多田 忠弘(ただ ただひろ、1932年(昭和7年)5月6日 … 多田 忠弘(ただ ただひろ、1932年(昭和7年)5月6日 - 2020年(令和2年)9月16日)は日本のテレビ舞台美術家。 元 特定非営利活動法人ペタアートネットジャパン常務理事、特定非営利活動法人テレビ日本美術家協会常任理事、特定非営利活動法人日本アマチュア演劇連盟副理事長、日本演劇協会会員。
職業が美術家:322人
多田 忠弘(ただ ただひろ、1932年(昭和7年)5月6日 … 多田 忠弘(ただ ただひろ、1932年(昭和7年)5月6日 - 2020年(令和2年)9月16日)は日本のテレビ舞台美術家。 元 特定非営利活動法人ペタアートネットジャパン常務理事、特定非営利活動法人テレビ日本美術家協会常任理事、特定非営利活動法人日本アマチュア演劇連盟副理事長、日本演劇協会会員。
桑山 忠明(くわやま ただあき、1932年3月4日 - 20… 桑山 忠明(くわやま ただあき、1932年3月4日 - 2023年8月20日)は、日本の美術家。ミニマル・アートの先駆者として知られる。 愛知県名古屋市生まれ。東京芸術大学日本画科卒業。1958年に渡米して以降、ニューヨークを拠点に活動した。2023年8月20日、脳出血のため米国で死去、91歳没。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
伊藤 公象(いとう こうしょう、英語: Kosho Ito、… 伊藤 公象(いとう こうしょう、英語: Kosho Ito、本名: 伊藤 一成、1932年1月26日 - 2024年7月6日)は、土を素材とした陶造形で知られる日本の美術家。金沢美術工芸大学名誉客員教授。 1932年石川県金沢市生まれ。1972年より茨城県笠間市を制作の拠点としている。1970年代より国内外の美術館や国際展において作品を発表している。息子はアーティストの伊藤遠平。 1932年に象嵌の名手として知られた彫金家だった伊藤勝典の長男として石川県金沢市に生まれる。戦時中に若くして父を亡くし、14歳から加賀九谷焼の名工である中村翠恒の門下に入る。弟子の少ない少数精鋭の工房だったこともあり、粘土作りから、窯場の仕事、釉薬の調合などの技術をわずか数年で学ぶことになる。
靉 嘔(あい おう、英語: Ay-O 本名:飯島孝雄(いいじ… 靉 嘔(あい おう、英語: Ay-O 本名:飯島孝雄(いいじま たかお)、1931年5月19日 - )は、日本の美術家。茨城県行方郡玉造町(現:行方市玉造)出身。 1960年代のフルクサスに、同運動の国際的な活動の初期の段階から携わっていた。「虹のアーティスト」として知られている。多摩美術大学美術学部客員教授を勤めていた。 1961年にオノ・ヨーコがジョージ・マチューナスに靉嘔を紹介し、1963年に靉嘔もフルクサスに加わった。「Finger Boxe」という一連の作品とフルクサス時代の「イヴェント」で有名になった。ジョージ・マチューナス、エメット・ウィリアムス(Emmett Williams)、ディック・ヒギンズ(Dick Higgins)、ナム・ジュン・パイクなどの現代美術家たちとの親密な関わりの中で働いた。
井上 洋介(いのうえ ようすけ、1931年(昭和6年)3月7… 井上 洋介(いのうえ ようすけ、1931年(昭和6年)3月7日 - 2016年(平成28年)2月3日)は、日本の絵画・版画美術家、日本の絵本作家、イラストレーター。本名 井上洋之助(いのうえ ようのすけ)。 東京都港区赤坂出身。武蔵野美術学校西洋画科卒。1960年「こどものとも」(福音館書店)で初の絵本「おだんごぱん」刊行。以後、多数創作絵本出版。 1965年第11回文藝春秋漫画賞、第4回東京イラストレーターズ・クラブ賞受賞。『ぶんぶくちゃがま』他で小学館絵画賞、『でんしゃえほん』で日本絵本賞大賞、『月夜のじどうしゃ』で講談社出版文化賞、『ぼうし』でJBBY賞を受賞。 ※ 公開展示・個展は1960年代より毎年2~3回開催。
妹尾 河童(せのお かっぱ、本名同じ、旧名:妹尾 肇(せのお… 妹尾 河童(せのお かっぱ、本名同じ、旧名:妹尾 肇(せのお はじめ)、1930年(昭和5年)6月23日 - )は、兵庫県神戸市生まれのグラフィックデザイナー・舞台美術家・エッセイスト・小説家。 自著『河童が覗いた』シリーズでの緻密な手書きイラストレーションでも知られている。妻はエッセイストの風間茂子。 神戸で洋服屋の長男として生まれる。 小学生の時、芥川龍之介の『三つの宝』を裕福な友人から借りたくて、その友人が冗談で出した「空中2回転が出来たら貸す」という条件を鵜呑みにして失敗、肩から落下し骨折した経験がある。本自体は友人が父親に内緒で貸し出した。近所に可愛がってくれる青年が数人いたが彼は出征、非合法活動による逮捕、召集拒否からの自殺によって居なくなる。
