四十宮 正男(よそみや まさお、1934年10月9日 - 2… 四十宮 正男(よそみや まさお、1934年10月9日 - 2023年4月16日)は、日本の経営者。兼松社長を務めた。 東京都出身。1959年に東京大学経済学部を卒業し、同年に兼松に入社。1975年6月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1993年6月に副社長に就任し、1994年6月に社長に昇格。1999年6月に業績低迷の責任を取り、相談役に退く。大王製紙監査役も務めた。 2023年4月16日、肺がんのため死去。88歳没。
備前 喜夫(びぜん よしお、1933年10月9日 - 201… 備前 喜夫(びぜん よしお、1933年10月9日 - 2015年9月7日)は、広島県尾道市出身のプロ野球選手(投手)。引退後は広島東洋カープコーチ、二軍監督、スカウトを務めた。旧名は「大田垣 喜夫」(おおたがき よしお)。
霜島 甲一(しもじま こういち、1933年10月9日 - 2… 霜島 甲一(しもじま こういち、1933年10月9日 - 2011年7月24日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法・破産法・会社更生法。学位は法学博士。元法政大学教授。兼子一および新堂幸司門下。東京都出身 1956年東京大学法学部卒業。1958年同大学院法学政治学研究科修士課程修了。1963年同同大学院法学政治学研究科博士課程修了。法学博士・論題「裁判効限界論」。1963年法政大学法学部専任講師(破産法・ゼミ担当)。1965年同助教授。1970年同教授。1972年旧司法試験第二次試験考査委員(1973年まで)。1982年旧司法試験第二次試験考査委員。1999年法政大学定年退職。同名誉教授。弁護士登録(第二東京弁護士会所属)。
平山 綽保(ひらやま のぶやす、1933年10月9日 - )… 平山 綽保(ひらやま のぶやす、1933年10月9日 - )は、日本の元競泳選手。日本大学出身。1951年(昭和26年)の日本学生選手権男子100m平泳ぎで優勝している。第15回ヘルシンキオリンピック競技大会代表選手選考会を兼ねた第28回日本選手権水泳競技大会の100m平泳ぎで2位となり、オリンピック代表選手に選出された。その後1952年ヘルシンキオリンピックの競泳競技・男子200m平泳ぎに出場し、4位入賞した。
高見 堅志郎(たかみ けんしろう、1933年10月9日 - … 高見 堅志郎(たかみ けんしろう、1933年10月9日 - 1996年9月16日)は、日本の美術評論家。 1957年早稲田大学文学部卒業。1961年同大学院修士課程(美術史学専攻)修了。1963年武蔵野美術大学講師、助教授、武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン学科教授。1987年から雑誌『武蔵野美術』の責任編集者を務める。
本山 可久子(もとやま かくこ、1932年〈昭和7年〉10月… 本山 可久子(もとやま かくこ、1932年〈昭和7年〉10月9日 - )は、日本の女優。 東京市(現東京都)日本橋出身。 母は俳人の鈴木真砂女。 長狭高等女学校(現・鴨川令徳高等学校)卒業。文学座演劇部所属。 文学座附属演劇研究所に入所後、舞台を中心に活動する一方、テレビドラマにも堅実なバイプレイヤーとして多数出演。1970年代になると主人公の母親役や妻役が増え、その演技力から不幸な目に遭遇する役での出演も多かった。ちなみに1972年の『帰ってきたウルトラマン』第43話では根上淳演じる伊吹隊長の夫人役でゲスト出演したが、根上とは1975年に『傷だらけの天使』第23話においても夫婦役で共演している。
山崎 弘美(やまざき ひろみ、1932年10月9日 - 20… 山崎 弘美(やまざき ひろみ、1932年10月9日 - 2013年5月20日)は、長野県出身のプロ野球選手。 辰野高校から1952年に読売ジャイアンツへ入団。1958年の二軍の国鉄・大洋との北海道遠征では、青函連絡船で函館に着くと朝市で毛ガニを両手で抱えきれないくらい買ってくるなど、めぼしい駅に着く度に地元の名物を買い込んできたほか、買い出し・列車の手配など、マネージャー兼任で活躍した。また、巨人軍合宿所の小山寮長の信頼が厚く、そのうち副寮長格になって寮長の隣の部屋に住んでいたという。しかし、広田順・藤尾茂・森昌彦ら強力な捕手陣の壁を崩せず、一軍試合出場は1959年の2試合のみで、1960年に引退。
