熊沢 龍(くまざわ りゅう、1901年2月3日 - 1974… 熊沢 龍(くまざわ りゅう、1901年2月3日 - 1974年2月28日)は、昭和時代の言語学者、国語教育者。東京教育大学名誉教授、東京成徳短期大学学長、日本国語教育学会理事長を務めた。位階および勲等は正三位・勲三等。 東京府南多摩郡忠生村大字上小山田(現在の東京都町田市常盤町)の寺子屋師匠である斎藤楓山の長男として生まれる。後に熊沢家の養子となる。父は1873年、現在の小山田小学校の前身である有隣学舎の訓導となった。1908年5月、病気のため辞職し同年12月17日に没したが、村民の教育のために一生を捧げた。祖父は本山派修験の持宝院不動尊の山主であった阿闍梨芳山。 東京文理科大学文学科を1932年に卒業後、同大学の研究科に入り、1934年に助手となる。
田淵 光一(田渕 光一、たぶち こういち、1900年(明治3… 田淵 光一(田渕 光一、たぶち こういち、1900年(明治33年)2月3日 – 1972年(昭和47年)5月3日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。「田渕」と表記される場合がある。 和歌山県有田郡、のちの金屋町(現有田川町)で生まれた。法政大学専門部法律科で学んだが、関東大震災で負傷し中退した。 1937年(昭和12年)日本林産鉱業取締役社長、1938年(昭和13年)明治採炭鉱業社長にそれぞれ就任し、1942年(昭和17年)から三重県、奈良県で亜炭鉱山上野炭鉱などを経営した。その他、奈良県亜炭鉱業会長、近畿亜炭鉱業会理事、全国亜炭鉱業連合会常任理事、奈良県亜炭協同組合理事長、石炭増産協力会推進専門委員、全国亜炭産業会総務理事、全国亜炭協会長、国際化成社長、伊賀窯業取締役などを務めた。
小辻 節三 (こつじ せつぞう、アブラハム・ベン・アブラハム… 小辻 節三 (こつじ せつぞう、アブラハム・ベン・アブラハム・コツジ、1899年〈明治32年〉2月3日- 1973年〈昭和48年〉10月31日)は、日本の言語学者、古代オリエント学者である。 1899年10月31日、賀茂神社の代々続いていた神主の家系の末子として京都に生まれた。神主であった父の影響で幼少期から神道を学び、学校教育では武士道を学んだ。 小辻が13歳の頃、明治天皇が崩御し、それに続いて乃木希典が殉死したことをきっかけに、生きる意味について考えるようになった。そこからたまたま古本屋で見つけたヘブライ語聖書を購入し、読むようになっていった。その後、父の反対を押し切り、明治学院大学神学部に進学した。
遠藤 直人(えんどう なおと、1898年〈明治31年〉2月3… 遠藤 直人(えんどう なおと、1898年〈明治31年〉2月3日 - 1986年〈昭和61年〉4月6日)は、日本の内務官僚。メナド州知事などを務め、兵庫県最後の官選知事であった。戦後は帰農した一方で、福島県公安委員長などの公職を務めた。 福島県耶麻郡熱塩加納村(現喜多方市)出身。遠藤直美の長男。会津中学、二高を経て、1923年(大正13年)東京帝国大学を卒業。在学中に高等試験に合格しており、内務省に入省した。官歴は大阪府警部に始まる。山梨、長崎での勤務を経て、福岡の社会課、商工課兼水産課の各課長、富山、長崎の書記官、学務部長を歴任。1938年(昭和13年)、厚生省書記官として中央勤務となり、失業対策部総務課長として失業者対策を行った。
成瀬 政男(なるせ まさお、1898年2月3日 - 1979… 成瀬 政男(なるせ まさお、1898年2月3日 - 1979年7月12日)は、日本の機械工学者、東北大学名誉教授。初代職業訓練大学校校長。歯車の権威として知られる。位階および勲等は正三位・勲二等。 千葉県安房郡北条町(現館山市)八幡生まれ。白浜村(現南房総市)育ち。祖父の藤蔵は長尾藩士。父の作蔵は白浜尋常小学校代用教員で家は貧しく、1910年に尋常高等小学校卒業後、畑仕事をしながら進学し、1916年に千葉県安房中学校(現千葉県立安房高等学校)卒業後、尋常高等小学校代用教員となる。小学校の恩師に勧められて進学した東北帝国大学工学専門部機械工学科では銀時計を授かり1920年に卒業後、宮城県立工業学校教諭となる。
青木 作雄(あおき さくお、1898年〈明治31年〉2月3日… 青木 作雄(あおき さくお、1898年〈明治31年〉2月3日 - 1985年〈昭和60年〉8月6日)は、日本の政治家(衆議院議員、山口県会議員、下関市会議員)、家主、山口県多額納税者、会社役員。山陽ビルディング取締役。 山口県下関市出身。青木平七の長男。1920年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。広島高等工業学校に学んだ。 古河合名調査課、百十銀行貸付係等歴勤。1923年、家督を相続した。1927年、家業を継いだ。貸家業を営んだ。陸軍三等主計に任ぜられた。 下関市会議員、同参事会員、山口県会議員、同参事会員等となる。1937年、衆議院議員に選ばれ、1期務めた。興亜議員同盟、東方会に所属した。