斉藤 陽子(さいとう たかこ、1929年1月14日 - 20… 斉藤 陽子(さいとう たかこ、1929年1月14日 - 2025年9月30日)は、福井県生まれの現代美術家。1960年代を代表する芸術運動、フルクサスで活動し、晩年までフルクサス関連の展示に参加し続けた 。1978年からデュッセルドルフ在住、2025年に同地にて死去。 生涯に概算で2,800点の作品を制作し、逝去時点の各収蔵機関の公表資料から確認できる範囲では、世界合計で60以上の収蔵機関に500点以上が収蔵されている。 彼女の作品の中で数多く収蔵されているシリーズは、チェスセット (1964~)、ユー・アンド・ミー・ショップ (You + Me Shop、1965頃~)、ペーパー・キューブ(1971~)、 ゲーム/パフォーマンスウェア(2000頃~)、絵画(1950~60年代)である。
嶋本 昭三(しまもと しょうぞう、1928年1月22日 - … 嶋本 昭三(しまもと しょうぞう、1928年1月22日 - 2013年1月25日)は、日本の芸術家、現代美術家。京都教育大学名誉教授、宝塚造形芸術大学教授、日本障害者芸術協会会長、具体美術協会会員。 長男はジャズトランペッターの嶋本高之(しまもと たかし、1964年 - )。二男はバリトン歌手の嶋本晃(しまもと あきら、1969年 - )。 大阪府生まれ。関西学院大学文学部卒業。 1954年、戦後日本の現代美術を代表する「具体美術協会」の創立メンバーとなる。「具体」という名の提案者。以降主な具体全展に出品。具体美術展に出展した、瓶詰した絵具を画面上で炸裂させる大砲絵画パフォーマンスや、ヘリコプターよりペイントを落としての絵画制作パフォーマンスなどが有名。
安部 真知(あべ まち、1926年〈大正15年〉8月26日 … 安部 真知(あべ まち、1926年〈大正15年〉8月26日 - 1993年〈平成5年〉9月24日)は、日本の舞台美術家。夫は作家の安部公房。旧姓は山田、本名は真知子。大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)出身。 1926年(大正15年)8月26日、大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)の廻船問屋・山田清とノブの間に生まれる。1944年(昭和19年)、大分県立高田高等女学校(現・大分県立高田高等学校)卒業。6人兄姉の5番目の次女であったが、兄弟のうちただひとり、母のとりなしにより東京に進学する。 1947年(昭和22年)、女子美術専門学校日本画部師範科(現・女子美術大学)を卒業。その後、安部公房と出会い、同居を始める。
因藤 壽(いんどう ひさし、1925年12月30日 - 20… 因藤 壽(いんどう ひさし、1925年12月30日 - 2009年8月8日)は北海道稚内市生まれの現代美術家。 モノクローム絵画が特徴。 1942年、北海道庁立苫小牧工業学校本科電気科(現在の北海道苫小牧工業高等学校)を卒業。卒業後、北海道大学超短波研究所に勤務。 1947年頃より仕事の傍ら、クレヨン画を始める。その後、喜茂別や倶知安の中学校の教員に転身。道内の美術展に積極的に出品する。1950年第2回読売アンデパンダン展に出品。以後も継続して出品。 1963年、大宮市(現さいたま市)に移り、首都圏の画廊で個展を開催。その後も精力的に制作活動に取り組んだ。 2009年8月8日、他界。 北海道立旭川美術館、北海道立近代美術館、埼玉県立近代美術館などが作品を所蔵する。
山崎 つる子(やまざき つるこ、1925年〈大正14年〉1月… 山崎 つる子(やまざき つるこ、1925年〈大正14年〉1月13日 - 2019年〈令和元年〉6月12日)は、日本の美術家。前衛美術グループ「具体美術協会」の創設メンバー17名のひとりとしても知られる。ブリキを用いた立体作品、パフォーマンス、絵画作品など多様な作品を手掛けた。兵庫県芦屋市出身。 1925年、兵庫県芦屋市に生まれる。家族構成は両親と兄と姉と妹。甲南高等女学校を経て、小林聖心女子学院に進む。 1946年夏、精道小学校で開催された芦屋市主催の市民講座に聴講に行った山崎は、講師として呼ばれた吉原治良に出会う。吉原はモンドリアンについて講演し、3日目の最終日の実習では教室の手洗い場を描かせる風変わりな講座であった。
金山 明(かなやま あきら、1924年7月17日 - 200… 金山 明(かなやま あきら、1924年7月17日 - 2006年9月2日)は、日本の画家・現代美術家。 1924年7月17日、兵庫県尼崎市に生まれる。 具体美術協会の初期メンバーであった。妻は同じく美術家の田中敦子。1947年に多摩美術大学を中退し、大阪市立美術研究所で学んだ。グタイミニピナコテカ、ギャラリーHAM等で作品を発表した。 2006年9月2日、肺癌のため死去。82歳没。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