外間 寛(ほかま ひろし、1932年〈昭和7年〉10月9日 … 外間 寛(ほかま ひろし、1932年〈昭和7年〉10月9日 - 2022年〈令和4年〉4月29日)は、日本の法学者。専門は行政法、特にアメリカ行政手続法。第22代中央大学学長、同総長。中央大学名誉教授。沖縄県那覇市首里出身。橋本公亘の弟子。 1932年、沖縄県首里市(現・那覇市)生まれ。沖縄県立首里高等学校卒業。1954年、中央大学法学部卒業。1960年 東京大学大学院社会科学研究科公法専攻単位取得満期退学、東京大学法学部助手。 1961年、中央大学法学部専任講師。1962年、同学部助教授。1968年、同学部教授。1987年、同学部長( - 1991年)。1990年、中央大学理事( - 1993年)。
山本 明(やまもと あきら、1932年10月9日 - 199… 山本 明(やまもと あきら、1932年10月9日 - 1999年9月28日)は、日本の社会学者。専攻は都市文化論。 大阪市出身。1955年同志社大学文学部卒業、57年同大学院法学研究科修了。1972年同志社大学文学部教授となる。
友竹 正則(ともたけ まさのり、1931年〈昭和6年〉10月… 友竹 正則(ともたけ まさのり、1931年〈昭和6年〉10月9日 - 1993年〈平成5年〉3月23日)は、日本の声楽家・バリトン歌手・詩人。広島県福山市出身。 広島県福山南高等学校(現・広島県立福山葦陽高等学校)から国立音楽大学声楽科に進み、卒業後二期会に所属。1955年、「カルメン」のモラレス役でオペラデビュー。 1960年、キングレコード専属となる。その後、童謡・オペラ・ミュージカルなど幅広く活躍し多くの人に親しまれた。 1979年1月から1981年12月まで、料理番組『くいしん坊!万才』で3代目レポーターを務めた。しかし大の梅干し嫌いであったため、番組内で梅干しが出された際も断るわけにはいかず、結局苦渋の表情で食べるシーンが後年の「NG大賞」などでも放送された。
深沢 宏(ふかざわ ひろし、1931年10月9日 - 198… 深沢 宏(ふかざわ ひろし、1931年10月9日 - 1986年8月26日)は、日本の歴史学者・経済学者。専攻は南アジア史。学位は、博士(ラクナウ大学)。元一橋大学教授。日経・経済図書文化賞受賞。 山形県酒田市生まれ。大連市富士小学校、大連市上葭国民学校、大連中学校、広島陸軍幼年学校、横手中学校(現秋田県立横手高等学校)を経て、1948年熊本県立中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)を卒業し、東京商科大学(現一橋大学)専門部入学。1953年一橋大学経済学部卒業、1955年一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。1956年からインド政府給費留学生としてラクナウ大学大学院経済学研究科博士課程に留学。
高橋 英郎(たかはし ひでお、1931年10月9日 -201… 高橋 英郎(たかはし ひでお、1931年10月9日 -2014年3月18日)は、日本の音楽・文芸評論家。 東京府生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。明治学院大学文学部教授を経て、1983年より「モーツァルト劇場」を主宰、日本語によるオペラ公演の制作・訳詞・総監督を務める。1975年プーランク=アポリネールの『ティレジァスの乳房』の訳詞上演でジロー・オペラ賞を受賞。1990年トマの『ハムレット』でクリエーション大賞を受賞。モーツァルト5大オペラをはじめ、ドビュッシー、プーランク、オッフェンバックなど、これまでの舞台公演に対して2006年度エクソンモービル音楽賞を受賞(著書のプロフィールより)。 2014年3月18日午前4時21分、慢性呼吸不全のため、東京都内の病院で死去。
