小糸 忠吾(こいと ちゅうご、1911年3月11日 - 20… 小糸 忠吾(こいと ちゅうご、1911年3月11日 - 2001年3月6日)は、日本のジャーナリスト。上智大学文学部新聞学科長で、同大学大学院ジャーナリスト学科設立に大きく尽力した。専門は新聞学。 東京都出身。米国ワシントン州立大学卒業、ミネソタ大学院修了後、共同通信社ニューヨーク支局長などを経て国際局次長となる。1966年上智大学文学部教授、1971年同大大学院新聞学科教授、1973年新聞学科長を歴任。
栖原 亮(すはら あきら、1911年 <明治44年> 3月1… 栖原 亮(すはら あきら、1911年 <明治44年> 3月11日 - 2000年 <平成12年> 7月30日)は、日本の経営者。本州製紙社長、会長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1934年に東京商科大学を卒業し、同年に王子製紙に入社。1949年8月に本州製紙に転じ、1960年11月に取締役に就任し、1963年11月に常務、1969年5月に専務、1970年11月に副社長を経て、1974年11月には社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1990年6月から相談役を務めた。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2000年7月30日肺炎のために死去。89歳没。
杉村 春三(すぎむら しゅんぞう、1910年3月11日 - … 杉村 春三(すぎむら しゅんぞう、1910年3月11日 - 1994年2月8日)は日本の社会福祉家。在学時代からハンセン病のフィールドワークを始め、九州大学で学び、国立療養所星塚敬愛園、満州国立らい療養所同康院、リデル・ライト記念養老院などで働き、『らいと社会福祉』の研究をまた、老人の福祉についても研究した。
吉田 常吉(よしだ つねきち、1910年〈明治43年〉3月1… 吉田 常吉(よしだ つねきち、1910年〈明治43年〉3月11日 - 1993年〈平成5年〉3月19日)は、幕末維新史専攻の日本史学者。元東京大学・駒澤大学教授、日本歴史学会理事。 1910年3月11日、東京府東京市(現在の東京都区部)で生まれた。東京市立四谷第二尋常小学校、四谷尋常高等小学校を経て、府立第六中学校(現・新宿高等学校)に入学。三年時から義兄の宮良當壯の下に寄宿。1928年に國學院大學予科に入学し、1930年に國學院大學文学部史学科に進んだ。大学では、植木直一郎、松本愛重に師事した。1933年3月、國學院大學の大学学部国史学科を卒業。卒業論文は、「平安朝時代における出産風俗の研究」であった。
大藤 ゆき(おおとう ゆき、1910年〈明治43年〉3月11… 大藤 ゆき(おおとう ゆき、1910年〈明治43年〉3月11日 - 2001年〈平成13年〉11月1日)は、日本の民俗学者、歌人。女性民俗学者の第一人者、または草分けの1人といわれる。夫は同じく民俗学者の大藤時彦。父は元福岡市長の小西春雄。福岡県出身(出生地は朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道咸興市)、旧姓は小西。 父が朝鮮銀行に務めていたため、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道咸興市で誕生した。父の転勤に伴い、中国の大連を経て福岡県に転居した。 大陸育ちのために、地方の狭さを感じて上京し、1931年(昭和6年)に東京女子大学高等学部を卒業した。就職口が無く、英文タイプや速記などの資格を得、日本国外から日本を訪れた人々に日本語を教えたりしていた。
佐久間 妙子(さくま たえこ、1908年3月11日 - 不明… 佐久間 妙子(さくま たえこ、1908年3月11日 - 不明)は、日本の女優。本名、西島 静子。 映画監督の勝見正義は義兄(姉の夫)。夫は俳優の竹内良一。
