佐野 進(さの すすむ、1920年(大正9年)8月7日 - … 佐野 進(さの すすむ、1920年(大正9年)8月7日 - 2009年(平成21年)1月20日)は、昭和期の地方公務員、労働運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県出身。召集され兵役に就いた。東京都交通局に入局。1955年(昭和30年)専修大学商経学部経済学科を卒業した。東京交通労働組合青年部長や、東京都労働組合連合会、日本都市交通労働組合(現全日本自治団体労働組合都市公共交通評議会)、港区労協の各役員を務めた。 東京都港区議会議員を経て、東京都議会議員に選出され3期在任した。この間、同都議会公営企業委員長、同中小企業対策審議会委員、東京オリンピック大会組織委員などを務めた。 1967年(昭和42年)1月の第31回衆議院議員総選挙で東京都第6区から日本社会党公認で出馬し初当選。
木下 浩次(きのした ひろじ、1919年8月7日 - 200… 木下 浩次(きのした ひろじ、1919年8月7日 - 2006年4月12日)は、日本の経営者。大同特殊鋼社長、会長を務めた。熊本県出身。 1943年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本製鐵に入社。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 その後、日本製鐵に復帰、1975年5月に取締役に就任し、1979年6月に常務、1982年6月に専務を経て、1982年9月に大同特殊鋼副社長に就任し、1986年5月には社長に昇格。1988年5月に会長に就任し、1992年6月に相談役に就任。
大橋 秀一郎(おおはし しゅういちろう、1918年8月7日 … 大橋 秀一郎(おおはし しゅういちろう、1918年8月7日 - 2006年1月20日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。 京都府京都市出身。1941年に大阪商科大学を卒業し、同年に蝶理に入社。1948年に取締役に就任し、1958年に常務、1964年に専務を経て、1969年3月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1975年5月から相談役を務めた。1983年6月には家政学園理事長に就任。 2006年1月20日心不全のために死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
白根 斐夫(しらね あやお、1916年8月7日 - 1944… 白根 斐夫(しらね あやお、1916年8月7日 - 1944年11月24日)は、大日本帝国海軍の軍人。第二次世界大戦時の戦闘機搭乗員で、日中戦争での1機を含む9機の総撃墜数を持つエース・パイロットである。最終階級は戦死による一階級特進で海軍中佐。岡田内閣の内閣書記官長だった白根竹介は実父。 1916年(大正5年)8月7日に白根竹介の四男として東京都で生まれる。東京府立四中を経て、1937年(昭和12年)3月、海軍兵学校第64期を卒業。同期生に空母「赤城」艦上爆撃機隊分隊長として真珠湾攻撃に参加し、太平洋戦争を戦い抜いた阿部善次や「特攻に反対した指揮官」として知られる美濃部正がいる。1938年(昭和13年)7月に第31期飛行学生となり、1939年(昭和14年)3月に修了し、戦闘機搭乗員となった。
清水 房雄(しみず ふさお、1915年8月7日 - 2017… 清水 房雄(しみず ふさお、1915年8月7日 - 2017年3月3日)は、日本の歌人。 千葉県生まれ。本名・渡辺弘一郎。東京文理科大学卒。大学で加藤楸邨と同期。1938年『アララギ』に入会、土屋文明・五味保義に師事、九州小倉で国語教師、のち予科練の教官になり、土浦、西宮、高野山と移り倉敷海軍航空隊で敗戦を迎える。戦後は都立高校で教え、東京都立九段高等学校教頭、東京都立北園高等学校校長、昭和女子大学教授などを歴任。そのかたわら『アララギ』編集に携わる。1990年から2008年まで読売歌壇選者。97年『アララギ』終刊後、『青南』編集委員。漢詩・漢籍に造詣が深く、宮中歌会始選者も務め、2005年には歌会始の召人も務めた。
山陽山 淺一(さんようざん せんいち、1915年8月7日 -… 山陽山 淺一(さんようざん せんいち、1915年8月7日 - 没年不明)は、岡山県小田郡(現在の笠岡市)出身で、出羽海部屋所属の1940年代に活躍した元大相撲力士。本名は、藤井 浅一(ふじい せんいち)。現役時代の体格は身長185cm、体重96kg。得意手は突っ張り、寄り、上手投げ。最高位は東十両3枚目。 1930年5月場所に初土俵。1940年1月場所に十両昇進。柔軟な体格から繰り出す突っ張りを持ち味とし、その取り口は闘志に溢れていた。新十両の場所を8勝7敗と勝ち越すと、1941年5月場所には自己最高位となる東十両3枚目まで番付を上げたが、2勝13敗と大敗し、幕下へ陥落した。翌1942年1月場所では幕下優勝を果たして1場所で十両へ復帰した。
北井 正雄(きたい まさお、1913年8月7日 - 1937… 北井 正雄(きたい まさお、1913年8月7日 - 1937年8月7日)は、草創期のプロ野球選手。阪急の初代エース。投手。島根県出身。