西村 康雄(にしむら やすお、1931年10月9日 - 20… 西村 康雄(にしむら やすお、1931年10月9日 - 2002年3月27日)は、日本の運輸官僚。 東京都出身。1954年に東京大学法学部を卒業し、同年に運輸省に入省。運輸官房文書課長、官房審議官などを経て、1984年に航空局長に就任し、1986年を以って、退官。日本開発銀行理事、1988年7月に東京都地下鉄建設社長を経て、1993年4月から1998年10月に国鉄清算事業団理事長を務めた。 2002年3月27日、膀胱癌のために死去。70歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
上月 佐知子(こうづき さちこ、1930年10月9日 - )… 上月 佐知子(こうづき さちこ、1930年10月9日 - )は、兵庫県出身の女優。兵庫県立第三高等女学校卒業(現兵庫県立御影高等学校)。血液型B型。
前川 恒雄(まえかわ つねお、1930年10月9日 - 20… 前川 恒雄(まえかわ つねお、1930年10月9日 - 2020年4月10日)は、日本の図書館学者。 日本統治時代の朝鮮木浦府出身。本籍石川県。金沢大学工学部卒、文部省図書館職員養成所卒、石川県小松市立図書館勤務、1956年七尾市立図書館、1960年日本図書館協会勤務、1965年東京都日野市立図書館長、1974年東京都日野市助役、1980年滋賀県立図書館長、甲南大学教授。2001年退職。2020年4月10日死去。89歳没。
野村 修(のむら おさむ、1930年10月9日 - 1998… 野村 修(のむら おさむ、1930年10月9日 - 1998年4月23日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。京都大学名誉教授。 千葉県市川市生まれ。京都大学卒業。『新日本文学』に拠って、ブレヒト、ベンヤミンなどについて研究、翻訳。京大教養部助教授、教授、1994年定年退官、名誉教授。梅花女子大学教授。1998年肝不全のため死去。
穂積 和夫(ほづみ かずお、1930年10月9日 - 202… 穂積 和夫(ほづみ かずお、1930年10月9日 - 2024年11月26日)は、東京生まれのイラストレーター。 東北大学工学部建築学科、セツ・モードセミナー卒。建築設計事務所「松田平田設計」勤務を経て、イラストレーターに。ファッションを中心に自動車などの分野で出版、広告界で活躍。ファッションに関しては日本のメンズファッションの第一人者としてメンズファッション誌に寄稿。とくに穂積が描いたアイビーボーイはアイビールックを指南するアイコンとなった。各自動車メーカーのポスター、映画ポスター、CDジャケットなどを多く手掛る。1981年から主に日本の歴史建造物や町並み、歴史風俗などを描く新境地を開く。日本の生活を主なテーマに意欲的な活動を続けた。
古澤 嘉生(ふるさわ かせい、1929年10月9日 - 20… 古澤 嘉生(ふるさわ かせい、1929年10月9日 - 2018年5月17日)は、日本の音楽学者。専門は教会音楽。キリスト教礼拝音楽学会初代会長。 福岡県に生まれる。1947年3月福岡県中学修猷館を卒業後、同校が新制となった福岡県立高等学校修猷館に3年編入学し、1949年3月卒業。1953年3月西南学院大学学芸学部英文学科を卒業後、西南学院大学文学部神学科に3年次学士入学し、1955年3月卒業。1955年7月フルブライト大学院留学生として米国に留学し、1958年5月サザン・バプテスト神学大学院教会音楽研究科修士課程を卒業。 1958年10月西南学院大学文学部神学科助手、1960年4月同講師、1963年10月同助教授となり、1965年9月ブリティッシュ・カウンシル給費留学生として英国に留学し、英国王立教会音楽学校、ロンドン大学キングス・カレッジ音楽学部、ケンブリッジ大学音楽学部において、教会音楽および音楽学を研究し、1966年8月修了。
市村昭三(いちむら しょうぞう、1928年10月9日- )は… 市村昭三(いちむら しょうぞう、1928年10月9日- )は、日本の経営学者、九州大学名誉教授。 福岡県出身。一橋大学大学院商学研究科修了、1966年商学博士。西南学院大学助教授、九州大学経済学部教授、92年定年退官、名誉教授、福岡大学教授、九州情報大学経営情報学部教授、学部長、副学長。
