毛涯 章平(けがい しょうへい、1923年(昭和12年) -… 毛涯 章平(けがい しょうへい、1923年(昭和12年) - 2016年(平成28年)7月18日)は、飯田市旧南信濃村出身の日本の教育者、著述家。 1943年(昭和18年)長野県師範学校男子部本科卒業(現在の信州大学教育学部)。 教壇に立った後に校長職などを歴任。その後も、長野県教育委員会指導主事、信濃教育会研究調査部主任、信濃教育会研究図書部主任、下伊那教育会長、下伊那校長会長、長野県中学校長会長、全日本中学校長会理事などを歴任し教育行政の発展に尽力する。1988年(昭和63年)に教職を退職。 その後、結婚を機に移り住んでいた豊丘村にて20年間豊丘村教育委員(うち17年間は教育長)を務める。豊丘村では恒例となった満1歳児と小中学生を対象にした誕生日本贈呈事業を始めた。
山本 義正(やまもと よしまさ、1922年(大正11年)10… 山本 義正(やまもと よしまさ、1922年(大正11年)10月7日 - 2014年(平成26年)6月4日)は、日本の著述家。山本五十六記念館名誉館長。山本五十六(日本の海軍軍人)の長男。母は山本礼子。 1922年(大正11年)、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町で生まれた。父・山本五十六が結婚5年目の38歳の時の待望の嫡子であった。山本家は結婚当初は、青山高樹町、以後、千駄ヶ谷、霞ヶ浦、鎌倉、青山南町と移り住み、霞ヶ浦時代には妹・澄子も誕生した。義正は、ハリス記念鎌倉幼稚園から鎌倉第一小学校に通い、その後、父・五十六の切望であった東京府立一中(現・日比谷高)入学の為に、青山南町に一家で引越し、比較的合格率の高かった青南小学校に六年生の一年間通った。
鮫島 純子(さめじま すみこ、1922年〈大正11年〉9月2… 鮫島 純子(さめじま すみこ、1922年〈大正11年〉9月26日 - 2023年〈令和5年〉1月19日)は、日本の著述家、絵本作家。戦中戦後の体験、ポジティブな生き方などを綴った著作がある。 日本資本主義の父とされる実業家・渋沢栄一の孫にあたり、2024年(令和6年)発行の新一万円札に用いられた渋沢栄一の肖像画の確認を行った。 1922年(大正11年)、東京市滝野川町西ケ原(現・東京都北区西ケ原)に、渋沢栄一の三男で実業家の渋沢正雄と、備前岡山藩9代目藩主池田茂政の次女鄰子の間に生まれる。名前の「純子」は祖父・栄一による命名であり、本人は「この名前を書くたびに心の純度を保ちたいと思った」と語っている。
正野 三郎(しょうの さぶろう 1922年(大正11年)3月… 正野 三郎(しょうの さぶろう 1922年(大正11年)3月10日 - )は埼玉県与野市(現さいたま市)出身の実業家・文筆家。 知己であった与野市議会議員(のちに埼玉県議会議員)の井原弥一郎(元与野市長・井原勇の実兄)と共に食品スーパーマーケット経営の(株)与野フードセンターを創業。 与野フードの専務や社長・会長等を歴任する一方で、日本全国の中小スーパーを組織化。ボランタリーチェーンである協同組合セルコチェーン(全国セルコグループ)を設立し20年近く代表を務めた他、全国スーパーマーケット協会の副理事長も務めた。 現役の経営トップだった時代だけではなく経営の一線から退いた後も文筆活動に精力的に取り組み、食品小売業の経営哲学や井原弥一郎初代社長・与野フード従業員らとのエピソード等を多く含んだ与野フード社史も兼ねた自伝・回顧録や、少年時代の円阿弥(えんなみ)地域での思い出を基に執筆した児童書など5冊の書籍を出版した。
小川 守正(おがわ もりまさ、1922年1月23日 - 20… 小川 守正(おがわ もりまさ、1922年1月23日 - 2019年3月2日)は、日本の実業家、文筆家。 旧制甲南高等学校卒業。1944年九州帝国大学工学部航空学科卒業。川西航空機へ入社するが戦後解散。小型三輪車の明和自動車に移り、同社で労組委員長をつとめた。 1955年松下電器産業入社。電子レンジ事業部長等を経て、1977年独立分社、松下住設機器専務、1982年社長。 1984年退職。甲南学園理事長、近畿大学工学部教授。松下電器産業客員、PHP研究所参与、甲南病院理事長。
村尾 清一(むらお きよかず、1922年 - )は、日本のジ… 村尾 清一(むらお きよかず、1922年 - )は、日本のジャーナリスト、文筆家。 香川県香川郡直島町生まれ。京都三高から、東京大学法学部政治学科卒業。 二代目・週刊新潮編集長の野平健一は旧三高時代の同級生。仏文学者の河盛好蔵は、京都三高の同じフランス文学のクラスの先輩だった。 終戦3年目の1948年に読売新聞社に入社し、社会部記者となる。 1953年 中東特派員で英国エリザベス女王の戴冠式を取材。1954年3月には第五福竜丸事件のスクープ報道に関わり、放射性降下物について「死の灰」という造語で伝えた。同年1月に、辻本芳雄(社会部次長)のもとで原子物理学に関する解説連載記事「ついに太陽をとらえた」に関わっていたことが早い初動につながったという。