北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 19… 北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 1983年11月1日)は、日本の歴史学者。東京都立大学名誉教授。専門は近世日本史。 新潟県柏崎市生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、松本高等学校文科乙類を卒業 し、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。卒業論文は「徳川幕府直領の研究」。近世政治経済史を専攻し、1962年に「江戸幕府の権力構造」により東北大学から文学博士の学位を授与される。 1950年新潟大学助教授、1951年東京都立大学 (1949-2011)助教授、1959年同大学教授、同大学附属図書館長、1977年定年退官後は立正大学教授を務め、1983年退職。専門書のほか、一般向けの著書・編著を多く著した。
長松 太郎(ながまつたろう、1912年(大正元年)8月7日 … 長松 太郎(ながまつたろう、1912年(大正元年)8月7日 - 1978年(昭和53年)10月24日)は、広島市建設局長、広島市助役、広島ステーションビル社長を歴任した日本の都市計画家。造園家。日本公園緑地協会で沖縄国際海洋博海浜公園基本計画委員会委員長、広島市河岸緑地整備計画設計協議会委委員も委嘱。設計策定にあたった。豪放な性格で酒を好み周囲から慕われていたという。 父親は戦前日本の植物学者で学習院大学教授、東京海上火災保険社長、貴族院議員を務めた長松篤棐で、長男として生まれる。妻は古市六三の長女。母方祖父に古市公威。 学習院を経て1936年(昭和11年)東京帝国大学農学部を卒業し、内務省神社局に勤める。
門脇 政夫(かどわき まさお、1911年(明治44年)8月7… 門脇 政夫(かどわき まさお、1911年(明治44年)8月7日 - 2010年(平成22年)2月19日)は、兵庫県出身の政治家。位階は正五位。「敬老の日」の提唱者として知られる。 多可郡野間谷村(後の八千代町を経て現在の多可町)で染色業を営み、1942年5月、30歳で野間谷村会議員に当選。同村収入役を経て、戦後の1947年4月、野間谷村の村長に35歳で当選した。同年9月15日、村主催の敬老会を初めて開催した。55歳以上の住民を公会堂に招いて食事と余興(播州歌舞伎)でもてなした。「長い間社会に貢献してきたお年寄りに敬意を表すとともに、その知識や人生経験を次の世代に伝授してもらう場を設ける」という趣旨であった。
秋山 英夫(あきやま ひでお、1911年8月7日 - 199… 秋山 英夫(あきやま ひでお、1911年8月7日 - 1991年4月6日)は、日本のドイツ文学者。学習院大学名誉教授。 石川県生まれ。本名は朝日英夫。東京帝国大学独文科卒業。金沢大学教授。1967年、「ゲーテの光に照らしてみたニーチェ像」で、東京大学より文学博士の学位を取得。学習院大学教授を1982年まで務め、ニーチェを主として研究するほか、多くのドイツ文学・哲学の翻訳をおこなった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
重松 鷹泰(しげまつ たかやす、1908年〈明治41年〉8月… 重松 鷹泰(しげまつ たかやす、1908年〈明治41年〉8月7日 - 1995年〈平成7年〉8月7日)は、日本の教育学者。名古屋大学名誉教授。専攻は教育方法論。授業分析を行った。 東京生まれ。旧制第一高等学校理科卒後、1928年徳島県大津東小学校の代用教員となる。1932年東京文理科大学教育学科教育学専攻卒、東京府豊島師範学校講師。1937年教育科学研究会生活教育研究部会に参加し、教育指導部幹事に就任した。1941年東京府学務部勤務。1944年応召、中支に出征。1946年文部省教科書局小学校社会科担当となり、小学校社会科創設及び学習指導要領に関与する。1947年奈良女子高等師範学校附属小学校主事、1952年名古屋大学教育学部教授、1972年定年退官、のちに名誉教授。
鄭 商熙(チョン・サンヒ、朝鮮語: 정상희、1907年8月7… 鄭 商熙(チョン・サンヒ、朝鮮語: 정상희、1907年8月7日 - 1981年3月7日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家。サムスングループ重役、第4・5代韓国国会議員。 本貫は温陽鄭氏(朝鮮語版)。新世界グループの実業家の鄭在恩(朝鮮語版)は息子、李秉喆の末娘の李明熙(朝鮮語版)はその妻。実業家の鄭溶鎮(女優コ・ヒョンジョンの元夫)は孫、鄭有慶(朝鮮語版)は孫娘。 忠清北道中原郡(現・忠州市)出身。ソウル養正高等普通学校(現・養正高等学校(朝鮮語版))を経て、1930年に上海交通大学1年修了、1935年に明治大学法学部卒。明治大学名誉博士(1974年)。1939年より協信産業商社代表を務め、解放後は1948年に大韓体育会理事長、大韓陸上競技連盟理事長、大韓オリンピック委員会常任委員、1949年に三護紡績・三護貿易副社長、1954年に第2回アジア競技大会韓国選手団総監督、1956年に同和通信副社長、1956年メルボルンオリンピック韓国選手団総監督、1957年に第一火災海上保険株式会社社長、大韓体育会理事長、1958年に第3回アジア競技大会韓国選手団総監督、自由党中原郡党委員長を務めた。
