吾妻 兼治郎(あづま けんじろう、1926年3月12日 - … 吾妻 兼治郎(あづま けんじろう、1926年3月12日 - 2016年10月14日もしくは10月15日)は、イタリア在住の日本人の彫刻家。ミラノに在住し、抽象作家として国際的にも高い評価を受ける。作品に『MU(無)』『YU(有)』『慈悲心の美徳』など。彫刻表面に腐食で出来たようなくぼみをあしらう作品に特徴がある。山形市生まれ。 鋳物屋の7人兄弟の二男。夜間中学中退後に予科練志願入隊、神風特攻隊になるが、終戦になり山形に復員、中学復学卒業後、東京芸術大学入学、東京芸大卒。芸大副手を休職し、1956年に山形で初の個展を開催し、イタリアに留学、ブレラ美術学校でマリノ・マリーニに師事(その後休職期間経過後もイタリアに残るために芸大退職)。
長江 録弥(ながえ ろくや、1926年1月2日 - 2005… 長江 録弥(ながえ ろくや、1926年1月2日 - 2005年4月6日)は、日本の彫刻家。日本芸術院会員。 愛知県瀬戸市出身。1948年、多摩造形芸術専門学校(現 多摩美術大学)卒業。1964年、第7回日展に「芽」を出品して特選。1965年、第8回日展に「乾漆作品の一」を無鑑査出品して特選。1966年、第9回日展に「憩」を委嘱出品して菊華賞。1980年、日展評議員に就任。1986年、第18回日展に「思考」を出品して文部大臣賞。1991年、第22回日展に出品した「砂丘」で日本芸術院賞受賞。1995年、日本芸術院会員。1996年、日展常務理事。1998年、瀬戸市名誉市民、日本彫刻会理事。1999年、紺綬褒章受章。
水井 康雄(みずい やすお、1925年(大正14年)5月30… 水井 康雄(みずい やすお、1925年(大正14年)5月30日 - 2008年(平成20年)9月3日)は、パリを拠点とし国際的に活躍した、日本の石の彫刻家。主に、抽象的な形を志向し、公共の場に設置される大規模な作品を得意とした。 京都市に生まれる。父親は、当時外車を所有し運転するハイカラな人物であった。幼少の時から絵が好きでデッサン等に秀でていたが、当時時代の最先端であった機械工業に日本の未来を夢みて1944年(昭和19年)神戸工業専門学校(現・神戸大学工学部)機械学科に入学する。第二次世界大戦中は、川崎車両(現川崎重工業車両カンパニー)に学徒動員され鋳造を學ぶ。戦後を明石の川崎航空動員中に迎えた。
多田 美波(ただ みなみ、1924年7月11日 - 2014… 多田 美波(ただ みなみ、1924年7月11日 - 2014年3月20日)は、日本の彫刻家。 台湾高雄市生まれ。1944年女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科西洋画部卒業。1958年二科展入選、1960年二科展特選。1962年に多田美波研究所を設立し代表に就任。 光の反射を用いた抽象的立体造形作品を制作。アルミニウムを叩き、シワをつけ半球状型に造形した「周波数」シリーズは代表作。昭和期・平成期を代表する立体造形作家である。 皇居新宮殿、帝国ホテル、リーガロイヤルホテル、在米日本国大使公邸(ワシントンD.C.)、外務省飯倉別館(公館)、河内長野市庁舎、などの室内・構内装飾や、壁面作品(レリーフ)を数多く手掛けた他、立体造形作品を制作した。
飯田 善國(いいだ よしくに、1923年7月10日 - 20… 飯田 善國(いいだ よしくに、1923年7月10日 - 2006年4月19日)は、日本の彫刻家、現代美術家、詩人。 栃木県足利市生まれ。旧制館林中学卒。慶應義塾大学在学中に徴兵され中国を転戦した。帰国後慶應に復学した後、かねてからの希望だった画家を志して東京藝術大学に入学、梅原龍三郎らの教えを受け1953年に卒業した。その後は、池田龍雄らと制作者懇談会を結成し、芸術論の交換をしながら、戦争体験でばらばらになった世界観や自己への懐疑を再構築すべく、表現主義的な絵画で彼なりのリアリズムを築き上げようとした。 1956年からのローマ留学の間、彫刻のコースで学び、さらにヴォルスの絵画やヘンリー・ムーアの抽象彫刻に衝撃を受けてそれまで描いてきた「リアル」に対する概念をゆすぶられた彼は、より外に開かれた、実感に近いものを求めて彫刻制作に転じ、ウィーンやベルリンなど主に欧州で活躍し、木や石を素材に各地の展覧会に出展した。
飯田 善国(いいだ よしくに、1923年7月10日 - 20… 飯田 善国(いいだ よしくに、1923年7月10日 - 2006年4月19日)は、日本の彫刻家、現代美術家、詩人。
