手塚 治虫(てづか おさむ、本名:手塚 治〈読み同じ〉、19… 手塚 治虫(てづか おさむ、本名:手塚 治〈読み同じ〉、1928年〈昭和3年〉11月3日 - 1989年〈平成元年〉2月9日)は、日本の漫画家、アニメ監督、医師。学位は医学博士(奈良県立医科大学、1961年)。大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)生まれ、兵庫県宝塚市出身。宝塚市名誉市民。大阪帝国大学附属医学専門部(現・大阪大学医学部)卒業。戦後日本に於いて、漫画表現の開拓者的存在として、デビューから死の直前まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。 大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。
鈴木 義司(すずき よしじ、1928年〈昭和3年〉9月26日… 鈴木 義司(すずき よしじ、1928年〈昭和3年〉9月26日 - 2004年〈平成16年〉7月17日)は、日本の漫画家。 代表作は読売新聞夕刊に1966年6月22日より2004年7月2日まで、新聞連載としては当時歴代歴代2位となる38年間、合計1万1240話にわたって長期連載された『サンワリ君』。勲等は勲四等。 東京市赤坂区(のちの東京都港区)で酒屋と質屋を兼業する商家に生まれ、川崎市大師河原(現:川崎区)に育つ。少年時代は漫画に興味がなく、1989年の毎日新聞のインタビューに答えた時点では「のらくろも冒険ダン吉もそれほど読んだことがない」という。旧制神奈川県立川崎中学校(神奈川県立川崎高等学校の前身)を経て旧制東京都立理工専門学校(東京都立大学の前身)卒業。
三町 半左(さんちょう はんざ、1928年7月10日-201… 三町 半左(さんちょう はんざ、1928年7月10日-2019年1月16日)は、埼玉県所沢市出身の漫画家。本名、山畑儀雄。 結核の悪化に伴い入退院を繰り返し、執筆を断念した後所沢市で新聞販売店を経営。のちに社団法人日本新聞販売協会会長として再販問題に取り組む。 少年飛行兵だったが、肺結核にかかり入院。1952年、小康を得て退院時に医師に「ものを書いて生きていきたい」と話したところ、小学館の編集局長に「漫画家のタマゴを育ててやってくれんか」と声をかけてもらった。ものを書くというのは小説を、というつもりだったが、出版社に出入りしておれば、そのうち小説を書くチャンスもあろうか、と漫画を描き始めた。地域の新聞に見よう見まねの漫画やカットを描いていただけで、絵の基礎はなかったという。
いばら 美喜(いばら みき、1928年5月12日 - )は、… いばら 美喜(いばら みき、1928年5月12日 - )は、日本の漫画家。現在の茨城県ひたちなか市出身。本名は藤咲昇(ふじさく のぼる)。茨城県立水戸第一高等学校卒業、武蔵野美術大学中退。 茨城県に生まれる。高校卒業後、美大進学のために上京するも金銭的な問題で中退し、街頭で似顔絵を描いて生計を立てる。 その後、貸本漫画家デビュー。時代劇漫画やホラー漫画などを主に描いていた。桜井昌一の「東考社」とも付き合いがあり、水木しげるの自伝にいばらがモデルとされる貧乏漫画家が登場する。 貸本漫画業界の消滅後は「ひばり書房」で描き下ろしホラー単行本を多数執筆。劇画誌にも連載を持っていた。
関谷 ひさし(せきや ひさし、1928年1月14日 - 20… 関谷 ひさし(せきや ひさし、1928年1月14日 - 2008年2月25日)は、日本の漫画家。福岡県北九州市出身。本名:関谷久(読み方はペンネームと同じ)。 門司商業学校(現福岡県立門司大翔館高等学校)2年生の頃から漫画を描き始める。卒業後は松山練習航空隊入隊、自動車部品販売店勤務を経て、新九州新聞社に入社、タブロイド月3回刊の『まんが新九州新聞』の記者となる。社の経営が次第に思わしくなくなり、中央の漫画家に原稿料支払いが困難になると、代わりに作品を描いた。1957年に新聞の休刊とともに新九州新聞社を退社して上京。 本格的に漫画家生活に入った翌年の1958年には『ジャジャ馬くん』(『冒険王』)がヒットし人気を集めた。
馬場 のぼる(ばば のぼる、1927年10月18日 - 20… 馬場 のぼる(ばば のぼる、1927年10月18日 - 2001年4月7日)は、日本の漫画家・絵本作家。本名:馬場 登(読み同じ)。 手塚治虫・福井英一とともに「児童漫画界の三羽ガラス」と呼ばれた。やがて大人漫画や絵本も執筆し、日本経済新聞の連載4コマ漫画『バクさん』、絵本『11ぴきのねこ』シリーズ等が代表作となった。 青森県三戸郡三戸町大字川守田字元木平に3人姉弟の末っ子として生まれる。『のらくろ』『冒険ダン吉』などの児童漫画に親しんだ。旧制岩手県立福岡中学校4年修了後の1944年、海軍予科練14期生として土浦海軍航空隊に入隊。練習機が不足していたため、秋田県北秋田郡上大野村の同隊グライダー訓練基地に転じ、特攻隊員として出撃を待つ間に敗戦をむかえる。
