尾崎 喜八(おざき きはち、1892年1月31日 - 197… 尾崎 喜八(おざき きはち、1892年1月31日 - 1974年2月4日)は、日本の詩人、随筆家、翻訳家。
職業が翻訳家:1,609人
尾崎 喜八(おざき きはち、1892年1月31日 - 197… 尾崎 喜八(おざき きはち、1892年1月31日 - 1974年2月4日)は、日本の詩人、随筆家、翻訳家。
秦 豊吉(はた とよきち、1892年1月14日 - 1956… 秦 豊吉(はた とよきち、1892年1月14日 - 1956年7月5日)は、日本の実業家、演出家、翻訳家、随筆家、興行師。
西宮 藤朝(にしのみや とうちょう、1891年12月7日 -… 西宮 藤朝(にしのみや とうちょう、1891年12月7日 - 1970年5月19日)は、文芸評論家・翻訳家・フランス哲学研究者、教育家。 秋田県生まれ。16歳の時一家で東京に移り、大成中学校をへて早稲田大学文学部英文科卒。1918年『早稲田文学』の編集に従事、評論、翻訳を行う。1924年、早大講師、立正大学教授、1942年豊南学園を設立し校長・理事長を務めた。トルストイ、ジャン=マリー・ギュイヨーの影響を受けた。
広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24… 広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24年)12月5日 - 1968年(昭和43年)9月21日)は、日本の小説家、文芸評論家、翻訳家である。明治期に活動した硯友社の小説家・広津柳浪の子。
米川 正夫(よねかわ まさお、1891年11月25日 - 1… 米川 正夫(よねかわ まさお、1891年11月25日 - 1965年12月29日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。 1891年、岡山県高梁町の質屋を営む家庭に四男として生まれ育つ。旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高校)時代にツルゲーネフ『片恋』(訳:二葉亭四迷)を愛読、ロシア語の道を志して、1909年、東京外国語学校(通称・外語/現・東京外国語大学)ロシヤ語本科に入学。翌年、級友の中村白葉などと共に雑誌『露西亜文学』を創刊し、この雑誌で翻訳を始める。1912年、東京外国語学校を首席で卒業。 卒業後、鉄道省の採用試験を受験するも失敗。しばらくフリーランスの翻訳や来日ロシア人の通訳で生計を立てた。1912年8月、三菱に入社し、長崎支店に勤務。
竹友 藻風(たけとも そうふう、1891年9月24日 - 1… 竹友 藻風(たけとも そうふう、1891年9月24日 - 1954年10月7日)は、日本の英文学者、詩人、翻訳家。 『ルバイヤット』『神曲』などの翻訳がある。 (出典)大阪市生まれ。本名・乕雄(とらお)。父・安治郎は実業家で、のち東海生命保険専務取締役。 関西学院中学校、同志社中学校を経て1910年3月桃山学院中学校卒業。同年同志社神学校進学。1911年京都帝国大学英文科選科に移り、上田敏、新村出(言語学)、藤井乙男(国文学)、吉沢義徳(国語学史)、鈴木虎雄(中国文学)、藤代禎輔(独文学)らに学び、1914年卒業。京都大学在学中の1913年、処女詩集『祈祷』を上梓。 1915年夏、渡米。同年10月イェール大学神学部に入学するが翌1916年に退学し、ニューヨークに出てブルックリン博物館で東洋美術の管理助手として勤務。
羽生 操(はぶ みさお、男性、1891年5月20日 - 19… 羽生 操(はぶ みさお、男性、1891年5月20日 - 1976年8月21日)は、日本の作家、翻訳家。 鹿児島県種子島の西之表松畠出身。1905年3月榕城尋常高等小学校高等科3年修了。1910年3月第一鹿児島中学校卒業。同年5月から翌年7月まで国上小学校や榕城小学校の代用教員を務める。1911年9月には第七高等学校造士館に入るが、病気で中退し、郷里に戻って静養。 1918年上京し、同年博文館に入社して雑誌編集者を務め、1921年5月退社。1922年4月から1924年3月まで日本女子高等学院教授(国文学担当)。1928年10月から1933年7月まで萬朝報特派員として西欧を、1935年12月以降商工省貿易局編纂図書資料調査のため香港・東南アジア・ハワイ・北米を回る。
高橋 禎二(たかはし ていじ、1891年5月6日 - 195… 高橋 禎二(たかはし ていじ、1891年5月6日 - 1953年3月17日)は、日本の哲学研究者、翻訳家。 千葉県出身。東京帝国大学哲学科卒。第四高等学校教授。ドイツ文学ではシュテファン・ツヴァイクの作品などを多く翻訳した。