松岡 阜(まつおか ゆたか、1923年2月12日 - 200… 松岡 阜(まつおか ゆたか、1923年2月12日 - 2008年5月9日)は日本の彫刻家。大阪府出身。 東京美術学校彫刻科を卒業。平櫛田中に師事し、写実的な作風を受け継いだ。 1955年、行動美術協会に入会。1956年、行動美術賞を受賞した。 代表作は、阪神甲子園球場敷地内に建つ「野球王ベーブ・ルースの碑」レリーフ(ブロンズ製・縦90cm・横90cm)。プロ野球選手ベーブ・ルースが他界した翌年の1949年、同球場が彼の来場した史実を記念して松岡に依頼し制作された。なお2005年、ルースの生誕地であるアメリカ合衆国メリーランド州ボルチモアに「総合スポーツ記念館」が開館し、ルースの生家にある記念館が移設された際、阪神球団は松岡が保管していたオリジナルより作成されたレプリカを同記念館に寄贈している。
安藤 士(あんどう たけし、1923年〈大正12年〉 - 2… 安藤 士(あんどう たけし、1923年〈大正12年〉 - 2019年〈平成31年〉1月13日)は、日本の彫刻家である。現代工房代表取締役社長。父は彫刻家の安藤照である。 東京・渋谷に現存する「忠犬ハチ公像」(2代目)の製作者として知られる。
清水九兵衛(きよみず きゅうべえ、旧字体: 淸水 九兵衞、1… 清水九兵衛(きよみず きゅうべえ、旧字体: 淸水 九兵衞、1922年5月15日 - 2006年7月21日)は彫刻家、陶芸家。日本における抽象彫刻の第一人者である一方、京焼の名家として知られる清水六兵衞(七代)を襲名していた。名は広、旧姓は塚本。 愛知県大久手町(現・名古屋市千種区大久手町)に生まれ、愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)へ進学。第二次世界大戦開戦直後に名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)で建築を学び、主にイタリアのファシスト政権下で存続していたモダニズム建築に興味を持った。沖縄戦から生還し、戦後は東京藝術大学美術学部鋳金科で彫刻を学んだ。在学中に京都の清水焼の名跡、六代清水六兵衛の養子となり陶芸をはじめた。
金子 篤司(かねこ あつし、1922年- 2002年)は、日… 金子 篤司(かねこ あつし、1922年- 2002年)は、日本の彫刻家。 1922年(大正11年)、山口県下関市に生まれる。神奈川一中(現県立希望ヶ丘高校)卒業後、日本刀鍛錬伝習所に入門。修業途中で兵役に召集されたが、兄弟子の人間国宝宮入行平とは、終生の交流を持ち続けた。 1949年、東京芸術大学美術学部木彫科入学。平櫛田中に師事。1953年同卒業。主に日展、日彫展などで活躍した。日展初入選以後、15回入選。日展会友。日彫展会員。1965年女子美術大学講師(以後18年間)。 1982年横浜美術協会会長。横浜美術協会理事・相談役。2002年、神奈川県相模原市にて心不全のため死去。(「ART MIND 2006秋季号」P.1」 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
高橋 剛(たかはし ごう、本名の読み:たかはし たけし、19… 高橋 剛(たかはし ごう、本名の読み:たかはし たけし、1921年(大正10年)8月31日 - 1991年(平成3年)9月5日)は日本の彫刻家。山形県酒田市出身。 バレリーナをモチーフとした彫刻で知られ、昭和30年代(1955年 - 1964年)中頃まで木彫を中心に制作したが後に塑像へ転向した。 1921年(大正10年)8月31日、神社仏閣の木彫を生業とする生家に生まれる。祖父は宮彫師、父は日本美術院所属の仏教彫刻家。父に師事し木彫を始める。 1940年(昭和15年)上京、翌1941年(昭和16年)東京美術学校入学、関野聖雲に師事。1946年(昭和21年)東京美術学校(現東京芸術大学)卒業。 1947年(昭和22年)、第3回日展に初入選。
坂 坦道(さか たんどう、1920年(大正9年)11月6日 … 坂 坦道(さか たんどう、1920年(大正9年)11月6日 - 1998年(平成10年))は、日本の彫刻家。本名は青嵐(せいらん)。 北海道女子短期大学名誉教授。 1920年(大正9年)11月6日、石川県珠洲郡内浦町恋路で生まれた。父は油彩画家の坂寛二、祖父は日本画家の坂靄舟という画家一家で、坦道も当初は画家を目指した。しかし、色覚異常であったため彫刻の道に進んだ。1930年(昭和5年)小学校3年の時に父の死亡により、母とともに北海道札幌市に移住した。1938年(昭和13年)北海中学校(現在の北海高等学校)卒業。1939年(昭和14年)東京美術学校彫刻科に入学、在学中の1943年(昭和18年)新文展(のちの日展)に初入選した。