山口 恒則(やまぐち つねのり、1908年3月11日 - 1… 山口 恒則(やまぐち つねのり、1908年3月11日 - 1994年8月12日)は、日本の経営者。四国電力社長、会長を務めた。愛媛県北宇和郡広見町(現在の鬼北町)出身。 1933年に京都帝国大学法学部を卒業し、1936年に伊予鉄道電気に入社。1942年、四国配電(現在の四国電力)に転じる。1961年、取締役に就任し、1964年に常務、1966年に副社長を経て、1974年、社長に就任。1981年、会長に就任し、1988年6月には相談役に就任。経済団体連合会常任理事、四国経済連合会会長、四国旅客鉄道取締役相談役なども歴任。 1994年8月12日心不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
野網 和三郎(のあみ わさぶろう、1908年〈明治41年〉3… 野網 和三郎(のあみ わさぶろう、1908年〈明治41年〉3月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月2日)は、日本の水産家。香川県引田町(現在の東かがわ市)出身。愛称は、「ワーサン」。日本で初めてブリ(ハマチ)の養殖(畜養)に成功したことで知られる。 野網和三郎は1908年3月11日に香川県大川郡引田の「まるさ」と呼ばれる網元の三男として生まれる。小学校に入学すると、祖父を亡くし、翌年には叔父をコレラで亡くしている。そのため、叔父の息子を野網家で預かることになり、和三郎は母の実家に二年間ほど預けられた。 その後、親に頼み込み島根県の水産学校に進み、後に三重県の志摩水産学校に転校して卒業した。
安田 光昭(やすだ みつあき、1907年(明治40年)3月1… 安田 光昭(やすだ みつあき、1907年(明治40年)3月11日 - 1993年(平成5年)1月12日)は日本の教育者、政治家。元鳥取県議会議員。元米子市教育長。号東馬。 地方教育行政の要として野坂寛治市長のもと教育基盤の確立に尽力。米子市独自の教育立地計画を樹立することが肝要と6年間にわたり現場教職員と一体となり実態調査を実施。その結果を4冊にまとめ逐次刊行した。このことは全国的に注目された。また、全国の都市教育委員会の教育長に呼びかけて全国都市教育長会を結成し、地教委本来の使命達成に努めた。その他、県立移管となった市立米子高等学校の開設「米子市小学校再配置計画」の立案実施を行った。 鳥取県西伯郡大篠津村(現米子市大篠津町)の「大阪屋」という割烹旅館の長男として生まれた。
鈴木 成高(すずき しげたか、1907年(明治40年)3月1… 鈴木 成高(すずき しげたか、1907年(明治40年)3月11日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、日本の西洋史学者(専門は西洋中世史)。京都学派の一人。正五位勲三等瑞宝章。 1907年、高知県生まれ。旧制高知高等学校を経て、1929年京都帝国大学文学部西洋史学科を卒業。戦前は第三高等学校教授、1942年より京都帝国大学助教授を務めた。戦時下には大東亜戦争(太平洋戦争)を「世界史の哲学」の立場から思想的に位置付けようと試みた「世界史的立場と日本」座談会や「近代の超克」座談会に参加。 戦後、思想的事由により不適格と判定され京都大学を公職追放により離れる。1951年の追放解除の後に早稲田大学教授を務めた。
安 東赫(アン・ドンヒョク、朝鮮語: 안동혁、1906年3月… 安 東赫(アン・ドンヒョク、朝鮮語: 안동혁、1906年3月11日 - 2004年10月14日)は、大韓民国の化学者。本貫は順興安氏。日本名は安東 赫。 1906年(光武10年)3月14日、京畿道高陽市に生まれた。徽文高等普通学校を経て、1926年、京城高等工業学校卒業。1929年、九州帝国大学工学部(現在の九州大学工学部)を卒業した後、京城工業専門学校の教師として赴任した。 1933年には教鞭を取り、中央試験所化学工業部に旗手業務も兼任した。京城工業と中央試験所を行き来しながら化学工学の講義と研究にまい進し、専門の油脂工業分野で6つの特許を取り、約10本の論文を発表した。大韓化学会、大韓窯業総協会、韓国食品科学会会長を歴任し、学術活動にも大きく貢献し、学術院の初代会員や副会長を経て、韓国科学会理事会の1、2代理事長など、様々な学会の会長を歴任し、大韓民国の化学共同学術活動の基礎を固めた。
