井上 治(いのうえ おさむ、1932年9月16日 - ?)は… 井上 治(いのうえ おさむ、1932年9月16日 - ?)は、日本の陸上競技(長距離走)選手。 愛媛県喜多郡菅田村(現在の大洲市)出身。愛媛県立大洲農業高等学校に入学。1950年には陸上5000メートルを15分56秒0で走り、愛媛県で16分台を初めて割ったエースとして注目された。 中央大学に進み、1952年の第28回箱根駅伝で4区を走り区間賞(1時間9分35秒)。1952年にヘルシンキで開催されたオリンピックに代表として参加、男子5000メートルに出場したが予選失格(14分59秒0)。1953年の第29回箱根駅伝では2区を走り区間2位であった。1953年の第37回日本陸上競技選手権大会では男子5000メートルで優勝(14分58秒6)。
高橋 ヨシ江(たかはし ヨシえ、結婚後の姓 浜松、1932年… 高橋 ヨシ江(たかはし ヨシえ、結婚後の姓 浜松、1932年4月15日 - 2022年5月15日)は、日本の女子陸上競技選手(走幅跳)。メルボルンオリンピック代表。元中央大学女子陸上競技部監督・元日本陸上競技連盟女子委員長。 群馬県群馬郡東村(現在の前橋市)出身。旧制前橋高等女学校(現在の群馬県立前橋女子高等学校)入学後に本格的に陸上競技に取り組む。 女子の4年制大学進学率が2%という時代に中央大学からのスカウトを受けて入学。大学3年の第37回日本陸上競技選手権大会(1953年)で5m53をマークして選手権初優勝を飾ると、翌年の1954年アジア競技大会(フィリピン・マニラ)では5m68をマークして優勝した。
岡本 貴美子(おかもと きみこ、1932年または1933年 … 岡本 貴美子(おかもと きみこ、1932年または1933年 - )は、日本の陸上競技選手。専門は短距離走。 光華高等学校在学中の1949年に、全国高等学校総合体育大会陸上競技大会(インターハイ)の100mに12秒8で優勝する。1950年6月4日の地域対抗陸上に近畿代表として100mに出場し、12秒5で優勝。これは当時の戦後タイ記録だった。 1950年・1953年の日本陸上競技選手権大会には「光華陸友クラブ」所属として出場した。1950年大会の200mで記録した25秒7は、戦後タイ記録だった。 1951年アジア競技大会(ニューデリー)において4×100 mリレーと200 mで金メダルを獲得した。このアジア大会後の『アサヒグラフ』4月25日号では表紙を飾った。
小島 義雄(こじま よしお、1931年8月7日 - 1993… 小島 義雄(こじま よしお、1931年8月7日 - 1993年3月3日)は、日本の陸上競技選手。沖田芳夫後の日本のエースとして活躍[要出典]。元ハンマー投日本記録保持者、砲丸投日本記録保持者。ヘルシンキオリンピック日本代表。
戸塚 睦夫 (とつか むつお、1931年〈昭和6年〉4月20… 戸塚 睦夫 (とつか むつお、1931年〈昭和6年〉4月20日 - 1973年〈昭和48年〉5月12日)は、日本の喜劇役者。東京都出身。愛称は「ムッちゃん」。父は剣劇俳優として活躍した藤岡肇。妻は新宿フランス座の看板女優だった水川小夜子。 父・太郎が梅沢昇一座の剣戟俳優・藤岡肇だったためもあって子供のころからチャンバラ映画や大衆演劇に親しみ、ことに大都映画の剣戟スター・大乗寺八郎のカッコよさに強く憧れた。1950年に東京市立芝商業學校を卒業後、シチズン時計に勤務したのち梅沢昇一座、浅香光代劇団、不二洋子劇団を経て、浅草のロック座、池袋のフランス座などのストリップ小屋のコメディアンに転向して辛酸を嘗めていた戸塚は、昭和20年代、浅草の花月劇場に剣劇役者として参加していた際に、同じ浅草の奥山劇場で剣劇役者をしていた三波伸介に出会い、交流を深める。
内川 義高(うちかわ よしたか、1931年4月4日 - )は… 内川 義高(うちかわ よしたか、1931年4月4日 - )は、日本の元陸上競技選手、指導者。現役時代の専門は長距離走・マラソン。 1952年ヘルシンキオリンピックのマラソン競技に日本代表として出場した。 佐賀県神埼郡東背振村(現・吉野ヶ里町)出身。7人兄妹の三男だった。 卒業した佐賀県立三養基高等学校では目立った競技歴はなく、旧制中学5年の時に駅伝選手の不足を理由に走ることを強要された時には練習にいつもついていけなかったという。1955年の読売新聞記事では、その学年の12月に学校が佐賀県の駅伝大会で優勝したことで陸上競技への関心が高まり、先輩選手が二人在籍する三井山野炭鉱に入社したと記されている。
内野 重昭(うちの しげあき、1931年〈昭和6年〉1月20… 内野 重昭(うちの しげあき、1931年〈昭和6年〉1月20日 - 2017年〈平成29年〉2月28日)は、日本の近代五種競技選手。1960年ローマオリンピック、1964年東京オリンピック日本代表選手。 宮崎県串間市鹿谷地区出身。1960年ローマオリンピックに日本人最初の近代五種競技選手として出場した。また、出身の串間市では初のオリンピック代表選手である。 近年では未来のオリンピック選手を輩出するために、平成23年度から3年間小中高生を対象に近大三種大会を串間市で開催していた。 2017年2月28日に死去。86歳没。