長 新太(ちょう しんた、本名: 鈴木 揫治、1927年9月… 長 新太(ちょう しんた、本名: 鈴木 揫治、1927年9月24日 - 2005年6月25日)は、日本の漫画家、絵本作家、エッセイスト。 漫画作品のほか、「ユーモラスな展開と不条理な筋立て」による「絵本」と称される数多くの絵本や児童文学の挿絵を描き、「ナンセンスの神様」の異名をとった。エッセイなどの分野でも活動した。 東京府荏原郡羽田町(のちの東京都大田区)に生まれる。蒲田育ち。戦時中は陸軍少年飛行兵学校を受験したが体重が足りなかったために不合格となる。東京市立蒲田工業学校(現在の東京都立一橋高等学校)卒。蒲田が空襲の被害を受けたため横浜市に移り、ここで敗戦を迎える。映画が好きだったため映画館の看板屋で3年ほど働いた。
境田 昭造(さかいだ しょうぞう、1927年4月6日 - 1… 境田 昭造(さかいだ しょうぞう、1927年4月6日 - 1991年9月9日)は、日本の漫画家である。日本漫画家協会会員。 東京市本郷区(現在の東京都文京区)本郷生まれ。駒込学園高等学校を経て、1950年、拓殖大学政経科卒業。 在学中から近藤日出造に師事して大人漫画家となり、1950年に漫画集団の同人となる。昭和30年代から40年代にかけて、独特のデフォルメのキャラクターを描いて一世を風靡。 「若手落語会」「東横落語会」などを主宰した湯浅喜久治と知人だったことから、若手落語家たちと友達同様に交流することになる。談志・円楽・志ん朝らとは若手時代からつきあいで、1969年からの柳朝・志ん朝の「二朝会」はプロデューサー的に関わった。
田中 正雄(たなか まさお、1927年2月8日 - 2014… 田中 正雄(たなか まさお、1927年2月8日 - 2014年3月25日)は、和歌山県和歌山市出身の漫画家。1947年(昭和22年)に大正日日新聞や『新少年』にマンガを連載したのを皮切りに、『ニャンチャン』『漫画の缶詰』など、多数の作品を発表。また源頼朝や伊藤博文、平清盛など歴史上の人物の伝記漫画など児童漫画の執筆に関わってきた。娘は画家の田中恵子。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
わちさんぺい(本名:中岡 二春(なかおか にはる)、1926… わちさんぺい(本名:中岡 二春(なかおか にはる)、1926年3月 - 1999年12月10日)は、広島県三次市出身の漫画家。 山梨航空技術学校(現:日本航空高等学校)卒業。1941年4月、陸軍飛行実験部(後の陸軍航空審査部)に入部し偵察隊に配属される。配属ひと月足らずで九五式三型練習機の整備を任される。その時は、専門の航空学校で学んだ知識と技術が認められた気がして嬉しくてたまらなかったという。 しかし、その九五式三型練習機の発動機の試運転の際、車輪止めを付け忘れて発動機を始動させたため、機体が前に進み、自動車に激突しプロペラと発動機を大破させてしまう重大事故を起こす。本人は「これで陸軍永久追放か」と覚悟したが、飛行実験部の隊長加藤敏夫大佐は「よしよし。
小林 治雄(こばやし はるお、1925年12月21日 - 2… 小林 治雄(こばやし はるお、1925年12月21日 - 2010年1月26日)は日本の漫画家、随筆家。 1925年、山梨県にて出生。1943年、甲府工業学校土木科卒業。1954年、毎日新聞にて「フクちゃん」を連載していた横山隆一に勧められ、時事風刺の1コマ漫画『ヒトクチ漫画』の連載を開始し、以後1990年まで続いた。漫画集団の一員で、随筆、マンガ等を寄稿しつつ、70歳よりMacintoshを学び精力的に執筆活動を行った。 2010年1月26日、横浜市内の病院にて心不全で死去。84歳没。
加藤 芳郎(かとう よしろう、1925年〈大正14年〉6月2… 加藤 芳郎(かとう よしろう、1925年〈大正14年〉6月25日 - 2006年〈平成18年〉1月6日)は、日本の漫画家、放送タレント。 東京府豊多摩郡代々幡町(のちの東京都渋谷区)生まれ。8人兄弟の6番目。父親は岩手県胆沢郡水沢町(のちの水沢市→奥州市水沢区)出身で、東京市役所に勤務していた。母親は埼玉県北足立郡鳩ヶ谷町(のちの川口市→鳩ヶ谷市→再度川口市に復帰)の出身。加藤は幼いころから絵を描くのが好きで、父親は加藤の描く絵を見ては「美術学校に入れてやろう」とほめるのが常だったという。また、『のらくろ』『冒険ダン吉』などの児童漫画作品に親しんだ。加藤が10歳の頃に父親が定年を迎え、嘱託契約に切り替わって以降は、兄たちが家財を質入れして食料を調達するなど、生活が苦しくなり、美術学校入りの夢はいったん断念する。
富永 一朗(とみなが いちろう、1925年4月25日 - 2… 富永 一朗(とみなが いちろう、1925年4月25日 - 2021年5月5日)は、日本の漫画家。勲等は勲四等。称号は岡山県高梁市(旧:川上郡川上町)名誉市民。 京都府京都市生まれ。父は大分県佐伯市出身、母は福島県南会津郡田島町(現・南会津町)静川出身。父は京都の大丸に勤務していた。家族に弟がいる。 3歳のとき父を肺結核で失い、母の郷里の田島町で2年間を過ごした後、5歳の時から父の郷里の大分県佐伯市に移り、中学卒業までそこで育つ。小学校4年頃から田河水泡の真似をして漫画を描き始める。大分県立佐伯中学(現在の大分県立佐伯鶴城高等学校)に2番の成績で合格。同校1年生のとき、地元で小学校教員をしていた母が不倫事件を起こして子供を産み東京に出奔。