速浪 武夫(はやなみ たけお、1928年10月9日 -没年不… 速浪 武夫(はやなみ たけお、1928年10月9日 -没年不明 )は、宮城県本吉郡(現:気仙沼市)出身で伊勢ヶ濱部屋所属の元大相撲力士、国際プロレス団、アジアプロレス所属の元プロレスラー。本名は佐山 武雄(さやま たけお)。大相撲時代の四股名は速浪 武夫(はやなみ たけお)。最高位は西十両14枚目。身長175cm、体重82kg。プロレスラー時代は身長177cm、体重93kg。得意技は右四つ、下手投げ。 勤労奉仕先の工場で横綱・照國に素質を見出されて伊勢ヶ濱部屋に入門し、1944年11月場所に本名の速浪の四股名で初土俵を踏んだ。終戦直後に一旦は廃業して連合軍の関連業務に就いたが、十分に飯が食えない状況になったので、詫びを入れて復帰した。
松本 昌次(まつもと まさつぐ、1927年10月9日-201… 松本 昌次(まつもと まさつぐ、1927年10月9日-2019年1月15日)は、日本の編集者、出版者。 東京都生まれ。東北大学文学部英文科卒。高校教師等を経て1953年から83年まで未來社に勤務。83年、影書房を創業した。 2019年1月15日、腎臓がんのため、埼玉県狭山市の病院で死去。91歳没。 未來社で全7巻の『金日成著作集』(同刊行委員会編訳、1970〜1981)を刊行。日本語版の翻訳と編集は、朝鮮総連の刊行委員会によって行われ、未来社側は独自の編集権を放棄し、介入不可能だったという。当時、第1副議長だった金炳植が、日本の出版社から日本語版が出ることの意味を重んじて企画を持ち込んだ。この出版によって、経済的に苦しかった未來社は支えられたという。
将積 茂(しょうじゃく しげる、1926年10月9日-201… 将積 茂(しょうじゃく しげる、1926年10月9日-2014年1月22日)は、日本の哲学研究者。愛知教育大学名誉教授。 愛知県豊橋市出身。旧姓・高柳。1951年、名古屋大学文学部哲学科卒業。愛知学芸大学助教授、愛知教育大学教授。1989年7月1日から1995年6月30日まで同大学学長を務めた。同大学名誉教授。専門はヘーゲルだが、ヒトラーの『わが闘争』の翻訳で知られる。
江口 季好(えぐち すえよし、1925年(大正14年)10月… 江口 季好(えぐち すえよし、1925年(大正14年)10月9日 - 2014年(平成26年)6月4日)は、日本の詩人、国語教育研究者。
鈴木 清一(すずき せいいち、1925年10月9日 - 没年… 鈴木 清一(すずき せいいち、1925年10月9日 - 没年不明)は、静岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。 島田商業学校から専修大学へ進学し、1946年にセネタースに入団。同年は101試合に出場し、当時のプロ野球記録となるシーズン14三塁打を記録した。1947年も101試合に出場。一方で守備は1年目63失策、2年も59失策と2年連続でリーグ最多失策を記録してしまった。 1948年は金星スターズに移籍したがわずか5試合の出場にとどまり、同年限りで引退。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
春日 八郎(かすが はちろう、本名:渡部 実 (わたべ みの… 春日 八郎(かすが はちろう、本名:渡部 実 (わたべ みのる)、1924年〈大正13年〉10月9日 - 1991年〈平成3年〉10月22日)は、福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身の演歌歌手。代表曲は「赤いランプの終列車」「お富さん」「別れの一本杉」。 父・鬼佐久は農業を母・キヨに任せて蕎麦打ちの行商をやり、キヨは小学校で週2、3度裁縫を教え、夜は賃仕事の仕立物に精出して家計を助けていた。父は尺八を、母は三味線を嗜んでいた。父は蕎麦打ちの名人で、母は当地の花嫁衣装を一手に引き受けるほどの和裁の名手でもあった。春日には妹二人のほかに「ほとんど記憶にない」異母兄姉6人、異父兄姉が4人いた。 1930年に八幡村立八幡尋常小学校へ入学するが、この時期は「歌のうの字も知らない」状態で、人からうまいといってほめてもらった記憶もなかった。