米陀 京子(よねだ きょうこ、1931年 - )は、日本の陸… 米陀 京子(よねだ きょうこ、1931年 - )は、日本の陸上選手。 1931年、富山県下新川郡魚津町で飲食店を営む両親のもと生まれる。 1945年の国民体育大会で入賞を果たし注目を浴びる。1947年に富山県立魚津女子高等学校に入学すると、翌1948年には日本選手権の走高跳で優勝を果たした。 1949年に中京女子短期大学入学、1951年アジア競技大会の走高跳と80mハードルで優勝した。その後、東京教育大学(現・筑波大学)に編入した。 卒業後は東京教育大学附属中学校(現・筑波大学附属中学校)で体育教師として勤務した。
室矢 芳隆(むろや よしたか、1930年4月6日 - 201… 室矢 芳隆(むろや よしたか、1930年4月6日 - 2019年3月23日)は、日本の中距離走選手。石川県羽咋郡中甘田村(現・志賀町)出身。 塩田を営む室矢家の7人兄弟の次男として出生する。幼少より塩田の仕事の手伝いや船の櫓漕ぎ、素潜りでの貝採りなどで足腰を鍛えた。時代が軍国主義に向かう中で室矢も旧制中学校の半ばで志願兵となった。実際に戦地へ送られることなく終戦を迎え、新制石川県立羽咋高等学校の1回生として復学した。羽咋高では1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した広橋百合子より陸上競技の指導を受けた。元々走ることに自信を持っていた室矢は旧制中学最後の大会となる1947年(昭和22年)の全国中学陸上に800mで出場、2位に入賞した。
田島 政次(たじま まさじ、1929年4月5日 - )は、日… 田島 政次(たじま まさじ、1929年4月5日 - )は、日本の陸上競技選手。 1952年ヘルシンキオリンピックでは走幅跳と100m走、1956年メルボルンオリンピックでは走幅跳と400mリレーに出場した。 佐賀県佐賀郡久保田村(現在の佐賀市久保田町)生まれ。小学校時代にオリンピックの記録映画を見、オリンピック出場を志したという。佐賀県立佐賀工業学校(現在の佐賀県立佐賀工業高等学校)機械科に入学し、本格的に走幅跳を始めた。 1947年に佐賀工業学校を卒業し、いったん社会人となったのち、中央大学に入学。中央大学在学中の1950年から1953年にかけ、日本陸上競技選手権大会の走幅跳種目を4連覇した。
田邉 定明(たなべ さだあき、1928年7月27日 - 20… 田邉 定明(たなべ さだあき、1928年7月27日 - 2018年9月)は、日本の元陸上競技選手。熊本県玉名市出身。中央大学卒業。 陸上競技部の無い中学校の出身だったが、全学年が参加する2000m競走の体力測定が毎年あり、一番速かった。1946年に第五高等学校で戦後初の県大会が行われ、予選は一着で通過し、決勝では1位の選手と同タイムながら2位だった。 1947年に中央大学予科に入学。トラックでの成績は振るわなかったが箱根駅伝の6区を試走した際に、前回大会(第23回箱根駅伝)で6区を走った野谷守也を大幅に上回るタイムで走り、第24回箱根駅伝の6区に出場。氷点下8度の中、1時間20分38秒の記録で区間賞を獲得し、22年ぶりの総合優勝に貢献した。
濱村 秀雄(はまむら・ひでお、1928年7月20日 - 20… 濱村 秀雄(はまむら・ひでお、1928年7月20日 - 2000年5月7日)は、日本の陸上競技選手、陸上競技指導者。専門は長距離走。姓は常用漢字体で「浜村」とも表記される。 山口県吉敷郡秋穂町出身。兄2人がいたが、いずれも早逝したために三男であった秀雄が濱村家の家督を継承した。 1946年に地元秋穂町体育大会が開かれた際に、1,500m競走に参加して優勝したことをきっかけに山口県内の大会に出場するようになり、その後、山口県庁に公務員として奉職、山口県教育委員会所属の肩書で全国規模の大会に出場するようになる。 1952年1月、第1回別府マラソン(現在の別府大分毎日マラソン)に一般参加選手として出場、2時間1分50秒で優勝を飾ると、1952年ヘルシンキオリンピック代表選考会として施行された同年5月の毎日マラソン(後のびわ湖毎日マラソン)に出場、2時間30分17秒で3位となったものの、ヘルシンキオリンピックの代表には選出されなかった(優勝した内川義高、2位の西田勝雄のほか、山田敬蔵が代表)。
山本 弘一(やまもと ひろかず、1928年5月6日 - 19… 山本 弘一(やまもと ひろかず、1928年5月6日 - 1990年/1991年)は、日本の陸上競技(中距離走)選手である。 1952年ヘルシンキオリンピックで男子1600メートルリレー走に出場した。 戦時中、旧制甲南高等学校尋常科(現在の甲南中学校・高等学校)在籍中より中距離走選手として活動し、1948年、戦後第1回のインターハイ優勝に貢献した。1947年の秋季国体では兵庫県代表選手となり、800m走で個人優勝。1949年、旧制甲南高等学校理科卒業。 京都大学に進学後、第1回全国七大学対校陸上競技大会において、400m、800m、1500mの3種目で優勝。 京都大学在学中、1952年ヘルシンキオリンピックに参加。