三好 義雪(みよし よしゆき、1894年〈明治27年〉2月3… 三好 義雪(みよし よしゆき、1894年〈明治27年〉2月3日 - 没年不明)は、日本の医師(内科小児科、三好医院)、会社役員。族籍は広島県平民。 広島県広島市東白島町(現・広島市中区東白島町)出身。三好家は代々医を業とする。広島高等師範学校附属中学校を優等の成績を以て卒業する。1915年、岡山医学専門学校を卒業する。1916年、舟入病院臨時医員嘱託、同年に広島県防疫医拝命、同年に一年志願兵として入隊。1917年、正八位に叙される。 1920年、予備役三等軍医後広島病院に勤務。1923年、開業する。内科小児科を主とする。白島小学校医、広島高等師範学校医である。1930年以来広島市医師会理事。1937年、鈴木商店監査役に就任する。
田口 政五郎(たぐち まさごろう、1894年(明治27年)2… 田口 政五郎(たぐち まさごろう、1894年(明治27年)2月3日 - 1964年(昭和39年)2月8日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、兵庫県明石市長、同明石郡垂水村長、同垂水町長。 兵庫県明石郡、のちの明石市で生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学経済学部を卒業した。 1923年(大正12年)兵庫県会議員に選出された。その後、垂水村長、垂水町長(2期)を務めた。1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で兵庫県地方区から民主党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)した。次の第2回通常選挙には出馬せず、参議院議員に1期在任した。この間、第3次吉田内閣大蔵政務次官などを務めた。
由谷 正太郎(ゆたに しょうたろう、1893年〈明治26年〉… 由谷 正太郎(ゆたに しょうたろう、1893年〈明治26年〉2月3日 - 1965年〈昭和40年〉)は、日本の実業家。丸由百貨店専務取締役。由谷家4代目。 鳥取県鳥取市川端の呉服商・由谷節の長男。鳥取市立遷喬小学校を経て旧制鳥取県立鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。呉服太物洋反物卸商を営む。1935年、家督を相続する。 1937年、米原章三と提携し、鳥取駅前にターミナルデパートとして丸由百貨店を設立し、由谷は専務に就任する。 趣味は野球、釣り。宗教は日蓮宗。住所は鳥取市川端4丁目。
松川 昌藏(まつかわ しょうぞう、1892年(明治25年)2… 松川 昌藏(まつかわ しょうぞう、1892年(明治25年)2月3日 - 1973年(昭和48年)4月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、一関市長、弁護士。位階は正五位。勲三等旭日中綬章。 岩手県東磐井郡松川村(のち東山町、現在の一関市)出身。1918年、京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補から岐阜、水戸各地裁検事、福島地裁若松支部判事を歴任した後、1923年に退官して弁護士になる。一関町議、岩手県議、一関町長などを務め、1936年の第19回衆議院議員総選挙で立憲政友会公認で立候補して当選し、以来3期務める。戦後の1946年の総選挙で日本自由党公認で立候補して当選。自由党では政調会行政機構改革部長を務めた。
諸口 十九(もろぐち つづや、1891年2月3日 - 196… 諸口 十九(もろぐち つづや、1891年2月3日 - 1960年4月17日)は、日本の俳優、占い師である。本名同じ。大正末期から昭和初期にかけて、松竹蒲田撮影所の二枚目俳優として一世を風靡し、俳優廃業後は諸口 悦久(もろぐち よしひさ)を名乗って占い師に転向、断易の大家として知られた。 1891年(明治24年)2月3日、福井県大野郡大野町(現在の同県大野市)に生まれる。 1907年(明治40年)、満16歳の時に上京し、旧制福井県立大野中学校(現在の福井県立大野高等学校)から旧制成城中学校(現在の成城中学校・高等学校)に転校する。ところが、翌1908年(明治41年)には中退して、新派俳優藤澤浅次郎が後継者養成のため私財を投じ、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)にあった牛込高等演芸館を校舎に開校した東京俳優養成所(後の東京俳優学校、1911年閉校)の第1期生として入所、同期には岩田祐吉、田中栄三、上山草人らがいた。
木村 荘太(きむら そうた 1889年2月3日 - 1950… 木村 荘太(きむら そうた 1889年2月3日 - 1950年4月15日)は、東京府出身の作家、翻訳家。本名の読みは「しょうた」。別名に久木今作、木村艸太(そうた)。木村荘平の子。女性関係と奇人ぶりで知られた。 東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)に、木村荘平の妾腹の子として生まれる。 父は牛鍋屋チェーン店"いろは"を20数箇所に展開して"いろは大王"と呼ばれると共に、葬儀会社"博善社"の社長も兼ねた実業家で、正妻の他に多数の愛人を持ち、諸方に儲けた子の数が男13人に女17人。荘太の異母姉栄子が木村曙の筆名で作家として知られた他、同母弟に木村荘八(挿絵画家)、異母弟に木村荘十(直木賞作家)と木村荘十二(映画監督)がいる。