明田 鉄男(あけた てつお、1921年8月18日 - )は、… 明田 鉄男(あけた てつお、1921年8月18日 - )は、日本の歴史家、文筆家。 愛媛県出身。京都大学法学部卒。読売新聞大阪本社記者、論説委員。1964年小説「月明に飛ぶ」でオール読物新人賞受賞。のち、霊山歴史館主任研究員、滋賀女子短期大学教授。 1993年、著書『日本花街史』で、島原の揚屋として寛永以来使われ、国の重文にも指定されている「角屋(すみや)」の中川徳右衛門・十三代当主と、財団法人「角屋保存会」が、明田と雄山閣出版を相手に「内部の写真を無断で掲載、角屋が女性の自由を奪ったような表現で名誉を傷つけられた」などとして全国紙への謝罪広告と保存会、中川当主に各250万円の損害賠償を求める訴えを京都地裁に起こした。
成田壽一郎(なりた じゅいちろう、1921年(大正10年)5… 成田壽一郎(なりた じゅいちろう、1921年(大正10年)5月6日 - 2001年(平成13年)4月15日)は秋田県能代市出身の木工家、著述家、教育者。 秋田県立能代工業学校木材工芸科を卒業後、海軍省艦政本部に就職。その後東京高等工芸学校卒業ののち、日本楽器に就職。大日本帝国陸軍航空技術予備役少尉。 軍隊からの復員を果たした後、故郷へ戻り1953年(昭和28年)3月まで秋田県立能代工業高等学校木材工芸科教師を努める。1958年(昭和33年)4月より千葉大学工業短期大学部木材工芸科講師に就任した。その後1978年(昭和53年)に千葉大学建築工学科講師を経て、1985年(昭和60年)2月14日工学博士を取得し、教授に昇格。
武者小路 穣(むしゃのこうじ みのる、1921年(大正10年… 武者小路 穣(むしゃのこうじ みのる、1921年(大正10年)3月27日 - 2010年(平成22年)11月11日)は、日本の歴史学者、著述家。和光大学名誉教授。日本文化史専攻。筆名はむしゃこうじ・みのる(すべて平仮名、「むしゃ」と「こうじ」の間に「の」を入れずに、姓と名の間には中黒を入れる)。旧姓は久保田(くぼた)。 子爵武者小路実世の末弟・公敏の妻・喜佐の甥にあたり、6歳の時に従兄にあたる公敏の長男・敏雄の養子に入った。妻は小説家武者小路実篤の三女・辰子で、穰の又従姉にあたる。長女・有紀子は元バレリーナで歌舞伎役者の四代目中村梅玉夫人。 奈良市出身。1943年(昭和18年)東京帝国大学文学部国史学科卒業。
赤坂 長義(あかさか ながよし / -ちょうぎ、1921年1… 赤坂 長義(あかさか ながよし / -ちょうぎ、1921年1月3日 - 1994年6月26日)は、日本の脚本家、映画監督、テレビドラマ演出家、著述家、大学教官である。日本映像学会会員。 1921年(大正10年)1月3日、東京府東京市神田区小川町(現在の東京都千代田区神田小川町)に、神保町の東京堂(現在の東京堂書店)支配人の子息として生まれる。 旧制・第一高等学校在学時の1940年(昭和15年)に、橋川文三と同級であり、橋川に保田與重郎の『後鳥羽院』等の著作を勧めている。自らも詩作を行い、『歴程』同人であった。第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)、同校を卒業して東京帝国大学(現在の東京大学)文学部に進学した。
三枝 佐枝子(さいぐさ さえこ、1920年(大正9年)10月… 三枝 佐枝子(さいぐさ さえこ、1920年(大正9年)10月4日 - 2023年(令和5年)1月12日)は、日本の編集者、著述家。中央公論社編集局長、商品科学研究所所長などを務めた。旧姓、若尾。 若尾金造の三女として山梨県甲府市に生まれる。生家の若尾家は甲州財閥の中心的存在だった。 1938年東洋英和女学院高等部、1941年日本女子大学を卒業。1942年、同郷の三枝守雄と結婚。守雄は東大生時代に本郷追分のYMCAに寄宿していたことから佐枝子と知り合った。 守雄が気付いた新聞の三行広告をきっかけに、1946年4月に中央公論社に入社。 1958年9月、嶋中鵬二に代わって『婦人公論』編集長となり、日本で初めて商業誌の女性編集長となった。
今井 金吾(いまい きんご、大正9年(1920年)7月5日 … 今井 金吾(いまい きんご、大正9年(1920年)7月5日 - 平成22年(2010年)5月2日)は、日本のジャーナリスト、文筆家、江戸・街道研究家。日本経済新聞社記者。街道歩きの第一人者[要出典]。『半七捕物帳』の研究でも知られる。 大正9年(1920年)7月5日、東京府東京市神田区に生まれ育つ。後に品川区大井に移る。先祖は群馬県碓氷郡坂本町(現安中市松井田町坂本)という。 戦後間もない昭和21年(1946年)、早稲田大学を卒業して日本経済新聞社に入社、社会部に配属され、帝銀事件・下山事件・三鷹事件等の取材に関わった。警視庁キャップ、婦人家庭部長、大阪本社社会部長、東京本社地方部長、札幌支社長等を歴て、昭和49年(1974年)定年退職した。