石井 均(いしい きん、1927年〈昭和2年〉11月30日 … 石井 均(いしい きん、1927年〈昭和2年〉11月30日 - 1997年〈平成9年〉12月31日)は、日本の俳優、喜劇役者。 大分県豊後高田市是永町出身。本名は石原 仁。芸名の由来は、「〝一〟獲千〝金〟」という言葉が好きな事に由来。(一均=井均) 熊本逓信講習所卒業(昭和18年)。 1948年(昭和23年)、八幡の寿座で初舞台を踏み、以後旅回りをする。 1956年(昭和31年)、新宿フランス座に加入。体技型のコメディアンとして頭角を現す。 1958年(昭和33年)6月、軽演劇一座「笑う仲間」を旗揚げ、後に「石井均一座」に改組。主に新宿の松竹演芸場を根城にし、座員には戸塚睦夫のほか、石井の弟子の伊東四朗(当時は伊藤証)、財津一郎(当時は財津肇メ)らがいた。
西内 文夫(にしうち ふみお、旧姓・平井、1922年3月2日… 西内 文夫(にしうち ふみお、旧姓・平井、1922年3月2日 - 2001年8月23日)は、日本の陸上競技選手。 香川県丸亀市広島町出身。丸亀商業学校(現:丸亀城西高校)、中央大学卒。 1951年、インドのニューデリーで開催された第1回アジア競技大会十種競技で金メダルを獲得(記録:6324点)。1954年、フィリピンのマニラで開催された第2回アジア競技大会では銀メダルを獲得した(記録:5429点)。 日本陸上競技選手権大会では1950年から1953年まで四連覇を達成。 その後、母校の中央大学陸上競技部監督に就任し、東京箱根間往復大学駅伝競走で8回優勝した。 2001年8月23日、急性心不全のため死去。
山内 リエ(やまうち リエ、1922年2月15日 - 200… 山内 リエ(やまうち リエ、1922年2月15日 - 2000年10月8日)は、日本の陸上競技選手。女子三段跳、走高跳、走幅跳の三種目の元・日本記録保持者。戦中、戦後に世界的な好記録を連発しながら、戦争によってオリンピック参加の道を閉ざされた悲運の女性アスリートである。広島県呉市出身。 小学校5年の春、陸上競技を始める。呉精華高女に進学するが、当時この学校のグラウンドは狭く、走高跳の助走を取るスペースもなく、近くの小学校で我流で練習を積む。跳躍技についての正式な指導を受けたのは女学校4年の時、郷土の先輩・織田幹雄の講習会に参加したのが最初。 1936年、女学校3年15歳の夏を過ぎると、恵まれたバネで飛躍的に記録が伸び、11月に広島市で行われた大会で、走高跳の当時日本最高記録1m52を楽々と飛び、1m55の日本新記録をマーク。
吉野 トヨ子(よしの トヨこ、1920年(大正9年)2月12… 吉野 トヨ子(よしの トヨこ、1920年(大正9年)2月12日 - 2015年(平成27年)1月24日)は、日本の陸上競技選手。ヘルシンキオリンピック・メルボルンオリンピック陸上女子円盤投代表。元円盤投日本記録保持者、五種競技日本記録保持者。 北海道網走市出身。香蘭高等女学校(現在の香蘭女学校中等科・高等科)、中京高等女学校家事体操専攻科(現:至学館大学)卒業。 戦前はスプリンターとして活躍。1938年、マルチな身体能力を生かし五種競技で237点の日本新記録を樹立した。 戦後は投てきに転向し、円盤投と砲丸投に活躍。1950年、関東選手権で円盤投に出場し、42m58の日本新記録を樹立した。1951年アジア競技大会に出場し、円盤投・砲丸投・やり投で金メダルを獲得した。
中村 コウ(なかむら こう、1920年 - )は、陸上競技選… 中村 コウ(なかむら こう、1920年 - )は、陸上競技選手。1936年ベルリンオリンピック陸上女子円盤投代表。元円盤投日本選手権覇者。日本投擲界でオリンピックに初めて入賞を果たした名選手として知られる。 北海道釧路市出身。釧路市第三高等小学校、北海高等女学校の学生時代に1936年ベルリンオリンピック日本代表に選ばれる。 1935年、日本選手権で、35m90をマークして優勝、日本一になった。 1936年5月23日・24日のベルリンオリンピック参加の為の最終予選会で37m80を投げて優勝。2位の峰島秀と共にオリンピック出場。8月4日の女子円盤投で4位。 力投シーンは、記録映画『民族の祭典』に登場する。
三井 美代子(みつい みよこ、1919年1月23日 - 20… 三井 美代子(みつい みよこ、1919年1月23日 - 2007年4月28日)は、日本の陸上競技選手。結婚後の姓は井上(いのうえ)。走高跳から始めて障害走(ハードル)に転向し、80mハードルで1936年ベルリンオリンピックに出場した。東京府生まれ、静岡県育ちで、競泳の古田つね子と並ぶ静岡県初の女子オリンピック選手である。 「日本陸上競技界の至宝」、「ミス陸上」の異名を持っていた。 1919年(大正8年)1月23日、東京にて3人きょうだい(兄・姉)の末っ子として生まれる。父・三井純一は慶應義塾大学卒の電力会社社員で、三井家はたびたび引っ越しし、美代子が小学4年生の時に静岡県沼津市に居を移した。学生時代野球部員だった純一は、沼津市体育協会理事を務めるなどスポーツに熱心な人物であった。
