理事、日本芸術院会員などを務めた。名前については「こうそん」と音読みされることも多い。 保守派の文士であり、進歩的文化人を批判した『平和論にたいする疑問』(1955年)は、戦後思潮の転換点となる。討議倫理が戦後民主主義を軸とする進歩派にも影響を与えるなど、戦後日本を代表する思想家。 また、同時期には『ハムレット』(1955年)をはじめとするシェイクスピア戯曲の翻訳、演出を開始する。新劇を日本の近代化問題の象徴的な弱点と捉え、演劇の革新に取り組んだ。
巖 金四郎(いわお きんしろう、1911年9月24日 - 1… 巖 金四郎(いわお きんしろう、1911年9月24日 - 1994年12月30日)は、日本の男性俳優、声優、朗読家。東京府東京市(現・東京都文京区)出身。明治大学商学部中退。本名同じ。 プロダクション・タンクに所属していた。日本における声優の草分け的な存在とされる。全国芸能団運営会会長、元東京放送劇団代表、プロダクションTHG代表。 中学在学中から映画と演劇を好んでおり、学校を休んで浅草の劇場に通っていたとされる。 大学在学中は演劇部に所属。1936年、上二証券に入社。1941年、30歳の時にNHK東京放送劇団発足と同時に第1期研究生として入団。同期生には富田仲次郎、加藤道子らがいた。 以来俳優、声優として活躍。
北沢 彪(きたざわ ひょう、本名:菅野 義雄(すげの よしお… 北沢 彪(きたざわ ひょう、本名:菅野 義雄(すげの よしお)、1911年〈明治44年〉5月18日 - 1980年〈昭和55年〉8月4日)は、日本の俳優。東京市小石川区(現在の東京都文京区)出身。妻は俳優の堤真佐子。文化学院文学部卒。 文化学院在学中から演劇活動を行い、1931年、同窓生の長岡輝子らとテアトル・コメディを結成。 昭和12年、劇団解散とともにPCL(東宝の前身)に入社。 復員後はフリーランスで活動し、1950年に自宅で朗読(後に演劇)集団やまびこ会を主宰。多くの演劇青年がこれに参加し、本格的な活動を志向することとなり、テアトル・エコーと命名された。1956年に劇団現代座を創立。現代座と並行して綜芸プロに所属し、二月プロなどにも所属していた。
8代目 雷門 助六(かみなりもん すけろく、1907年4月2… 8代目 雷門 助六(かみなりもん すけろく、1907年4月22日 - 1991年10月11日)は、東京府東京市本郷区壱岐殿坂出身の落語家、喜劇役者。本名∶岩田 喜多二。旧姓は青木。出囃子は『助六ばやし』。愛称は「六さん」。 父は6代目雷門助六。5歳だった1912年から父の門下で小助六の名で人形町末広で初舞台、以降小噺やかっぽれで舞台に立った。 1917年には5代目柳亭左楽の門人となり、小学校の頃は一時中断していた時期もあったが1921年10月には16歳の若さながら睦の五郎の名で真打に昇進。この時睦ノ太郎、睦の三郎とで若手三羽烏として売り出される。 1928年には父の6代目助六が睦会を脱退し独立した際、自身は睦の五郎を返上し雷門五郎に改名する。
川田 晴久(川田 義雄)(かわだ はるひさ(かわだ よしお)… 川田 晴久(川田 義雄)(かわだ はるひさ(かわだ よしお)、本名:岡村 郁二郎、1907年〈明治40年〉3月15日 - 1957年〈昭和32年〉6月21日)は、昭和期を代表する日本の俳優、歌手、コメディアン、ボードビリアン。いわゆるボーイズものの創始者である。灘康次を始め、多くの弟子を育てたことでも知られる。また、美空ひばりの「師匠」または「芸能界の育ての親」としても、近年、再評価が為されている。戦前は主に吉本興業(東京吉本)所属。 東京府東京市本郷区根津の印刷所を経営する岡村嘉松の子として生まれる。貧しかった少年時代に、家々の屋根を棒で飛び越えるという遊びに興じていた際に転落してしまう。この不慮の事故により脊椎カリエスを患うことになり、これが終生川田を悩ませる病となる。
浦路 輝子(うらじ てるこ、1904年7月22日 - 没年不… 浦路 輝子(うらじ てるこ、1904年7月22日 - 没年不詳)は、日本の女優である。本名は堀内 照子(ほりうち てるこ)。 1904年(明治37年)7月22日、東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区)に「堀内照子」として生まれる。 名古屋市内の旧制・尋常小学校を卒業、京都市内の旧制・高等小学校を一年次で終了、長崎県佐世保市の長崎県立佐世保高等女学校(長崎県立佐世保北高等学校と長崎県立佐世保南高等学校の前身)に入学した。1921年(大正10年)、同女学校を三年次で中途退学し、東京少女歌劇団に入団する。1925年(大正14年)には、渡瀬淳子が主宰する「渡瀬淳子演劇研究所」に参加、舞台女優を目指す。