飯田 房太郎(いいだ ふさたろう、1906年(明治39年)8… 飯田 房太郎(いいだ ふさたろう、1906年(明治39年)8月7日 - 1975年(昭和50年)5月8日)は、昭和時代の土木工学者、実業家。 神奈川県に生まれる。1930年(昭和5年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、間組に入社。各出張所次長、土木部次長、取締役、常務および専務をへて1967年(昭和42年)副社長、1969年(昭和44年)社長に就任した。この間、大井川千頭堰堤や久野脇発電所の建設、羽田飛行場の拡張工事などに携わり、1952年(昭和27年)大井川水系の開発が始まると井川ダム、奥泉ダム、畑薙ダム(第一、第二)などを次々と完成させた。 ほか、日本土木工業協会・日本建設業連合会・日本経済団体連合会・海外建設協会などの理事、日本建設機械化協会・土木学会各会長などを歴任した。
小川 信雄(おがわ のぶお、1905年(明治38年)8月7日… 小川 信雄(おがわ のぶお、1905年(明治38年)8月7日 - 1993年(平成5年)11月19日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。山口県出身。 1929年(昭和4年)に東京帝国大学法学部を卒業。北海道電燈の旭川支社に入社したが、3ヶ月で退社。「文化が進むにつれて専門技術を身につけるのが大切」と考え、1932年(昭和7年)に弁護士登録をした。 企業の法律相談を手がけ、二十数社の顧問弁護士をした。刑事事件については鮎川金次郎派の選挙違反事件を扱った。 1946年(昭和21年)に村上義一運輸大臣の秘書官をしたことがある。 1970年(昭和45年)12月22日に最高裁判所判事に就任。就任時に「最高裁長官の意見に対しても、他の判事からどしどし意見が出され、実にいいと思った。
武見 太郎(たけみ たろう、1904年8月7日 - 1983… 武見 太郎(たけみ たろう、1904年8月7日 - 1983年12月20日)は、日本の医師である。日本医師会会長、世界医師会会長を歴任した。
澤瀉 久敬(おもだか ひさゆき、1904年8月7日 - 19… 澤瀉 久敬(おもだか ひさゆき、1904年8月7日 - 1995年2月26日)は、日本の哲学研究者。大阪大学名誉教授。専門はフランス哲学。 1904年、三重県伊勢市で生まれた。京都帝国大学文学部に入学し、哲学科で九鬼周造に師事した。1929年に卒業。1935年、フランス政府招聘留学生として渡仏。 1938年に京都帝国大学講師となり、1941年に大阪帝国大学講師に転じた。1954年、大阪大学文学部教授に昇格。1960年、学位論文『医学概論』を大阪大学に提出して医学博士号を取得。1968年、大阪大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、南山大学教授を務めた。1986年、日本学士院会員に選出された。
奥村 勝蔵(おくむら かつぞう、1903年8月7日 - 19… 奥村 勝蔵(おくむら かつぞう、1903年8月7日 - 1975年9月26日)は、昭和期の外交官。 岡山県岡山市出身。天王寺中学、第三高等学校を経て、東京帝国大学法科卒業。1926年(大正15年)、外務省入省。 アメリカ合衆国在ワシントン日本大使館の一等書記官在任中であった1941年(昭和16年)12月8日に、太平洋戦争が始まった。奥村はこの際に不得手なのに日米交渉打ち切りの文書をタイプライターを使い時間を浪費し浄書した。大日本帝国がアメリカ合衆国のコーデル・ハル国務長官に交渉打ち切りの文書を手渡したのは同日午後2時20分で、命令で指定された予定時刻から1時間20分の遅れであり、既に真珠湾攻撃は始まっていたため、日本による騙まし討ちと米国は宣伝した。
諸井 三郎(もろい さぶろう、1903年8月7日 - 197… 諸井 三郎(もろい さぶろう、1903年8月7日 - 1977年3月24日)は、日本の作曲家。
杉谷 武雄(すぎや たけお、1903年 <明治36年> 8月… 杉谷 武雄(すぎや たけお、1903年 <明治36年> 8月7日 - 1992年 <平成4年> 3月9日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。位階は正四位。 宮城県仙台市出身。1926年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。1948年10月に取締役に就任し、1957年11月に常務を経て、1960年5月には社長に就任。1968年11月に会長に就任し、1971年5月に取締役相談役を経て、1972年5月には相談役に就任。 1965年10月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1992年3月9日に脳梗塞のために死去。88歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