大沢 竜雄(大澤 龍雄、おおさわ たつお、1918年(大正7… 大沢 竜雄(大澤 龍雄、おおさわ たつお、1918年(大正7年) - 1944年(昭和19年)9月)は、昭和戦前期の日本の陸上競技選手。現在の栃木県佐野市出身。箱根駅伝で活躍して日本大学の連覇に貢献し、3000m障害で日本記録を更新した。太平洋戦争に出征し戦死。佐野地域で1951年より開催されている「大澤駅伝競走大会」は、郷土の名選手であった大沢を記念した大会である。 1918年(大正7年)、栃木県安蘇郡常盤村(現在の佐野市牧町)生まれ。1931年(昭和6年)に旧制佐野中学校(現在の栃木県立佐野高等学校・附属中学校)に入学し、陸上競技選手としての活躍を見せた。 1936年(昭和11年)、日本大学に進学。
井戸田 きよ子(いとだ きよこ、1918年(大正7年)- )… 井戸田 きよ子(いとだ きよこ、1918年(大正7年)- )とは、日本の陸上競技選手。 1918年、愛知県に生まれる。愛知淑徳高等女学校(現在の愛知淑徳中学校・高等学校)在学中は愛知県春日井郡山田村(現在の名古屋市西区)に暮らした。1934年4月9日に行われた国際女子競技大会予選で800メートル競走に出場し、日本代表となった。5月31日に国際女子競技大会が行われるロンドンに向けて神戸港を出港した。大会では800メートル競走で2分24秒1という記録を叩き出し、当時の日本記録を更新した。同年11月24日並びに1935年の全日本女子東西対抗陸上競技大会では800メートル競走と走幅跳で優勝した。1935年に名古屋市の鶴舞公園で開かれた大会では400メートル競走を1分2秒6でゴールし日本新記録を達成した他、200メートル競走で27秒3、三段跳で10メートル39を記録した。
山下 勝(やました まさる、1917年8月17日 - 194… 山下 勝(やました まさる、1917年8月17日 - 1942年)は、日本の陸上競技選手。日中戦争の影響で中止となった1940年東京オリンピックの選手団に選出されていた。 福島県立白河高等学校で陸上競技を始め、1935年にインターハイの1500mで3位に入賞するなど活躍。 1936年に専修大学に進学。1939年に箱根駅伝(第20回大会)に出場し、当時のエース区間であった3区で区間賞を獲得し、同校の箱根駅伝初優勝に貢献した。 1940年の東亜競技大会の5000mにおいて、1936年ベルリンオリンピックで4位入賞を果たした村社講平を破り優勝。また、同年、日本陸上競技選手権大会の5000mと10000mで優勝。
児島 文(こじま ふみ、1916年12月17日 - 1996… 児島 文(こじま ふみ、1916年12月17日 - 1996年6月7日)は、日本の陸上競技選手、陸上競技指導者。旧名・フミ。 鹿児島県肝属郡高山町(現肝付町)出身。中京高等女学校家事体操専攻科(現・至学館大学)卒。鳥栖高等女学校(現佐賀県立香楠中学校・鳥栖高等学校)教員、鹿児島第一高等女学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)教員を務めた。1934年(昭和9年)6月、砲丸投で10m84cmの女子日本新記録を出し、以後、円盤投、砲丸投の選手として活躍。1936年ベルリンオリンピックで女子円盤投に出場した。1951年アジア競技大会で、 円盤投と砲丸投で銀メダルを獲得した。 その後、九州で陸上競技の指導を行い、南日本新聞スポーツ担当記者、愛知県立女子短期大学教授、鹿児島経済大学(現鹿児島国際大学)教授、鹿児島陸上競技協会理事長などを務めた。
柴田 タカ(しばた たか、1916年10月10日 - 199… 柴田 タカ(しばた たか、1916年10月10日 - 1991年)は、日本の短距離走選手。1932年ロサンゼルスオリンピックで女子100メートル競走に出場した。 山形県山形市において、菓子店の長女として生まれる。山形高等女学校(現在の山形県立山形西高等学校)在校中、1932年ロサンゼルスオリンピックで女子100メートル競走に出場した。山形県初の女子オリンピック選手である。オリンピックでは予選で落選しており、公式記録上は「記録なし」とされている。 同大会には渡辺すみ子(1916年11月28日生まれ)が満15歳で女子100m走に出場している。オリンピックに出場した日本の陸上選手としては渡辺が最年少記録(2022年現在も維持)とされ、柴田はこれに次いで年少の選手とされる。
広橋 百合子(廣橋 百合子、ひろはし ゆりこ、1916年5月… 広橋 百合子(廣橋 百合子、ひろはし ゆりこ、1916年5月12日 - 1977年4月26日)は、走高跳を専門とする日本の陸上競技選手、学校教師。結婚後の姓は長井(ながい)。石川県羽咋郡北荘村(現・宝達志水町)出身で、大島鎌吉と並ぶ石川県初のオリンピック選手である。元日本記録保持者。 黎明期の日本女子走高跳を支えた人物で、3度オリンピック出場を目指したが、実際に出場が叶ったのは1932年ロサンゼルスオリンピックの1度であった。 1916年(大正5年)5月12日、石川県羽咋郡北荘村小川(現・宝達志水町小川)にて5人きょうだい(1男4女)の三女として生まれる。実家は照覚寺という真宗大谷派の仏教寺院で、父は僧侶、母も羽咋の寺から嫁いだ人であった。