市川 一郎(いちかわ いちろう、1903年2月18日 - 1… 市川 一郎(いちかわ いちろう、1903年2月18日 - 1981年9月29日)は、将棋棋士。八段。棋士番号は9。大崎熊雄九段門下。東京府東京市(現:東京都文京区)出身。 1927年に入門し1930年に四段に昇段。奨励会(関東)の創設は1928年であるため、奨励会に参加していたと思われる。 1940年に五段に昇段。戦後の1946年の順位戦C級クラスに参加し、8勝6敗と成績上位だったため六段に昇段。C級には第10期まで所属し、第10期にC級2組で降級が決まった事により引退。 この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。
七代目 市川 壽美藏(いちかわ すみぞう、新字体:寿美蔵、1… 七代目 市川 壽美藏(いちかわ すみぞう、新字体:寿美蔵、1902年(明治35年)4月1日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は上方の歌舞伎役者。屋号は升田屋、定紋は藤巴の中に桔梗紋、替紋は寿の字巴紋。本名は太田 光之助(おおた みつのすけ)。 東京本郷生まれ。二代目市川團九郎の子、祖父は五代目市川壽美蔵。六代目市川壽美蔵(三代目市川壽海)は叔父にあたる。初舞台は明治45年(1912年)5月東京座の『大和橋』で市川登美三郎を名乗って馬子。大正8年(1919年)二代目市川團次郎を襲名。大正13年(1924年)名題昇進。のち六代目壽美蔵とともに二代目市川左團次主催の自由劇場に参加する。 戦後昭和23年(1948年)関西歌舞伎に移籍。
3代目 桂 三木助(かつら みきすけ、1902年3月28日〈… 3代目 桂 三木助(かつら みきすけ、1902年3月28日〈戸籍上は1903年2月17日〉- 1961年1月16日)は、日本の落語家。本名:小林 七郎。出囃子:「つくま」。日本芸術協会所属だったが最晩年に脱退し、フリーを経て落語協会に移籍。 当時さほど注目されていなかった落語『芝浜』を独自に練り上げ得意にした。それ以降『芝浜』は夫婦の情愛を美しく描いた名作落語として認識されるようになり、多くの落語家が口演するようになった。現在でも3代目桂三木助のものが傑作と云われることから通称「芝浜の三木助」。他にも通称は「田端の三木助」、「隼の七」。 実家は床屋。後日、養子であることを知るが両親には最後まで聞かなかったと告白している。
石井 順一(いしい じゅんいち、1899年 - 1991年3… 石井 順一(いしい じゅんいち、1899年 - 1991年3月4日)は、ボール、バット職人、ラビットボール発明者。日本の高校野球指導者。東京本郷生まれ。身長157cm。 早稲田実業学校野球部監督のほか、東京倶楽部設立に関わった。 祖父は広島出身の籐細工師で手先が器用、発明癖があり自転車にスクリューを付け船のように漕ぎ進める乗り物を考案するなどした。その息子、順一の父が湯島天神下に運動具店を開いたのは順一の生まれた1899年。このころテニスラケットや野球のバットは、外国から輸入したものばかりであったが、祖父と父は独自にそれらの用具を作ろうと考え、大工を混じえて工夫をはじめた。父はテニスラケットを初めて国産化した人物ともいわれている。
陸 直次郎(くが なおじろう、1898年1月12日 - 19… 陸 直次郎(くが なおじろう、1898年1月12日 - 1944年8月11日)は日本の作家。本名は野沢嘉哉(のざわ よしや)。東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)本郷出身。 早稲田大学文科中退。中央新聞、時事新報、萬朝報、読売新聞に勤務。妻の清子は直次郎と死別した後、弁当屋の経営を経て小唄の師匠に転向、堀小代清の芸名で活動した。 息子は4人おり、三男はクラブ馬主「東京ホースレーシング」創業者の野沢直哉、四男は声優・俳優・演出家の野沢那智、孫にお笑いタレントの野沢直子(直哉の娘)、クリエイティブディレクターの野澤直龍(直哉の息子)、声優・俳優の野沢聡(那智の息子)、曾孫に格闘家の真珠・野沢オークレアー(直子の娘)。
徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897… 徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897年(明治30年)5月31日 - 1989年(平成元年)5月1日)は、日本の林学者、陸軍軍人、政治家、教育者、神職。階級は陸軍少尉。位階は従三位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終学歴は東京帝国大学農学部林学科卒業。学位は農学博士(東京帝国大学)。
朝井観波(あさい かんぱ、1897年‐1985年)は、日本画… 朝井観波(あさい かんぱ、1897年‐1985年)は、日本画家。東京都本郷出身。 1897年、漢学者朝井国南の家に生まれる。はじめ川端玉章の川端画学校で、のち日本美術院研究所に学ぶ。1917年(大正6年)の再興第4回院展への最初の出品作が入選し、同作品が美術院の大物後継者、原三渓の目をひく。三渓の援助により、荒井寛方のインド旅行に観波も随行できることとなり、帰国後、インドでの研究成果を活かした制作に専念する。1918年(大正7年)と1920年(大正9年)の院展で入選した出品作はともにインドの伝統的絵画から着想を得て描いたものであった。1922年(大正11年)日本美術院を脱退。その後は荒木十畝に師事し読書会に所属、以後は平福百穂の画風に接近した作風で、帝展の入選を重ねる。
清水 良雄(しみず よしお、1891年(明治24年)8月4日… 清水 良雄(しみず よしお、1891年(明治24年)8月4日 - 1954年(昭和29年)1月29日)は、洋画家、童画家。 東京都文京区本郷に生まれた。旧制京華中学校(現・京華高等学校)卒業、同級生で友人に日本美術研究家の丸尾彰三郎がいた。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科卒業。黒田清輝、藤島武二に師事する。在学中に文部省美術展覧会(現在の日展)に入選。 大正の初め頃から挿絵を描く。鈴木三重吉が1918年(大正7年)7月に創刊した童話雑誌『赤い鳥』の挿絵を創刊号から描いた。特に表紙の絵は全196冊のうち163冊を描き、同誌のイメージを視覚的に広めるという大きな役割を果たした。 この他、児童雑誌『コドモノクニ』でも多くの作品を見ることができる。
間宮 不二雄(まみや ふじお、1890年(明治23年)6月2… 間宮 不二雄(まみや ふじお、1890年(明治23年)6月26日 - 1970年(昭和45年)10月24日)は、日本の実業家。日本で最初の図書館用具商社を開く。図書館用品製造販売業者である間宮商店を創業した。 東京市本郷区(現在の東京都文京区)の旧旗本の家に生まれる。生母はいわゆる「未婚の母」であったために、戸籍上は実の祖父母の5男として記録されている。 東京高等師範学校付属小学校(現在の筑波大学附属小学校)高等科卒業後、家運が傾いたために書籍販売業の丸善に丁稚として入社する。24歳の時、担当していたタイプライターの構造を学ぶために東京府立工芸学校(現在の東京都立工芸高等学校)の夜学に通う。だが、会社側は丁稚上がりの間宮の能力を正当に評価しなかった。
菊亭 公長(きくてい きんおさ、1889年〈明治22年〉1月… 菊亭 公長(きくてい きんおさ、1889年〈明治22年〉1月8日 - 1944年〈昭和19年〉9月23日)は、日本の華族。貴族院侯爵議員、侯爵。 華族・菊亭脩季の長男として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)11月6日、侯爵を襲爵。1914年(大正3年)1月7日、満25歳となり貴族院侯爵議員に就任。火曜会に所属し死去するまで在任した。 1915年(大正4年)、殿掌に就任したが、同年4月15日に依願免となった。 東山天皇の男系七世子孫である。東山天皇の孫(閑院宮直仁親王の子)で鷹司家を継いだ鷹司輔平の男系後裔。詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。 兼季 - 実尹 - 公直 - 実直 - 公行 - 実富 - 公富 - 教季 - 公興 - 季孝 - 公彦 - 晴季 - 季持 - 経季 - 公規 - 伊季 - 公香 - 公詮 - 実興 - 誠季 - 公言 - 実種 - 尚季 - 公久 - 実順 - 脩季 - 公長 - 実賢 - 直子 -