鮎沢 まこと(あゆざわ まこと、1925年 - 2018年2… 鮎沢 まこと(あゆざわ まこと、1925年 - 2018年2月9日)は、日本の漫画家。東京都出身。池上育ち。血液型はO型。長女は、フリーライターの相沢いく(相沢育子)。 一コマ漫画を中心とする、カートゥーンのエキスパート。ナンセンスな笑いを得意とし、毒の効いた諷刺の中にも飄逸な味わいがある。 "漫画には国籍も国境もナシ"がモットー。自費出版多数。また囲碁を趣味とし、長年にわたり「週刊碁」に「ウロ烏鷺戯評」を連載。 2018年2月9日、心不全のため死去。 一コマ漫画家集団JAPUNCHの一員としての一連の著作 "JAPUNCH"の一員として この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。
好美 のぼる(よしみ のぼる、本名:尾原 三好、1924年4… 好美 のぼる(よしみ のぼる、本名:尾原 三好、1924年4月30日 - 1996年4月)は日本の漫画家。兵庫県神戸市出身。代表作は「にくしみ」「あっ!生命線が切れている」。 1924年、兵庫県神戸市に生まれる。日本大学卒業。広告会社勤務を経て、大阪に移り赤本漫画家としてデビュー、その後も貸本漫画を執筆する。その後は東京に再上京、曙出版の貸本漫画やB級劇画雑誌などで活躍した。 1969年に『週刊少女フレンド』に短期連載された復讐ホラー漫画「にくしみ」は「子供調査研究所マンガ嗜好調査」のベスト10に選出されたという。 晩年は立風書房で描きおろしのホラー漫画を執筆。また、趣味である折り紙やペーパークラフトの本を出版し、近所の子供に作り方を教えるなどしていた。
佐川 美代太郎(さがわ みよたろう、1923年12月1日 -… 佐川 美代太郎(さがわ みよたろう、1923年12月1日 - 2009年10月30日)は日本の漫画家、絵本作家。本名、小林 仁(こばやし じん)。 茨城県真壁郡真壁町(現在の桜川市)に生まれる。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)を経て、弁護士を目指し中央大学法学部に入学。在学中の1943年に学徒出陣し、陸軍少尉として朝鮮で終戦を迎えた。復員後、大学に復学したが、「これからは経済の時代だ」として、法学部から商学部に転部した。 大学卒業後、電機メーカーを経て、卸売会社・ぬ利彦で経理の仕事につく。1952年より、社業のかたわら、自由出品制の美術展「読売アンデパンダン展」に漫画の投稿を開始。
高野 よしてる(たかの よしてる、本名:高野義輝、1923年… 高野 よしてる(たかの よしてる、本名:高野義輝、1923年8月22日 - 2008年11月15日)は、日本の雑誌編集者・漫画家である。九州生まれ。関東商業学校(現・関東第一高等学校)、法政大学出身。漫画家としては1950 - 1970年(昭和25 - 45年)頃まで月刊・週刊の漫画雑誌で活躍した。代表作は『赤ん坊帝国』『黒帯くん』『13号発進せよ』など。 1923年(大正12年)、九州に生まれる。4歳の頃に家族ともども東京に移り、以後東京で育つ。 中学の頃から漫画家を目指し、志を同じくする友人たちと共に「新世紀漫画集団」という名のグループを結成。日曜日になっては漫画について討論や研究、デッサンをしていた。
木川 かえる(きがわ かえる、本名:木皮 一夫〈きがわ かず… 木川 かえる(きがわ かえる、本名:木皮 一夫〈きがわ かずお〉、1923年〈大正12年〉8月22日 - 2005年〈平成17年〉3月4日)は、日本の元漫画家、ジャズ漫画家。滋賀県近江八幡市出身。日本漫画家協会参与 京都支部長。1992年から1999年まで京都精華大学芸術学部漫画学科の講師を務めていた。 父は銀行員でヴァイオリン、尺八を演奏するなど風流人であった。自身もそんな縁で演芸などに興味を持つ。子供の頃から絵を描く事も好きで学生時代から新聞等に投稿をしていた。滋賀県立八幡商業高等学校卒業後、父の勧めで銀行員になる。戦時中は従軍、終戦を中国で迎え、復員。戦後は進駐軍でジャズや映画音楽をBGMに米軍相手に絵を描く漫画ショウを始める。
太田 じろう(おおた じろう、1923年1月2日 - 198… 太田 じろう(おおた じろう、1923年1月2日 - 1982年3月29日)は、日本の漫画家、絵本作家。本名、太田二郎。東京市京橋区八丁堀出身。 東京市京橋区八丁堀にて製本職人の家庭に生まれる。早稲田実業学校卒業後、新潮社や東宝美術部に勤務。日本画を学び、野口昂明たちの勧めで『日の出』誌にカットを寄稿、1941年、『イソップまんが』で漫画家としてデビューした。 1943年に徴兵され、大刀洗飛行場で従軍にあたった。1945年に復員した後、帷子進や芳谷勝に師事する。1950年、『少年クラブ』に『お山のクロちゃん』を連載。1952年、島田啓三の長女と結婚した。1960年、『こりすのぽっこちゃん』で第5回小学館漫画賞を受賞する。