奥崎 謙三(おくざき けんぞう、1920年2月1日 - 20… 奥崎 謙三(おくざき けんぞう、1920年2月1日 - 2005年6月16日)は、日本の元陸軍兵士(最終階級は上等兵)、バッテリー商、著述家、アナーキスト。 昭和天皇パチンコ狙撃事事件のほか、不動産業者刺殺事件、皇室ポルノビラ事件、元上官家族への殺人未遂など、過激な行動や事件を度々起こしては逮捕・服役した。また、ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』に出演したことでも知られる。 自らを「神軍平等兵」と称していた。 1920年、兵庫県明石市大蔵町6丁目で生まれる。本籍地は兵庫県三木市口吉川町槙。小学校を卒業後は木綿問屋の丁稚奉公に出た。 1940年、徴兵検査に甲種合格。1941年3月に岡山連隊に入営し、後に中国の九江にある工兵隊へ転属。
真鍋 呉夫(まなべ くれお、1920年1月25日 - 201… 真鍋 呉夫(まなべ くれお、1920年1月25日 - 2012年6月5日)は日本の作家・文筆家・俳人。 福岡県遠賀郡岡垣村(現・岡垣町)生まれの父甚兵衛、母オリとも俳人で父は天門(てんもん)、母は織女(おりじょ)と号していた。 福岡商業学校卒業後、1939年阿川弘之、島尾敏雄、那珂太郎らと同人誌「こをろ」を創刊。1941年、文化学院文学部に入学。句集『花火』(こをろ発行所)を自費出版。1946年復員後、北川晃二と一緒に文芸誌「午前」の編集に携わり、同郷の檀一雄を頼って1949年上京。檀一雄との交流は長く、その後30年にわたり兄事した。1949年、第一創作集『サフォ追慕』にて第21回芥川賞候補となり、新進作家として注目された。
平井 信義(ひらい のぶよし、1919年 - 2006年7月… 平井 信義(ひらい のぶよし、1919年 - 2006年7月7日)は、日本の児童心理学者・文筆家・医師。大妻女子大学名誉教授。 東京生まれ。1941年 (昭和16年) 東京帝国大学文学部独文科卒。1944年 (昭和19年) 東北帝国大学医学部卒。1957年 (昭和32年) 名古屋大学より医学博士の学位を取得。 小児科医、母子愛育会愛育研究所所員、お茶の水女子大学教授、1970年 (昭和45年) 定年退官、大妻女子大学教授(児童学)、1990年(平成2年)退任、名誉教授。 ウィーン大学でハンス・アスペルガーに学び、自閉症を研究した。『「心の基地」はおかあさん』が140万部のベストセラーとなったほか、多数の著書を著した。
尾崎 盛光(おざき もりてる、1918年6月6日 - 198… 尾崎 盛光(おざき もりてる、1918年6月6日 - 1980年6月3日)は、日本の文筆家。東京大学文学部事務長を務めた。 尾崎三良の五男尾崎繁盛の子として東京府三鷹に生まれる。 1930年、横浜市立商業学校へ入学するも同年中途退学。1931年、旧制鎌倉中学二年へ編入学。1939年、松本高等学校文科甲類在学中に治安維持法違反の疑いで拘留される。1942年、東京帝国大学文学部社会学科を卒業する。 池貝自動車(現在の小松製作所)労務課に勤務するが、1947年に肺結核で退職する。胸部形成手術を受け、農耕、養鶏、子供の受験指導などで生計を立てる。 1955年、日高六郎の推薦で東京大学文学部事務室に勤務、1961年に事務長。
山路 健(やまじ たけし)、1918年3月31日 - 19… 山路 健(やまじ たけし)、1918年3月31日 - 1999年6月8日)は、日本の農業史学者、食文化研究家、文筆家。 三重県生まれ。筆名・梶山健。慶応義塾大学法学部法律学科卒業。 1952年農業発達史調査会研究員として『日本農業発達史』の執筆に参加。1959年より農政調査委員会、1960年企画部長、常任理事、専門委員。『食の科学』(光琳)編集長。1986年から文筆活動に専念。 1988年「文化的・社会経済的視座から考察した「食」の変貌に関する研究」で東京農業大学農学博士。
丸林 久信(まるばやし ひさのぶ、1917年11月17日 -… 丸林 久信(まるばやし ひさのぶ、1917年11月17日 - 1999年)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、演出家、文筆家である。脚本家としての筆名に栄町 はじめ(さかえまち はじめ)がある。日本映画監督協会元会員、日本放送作家協会会員、日本脚本家連盟信託者。専修大学文学部講師、シナリオ・センター講師を歴任した。黒澤明の『生きる』、『生きものの記録』でチーフ助監督を務めたことでも知られる。 1917年(大正6年)11月17日、三重県多気郡下御糸村(現在の同県同郡明和町)に生まれる。のちに三重県立松阪高等学校の教諭を務めた丸林勝人(1921年 - 2010年)は実弟。 1937年(昭和12年)3月、早稲田第二高等学院(現在の早稲田大学高等学院)を卒業、同年4月には旧制早稲田大学文学部国文科(現在の早稲田大学文学部日本語日本文学コース)に進学、当時の恩師に河竹繁俊(1889年 - 1967年)がいた。