建畠 覚造(たてはた かくぞう、1919年4月22日 - 2… 建畠 覚造(たてはた かくぞう、1919年4月22日 - 2006年2月16日)は日本の彫刻家。第二次世界大戦後の日本で抽象彫刻制作を推し進めた第一人者であった。 1919年東京生まれ。彫刻家・建畠大夢の長男で、1941年に東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科を卒業。同年、第4回新文展には「黙」を出品して特選を受賞するなど若い時期から期待された。将来の留学に備えてアテネフランスでフランス語を習っていたことから、昭和19年(1944年)に、仏領インドシナのサイゴン日本文化会館の派遣職員に任命され、新妻とともに赴任、敗戦後現地で4か月の抑留生活ののち、1946年に帰国した。 彼は彫刻を構成する実体とそれをとりかこむ何もない空間との関係に関心を持ち、アカデミックな具象彫刻から前衛的な抽象彫刻へ移行していった。
佐藤 助雄(さとう すけお、1919年(大正8年)4月22日… 佐藤 助雄(さとう すけお、1919年(大正8年)4月22日 - 1987年(昭和62年)10月19日)は、日本の彫刻家。山形県山形市出身。 初め木彫り彫刻を志し、後にブロンズ像に転向した。おおらかで詩的な人物像を得意とした。 長男は日本画家の佐藤良助。次男は彫刻家で長崎大学名誉教授の佐藤敬助。 1919年(大正8年)4月22日、仏師の父親の息子として山形県山形市に生まれる。父に木彫りを学んだ後、1936年(昭和11年)上京し木彫り彫刻家後藤良の内弟子となる。 1939年(昭和14年)、日本美術協会展出品作「ことり」が銅賞受賞。1941年(昭和16年)、第4回新文展出品作「後庭菜果」が初入選。1943年(昭和18年)、第6回新文展で「従軍看護婦」が特選受賞、政府買い上げ。
立川 義明(たてかわ よしあき、1918年11月3日 - 2… 立川 義明(たてかわ よしあき、1918年11月3日 - 2017年2月)は、日本の彫刻家。 長野県諏訪市出身。宮大工立川和四郎の末裔で、父は立川義清。彫刻師だった祖母や父の影響で彫刻家を志す。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科卒業。藤井浩佑に師事。日展や日彫展を中心に数多くの作品を発表した。1978年第一回日展会員賞受賞。日展審査員、日展評議員、日展参与などを務めた。東京都荒川区西日暮里に在住し、アトリエを構えていた(藤井浩佑の屋敷跡)。
堤 達男(つつみ たつお、1918年〈大正7年〉10月18日… 堤 達男(つつみ たつお、1918年〈大正7年〉10月18日 - 1988年〈昭和63年〉)は、日本の彫刻家、教育者。 構造社会友、静岡県立松崎高等学校講師、鳩巣会会長(初代)、社団法人日展会員などを歴任した。 静岡県出身の彫刻家である。日本美術展覧会での特選を機に評価を確立し、伊豆半島で制作に勤しんだ。また、高等学校にて教鞭を執り、後進の育成にも務めた。彫刻家集団である「鳩巣会」では会長に推戴された。 1918年(大正7年)10月18日、静岡県賀茂郡仁科村に生まれた。幼い頃より美術に関心を持ち、彫刻家になることを志した。静岡県立豆陽中学校を経て、1936年(昭和11年)に東京美術学校に進学、彫刻科で学んだ。
伊藤 五百亀(いとう いおき、男性、1918年5月11日 -… 伊藤 五百亀(いとう いおき、男性、1918年5月11日 - 1992年3月4日)は、日本の彫刻家。1974年に『うたかたの譜』で文部大臣賞、1982年に『渚』で日本芸術院賞を受賞している。 1918年、愛媛県新居郡大保木村(現、西条市黒瀬)にて出生。17歳の時、雑誌に掲載されていた帝展(現、日展)作品の彫刻を見て感動、彫刻家を志し、上京して多摩帝国美術学校に入学。中途退学するも、その後も吉田三郎に師事し、本格的な創作活動を行った。 1942年、第5回文部省美術展覧会に出品した「立像」が入選、翌年の文部省美術展では「鍬の戦士」が特選となる。 終戦後、五百亀は帰郷し、彫刻活動を断念した。しかし、当時の大保木村村長・伊藤一らが後援会を組織し、五百亀を励ました。
浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年… 浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年(大正6年)12月23日 - 2018年(平成30年)7月17日)は、日本の版画家・彫刻家。日本の版画家が国際的に注目されはじめたのは1950年代からであるが、浜田も棟方志功、浜口陽三、駒井哲郎らと並び、第二次大戦後の日本を代表する版画家の一人に数えられる。 1917年(大正6年)、熊本県上益城郡高木村(現・御船町)生まれ。教育者の次男である。旧制御船中学校(現在の熊本県立御船高等学校)では、東京美術学校を卒業後すぐに美術教師として赴任していた富田至誠に指導を受ける。16歳の時には飛び級で東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科に入学し、洋画家藤島武二の指導を受けた。