加藤 文太郎(かとう ぶんたろう、1905年(明治38年)3… 加藤 文太郎(かとう ぶんたろう、1905年(明治38年)3月11日 - 1936年(昭和11年)1月5日)は日本の登山家。大正から昭和にかけて活躍した。兵庫県美方郡新温泉町出身。兵庫県立工業学校夜間部卒業。 複数の同行者が協力し、パーティーを作って登るのが常識とされる山岳界の常識を覆し、単独行によって数々の登攀記録を残した。登山に対する精神と劇的な生涯から、小説(新田次郎著『孤高の人』、谷甲州著『単独行者 アラインゲンガー 新・加藤文太郎伝』)やドラマのモデルとなった。 1905年(明治38年)3月11日、兵庫県美方郡浜坂町(現在の新温泉町)浜坂にて、加藤岩太郎・よねの四男として生まれる。 1919年(大正8年)に浜坂尋常高等小学校高等科卒業後、郷里を出て神戸の三菱内燃機製作所(三菱重工業の前身)に勤務しながら、1923年(大正12年)兵庫県立工業学校別科卒業、1926年(大正15年)神戸工業高等専修学校電気科を卒業。
海後 勝雄(かいご かつお、1905年3月11日 - 197… 海後 勝雄(かいご かつお、1905年3月11日 - 1972年11月1日)は、日本の教育学者、埼玉大学名誉教授。茨城県出身。
河合 堯晴(かわい たかはる、1905年3月11日 - 19… 河合 堯晴(かわい たかはる、1905年3月11日 - 1985年6月6日)は、日本の経営者。岡山県出身。 1929年に京都帝国大学工学部採鉱冶金科を卒業し、同年に日本鉱業に入社。 1950年5月に取締役に就任し、1957年11月に常務、1959年5月に専務を経て、1964年5月に副社長に就任し、1969年5月には社長に昇格。1974年5月に会長を経て、1976年6月には相談役に就任。日本鉱業協会会長、全日本剣道連盟会長なども歴任。 1964年10月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲一等瑞宝章を受章。 1985年6月6日急性心不全のために死去。80歳没。
七尾潟 直右エ門(ななおがた なおえもん、1905年3月11… 七尾潟 直右エ門(ななおがた なおえもん、1905年3月11日 - 1943年9月16日)は、現在の石川県七尾市出身で立浪部屋に所属した元大相撲力士。本名は浜田 兵吾。175cm、88kg。最高位は西十両筆頭。 1924年5月初土俵、1932年2月に春秋園事件の余波により、十両昇進。十両筆頭まで躍進したが、1933年5月に廃業した。
佐々木 カネヨ(ささき カネヨ、1904年3月11日 - 1… 佐々木 カネヨ(ささき カネヨ、1904年3月11日 - 1980年10月24日)は、絵画や写真の美術モデル。別名に、永井カ子ヨ(かねよ)、お葉がある。
飛沢 栄三(とびさわ えいぞう、1903年3月11日 - 1… 飛沢 栄三(とびさわ えいぞう、1903年3月11日 - 1967年6月21日)は、北海道古平郡古平町出身の高校野球指導者。 北海中学校・北海高等学校の野球部部長・監督を長く務め、「北海道高校野球の父」と呼ばれた。 北海中学時代の1920年、第6回全国中等学校優勝野球大会に外野手として出場。卒業後早稲田大学に進み、法律家を目指す傍ら母校北海中学のコーチを務めた。卒業後は大蔵省志望だったが、北海中学側の強い懇請により、1929年母校の教員となり、同時に野球部の部長に就任。 以来、緻密な野球をスローガンに、戦前・戦後を通じ38年間部長の地位にあり(断続的に監督も兼任)、春は8回、夏は18回甲子園に出場。
深田 久弥(深田 久彌、ふかだ / ふかた きゅうや、190… 深田 久弥(深田 久彌、ふかだ / ふかた きゅうや、1903年〈明治36年〉3月11日 - 1971年〈昭和46年〉3月21日)は、石川県大聖寺町(現・加賀市)生まれの小説家、随筆家および登山家、チベット・ヒマラヤ研究家である。 戦前は小説家、編集者として活躍し、戦後は主に山やスキーに関する随筆をもって著名がある。山をこよなく愛し、読売文学賞を受賞した著書『日本百名山』は特に良く知られている。俳号も山の入った九山であり(愛称である「久さん」のもじりで、荏草句会の永井龍男による命名)、自宅の書斎を兼ねた書庫には「九山山房」の名があり、山房の主とも称した。1971年(昭和46年)3月21日、登山中の茅ヶ岳山頂直下で脳卒中のため68歳で死去。