亀川 正東(かめかわ しょうとう、1916年4月22日 ‐ … 亀川 正東(かめかわ しょうとう、1916年4月22日 ‐ 2018年1月13日)は、日本の英米文学者、文筆家、琉球大学名誉教授。 沖縄県平良市生まれ。1940年早大高等師範学校英文科卒、東京中野高等無線学校英語教官。 1946年宮古男子高等学校教官。1947年宮古英語教員養成所長。1948年宮古女子高等学校教官。1949年沖縄文教学校教官。50年琉球大学英語部助教授、コロラド大学大学院。 1953年琉球政府文教審議員、59年琉球政府中央教育委員。60年琉球大学文理学部教授、法文学部教授。 1975年中華民国・中華学術院より「沖縄の英学、米国文学におけるクリティシズムについて」で文学博士。 1981年定年退官、名誉教授。
桜井 茂尚(さくらい しげなお、1915年(大正4年)1月2… 桜井 茂尚(さくらい しげなお、1915年(大正4年)1月25日 - 没年不明)は、昭和期の文筆家、政治家。衆議院議員、千葉県教育委員会委員長。 千葉県匝瑳郡福岡町(八日市場町、八日市場市を経て現匝瑳市)で生まれる。1940年(昭和15年)東北帝国大学法文学部法科を卒業した。 南満州鉄道に入り経理部勤務、同東亜経済調査局員・副参事を務めた。その後、国民経済研究所農業担当研究員、農林省嘱託、社会主義政治経済研究所参事、九十九里種畜場経営、日本農民組合千葉県連統制委員長、公選の千葉県教育委員、同委員長、労働大学主事、同講師、習志野市立習志野高等学校社会科担当教師、世界芸術協会常務理事、日本社会党千葉県連書記長、同政審会長、同党本部政審会事務局次長、同常任参与、同書記局員などを務めた。
中山 正和(なかやま まさかず、1913年10月21日 - … 中山 正和(なかやま まさかず、1913年10月21日 - 2002年)は、日本の著作家・文筆家。創造工学研究所所長。 広島県または山梨県生まれ。第四高等学校卒、1939年北海道帝国大学理学部物理学科卒。 電電公社電気通信研究所調査役をへて、創造工学研究所を設立し所長。 川喜田二郎のKJ法に対し自身の方法をNM法と名づけた。 禅仏教に関心を深めていった。
扇谷 正造(おうぎや しょうぞう、1913年3月28日 - … 扇谷 正造(おうぎや しょうぞう、1913年3月28日 - 1992年4月10日)は日本の文筆家、編集者、ジャーナリスト。 "週刊誌の鬼"の綽名で知られた。 宮城県遠田郡涌谷町出身。旧制石巻中学、旧制二高を経て、1935年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、朝日新聞社に入社。青森支局、仙台支局を経て、1937年に社会部記者、1938年に従軍記者として第101師団に配属され、武漢作戦に参加。1941年12月、再度従軍記者となり、フィリピンのリンガエン湾に上陸。 1944年(昭和19年)3月に補充兵として召集され、歩兵第4連隊に入営。朝鮮の羅南で三カ月の訓練を受け、通信兵となる。湘桂作戦(ト号作戦)に参加。
大崎 正二(おおさき しょうじ、1913年1月18日 - 2… 大崎 正二(おおさき しょうじ、1913年1月18日 - 2003年)は、日本の著述家、翻訳家。 旧制福岡県嘉穂中学校卒。1935年に東京外国語学校仏語科卒業、大倉商事に入社。1937年から1944年までパリ支店勤務、次いでベルリン支店に移り、敗戦直前にシベリア経由で帰国。戦後、ロンドン支店長、パリ支店長を経て退職。その間、東京外国語大学講師。フランス文学の翻訳を行った。
山上 次郎(やまがみ じろう、1913年(大正2年)1月1日… 山上 次郎(やまがみ じろう、1913年(大正2年)1月1日 - 2010年(平成22年)3月13日)は、日本の歌人・文筆家。別名「童馬堂人」。 愛媛県出身。愛媛県立三島中学校(旧制中学)を卒業後、農業従事のかたわら短歌を学んだ。1941年太平洋戦争に従軍しビルマにて負傷、1942年に帰還した。従軍時の歌集「弾雨に禊ぐ」が第一歌集となる。敗戦後、農民組合を結成し農民運動に参加した。1951年には愛媛県議会議員に当選し、以後12年間県政に参与した。その間、斎藤茂吉に関する著書を出版するとともに歌集を上梓するなど旺盛な文筆活動を続けた。1967年以降は文学・著述に専念し、正岡子規や斎藤茂吉の研究に没頭した。