越智 孝平(おち こうへい、1889年(明治22年)2月3日… 越智 孝平(おち こうへい、1889年(明治22年)2月3日 - 1968年(昭和43年)6月25日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。松山市長。 愛媛県和気郡堀江村(現:松山市堀江町)で越智倉吉、ヨシ夫妻の息子として生れる。1907年、私立北予中学校を卒業し、海軍兵学校(38期)に入学。1910年7月、同校を卒業し、1911年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、次いで海軍水雷学校高等科学生、同特修科学生として学んだ。第三水雷戦隊司令部付、米国駐在、第一水雷戦隊司令部付兼参謀、「陸奥」通信長心得などを経て、1924年11月、海大甲種22期を卒業した。 以後、軍令部参謀、第二遣外艦隊参謀、海軍大学校教官、在メキシコ国公使館付武官などを歴任。
柴田 勝太郎(しばた かつたろう、1889年(明治22年)2… 柴田 勝太郎(しばた かつたろう、1889年(明治22年)2月3日 - 1975年(昭和50年)11月10日)は、日本の化学技術者、実業家。東洋高圧工業(現三井化学)社長や、有機合成化学協会会長、安全工学協会会長等を歴任した。 兵庫県朝来市山東町大月生まれ。東京高等工業学校(現東京工業大学)電気化学科を経て、1915年東北帝国大学理科大学化学科卒業。同年日本製鋼所に入社するが、室蘭町の寒さで神経痛にかかり、8カ月で退社した。1916年9月の新学期より母校東京高等工業学校電気化学科助教授を務め、アンモニア合成の研究に従事し、1918年に農商務省臨時窒素研究所が設立されると、同研究所のアンモニア合成研究の主任研究員に就任。
板橋 菊松(いたばし きくまつ、1888年(明治21年)2月… 板橋 菊松(いたばし きくまつ、1888年(明治21年)2月3日 - 1983年(昭和58年)1月23日)は、日本のジャーナリスト、大学教授である。 1888年(明治21年)2月3日、大阪府三島郡で出生。1905年(明治38年)、関西大学に入学するが、1907年(明治40年)、早稲田大学政経学科に転じる。卒業後、宮武外骨率いる大阪滑稽新聞に入社。記者として活躍し、宮武外骨が編集から離れたのちには、主筆を務めた。1920年(大正9年)朝鮮に渡り京城高等商業学校講師に就任。その後、1926年(大正15年)には、内地に戻り立教大学の講師に就任し、翌1927年(昭和2年)には商学部の教授に昇進した。1928年(昭和3年)司法省在外研究員としてアメリカ、イギリスに留学した。
浅野 孝之(あさの たかゆき、1888年2月3日 - 194… 浅野 孝之(あさの たかゆき、1888年2月3日 - 1948年7月25日)は、日本の教育者、浄土真宗僧侶、旧制成蹊高等学校初代校長。旧制姫路高等学校校長、第七高等学校造士館校長、山口経済専門学校校長等も歴任した。 愛媛県越智郡小西村(後の大西町、現今治市の一部)大字脇生まれ。同地の明専寺(浄土真宗)住職であった浅野聖諦の長男。旧制松山中学校(愛媛県立松山東高等学校の前身)を1907年に卒業後、第一高等学校を経て、1914年7月に東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)哲学科を卒業。1914年12月7日、文部省教育調査会嘱託となる。1917年5月、アメリカ領ハワイ(布哇)における通俗教育に関する状況調査を嘱託され、またホノルル市にある布哇中学校と布哇高等女学校の教諭に任命される。
斎藤 勇(さいとう たけし、1887年2月3日 - 1982… 斎藤 勇(さいとう たけし、1887年2月3日 - 1982年7月4日)は、日本の英文学者。位階は正三位。 文化功労者、日本学士院会員。日本英文学会第3代会長(1938年 - 1941年)。東京女子大学学長(1948年 - 1954年)。東京帝国大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授。文学博士。孫に惨殺された(斎藤勇東大名誉教授惨殺事件)。 福島県伊達郡富野村(現伊達市梁川町)に農家の長男として生まれる。旧制福島中学校(現福島県立福島高等学校)を経て、1905年、旧制第二高等学校(現東北大学)に入学。1908年、第二高等学校卒業後、東京帝国大学文科大学(英吉利文学専修)に入学。 1911年、東京帝国大学卒業、恩賜の銀時計を受ける。
村田 武(むらた たけし、1887年(明治20年)2月3日 … 村田 武(むらた たけし、1887年(明治20年)2月3日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 静岡県に堀慎作の長男として生まれ、村田熊三郎の養子となった。錦城中学校、第二高等学校を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格。和歌山県属、同警視、同理事官、同日高郡長、京都府理事官、兵庫県理事官、福岡県書記官・学務部長、和歌山県警察部長、岐阜県警察部長、山形県警察部長を歴任した。 1929年(昭和4年)に退官した後は、京都市助役を務めた。