根岸 栄三郎(ねぎし えいざぶろう、1903年(明治36年)… 根岸 栄三郎(ねぎし えいざぶろう、1903年(明治36年)3月11日 - 1994年(平成6年)9月8日)は日本の発明家・実業家。繊維機械および各種回転方法の発明や改良を行い、日本の産業発展に大きく貢献した。桐生高等工業学校(現・群馬大学理工学部桐生キャンパス)助教授、興亜紡機(株)社長、埼玉県発明協会副支部長を歴任。 ノンタッチ管巻機、自動管巻機、ポット(空気)精紡機を発明。藍綬褒章、紫綬褒章、勲四等旭日小綬章を受賞。 1903年(明治36年)、埼玉県北埼玉郡飯泉村(現・埼玉県羽生市)生まれ。農業を営む父・根岸重次郎と妻・いわの四男(末子)として生まれる。長兄から家業を手伝うように言われていたが、進学して学業を積み社会貢献できる人になりたいと、横浜の親戚の家に行き、1915年(大正4年)10月に幼くして横浜の富士瓦斯紡績(株)で働きながら夜間中学に通った。
国島 荘一(くにじま そういち、1902年3月11日 - 1… 国島 荘一(くにじま そういち、1902年3月11日 - 1932年9月1日)は、日本の俳優である。國島 莊一と表記されることもある。本名は比佐 良夫(ひさ よしお)。旧芸名は國島 昇(くにじま のぼる)。大正末期に松竹蒲田撮影所などで活躍した二枚目俳優であったが、早世した。 1902年(明治35年)3月11日、福島県福島市に生まれる。 1914年(大正3年)、福島県福島中学校(現在の福島県立安積高等学校)に入学するが、同年7月3日に中退して井上正夫一座に入り、本郷座で初舞台を踏む。1922年(大正11年)、松竹蒲田撮影所へ入社し、国島昇を名乗って、1923年(大正12年)7月1日に公開された池田義信監督映画『水藻の花』などに出演、同作で映画デビューとされている。
中村 威(なかむら たけし、1902年3月11日 - 198… 中村 威(なかむら たけし、1902年3月11日 - 1986年3月27日)は、日本の生物学者、植物学者。京都学芸大学教授、関西女子短期大学教授を歴任。理学博士。専門は植物細胞学。 熊本県飽託郡内田村(後の天明村、天明町、熊本市南区の一部)出身。1912年から鹿児島県鹿児島市に住み、1914年に旧制 鹿児島県立第二鹿児島中学校(現 鹿児島県立甲南高等学校)へ入学。1919年に、第二鹿児島中学校から鹿児島高等農林学校(現 鹿児島大学)へ進学。専門学科では、動植物学を主とする農学科第三部で、岡嶋銀次、河越重紀、中村治房らに師事。1922年3月に鹿児島高等農林学校農学科を卒業し、ただちに京都帝国大学理学部植物学教室助手となり、桑田義備教授に師事して細胞学の研究に従事。
御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 19… 御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 1984年10月12日)は、日本の実業家、医師。キヤノン創業者・初代社長。また、太平洋戦争以前は産婦人科医として御手洗産婦人科病院を開業。 名古屋大学名誉教授の御手洗玄洋や、キヤノン社長や日本経済団体連合会会長を務めた御手洗冨士夫は甥にあたる。 1901年、大分県南海部郡蒲江町(現・佐伯市)に生まれる。実家は代々医師の旧家。佐伯中学(現大分県立佐伯鶴城高等学校)を経て北海道大学予科に進学、恵迪寮の委員長をつとめる。1928年、北海道大学医学部卒業。上京して日本赤十字病院に勤務。731部隊の石井四郎と師を同じくする。 1933年11月、吉田五郎や内田三郎らの創設した精機光学研究所に共同経営者として参画。