平野 敬一(ひらの けいいち、1924年10月9日 - 20… 平野 敬一(ひらの けいいち、1924年10月9日 - 2007年11月7日)は、英文学者、東京大学名誉教授。 米国サクラメント生まれ。東京大学文学部英文科卒業、1953年より同・教養学部講師、助教授を経て、教授、1983年定年退官、名誉教授。明治大学教授を務めた。 マザー・グースやチャイルド・バラッドのほか、北米(カナダ)文学の研究を行った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大塚 実(大塚 實、おおつか みのる、1922年(大正11年… 大塚 実(大塚 實、おおつか みのる、1922年(大正11年)10月9日 - 2019年(令和元年)9月7日)は、日本の実業家。大塚商会創業者。後を継いだ大塚裕司は長男。 大塚裕司大塚商会代表取締役社長は長男。 母校である栃木県立真岡高等学校に対し、下記のような寄付を行ったほか、同窓会副会長を務める等、熱心な支援を行っていた。
小前 博文(こまえ ひろふみ、1921年10月9日 - 20… 小前 博文(こまえ ひろふみ、1921年10月9日 - 2000年5月10日)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(外野手)。
平石 磨作太郎(ひらいし まさたろう、1921年10月9日 … 平石 磨作太郎(ひらいし まさたろう、1921年10月9日 - 1992年12月23日)は、日本の政治家。公明党衆議院議員(5期)。 高知県長岡郡大豊町出身。1943年関西大学専門部法律学科卒。東豊永村農業協同組合長を経て、高知市役所に入り、財政課長、厚生部長などを歴任する。公明党高知県本部に入り、1974年5月の参院補選と7月の通常選挙に高知県から公明党公認で立候補したが落選。1976年の第34回衆議院議員総選挙で高知県全県区から立候補して初当選。連続5期務めた。1990年の総選挙に立候補せず、政界から引退する。 1991年11月の秋の叙勲で、勲二等瑞宝章受章。 1992年12月23日、死去。
竹井 博友(たけい ひろとも、1920年(大正9年)10月9… 竹井 博友(たけい ひろとも、1920年(大正9年)10月9日 - 2003年(平成15年)7月29日)は、日本の実業家。不動産会社である地産の代表取締役社長。徳間書店と致知出版社の事実上の創業者。 栃木県黒磯町生まれ。福島県立白河中学校、明治大学政治経済学部を卒業後、1943年(昭和18年)に読売新聞社 に入社 する。読売新聞社会部記者などを歴任し、読売争議の際は急進的な組合側の急先鋒となる。 1946年(昭和21年)に読売新聞を退社してアサヒ芸能新聞社を経営し、『アサヒ芸能新聞』、『日東新聞』を創刊する。 1952年(昭和27年)の大阪讀賣新聞創刊と1975年(昭和50年)の中部讀賣新聞創刊に「読売の大番頭」務臺光雄の命で携わり、「務臺(読売)の黒子役」とも言われる。
井上 勝也(いのうえ かつや、1920年10月9日 - )は… 井上 勝也(いのうえ かつや、1920年10月9日 - )は、日本の化学者、千葉大学名誉教授。 東京生まれ。1943年東京帝国大学理学部化学科卒業、工業技術院資源環境技術総合研究所、1948年燃料研究所(公害資源研究所)、1954年「石炭のレオロジー的研究」で東京大学理学博士。1959年八幡製鉄(新日本製鉄)先端技術研究所、1967年千葉大学理学部教授、84年定年退官、名誉教授、神奈川大学理学部教授、91年退職。
皆川 定之(みながわ さだゆき、1919年10月9日 - 1… 皆川 定之(みながわ さだゆき、1919年10月9日 - 1986年12月11日)は、群馬県桐生市東堤町出身の元プロ野球選手、コーチ、監督。 プロ野球選手の皆川康夫は子。 鉄道省職員だった父の三男として、桐生市に生まれる。 桐生西小卒業後、桐生中学に進学。当初、父は進学校である桐生工業に進んでほしいと思っていたが、兄が以前通っていたことや、野球部が強いことなどから父の反対を押し切り、同校に入学した。 桐生中学時代には、2年夏からベンチ入りを果たすと、1934年夏(2回戦敗退)、1935夏(2回戦敗退)、1936年春(準優勝)、1936年夏(ベスト4)の4回の甲子園に出場。同級生には大阪タイガースでも同僚になる青木正一(投手)、稲川豪一(三塁手)、後に近鉄のスカウトになる塚越源市(捕手)がいた。
道正 邦彦(どうしょう くにひこ 1919年10月9日 - … 道正 邦彦(どうしょう くにひこ 1919年10月9日 - 2016年10月26日)は、日本の官僚。内閣官房副長官(事務担当)、労働事務次官。