飯田 善國(いいだ よしくに、1923年7月10日 - 20… 飯田 善國(いいだ よしくに、1923年7月10日 - 2006年4月19日)は、日本の彫刻家、現代美術家、詩人。 栃木県足利市生まれ。旧制館林中学卒。慶應義塾大学在学中に徴兵され中国を転戦した。帰国後慶應に復学した後、かねてからの希望だった画家を志して東京藝術大学に入学、梅原龍三郎らの教えを受け1953年に卒業した。その後は、池田龍雄らと制作者懇談会を結成し、芸術論の交換をしながら、戦争体験でばらばらになった世界観や自己への懐疑を再構築すべく、表現主義的な絵画で彼なりのリアリズムを築き上げようとした。 1956年からのローマ留学の間、彫刻のコースで学び、さらにヴォルスの絵画やヘンリー・ムーアの抽象彫刻に衝撃を受けてそれまで描いてきた「リアル」に対する概念をゆすぶられた彼は、より外に開かれた、実感に近いものを求めて彫刻制作に転じ、ウィーンやベルリンなど主に欧州で活躍し、木や石を素材に各地の展覧会に出展した。
飯田 善国(いいだ よしくに、1923年7月10日 - 20… 飯田 善国(いいだ よしくに、1923年7月10日 - 2006年4月19日)は、日本の彫刻家、現代美術家、詩人。
高﨑 元尚(たかさき もとなお、1923年1月6日 - 20… 高﨑 元尚(たかさき もとなお、1923年1月6日 - 2017年6月22日)は、日本の美術家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
井江 春代(いえ はるよ、1923年1月1日 - 2011年… 井江 春代(いえ はるよ、1923年1月1日 - 2011年5月11日)は、日本の美術家、絵本作家。 1923年、鳥取県に井江耕宗の子として生まれる。1944年、女子美術専門学校(現 女子美術大学)師範科日本画部卒業。 1964年、絵本『かえるのけろ』で第13回小学館絵画賞を受賞。 1973年、初めてのラテンアメリカ旅行。これ以後、昭和60年まで5回ペルーを訪問。 2011年、死去。享年88。
朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014… 朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014年3月27日)は、日本の舞台美術家・画家。本名・冨沢摂。the companyのアソシエイツメンバー。 東京府東京市下谷区谷中(現在の東京都台東区谷中)に生まれる。父は彫刻家の朝倉文夫。妹は彫刻家の朝倉響子。娘は文学座所属の女優の富沢亜古。声優の大塚周夫は従弟。同じく声優の大塚明夫は従弟の長男にあたる。 父・朝倉文夫により幼い頃から英才教育を受けるが、徐々に父や権力に対する反感の念が彼女の中に擡げてきたところがあり、それにより日本画家として生きていかんとする意思を抱いたとNHKは報じている。 画家の伊東深水に師事し、初めは日本画を学ぶ。
利根山 光人(とねやま こうじん、1921年9月19日 - … 利根山 光人(とねやま こうじん、1921年9月19日 - 1994年4月14日)は日本の美術家、画家。メキシコを題材とした情熱的な作品を数多く残し太陽の画家と呼ばれた。茨城県結城市出身。 6人兄弟の末子として生まれる。幼時より創作活動を行っていた。早稲田大学高等師範部国語漢文科(現在の教育学部国語国文学科)卒業後は、静岡県の農業学校、栃木県立烏山高等女学校、海城学園に国語教員として勤務した。その後、一時教員生活を去り、メキシコなどへ渡航した。シケイロス、オロスコなど壁画作家の影響を受ける。帰国後は聖徳学園高等保育学校、聖徳学園短期大学などで教えながら、創作活動を行う。 メキシコのマヤ文明をテーマにした作品(リトグラフ、油彩)を数多く残し、日本芸術大賞やメキシコにおける最高文化勲章であるアギラ・アステカ・ブラーカ賞などを受賞した。
長谷川 靑澄(はせがわ せいちょう、1916年9月25日 -… 長谷川 靑澄(はせがわ せいちょう、1916年9月25日 - 2004年7月23日)は、日本の美術家、日本画家。本名は義治(よしはる)。 精密な描写をもとにしたデフォルム、また琳派や西洋の油彩絵画とも一線を画したマチエールに強いこだわりをもった独特な画風を確立した。作品は専ら日本美術院展覧会への出品作であり、日本美術院同人、同評議員となった。 1916年(大正5年) 9月25日、長野県下水内郡飯山町(現飯山市)に生まれる。旧制飯山中学(長野県飯山北高等学校)卒業。 15歳で地元の細野順耳(菊池契月の兄)に学び、1933年(昭和8年)上京し、18歳で松岡映丘門の吉村忠夫に入門し大和絵を専攻。1952年(昭和27年)36歳の時に吉村忠夫の急逝をうけ、日本美術院・同人の中村貞以(なかむらていい、1900年 - 1982年)に入門し、日本美術院展覧会を目指し研鑽を重ねる。