東家 楽燕(あずまや らくえん、本名:岡部 六弥、1887年… 東家 楽燕(あずまや らくえん、本名:岡部 六弥、1887年2月3日 - 1950年3月8日)は明治から昭和にかけて活躍した浪曲師。東京出身。
吉良平治郎(きら へいじろう、1886年2月3日 - 192… 吉良平治郎(きら へいじろう、1886年2月3日 - 1922年1月18日)は、アイヌ民族で北海道の釧路郵便局の逓送人(郵便配達員)である。 吉良は1886年(明治19年)2月3日、釧路の桂恋コタンで生まれた。父はヌサシベ(和名:縫治)、母はマツツル(和名:ミツ)という。父の死後、母は再婚したため父方の叔母によって養育された。15歳のとき高熱(リュウマチが原因といわれる)のために左手と左足が麻痺したが、その後の訓練によって少しずつ動かせるようになった。炭焼きや薪割などの仕事に従事していたが、生活は貧しかった。吉良は無口だが働き者で実直な性格だったため、雇い主からも信頼されていたという。 1922年(大正11年)1月16日、昆布森郵便局の臨時逓送人に採用され、釧路局と昆布森局の間の郵便物の逓送をすることになった。
田辺 元(たなべ はじめ、1885年(明治18年)2月3日 … 田辺 元(たなべ はじめ、1885年(明治18年)2月3日 - 1962年(昭和37年)4月29日)は、日本の哲学者。旧字体での表記では田邊 元。西田幾多郎とともに京都学派を代表する思想家。京都大学名誉教授。1947年帝国学士院会員、1950年文化勲章受章。 東京に生まれる。父は、東京の開成中学校の校長を務め、逗子開成や鎌倉女学院を設立した田辺新之助である。弟は黒田清輝に学んだ東京美術学校教授の田邊至である。ピエール・ベール著作集の翻訳などで知られる東京都立大学教授、仏文学者の野沢協は甥である。なお、田邊の妻・千代(海軍教授・蘆野敬三郎娘)は藤村操の従姉妹である。したがって田邊がのちに対決することになる西田幾多郎の最初の全集の編者に名を連ねている安倍能成と田邊は、義理の従兄弟同士となる。
平田 貫一(ひらた かんいち、1883年〈明治16年〉2月3… 平田 貫一(ひらた かんいち、1883年〈明治16年〉2月3日 - 1971年〈昭和46年〉1月13日)は、日本の内務官僚、神職。皇學館大学初代学長。 鹿児島県薩摩郡宮之城町(さつま町)出身。第七高等学校を経て、1909年(明治42年)、東京帝國大學法科大学政治学科を卒業し、高等文官試験に合格した。農商務省に入り、特許局審査官補、鉱山監督署事務官、鉱務官、札幌鉱務署鉱政課長を務めた。その後、内務省に転じ、社会局書記官、兵庫県産業部長、岐阜県内務部長、栃木県内務部長、福岡県内務部長を歴任した。 1930年(昭和5年)、神宮皇學館長に就任。その後、近江神宮宮司を務めた。 戦後は2度にわたり神社本庁事務総長に就き、1962年(昭和37年)に皇學館大學が再興すると初代学長を務めた。
衛藤 衛(えとう まもる、1883年2月3日 - 1992年… 衛藤 衛(えとう まもる、1883年2月3日 - 1992年2月16日)は、日本の宣教師。アメリカの日系人教会でも牧師を務めた。日本人マフィアのモンタナ・ジョーこと衛藤健の実父でもある。 大分県竹田に生まれる。大分師範学校卒業後、1903年(明治36年)徴兵検査に合格し、第12師団に所属。1904年(明治37年)の日露戦争の際には遼陽会戦に参加。歩兵連隊の司令部で戦闘報告書を書く任務に就く。 関西学院の創立にも関わり、体操の教師を務めた。1917年(大正6年)に日本政府より日系アメリカ人の実態調査を命じられ、カリフォルニア州に派遣される。現地の日系人の荒んだ状態を目の当たりにした衛藤は、彼らを救済するためにストックトンで教会を開く。
神保 重吉(じんぼ じゅうきち、1881年(明治14年)2月… 神保 重吉(じんぼ じゅうきち、1881年(明治14年)2月3日 - 1957年(昭和32年)12月31日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 石川県珠洲郡正院村字川尻(現在の珠洲市)に、樋谷内助右衛門の三男に生まれ、神保康治の養子となった。1902年(明治35年)に石川県師範学校を卒業し、1915年(大正5年)に日本大学法律科を卒業した。1920年(大正9年)に判事検事登用試験に合格し、司法官試補に任ぜられるまでの10数年の間、小学校訓導・校長、金沢市書記などを務めた。1922年(大正11年)、官を辞して金沢市で弁護士事務所を開業。その後石川県会議員、同参事会員、金沢市会議員を歴任した。
小松 慶也(こまつ けいや、1878年2月3日 - 1939… 小松 慶也(こまつ けいや、1878年2月3日 - 1939年6月16日)は、明治の陸軍騎兵大尉。1910年にアルゼンチンへ移民し、牧場主となった。