岡部 冬彦(おかべ ふゆひこ、1922年12月27日 - 2… 岡部 冬彦(おかべ ふゆひこ、1922年12月27日 - 2005年5月16日)は、東京出身の漫画家、科学ジャーナリスト。埼玉県さいたま市に在住していた。 東京生まれ。東京美術学校(現東京芸術大学)卒。卒業後、ライオン歯磨宣伝部を経て、漫画家となった。漫画集団同人。名取洋之助が編集していた『岩波写真文庫』の現場で、三木淳、稲村隆正らともに学ぶ。またスタッフだった女性デザイナーと結婚した。 1956年から13年間『週刊朝日』に『アッちゃん』を連載し、サラリーマン家庭の暮らしぶりを子どもの視点からユーモラスに描いた作風で人気を博す。せりふのない4コマ漫画『ベビーギャング』、外国漫画の影響を受けた『アツカマ氏』『オヤカマ氏』などの作品で人気を博した。
水木 しげる(みずき しげる、男性、1922年[注 1]3月… 水木 しげる(みずき しげる、男性、1922年[注 1]3月8日 - 2015年11月30日)は、日本の漫画家。文化功労者、傷痍軍人。本名は武良 茂(むら しげる)。
おおば比呂司(おおば ひろし、1921年12月17日 - 1… おおば比呂司(おおば ひろし、1921年12月17日 - 1988年8月18日)は、日本の漫画家、デザイナー。北海道札幌市出身。本名は、大場博司。 漫画集団に所属し、イラストレーションの手法を取り入れたユニークな一コマ漫画で知られた。デザイナーとしての評価も高く、商業デザインの分野でも活躍した漫画家の草分けでもあった。また、テレビタレントとしても活動した。 蕎麦屋を営む大場清男・サン夫妻の次男として生まれ、幼少期から漫画・イラストの才能を発揮。札幌市第二高等小学校(現・柏中学校)卒業後印刷会社や看板描き、草履店での丁稚奉公を経て、1942年12月・21歳の時に徴兵で陸軍航空隊に入隊し整備士となる。
うしお そうじ(牛尾 走児とも、1921年12月4日 - 2… うしお そうじ(牛尾 走児とも、1921年12月4日 - 2004年3月28日)は、日本の漫画家、アニメーター、特撮・映像作品プロデューサー、演出家である。映像製作会社「ピー・プロダクション」創業者。 本名は鷺巣 富雄(さぎす とみお)。別名:若林 藤吾、若林 不二吾(わかばやし ふじご)。 弟は、アニメ制作会社エイケンでプロデューサーを務めた鷺巣政安。長男は作曲家・現ピー・プロダクション社長の鷺巣詩郎。 1921年(大正10年)東京府東京市芝区(現・東京都港区)生まれ。実家は芝区の神明で、西洋家具の製造販売や、演劇関係の小道具を扱う「明光社」という大店だった。 1939年(昭和14年)、淀橋の工学院(現・工学院大学)を心臓脚気(脚気衝心)により中退。
荻原 賢次(おぎはら けんじ、1921年10月30日 - 1… 荻原 賢次(おぎはら けんじ、1921年10月30日 - 1990年1月7日)は、日本の漫画家。 祖先は松本藩士であったという。神奈川県横浜市で生まれ、東京府東京市浅草区(現:東京都台東区)の「職人の多い下町」で育つ。少年時代に、湯島聖堂の斯文会で『日本外史』などを通じ、漢文に親しみ、歴史の素養を身につける。小島尋常小学校卒業後、商業補習学校、研数学館などを転々とする。この間、川端画学校を中退したほか、クロッキー研究所に在籍している。クロッキー研究所ではのちにともに漫画家になる根本進、塩田英二郎、上田トシコ、永井保らと知り合う。 自作漫画を雑誌に投稿して頭角を現すと、1939年には永井に、その永井が所属する若手漫画家のグループ「漫画突撃隊」へ勧誘される。
長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年(大正9年)1月3… 長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年(大正9年)1月30日 - 1992年(平成4年)5月27日)は、日本の女性漫画家。日本初の女性プロ漫画家。代表作に『サザエさん』・『いじわるばあさん』・『エプロンおばさん』など。 佐賀県小城郡東多久村(現在の多久市東多久町)で父・勇吉と母・サタ(貞子)との間の3人姉妹の次女として生まれる。実際は姉との間に夭折した2番目の姉がおり、戸籍上は4姉妹の三女になる。当時、多久で操業していた三菱炭坑の技師であった勇吉が独立、ワイヤーロープの事業開業に伴い福岡県福岡市春吉(現在の同市中央区春吉)に転居し、春吉尋常小学校に小学1年生から通った。 小学生時代は成績が良く男子生徒と交代で学級長を務めていたが「悪ガキ」だったと妹の洋子に語っている。
やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩〈読み同じ〉、1919年〈大正… やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩〈読み同じ〉、1919年〈大正8年〉2月6日 - 2013年〈平成25年〉10月13日)は、日本の漫画家・絵本作家・詩人。有限会社やなせスタジオ社長。高知県出身(後述)。妻は編集者の小松暢。 『アンパンマン』の原作者として知られる。社団法人日本漫画家協会代表理事理事長(2000年5月 - 2012年6月)、社団法人日本漫画家協会代表理事会長(2012年6月 - 2013年10月)を歴任。 作曲家としてのペンネームは「ミッシェル・カマ」。壮年期までは「やなせ・たかし」と中黒が付された表記をされていた。 絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなし、編集者・舞台美術家・演出家・司会者・コピーライター・作詞家・シナリオライターなど様々な活動を行っていた。
南部 正太郎(なんぶ しょうたろう、男性、1918年11月2… 南部 正太郎(なんぶ しょうたろう、男性、1918年11月23日 ‐ 1976年11月5日)は、日本の漫画家。昭和20年代の関西漫画界の第一人者で、代表作に焼け跡派の4コマ漫画「ヤネウラ3ちゃん」がある。生前は大阪読売新聞夕刊の「マンガアンデパンダン」選者、日本漫画家協会関西支部所属。 1918年11月23日、岐阜県大垣市生まれ。すぐ大阪府高槻市に移住。 1937年、都島工業学校建築科卒業後、大阪の建築事務所で働きはじめる。一時的に大映京都撮影所で助監督を務めるが、建築事務所に復帰。 1945年、勤めていた建築事務所が解散。漫画を描きはじめ、大阪新聞社の雑誌『漫画日本』や『読物と漫画』(『大阪パック』改題)で作品を発表。
上田 トシコ(うえだ としこ、1917年8月14日 - 20… 上田 トシコ(うえだ としこ、1917年8月14日 - 2008年3月7日)は、日本の漫画家。東京市生まれ、旧満州ハルピン出身、頌栄高等女学校(現 頌栄女子学院)卒業。本名・上田俊子。 少女漫画の黎明期に活躍した女性漫画家の一人であり、代表作にハルピンを舞台にした『フイチンさん』などがある。少女誌執筆の頃は上田としこ、新聞の執筆の頃は上田とし子、その後に上田トシコ、と3度ペンネームを変えている。 東京市麻布区笄町(現在の東京都港区西麻布から南青山)に生まれる。父・熊生は南満州鉄道(満鉄)の職員だった。生後40日で満州ハルビンで銀行に勤めていた父のもとへ渡り、幼年期を同地のロシア人街で過ごす。父は妾宅から本宅に通うような生活だった。
赤川 童太(あかがわ どうた、1917年 - 1988年)は… 赤川 童太(あかがわ どうた、1917年 - 1988年)は、日本の漫画家。函館市出身。 帝国美術学校図案科を卒業したのち、サラリーマン、兵役を経て漫画家となる。1947年(昭和22年)11月に結成された漫画家の集団である独立漫画派に参加し、1953年(昭和28年)ごろには白鷗社の『笑の泉』で作品を執筆した。「KAPPA」というサインを使用し、一枚絵や短編漫画を手掛けた。 特にサイレント漫画の名手とされ、吉行淳之介は赤川のマンガを高く評価していた。1962年(昭和37年)10月に目黒にてイワタ・タケオ、坂口たけしと共に創作集団「ちゃり」を結成。1988年(昭和63年)、死去。 もりたなるおは赤川について、天才漫画家であったが、その作品は高い知性を持つ者でなければ理解できないものであったがためにその愛好者はごく限られたものだったとしている。
西川 辰美(にしかわ たつみ、本名同じ、1916年(大正5年… 西川 辰美(にしかわ たつみ、本名同じ、1916年(大正5年)6月30日 - 1971年(昭和46年)3月7日)は、日本の昭和期に活動した漫画家。東京府東京市南葛飾郡(現・東京都葛飾区)出身。
石田 英助(いしだ えいすけ、1914年8月30日 - 20… 石田 英助(いしだ えいすけ、1914年8月30日 - 2010年12月5日[要出典])は、日本の漫画家、イラストレーター。男性。東京都板橋区出身。ABO式血液型はA型。熊岡美彦画塾卒業。1932年にデビュー。出版美術家連盟理事。[要出典] 1957年、『おやまのかばちゃん』と『こぞうのぼんちゃん』の2作品が第2回小学館漫画賞を受賞。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
倉金 章介(くらかね しょうすけ、本名:倉金 虎雄〈くらかね… 倉金 章介(くらかね しょうすけ、本名:倉金 虎雄〈くらかね とらお〉、1914年2月13日 - 1973年8月25日)は、日本の漫画家、出版美術家連盟会員。『あんみつ姫』の作者として知られる。 倉金 とらを、倉金 良行(くらかね よしゆき)の筆名で活動していたこともある。 1914年(大正3年)2月13日、山梨県甲府市で料理屋の四男として生まれる。 甲府市立甲府商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)に在学中から、『少年倶楽部』や『少女倶楽部』などの雑誌に作品を投稿。 卒業後、料理屋の仕事を継ぐのがどうしても嫌だった倉金は、家族に告げずに、雑誌に掲載された作品や写真、履歴書を同封した弟子志望の手紙を尊敬する田河水泡に送る。