加納 治雄(かのう はるお、1888年(明治21年)12月1… 加納 治雄(かのう はるお、1888年(明治21年)12月10日 - 1937年(昭和12年)10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・三橋。 東京府東京市小石川区新諏訪町(現・東京都文京区後楽)出身。陸軍文官・三橋淳の二男として生まれ、6歳で加納家の養子となる。開成中学校(現開成中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第34連隊付となる。 1914年(大正3年)8月、名古屋陸軍地方幼年学校生徒監に就任。中央幼年学校生徒隊付、同校副官、歩兵第34連隊付、同連隊大隊副官、同連隊中隊長、陸士副官、関東軍副官を務め、1926年(大正15年)3月、歩兵少佐に進級し歩兵第18連隊付となる。
川上 凉花(かわかみ りょうか、1887年9月 - 1921… 川上 凉花(かわかみ りょうか、1887年9月 - 1921年5月5日)は明治・大正期の日本の画家。本名は川上乙次郎。 東京府東京市本郷区本郷(現・東京都文京区本郷)に生まれる。1906年に太平洋画会研究所に入る。1907年に岸田劉生や川村信雄とともに紫紅会を結成し、美術回覧雑誌『紫紅』の編輯にたずさわる。1910年に川村信雄・萬鐵五郎・三並花弟・松村巽らと雑草会を結成し、本郷教会で展覧会を催す。1911年、二六新報の美術記者となる。1912年、フュウザン会に出品。1914年から中野で大森商二(熊本県山鹿町出身、東大中退の洋画家)と自炊生活をはじめ、この年から木炭による風景画を描く。1915年、東中野にアトリエを構え、越後・佐渡に旅行する。
小田嶋 十黄(おだじま じゅっこう、1887年 - 1978… 小田嶋 十黄(おだじま じゅっこう、1887年 - 1978年2月5日)は、東京市本郷区出身の日本の男性俳人、俳画家、洋画家。本名は小田嶋 義(おだじま よし)。別号に得魚洞。元社団法人現代俳画協会顧問。元パイロット万年筆顧問。 小学校卒業後、12歳で高尾山薬王院に入って僧となり、同寺の僧で俳誌「俳諧草紙」の主要俳人であった南南浪の勧めにより渡辺水巴に師事し俳句を学んだ。のち還俗し、洋画家を経て、俳句・俳画に専心するに至る。とりわけ俳画に独自の境地を拓いたことで知られ、現代俳画協会顧問、俳誌「南柯」顧問を務めるなど、斯界の発展に貢献した。著書に『俳画入門』『俳画への道』、句集に『ほそ道』などがある。
山田 耕筰(やまだ こうさく、Kósçak Yamada、1… 山田 耕筰(やまだ こうさく、Kósçak Yamada、1886年(明治19年)6月9日 - 1965年(昭和40年)12月29日)は、日本の作曲家、指揮者。山田 耕作としても知られる。
大倉 燁子(おおくら てるこ、1886年4月12日 - 19… 大倉 燁子(おおくら てるこ、1886年4月12日 - 1960年7月18日、本名:物集 芳子(もづめ よしこ))は、日本の小説家。 国学者・物集高見の三女。兄の物集高量は国文学者、妹の物集和子も小説家。 東京府東京市本郷区弓町(現・東京都文京区本郷)出身、学歴は東京女子高等師範学校中退。文学を志して妹の和子とともに二葉亭四迷に弟子入りしたが、1908年、二葉亭は朝日新聞社特派員としてロシアに赴任することになったので、同社の同僚であった夏目漱石に物集姉妹の世話を依頼した。以後は漱石門下の作家として、本名や「岩田由美」、「岩田百合子」の名義で『兄』、『生家』、『母』などの小説を発表した(1909年 - 1912年)。