島村 信政(しまむら のぶまさ、1902年(明治35年)8月… 島村 信政(しまむら のぶまさ、1902年(明治35年)8月7日 - 1944年(昭和19年)4月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。殉職後は海軍大佐。 長野県東筑摩郡島内村(現松本市)出身。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)、海軍兵学校卒(51期)。兵学校では高松宮宣仁親王の「学友」を命じられる。少尉候補生から海軍砲術学校、「古鷹」、「榛名」、横須賀鎮守府、「厳島」、「響」、「大鯨」、第二艦隊司令部などに配属された。 太平洋戦争開戦(1941年)時、連合艦隊旗艦「長門」司令部の真珠湾攻撃作戦指揮に気象担当として従事した。のちに(1943年7月、8月15日付以降との説もある)古賀峯一連合艦隊司令長官のもと、トラック泊地でも旗艦「武蔵」の連合艦隊司令部幕僚(参謀・気象長)として所属した。
李 鎮洙(イ・ジンス、朝鮮語: 이진수/李鎭洙、1900年8… 李 鎮洙(イ・ジンス、朝鮮語: 이진수/李鎭洙、1900年8月7日 - 1968年12月9日または12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の計理士、弁理士、教育者、政治家、実業家。朝鮮弁理士会(現・大韓弁理士会)会長、制憲・第2代韓国国会議員。本貫は徳山李氏(朝鮮語版)。 咸鏡南道利原郡出身。北青公立普通学校、京城オソン中学校、日本大学専門部工科専修科、同大商科経済学科卒。京都帝国大学(現・京都大学)経済学・社会学修了。世和堂製薬株式会社代表取締役、世和産業・世和商事・世和土建株式会社代表取締役、朝鮮弁理士会(現・大韓弁理士会)会長、韓国民族代表者大会代議員、総選挙対策委員会委員、財団法人世和学院理事長、ソウル薬学大学理事長、朝鮮雄弁会副会長、国会文教厚生・産業労働分科委員、独立政治経済問題研究所代表者、李儁先生記念事業協会理事、大韓労農党党員、大韓国民党党員、大韓労総委員長、自由党幹部、東洋水産株式会社代表、咸南人会総務部長を務めた。
安東 玉彦(あんどう たまひこ、1900年(明治33年)8月… 安東 玉彦(あんどう たまひこ、1900年(明治33年)8月7日 - 1990年(平成2年)9月19日)は、日本の政治家。大分県大分市長。 大分師範学校、法政大学高等師範部を卒業後、大分師範学校教諭、大分県視学、大分県立竹田高等女学校(現大分県立竹田高等学校)校長、大分県立別府高等女学校(現大分県立別府鶴見丘高等学校)校長を歴任。1947年(昭和22年)に大分市助役となる。 1963年(昭和38年)3月、周辺市町村との合併により新設された新・大分市長に当選。以後、1975年(昭和50年)まで、3期12年にわたり大分市長を務めた。 任期中の12年間は、ちょうど日本の高度成長期にあたった。大分市も、1964年(昭和39年)1月に新産業都市の指定を受けると、沿岸の埋立地に新日本製鐵大分製鐵所や昭和電工大分事業所などの企業が次々に立地して大分臨海工業地帯が形成されるなど、経済的に大きく発展し、人口が急増した時期であった。
由利 正通(ゆり まさみち、1899年(明治32年)8月7日… 由利 正通(ゆり まさみち、1899年(明治32年)8月7日 - 1963年(昭和38年)9月14日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 華族・由利公通の二男として生まれ、兄・公真の養子となる。兄の隠居に伴い、1926年(大正15年)11月1日、子爵を襲爵した。 1923年(大正12年)3月、東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。同年、三菱銀行に入社。その後、三井信託に勤務した。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し1946年(昭和21年)7月22日まで1期在任した。
紀藤 常亮(きとう つねすけ、1899年8月7日 - 197… 紀藤 常亮(きとう つねすけ、1899年8月7日 - 1971年11月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。宇部市長を務めた紀藤閑之介の長男。妻は渡辺好延の次女・キク子。 山口県出身。1924年東京農業大学卒。宇部農業実践学校校長兼教諭となり、宇部市農会長、同信用購買販売利用組合長、同畜産組合長、山口県議、山口県農会長、同畜産組合連合会評議員、大政翼賛会山口県支部常務委員、また朝鮮セメント、宇部銀行、山口銀行、宇部重工業、宇部興産、宇部物産各(株)監査役となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では山口1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。