日下寛治(くさか かんじ、1917年(大正6年)3月26日 … 日下寛治(くさか かんじ、1917年(大正6年)3月26日 - 2006年(平成18年)2月28日)は、日本の彫刻家。1933年(昭和8年)の日展初入選を皮切りに日彫賞など数多くの賞を受賞。日本美術家連盟会員、日本彫刻倶楽部会員、日本彫刻会会員として文展4回、日展22回の入選を重ね、日展無鑑査彫刻家として多くの作品を残した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
井手 則雄(いで のりお、1916年8月25日 - 1986… 井手 則雄(いで のりお、1916年8月25日 - 1986年1月3日)は、日本の彫刻家、美術評論家、詩人。別名は矢野 則雄。 朝鮮京城府生まれ、長崎県北松浦郡佐々村出身。1939年東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科卒業、1941年研究科修了。 在学中から二科展などに出品、1943年銀座で個展を開く。戦後、前衛美術会を結成。1972年12月宮城教育大学教授。1981年退官。『純粋詩』『造型文学』『新日本詩人』『列島』などに詩や評論を発表。 1986年1月3日、福島県双葉郡富岡町の小浜海岸を散歩中に転倒して、怪我によって起きられなくなったまま凍死した。墓所は多磨霊園。 元妻は、女性史研究家の井手文子。
晝間 弘(ひるま ひろし、1916年3月5日 - 1984年… 晝間 弘(ひるま ひろし、1916年3月5日 - 1984年10月6日)は、彫刻家、日本芸術院会員。
坂東 文夫(ばんどう ふみお、1915年(大正4年)9月28… 坂東 文夫(ばんどう ふみお、1915年(大正4年)9月28日 - 2006年(平成18年)5月2日)は、日本の彫刻家。元徳島大学教授。徳島県鳴門市出身。東京美術学校彫刻科(現在の東京藝術大学)卒業。 東京美術学校彫刻科(現在の東京藝術大学)卒業。徳島大学教授を歴任。徳島県の彫刻に大きな発展を貢献したとされ、1985年(昭和60年)に徳島県文化賞を受賞。 2006年(平成18年)5月2日に急性心不全のため徳島市の病院で死去。享年90。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 20… 木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 2004年11月7日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、映画美術家、劇作家、演出家、俳優、彫刻家。本名は木俣 三郎(きまた さぶろう)、舞台俳優・映画美術家としては衣 恭介(ころも きょうすけ)、時代劇俳優としては木南 兵介(きなみ へいすけ)、現代劇俳優として鬼塚 大吉(おにつか だいきち)等、多くの別名をもつ。プロダクション鷹・日東テレビ映画の創業者・元代表取締役、ムービーブラザースの共同代表を歴任した。高見順の短篇小説『大部屋の友』の主人公モデル、あるいは世田谷区・豪徳寺の「無名戦士慰霊記念碑」のレリーフ彫刻を手がけた彫塑作家としても知られる。
尾澤 千春(おざわ ちはる、1915年3月4日 - 2004… 尾澤 千春(おざわ ちはる、1915年3月4日 - 2004年)は、日本の工芸家、彫刻家。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、尾沢 千春(おざわ ちはる)とも表記される。 長野県農民美術連合会会長などを歴任した。 長野県小県郡神川村(現上田市)生まれの工芸家である。初代中村實の下で学び、主に木彫などを手掛けていた。長野県の「農民美術運動」の第一人者として知られている。長野県農民美術連合会の会長など要職を歴任した。また、後継者や愛好者の育成にも力を注ぎ、木彫の流行に対しても影響を与えた。 神川実業補習学校卒業。初代中村實に弟子入りし、木彫など工芸を学んだ。尾澤を指導した中村は、「農民美術運動」を提唱した版画家の山本鼎に共感し、山本の主宰する農民美術講習会に第1期生として馳せ参じ、山本の一番弟子となった。