国分 謙吉(こくぶん けんきち、1878年(明治11年)2月… 国分 謙吉(こくぶん けんきち、1878年(明治11年)2月3日 - 1958年(昭和33年)11月24日)は、農政指導者、政治家。岩手県知事2期(1947年 - 1955年)。 岩手県二戸郡福岡村下川又(現:二戸市)出身。旧盛岡藩士の父・国分喜惣治、母・ミセとの間に三男として生まれた。幼名は小八郎。 学問好きな父の方針により、学齢に達する前の数え年6歳で福岡尋常小学校に入学したが、教室を抜け出して遊び疲れることもままあり、1年落第した。 1888年(明治21年)、福岡尋常小学校に、4年間(落第した1年を加えると5年間)通学した後は、数え年13歳から、父の方針により、泉山銀行へ丁稚奉公に出た。昼は銀行の給仕として雑役いっさいを受け持ち、夜は呉服店の仕事を行い、他の人が寝静まると蝋燭の灯りをたよりに、農業書などを読んだ。
飯島 忠夫(いいじま ただお、1875年2月3日 - 195… 飯島 忠夫(いいじま ただお、1875年2月3日 - 1954年9月27日)は、日本の東洋史学者。 長野県松代町(現長野市)の旧松代藩士の家に生まれる。祖父は藩の故実家・飯島勝休。小学校卒業後、母校で雇として教えるかたわら、外祖父で旧藩上級藩士の長谷川昭道に漢学を師事、1901年上京し旧制錦城中学に編入、翌年卒業。臨時お茶の水第一教員養成所に入り、1904年卒業し学習院中等科教授、1937年(昭和12年)まで務めた。東京帝国大学選科修了。帝大では上田万年に師事した。東宮御学問所御用掛も務めた。1929年(昭和4年)「支那古代史論」で東京帝大文学博士。中国古代史、暦法研究のほか、郷土の人物として佐久間象山も研究した。
小栗 風葉(おぐり ふうよう、本名:加藤 磯夫(旧姓:小栗)… 小栗 風葉(おぐり ふうよう、本名:加藤 磯夫(旧姓:小栗)、1875年(明治8年)2月3日 - 1926年(大正15年)1月15日)は日本の小説家。愛知県生まれ。 愛知県知多郡半田町(現半田市)に薬種商(美濃半)の長男として生まれる。幼名磯平、のち磯夫と改めた。少年の頃から近世稗史小説を好み、柳亭種彦、為永春水らを耽読、また嵯峨の屋おむろ「初恋」などに感動し、『少年園』などに投稿、1889年、家業を継ぐ勉強のため上京。済生学舎、商業素修学校を経て、錦城中学校に学ぶ。1891年高等学校の入試に失敗し一時不良となるが、文学に志を持ち、家業は弟に任せ、尾崎紅葉の硯友社に入門。1893年九州を放浪し、その経験をもとに「片靨」を書き読売新聞に掲載。
長屋 順耳(ながや じゅんじ、1874年(明治7年)2月3日… 長屋 順耳(ながや じゅんじ、1874年(明治7年)2月3日 - 1951年(昭和26年)8月19日)は、東京外国語学校校長。女子学習院長。宮中顧問官。 岐阜県出身。1897年(明治30年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業し、大学院に進学した。1898年(明治31年)に第四高等学校教授となり、1904年(明治37年)から広島高等師範学校教授、1917年(大正6年)から文部省督学官を務めた。1919年(大正8年)、東京外国語学校校長となり、1932年(昭和7年)に女子学習院長に転じた。1940年(昭和15年)に退官して、宮中顧問官となった。
久恒 久太郎(ひさつね きゅうたろう、1874年〈明治7年〉… 久恒 久太郎(ひさつね きゅうたろう、1874年〈明治7年〉2月3日 - 没年不詳)は、明治時代から昭和時代初期にかけての日本の政治家。 1874年、父の久衞と母のテフ子の長男として生まれる。宮永小学校を卒業し、片端中等科(学制改革により卒業時は高等小学校)に進学。1894年(明治27年)、叔父の久恒彌十郎が村長であった豊田村役場の書記に就いた。1902年(明治35年)10月に下宮永の区長に就き、1910年(明治43年)まで務めた。 父の久衞は、旧幕時代には中津藩の硝煙製造を担っていたが、廃藩置県を受けてこれをやめて、線香の製造をはじめた。しかし利益が上がらなかったため、精米製粉業をはじめ、中津町内において米の小売業を営んでいる。
大沼 保吉(おおぬま やすきち、1873年〈明治6年〉2月3… 大沼 保吉(おおぬま やすきち、1873年〈明治6年〉2月3日 - 1962年〈昭和37年〉10月22日)は、日本の造り酒屋経営者。政治家。寿虎屋酒造経営者(第8代)。千代寿虎屋酒造経営者(初代)。山形市長(第10代・3期)。山形県会議員(1期)。山形市会議員(4期)。山形市名誉市民(第1号)。山形商工会議所会頭(第6代)。山形県酒造組合連合会会長。山形市東南村山郡酒造組合組合長(初代)。 『いつも嘘は言わぬ』・『言った事には責任を持って実行する』が格言であった。
武内 大造(たけうち たいぞう、だいぞう、1873年2月3日… 武内 大造(たけうち たいぞう、だいぞう、1873年2月3日 – 1946年3月23日)は、日本のドイツ学者、ドイツ語教育者。東京外国語学校(旧制、現在の東京外国語大学)の教授として長年にわたり教鞭を執り、20世紀前半の日本におけるドイツ語教育の発展に寄与した人物である。 1873年(明治6年)2月3日、埼玉県草加町(現在の草加市)に、薬種商を営む武内作蔵と妻なみの次男として生まれる。東京帝国大学文科大学独逸文学科を1900年に卒業した。 同年、東京外国語学校の教授に任命された。1907年には第七高等学校造士館教授に転じ、1914年、再び東京外国語学校教授に就任した。1932年に同校を退官し名誉教授の称号を受けた後も、講師として1939年まで教壇に立った。