川崎 備寛(かわさき よしひろ、かわさき びかん、1891年… 川崎 備寛(かわさき よしひろ、かわさき びかん、1891年3月13日 - 1963年3月26日)は、日本の翻訳家、麻雀研究家。 大阪府貝塚市生まれ。関西学院大学政治部中退後、文筆活動に入り1923年(大正12年)『文藝春秋』の同人となる。1924年から麻雀を始め、1929年(昭和4年)日本麻雀連盟創立に際し中央委員。1930年(昭和5年)最高段位7段となる。1932年(昭和7年)麻雀団体が合併して大日本麻雀連盟が結成され、機関誌『麻雀日本』の編集長に就任。 1934年(昭和9年)、警視庁による麻雀賭博の摘発が続く中で、川崎も同年2月に死去した直木三十五の追善麻雀大会に参加したことを追及され、同年3月に福田蘭童、多賀谷信乃、淵川銀次らとともに一斉検挙された。
豊島与志雄(とよしま よしお、1890年(明治23年)11月… 豊島与志雄(とよしま よしお、1890年(明治23年)11月27日 - 1955年(昭和30年)6月18日)は、日本の小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。法政大学名誉教授。明治大学文学部教授もつとめた。日本芸術院会員。
関 泰祐(せき たいすけ、1890年10月25日 - 198… 関 泰祐(せき たいすけ、1890年10月25日 - 1988年2月10日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。 1890年、京都府で生まれた。東京帝国大学独文科で学び、卒業。 卒業後は教員となり、新潟高等学校教授、静岡高等学校教授、第一高等学校教授を務めた。水戸高等学校校長。 戦後は一橋大学教授に就いた。その後、学習院大学教授、国士舘大学教授を務めた。 トーマス・マン、ゲーテ、テオドール・シュトルムなどを訳した。
小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1… 小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1929年4月1日)は、日本の医学者・随筆家・翻訳家・推理作家・犯罪研究家。別名は鳥井零水。 医学者としては生理学・血清学の研究で業績を上げた。また、1921年(大正10年)から8年間に渡って探偵小説などの文筆活動を行った。江戸川乱歩のデビュー作である『二銭銅貨』は、不木が推薦したことで世に出た作品である。医師で順天堂大学名誉教授の小酒井望は長男。 1890年(明治23年)10月8日、愛知県海東郡新蟹江村(現・海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家の長男として生まれた。本名は小酒井光次(こさかいみつじ)。父親は小酒井半兵衛であり、村長や郡会議員も務めた人物である。
及川 恒忠(おいかわ つねただ、1890年〈明治23年〉9月… 及川 恒忠(おいかわ つねただ、1890年〈明治23年〉9月6日 - 1959年〈昭和34年〉1月10日)は、大正・昭和の中国政治史学者・中国経済学者・翻訳家。慶応義塾大学法学部教授(後に部長)であり、私立武蔵高等工科学校(現在の東京都市大学)創立にも関わった。 本籍は岩手県花巻市だが、当時の住所であった東京市荏原郡駒沢町上鳥に生まれる。祖先には、花巻で儒学の学問所「豊水亭」を開いた及川華山(祐忠)がいる。 1908年(明治41年)3月、宮城県立仙台第二中学校を卒業、翌月に慶應義塾大学部予科第一学年に入学した。1913年(大正2年)3月に慶應義塾大学部政治科を卒業、翌月、そのまま同大学の助手となった。
原田 実(はらだ みのる、1890年4月8日 - 1975年… 原田 実(はらだ みのる、1890年4月8日 - 1975年1月6日)は、日本の教育学者、作家、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 千葉県朝夷郡丸村に生まれる。千葉県立安房中学校(現・安房高等学校)を卒業。その後、早稲田大学高等師範部卒。 若山牧水と交流し、牧水が主宰する詩歌雑誌『創作』(1910年創刊)や太田水穂の『潮音』(1915年創刊)に短歌や歌論を精力的に発表。歌人として注目されたが、その後は学者の道で大成することとなった。 1918年、『青鞜』(1911 - 1916)や『潮音』などに「斎賀琴」あるいは「斎賀琴子」名義で短歌や小説を発表していた斎賀こと(1892 - 1973)と結婚。 雑誌『教育時論』編集長、1946年早大教授。