山本 恪二(やまもと かくじ、1915年(大正4年)2月18… 山本 恪二(やまもと かくじ、1915年(大正4年)2月18日 - 2000年(平成12年)3月5日)は、昭和から平成期前半の彫刻家。京都市立美術大学名誉教授。 滋賀県生まれ。旧制中学2年の時にギリシャ彫刻の写真を見て、彫刻家になることを志したと言われる。1933年、東京美術学校彫刻科彫塑部に入学した。 1940年、第5回新制作派展に初入選するが、戦争に徴用される。戦後実家に戻り1947年から1949年まで京都市立美術専門学校(京都市立芸術大学の前身)、1950年から1980年まで京都市立美術大学・京都市立芸術大学、その後は大手前大学・神戸山手女子短期大学芸術科で彫刻の指導を行った。なお、この間1958年から1960年までパリに留学(パリ・エコール・デ・ボザール)しマルセル・ジモンとユーベル・ヤンセンに就いて学んだ。
北村 治禧(きたむら はるよし、1915年1月1日 - 20… 北村 治禧(きたむら はるよし、1915年1月1日 - 2001年8月21日)は、日本の彫刻家、日本芸術院会員。長崎県出身。父は北村西望、妻路子(大正12年生まれ)は柿原万蔵(秩父鉄道社長)の二女。 父西望は曠原社を率いると、1922年(大正11年)、西ケ原に彫刻研究所を開いた。1953年(昭和28年)に父が当時の滝野川区から東京都武蔵野市にアトリエと住まいを移すと、北村治禧がひとりで創作を続け、1983年(昭和58年)に建て替えた。東京都北区は治禧の没後、2002年にアトリエを受贈し、寄託された作品とともに「(仮称)彫刻アトリエ館」として定期的に公開している。 主な執筆者、編者の順。
小金丸 幾久(こがねまる いくひさ、大正4年(1915年) … 小金丸 幾久(こがねまる いくひさ、大正4年(1915年) - 平成15年(2003年)3月6日)は、長崎県壱岐郡武生水村(現・壱岐市)出身の彫刻家、太平洋美術学校教授、東京大学建築学科講師。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
桜井 祐一(さくらい ゆういち、1914年(大正3年)8月2… 桜井 祐一(さくらい ゆういち、1914年(大正3年)8月24日 - 1981年(昭和56年)11月4日)は、日本の彫刻家である。 山形県米沢市に生まれる。1924年に家族と共に東京へ移住。1932年(昭和7年)に平櫛田中から彫刻を学び、翌1933年(昭和8年)には自身の作品が日本美術会主催の展示会に出品され受賞された。1934年(昭和9年)には日本美術院研究所に入所し、院展に初入選される。1939年(昭和14年)には第3回文展にも出品され、第二次世界大戦中から戦後にかけて院展に出品された同院賞等数多くの賞を受賞した。 この業績により1955年(昭和30年)には日本美術院の同人となり、1961年(昭和36年)に院展彫刻部が解散した事により同郷の新海竹蔵や山本豊市、千野茂らと共に彫刻家団体S.A.Sの結成に携わった。
大村 政夫(おおむら まさお、1914年6月23日 - 19… 大村 政夫(おおむら まさお、1914年6月23日 - 1998年2月11日)は、日本の彫刻家。高等学校美術科教諭、高校野球指導者。日展特選2回。日展参与を務めた。 東京都京橋区東湊町に生まれる。伊豆豆陽中学卒業。1940年3月、東京美術学校彫刻科卒業。同年12月、応召従軍。1949年、静岡県立静岡城内高等学校奉職。1951年、静岡県立静岡商業高等学校非常勤講師奉職。1963年、静岡商業高校非常勤講師退任。1968年第11回日展・1969年改組第1回日展において特選(2年連続)。1975年、静岡高校退職。 1949年から1975年の間、静岡高校で多くの後進を育てた。薮崎昭は画家を目指し大村に相談したところ「『よし、明日からやろう』と言われ、石膏デッサンが始まった。
富永 直樹(とみなが なおき、本名 富永 良雄、1913年(… 富永 直樹(とみなが なおき、本名 富永 良雄、1913年(大正2年)5月18日 - 2006年(平成18年)4月11日)は、日本の彫刻家、三洋電機の工業デザイナー。長崎県長崎市生まれ。叙従三位。 東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科塑像部首席卒業。同校では北村西望、朝倉文夫、建畠大夢が教鞭をとっており、特に北村西望に師事した。〈在学中の1936年(昭和11年)に日展の前身、文展に「F子の首」(長崎県美術館蔵)にて初入選して以来、日展を主な舞台に活躍した。1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)にかけ、3年連続で日展の特選を受賞〉。同研究科卒業。 1972年(昭和47年)日本芸術院賞受賞。