東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日… 東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。 京都第16師団、福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。日記の一部記述について元上官と名誉毀損裁判となり、二審まで東日記の記述の公表に公益性は認定されたものの、事実であるかについて客観的証拠がないと判定され、最高裁で上告理由がないとして、そのまま損害賠償を命じられた。 京都府竹野郡間人村(たいざむら)出身。間人小学校を卒業後、1926年(大正15年)に京都府立第二中学校に進学した。
高嶋 雄三郎(たかしま ゆうざぶろう、1911年10月2日 … 高嶋 雄三郎(たかしま ゆうざぶろう、1911年10月2日 - 1993年6月27日)は、医療研究家、文筆家。 東京市小石川区(現:東京都文京区)に東洋大学学長などを務めた高島米峰の三男として生まれる。東京府立第五中学校を経て、法政大学文学部国文科卒。東京宝塚劇場文芸部勤務、1939年中央公論社勤務、1949年学風書院を創設。健康雑誌『主治医』編集長、日本植物友の会参与、松葉を食べる会主宰。
田中 正明(たなか まさあき、明治44年(1911年)2月1… 田中 正明(たなか まさあき、明治44年(1911年)2月11日 - 平成18年(2006年)1月8日)は、日本の歴史研究家、政治思想家、近現代史評論家、著述家、新聞編集者。戦前・戦時中は松井石根の私設秘書としてアジア解放運動に従事した。 大亜細亜協会編集責任者、戦後は、拓殖大学講師、世界連邦建設同盟事務局長、財団法人国際平和協会専務理事を務めるほか、近現代史評論家として著述活動を活発に行った。 長野県下伊那郡喬木村出身。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)卒業。1933年、興亜学塾卒業。松井石根の元私設秘書、松井が設立発起人となった大亜細亜協会編集責任者となる。応召し、無錫で終戦を迎える[要出典]。
麻田 満洲野(あさだ ますの、1910年11月5日 - 没年… 麻田 満洲野(あさだ ますの、1910年11月5日 - 没年不明)は、東京都出身(北海道生まれ)の日本舞踊家、著述家。藤蔭流の名取で、芸名は藤蔭 満洲野(ふじかげ ますの)。 1910年(明治43年)、駒井徳三の次女として北海道に出生。三輪田高等女学校を経て、明治大学女子部法科を卒業。幼少時より舞踊に馴染み、初期は西洋舞踊を学んだが、途中より日本舞踊に傾倒し、舞踊界で重きをなした。また、舞踊関連などの著書を残している。
北原 三男(きたはら かずお、1910年〈明治43年〉3月2… 北原 三男(きたはら かずお、1910年〈明治43年〉3月28日 - 1993年〈平成5年〉)は、台湾総督府官僚、鹿児島県職員、また夏目 漠(なつめ ばく)の筆名で日本の詩人、文筆家。鹿児島県職員としては、人事分野や社会福祉行政に携わった他、文化振興にも尽力し、鹿児島県文化センター初代館長を務めた。 鹿児島県鹿児島市に生まれる。旧制の鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1930年(昭和5年)第七高等学校造士館文科(甲類)を卒業。1933年(昭和8年)10月高等試験行政科に合格し、翌年3月に東京帝国大学法学部法律学科を卒業する。1936年(昭和11年)台湾拓殖に入社し、1939年(昭和14年)に台湾総督府属となる。
九重 京司(ここのえ きょうじ、1910年2月16日 - 1… 九重 京司(ここのえ きょうじ、1910年2月16日 - 1985年7月2日)は、日本の俳優、著述家(性神研究家)である。元助監督、元脚本家であり、小津安二郎の『東京の女』および『非常線の女』(1933年)に見習助監督としての記録がある。本名平塚 廣雄(ひらつか ひろお)。東京府知事、台湾総督府総務長官、貴族院勅選議員を歴任した平塚廣義は実父である。 1910年(明治43年)2月16日、長崎県長崎市に生まれる。父・平塚広義(1875年 - 1948年)は、当時は内務省の官僚であり、長男の廣雄(九重京司)は父が各地の知事を務めるたびに各地を転々とし、廣雄が15歳のころ、1925年(大正14年)9月16日には東京府知事に就任している。
河田 清史(かわた きよし、1909年〈明治42年〉11月3… 河田 清史(かわた きよし、1909年〈明治42年〉11月3日 - 1991年〈平成3年〉)は、日本の翻訳家、文筆家。本名・篠原善太郎。創価学会系の東西哲学書院 元代表取締役。 東京生まれ。1935年、東京帝国大学文学部美学専攻卒業。1939,40年に宝塚歌劇の脚本を執筆。アジア文学に関心が深く『ラーマーヤナ』の抄訳を数回行った。
大久保 忠利(おおくぼ ただとし、1909年8月28日 - … 大久保 忠利(おおくぼ ただとし、1909年8月28日 - 1990年6月1日)は、日本の言語学者・国語学者・文筆家。 神奈川県小田原市生まれ。1929年東京外国語学校卒。新聞記者、ユーモア作家、中学教師などを経て、東京都立大学教授。言語学、国語学、国語教育などについて多くの著述活動をした。