森下 雨村(もりした うそん、1890年2月27日 - 19… 森下 雨村(もりした うそん、1890年2月27日 - 1965年5月16日)は、日本の編集者、翻訳家、小説家。本名・岩太郎。別名・佐川春風。高知県佐川町出身。早稲田大学英文科卒、博文館に勤め、1920年に探偵小説雑誌『新青年』編集長となり、内外の探偵小説の紹介に努め、自らも創作をおこなった。 土佐の生まれで、酒豪だった。横溝正史によると、「親分肌で、常に周囲に若いものを集め、ちっくと一杯と人に奨め、相手を盛りつぶしては悦に入っていた」という。横溝も「たびたび森下に盛りつぶされているうちに、おいおい上達して、ついに出藍の誉れを高くしたものである」と語っている。 『新青年』編集長として江戸川乱歩を世に送り、多くのすぐれた探偵作家を誕生させた雨村を、横溝は「森下こそ日本の探偵小説の生みの親といっても過言ではないだろう」と評し、「義理がたい乱歩は終生雨村に恩誼を感じていたようである」、「松本清張は雨村を、推理小説界における大正期の中央公論の滝田樗陰であると言っている」と述べている。
田中 純(たなか じゅん、1890年1月19日 - 1966… 田中 純(たなか じゅん、1890年1月19日 - 1966年4月20日)は、日本の作家、文芸評論家、翻訳家。 広島県広島市に生まれる。関西学院神学部を出て伝道師となるが、早稲田大学英文科に入学。同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、西条八十、細田民樹、細田源吉、木村毅らがいた。1915年に大学を卒業。春陽堂に入り、『新小説』の編集に携わる。ピョートル・クロポトキン、トゥルゲーネフなどの翻訳などをしつつ、久米正雄、里見弴らと知り合い、文芸評論、小説、戯曲などを書くようになり、1920年に発表した「妻」で認められた。1919年、吉井勇とともに外務省の小村欣一の肝煎りで国民文芸会を結成し、演劇復興運動を起こす。
矢口 達(やぐち たつ、1889年9月20日 - 1936年… 矢口 達(やぐち たつ、1889年9月20日 - 1936年4月4日)は、日本の英文学者、翻訳家。 茨城県新治郡高浜町(現在の石岡市)生まれ。土浦中学校在学中には、一期上の熊岡美彦や同期の永瀬義郎らと交流を持つ。1913年早稲田大学英文科卒業。 日夏耿之介らの『聖盃』同人。東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校・附属中学校)教師、早稲田高等学院教授、早稲田大学講師を歴任。 息子はエッセイストの矢口純。
木村 荘太(きむら そうた 1889年2月3日 - 1950… 木村 荘太(きむら そうた 1889年2月3日 - 1950年4月15日)は、東京府出身の作家、翻訳家。本名の読みは「しょうた」。別名に久木今作、木村艸太(そうた)。木村荘平の子。女性関係と奇人ぶりで知られた。 東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)に、木村荘平の妾腹の子として生まれる。 父は牛鍋屋チェーン店"いろは"を20数箇所に展開して"いろは大王"と呼ばれると共に、葬儀会社"博善社"の社長も兼ねた実業家で、正妻の他に多数の愛人を持ち、諸方に儲けた子の数が男13人に女17人。荘太の異母姉栄子が木村曙の筆名で作家として知られた他、同母弟に木村荘八(挿絵画家)、異母弟に木村荘十(直木賞作家)と木村荘十二(映画監督)がいる。
長沢 英一郎(ながさわ えいいちろう、正字体:長澤 英一郎、… 長沢 英一郎(ながさわ えいいちろう、正字体:長澤 英一郎、1889年1月30日 - 1965年11月5日)は、大正から昭和の日本の英語学者、英米文学者、教育者、翻訳家。学習院教授、東京学芸大学教授、実践女子大学英文科長、立教大学文学部教授、川村短期大学教授。 1889年(明治22年)生まれ。群馬県出身。 1913年(大正2年)、立教大学文科(現・文学部)を卒業したのち、1916年(大正5年)に東京帝国大学英文学科を卒業した。東京帝国大学の同級には芥川龍之介、久米正雄らがいた。 大学を卒業後、東北学院に務めると、1919年(大正8年)に学習院に転じて、1922年(大正11年)に教授となる。1949年(昭和24年)に学習院を退職。