宮本 光庸(みやもと こうよう、本名:宮本 正雄、1913年… 宮本 光庸(みやもと こうよう、本名:宮本 正雄、1913年(大正2年)3月20日 - 2001年(平成13年)3月8日)は、日本の彫刻家。徳島県徳島市出身。帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)卒業。 帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)卒業。清水多嘉示、建畠大夢に師事する。 日本美術展覧会参与を務め、1981年には徳島県文化賞を受賞。また1953年と1954年に朝倉賞を受賞するなど日本の彫刻界に功績を残した。鳴門市の妙見山公園の遊歩道沿いには彼の作品が展示されている。2001年3月8日、腎肺不全のため死去。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2… 舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2002年2月5日)は、日本の彫刻家。佐藤忠良と共に戦後日本を代表する具象彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。東京藝術大学名誉教授。文化学院出身。直彫りによる石彫の第一人者とされ、日本でまだ石彫が珍しかった時代に、大理石や砂岩を使った作品に取り組み、独自のスタイルを築いた。 画家・俳人の妻道子との間に子供6人。次男の舟越桂や三男の舟越直木も彫刻家として活躍。長女の末盛千枝子(末盛憲彦の妻)は、児童文学編集者で「すえもりブックス」経営者。四女の舟越カンナはアーティスト・絵本作家。 1912年、岩手県二戸郡一戸町小鳥谷生まれ。父親が熱心なカトリック信者だった。
佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2… 佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2011年3月30日)は、日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。 生き生きとした女性像などをブロンズや木彫で表現した。本の装幀の仕事もこなし、福音館書店版の絵本『おおきなかぶ』の挿絵なども手がけた。出身地にある宮城県美術館には、「佐藤忠良記念館」が併設、日本で最も多い約600点の彫刻作品を収蔵。その他、滋賀県の佐川美術館の佐藤忠良記念館、札幌芸術の森「佐藤忠良記念子どもアトリエ」、国立近代美術館、国立国際美術館など、日本全国各地に佐藤忠良の作品が収蔵・展示されている。 女優の佐藤オリエは娘。作品のモデルを務めた彫刻家の笹戸千津子は弟子。
水船 六洲(みずふね ろくしゅう、1912年(明治45年)3… 水船 六洲(みずふね ろくしゅう、1912年(明治45年)3月26日 - 1980年(昭和55年)6月30日)は、日本の彫刻家、版画家。広島県呉市草里町(現東中央2丁目)出身。本名は田中六洲。なお、本名の名前読みは漢字「六洲」を「むつくに」と読む。実兄に洋画家水船三洋があり、実父も書家だった。 作風は版画にも彫刻のような力強さを求め絵画的彩色を施す独自技法を駆使したほか、1960年代以降は魚、鳥などの動物を主なモチーフに選んで制作を行った。 1912年、広島県呉市草里町(現東中央2丁目)に生まれる。中学の頃に高村光太郎訳『ロダンの言葉』(ASIN B0093E7YYY)を読み感動し彫刻家を目指した。
高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 19… 高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 1942年11月2日)は日本の彫刻家。宮城県石巻市出身。 東京美術学校(現東京芸術大学)で木彫を学び、文展(現・日展)を中心に活躍した。「黒潮閑日」「潮音」「漁夫像」の《海の三部作》などにより将来を嘱望されたが兵役に就き、1942年にガダルカナル島の戦いで死亡した。 1911年4月13日、宮城県牡鹿郡石巻町(現・石巻市)湊本町に生まれる。生家は遠洋漁業や缶詰工場を経営する網元であった。1924年、旧制石巻中学(現・宮城県石巻高等学校)に入学。 1931年、東京美術学校彫刻科木彫部に入学する。1936年同校を卒業すると、研究科に進み、文部省美術展覧会(現・日展)に「少女像」を出展し、入選する。