中部 利三郎(なかべ りさぶろう、1901年〈明治34年〉3… 中部 利三郎(なかべ りさぶろう、1901年〈明治34年〉3月11日 - 1970年〈昭和45年〉3月6日)は、日本の実業家。大洋漁業副社長。大洋漁業創業者中部幾次郎の三男。 兵庫県明石市出身。中部幾次郎の三男。1924年、神戸高等商業学校を卒業。中部農事、林兼商店各監査役、大洋捕鯨取締役、林兼商店、林兼工業各常務、林兼造船副社長同社長を経て1951年、大洋漁業副社長。1955年、林兼産業社長。1963年、長崎放送社長。1964年、藍綬褒章・紺綬褒章を受章。 宗教は浄土宗、仏教。趣味はゴルフ、将棋。住所は山口県下関市上田中町3丁目、同町1丁目、同市竹崎町、兵庫県明石市東魚町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
浜口 重国(はまぐち しげくに、1901年〈明治34年〉3月… 浜口 重国(はまぐち しげくに、1901年〈明治34年〉3月11日 - 1981年〈昭和56年〉1月11日)は、日本の東洋史学者。 1901年、高知県で生まれた。東京帝国大学文学部で学び、1929年に卒業。 1930年、東北学院講師に就いた。1932年に東方文化学院東京研究所所員となり、東京帝国大学助教授に就いた。1943年より満鉄調査局嘱託。 戦後の1950年、山梨大学教授となった。1962年、学位論文『唐法上の賎民に関する基礎的研究』を京都大学に提出して法学博士号を取得。1966年に山梨大学を定年退官し、名誉教授となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
上村 英輔(かみむら えいすけ、1900年3月11日 - 1… 上村 英輔(かみむら えいすけ、1900年3月11日 - 1987年8月17日)は、日本の経営者。 東京都出身。1925年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本石油に入社。1949年6月に取締役に就任し、1950年6月に常務を経て、1958年9月に副社長に就任し、1961年5月に社長に昇格。 石油連盟会長、経済団体連合会・日本経営者団体連盟各常任理事などを務めた。 1962年に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年8月17日、心不全のために死去。87歳没。
田上 束稲(たがみ つかね、1900年 <明治33年> 3月… 田上 束稲(たがみ つかね、1900年 <明治33年> 3月11日 - 1972年 <昭和47年> 7月11日)は、日本の経営者。日魯漁業 (現・Umios) 社長を務めた。 高知県長岡郡本山町出身。1923年に小樽高等商業学校を卒業。共同水産販売所での勤務を経て、日魯漁業に転じ、1947年4月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1960年4月に副社長に就任し、1964年1月には社長に昇格。1968年1月には会長に就任。 1971年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1972年7月11日、肺ガンのために死去。72歳没。
趙 柱泳(チョ・ジュヨン、朝鮮語: 조주영、1900年3月1… 趙 柱泳(チョ・ジュヨン、朝鮮語: 조주영、1900年3月11日 - 1976年11月25日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の弁護士、警察官僚、政治家。第4代逓信部長官、第2代韓国国会議員。キリスト教徒。 慶尚南道南海郡出身。明治大学法学部卒。日本弁護士試験合格。朝鮮興業銀行監査役を経て、光復後は警務部総務局局長、警務部監察長、弁護士会委員を務め、1950年の第2代総選挙で南海郡選挙区から無所属で国会議員に当選した。同年の朝鮮戦争で北朝鮮に拉致されたという説もあるが、その後は国会法司委員、鄭国殷(朝鮮語版)事件調査委員、交通部顧問、逓信部長官を歴任した。1954年の第3代総選挙と1958年の第4代総選挙にも出馬したが、いずれも落選した。
横井 俊之(よこい としゆき、1897年3月11日 - 19… 横井 俊之(よこい としゆき、1897年3月11日 - 1969年12月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