峰島 秀(みねしま ひで、1916年 - 没年不詳)は、日本… 峰島 秀(みねしま ひで、1916年 - 没年不詳)は、日本の女子陸上競技選手、高等女学校教師。1936年ベルリンオリンピック陸上女子円盤投代表。元円盤投日本選手権覇者。女子スポーツ黎明期に欧米の選手の好敵手として五輪で入賞した名選手として知られる。 資料によっては「峯島秀」、「峰島秀子」と表記するものもある。 千葉県千葉市出身で、千葉第一尋常高等小学校(現・千葉市立新宿小学校)を経て千葉県立千葉高等女学校(現・千葉県立千葉女子高等学校)に進学する。千葉高女2年生の頃よりテニスをはじめ、1931年には県下女子庭球選手権大会で、1932年には関東女子競技大会で優勝を果たした。また投擲(とうてき)種目もこの頃より始め、高女3年には学友会誌に「スポーツ界の現状を直視して」と題した論文を寄せるなど文才も発揮し、「人見二世」と呼ばれた。
林 月雲(りん げつうん、英字表記:Lim Goat-hun… 林 月雲(りん げつうん、英字表記:Lim Goat-hun、1915年9月8日 - 1992年6月19日)は、日本統治時代の台湾の陸上競技選手。日本女子体育専門学校卒。オリンピック日本代表の候補に2度選出され、もし出場が実現していれば、台湾初の女子オリンピック選手となる選手であった。 1915年(大正4年)、日本統治時代の台湾の台中州彰化郡和美庄(現・彰化県和美鎮)柑子井に生まれる。彰化女子公学校を卒業後、彰化高等女学校(現・国立彰化女子高級中学)に進学する。1931年(昭和6年)彰化高女在学中、台湾籍の女性として初めて明治神宮体育大会(第6回)に出場し、三段跳で2位に入賞した。1933年(昭和8年)の第7回明治神宮体育大会では三段跳で優勝、100mで12秒5、走幅跳で5m39と2種目で台湾記録を樹立した。
山本 定子(やまもと さだこ、1915年7月14日 - 生没… 山本 定子(やまもと さだこ、1915年7月14日 - 生没不明)は、日本の陸上競技選手。 中京高等女学校家事体操専攻科(現・至学館大学)卒。 1936年ベルリンオリンピックで女子やり投げに出場し、5位入賞を果たした。この山本の5位入賞後、日本女子やり投は長らくオリンピックでの入賞者が出ていなかったが、2024年パリオリンピック女子やり投に於いて北口榛花が優勝(金メダル獲得)し、88年ぶりにオリンピック入賞者を出すこととなった。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
矢沢 正雄(やざわ まさお、1915年5月15日 - 200… 矢沢 正雄(やざわ まさお、1915年5月15日 - 2004年12月11日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。 旧制鎌倉中学校(現在の鎌倉学園高等学校)卒業後、専修大学に入学。 1935年、日本陸上競技選手権大会の男子200mで優勝(21秒8)。 1936年ベルリンオリンピックで日本代表選手となり、男子200メートル競走と400メートルリレー走に出場。予選通過はならなかった。 1937年、日本陸上競技選手権大会で100m・200mの2種目で優勝。 1939年、専修大学は箱根駅伝(第20回大会)を制覇したが、この時の陸上競技部主将が矢沢である。また、日本学生陸上競技対校選手権大会の200メートル競走での記録は、2005年時点でも専修大学記録として残っていた。
福田 時雄(ふくだ ときお) のち 森山 時雄(もりやま と… 福田 時雄(ふくだ ときお) のち 森山 時雄(もりやま ときお、1915年2月10日 - 2001年1月6日)は、日本の陸上競技(障害走)選手・指導者、実業家、美術収集家。1936年ベルリンオリンピックに男子400メートルハードルで出場。 島根県出身。県立大社中学校(現在の島根県立大社高等学校)卒業。 関西大学に入学。1936年ベルリンオリンピックで日本代表選手となり、男子400メートルハードルに出場。 1937年9月5日、日本陸上競技選手権大会400メートルハードルにおいて、当時の日本学生記録(54秒8)をマーク。 1938年(昭和13年)関西大学法学部卒業。醸造業を営み、島根県醤油工業協同組合理事長を務めた。
岡澤 吉夫(おかざわ よしお、1914年(大正3年)12月2… 岡澤 吉夫(おかざわ よしお、1914年(大正3年)12月25日 - 1982年(昭和57年)7月16日)は日本の陸上選手、スキー指導者、スキー選手、政治家。 日本初の常設スキー学校開設者であり、全日本スキー連盟(SAJ)公認スキー学校の起案者。勲五等瑞宝章(現・瑞宝双光章)受勲。 岡澤(旧姓・香川)惣吉の二男。兄に喬。妹に千賀子、友子。妻は冨美。子に伸夫、由美子。 北海道網走郡美幌村(現・美幌町)に生をうける。 学生時代は陸上選手として活躍する。1927年(昭和2年)、新潟県立新潟商業学校(現・新潟県立新潟商業高等学校)に進学、陸上競技にうちこみ、ハードルでは常に上位の成績をおさめている。新潟商業学校4年の時、香川県の父の実家に預けられ、父の母校でもある香川県立高松商業学校(現・香川県立高松商業高等学校)4年に編入する。