堀内 正和(ほりうち まさかず、1911年(明治44年)3月… 堀内 正和(ほりうち まさかず、1911年(明治44年)3月27日 - 2001年(平成13年)4月13日)は、日本の彫刻家である。抽象彫刻の先駆者として知られた。 京都市の生まれ。幼年期より抽象的な彫刻作品に興味を持ち、その作品を制作し続けていた。後に上京し、1929年(昭和4年)に開催された第16回二科展において自身の作品を入選された事がきっかけで、当時通学していた東京高等工芸学校を中退した。その後青山学院大学やアテネ・フランセで彫刻学の教鞭を執る。 後に番衆技塾で藤川勇造の門人となるが、制作中に発生した第二次世界大戦における体制を批判したことによって、制作を一時中断する。親交が深かった辻晉堂との書翰には、橋本平八の彫刻造形や彼の「日本彫刻、西洋彫刻の異」についての考えに関心を持つ様子がうかがえる。
中村 七十(なかむら しちじゅう、1911年2月16日 - … 中村 七十(なかむら しちじゅう、1911年2月16日 - 1941年10月20日)は、日本の彫刻家。本名は、中村永男。 長野県上伊那郡朝日村(現・辰野町)出身。宮大工の家系に生まれ、幼少のころから、宮大工・彫刻家の父七十郎(董斎)の下で木彫を学んだ。高等科卒業後、彫刻の道を志して上京し、木彫家の清水三重三に師事。のちに構造社を主宰した斎藤素巌に師事。1929年東京美術学校彫刻科塑像部選科(現・東京藝術大学美術学部彫刻科)入学。専ら木彫が多かったが次第に塑造作品へと移り、1933年在学中に「女の首」が帝展(現・日展)に初入選。当時は在学中の帝展出品はタブー視されており、父「七十郎」の名前の二文字を借りて出品した。
淀井 敏夫(よどい としお、1911年2月15日 - 200… 淀井 敏夫(よどい としお、1911年2月15日 - 2005年2月14日)は、日本の彫刻家。文化勲章受章者。削げたような形態と岩のような質感のユニークな作品で知られる。 兵庫県朝来市生まれ。大阪市立工芸学校を経て東京美術学校彫刻科卒業後、主に二科会を舞台にして、心棒に石膏を直付けする独自の技法で対象を叙情的に表現した具象彫刻を発表。大阪市立工芸学校教諭、東京芸術大学教授・美術学部長を務めた。
分部 順治(わけべ じゅんじ 1911年 <明治44年> 1… 分部 順治(わけべ じゅんじ 1911年 <明治44年> 1月6日 - 1995年 <平成7年> 3月1日)は、日本の彫刻家。
西 常雄(にし つねお、1911年 - )は、日本の彫刻家。
柳原 義達(やなぎはら よしたつ、1910年3月21日 - … 柳原 義達(やなぎはら よしたつ、1910年3月21日 - 2004年11月11日)は、近現代日本の彫刻家。 兵庫県神戸市生まれ。1936年、東京美術学校彫刻科卒。朝倉文夫に師事、文展入選、国画会受賞、1937年、国画会同人。1939年、新制作派協会彫刻部創立に参加する。 戦後、1952年から5年間ヨーロッパに滞在する。1958年、高村光太郎賞、1974年、中原悌二郎賞大賞など受賞、1970年、日本大学芸術学部主任教授。1996年、文化功労者。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小川 由加里(おがわ ゆかり、1910年(明治43年)1月2… 小川 由加里(おがわ ゆかり、1910年(明治43年)1月28日 - 1981年(昭和56年)8月26日)は、日本の彫刻家。本名は、小川緑。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)出身。高等小学校卒業後に指物師に入門。のちに自営独立し、1936年には知人に依頼されて木彫の聖観音像を制作。1937年元陸軍中将市瀬源助により蓼科高原横谷渓谷に護国の霊地を築くこととなり、金沢国有林の原木から斎戒沐浴半年かけて横谷観音堂『横谷聖観世音菩薩』像を制作し奉納鎮座された。1938年に上京して日本美術学校(のちの日本美術専門学校)に入学。池田勇八、吉田久継、岡野聖雲らに師事。1939年の第3回文展に『胸像』を出品して初入選。
池田 遊子(いけだ ゆうし、本名:保夫、1909年9月3日 … 池田 遊子(いけだ ゆうし、本名:保夫、1909年9月3日 - 2006年4月9日)は日本の彫刻家。仏像の制作を中心に制作活動を行う。その傍らアバンギャルドな作品も多数制作。1950年代には大阪市立美術館の三階屋根裏部屋を仕事場とし、次々と意欲的な作品を生み出した。