高橋 橘太郎(たかはし きつたろう、1872年2月3日 - … 高橋 橘太郎(たかはし きつたろう、1872年2月3日 - 1909年10月17日)は、明治時代の日本の外交官。元在漢口総領事。 常陸国笠間生まれ。茨城県士族。松島火薬庫爆発事故で死亡した高橋辰三郎海軍機関大尉は弟。妻は三増久米吉元在京城領事の娘。1895年(明治28年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。同年第2回外務書記生試験に合格し、領事館書記生として仁川、牛荘、重慶に在勤した。同期に中村巍など。1898年(明治31年)の戊戌の変法の際には、梁啓超や王照の日本亡命のため宮島に出迎えた。同年辞職。 翌1899年(明治32年)の第8回外交官及領事官試験に合格。1900年(明治33年)在天津領事官補、在清国外交官補。
五百木 良三(いおき りょうぞう、明治3年12月14日(18… 五百木 良三(いおき りょうぞう、明治3年12月14日(1871年2月3日) - 昭和12年(1937年)6月14日)は、日本の国粋主義者。俳号は飄亭。 伊予国温泉郡小坂村新場所(現・愛媛県松山市日の出町)の生まれ。明治18年(1885年)松山県立医学校に入学した。明治20年(1887年)大阪に出て、今橋の町医者のもとに寄寓し、医務手伝いのかたわら勉学にはげみ、19歳で医術開業の免許を得たが、その志は「病を癒さんより国を癒すの医」たらんとするものであった。 明治22年(1889年)上京して、旧藩主久松家の設立になる東京学生寮でドイツ語の研究に専心し、正岡子規と文学を論じ、子規から俳句の指導をうけた。
佐伯 勝太郎(さえき かつたろう、1871年2月3日(明治3… 佐伯 勝太郎(さえき かつたろう、1871年2月3日(明治3年12月14日) - 1934年(昭和9年)1月5日)は、明治から昭和期の日本の化学者、実業家。特種製紙社長、東京帝国大学講師。工学博士。 1895年東京帝国大学工科大学卒業。大蔵省印刷局の印刷技師となり、のちに印刷局抄紙部長、農商務省 技師を兼任。1906年に欧米に派遣され、帰国後、東京帝国大学講師を兼ねる。1921年工業化学会会長。1926年に特種製紙を設立。官・民・学の3方面で日本の紙パルプ産業に貢献し業績を残した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
各務 鎌吉(かがみ けんきち、1869年2月3日(明治元年1… 各務 鎌吉(かがみ けんきち、1869年2月3日(明治元年12月22日) - 1939年(昭和14年)5月27日)は、明治から昭和にかけての日本の実業家。三菱財閥系の東京海上火災保険などの社長・会長をはじめ、三菱財閥の要職を務めて三井財閥の池田成彬とともに内外より重んじられ貴族院議員を務めた。その業績は、「損害保険業界の父」といわれ、国際的にも世界保険殿堂に日本人として初めて選出。大正8年(1919年)ICC(国際商業会議所)の設立メンバー(アトランティック通商会議日本国代表)。 美濃国方県郡安食村(現在の岐阜県岐阜市)の農家の次男として生まれた。父省三は西南戦争勃発の1877年に駅逓寮(のちの郵便局)の下級官吏として勤務した関係で上京したが、鎌吉が中学生のころに辞めて京橋で葉茶屋を始めた。
水野 錬太郎(みずの れんたろう、1868年2月3日〈慶応4… 水野 錬太郎(みずの れんたろう、1868年2月3日〈慶応4年1月10日〉- 1949年〈昭和24年〉11月25日)は、日本の内務官僚、政治家。勲等は勲一等。内務大臣、朝鮮総督府政務総監、文部大臣、貴族院議員などを歴任した。 江戸詰の秋田藩士水野立三郎の子として1868年2月3日(慶應4年1月10日)、江戸浅草鳥越町の秋田藩邸で生まれた。立三郎は秋田の出でなく埼玉の出で、江戸で取り立てられた武士である。立三郎は秋田藩主佐竹義堯の弟佐竹義諶(よしつま)に仕えた。佐竹義諶は秋田藩の支藩岩崎藩主で、1869年(明治2年)義諶(1870年死去)、13歳の佐竹義理(よしただ)が継いだ。 立三郎は戊辰戦争で官軍についた秋田藩のために、妻生後間もない水野と2人の姉を連れて現在の秋田県湯沢市岩崎に避難。
矢野 鉉吉(やの げんきち、慶應3年1月10日〈1867年2… 矢野 鉉吉(やの げんきち、慶應3年1月10日〈1867年2月3日〉 - 1955年〈昭和30年〉4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 群馬県高崎市龍見町出身。1893年、群馬県立中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒。アメリカに留学し、帰国後は東京機器標本(株)取締役、多摩川水力電気(株)監査役となる。また、下谷区議、同議長、東京府議、同議長、東京市会議員を務めた。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において東京8区から立憲政友会公認で立候補したが落選。1924年の第15回衆議院議員総選挙で当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では東京2区から立候補して当選した。衆議院議員を2期務めた。