今尾 登(いまお のぼる、1899年(明治32年)8月7日 … 今尾 登(いまお のぼる、1899年(明治32年)8月7日 - 1970年(昭和45年)12月18日)は、日本のジャーナリスト、教育者、政治家。衆議院議員、法学博士。旧姓・小林。 兵庫県加東郡河合村(現小野市)で、小林兵太郎の6男として生まれ、京都府の画家・今尾政之助の養子となる。1924年(大正13年)同志社大学法学部政治学科を卒業した。 大阪毎日新聞社に入社。その後、渡米しコロンビア大学で学んだ。帰国後、大阪毎日新聞本社、京城支局、大連支局、京都支局で勤務。東京日日新聞社に転じ、政治部副部長、事業課長、講演課長、横浜支局長、編輯局参事などを歴任。従軍記者として済南事件、満州事変、日中戦争(支那事変)を取材し戦傷も受けた。
赤松 要(あかまつ かなめ、1896年8月7日 - 1974… 赤松 要(あかまつ かなめ、1896年8月7日 - 1974年12月20日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。日本における経済政策学の第一人者で、雁行形態論(のち小島清や山澤逸平らにより発展)等を提唱したことで知られる。 福岡県に旧久留米藩藩士の長男として生まれる。久留米商業学校(現久留米市立久留米商業高等学校)、神戸高等商業学校(現神戸大学)を経て、1921年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。1944年経済学博士(東京商科大学)。福田徳三門下。 1921年、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)講師、1922年、同教授。1923年から留学し、ドイツでハインリヒ・リッケルトとヘルマン・グロックナーに師事したのちアメリカ合衆国でに移りハーヴァード大学でケースメソッドを学んだ。
櫻井 清香(さくらい きよか、男性、1895年(明治28年)… 櫻井 清香(さくらい きよか、男性、1895年(明治28年)8月7日 - 1969年(昭和44年))は、日本の芸術家(画家)。愛知県名古屋市出身。源氏物語絵巻の昭和復元模写を作成したことで有名。父櫻井武愷宮之亟、母三保の二男。兄は桜井馨、弟は桜井鐐三。桜井 清香と表記する場合もある。 他多数の作品が徳川美術館に所蔵されている。 櫻井家は元々は氏を橘(橘氏の流れを汲む氏族である)と名乗っていたが、いつの頃からか櫻井に改めたとされる。氏を改めたのは櫻井作之右衛門佐武の時であると考えられる(理由は不明)。
平 貞蔵(たいら ていぞう、1894年8月7日 - 1978… 平 貞蔵(たいら ていぞう、1894年8月7日 - 1978年5月28日)は、日本の思想家。新人会、昭和研究会に参加。昭和塾を設立。 山形県東置賜郡佐沢村(現在の長井市上伊佐沢)に平八蔵の二男として生まれる。米沢中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝大の新人会に所属。 佐々弘雄の紹介で、奉天において後藤隆之助らに会い、これが縁で昭和研究会の支那問題研究会に参加することになり、多くの軍人と接触した。ソ連旅行中の宮本百合子と会っている(「道標」) 1926年〜1928年、1931年から1933年にかけ、法政大学図書館館長に就任。 昭和13年(1938年)5月に大山岩雄とともに中支視察のため上海へ赴き、6月に野田清海軍少将らと現地視察談を昭和研究会で発表。
沢田 一郎(さわだ いちろう、1894年8月7日 - 198… 沢田 一郎(さわだ いちろう、1894年8月7日 - 1984年2月3日、享年89)は、元日本オリンピック委員会名誉委員、元ヤナセ常務。
森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984… 森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984年5月5日)は、日本の美術史家・美術評論家、民俗学者。本名は多利(たり)。 岩手県胆沢郡水沢町大町(現:奥州市)にて金物商を営む父森口伊三郎、母カネヨの次男として生まれる。一関中学校(現:岩手県立一関第一高等学校)を経て、1910年(明治43年)に早稲田大学文学部予科に入学。在学中、佐藤功一から美術品の調査を依頼される。また、日夏耿之助主宰の同人誌『假面』同人となる。1914年に早稲田大学文学部英文科を卒業した。卒業後は美術評論活動を行い、『ミレー評伝(ロマン・ロラン著)』の翻訳や『恐怖のムンク』といった評論文を執筆した。森口の多彩な文筆活動は、美術史・美術評論に留まらず、戯曲、建築、そして民俗など多岐にわたり、生涯で50冊余の書作を世に送り出している。
清沢 俊英(清澤、きよさわ としえい、1890年(明治23年… 清沢 俊英(清澤、きよさわ としえい、1890年(明治23年)8月7日 - 1980年(昭和55年)10月16日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。 新潟県古志郡長岡町渡里町(現長岡市)で浄土真宗大谷派妙宗寺に生まれた。1908年(明治41年)長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)を卒業した。 1928年(昭和3年)長岡労働向上会を組織し日本労農党新潟県連合会常任執行委員に就任。日本労農党、日本大衆党、社会大衆党、全国農民組合、日本農民組合などの中央委員を務めた。1936年(昭和11年)三宅正一に次いで無産政党員として長岡市会議員に当選。その他、全国労働組合新潟県委員長、日本漁民組合中央委員も務めた。