竹内 不忘(たけうち ふぼう、1909年8月26日 - 20… 竹内 不忘(たけうち ふぼう、1909年8月26日 - 2011年6月29日)は、日本の彫刻家。本名は竹内 延吉(たけうち のぶよし)。 長野県小県郡和村(現東御市)出身。川端画学校に学ぶ。1931年、日本美術協会に出品し銅賞。1935年に第1回東邦彫朔院賞、1937年に文展に『山』を出品、1938年に第3回東邦彫朔院恩賜賞受賞。その後も出展を続け、1965年に日展審査員、1966年に日展会員。 1979年に紺綬褒章受章。1990年、池袋西口公園に『平和の像』を建立している。故郷である東御市には東御市立和小学校の『太陽の子』、東御市役所前市民交流広場の『雷電像』などがある。 2011年6月29日、心不全のため東京都豊島区の自宅で[要出典]死去。
伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6… 伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6月28日 - 1961年12月27日)は、日本の医師、詩人、版画家、彫刻家。 俳号は鉄庵。別名:ジョージ・ウーラン。戦後日本の抽象彫刻の先駆者の一人である。 弟に洋画家の伊藤彰、染色家の吉田たすくがいる。 1909年、鳥取県倉吉市広瀬町で病院を開業している伊藤琢郎・久代の子として八人兄弟の長男として大連で生まれる。1921年3月、明倫小学校卒業。1927年3月、県立倉吉中学校 (現在の鳥取県立倉吉東高等学校)卒業。1936年3月、私立岩手医学専門学校 (現・岩手医科大学)を卒業。同年4月、京都府立医科大学付属病院外科教室に入る。1940年2月に京都府立医大を退職し、中津川町立中津川病院(現・総合病院中津川市民病院)外科主任となる。
明田川 孝(あけたがわ たかし、1909年6月22日 - 1… 明田川 孝(あけたがわ たかし、1909年6月22日 - 1958年8月13日)は、日本の彫刻家・音楽研究家。 新制作協会彫刻部創立会員。東京美術学校在学中より気鳴楽器オカリーナを研究・制作し、「12穴式オカリーナ」の開発に成功。日本にこの楽器を広め根づかせた「アケタオカリーナ」の創始者であり、「日本のオカリーナの父」と呼ばれている。長男はジャズ・ピアニストの明田川荘之。
平田 佐貞(ひらた すけさだ、1909年(明治42年)5月 … 平田 佐貞(ひらた すけさだ、1909年(明治42年)5月 - 1938年(昭和13年)10月)は、日本の俳人・彫刻家・陸軍軍人。 平田紡績の創業家に生まれる。2代目平田佐次郎の第12子・七男であり、長兄に平田佐十郎、次兄に平田佐武、三兄に平田佐矩、四兄に平田佐雄、五兄に宗村佐信(宗村の養子)、六兄に平田佐義。長姉にあさお子、次姉にあさへ子、三姉にますへ子、四姉に富枝子。甥に宗村完治、宗村南男と宗村明夫がいる。三重郡富洲原町出身(現在の三重県四日市市富洲原地区富田一色町)出身。
三坂 耿一郎(みさか こういちろう、1908年 <明治41年… 三坂 耿一郎(みさか こういちろう、1908年 <明治41年> 5月26日 - 1995年 <平成7年> 8月3日)は、彫刻家、日本芸術院会員。本名は政治。位階は従四位。 福島県郡山市出身。1937年東京美術学校彫塑科卒業、新文展初入選。1939年研究科を修了し、その後清水多嘉示に師事。1947年日展特選。1961年日展審査員。1970年日展桂花賞受賞。1971年日展評議員。1972年日展文部大臣賞受賞。1979年日本芸術院賞受賞。1983年勲四等旭日小綬章受章。1986年日本芸術院会員。1987年郡山市名誉市民。1992年勲三等瑞宝章受章。1995年死去。死没日付をもって従四位に叙された。墓所は多磨霊園 熊本市にある宮本武蔵のブロンズ像、立教大学内の立教大学創始者ウイリアムズ主教像などの他、東京都練馬区や故郷の福島県郡山市に多くの作品がパブリックアートとして残る。
菊池 一雄(きくち かずお、1908年(明治41年)5月3日… 菊池 一雄(きくち かずお、1908年(明治41年)5月3日 - 1985年(昭和60年)4月30日)は、日本の彫刻家。第1回毎日芸術賞を受賞。 菊池契月の長男として、京都市に生まれる。1926年(大正15年)に上京し、第一高等学校で藤川勇造から彫刻を学んだ。卒業後、1929年(昭和4年)に創設されたばかりの二科会の彫刻科に早川巍一郎らと共に所属し、塑像を制作する。後の1932年(昭和7年)に東京帝国大学文学部に入学し、在学中に自身の作品が初めて入選された。 卒業後の、1936年(昭和11年)留学のためフランスに渡り、シャルル・デスピオに師事する。1939年(昭和14年)に帰国し、2年後の1941年(昭和16年)に新制作派協会員の一員となった。
木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 198… 木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 1988年8月4日)は、日本の彫刻家。日本芸術院会員。