田島 敏弘(たじま としひろ、1919年(大正8年)10月9… 田島 敏弘(たじま としひろ、1919年(大正8年)10月9日 - 1995年(平成7年)4月17日)は日本の実業家。日本興業銀行副頭取や、富士重工業の社長や会長を務めた。 1942年に旧制東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業し、日本興業銀行入行。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。北浦海軍航空隊に配属。名古屋監督官事務所に転じ、のち造兵監督官に就任し材料関係を担当した。1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進み終戦を迎えた。戦後、GHQとの渉外に従事。 その後、日本興業銀行に復帰し、融資第三部長、調査本部長、常務、副頭取、顧問を歴任。
高 英男(こう ひでお、本名:吉田 英男、1918年10月9… 高 英男(こう ひでお、本名:吉田 英男、1918年10月9日 - 2009年5月4日)は、樺太(現・サハリン)出身の日本の歌手、俳優。日本人のシャンソン歌手の先駆けであり、シャンソン音楽普及の第一人者である。フランスでも活躍。独自のムードを醸し出す歌手・俳優として知られた。 大正7年(1918年)10月9日、樺太泊居町で8人兄弟の末っ子として生まれた。生後すぐ、母方の伯母の嫁ぎ先へ戸籍上の養子になっている。芸名である高英男の姓である「高」は旧姓(実家の姓)であり、自身は日本人である。デビュー以来「日本人ではないのでは」という問い合わせが少なからずあった。「高」という姓は大陸名のように思われがちであるが、日本に存在しない苗字ではなく、韓国には同姓同名の映画監督がかつていた。
鈴木 秀雄(すずき ひでお、1918年10月9日 - 196… 鈴木 秀雄(すずき ひでお、1918年10月9日 - 1964年10月26日)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは捕手、内野手。 榛原中から全静岡を経て、1936年に名古屋軍へ入団。1939年シーズン途中にライオン軍へ移籍し、1942年には大和軍へ移籍した。1944年は前身の名古屋軍であった産業軍へ復帰し、この年から内野手へ転向。1946年に引退した。
角川 源義(かどかわ げんよし、1917年(大正6年)10月… 角川 源義(かどかわ げんよし、1917年(大正6年)10月9日 - 1975年(昭和50年)10月27日)は、日本の実業家、国文学者、俳人。KADOKAWAグループ創業者。俳号は源義(げんぎ)、水羊(すいよう)。 辺見じゅん(作家、幻戯書房代表)、角川春樹(俳人、角川春樹事務所会長兼社長)、角川歴彦(角川文化振興財団名誉会長、元KADOKAWA会長)の父。 富山県中新川郡東水橋町(現富山市)に父・源三郎、母・ヤイの三男として生まれた。父・源三郎は源義誕生時は鮮魚を商っていたが、後に米穀商に転じ成功している。 1930年(昭和5年)、富山県立神通中学校(現在の富山県立富山中部高等学校)に入学した。
北村 久寿雄(きたむら くすお、1917年(大正6年)10月… 北村 久寿雄(きたむら くすお、1917年(大正6年)10月9日 - 1996年(平成8年)6月6日)は、日本の競泳選手、労働省官僚。1932年ロサンゼルスオリンピックの1500m自由形金メダリスト。1952年ヘルシンキオリンピック競泳日本代表の北村康雄は実弟。 出身地は高知市菜園場町(はりまや橋の東)。指導にあたったのは溝渕治助だった。練習には板垣退助や坂本龍馬も泳いだという鏡川を流れに逆らって泳ぐ方法を採用した。[要出典] 1932年(昭和7年)、旧制高知市立高知商業学校3年生のときに開催された第10回のロサンゼルスオリンピックの水泳1500m自由形でそれまでのオリンピック記録を40秒近く縮める19分12秒4のタイムでわずか14歳290日で金メダルを獲得、これは1988年ソウルオリンピックでハンガリーのクリスティーナ・エゲルセギ(当時14歳1か月9日)に破られるまで競泳世界最年少金メダリストであった。