益田 古峯(ますだ こほう、1867年2月3日(慶応2年12… 益田 古峯(ますだ こほう、1867年2月3日(慶応2年12月29日) - 1944年(昭和19年)4月10日)は戦前日本の教育者。名は祐之。筑前秋月藩出身で、号は故郷の古処山に因る。大橋陶庵、栗本義喬、楠本碩水等に漢学を学び、『福陵新報』記者、東筑中学校雇教師を経て、福岡県中学修猷館で約30年間漢文を教えた。
平井 繁男(ひらい しげお、慶応3年2月3日〔1867年3月… 平井 繁男(ひらい しげお、慶応3年2月3日〔1867年3月8日〕- 大正14年〔1925年〕9月10日)は、日本の実業家、官吏、特許辨理士。推理作家・江戸川乱歩の父。 三重県津市出身。武士の家柄で津藩の藤堂家に仕えていた七代目平井杢右衛門(陳就)・後妻の和佐との間に生れた。関西法律学校(現・関西大学)第一回卒業生として卒業後、青年官吏として三重県名賀郡右名張町(名張市)役所に奉じた。この頃、津藩家臣の長女のきくと結婚し、1894年 (明治27年)第一子を儲け、太郎と命名。これが後の江戸川乱歩である。間もなく、鈴鹿郡へ転勤。1897年に東海紡績同盟会の職員となり、名古屋に移った。東海紡織同盟会書記長を歴任。
郷 誠之助(ごう せいのすけ、1865年2月3日(元治2年1… 郷 誠之助(ごう せいのすけ、1865年2月3日(元治2年1月8日) - 1942年(昭和17年)1月19日)は、日本の実業家。日本商工会議所会頭・日本経済聯盟会会長・東京電燈会長・東京株式取引所理事長などを歴任。貴族院男爵議員。 元治2年(1865年)1月8日、大蔵官僚郷純造の次男として美濃国黒野村(現:岐阜県岐阜市)で出生。義兄に郷温がいる。 平河小学校(現・千代田区立麹町小学校)卒業後、官立東京英語学校(のち一高)、さらに尺振八が塾長であった浜町河岸の共立学舎に通い、明治10年(1877年)から12年(79年)まで県立仙台中学(1886年廃止)にて学ぶ。帰京した明治13年(1880年)には中島行孝の塾通いと共に家庭教師が就き英語・漢学を学ぶ。
足立 繁太郎(あだち しげたろう、万延元年12月24日(18… 足立 繁太郎(あだち しげたろう、万延元年12月24日(1861年2月3日) - 昭和19年(1944年))は、日本の政治家。元境町会議員。鳥取県会見郡中野村(後に西伯郡余子村、現・境港市)の人。 元日本商工会議所会頭足立正の父。 足立家の家業は酒造りで、江戸時代には大庄屋を務め、苗字帯刀を許された豪家だった。。 父徹造は馬術の達人であり、鳥取藩つきの高名な先生について腕をみがいた。繁太郎は長男の正に剣道を教えた。。 繁太郎は多年にわたり境郵便局長をつとめたため、“郵便足立”とよばれていた。 日本の製紙王と呼ばれた藤原銀次郎の妻の実家(由井家)と足立家は隣同士であり、2人が結ばれたのは繁太郎の仲介によるものであった この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
平野 友輔(ひらの ともすけ、1857年2月3日〈安政4年1… 平野 友輔(ひらの ともすけ、1857年2月3日〈安政4年1月9日〉 - 1928年〈昭和3年〉4月3日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員。 相模国高座郡藤沢宿(のち神奈川県高座郡藤沢大坂町、現:藤沢市)で、薬種商・平野六三郎、ツル夫妻の長男として生まれる。読書院(後の耕余塾)に通い小笠原東陽に漢学を学んだ。1875年(明治8年)10月、第十八大区小学校(現藤沢市立藤沢小学校)の代用教員となる。1880年頃から自由民権運動に加わる。1883年8月、東京大学医学部別課を卒業した。 1884年、神奈川県南多摩郡八王子に移住し医院を開業して、診療は午前のみで、午後には民権運動の活動を行う。八王子でキリスト教に入信。
伊地知 幸介(いぢち こうすけ、1854年2月3日〈安政元年… 伊地知 幸介(いぢち こうすけ、1854年2月3日〈安政元年1月6日〉- 1917年〈大正6年〉1月23日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争の旅順攻囲戦では乃木希典の下で第3軍参謀長を務めた。爵位は男爵、最終階級は陸軍中将。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下上之園通町(現:鹿児島県鹿児島市上之園町)で、薩摩藩士・伊地知直右衛門の長男として生まれる。御親兵(後の近衛兵)に選ばれて上京。陸軍幼年学校を経て、1875年(明治8年)12月に陸軍士官学校に入校。1877年(明治10年)4月から翌月まで西南戦争に出征した。1879年(明治12年)2月、砲兵少尉に任官し、同年12月、陸軍士官学校を卒業(旧2期)。陸士旧2期の同期生には井口省吾、大迫尚道、田村怡与造、豊島陽蔵、長岡外史らがいる。