川原田 政太郎(かわはらだ まさたろう、1890年8月7日 … 川原田 政太郎(かわはらだ まさたろう、1890年8月7日 - 1983年9月6日)は、日本の工学者、早稲田大学名誉教授。日本におけるテレビジョン研究において、高柳健次郎と並ぶ第一人者。 同郷の宇田新太郎、盛永俊太郎と共に「魚津の三太郎博士」と呼ばれた。 富山県下新川郡下野方村(現・魚津市)に生まれ、素質を認められ地元の医師の支援のもとで働きながら苦学し、魚津町立魚津尋常高等小学校(後の魚津市立大町小学校、現在は魚津市立よつば小学校に統合)→魚津中学校(現富山県立魚津高等学校)を経て早稲田大学大学部予科に入学。1915年早大理工科電気工学科卒業。早稲田大学助教授としてイギリスに留学した際、ロンドン大学のテレビジョン実験に感銘を受ける。
立田 清辰(たつた きよとき / きよたつ、1890年(明治… 立田 清辰(たつた きよとき / きよたつ、1890年(明治23年)8月7日 - 1942年(昭和17年)7月28日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 岐阜県吉城郡出身。第七高等学校造士館を卒業。1916年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、逓信省に入省。1918年10月、高等試験行政科試験に合格。1919年、内務省に転じ鳥取県属となる。 1919年、香川県警察部刑務課長に就任。以後、神奈川県警視、内務事務官、徳島県書記官・警察部長、茨城県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長などを歴任。1929年、朝鮮総督府に転じ同事務官・警務局図書課長、同保安課長を務める。1933年、山梨県内務部長に転じ、1935年1月、宮城県書記官・総務部長に就任。
松平 外与麿(外與麿、まつだいら とよまろ、1890年(明治… 松平 外与麿(外與麿、まつだいら とよまろ、1890年(明治23年)8月7日 - 1959年(昭和34年)12月17日)は、大正から昭和期の内務官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 華族・松平正存の長男として生まれる。祖父松平正直の死去に伴い、1915年(大正4年)5月21日、男爵を襲爵した。 学習院を経て、1915年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。同年、内務省に入省し岐阜県属となる。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科試験に合格した。埼玉県警視、栃木県理事官、京都府理事官、同府地方事務官、滋賀県書記官、宮崎県書記官、鳥取県書記官、埼玉県書記官・学務部長などを務め、1932年(昭和7年)に退官した。
佐近 益栄(さこん ますえ、明治23年(1890年)8月7日… 佐近 益栄(さこん ますえ、明治23年(1890年)8月7日 - 昭和5年(1930年)12月14日)は日本の小説家。ペンネームは江外(こうがい)。旧姓は江村、大田。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)の茶屋・江村家に生まれ、幼くして母を亡くし福定村の大田家に引き取られて成長する。1912年、佐近たみよと結婚して「佐近」姓となる。1913年に鳥取師範学校(現・鳥取大学)を卒業し境小学校、中浜小学校の教師となる。1919年、「大阪朝日新聞」の懸賞小説に応募、選外佳作となる。1920年には報知新聞社学芸部に入社し、名記者として知られ文化部長に昇進する。1930年10月、『文学時代』の「新鋭作家総出勤号」に川端康成、平林たい子、井伏鱒二、高見順ら四十六人の一人として名を連ね第一線作家としての地位を得たが、急性肺炎のため40歳で死去した。
安蔵 弥輔(あんぞう やすけ、1889年8月7日 - 19… 安蔵 弥輔(あんぞう やすけ、1889年8月7日 - 1963年1月22日)は、東京電力の初代社長(1951年5月 - 1952年9月)。他に東京電力会長、東京電力記念科学研究所理事長、日本電気協会会長を務めた。 1889年、東京生まれ。旧制東京中学、旧制第二高等学校を経て1912年東京帝国大学電気工学科を卒業後、猪苗代水力電気に入社。1923年猪苗代水力電気が東京電燈に合併されたことに伴い同社に移り、技師長や工務部長、取締役などを経て、1938年常務に就任。 戦後日本発送電副総裁を経て、1951年東京電力の初代社長に就任。翌1952年新井章治会長が死去したことに伴い会長に昇格。以後東電顧問、日本電力調査委員会委員長、日本電気協会会長などを歴任。