中部 新次郎(なかべ しんじろう、1917年10月9日 - … 中部 新次郎(なかべ しんじろう、1917年10月9日 - 没年不明)は、プロ野球チーム・横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の元オーナー。 山口県下関市出身。早稲田大学専門部商科を経て、1942年に水産講習所を卒業後、大洋漁業の前身である林兼商店に入社。大洋漁業下関支社営業部長、営業本部長などを歴任し、1973年から副社長を務めた。中部謙吉の死去に伴い、1977年から横浜大洋ホエールズのオーナーに就任した。 1987年に古葉竹識が監督に就任し、その披露パーティーでたけし軍団に因んで、「竹識軍団となってばく進せよ!」とスピーチした。 1990年のシーズンをもって、オーナーを退任。 同社の軟式野球部で投手、遊撃手としてプレーしたことがある。
内薗 耕二(うちぞの こうじ、1916年10月9日 - 20… 内薗 耕二(うちぞの こうじ、1916年10月9日 - 2006年10月25日)は、日本の医学者(生理学)。階級は海軍中尉。勲等は勲二等。学位は、医学博士(東京大学・1950年)。東京大学名誉教授、静岡県立大学名誉教授、生理学研究所名誉教授。 東京帝国大学医学部副手、東京大学医学部講師、新潟大学医学部教授、東京大学医学部教授、生理学研究所所長(初代)、岡崎国立共同研究機構機構長(第2代)、静岡女子大学学長(第5代)、静岡県立大学学長(初代)、静岡県立大学短期大学部学長(初代)などを歴任した。 1916年、鹿児島県鹿屋市にて生まれた。 鹿児島県立鹿屋中学校 (旧制)を経て、1937年に第一高等学校理科乙類を卒業後、東京帝国大学医学部医学科に進学して医学を学び1941年に卒業した。
高村 勝治(たかむら かつじ、1916年10月9日 - 20… 高村 勝治(たかむら かつじ、1916年10月9日 - 2009年4月3日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。筑波大学名誉教授。専門はアーネスト・ヘミングウェイで、第二次世界大戦後のアメリカ文学研究の開拓者の一人だった。 石川県生まれ。1940年東京文理科大学卒業、1941年同大学院中退、助手。1946年東京高等師範学校助教授、1948年教授、1949年東京文理科大講師、東京教育大学助教授、1962年「「ローストジェナレーション」研究」で文学博士、1964年教授、移転に伴い筑波大学教授、1980年定年退官、名誉教授、共立女子大学教授。 1990年、勲三等旭日中綬章受勲。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
渡辺 護(わたなべ まもる、1915年10月9日 - 200… 渡辺 護(わたなべ まもる、1915年10月9日 - 2007年7月30日)は、日本の音楽学者、音楽評論家。東京大学名誉教授。 1915年、東京生まれ。1938年東京帝国大学美学科を卒業。1939年にドイツに渡り、ウィーン大学で学び1942年に卒業。ブルガリアのソフィア大学講師に就いた。1944年、第二次世界大戦の戦火を避けてスイスに滞在し、1946年に米国をへて帰国した。 帰国後、武蔵野音楽大学教授に就いた。1965年、東京大学文学部美学美術史学科助教授となり、1969年に教授昇格。1976年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、在西ドイツ日本大使館公使、ケルン日本文化会館長を務めた。
猪 初男(いの はつお、1914年〈大正3年〉10月9日 -… 猪 初男(いの はつお、1914年〈大正3年〉10月9日 - 1999年〈平成11年〉9月11日)は、日本の耳鼻咽喉科学者、耳鼻咽喉科医。医学博士。第8代新潟大学学長。新潟大学名誉教授。 新潟県東蒲原郡上条村大字両郷(現 阿賀町両郷)出身。 新潟師範学校附属小学校を経て、1931年(昭和6年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1934年(昭和9年)3月に新潟高等学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に新潟医科大学を卒業。 1939年(昭和14年)7月に海軍軍医中尉に任官、海軍軍医学校の教官として全国各地出身の軍医の養成に努め、海軍省に勤務していた時に太平洋戦争が終戦、最終階級は海軍軍医少佐、戦後、復員省に勤務。