片桐 顕智(かたぎり あきのり、1909年8月23日 - 1… 片桐 顕智(かたぎり あきのり、1909年8月23日 - 1970年1月29日)は、日本の歌人、日本文学研究者、文筆家。 長野県野沢温泉村豊郷生まれ。新潟県社会教育課勤務の片桐佐太郎の三男。 旧制新潟高等学校卒、1935年東京帝国大学文学部国文科卒。日本放送協会に勤務、編成局社会部長、ラジオ局文芸部長、芸能局次長、1960年総合放送文化研究所所長。1952年に『NHK短歌』を創刊。 1965年退職、1966年跡見学園女子大学教授。 学生時代に歌誌『真人』に参加。落合直文、斎藤茂吉を研究。日本エッセイストクラブ賞選考委員を務めた。
松田 甚次郎(まつだ じんじろう、1909年(明治42年)3… 松田 甚次郎(まつだ じんじろう、1909年(明治42年)3月3日 - 1943年(昭和18年)8月4日)は、日本の農業指導者、著述家。 宮沢賢治の影響を受けて、郷里で後世の村おこしに当たる活動を実践し、その経験を記した著作『土に叫ぶ』はベストセラーとなった。 山形県出身。1909年(明治42年)3月3日、山形県最上郡稲舟村鳥越(現新庄市)において、当時集落一番の大地主である松田甚五郎の長男として生まれた。 盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)在学中に宮沢賢治と出会い、卒業後に「小作人たれ」「農村劇をやれ」という賢治の言葉を実践する。以後、農民生活の向上と農村文化・芸術の確立に生涯をかけて取り組んだ。
長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12… 長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12月20日 - 1995年7月16日)は、日本の編集者、文筆家。 岐阜県出身、名古屋市生まれ。1924年、私立目白中学校3年編入学、埴谷雄高が同期。1926年、目白中学校4年修了で第一高等学校 (旧制)に入ったが1928年に病気のため退学。1929年、法政大学予科第二部入学。法政大学文学部哲学科卒。岩波書店、1946年中央公論社勤務、『思想の科学』などの編集に当たる。63年中央公論社を定年退職。本州大学教授、改称で長野大学教授、1984年退職。文学、哲学などについて執筆した。
岡田 武彦(おかだ たけひこ、1908年(明治41年)11月… 岡田 武彦(おかだ たけひこ、1908年(明治41年)11月22日 - 2004年(平成16年)10月17日)は、日本の哲学者・著述家。 兵庫県飾磨郡白浜村字中村(白浜町を経て、現在の姫路市白浜町)で生まれる。姫路高等学校を経て、1934年(昭和9年)九州帝国大学法文学部支那哲学史専攻(当時)を卒業した。富山県立神通中学校(現在の富山県立富山中部高等学校)教諭を務め、1938年(昭和13年)に宮崎県立延岡中学校(現在の宮崎県立延岡高等学校)教諭、1939年(昭和14年)に福岡県立中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)教諭を務めた。1943年(昭和18年)に長崎師範専門学校(現在の長崎大学教育学部)教諭、1945年(昭和20年)に熊本陸軍幼年学校教官、1946年(昭和21年)に福岡県立修猷館高等学校教諭を務めた。
ねず まさし(禰津正志、1908年11月18日 - 1986… ねず まさし(禰津正志、1908年11月18日 - 1986年4月1日)は、日本の歴史学者、考古学者、著述家、翻訳家。専門は天皇史と昭和史。 本名の「禰津正志」、および「ねづ まさし」の名義でも著述活動を行った。 東京出身。1932年京都帝国大学文学部史学科国史専攻卒業。卒業論文は「文久元年露艦の對馬占據に關する外交史的研究」。同大学院考古学科修了。1936年文部省維新史料編纂局に入る一方で、1935年京都で創刊された雑誌『世界文化』の同人となり、その姉妹紙である週刊紙『土曜日』にも執筆するなど反ファシズム市民文化運動に関与したが、1937年、人民戦線事件で治安維持法違反として検挙された。戦後は天皇制、日本史、フランス革命に関する著述、翻訳を行う。
東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年〈明治41年〉7月… 東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年〈明治41年〉7月8日 - 1999年〈平成11年〉5月6日)は、日本の画家、版画家、著述家。昭和を代表する日本画家の一人で、風景画の分野では国民的画家といわれる。文化勲章受章者。千葉県市川市名誉市民。本名は東山 新吉(ひがしやま しんきち)。 船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として神奈川県横浜市の海岸通に生まれる。父の仕事の関係で3歳の時に兵庫県神戸市西出町へ転居。兵庫県立第二神戸中学校(現:兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現:東京芸術大学)の日本画科へ進学した。結城素明に師事。在学中の1929年第10回帝展に『山国の秋』を初出品し、初入選を果たす。