豊田 貞次郎(とよだ ていじろう、1885年(明治18年)8… 豊田 貞次郎(とよだ ていじろう、1885年(明治18年)8月7日 - 1961年(昭和36年)11月21日)は、日本の海軍軍人、政治家、実業家。最終階級は海軍大将。従二位勲一等。 和歌山県出身。紀伊田辺藩士・豊田信太郎の次男。海兵33期首席、海大甲種17期首席。 旧制天王寺中学校より東京外語学校英語科を経て海軍兵学校に入校し第33期を首席卒業。同期に卒業順位第26位の豊田副武大将がいるが、大分県出身の副武とは兵学校入学まで面識がなかった他人同士である。苦労人の副武と天才肌の貞次郎はタイプこそ正反対だが、将官に昇進する頃は「両豊田」と呼ばれ、将来を嘱望された。日露戦争が終わったばかりの1905年(明治38年)11月に第33期は卒業し、東南アジア方面へ遠洋航海に出た。
河村 嘉一郎(かわむら かいちろう、1885年(明治18年)… 河村 嘉一郎(かわむら かいちろう、1885年(明治18年)8月7日 - 1943年(昭和18年)10月17日)は、佐賀県出身の実業家、政治家。初代唐津市長。 1885年(明治18年)旧唐津藩士・河村藤四朗の長男として、佐賀市赤松町で生まれる。旧制唐津中学、旧制岡山第六高校を経て、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科、政治学科を卒業。一時渡鮮したが、1923年(大正12年)帰郷。唐津銀行に入り取締役支配人となる。のち唐津電気製鋼所社長、唐津薫業(株)専務取締役、唐津製紙(株)社長、唐津製綿(株)監査役、唐津商工(株)監査役、小倉東洋車輌(株)常務取締役などを務め、唐津実業界の発展に貢献した。
山口 重知(やまぐち しげとも、1885年(明治18年)8月… 山口 重知(やまぐち しげとも、1885年(明治18年)8月7日 - 没年不詳)は、東京市区長。教育者。 新潟県三島郡与板町(現在の長岡市)出身。1909年(明治43年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。栃木県立真岡中学校教諭、秋田県立横手中学校教諭、鹿児島県立第二鹿児島中学校教諭、鹿児島県立出水中学校校長、福岡高等学校教授、静岡県立沼津中学校校長を歴任した。1925年(大正14年)、台湾総督府視学官に転じ、台北高等商業学校教授を兼ねた。 その後、名古屋市教育部長、東京市視学・主事・教育局体育教育課長を務めた。1938年(昭和13年)、王子区長に転じ、1940年(昭和15年)からは淀橋区長を務めた。
伊藤 誠哉(いとう せいや、1883年8月7日 - 1962… 伊藤 誠哉(いとう せいや、1883年8月7日 - 1962年3月28日)は、植物学者、菌類学者、植物病理学者、元北海道大学総長。農学博士。新潟県新潟市生まれ。 新潟県立新潟中学校を経て東北帝国大学農科大学(現北海道大学農学部)卒業。稲熱病の防除法を研究。その後も日本に点在する全菌類の調査研究をする等、日本の植物病理学の発展に尽力した。1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。新会員一同は、昭和天皇から皇居に招かれたが伊藤は欠席した。1959年(昭和34年)文化功労者。 主著に『日本菌類誌』等。
今西 卓(いまにし たく、1883年〈明治16年〉8月7日 … 今西 卓(いまにし たく、1883年〈明治16年〉8月7日 - 1933年〈昭和8年〉4月23日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。愛知県豊橋市の電力会社豊橋電気に技師長として入社し、後に支配人へと昇進。同社が解散した後は東三河地方の電気・鉄道事業に関わった。岐阜県出身。 今西卓は、1883年(明治16年)8月7日、岐阜県池田郡池野村(現・揖斐郡池田町池野)の豪農今西文造の長男として生まれた。幼少時より俊才で、温知学校を経て岐阜県大垣中学校へ入学、開学以来となる好成績で卒業した。次いで京都の第三高等学校へ進み、1905年(明治35年)7月第二部工科を卒業。最終的に1908年(明治41年)7月、京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。
助川 喜四郎(すけがわ きしろう、1883年(明治16年)8… 助川 喜四郎(すけがわ きしろう、1883年(明治16年)8月7日) - 1963年(昭和38年)12月11日)は、日本の医師・ウイルス学者。 1915年(大正4年)、神奈川県衛生試験所(現・神奈川県衛生研究所)にはいり、狂犬病を研究。1921年(大正10年)「助川梅野法」とよばれる犬体注射法を完成。天然痘病原体の鶏卵内培養にも成功した。1928年(昭和3年)、土浦市に昭和病院及び助川研究所を設立。 大正4、5年頃、狂犬病流行の兆を呈し、被害が広がる折、梅野信吉より病理学の権威であった草間滋を通じ、助川喜四郎へ狂犬病に関する相談があった。当時、パスツールによる人体に狂犬病予防注射する方法が行われていたが、応用接種しても発病する事があるため、更に進んで犬体に予防接種する研究を行う事となった。
阿刀田 令造(あとうだ れいぞう、1878年(明治11年)8… 阿刀田 令造(あとうだ れいぞう、1878年(明治11年)8月7日 - 1947年(昭和22年)5月21日)は、日本の西洋史学者である。宮城県仙台市の(旧制)第二高等学校第9代校長を務めた。 1878年(明治11年)に宮城県名取郡下増田村(現:名取市)で生まれる。父は下増田村初代村長阿刀田義潮(あとうだ よしとも)。宮城県仙台第一中学校(現:宮城県仙台第一高等学校)を卒業して、1902年(明治35年)に(旧制)第二高等学校(現:東北大学)に入る。大学卒業後、さらに東京帝国大学・京都帝国大学法学部に進学した。在学中、西洋学に興味を持った。東京帝大に在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が東京府東京市本郷区で主宰していた求道学舎に寄宿した。