玉村 竹二(たまむら たけじ、1911年10月9日 - 20… 玉村 竹二(たまむら たけじ、1911年10月9日 - 2003年11月11日)は、禅宗の研究者、東京大学史料編纂所教授であった。
永野 治(ながの おさむ、1911年(明治44年)10月9日… 永野 治(ながの おさむ、1911年(明治44年)10月9日 - 1998年(平成10年))は、日本の航空技術者、実業家。元海軍技術少佐、元石川島播磨重工業(IHI)副社長。国産のジェットエンジンを開発した技術者。
双葉 十三郎(ふたば じゅうざぶろう、1910年10月9日 … 双葉 十三郎(ふたば じゅうざぶろう、1910年10月9日 - 2009年12月12日)は、日本の映画評論家、翻訳家である。本名は小川 一彦(おがわ かずひこ)。ペンネームはトム・ソーヤーに由来する(双葉は「Sauyer」、十三は「Tom」をもじったもの)。 東京府東京市出身。父は化学者の小川若三郎。幼少時から映画に熱中、映画館に入り浸り、映画三昧の日々を送っていた。 東京府立第八中学校(現在の東京都立小山台高等学校)時代から埼玉県立浦和中学校(現在の埼玉県立浦和高等学校)、東京帝国大学(現在の東京大学)に至る学生生活のあいだ書き留めた「映画ノオト」は数十冊に及んだ。 自身は辰野隆に傾倒し、仏文科へ進みたかったのだが、父・若三郎から「仏文に行ったら勘当する」と強硬に申し渡されたため、泣く泣く経済学部に入学した。
天利長三(あまり ちょうぞう、1910年(明治43年)10月… 天利長三(あまり ちょうぞう、1910年(明治43年)10月9日 - 2000年(平成12年)7月10日)は、日本の経済学者。専門は金融論。 滋賀県長浜市出身。1936年東京商科大学卒、1961年「貨幣経済と実物経済」で一橋大学より経済学博士の学位を取得。彦根高等商業学校教授、東京商科大学経済研究所参事、小樽商科大学教授、東京女子大学教授、東京都立大学教授、青山学院大学経済学部教授を務め、1980年定年、名誉教授となり、東海大学教授を務めた。
三田村 泰助(みたむら たいすけ、1909年(明治42年)1… 三田村 泰助(みたむら たいすけ、1909年(明治42年)10月9日 - 1989年(平成元年)9月23日)は、日本の歴史家(東洋史・中国史)。 1909年、福井県南条郡武生町(現越前市)生まれ。山口高校から京都帝国大学東洋史学科に進んだ。東洋史学科では、内藤湖南、羽田亨に師事した。卒業後は、1949年から80年まで立命館大学教授。定年退職後に名誉教授。1989年9月に死去。
内田 博(うちだ ひろし、1909年10月9日 - 1982… 内田 博(うちだ ひろし、1909年10月9日 - 1982年2月25日)は、日本の詩人。福岡県三池郡大牟田町(現・大牟田市)出身。詩人で童話作家の内田麟太郎は長男。 本名は内田弘喜智。1909年、福岡県大牟田下里(現・大牟田市元町)に3男4女の次男として生まれる。1922年に大牟田町立第二尋常小学校(現・大牟田市立大牟田小学校)を卒業すると進学せず、書店の丁稚奉公や実兄の起こした会社で働いた。 19歳のときに石川啄木の影響で詩作を始める。1929年、処女詩「秋・風景詩」を地元紙に投稿して掲載され、その後も地元紙に「村山三郎」の筆名で投稿をおこなった。その後、1932年に日本プロレタリア作家同盟に加盟。
肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ、1908年10月9日 - 1… 肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ、1908年10月9日 - 1946年3月8日)は、日本の医学者。第二次世界大戦後のドイツで医療活動に尽力し、現地で病没した。ヴリーツェン市名誉市民、医学博士(ベルリン大学) 1908年、東京の八王子の外科医・肥沼梅三郎とハツの次男(長男とも)として生まれる。父・梅三郎は済生学舎に学んだ軍医で、八王子市中町で医院を開業していた。信次の妹の梅治はのちに、子爵で日本医科大学細菌学研究所員の花園公栄に嫁いだ。 東京府立二中(現立川高校)を卒業後医学を志し、日本医科大学から東京帝国大学放射線研究室へと進み、1937年、日本政府の国費留学生としてドイツに渡り、ロベルト・コッホ研究所を経てベルリン大学医学部放射線研究室の客員研究員となる。