古田 康治(ふるた やすはる、1914年9月11日 - 20… 古田 康治(ふるた やすはる、1914年9月11日 - 2008年5月8日)は、日本の陸上競技(ハードル・跳躍競技)の選手。1936年ベルリンオリンピックで男子110メートルハードルで出場。 現在の福岡県直方市出身。福岡県立鞍手中学校(現在の福岡県立鞍手高等学校)卒業。八幡製鉄に所属し、1936年ベルリンオリンピックの男子110メートルハードルに出場した。ただし関西大学によれば、関西大学陸上部からオリンピックに出場する「六選手」(大島鎌吉・長尾三郎・谷口睦生・福田時雄・戸上研之・古田康治)の一人として古田を送り出したとある。 第二次世界大戦後初となる1946年の日本陸上競技選手権大会では、三段跳で優勝。
松野 栄一郎(まつの えいいちろう、1914年9月5日 - … 松野 栄一郎(まつの えいいちろう、1914年9月5日 - 1948年8月1日)は、日本の陸上競技(投擲競技)選手。 1936年ベルリンオリンピックに、男子ハンマー投で出場した。 1934年、旧制甲南高等学校卒業。京都帝国大学に進む。日本陸上競技選手権大会では、1934年に円盤投で、1935年にハンマー投で優勝。 京都大学採鉱科3年の時、1936年ベルリンオリンピックで男子ハンマー投に出場した。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
金原勇(きんぱら いさむ、1914年8月22日- )は、日本… 金原勇(きんぱら いさむ、1914年8月22日- )は、日本の陸上競技選手・体育学者、筑波大学名誉教授。 旧姓・加島。東京文理科大学卒。1936年全日本陸上競技選手権大会走高跳優勝。1973年「筋の力の出し方に関する基礎的研究 Eccentricな筋力の特性について」で東邦大学医学博士。東京教育大学助教授、教授、スポーツ研究所長、筑波大学体育科学学系長。78年定年退官、筑波大学名誉教授。武蔵野体育研究所主宰。体育原理、バイオメカニクス、陸上競技、トレーニング、コーチングほか。
大江 季雄(おおえ すえお、1914年(大正3年)8月2日 … 大江 季雄(おおえ すえお、1914年(大正3年)8月2日 - 1941年(昭和16年)12月24日)は、日本の元陸上競技選手。元棒高跳日本記録保持者。1936年ベルリンオリンピック銅メダリスト。京都府舞鶴市出身。旧制舞鶴中学校(京都府立西舞鶴高等学校)、慶應義塾大学卒業。 1935年、第6回国際学生陸上(ブダペスト)で4m10をマークし準優勝した。1936年、4m34の日本新記録を樹立。同年、ベルリンオリンピックで4m25の記録で西田修平と2・3位を分け合い、帰国後にお互いのメダルを切断して「銀・銅2色の友情のメダル」を作成した美談は有名であり、西田は大江を銅メダルながら2位の表彰台に立たせたと言う。
土倉 麻(どぐら あさ、1914年6月11日 - 2008年… 土倉 麻(どぐら あさ、1914年6月11日 - 2008年4月20日)は、日本の陸上競技選手。専門は短距離走。1932年ロサンゼルスオリンピックに女子100メートル競走および400メートルリレー走で出場。 同じロサンゼルスオリンピック参加者の田島直人と結婚し、田島姓となった。日本のオリンピック選手同士の結婚の第一号である。 京都市出身。祖父は「大和の山林王」と謳われた土倉庄三郎で、庄三郎の長男・鶴松の娘が麻である。 京都府立京都第一高等女学校高等科(現在の京都府立鴨沂高等学校)在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに女子100メートル競走および400メートルリレー走に出場。前者は予選落ちしたが、後者で日本チーム(他に中西みち・村岡美枝・渡辺すみ子)は5位に入賞した。
石津 光恵(いしづ みつえ、1914年4月16日 - 没年不… 石津 光恵(いしづ みつえ、1914年4月16日 - 没年不明)は、日本の陸上競技(投擲)選手。女子円盤投・砲丸投の元日本記録保持者。山中高等女学校在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに円盤投とやり投で出場した。広島県初の女子オリンピック選手である。 現在の広島県廿日市市出身。山中高等女学校に進む。 1931年、日本陸上競技選手権大会の円盤投・砲丸投で優勝。1931年11月の明治神宮競技大会で、円盤投の日本記録を出したという。1931年には砲丸投で10.14mを出し、「10mの壁」を突破した。 1932年ロサンゼルスオリンピックに出場、円盤投で7位、やり投で8位。 山中高等女学校卒業後は、日本女子体育専門学校(現在の日本女子体育大学)に進学。