和田 義三(わだ よしぞう、1913年1月17日 - 199… 和田 義三(わだ よしぞう、1913年1月17日 - 1990年11月8日)は日本の漫画家。東京府出身。 1936年、東京美術学校工芸科図案部卒業。戦前には横山隆一主宰の「漫画集団」に参加、スケッチ入りの紀行文などを執筆していた。1943年には横山、近藤日出造、横井福次郎、那須良輔らとともに田村町に『漫画』同人用の宿舎を借りて暮らした。 第二次大戦終戦後の1945年8月、復刊された『漫画』に作品を寄稿する。1946年鈴木郁三によって創刊された漫画紙『子供マンガ新聞』に初代編集長として1952年まで連載を持ち、「ほらふき千一夜」「勇ましいキック君」などを掲載。1948年には映画『ターザンの黄金』から始まる一連のターザンブームに乗じて『少年ターザン』を子供マンガ新聞社より出版。
岡田 晟(おかだ あきら、1913年 - 没年不詳)は、日本… 岡田 晟(おかだ あきら、1913年 - 没年不詳)は、日本の漫画家。主に絵本・漫画・挿絵を専門とし、戦後は漫画、紙芝居作家から貸本漫画の表紙絵を担当。つげ義春の『白面夜叉』『涙の仇討』『愛の調べ』の表紙は岡田の手によるもの。山梨県甲府市出身。つげ義春の「義男の青春」の「田山先生」のモデルとして知られる。昭和初期のモダニズムの影響を強く受けた生活ぶりであった。
清水 崑(しみず こん、1912年〈大正元年〉9月22日 -… 清水 崑(しみず こん、1912年〈大正元年〉9月22日 - 1974年〈昭和49年〉3月27日)は、日本の漫画家。長崎県長崎市出身。本名は清水 幸雄(しみず ゆきお)。 長崎県長崎市銭座町(現在の天神町)出身。旧制長崎市立商業高校(現在の長崎市立長崎商業高等学校)を卒業後上京、似顔絵描きをしながら絵の修行をする。その後横山隆一・近藤日出造らの新漫画派集団(のちの漫画集団)に参加、1935年、新青年に『東京千一夜物語』を連載。同作はヒットし、内田吐夢監督によって映画化された。 戦後、「新夕刊」の政治漫画を担当したのち、朝日新聞社の嘱託となる。時の吉田茂首相の風刺画で人気を博し、サンフランシスコ講和会議には全権団の取材に派遣され、連日文章つきで漫画の見聞録を送る。
秋 玲二(あき れいじ、1910年(明治43年)11月1日 … 秋 玲二(あき れいじ、1910年(明治43年)11月1日 - 2006年(平成18年)2月24日)は、日本の漫画家、画家。佐賀県唐津市出身。本名古川 善男(ふるかわ よしお)。 生涯、数多くの学習漫画を手がけた。主な作品に『よっちゃんの勉強漫画』『クラブくんの冒険』など。日本漫画家協会名誉会員。また、石川滋彦の弟子として洋画家としても知られる。 1910年、佐賀県唐津市にて生誕。 1930年、東京市教員講習所養成科を卒業し、1946年まで東京の小学校の教員を務めていた。 1933年頃から漫画を描き始め、1939年4月から『東日小学生新聞』にて『よっちゃんの勉強漫画』の連載を開始し2000年に終了するまで60年以上連載されていた。
横山 隆一(よこやま りゅういち、1909年5月17日 - … 横山 隆一(よこやま りゅういち、1909年5月17日 - 2001年11月8日)は、日本の漫画家・アニメーション作家。高知県高知市出身。 政治風刺漫画が主流だった1930年代日本の漫画界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成し、やがて戦中・戦後初期の漫画界をリードした。戦後にはアニメーション制作会社「おとぎプロダクション」を設立したほか、広告・絵本のイラストレーションや、油彩画を描いた。 高知市堺町に生まれる。公式の誕生日(戸籍上の生年月日)は5月17日であるが、横山自身は母から、名付けの遅れのために届け出が遅れ、本当の生まれた日付は5月10日であったことを伝え聞いているという。
杉 柾夫(すぎ まさお、1909年4月24日- 1975年1… 杉 柾夫(すぎ まさお、1909年4月24日- 1975年1月11日)は、日本の漫画家、政治家。本名:杉浦 茂。 1909年、京都市左京区に生まれる。桃山中学校を卒業。1908年生まれの同姓同名の漫画家杉浦茂は同い年である。杉が上京して漫画家として活動する前から、杉浦は田河水泡門下で漫画家デビューし少年少女向けで活動していた。杉は杉浦と相談した結果、「杉柾夫」のペンネームを用いて漫画家活動を開始することにした。杉は子供向け漫画の杉浦とジャンルを住み分けるために、政治漫画や左翼系の風刺漫画の執筆を中心に活動し、また朝日や読売等の新聞にも風刺漫画を連載した。1931年にはプロレタリア美術家同盟(ヤップ)に加入し、その後はヤップの後身である日本プロレタリア文化連盟(コップ)で活動した。