東 健而(ひがし けんじ、あずま けんじ、とう けんじ、18… 東 健而(ひがし けんじ、あずま けんじ、とう けんじ、1889年(明治22年) - 1933年(昭和8年)3月20日)は、日本のユーモア作家、翻訳家、映画評論家。筆名は愚教師のほか、森田三祢子、森田みね子などを用いた。 東京都出身、正則英語学校卒。大正から昭和にかけて、ユーモア小説、雑文、シャーロック・ホームズ等の初期の翻訳家として活躍した。実父は「坂の上の雲」の秋山好古と陸軍士官学校同期の陸軍騎兵第二連隊長騎兵大佐東常久である。妻、静江は外務省参事官(広東総領事)森田寛蔵の息女。家族は長女冨士子(神奈川県三浦郡葉山町在住)の三人。 松竹キネマ俳優学校で映画劇史を教え、徳川夢声と知り合う。東の没後、夫人は友人の徳川夢声(徳川も妻に先立たれていた)と再婚した。
深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月… 深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月18日 - 1974年〈昭和49年〉3月31日)は、日本の詩人、作家、翻訳家。本名は荻野志げの(おぎの しげの)。 兵庫県氷上郡大路村(現・丹波市)の旧家の生まれ。京都師範学校中退、1907年京都菊花高等女学校卒。与謝野晶子に師事する。大正元年(1912年)詩人で技師の深尾贇之焏と結婚するが、大正9年(1920年)に死別。夫の遺稿集『天の鍵』を出版、その附録に深尾須磨子作として掲載した詩54篇と散文「最終の旅」が処女作となる。 大正14年(1925年)詩集『斑猫』を上梓すると神戸港から箱根丸で初めてフランスに渡り、シドニー=ガブリエル・コレットの知遇を得ている。
徳永 寿美子(とくなが すみこ、1888年(明治21年)9月… 徳永 寿美子(とくなが すみこ、1888年(明治21年)9月24日 - 1970年(昭和45年)2月5日)は、日本の児童文学作家、翻訳家。 山梨県甲府市出身。1906年(明治39年)東京府立第二高等女学校(現東京都立竹早高等学校)卒。 子に即興の話をせがまれたことから童話を書くようになる。1921年(大正10年)に最初の作品集である『薔薇の踊子』を刊行し、以来母子の愛情を主要なテーマとした作品群を発表し、それらは「お母さん童話」と呼ばれた。「フランダースの犬」を始め、翻訳も数多く手がけ、和歌や絵画も手がけた。 夫の前田晁は山梨市出身の小説家・翻訳家で『文章世界』編集者を務めた。
神近 市子(かみちか いちこ、出生名:神近 イチ、1888年… 神近 市子(かみちか いちこ、出生名:神近 イチ、1888年6月6日 - 1981年8月1日)は、日本のジャーナリスト、婦人運動家、作家、翻訳家、評論家。ペンネームは榊 纓(さかき おう/えい)。1916年の日蔭茶屋事件で一躍著名になり、大杉栄に対する殺人未遂罪で2年間服役した。戦後に政治家になり、左派社会党および再統一後の日本社会党から出馬して衆議院議員を5期務めた。 長崎県北松浦郡佐々村(現在の佐々町)生まれ。漢方医の神近養斉とハナ夫妻の子で、出生当時父は47歳、母は43歳になっていた。夫妻はすでに二男二女をもうけていて、彼女は末の子であった。 父は幼い末娘を「チコ」と呼んで可愛がっていたが、1891年、彼女が3歳のときに死去した。
松本 泰(まつもと たい、1887年2月22日 - 1939… 松本 泰(まつもと たい、1887年2月22日 - 1939年4月19日)は、日本の小説家、推理作家、翻訳家。本名は松本 泰三(まつもと たいぞう)。 妻の松本恵子も作家で、北海道庁初代水産課課長伊藤一隆の二女。 東京府芝区に生まれる。慶應義塾大学部文学科卒業。学生時代の1911年に、少年を主人公にした自伝的小説「樹陰」を『三田文学』に発表し、『スバル』や『雄弁』などにも同傾向の作品を執筆した。これらはのちに最初の作品集『天鵞絨』(籾山書店、1913年3月)にまとめられた。同書刊行の1913年にイギリスへ遊学、1919年に帰国した。帰国後は、髙島屋に勤務しながら、『三田文学』などを舞台に、英国での経験を材料にした創作を発表した。
村山 勇三(むらやま ゆうぞう、1887年2月 - 1958… 村山 勇三(むらやま ゆうぞう、1887年2月 - 1958年)は、日本の英文学者、翻訳家。 佐賀県佐賀郡嘉瀬村(現・佐賀市)生まれ。長崎のキリスト教学校を出て、1913年早稲田大学英文科卒。片上天絃に師事し、『ドン・キホーテ』の下訳をした(木村毅『私の文学回顧録』)。「蠢動」などの小説を書く。海軍軍令部嘱託。のちエドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』など多くの英文学の翻訳をおこなう。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