6代目雷門 助六(かみなりもん すけろく、1882年9月9日… 6代目雷門 助六(かみなりもん すけろく、1882年9月9日 - 1934年5月6日)は、東京出身の落語家。本名は青木 鏡太郎。8代目助六は弟子で実子。 東京本郷に生まれる。生家は水戸徳川家直属の請負師だった。一時、静岡県沼津に住む。 尋常小学校を出てすぐ11歳で伯父の草履屋に奉公に出ていたがまともに勤まらなかった。15歳の1897年ごろに母の弟であった4代目柳亭左楽(オットセイの左楽)の門下に入って左太郎となる。約5年ほど前座修行を経て1902年に二つ目で左市に改名する。 1904年、5代目助六(後の3代目志ん生)門下に移って3代目都家歌六の名で真打に昇進する。その後日露戦争に従軍したが復員。
磯川 勝彦(いそかわ かつひこ、1882年5月15日 - 没… 磯川 勝彦(いそかわ かつひこ、1882年5月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名磯貝 子之助(いそがい ねのすけ)、旧芸名磯川 元春(いそがわ もとはる)。 1882年(明治15年)5月15日、東京府東京市本郷区春木町(現在の東京都文京区本郷)に生まれる。父は「沢村源之助」で、磯川が数え年2歳(1883年)で父と死別している、とされるが、初代から三代目までの「沢村源之助」は江戸時代にすでに死去しており、四代目沢村源之助が亡くなったのは1936年(昭和11年)であり、そのとき磯川はすでに数え年55歳である。 数え年17歳のときには、父の遺志によって実業に就く。しかし磯川は演劇を志して「川上音二郎一座」に参加、翌1899年(明治32年)秋には、満17歳にして『当り的』で東京・新富座の舞台に立った。
永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3… 永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3日 - 1959年〈昭和34年〉4月30日)は、日本の小説家。本名は永井 壯吉()。号に金阜山人()、断腸亭()ほか。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東京市小石川区(現在の文京区)出身。父・久一郎は大実業家だったが、荷風は落語や歌舞伎の世界に入り浸った。父は荷風を実業家にするために渡米させるが、荷風はアメリカ駐在を経てフランスにも滞在、同時代のフランス文学を身につけ帰国した。明治末期に師・森鷗外の推薦で慶応義塾教授となるが、江戸文化を無秩序に破壊しただけの幕末維新以後の東京の現状を嘆き、以後は、戯作者のように生きた。 永井久一郎と恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現:文京区春日二丁目)にて出生。
奥澤 勘一(おくざわ かんいち、1875年(明治8年)9月7… 奥澤 勘一(おくざわ かんいち、1875年(明治8年)9月7日 - 没年不明)は、日本の柔術家。柔道師範、戸田流(気楽流)17世、天神真楊流、戸田流(気楽流)の柔術家、柔道整復師として知られた。 戸田流(気楽流)の奥澤七事斎良重の孫。戸田流、天神真楊流の柔術家であり、ほねつぎを営んでいた父、奥澤敬太郎より、東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)湯島天神下同朋町の修心館を引き継いだ後、大正7年7月に浅草仲町24番地に道場を移し柔道を教授。 1921年(大正10年)駒込妙義坂下町に整骨院を開院、後に駒込富士前町に移転した。父、奥澤敬太郎とともに、柔道整復師の法制化に尽力。 昭和9年に古武道振興会主催の古武道型奉納大会で井上縫太郎と共に天神真楊流柔術の極意上段を演武した。
吉川 霊華(きっかわ れいか、明治8年(1875年)5月4日… 吉川 霊華(きっかわ れいか、明治8年(1875年)5月4日 - 昭和4年(1929年)3月25日)は、明治大正時代の日本画家。本名準(ひとし)、通称三郎。 大和絵を基本にしつつ広く東洋の古典芸術に学び、線描、特に流れるような美しい細線を生かした清雅な絵画表現で、「描く」から「塗る」へ重心が移っていく近代日本画壇に独自の存在感を示した。 東京府湯島に佐藤一斎晩年の門人で、昌平坂学問所の助教や、御書院番兼御納戸を勤めた儒者・吉川辰夫(忠苞、号・澹斎)の三男として生まれる。家は吉川元春の末流で、七代前に江戸幕府に召されて御家人になったとされ、霊華の祖父・大江忠尚は勘定組頭まで出世して旗本になっている。