第二代野村 徳七(のむら とくしち、1878年(明治11年)… 第二代野村 徳七(のむら とくしち、1878年(明治11年)8月7日 - 1945年(昭和20年)1月15日)は、日本の実業家。両替商の野村徳七 (初代)の長男で野村財閥を築いた二代目(幼名は信之助)。 1878年(明治11年)8月7日、初代野村徳七の長男として生まれる。幼名は野村信之助。野村元五郎は弟。 1892年(明治25年)大阪市立商業学校(大阪高等商業学校の前身校。後の大阪商科大学、大阪市立大学、現在は大阪公立大学)に入学。予科在学中1895年(明治28年)に肺炎になり休学。本科への進学は断念し家業に専念する。 八千代商店(後の八千代証券)での見習いを経て、野村商店を引き継ぎ、両替から公債や株式を扱うようになり1907年(明治40年)、初代徳七の隠居に伴い信之助が徳七を襲名し弟の実三郎、元五郎らと野村商店を運営した。
田中 太介(たなか たすけ、1876年8月7日 - 1963… 田中 太介(たなか たすけ、1876年8月7日 - 1963年2月)は、日本の実業家。近畿車輛の創業者。兵庫県出身。 1892年に大阪市立大学を中退し、家業の肥料雑貨に従事し、1918年10月には尼崎市に田中鉄工を設立し、1920年には田中車輛工場(のちの近畿車輛)社長に就任。1944年には会長に就任。 1937年、1939年、1946年の3度で紺綬褒章を受章。
野口 多内(のぐち たない、1876年〈明治9年〉8月7日 … 野口 多内(のぐち たない、1876年〈明治9年〉8月7日 - 1949年)は、明治・大正・昭和の外交官・教育者・社会活動家。名は茂温、別号は三山。外務省留学生及び外交官として中国で各事案に対処し、後に奉天居留民会長として現地の顔役となった。 新潟県北蒲原郡佐々木村(現:新発田市)に生まれる。実家は代々里正の家柄で、農業を営みながらも士分待遇であったという。1892年(明治25年)に上京し、三島中洲の漢学塾・二松学舎で学びながら、早稲田東京専門学校でも法律・政治を修学した。1896年(明治29年)、二松学舎尋常科を卒業し、中等学校漢文教師の資格を得た。 まもなく野口は外務省留学生試験を受験し、1897年(明治30年)、在北京留学生を命じられ、中国語を修学する。
岩佐 善太郎(いわさ ぜんたろう、1871年8月7日〈明治4… 岩佐 善太郎(いわさ ぜんたろう、1871年8月7日〈明治4年6月21日〉 - 1932年〈昭和7年〉6月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 肥後国飽田郡熊本(現熊本県熊本市)で熊本藩士・岩佐善門の長男として生まれた。1894年(明治27年)東京専門学校英語政治科卒。日本新聞、憲政本党党報、二六新報、万朝報の各記者となる。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙において熊本県郡部から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1932年死去。
広岡 宇一郎(ひろおか ういちろう、慶応3年7月8日(186… 広岡 宇一郎(ひろおか ういちろう、慶応3年7月8日(1867年8月7日) - 昭和16年(1941年)4月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)、弁護士。 淡路国三原郡市村(現在の兵庫県南あわじ市)生まれ。藤九郎の長男。 22歳の時、自由党に入り、機関紙の記者となった。新聞紙条例や集会条例違反のかどで弾圧を受け、6回にわたって拘束された。1891年(明治24年)、明石町で官民の対立が起きると、5千人の民衆を率いて6百名の巡査と衝突し、兇徒嘯集罪で1年2ヶ月の間獄中にあった。 その後東京に出て、自由党の活動に従事しつつ、日本法律学校(現在の日本大学)で学んだ。卒業後に弁護士試験に合格し、東京で弁護士を開業した。
高山 長幸(たかやま ながゆき/ながよし、1867年8月7日… 高山 長幸(たかやま ながゆき/ながよし、1867年8月7日(慶応3年7月8日) - 1937年(昭和12年)1月19日)は、明治から昭和にかけての衆議院議員(6期)、銀行家、帝国商業銀行取締役会長、東洋拓殖総裁等を歴任。号は孤竹。勲四等瑞宝章。 伊予国喜多郡大洲城下中村(喜多村、大洲村、大洲町を経て現大洲市)出身。大洲藩士・高山文兵衛の長男。上京して慶應義塾に入り一時東京英語学校に遊学し、明治23年(1890年)に慶應義塾大学部を卒業。 1893年(明治26年)三井銀行に入り、大阪支店を経て函館・長崎などの要所の支店長を歴任し、三井銀行本店副支配人に就任する。また、明治石油、大日本製糖、朝鮮産業鉄道、蓬莱相互生命保険、東邦炭鉱、三井物産、雨龍炭鉱、第一火災海上保険、名古屋製糖などで重役を歴任。