入江 一子(いりえ かずこ、1916年〈大正5年〉5月15日… 入江 一子(いりえ かずこ、1916年〈大正5年〉5月15日 - 2021年〈令和3年〉8月10日)は、日本の美術家、洋画家。シルクロードを題材とした作品で知られる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高木 啓太郎(たかぎ けいたろう、1916年1月1日 - 1… 高木 啓太郎(たかぎ けいたろう、1916年1月1日 - 1997年10月11日)は、日本の写真作家、美術家。 写真、陶芸、書画を中心に、日本のみならず、欧米でも数多くの個展を開催するなど幅広く活躍した。 1916年(大正5年)倉吉で生まれ、戦前に大陸に渡る。敗戦後、シベリア抑留を経験する。1948年(昭和23年)に帰国すると、倉吉でカメラ店を開き、民俗写真、民俗風景の撮影に熱中した。独学で写真を始め、塩谷定好や植田正治との親交を通じて技術を磨いた。同好の仲間と「光画クラブ」というアマチュア写真集団を作る。「光画クラブ」には、戦後の「砂丘社」復興にかかわった画家・徳吉英雄も参加した。さらにカメラ店の他に、民藝品店、画廊、喫茶店(久良)、蕎麦屋(土蔵蕎麦)など商売の幅を広げ、そこが芸術家たちの集うサロン的な場所となった。
木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 20… 木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 2004年11月7日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、映画美術家、劇作家、演出家、俳優、彫刻家。本名は木俣 三郎(きまた さぶろう)、舞台俳優・映画美術家としては衣 恭介(ころも きょうすけ)、時代劇俳優としては木南 兵介(きなみ へいすけ)、現代劇俳優として鬼塚 大吉(おにつか だいきち)等、多くの別名をもつ。プロダクション鷹・日東テレビ映画の創業者・元代表取締役、ムービーブラザースの共同代表を歴任した。高見順の短篇小説『大部屋の友』の主人公モデル、あるいは世田谷区・豪徳寺の「無名戦士慰霊記念碑」のレリーフ彫刻を手がけた彫塑作家としても知られる。
田中 照三(たなか てるぞう、本名:田中輝夫、1913年12… 田中 照三(たなか てるぞう、本名:田中輝夫、1913年12月26日 - 2006年9月7日)は、日本の舞台美術家。弟は第一回「安井賞」作家・洋画家の田中岑。
大竹 富江(おおたけ とみえ、1913年〈大正2年〉11月2… 大竹 富江(おおたけ とみえ、1913年〈大正2年〉11月21日 - 2015年〈平成27年〉2月12日)は、日本からブラジルに帰化した美術家。 長男は建築家のルイ・オオタケ、次男はサンパウロ州文化長官を務めたリカルド・オオタケ。 京都府京都市で材木商の子として生まれる。富江は6人兄弟の末子。 京都府立第二高等女学校(現・京都府立朱雀高等学校)中途退学、同志社大学文学部卒業。 1936年、ブラジルに渡り、現地の日本人(兄の友人)と結婚。1951年、日本に一時帰国する。 1952年、絵画の制作を始める。1968年、ブラジル国籍取得。 2015年2月12日、気管支肺炎による敗血症性ショックのため入院先のサンパウロの病院で死去。
篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子、1913年… 篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子、1913年〈大正2年〉3月28日 - 2021年〈令和3年〉3月1日)は、日本の美術家、版画家、エッセイスト。 映画監督の篠田正浩は従弟、建築家の若山滋は甥にあたる。 日本の租借地だった関東州大連に生まれる。父の篠田頼治郎は東亜煙草の大連支社長で、職場と自宅があったジョサイヤ・コンドル設計の元ロシア帝国の3階建洋館で三男四女の第五子として生まれ、満洲子と命名された。 2歳で東京に戻り、5歳頃から父に書の手ほどきを受ける。その後、女学校時代以外はほとんど独学で書を学ぶ。 1950年から数年、書道芸術院に所属して前衛書の作家たちと交流を持つが、1956年に渡米。
小野 忠弘(おの ただひろ、1913年3月3日 - 2001… 小野 忠弘(おの ただひろ、1913年3月3日 - 2001年8月5日)は、日本の美術家、造形作家。1959年、米国『LIFE』誌が特集した「ジャンク・アート世界の7人」に選ばれた。青森県弘前市出身。 1931年、青森県立弘前工業学校土木科を卒業した。1938年、東京美術学校彫刻科を卒業した。在学中、鳥海青児のアトリエに出入りするようになり、油彩画を描きはじめた。大学卒業後徳島県立富岡中学校に赴任し、図画担当教員をしながら春陽会に出品を続けた。1942年、(旧制)福井県立三国中学校に転任した。1944年、三国町へ疎開していた詩人の三好達治と交流したり、1946年、同郷の版画家、棟方志功(青森市出身)と同じ下宿になったことがある。