十五代目 市村 羽左衛門(じゅうごだいめ いちむら うざえも… 十五代目 市村 羽左衛門(じゅうごだいめ いちむら うざえもん、1874年(明治7年)11月5日 - 1945年(昭和20年)5月6日)は、大正から戦前昭和の歌舞伎を代表する役者の一人。屋号は橘屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に可江(かこう)がある。本名は市村 録太郎(いちむら ろくたろう)。 二枚目や若衆役を中心とする白塗りの立役として活躍。時代を代表する美男子で、そのあまりの美貌から「花の橘屋」と呼ばれた。 東京府出身。出生の事情については長らく謎だったが、死後里見弴が著書『羽左衛門伝説』の中で、十五代目は外交官のチャールズ・ルジャンドルと芸者の池田絲(いけだ いと、松平春嶽の私生児)の間に生まれた私生児だったという説を発表し、現在ではこれが定説になっている。
大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(187… 大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(1870年8月5日) - 明治44年(1911年)10月10日)は、明治時代の日本の水彩画家。中丸精十郎、原田直次郎に師事した この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
岩村 透(いわむら とおる、明治3年1月25日〈1870年2… 岩村 透(いわむら とおる、明治3年1月25日〈1870年2月25日〉 - 大正6年〈1917年〉8月17日)は、明治後期から大正期の日本の美術批評家。東京美術学校教授。 東京小石川区生まれ。岩村家は土佐藩家老(宿毛領主)伊賀家の家臣で、父・岩村高俊は後に、愛媛県令、愛知県知事、貴族院議員などを務め、男爵となった。母・音瀬。 透は慶應義塾幼稚舎、同人社(中村正直の塾)、東京英和学校(後の青山学院)と進むが中途退学。1888年にアメリカに渡り、キングストンのワイオミング・セミナリー(英語版)およびニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインで、絵画と美術批評を学んだ。この頃アメリカに本多庸一もいてお互いに親交を深めた。
大塚 成吉(おおつか なりよし、1856年8月13日(安政3… 大塚 成吉(おおつか なりよし、1856年8月13日(安政3年7月13日) - 1905年(明治38年)3月31日)は、明治時代の政治家。弁護士。衆議院議員(1期)。 江戸、のちの東京市小石川区小日向台町(現東京都文京区小日向)に生まれる。1870年(明治3年)横須賀製鉄所技術伝習生を経て、1872年(明治5年)大学南校に入り、1875年(明治8年)司法省法学校正則第1期補充生となった。1876年(明治9年)司法省御用掛となるが翌年1月に廃官となる。1880年(明治13年)代言人免許を取得し、横浜代言人組合に加入。1882年(明治15年)同会長に就任した。1886年(明治19年)5月、尾上町に横浜法律学校を創立し校主を務めた。
亀井 忠一(かめい ただかず、安政3年6月30日(1856年… 亀井 忠一(かめい ただかず、安政3年6月30日(1856年7月31日) - 昭和11年(1936年)1月30日)は、三省堂書店、三省堂の創業者で三省堂編修所の代表者でもあった。明治時代の代表的出版人でもあり、日本における近代的辞書の礎を築いた人物のひとり。 江戸小石川で旗本・中川家の五男として生まれ、大政奉還後に家族で沼津に移り住み、困窮する父を助けて、落ち葉集めや卵・糠の行商で糊口をしのぐ。16歳で同じ元旗本・亀井家の婿養子となり、明治6年(1873年)に東京に戻る。はじめ麹町13丁目で下駄商を営むが明治14年(1881年)、四谷の大火により店が焼けた後、兄が営む神田の古本屋「石川桃林堂」に倣って神保町に三省堂を創業した。
久保田 鼎(くぼた かなえ、安政2年3月27日(1855年5… 久保田 鼎(くぼた かなえ、安政2年3月27日(1855年5月13日) - 1940年1月10日)は近代日本の官僚。奈良および京都帝室博物館の館長、東京美術学校校長などを務めた。号は理道。 中津藩士久保田安兵衛の次男として江戸小石川で生まれ、理三郎と名付けられた。幼少期に両親を亡くした後、臼杵藩の江戸藩邸にいた叔父の白石照山に引き取られて漢書の句読などを受けている。明治維新の時期は収入の確保に苦労したが、1873年に東京府桜川学校で授業生の職を得て、さらに半年後には文部省の写字生となった。筆生や権少禄を経て1877年1月に九等属、同年12月に八等属へと昇進を重ねた。七等属に昇進した1880年には文部少輔の九鬼隆一の中国地方巡視に随行し、以後九鬼と接触する機会が増えた。