金田 鬼一(かねだ きいち、1886年12月10日 - 19… 金田 鬼一(かねだ きいち、1886年12月10日 - 1963年11月1日)は日本のドイツ文学者、翻訳家。 日本にグリム童話を紹介し、NHKラジオドイツ語講座の講師をも担当した。旧姓は山本。 1886年、東京府に生まれる。親は帝室博物館の職員。 京華中学校から第一高等学校を経て、1909年東京帝国大学文学部独文科卒業。 その後ドイツ帝国に留学中、第一次世界大戦勃発のため留学期間を短縮して、1914年10月20日に帰国。 第四高等学校教授の後、学習院高等科教授となり、成蹊高等学校(1939年 - 1942年)などでも講師を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
加藤 朝鳥(かとう あさどり、あさとり、1886年9月19日… 加藤 朝鳥(かとう あさどり、あさとり、1886年9月19日 - 1938年5月17日)は、日本の翻訳家・評論家である。 1886年(明治19年)9月19日、鳥取県東伯郡社村不入岡(現: 倉吉市)にて、父梅吉・母まつの3男として誕生する。本名は信正(信三とも)。県立米子中学校(現: 鳥取県立米子東高等学校)を経て、1905年(明治38年)に早稲田大学英文科に入学する。1909年に卒業。在学中より詩歌を発表する。1912年(大正4年)に「片岡伸氏を論ず」を発表し、文芸評論家となる。1920年(大正9年)から1年、インドネシアのバタビア(ジャカルタ)に渡り、『瓜哇日報』の主筆を務めた。帰国後、1925年(大正14年)より立正大学で教鞭をとり、そのかたわらで評論・翻訳を手掛けた。
佐藤 緑葉(さとう りょくよう、1886年7月1日 - 19… 佐藤 緑葉(さとう りょくよう、1886年7月1日 - 1960年9月2日)は、日本のジャーナリスト、小説家、翻訳家。本名は佐藤利吉(さとう りきち)。群馬県吾妻郡東村生まれ。
平林 広人(ひらばやし ひろんど、1886年4月3日 - 1… 平林 広人(ひらばやし ひろんど、1886年4月3日 - 1986年2月21日)は、日本の児童文学翻訳家。デンマーク文学者。アンデルセンの研究で知られる。
福永 挽歌(ふくなが ばんか、1886年3月22日 - 19… 福永 挽歌(ふくなが ばんか、1886年3月22日 - 1936年5月5日)は、福井県出身の詩人、小説家、翻訳家。本名は渙(きよし)。別号に冬浦。早稲田大学卒業。東京日日新聞、万朝報などの記者を務め、のち日本女子高等学院などで教職に就いた。南アジア研究者の福永正明は、大甥である。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
田中 秀央(たなか ひでなか、1886年〈明治19年〉3月2… 田中 秀央(たなか ひでなか、1886年〈明治19年〉3月2日 - 1974年〈昭和49年〉8月6日)は、日本の言語学者、翻訳家。日本における西洋古典学の開拓者の一人。 1886年、愛媛県北宇和郡三浦村(現・宇和島市)で生まれた。宇和島中学校を卒業後、京都の第三高等学校に進んだ。1906年に東京帝国大学言語学科に入学し、ラファエル・フォン・ケーベルの下でギリシア語、ラテン語を学んだ。1909年に卒業し、同大学大学院に進学。 1912年に卒業し、東京帝国大学講師として古典語を教えた。1920年7月より、京都帝国大学文学部講師を命じられ、同年10月には助教授昇格。1922年から文部省在外研究員としてオックスフォード大学に留学し、西洋古典学の研究を進めた。
山中 峯太郎(やまなか みねたろう、1885年(明治18年)… 山中 峯太郎(やまなか みねたろう、1885年(明治18年)12月15日 - 1966年(昭和41年)4月28日)は、日本の陸軍軍人、小説家、翻訳家。陸士19期・陸大退校(25期相当)、最終階級は陸軍歩兵中尉(依願免官)。 山中未成、大窪逸人、石上欣哉、三条信子などのペンネームも用いた。 大阪府で呉服商を営んでいた馬淵浅太郎(旧・彦根藩士)の次男として生まれる。幼少時に、陸軍一等軍医(大尉相当官)山中恒斎の婿養子となり、のちに恒斎の娘の「みゆき」を娶った。大阪偕行社附属小学校(現・追手門学院小学校)、天王寺中学(現・大阪府立天王寺高等学校)を経て、1901年(明治33年)、大阪陸軍地方幼年学校(大幼)に入校。