片岡 誓(かたおか ちかい、1913年 - 1997年)は洋… 片岡 誓(かたおか ちかい、1913年 - 1997年)は洋画家、二紀会同人、サロン・ド・パリ委員、日本美術家連盟会員。 1913年岡山県真庭郡中和村(現:真庭市)で片岡家の7人兄弟の末っ子として生まれる。幼少より県の絵画展などで特賞を取るなどし、将来、画家を目指そうと幼心に決意。 姫路師範学校(現:神戸大学)で教師の資格を得、教鞭をとる一方で、二紀会の田村孝之介に師事する。抽象画に新たな表現法を見出し、神戸二紀会の有望若手画家として活躍。毎年東京で個展を開催し高い評価を得る。 その後、イタリア・ローマ美術院館長の招聘により渡欧、ほどなくパリに下宿しモンパルナスのアカデミー・グランショミエールに学び、西洋絵画の本場で学ぶうちに後期印象派、とり分けアンリ・マティスに惹かれ、色彩豊かな画風を確立していった。
古沢 岩美(ふるさわ いわみ、1912年(明治45年)2月5… 古沢 岩美(ふるさわ いわみ、1912年(明治45年)2月5日 - 2000年(平成12年)4月15日)は、日本の洋画家、前衛美術家。 1920年代から1940年代にかけて、池袋周辺に集う芸術家たちのアトリエ村「池袋モンパルナス」に参加した一人として知られている。 佐賀県三養基郡旭村(現・鳥栖市)出身。1927年に久留米商業学校中退。当時は日本統治下だった朝鮮半島の大邱に渡った後、翌1928年に画家を志して上京。岡田三郎助に師事した。豊島区で画家が集まっていた長崎アトリエ村に移って交流を広げるとともに、前衛美術を志向するようになった。1938年に「創紀美術協会」、1939年には「美術文化協会」創立に参加。
宇治山 哲平(うじやま てっぺい、1910年9月3日 ‐ 1… 宇治山 哲平(うじやま てっぺい、1910年9月3日 ‐ 1986年6月18日)は、日本の美術家。始め木版画を主に制作するが後に油彩の抽象画に転向。輝いた栄誉には第12回毎日芸術賞をはじめ、第32回西日本文化賞などがある。本名は宇治山哲夫。 明治43年(1910年)、大分県日田市に生まれる。日田工芸学校で漆芸蒔絵の技法を習得し、日田漆器株式会社に入社。漆工や木工デザインを担当する。同時に独学で木版画を学び、様々な芸術賞に入選する。油彩画の制作を始めると同時にアトリエを奈良県天理市に構える。 1961年(昭和36年)、大分県立芸術短期大学(現大分県立芸術文化短期大学)教授となり別府市に移る。1971年(昭和46年)からは、同短大の学長を務めた。
真木 小太郎(まき こたろう、1909年6月4日 - 198… 真木 小太郎(まき こたろう、1909年6月4日 - 1984年7月28日)は、日本の舞台美術家、衣裳デザイナーである。日本舞台テレビ美術家協会会長を歴任した。 1909年(明治42年)6月4日、茨城県に生まれる。1927年に水戸中学卒業。 東京に移り、旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学する。 1935年(昭和10年)、東京宝塚劇場(現在の東宝)に入社、1936年(昭和11年)に同社が合併した日本劇場では、衣裳も装置も手がけている。1944年に妻との間に息子・マイク真木をもうける。 第二次世界大戦後、東宝を退社してフリーランスとなった。1958年(昭和33年)、大映東京撮影所が製作した増村保造監督の『巨人と玩具』や、1959年(昭和34年)、東宝が製作・配給した山本嘉次郎監督の『孫悟空』等の衣裳をデザイン・構成を手がけた。
河野 太郎(かわの たろう、1907年(明治40年)11月2… 河野 太郎(かわの たろう、1907年(明治40年)11月27日 - 2000年(平成12年)8月19日)は、日本の美術家。元徳島大学学芸学部教授。東京美術学校図画師範科卒業。大分県出身。 弟に旧大日本帝国海軍将校で潜水艦機関長として真珠湾攻撃に参加した河野克次がおり、その三男で元自衛隊統合幕僚長の河野克俊は甥にあたる。 1929年に東京美術学校図画師範科を卒業後は、鹿児島県女子師範学校(現鹿児島大学)や徳島県女子師範学校で教諭となった。1950年からは徳島大学学芸学部助教授となり、1952年には同大学教授となった。 その後、東光会展に出品し、東光会委員や東光会徳島県支部長を歴任。1977年から1981年まで徳島県美術家協会会長に就任した。
水谷 浩(みずたに ひろし、1906年1月17日 - 197… 水谷 浩(みずたに ひろし、1906年1月17日 - 1971年5月16日)は、日本の映画美術家・美術監督。 1906年(明治39年)1月17日、岐阜県に生まれる。 東京に移り、旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学する。同校在学中である1927年(昭和2年)、松竹蒲田撮影所に入社、大道具課装置係に配属される。同校はのちに卒業した。同撮影所では、1929年(昭和4年)、清水宏監督の『不壊の白珠』、1930年(昭和5年)、小津安二郎監督の『朗かに歩め』にいずれも「舞台設計」としてクレジットされたほか、作品名は定かではないが牛原虚彦、豊田四郎、斎藤寅次郎らの作品も手がけた。 その後、関西の映画会社・帝国キネマ演芸に移籍し、再びクレジットが見られるのは同社が新興キネマに改組されたのちの1933年(昭和8年)、溝口健二監督の『祇園祭』であり、「美術」とクレジットされている。