今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年… 今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年11月14日) - 大正7年(1918年)6月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初期の武士(幕臣)、佐幕活動家、警察官、教育者、農事指導者、キリスト教活動家、政治家。 今井は江戸に育ち、安政5年(1858年)、18歳で直心影流剣術の榊原健吉道場に入門、免許取得後講武所の師範代の任に就いた。慶応3年(1867年)5月、京都見廻組への入隊を拝命、同年11月15日に発生した近江屋事件に関わった。戊辰戦争では衝鋒隊副隊長として各地を転戦し、箱館戦争まで戦った。明治3年(1870年)2月、近江屋事件の件で嫌疑をかけられ、身柄を刑部省の伝馬町牢舎へ移され取り調べを受けた。
礼華 はる(れいか はる、10月8日 - )は、宝塚歌劇団月… 礼華 はる(れいか はる、10月8日 - )は、宝塚歌劇団月組に所属する男役スター。 東京都文京区、日本女子大学附属高等学校出身。身長178cm。血液型AB型。愛称は「はる」、「ぱる」。 2013年、宝塚音楽学校入学。 2015年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に101期生として入団。入団時の成績は17番。月組公演「1789」で初舞台。その後、月組に配属。 長身の大型スター候補として注目を集め、2021年、珠城りょう・美園さくらトップコンビ退団公演となる「桜嵐記」で、新人公演初主演。当初は前年の「ピガール狂騒曲」で初主演予定であったが、新型コロナウイルスの影響により、新人公演が休止となる。 2022年、月城かなと・海乃美月トップコンビ大劇場お披露目となる「今夜、ロマンス劇場で」で、2度目の新人公演主演。
石川 界人 は、日本の男性声優。東京都文京区出身。ステイラッ… 石川 界人 は、日本の男性声優。東京都文京区出身。ステイラック所属。
大川 タツユキ(おおかわ たつゆき、本名:大川達之)は、東京… 大川 タツユキ(おおかわ たつゆき、本名:大川達之)は、東京都文京区出身の音楽プロデューサー、作曲家、編曲家、マニピュレーター、シンセサイザープログラマー、レコーディング・エンジニア、ミキシング・エンジニア、DJ。 仕事の内容や参加形態により、大川タツユキ,大川 達之,Tatsuyuki Okawa,Todd Okawa,MATALLY,THE DOMESTICS,ドメスティックス,PAPA-O、ROBOJIK,VISAGEなど様々な表記名を使い分けている。 ロサンゼルスでレコーディング・コーディネーターとして音楽のキャリアをスタート。数々の有名スタジオにてレコーディング作業に立ち合い、スタジオワークを習得する。
古山 貴基(ふるやま たかき)は、東京都出身の躰道選手。湯島… 古山 貴基(ふるやま たかき)は、東京都出身の躰道選手。湯島道場所属。2001年那覇世界選手権日本代表として、団体展開競技に出場。
池貝 庄太郎(いけがい しょうたろう) 池貝 庄太郎(いけが… 池貝 庄太郎(いけがい しょうたろう) 池貝 庄太郎(いけがい しょうたろう、1869年11月13日《明治2年10月10日》 - 1934年《昭和9年》7月28日)は、日本の実業家、技術者、工学者(機械工学)。族籍は千葉県平民。 西村鉄工所、田中製作所での勤務を経て池貝工場を創業し、合資會社池貝鐵工所社長、東京高等工業学校教授、株式會社池貝鐵工所社長などを歴任した。 東京府東京市本郷区妻恋町生まれ。あるいは千葉県鋸南町下佐久間生まれとも。池貝重右衛門の長男。池貝家はもと安房加知山藩主酒井家の家臣である。 廃藩後の生活難から1882年(明治15年)に横浜の西村鉄工所(西村機械製造所)の徒弟となる。