池田 大伍(いけだ だいご、1885年(明治18年)9月6日… 池田 大伍(いけだ だいご、1885年(明治18年)9月6日 - 1942年(昭和17年)1月8日)は、歌舞伎の劇作家、劇評家、翻訳家。甥は池田弥三郎。 池田鉸三郎・乃婦の次男に生まれた。家は幕末から続く銀座の天ぷら屋「天金」で、兄が金太郎、本人の幼名が銀次郎だった。1891年から私塾の鍋町小学校に通い、公立の麹町小学校を卒業した。その後商工中学を経て、1907年早稲田大学英文科を卒業した。東京毎日新聞の劇評を2年書いた後、1911年(明治44年)、坪内逍遙らの文芸協会の演芸主事となった。1913年(大正2年)の文芸協会解散後は、東儀鉄笛・土肥春曙らと劇団「無名会」を組織し、翌1914年、第一作『滝口時頼』を上演した。
木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年(明治18年)… 木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年(明治18年)8月1日 - 1945年(昭和20年)10月15日。本名:太田正雄)は、静岡県出身の詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家。 東京帝国大学医科大学で学ぶ傍ら「パンの会」を興し、これと前後して『明星』『中央公論』『スバル』『白樺』で、詩のほか短歌・戯曲・小説などを発表。作風は南蛮情緒的、切支丹趣味、耽美享楽的などと評された。のち、自費によるヨーロッパ留学を経て愛知医科大学、東北帝国大学、東京帝国大学の医学部教授を歴任し、傍らで文明批評や随筆紀行を著述した。筆名はほかに、堀花村(ほりかそん)、地下一尺生、葱南(そうなん)、北村清六などがある。
成瀬 無極(なるせ むきょく、1885年4月26日 - 19… 成瀬 無極(なるせ むきょく、1885年4月26日 - 1958年1月4日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。京都帝国大学名誉教授。本名は清。 東京根岸生まれ。東京帝国大学独文科卒。1908年京都帝国大学講師、1919年助教授、1930年教授、1931年日本ゲーテ協会を創立。1945年4月定年退官、名誉教授。 ドイツ文学の研究、翻訳のほか、劇作、評論、随筆などで活躍した。18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動「シュトルム・ウント・ドラング」を「疾風怒濤」と訳した人物とも言われる。 息子はドイツ史学者の成瀬治。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年〈明治18年〉… 大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年〈明治18年〉1月17日 - 1923年〈大正12年〉9月16日)は、日本の無政府主義者、思想家、作家、ジャーナリスト、翻訳家、社会運動家。エスペランティスト、自由恋愛主義者でもあった。 愛媛県那珂郡丸亀(現・香川県丸亀市)で生まれた。父親の大杉東(おおすぎ あずま)は愛知県海東郡越治村(現・愛知県津島市)出身の大日本帝国陸軍近衛師団の前身である常時陸軍の軍人で、代々庄屋の家系で親戚にも軍人が多数いる家庭環境だった。その後、東は東京に移って近衛少尉として勤務し、大隊長の仲介によって母・とよ(豊)と結婚した。栄は次男で、はる、きく、伸、まつゑ、勇、進、あき、あやめの兄弟姉妹がいる大家族だった。
加能 作次郎(かのう さくじろう、1885年〈明治18年〉1… 加能 作次郎(かのう さくじろう、1885年〈明治18年〉1月10日 - 1941年〈昭和16年〉8月5日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。石川県羽咋郡西海村風戸(現・志賀町西海風戸〈さいかい ふと〉)出身。苦難の少年期を過ごし、早大在学中に「厄年」で登場。「世の中へ」で地位を確立し、自然主義の流れをくむ人情味豊かな私小説に独自の境地を拓いたが、昭和に入り低迷した。 少年時代、京都の伯父に預けられて育てられた作次郎は、早稲田大学文学部英文科を卒業した後、博文館に入社し、『文章世界』の主筆として翻訳や文芸時評を発表する。1918年(大正7年)に私小説「世の中へ」で認められ、著作家として活躍する。