朝隈 善郎(あさくま よしろう、1914年(大正3年)1月7… 朝隈 善郎(あさくま よしろう、1914年(大正3年)1月7日 - 2008年12月22日)は、日本の陸上競技選手及び陸上競技指導者。 1914年(大正3年)1月7日、広島県府中市出身。 1933年(昭和8年)に日本体育会体操学校高等師範科(現日本体育大学)を卒業した後、明治大学政治経済学部に入学し、1937年(昭和12年)に卒業した。学生時代より陸上競技の道に入り、走高跳の選手として活躍した。 1934年(昭和9年)、兵庫県西宮市の南甲子園運動場(阪神甲子園球場より南方に、阪神電鉄が建設した陸上競技場)で開催された日米対抗陸上競技大会に於いて、日本人として初めて走高跳の2メートルジャンパーとなった。
相良 八重(さがら やえ、1913年11月27日 - 196… 相良 八重(さがら やえ、1913年11月27日 - 1967年4月29日)は、日本の元陸上競技選手である。ロサンゼルスオリンピック日本代表。田中英光の小説「オリンポスの果実」のヒロイン、“熊本秋子”のモデルとして知られる。身長166cm、体重55kg。 千葉県生まれ、高知市土佐市育ち。日本女子体育専門学校(現・日本女子体育大学)出身。 女子体専在学中の1932年、第19回日本陸上競技選手権大会の女子走高跳で優勝し、同年のロサンゼルスオリンピックでも女子走高跳に出場した。この種目には6つの国から10人の選手が出場して、予選なしの決勝のみで実施された。結果は10人中の9位(1m46cm)に終わる。
市原 正雄(いちはら まさお、1913年11月7日 - 19… 市原 正雄(いちはら まさお、1913年11月7日 - 1977年)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。 1913年(大正2年)11月7日、京都府南桑田郡篠村(現在の京都府亀岡市篠町)に生まれる。亀岡尋常小学校(現在の亀岡市立亀岡小学校)卒業後、京都府立亀岡農学校(現在の京都府立亀岡高等学校)に進学。1931年(昭和6年)、立命館大学専門部2部法学部に入学。 農学校時代から陸上競技を行っていたが、大学専門部入学後に本格的に400mハードルを始める。日本学生対校選手権、日本陸上競技選手権大会、明治神宮体育大会など各種大会で400mハードル種目に出場。また、京都学生駅伝にも出場して活躍した。 1934年(昭和9年)5月16日、初の国際大会出場となる極東選手権大会(マニラ)で400mハードルを走り、3位ながらも 当時の日本学生記録(55秒1)をマークした。
鈴木 聞多(すずき ぶんた、1913年4月1日 - 1939… 鈴木 聞多(すずき ぶんた、1913年4月1日 - 1939年7月10日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。 埼玉県比企郡三保谷村(現在の川島町)に生まれる。父は同村の村長も務めた鈴木庸三で、三人兄弟の末っ子。鈴木家は江戸時代には名主を務めた家で、生家(鈴木家住宅)は国登録有形文化財となっている。 1926年(大正15年)4月、旧制埼玉県立川越中学校(現在の埼玉県立川越高等学校)に入学し、陸上競技に取り組む。旧制中学5年次の1930年(昭和5年)、第16回全国中学校陸上競技選手権大会(インターハイの前身。神戸)に出場、100m(11秒7)と200m(22秒7)で優勝。 1931年(昭和6年)4月、旧制川越中学から慶應義塾大学予科に進学。
村岡 美枝(むらおか みえ、1913年3月23日 - 没年不… 村岡 美枝(むらおか みえ、1913年3月23日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。専門は短距離走。 愛知県生まれ。愛知県第一高等女学校(愛知県立明和高等学校の前身校の一つ)在学中の1930年にチェコスロヴァキアのプラハで開かれた第3回国際女子競技大会に代表選手として参加する(参加選手は6人で、人見絹枝、本城ハツ、中西みち、村岡美枝、渡辺すみ子、浜崎千代。人見以外は学生選手)。このとき代表の中心としてチームを引率した人見が翌1931年に死去した際に、葬儀で「お姉さんは女子スポーツに貢献されました。その大きな足跡はけっして消えることがないでしょう。私たちは非力ですが、遺志をつぐよう全力を尽くして頑張るつもりです」と弔辞を読んだ。
谷口 睦生(たにぐち むつお、1913年(大正2年)3月5日… 谷口 睦生(たにぐち むつお、1913年(大正2年)3月5日 - 1943年(昭和18年)10月2日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。昭和初期の日本陸上短距離界においては、吉岡隆徳とともに「双璧」と見なされた選手で、200m直走路で日本記録を更新、100mで日本学生記録タイをマークした。第二次世界大戦で戦死。 熊本県八代郡鏡町(現在の八代市)生まれ。宇土中学校(現在の熊本県立宇土中学校・高等学校)在学中より競技で頭角を現し、九州選手権(100・200メートル)の保持者であった。同窓の戸上研之(三段跳、山鹿出身)とともに、関西大学に入学。 「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳と並び、昭和初期日本陸上短距離界の双璧と見なされた選手で、1933年(昭和8年)には日比対抗東京大会で200メートル優勝。