中川 寛治(なかがわ かんじ、1897年(明治30年)3月1… 中川 寛治(なかがわ かんじ、1897年(明治30年)3月11日 - 1984年(昭和59年)11月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、富山県下新川郡泊町長。 富山県下新川郡泊町(現朝日町)で、綿商人・中川屋、中川彦吉の長男として生まれる。1909年(明治42年)家督を相続した。1919年(大正8年)早稲田大学政治経済科を卒業した。三菱海上保険会社に入社したが、1926年(大正15年)に退職して帰郷し農業を営む。 また、黒東銀行取締役、泊銀行取締役、泊通運取締役、泊郵便局長などを務めた。1939年(昭和14年)9月、立憲民政党公認で富山県会議員に選出され、1期約3年間在任し、同副議長も務めた。
戸次 貞雄(べっき さだお、1897年3月11日 - 196… 戸次 貞雄(べっき さだお、1897年3月11日 - 1965年7月8日)は、日本の宗教家。日本敬神崇祖自修団創始者。現在の熊本県山鹿市山鹿町出身。 1925(大14)8.1「仏の大慈大悲と運命」(昭和の法華経 第一編) 1928(昭3)9.10「昭和の法華経と常不軽菩薩」完成 二編「昭和の法華経とキリスト教」完成 三編「仏は滅し給わず」完成 四編 1929(昭4)「三宝経」著述 1930(昭5)「皇礼典法華妙皇道実証経」発行 1932(昭7)7.7 福島県幕川金神滝開滝 1946(昭21) 第一回 天地創造之大神大祭 大宇宙真理開顕 妙皇道 創刊号発行 1947(昭22) 福島県 旧福田村に皇礼堂落成 1949(昭24)4.15 「お蔭様の歌」完成 11.3 「全思想之源泉 世界宗教根本論」出版 12.28 「身削の光」発行 1951(昭26)4.21 「宇宙心理と文化」出版「先祖権現堂」完成 1952(昭27)3.18 「日本民族道凡論」「日本天皇堂と人間」 「日本天皇と万象の宗源」出版 1955(昭30) 「真運浄光荘厳恵尊」題目完成 1961(昭36)11 「真運東方光権現経昭和安神本願偈」 1962(昭37) 「自覚剤薬心経」「日本の国柄」「我が身に感謝せよ」 「群生霊喜納帰元祭経」 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。
中西 寅雄(なかにし とらお、1896年3月11日 - 19… 中西 寅雄(なかにし とらお、1896年3月11日 - 1975年4月25日)は、日本の会計学者・経営学者。経済学博士。東京帝国大学教授であり、日本の経営学の創始者であった。大阪大学経済学部教授(学部長)、慶應義塾大学商学部教授、拓殖大学商学部教授を歴任した。和歌山県那賀郡東貴志村(現・紀の川市)出身。 1945年(昭和20年)11月27日~1946年(昭和21年)2月26日、大蔵省物価部会主査(部会長 大内兵衛)として、終戦直後の混乱期における物価の安定を図った。1962年(昭和37年)11月、大蔵省企業会計審議会、原価計算基準」を第4部会長として公表した。 東京帝国大学教授として同大学に「経営経済学」の講座を初めて開いた。
木村 素衛(きむら もともり、1895年3月11日 - 19… 木村 素衛(きむら もともり、1895年3月11日 - 1946年2月12日)は、日本の哲学者・教育学者。 1895年、石川県生まれ。京都帝国大学哲学科選科を卒業。卒業後は、広島高等師範学校教授となった。1940年、学位論文『実践的存在の基礎構造 教育哲学の考察に向けられたるフイヒテ哲学の一つの研究』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。同1940年に京都帝国大学教授となり、教育学を担当した。 大西正倫『表現的生命の教育哲学―木村素衞の教育思想』(2011、昭和堂)門前斐紀『木村素衞「表現愛」の人間学―「表現」「形成」「作ること」の身体論』(2019、ミネルヴァ書房)蜂谷俊隆「糸賀一雄と木村素衛──教養の思想を中心に」『福祉にとっての歴史 歴史にとっての福祉』(2017、ミネルヴァ書房) この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