永田 寛定(ながた ひろさだ、1885年1月1日 - 197… 永田 寛定(ながた ひろさだ、1885年1月1日 - 1973年8月2日)は、日本のスペイン文学者、翻訳家。 東京生まれ。1909年東京外国語学校西斑牙語科卒業、戦後、東京外国語大学教授を務めた。スペイン文学の翻訳、教育に尽くした。 岩波文庫で、セルバンデス『ドン・キホーテ』完訳に挑んだが、徹底的に直す翻訳作業で、行の頭にこの字が来てはいけない、といった直し方を続けたため、続編の翻訳半ばで死去、弟子の高橋正武が継いで、最終巻を刊行した。なお『ドン・キホーテ』は、弟子の会田由が先に完訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 19… 楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 1950年11月26日)は、日本の演劇評論家、編集者、翻訳家、児童文学者。主に大正時代から昭和時代戦後初期にかけて活動した。 東京府京橋区新橋竹川町(現在の銀座)で、小売と卸売を兼業し、印刷業の写真画問屋も営む楠山秀太郎の子として生まれる。祖父で幕臣の楠山孝一郎は、同じく幕臣で編集者の成島柳北の兄にあたる。俳優・森繁久弥とも縁戚にあたる。 しかし3歳になった1886年2月15日、父秀太郎が急死。後に母親が再婚するが、再婚相手の起こした不祥事から会社が倒産して苦しい家計に追われることになり、親戚の家を盥回しにされるなど、多難な少年時代を送る。
辻 潤(つじ じゅん、1884年10月4日 - 1944年1… 辻 潤(つじ じゅん、1884年10月4日 - 1944年11月24日?)は、日本の翻訳家、思想家である。日本におけるダダイスムの中心的人物の一人とされる。画家、詩人の辻まことは長男である。
島村 盛助(しまむら もりすけ、1884年8月9日 - 19… 島村 盛助(しまむら もりすけ、1884年8月9日 - 1952年4月22日)は、日本の英文学者、翻訳家、小説家、辞書編集者、教育者。号は苳三(とうぞう)。『岩波英和辞典』を刊行した。 1884年(明治17年)、埼玉県南埼玉郡百間中村(現:宮代町字中)村長の島村繁と、越谷の能楽師の家系の出身である津ねの夫妻の長男として生まれる。弟が2人、妹が4人いたという。 生家は江戸時代初期から百問中村の名主を務めた武士の家であった。盛助の曽祖父の貴英は1817年(天保8年)に俳諧結社多少庵の第4代庵主となり(号は鬼吉)、祖父の梅年、父の繁もその庵主を引き継いだ。父の繁は直心影流の免許皆伝を得て剣術道場を開いた剣術家でもあり、1906年(明治36年)には百間村の村長となった。
牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 196… 牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 1963年11月9日)は、日本の音楽学者、舞踊・浮世絵評論家、翻訳家。旧姓は百瀬。 長野県諏訪郡四賀村(諏訪市四賀)生まれ。高島小学校卒業後、1913年東京音楽学校甲種師範科卒。高野辰之、田村寛貞に師事し、在学中、学友会誌「音楽」の主筆・編集長を務めた。1912年には学友会主宰の「土曜演奏会」を始めた。また東京外国語学校や正則英語学校に通い、英語を習得し、海外音楽理論の翻訳に着手した。東京音楽学校講師を経て、教授。1922年から「東京朝日新聞」の音楽・舞踊欄を担当した。 1934年8月から「月刊楽譜」主筆を務めた。1938年4月に行われた第6回日本音楽コンクールではバイオリン部門の審査員を務める。
折竹 錫(おりたけ たまう、1884年(明治17年)1月11… 折竹 錫(おりたけ たまう、1884年(明治17年)1月11日 - 1950年(昭和25年)1月13日)は、大正から昭和時代の日本の翻訳家、フランス語学者。号に蓼峰、多音祐、R.T.O。 旧信濃国松本藩士・折竹嘉鋭の長男として長野県諏訪郡にて生まれる。1908年(明治41年)東京帝国大学文学部仏文科を卒業後、陸軍教授を経て、第三高等学校教授となり、河盛好蔵、桑原武夫らに教えた。フランス・ドイツ留学を経て、旧制福岡高等学校長に任ぜられ、その後は、関西日仏学館(現:アンスティチュ・フランセ日本の前身の一つ)教授などを歴任する。
村上 静人(むらかみ せいじん、1884年-1960年)は、… 村上 静人(むらかみ せいじん、1884年-1960年)は、日本の作家・翻訳家。 静岡県の代々医師の家に生まれ、上京して医師となろうとするが、長田秀雄、木下杢太郎らと知り合い文学の道を進み、明治大学文学部で学ぶ。赤城正蔵の「アカギ叢書」の創刊に手を貸し、西洋文学の再話、人情本の注釈などの仕事をし、のちには釣りの本を書いた。