大橋 利左衛門 (おおはし りざえもん、1853年2月3日(… 大橋 利左衛門 (おおはし りざえもん、1853年2月3日(嘉永5年12月25日) - 1888年(明治21年)1月2日) は植林家・政治家。 1853年2月3日(嘉永5年12月25日)に近江国犬上郡(後の日夏村、現・滋賀県彦根市日夏町)に生まれる。1878年に日夏村の戸長となり、1881年には県会議員も務めた。1887年には日夏村から東海道本線が開通していた河瀬村南川瀬の区間に日夏街道を開通させるなど地域の交通面の整備を手がけた。 1872年当時の日夏村民たちは生活苦のために、荒神山の樹木を伐採し売却して生計を維持していた。乱伐のために荒神山はわずかな年月の間にはげ山となり治水機能が低下して土砂崩れがしばしば発生していた。
岡崎 生三(おかざき せいぞう、1851年2月3日〈嘉永4年… 岡崎 生三(おかざき せいぞう、1851年2月3日〈嘉永4年1月3日〉- 1910年〈明治43年〉7月27日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 土佐藩士・岡崎俊蔵の長男として土佐国幡多郡中村(現:四万十市)に生まれる。戊辰戦争出征後の1871年(明治4年)、御親兵として上京し陸軍軍曹、権曹長と昇進し、1872年(明治5年)、陸軍中尉に進む。東京鎮台付などを歴任し、1877年(明治10年)3月から10月まで西南戦争に出征。歩兵第1連隊大隊長、歩兵第6連隊大隊長、大阪鎮台参謀、近衛歩兵第4連隊大隊長などを経て、1889年(明治22年)11月、東宮武官に就任する。 後備歩兵第1連隊長、留守第4師団参謀長などを経て、1895年(明治28年)11月、威海衛占領軍参謀長に就任し1898年(明治31年)5月まで駐留した。
江木高遠(えぎたかとお、1850年2月3日(嘉永2年12月2… 江木高遠(えぎたかとお、1850年2月3日(嘉永2年12月22日) - 1880年(明治13年)6月6日)は、文明開化期の学者、啓蒙家、外務官僚。養子に入り、『高戸賞士』を名乗った時期があった。米国で軍事と法律を学び、教員を経て演説家として名を馳せたが、外交官として渡米後ピストル自殺した。 備後福山藩の儒官、江木鰐水の第四子として福山に生まれた。幼名は賞士、通称は賞一郎。母は、年(とし)。 1856年(安政3年)(7歳)、藩校誠之館に入り、1868年(明治元年)(19歳)秋、長崎でフルベッキに学び、翌年、藩の推薦により東京の開成学校に転じ、明治2年(1869年)に慶應義塾に学んだ。1870年(明治3年)(21歳)、華頂宮博経親王の随員の一人としてニューヨークへ渡り、コロンビア法律学校(Columbia Law School)に学んだが、1872年、病気の親王と帰国し、1874年再渡米して、1876年卒業した。
中倉 万次郎(なかくら まんじろう、嘉永2年12月22日(1… 中倉 万次郎(なかくら まんじろう、嘉永2年12月22日(1850年2月3日) - 昭和11年(1936年)2月6日)は、明治時代から昭和時代初期にかけての日本の政治家・実業家。 現在の佐世保市吉井町の川崎家に生まれ、幼時に現在の同市世知原町の中倉家の養子となる。 1883年(明治16年)長崎県会議員に選出される。1889年(明治22年)に町村制が施行されると、北松浦郡山口村(現在の佐世保市相浦地域)の村長に選ばれた。 その後中央及び地元で長崎県農工銀行取締役頭取、衆議院議員、帝国農会議員、米価調節委員を歴任。 製茶練習所を世知原村内に開設して所長となり現在同地区の名産となっている茶作りの基礎を築いた他、北松浦郡内の道路整備や、当時栄えていた北松炭田からの石炭積み出しを目的とした佐世保軽便鉄道(のち佐世保鉄道、現松浦鉄道西九州線の一部)の設立、平戸島電燈会社の設立など、地域の発展に務めた。
泉 智等(いずみ ちとう、嘉永2年1月11日〈1849年2月… 泉 智等(いずみ ちとう、嘉永2年1月11日〈1849年2月3日〉 - 1928年〈昭和3年〉9月26日)は、真言宗の僧。書家。徳島県吉野川市出身。花桝伊兵衛の五男。幼名は直蔵。号は物外(ぶつがい)。 1860年(万延元年)、12歳で出家する。1864年(元治元年)の頃より、徳島の芝「秋邨塾」で柴秋邨に漢籍を学ぶ。その後、1868年(明治元年)から1872年(明治5年)まで高野山で、1873年(明治6年)から1877年(明治10年)まで京都で仏教学を学ぶ。 1879年(明治12年)より真言宗布教師として全国を巡錫し、1900年(明治33年)に京都仁和寺の第35世門跡に就任、1908年(明治41年)に京都泉涌寺の第147代長老となる。
中丸 精十郎(なかまる せいじゅうろう、天保11年1月1日(… 中丸 精十郎(なかまる せいじゅうろう、天保11年1月1日(1840年2月3日)(異説1841年) - 明治28年(1895年)11月15日)(異説1896年)は、日本の画家。明治時代前期に活躍した洋画家・日本画家、版画家。雅号は金峯・金峰。 甲府城下(山梨県甲府市若松町)に生まれる。父は「精七」、母は「婦さ」で精十郎は長男。精十郎の妻(後妻)はか祢で、長男は蓮一(精十郎)。 甲府横近習町の文人画家である竹邨三陽(たけむらさんよう)の画塾に学び、南画家の日根対山に師事する。対山は1869年(明治2年)に死去するが、精十郎はこれ以前に対山門下を離れており、この頃には精十郎の父が死去し家督を相続したものと考えられている。