池見 猛(いけみ たけし、1907年11月7日 - 2016… 池見 猛(いけみ たけし、1907年11月7日 - 2016年1月3日[要出典])は、日本の精神医学者、池見学園理事長・校長、文筆家。 妻は嵯峨実勝の次女池見啓子(あきこ)。大分県北海部郡丹生村(現大分市)出身。 大分県立三重農学校(現・大分県立三重農業高等学校)卒、東京医学専門学校(現・東京医科大学)卒、中央大学法学部卒、名古屋帝国大学附属医学専門部卒。 1939年「精神的傾向の遺伝学的研究」で名古屋帝国大学医学博士。1959年「精神障碍性犯罪の刑事学的研究」で中央大学法学博士。 民族科学研究所を主宰、『民族科学』を刊行。1952年東京品川簿記学校を開校、1956年池見経理学校、1968年学校法人池見学園を設立し、校長、理事長を務める。
福永 操(ふくなが みさお、1907年5月8日‐1991年1… 福永 操(ふくなが みさお、1907年5月8日‐1991年1月11日)は、日本の社会運動家、著述家。兵庫県出身。東京女子大学中退。旧姓は波多野、是枝。 1907年、大浦事件の裁判長を務めた波多野高吉と高等女学校教師はまの間に生まれた。1924年、北海道庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)を卒業し、東京女子大学英語専攻部に入学。在学中に社会科学研究会を結成し、女子学生運動を指導した。 1927年日本共産党に入党後、『無産者新聞』編集長だった是枝恭二と結婚。翌年、三・一五事件で検挙された。1934年2月、治安維持法再犯として起訴され、服役した。 戦後は1955年に日本共産党復党後、地域活動に従事する傍ら、思想研究や運動史研究を行った。
和田 重正(わだ しげまさ、1907年1月23日 - 199… 和田 重正(わだ しげまさ、1907年1月23日 - 1993年5月15日)は、日本の教育家、文筆家。 鎌倉生まれ。父は鉱物学者の和田八重造。 浦和高等学校卒、1929年東京帝国大学法学部法律学科卒。17歳の頃から人生に深く悩み、28歳で機縁にめぐりあって東京西荻窪で青年のため、一誠寮をという寮を開く。 戦後は小田原で「はじめ寮」、1967年から山北町に一心寮を設けて青少年と生活をともにする。 くだかけ会(家庭教育を見直す会)主宰。同行教育人生科を提唱。息子の和田重良が後継者となり「くだかけ生活舎」を運営している。
苅田アサノ(かんだ あさの、本名:堀江アサノ(ほりえアサノ)… 苅田アサノ(かんだ あさの、本名:堀江アサノ(ほりえアサノ)、1905年6月21日 - 1973年8月5日)は、日本の政治家、婦人運動家、著述家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。夫は元日ソ協会副会長の堀江邑一。 岡山県津山町(現・津山市)生まれ。生家は代々地主の家系で、学生時代からロシア文学及び社会主義思想に傾倒し、日本女子大学国文科を卒業後の1931年、日本共産党に入る。入党以降財政面で支援を行うものの、1933年に治安維持法の疑いで検挙。転向の後1935年に出獄すると東洋経済新報社などを経て、1938年には郷里の岡山県に戻り西日本製紙に勤務する。 戦後は日本共産党に再入党し、1949年の衆院選に旧岡山1区から出馬し初当選を果たす。
杉本 捷雄(すぎもと かつお・はやお、1905年(明治38年… 杉本 捷雄(すぎもと かつお・はやお、1905年(明治38年)1月1日 - 1970年(昭和45年)11月17日)は、日本の文筆家・陶芸研究者・歴史研究者。陶芸研究においては、古曾部焼、丹波焼を中心に調査・資料収集を行なった。 大阪市生まれ。東洋大学卒業。小説家として活動した後、陶芸研究・千利休の周辺をはじめとする歴史研究を行ない、兵庫県陶芸館副館長を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
関 忠志(せき ただゆき、1905年 - 1987年)は、日… 関 忠志(せき ただゆき、1905年 - 1987年)は、日本の著述家、ボーイスカウト運動の指導者。 少年時代からボーイスカウト運動に参加し、明治大学に入学し日本最初の大学スカウト体を創設する。第二次世界大戦後ボーイスカウト運動再建のためにボーイスカウト日本連盟総主事に就任する。その後日本ユネスコ協会連盟事務局長を歴任する。この間米国へ青年教育視察に赴き、インド、東南アジアにユネスコ世界青年会議のために渡航する。その他ギリシャや欧州に渡航しボーイスカウト世界大会の開催に尽力する。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