真保 正子(しんぼ まさこ、1913年1月22日 - 199… 真保 正子(しんぼ まさこ、1913年1月22日 - 1995年12月19日)は、日本の陸上競技選手・陸上競技指導者。元大谷女子大学教授。日本陸上競技連盟終身1種審判員。長野県上田市出身。上田高等女学校(現在の長野県上田染谷丘高等学校)、日本女子体育専門学校(現在の日本女子体育大学)卒業。
原田 正夫(はらだ まさお、後年の姓名は藤江、1912年(大… 原田 正夫(はらだ まさお、後年の姓名は藤江、1912年(大正元年)9月22日 - 2000年(平成12年)1月22日)は、日本の陸上競技選手。1936年ベルリンオリンピック銀メダリスト。 1912年9月22日、京都府亀岡市曽我部町西条出身。京都一中、三高、京都帝国大学法学部卒業。のち藤江家に養子に入ったため藤江姓を名乗った。 1936年、ベルリンオリンピック男子三段跳に出場。15m66をマークし銀メダルを獲得した。金メダリストは同じ京都帝大出身の田島直人だった。田島は、オリンピック2年前に両者が出席して京都大学陸上競技部誌に掲載された「三段跳座談会」では「(ベルリンオリンピックに代表として)大島さんと原田さんが行くことになるだろう」と発言していた。
原田正夫(はらだ まさお、後年の姓名は藤江正夫、1912年9… 原田正夫(はらだ まさお、後年の姓名は藤江正夫、1912年9月22日 - 2000年1月22日)は、日本の陸上競技選手。ベルリンオリンピック銀メダリスト。
田島 直人(たじま なおと、1912年(大正元年)8月15日… 田島 直人(たじま なおと、1912年(大正元年)8月15日 - 1990年(平成2年)12月4日)は、日本の男子陸上競技選手。1936年ベルリンオリンピック金メダリスト。位階は正五位。 大阪府において出生。その後、父の郷里である山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に戻り、岩国尋常高等小・旧制岩国中学(山口県立岩国高校の前身)に進学。兄・田島元も三段跳の日本チャンピオンになったことのあるジャンパーで、旧制広島一中時代の織田幹雄と親交があり岩国中学に来てよく一緒に練習した。この兄と織田の影響で三段跳を始めた。 山口高校(山口大学の前身)を経て京都帝国大学経済学部(現京都大学)を卒業する。 1932年、ロサンゼルスオリンピックに出場し、走幅跳で6位入賞。
戸上 研之(とがみ かねゆき/けんし、1912年8月1日 -… 戸上 研之(とがみ かねゆき/けんし、1912年8月1日 - 1986年)は、日本の陸上競技(跳躍)選手。1936年ベルリンオリンピックで男子走幅跳に出場した。 現在の熊本県山鹿市石(旧鹿本郡八幡村)出身。宇土中学校(現在の熊本県立宇土中学校・高等学校)に学び、同窓の谷口睦生(短距離走、八代出身)とともに関西大学に進学した。 1936年ベルリンオリンピックでは日本代表に選ばれ、走幅跳で出場。記録は6.18mで、予選を突破できなかった。 1937年(昭和12年)1月から5月にかけ、村社講平(中央大学)とともにニュージーランドに遠征。クライストチャーチにおいて三段跳で15m58を記録した(当時のニュージーランド記録を越える記録)。
佐々木 吉蔵(ささき きちぞう、1912年3月10日 - 1… 佐々木 吉蔵(ささき きちぞう、1912年3月10日 - 1983年1月23日)は、日本の陸上競技選手。 秋田県鹿角郡小坂村(現在の小坂町)に生まれる。1929年に大館中学校(現在の秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業し、小坂鉱山花岡支社に入社し、明治神宮大会の男子100mで優勝する。 翌年、東京高等師範学校に進み、日本陸上競技選手権大会の男子200mで優勝し、ついで1931年には一般対抗学生選手権の4×100mリレーの学生チームの第2走者として、41秒6で当時の日本記録を樹立した。 1932年ロサンゼルスオリンピック代表に選ばれたが、怪我のために辞退した。つづく1936年ベルリンオリンピックでは男子100メートルに出場した。
中島 亥太郎(なかじま いたろう、1911年3月13日 - … 中島 亥太郎(なかじま いたろう、1911年3月13日 - 1993年5月20日)は、日本の陸上競技選手。専門は短距離走。400mの元日本記録保持者。早稲田大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに200m走およびリレー2種目(4×100m、4×400m)で出場。 静岡県御殿場市出身。沼津商業学校(現在の静岡県立沼津商業高等学校)卒業後、早稲田大学に進む。 早稲田大学在学中の1930年から1933年にかけて、400mの日本記録(ならびに日本男子学生記録)を6回更新している。 1932年ロサンゼルスオリンピックの代表となり、男子200メートル、男子400メートルリレー走(吉岡隆徳、南部忠平、阿武巌夫、中島亥太郎)、男子1600メートルリレー走(中島亥太郎、増田礒、大木正幹、西貞一)に出場。