斎藤 義重(さいとう よししげ、1904年5月4日 – 20… 斎藤 義重(さいとう よししげ、1904年5月4日 – 2001年6月13日)は、青森県弘前市出身の現代美術家。多摩美術大学教授。「さいとう ぎじゅう」と読まれることもある。絵画と彫刻の垣根を超えた表現を追求して作品を制作した。戦後以降の現代美術を代表する作品の数々を残し、「もの派」の作家らに大きな影響を与えた。 1904年5月4日、青森県弘前市に生まれた。本籍は東京市四谷区左門町(現・東京都新宿区)。なお、本人は東京出身であるとも青森出身であるとも語ったことがあり、かつては文献によって出生地に揺らぎがあった。父親の斎藤長義は南部藩士の家に生まれた陸軍軍人(騎兵小将)であり、陸軍第8師団が設置されていた弘前市は父親の赴任地である。
伊藤 熹朔(いとう きさく、1899年8月1日 - 1967… 伊藤 熹朔(いとう きさく、1899年8月1日 - 1967年3月31日)は、日本の舞台美術家、美術監督である。伊藤熹朔賞に名を残す。 1899年(明治32年)8月1日、東京市神田区(現東京都神田)三崎町に建築家伊藤為吉の四男として生まれる。兄に舞踊家の伊藤道郎、弟に演劇人の千田是也、妹暢子はのちに画家の中川一政を夫とした。 旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学、在学中から土方与志の模型舞台研究所に参加した。1923年(大正12年)に同校を卒業し、1924年(大正13年)、『ジュリアス・シーザー』の装置で舞台美術家としてデビューする。その後、築地小劇場、分裂後の劇団築地小劇場、築地座、新協劇団などの舞台美術を手がけ、舞台美術の先駆者となる。
吉田 謙吉(よしだ けんきち、1897年2月10日 - 19… 吉田 謙吉(よしだ けんきち、1897年2月10日 - 1982年5月1日)は、日本の舞台美術家・舞台装置家、映画の美術監督、衣裳デザイナー、タイポグラフィ作家である。 1897年(明治30年)2月10日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。京橋小学校では同級生に歌舞伎役者の坂東三津之丞、先輩に松竹社長の城戸四郎、後輩に築地小劇場系の劇作家久保栄らがいた。1909年(明治42年)、府立一中に入学するが3年生進級の際、父の倒産により中退。1911年(明治44年)、府立工芸学校金属科鋳金科に入学。1915年(大正4年)に卒業後、海軍造兵廠鋳金工場に勤務する傍ら、葵橋洋画研究所に学び、また、土岐善麿に師事し生活歌を学ぶ。
伊原 宇三郎(いはら うさぶろう、1894年10月26日 -… 伊原 宇三郎(いはら うさぶろう、1894年10月26日 - 1976年1月5日)は、日本の美術家。徳島県徳島市出身。国内外で活躍した洋画家。古典主義風の重量感のある裸婦像など,数多くの人物画を制作した。またパブロ・ピカソに傾倒し、著書を著して日本にピカソブームを巻き起こした。
中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月… 中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月14日 - 1991年〈平成3年〉2月5日)は、日本の洋画家、美術家、歌人、随筆家。東京府生まれ。 洋画、水墨画、版画、陶芸、詩、和歌、随筆、書と多彩な作品を制作した。作品のすべてが独学であり、自ら「在野派」と称した。洒脱な文章でも知られた。
中井 汲泉(なかい きゅうせん、1892年7月1日 - 19… 中井 汲泉(なかい きゅうせん、1892年7月1日 - 1970年8月24日)は、京都府出身の美術家、図画教師である。本名は中井 政治郎。 1892年(明治25年)7月1日、京都市上京区に生まれる。京都市立絵画専門学校に進み、竹内栖鳳らから日本画を学ぶ。2年生の時に文展の初入選を果たしたが、教師の目を通さずに出品したことから逆に叱責を受けた。翌年、教師に提出したものの、修正の指導に納得できず、それ以降は官展公募展を問わず出品することはなかった。 岩手県の旧制岩手県立盛岡中学校(現 岩手県立盛岡第一高等学校)から図画教員の勧誘がある。一度は固辞したものの、盛岡から訪ねて来た使いの者の「雪景色も、また良うござんすよ」の一言で赴任を決めた。