神崎 清(かんざき きよし、1904年8月31日 - 197… 神崎 清(かんざき きよし、1904年8月31日 - 1979年3月2日)は、日本の小説家、文筆家。 島本 志津夫(しまもと しづお)の筆名も用いた。 香川県高松市出身。旧姓は河野であった。 兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)から大阪高等学校に進学。大阪高等学校在学中の1925年に大阪で創刊された文芸同人誌『辻馬車』に藤沢桓夫らとともに参加。 東京帝国大学文学部国文科を1928年に卒業。卒業後、大森高等女学校(現・三田国際学園中学校・高等学校)の教員を務めたが、思想的な理由により1930年に退職に追い込まれる。以後、文筆業に就く。 島本志津夫名義で映画『女學生と兵隊』の原作も手がけた。
鹿島 宗二郎(かしま そうじろう、1904年(明治37年)6… 鹿島 宗二郎(かしま そうじろう、1904年(明治37年)6月13日 - 1980年(昭和55年)6月1日)は、日本の諜報員、著述家、翻訳家。別名吉田 東祐(よしだ とうすけ)。筆名高杉 三郎。 東京生まれ。東京府立第四中学校(のちの東京都立戸山高等学校)を経て、1927年に東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業後、鉄鋼会社に入社。 共産主義を研究するため退社し、横浜専門学校(のちの神奈川大学)教授や、第一飛行学校理事も務めたが、教壇を追われたため、麹町区飯田町にて古本屋「三一書房」を立ち上げ、日本共産党に入党(中央委員会直属特別資金局B班)。 逮捕され執行猶予判決を受けるなどし、1936年に中国に渡り、秋草俊中佐や大使館付武官だった喜多誠一の発案で、大日本帝国陸軍の下、上海租界に潜入して情報網を築き、日中戦争開戦後は、和平交渉に従事した。
水島 あやめ(みずしま あやめ 1903年7月17日 - 1… 水島 あやめ(みずしま あやめ 1903年7月17日 - 1990年12月31日)は、新潟県六日町(現南魚沼市)出身の著述家。日本初の女流映画脚本家で後に児童文学作家となった。
大橋 秀雄(おおはし ひでお、1903年3月15日 - 20… 大橋 秀雄(おおはし ひでお、1903年3月15日 - 2002年6月1日)は、日本の警察官、著述家。元警視庁警視正。 警視庁特高部外事課に所属していた警部補当時、副主任としていわゆるゾルゲ事件を担当し、事件の全貌を明らかにした。その功により、1943年(昭和18年)に内務大臣功労記章を受章した。 神奈川県横浜市出身。横浜商業学校を経て、日本大学専門部法律学科第二本科を卒業した。1924年(大正13年)、陸軍近衛野砲兵連隊に入営し、1928年(昭和3年)陸軍砲兵少尉に任官した。同年警視庁巡査となる。 1932年(昭和7年)に巡査部長、1935年(昭和10年)に警部補に昇進する。1936年(昭和11年)、特別高等警察部外事課欧米係となる。
桑原 鶴(くわばら つる、1902年〈明治35年〉12月25… 桑原 鶴(くわばら つる、1902年〈明治35年〉12月25日 - 1969年〈昭和44年〉7月28日)は、日本の外交官・文筆家。外交官としてはエジプト王国代理公使などを勤めた。外務省内にあって日独防共協定締結に反対し、太平洋戦争の無条件降伏による敗戦を予見して講和による終結を唱えたことで知られる。戦後は外務省を退官し在野で著述活動を行った。 群馬県利根郡川場村門前に生まれる。川場村尋常小学校を経て、旧制沼田中学校(現在の群馬県立沼田高等学校)から第一高等学校に進み、東京帝国大学法学部に入学。1924年高等文官試験外交科、翌1925年同行政科に合格。 1926年に外務省入省。イタリアや青島で在勤の後、1936年に公使館三等書記官としてアフガニスタンに赴任。
北條 秀司(ほうじょう ひでじ、新字体:北条、1902年(明… 北條 秀司(ほうじょう ひでじ、新字体:北条、1902年(明治35年)11月7日 - 1996年(平成8年)5月19日)は、劇作家、演出家、著述家。本名:飯野 秀二(いいの ひでじ)。 大阪市西区西長堀生まれ。 大阪市立甲種商業学校(現大阪市立天王寺商業高等学校)予科に進む。同校本科には進まず、1920年に日本電力に入社。同社で働きながら、関西大学専門部文学科(夜間)を卒業。 商業学校在学中の1919年に、室町銀之助の筆名で宝塚少女歌劇の第5回脚本公募に応募し、一等に入選する。1920年7月、宝塚公会堂劇場で入選脚本が「コロンブスの遠征」として上演された。 1926年、久松一声の誘いで宝塚歌劇団に入社の話があったが、面接での宝塚幹部の態度が傲慢だと感じ、入社拒否。