杉浦 茂(すぎうら しげる、1908年4月3日 - 2000… 杉浦 茂(すぎうら しげる、1908年4月3日 - 2000年4月23日)は、日本の漫画家である。東京府東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区湯島2丁目)生まれ。戦前はユーモア漫画や教育漫画を多く描いたが、戦後に手掛けた多くの独特でナンセンスなギャグ漫画は熱狂的な人気を呼び、88歳まで執筆活動を続けた。初期の筆名に杉浦シゲルがある。 杉浦の創作活動は3期に分けられる。戦前の第1期ではユーモア漫画や教育漫画を、徴兵を挟んで終戦の翌年からの第2期では、一転してナンセンスな子供向け漫画を多く手掛けた。この時期のうち、1953年から1958年までは、その殺人的な仕事量と、多くの代表作が生み出されたことから「杉浦茂の黄金期」とされ、「奇跡の5年間」とも表される。
近藤 日出造(こんどう ひでぞう、1908年2月15日 - … 近藤 日出造(こんどう ひでぞう、1908年2月15日 - 1979年3月23日)は、日本の漫画家。本名は近藤 秀蔵。長野県更級郡稲荷山町出身(読みは同じ)。 戦中から昭和後期にかけて政治家の似顔絵を主とする1コマの政治風刺漫画を中心に描いた。似顔絵は、手塚治虫が「似顔絵の名手」と評する腕前だった。 近藤が各所に文章として残した略歴は誇張や創作が加わっているらしく、書いた時期や媒体によって内容がまちまちであり、特に少年期の就職についての詳しい時期や順序は不明であるが、峯島正行の調査などにより、少なくとも以下のことが判明している。 近藤は1908年(明治41年)、長野県更級郡稲荷山町(のちの千曲市稲荷山)で生まれた。
大城 のぼる(おおしろ のぼる、1905年10月25日 - … 大城 のぼる(おおしろ のぼる、1905年10月25日 - 1998年5月26日)は、日本の昭和・平成期の漫画家、イラストレーター。本名:栗本 六郎(くりもと ろくろう)。代表作である『火星探険』は日本におけるSF漫画の先駆として、大きな影響を与えた。 東京府東京市芝区(現在の東京都港区)白金出身。職業を転々としたが、講談社『少年倶楽部』への投稿をきっかけに1931年(昭和6年)『学年別童話漫画』(元文社)で漫画家デビュー。1933年(昭和8年)から、中村書店より『愉快な探険隊』、『チン太二等兵』、『愉快な鉄工所』など多くの作品を発表。1940年(昭和15年)発表の『火星探険』(旭太郎〈小熊秀雄のペンネーム〉原作)は手塚治虫、小松左京、松本零士、筒井康隆らに影響を与えたSF漫画の先駆的作品とされる。
須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 -… 須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 - 1975年4月17日)は、漫画家、洋画家、美術評論家、漫画評論家、社会運動家。昭和初期のプロレタリア美術運動に参加。生前、日本における漫画評論の第一人者として知られた。生前は一水会、草炎会および日本美術会会員。別名義は宇野圭。 明治38年(1905年)、長野県下伊那郡鼎村(鼎町を経て、現・飯田市)に生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、昭和5年(1930年)、東京美術学校西洋画科卒業。『文章倶楽部』(新潮社)、『戦旗』(戦旗社)などに漫画を執筆。『無産者新聞』に漫画「アジ太プロ吉」を連載。 昭和6年、日本プロレタリア美術家同盟の中央委員および書記長に就任。
小野 佐世男(おの させお、1905年2月6日 - 1954… 小野 佐世男(おの させお、1905年2月6日 - 1954年2月1日)は、日本の漫画家、画家、随筆家、小説家。神奈川県横浜市出身。漫画評論家の小野耕世は長男。 1905年(明治38年)2月6日、父・小野鉄吉、母・銀子の長男として横浜に生まれる。名前の佐世男は当時日本最西端の駅であった佐世保駅に由来する。なお鉄吉は和歌山の建設会社西本組の社員で、鉄道施設の仕事を請け負う建築家であった。1910年(明治43年)、鉄吉が西本組東京事務所所長となり、東京赤坂に移る。1912年(明治45年・大正元年)、檜町小学校(現港区立赤坂小学校)に入学。フランス映画『ジゴマ』に夢中になり、小学校2、3年生の頃には六本木にあった活動小屋に通うなど映画ファンとなる。
小熊 秀雄(おぐま ひでお、1901年9月9日 - 1940… 小熊 秀雄(おぐま ひでお、1901年9月9日 - 1940年11月20日)は、日本の詩人、小説家、漫画原作者、画家である。筆名に、小熊 愁吉(おぐま しゅうきち)、黒珊瑚(くろさんご)、旭 太郎(あさひ たろう)などがある。 1901年(明治34年)9月9日、北海道小樽市稲穂町に生まれる。幼少期を稚内市・秋田・樺太で過ごし、泊居高等小学校を卒業。養鶏場の番人など様々な雑務作業に従事した後、1922年より旭川新聞社で新聞記者となる。この頃から詩作を始め、1923年、旭川新聞に最初の詩作『奪われた魂』などが掲載される。この頃よりペンネームを小熊愁吉(おぐま しゅうきち)や黒珊瑚(くろ さんご)の筆名を使用し、作品や取材記事を書いた。