多田 北烏(ただ ほくう、1889年〈明治22年〉4月3日 … 多田 北烏(ただ ほくう、1889年〈明治22年〉4月3日 - 1948年〈昭和23年〉1月1日)は、日本の商業美術家。本名は多田 嘉寿計(かすけ)。大正から昭和初期にかけてポスターや雑誌のデザインを多数手がけ、日本のポスターデザインの先駆者と言われる。 長野県松本市北深志出身。多田庄野の長男として生まれる。江戸時代に信濃国安曇郡で発生した貞享騒動の義民多田加助の子孫にあたる。13歳で上京し、日本画家の大和雲陽に師事、旧制東京高等工業学校図案科選科修了、川端画学校に学び、凸版印刷図案部を経て、東京図案研究所長等を歴任した。大正11年(1922年)に、日本初のデザイン制作会社である実用美術研究所サン・スタジオを創設し、商業美術の向上と後進の指導に努力した。
田中 保(たなか やすし、1886年5月13日 - 1941… 田中 保(たなか やすし、1886年5月13日 - 1941年4月24日)は、日本の美術家。埼玉県南埼玉郡岩槻町(現・さいたま市)出身。浦和画家の一人で、海外で活躍したエコール・ド・パリの画家で、パリの画壇でサロンを中心に豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びた。日本に一度も帰国することなく第二次世界大戦中のパリにおいて客死したため、その生涯はほとんど知られていなかったが、次第にその業績が知られるところになり、近年評価と関心が高まってきている。 旧岩槻藩士の金融業を営む収・きよの四男として生まれる。1902年父収の死によって一家は破産し、離散状態になる。1904年埼玉県立第一中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)卒業後、単身渡米しシアトルへ渡る。
山本 安曇(やまもと あずみ、1885年 - 1945年3月… 山本 安曇(やまもと あずみ、1885年 - 1945年3月4日)は日本の鋳金美術家、本名は山本 菊一。 長野県南安曇郡有明村(現・安曇野市)に生まれる。旧制京北中学卒業後、郷里の小学校で教鞭をとり、研成義塾で井口喜源治の薫陶を受け、明治40年(1907年)東京美術学校(現東京藝術大学)鋳金科に入学。成績優秀で香取秀真の信望を受け、また在学中から同郷の荻原守衛(碌山)と親交を深め、その作品の鋳造に着手する。同45年(1912年)卒業。大正2年(1913年)青壺会、同7年(1918年)金人会、同13年(1924年)光爐会、同14年(1925年)工芸済々会などの結成に参加した。 昭和2年(1927年)第8回帝国美術院展(帝展)に出品した「三光(朧銀燭台)」で初入選し、同7年(1932年)帝展に「盤(果物盛器)」を出品し、審査員となる。
田中 良(たなか りょう、1884年10月29日 - 197… 田中 良(たなか りょう、1884年10月29日 - 1974年12月31日)は、日本の舞台美術家・画家。 東京府麹町区生まれ。東京帝国大学農科大学教授・田中宏(1859年鹿児島県高麗町生まれ)の長男として生まれ、学習院中等部在学中に太平洋画会研究所に通う。東京美術学校(後の東京藝術大学美術学部)西洋画科で5年間学んだ時期は大伯父の奈良原男爵邸に同居している。1910年(明治43年)4月に卒業。同期生に九里四郎、近藤浩一路、長谷川昇、藤田嗣治など。 帝国劇場の背景部に所属して舞台の背景を手がけたほか、伯父・奈良原三次設計による奈良原式1号機の製作を手伝っている。1919年(大正8年)にはヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国を視察する。
川村 吾蔵(かわむら ごぞう、明治17年(1884年)8月1… 川村 吾蔵(かわむら ごぞう、明治17年(1884年)8月17日 - 昭和25年(1950年)3月11日)は、日本の美術家。海外で活躍した国際的彫塑家であり、ニューヨークに多くのモニュメント彫刻を完成させたほか、乳牛像、著名人の胸像製作で高い評価を得た。 長野県臼田町(現:佐久市)に川村兵次郎・せむの三男として生まれる。遠縁である水彩画家・丸山晩霞などの影響により芸術家を志し、明治37年(1904年)渡米して彫刻の勉強をする。明治42年(1910年)フランスへ渡り、仏国立美術学校(エコール・デ・ボザール)へ入学。成績優秀で特待生となる。この間、オーギュスト・ロダンに助手の勧誘を受けるが、考え方の相違でこれを断りアメリカ人彫刻家フレデリック・マクモニスの助手となる。
横山 大観(よこやま たいかん、旧字体: 橫山 大觀、慶応4… 横山 大観(よこやま たいかん、旧字体: 橫山 大觀、慶応4年/明治元年〈1868年〉9月18日 - 1958年〈昭和33年〉2月26日)は、日本の美術家、日本画家。本名は横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。旧姓は酒井(さかい)、幼名は秀蔵、のちに秀松。 常陸国水戸本町(現:茨城県水戸市本町)出身。東京美術学校第1期生として岡倉天心に師事し、日本美術院設立に参加した。日本画の新たな表現を模索し、菱田春草とともに「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を生み出した。天心・春草の死後は下村観山とともに日本美術院を再興。彩色画においては朦朧体からさらに琳派の影響を受けた装飾表現へと飛躍を遂げ、水墨画においても独自の表現を確立した。