田中 早苗(たなか さなえ、1884年(明治17年) - 1… 田中 早苗(たなか さなえ、1884年(明治17年) - 1945年(昭和20年)5月25日)は日本の翻訳家。男性。本名は田中 豊松(たなか とよまつ)で、この名義での著訳書もある。 英語とフランス語を解し、博文館の雑誌『新青年』などで、モーリス・ルヴェル(フランス語版、英語版)、ウィルキー・コリンズ、エミール・ガボリオ、ガストン・ルルーなどの作品の翻訳紹介につとめた。 1884年(明治17年)、秋田県秋田市に生まれる。 1907年(明治40年)、早稲田大学高等師範部英語科卒業。 雑誌『海外之日本』(海外之日本社)記者、雑誌『太陽』(博文館)嘱託記者を歴任した。 1937年(昭和12年)4月より東京市赤坂区史編纂事務嘱託として『赤坂区史』の編纂に従事する。
内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977… 内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977年9月19日)は、フランス文学者、評論家、翻訳家、エッセイスト。
茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1… 茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1946年8月29日)は、日本のドイツ文学者、詩人、翻訳家。本名は茅野 儀太郎、号は暮雨。妻は歌人の茅野雅子(旧姓:増田)。 長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)出身。諏訪郡立実科中学校、第一高等学校を経て、1908年東京帝国大学独文科卒業。同科の同級生に小宮豊隆、小牧健夫、1年上に成瀬無極、一年下に小野秀雄がいた。第三高等学校教授、慶應義塾大学教授、日本女子大学教授を歴任した。 旧制一高在学中から与謝野鉄幹が主宰する新詩社の『明星』同人として短歌、詩、評論等を寄せ、妻雅子とともに活躍した。「蕭々」は与謝野鉄幹から与えられたペンネームである。
鈴木 善太郎(すずき ぜんたろう、1883年1月19日 - … 鈴木 善太郎(すずき ぜんたろう、1883年1月19日 - 1950年5月19日)は、日本の小説家、劇作家、翻訳家。雅号は秋風。 福島県郡山市大町生まれ。旧制安積中学校を中退、旧制海城学校に転校し卒業。早稲田大学文学部英文学科卒業。卒業後は、国民新聞、朝日新聞社の記者として活躍し、大正7年に短篇小説『幻想』を発表して作家としての地位を確立する。『文章倶楽部』にて、菊池寛や野村愛正と並んで三大新進作家に数えられた。新劇運動にも参加し、日本近代演劇界に多大な貢献をした。 大正10年欧米各国を歴訪、帰国後、松竹顧問、コロムビア文芸部顧問となる。フェレンツ・モルナールの紹介に貢献した。
栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月… 栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月17日 - 1969年〈昭和44年〉6月17日)は、日本の英文学者・評論家・翻訳家。本名は、栗原 元吉(くりばら もときち)。 1882年、埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市)に生まれる。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)で平田禿木に学び、上田敏とも知遇を得た。第一高等学校在学中の1902年、『明星』12月号にイワン・ツルゲーネフの短編訳「世のをはり」を発表し、以後、同誌に翻訳の発表を続け、当時の日本では知られていなかったオスカー・ワイルドやウィリアム・バトラー・イェイツなどを紹介した。 1903年、東京帝国大学文科大学英文学科に入学し、夏目漱石と上田敏の教えを受ける。
生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月… 生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月21日 - 1936年(昭和11年)1月11日)は、日本の評論家・翻訳家・劇作家・小説家。 父喜平治と母かつとの三男一女の末子として、鳥取県日野郡貝原村(現・日野町根雨)に生まれた。1895年(明治28年)(13歳)、地元の日野郡高等小学校を卒業し、翌年、次兄がいる大阪へ出て、1897年、桃山学院の2年生になった。 本名は弘法大師(空海)に因んだ「弘治」ながら、1898年、プロテスタント系のユニバーサリスト教会で受洗し、聖書に親しんだ。翌年上京して青山学院中学部の4年生となり、1900年、第一高等学校文科に入り、1903年、東京帝国大学文科大学哲学科へ進み、美学を専攻した。