田河 水泡(たがわ すいほう、1899年〈明治32年〉2月1… 田河 水泡(たがわ すいほう、1899年〈明治32年〉2月10日 - 1989年〈平成元年〉12月12日)は、日本の漫画家、落語作家。本名︰高見澤 仲太郎(たかみざわ なかたろう)。 昭和初期の子供漫画を代表する漫画家であり、代表作『のらくろ』ではキャラクター人気が大人社会にも波及し、戦後もさまざまなキャラクターグッズが作られるなど、社会現象となるほどの人気を獲得した。 東京府東京市本所区本所林町(現・東京都墨田区立川)の生まれ。出生直後に母親が亡くなり、父親が再婚するために、仲太郎は子供のいなかった伯父夫婦の元で育てられる。中国画や庭いじりを愛好していた伯父の影響で、仲太郎も絵筆を取るようになる。
麻生 豊(あそう ゆたか、1898年(明治31年)8月9日 … 麻生 豊(あそう ゆたか、1898年(明治31年)8月9日 - 1961年(昭和36年)9月12日)は日本の漫画家。本名は麻生 豊(あそう みのる)。 大分県宇佐郡横山村(のちの宇佐市)出身(同郡麻生村、あるいは大野郡三重村=のちの豊後大野市とする資料もある)。絵を描くことに加えて機械いじりが好きだったため、高等小学校卒業後に上京し、築地工手学校(のちの工学院大学)機械科へ進学。卒業後はパイロットを志願して千葉県の津田沼にある専門の学校に進学を決めるが、練習機の事故を目前にしたことで恐怖を覚えて夢を諦め(病気のために一時帰郷したとする資料もある)、東京の本郷にあった美術研究所で洋画を学ぶ。 1920年(大正9年)、北澤楽天が主宰する漫画家養成塾「漫画好楽会」に入会。
海野 十三(うんの じゅうざ)、1897年(明治30年)12… 海野 十三(うんの じゅうざ)、1897年(明治30年)12月26日 - 1949年(昭和24年)5月17日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家、漫画家、科学解説家。「日本SFの始祖の一人」と呼ばれる。本名は佐野 昌一(さの しょういち)。 徳島市徳島本町に生まれ、幼少期は安宅町の祖父の家で育つ。徳島市立福島小学校3年生の時、神戸に移住。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)を卒業後、早稲田大学理工科で電気工学を専攻。逓信省電務局電気試験所に勤務しながら、機関紙などに短編探偵小説を発表。 1928年(昭和3年)、雑誌『新青年』から依頼を受け、探偵小説「電気風呂の怪死事件」を発表して本格的文壇デビュー。
阪本 牙城(さかもと がじょう、1895年12月1日 - 1… 阪本 牙城(さかもと がじょう、1895年12月1日 - 1973年8月8日)は、日本の漫画家、水墨画家。本名・坂本雅城(さかもと まさき)。水墨画家としては阪本雅城を用いる。 東京府西多摩郡五日市町(現東京都あきる野市)に生まれる。五日市小学校五年生のとき、同校の校章をデザインしたことにより、これは現在でも使われている。東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)卒業後日本画家を志すが、生活できず岡本一平のすすめで漫画を描き始める。勤務していた中外商業新報(現日本経済新聞)や夕刊大阪新聞(現産経新聞)の家庭面に4コマ漫画を連載したが、思い切り奇想天外な作品を試したいと思い立ち、鉄の玉の中に人が入っている作品を「幼年倶楽部」編集部へ持ち込んだ。
謝花 凡太郎(しゃばな ぼんたろう、1891年(明治24年)… 謝花 凡太郎(しゃばな ぼんたろう、1891年(明治24年) - 1963年(昭和38年))は日本の漫画家。児童文化史に大きな影響を与えた中村書店の人気作家として活躍した。苗字の読み方は「しゃか」だという説もある。 本名は殿木真三。東京都の日本橋出身。慶應義塾大学卒業後はサラリーマンを経て会社を起こすが、特定の職に就くことはなかった。40代以降に漫画を描き出し、1933年(昭和8年)に『びっくり突進隊』で中村書店からデビューする。戦後も『漫画少年』で数々の作品を発表した。 1940年(昭和15年)頃からは、漫画執筆とは別に中学校で書道を教えるようになり、戦後も漫画執筆と並行して行い、亡くなるまで従事した。
池田 永治(いけだ えいじ、1889年10月15日 - 19… 池田 永治(いけだ えいじ、1889年10月15日 - 1950年12月30日)は、日本の漫画家、洋画家、挿絵画家、俳画家。京都府出身。大正期から昭和20年代にかけて活躍した。 1889年、京都市木屋町生まれ、大阪育ち。 本名は池田永治。1928年以降は(妹繁子の死を悲しみ)池田永一治(読みはエイジのまま)と称した。他の画名に永一路、牛、牛歩、田牛(たのもう)などで、これらは丑年うまれにちなむ。 父直次郎の木版印刷業を継がずに上京して、太平洋美術学校を卒業、同校教授となる。珊瑚会に加わり、太平洋画会を中心に活動し、1910年第4回文展褒状「牧場」から1946年日展入選「鳥渡る」まで、日展(帝展、文展)関係の褒状2回、招待2回、無鑑査4回、入選16回に及び、風景画を得意とした。