カール・サダキチ・ハートマン(英語: Carl Sadaki… カール・サダキチ・ハートマン(英語: Carl Sadakichi Hartmann, 旧暦慶応3年10月13日〈新暦1867年11月8日〉 - 1944年11月22日)は、日本出身のアメリカ合衆国の美術家、批評家、詩人。定吉ハートマン、サダキチ・ハルトマンなどの表記もある。写真評論では、シドニー・アラン(Sydney Allan)名を使用することもあった。 ドイツ人の貿易・武器商人カール・ヘルマン・オスカー・ハルトマンと日本人女性さだの次男として、長崎の出島に出生。幼くして母を亡くしたため父がドイツに連れて行き、兄と共にドイツの親戚に引き取られ、ハンブルクで教育を受けた。裕福な一族だったため、私立校へ通うなど当地の最高の教育を受けたが、ドイツに帰国した父親の再婚に伴って転校し、キール海軍兵学校に通う予定だったが、フランスのパリへ家出。
夢眠 ねむ(ゆめみ ねむ、7月14日 - )は、日本の実業家… 夢眠 ねむ(ゆめみ ねむ、7月14日 - )は、日本の実業家、キャラクタープロデューサー、映像監督、美術家。 三重県上野市(現・伊賀市)出身。でんぱ組.incの元メンバーで、愛称はねむきゅん。でんぱ組.incでのキャッチフレーズは「永遠の魔法少女未満」、担当色はミントグリーンであった。芸能界引退後は、マスコットキャラクターである「たぬきゅん」のプロデュースおよび東京・下北沢で「夢眠書店」を経営している。夫はピン芸人のバカリズム(升野英知)。 幼少期は地元出身である松尾芭蕉に憧れ俳人を目指したり、『のらくろ』で知られる田河水泡や杉浦茂に影響を受け漫画家を目指していた。小学校高学年になると、広告デザイナーになる為に美術大学を目指す。
市川 孝典 (いちかわ こうすけ、xxxx年7月9日 - … 市川 孝典 (いちかわ こうすけ、xxxx年7月9日 - )は、日本の現代美術家、芸術家、美術家。 神奈川県横須賀市出身。身長183cm。体重80kg血液型はB型。自らの作品制作を行うかたわら、Soni.&Co.®︎(ソニアンドカンパニー)を主宰し、活発な活動を展開している。 60種類以上の線香を温度や太さなどで使い分けながら描くScorch Paintings(スコーチ・ペインティングス)シリーズ(線香画®︎)、幾層もの色のレイヤーを削り出し描くScrape Works (スクレープ・ワークス)シリーズ、Scratch Works (スクラッチ・ワークス)シリーズ、による創作活動をおこなっている。
タノタイガは、東京都中央区在住の美術家。東京生まれ、仙台育ち… タノタイガは、東京都中央区在住の美術家。東京生まれ、仙台育ち。宮城県仙台第二高等学校、東京造形大学造形学部卒業、東北芸術工科大学大学院芸術工学研究科芸術文化専攻彫刻コース修士課程修了。作品を通して社会に埋もれている矛盾を浮き彫りにする。 立体造形、映像、パフォーマンス等、多様な表現手法によって、社会制度やルールや法律などの記号性と媒体性を誇張した風刺的表現を行う。ときに作者自身を媒体化し、日常に埋もれた社会や集団の倫理性を表出させ、作品の中にはユーモアと毒を兼ね備える。 「ニューアートコンペティションオブみやぎ2004 入選出展 (せんだいメディアテーク)」「7th SICF (青山スパイラルギャラリー) オーディエンス賞受賞」「コネクティング・ワールド (NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])」「アートみやぎ2007(宮城県美術館)」「青葉縁日2 おもしろ改造工場の夏祭り(せんだいメディアテーク)」「WANAKIO2008(前島アートセンター)」「T+ANONYMOUS(現代美術製作所)」「現代美術も楽勝よ。
中村 政人 は、日本の現代美術家。東京藝術大学教授。
土井 典(どい のり、生年非公開 - 2017年)は、日本の… 土井 典(どい のり、生年非公開 - 2017年)は、日本の女性美術家・球体関節人形作家である。日本の球体関節人形制作のパイオニアの一人であり、主にFRPを用いて肥満体の球体関節人形を制作した。 なお、『婦人倶楽部』昭和45年2月号では貞操帯の権威として「土井典子」と紹介されているほか、土井の個展「エロティックな函」のパンフレットで澁澤龍彦が「土井典子」と紹介している。 新潟県新潟市生まれ。1955年、女子美術大学図工科卒業。1955年から1975年までマネキン会社に勤め、メイキャップ等を担当。 1968年から1970年まで、澁澤龍彦責任編集の雑誌『血と薔薇』に小道具制作で参加。同誌第2号の表紙に用いられた貞操帯は土井の手によるものである。