土岐 銀次郎(とき ぎんじろう、1894年(明治27年)3月… 土岐 銀次郎(とき ぎんじろう、1894年(明治27年)3月11日 - 1976年(昭和51年)4月1日)は、日本の内務官僚。官選県知事、東京新聞副社長。旧姓・三宅。 和歌山県出身。三宅進一郎の二男として生まれ、1916年に土岐嘉平の養子となる。第一高等学校を卒業。1917年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し岡山県属となる。 以後、東京府属、内務属、栃木県河内郡長、岐阜県理事官、東京府理事官、帝都復興院事務官、静岡県学務部長、愛知県書記官・学務部長、三重県書記官・警察部長、復興局書記官、復興事務局書記官、山梨県書記官、山形県書記官・内務部長、大阪府部長・総務部長などを歴任。
小畑 虎之助(こばた とらのすけ、1894年(明治27年)3… 小畑 虎之助(こばた とらのすけ、1894年(明治27年)3月11日 - 1955年(昭和30年)4月20日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県会議長。「宍粟のトラ」と称された。 兵庫県宍粟郡神戸村安積(一宮町を経て現宍粟市一宮町安積)で、小畑彦太郎の長男として生まれる。小学校を卒業した。 1927年(昭和2年)兵庫県会議員に選出され、1935年(昭和10年)まで在任。1933年(昭和8年)県会議長となり、阪本勝副議長とのコンビで県会に新風を吹き込んだ。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で兵庫県第4区から立憲政友会公認で出馬して初当選し、1937年(昭和12年)4月の第20回総選挙でも再選された。
矢野 峰人(やの ほうじん、1893年3月11日 - 198… 矢野 峰人(やの ほうじん、1893年3月11日 - 1988年5月21日)は、日本の詩人、英文学者。本名は矢野禾積(かづみ)。 1893年、岡山県津山市で生まれた。久米北条郡大倭村(現・津山市西部)出身。幼時に父母と死別し、母方の祖母、叔父に育てられた。津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)在学中、文学雑誌『文章世界』『秀才文壇』などに盛んに投稿。同級生に片岡鉄兵、中山巍、上級生に出隆らがいて親交があった。第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部に進学。英文科で上田敏、厨川白村の教えを受けた。 卒業後は、第三高等学校教授に就いた。1935年、学位論文『アーノルドの文学論』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。
酒井 康(さかい やすし、1892年3月11日 - 1986… 酒井 康(さかい やすし、1892年3月11日 - 1986年8月1日)は、日本の陸軍軍人。第17師団長・留守第56師団長・陸軍兵器本部企画部長等を歴任し、階級は陸軍中将勲一等に至る。東京府出身。
高柳 光寿(たかやなぎ みつとし、1892年3月11日 - … 高柳 光寿(たかやなぎ みつとし、1892年3月11日 - 1969年12月1日)は、日本の歴史学者。高柳 光壽とも。自身で「髙柳」と署名しているものもある。國學院大學教授。大正大学教授。静岡県出身。専門は日本中世史、特に戦国時代史。足利尊氏研究、戦国史研究の権威。 静岡県敷知郡浜松町(現在の浜松市)に神主高柳喜一郎の長男として生まれる。1914年、國學院大學国史科を優等の成績で卒業。1916年に東京帝国大学史料編纂所に勤務、1926年には史料編纂官となって、『大日本史料』安土桃山時代の編纂を担当。また、1921年から1944年まで國學院大學教授を、1947年から1969年まで大正大学教授を兼任。
安井 誠一郎(やすい せいいちろう、1891年(明治24年)… 安井 誠一郎(やすい せいいちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の政治家。内務・厚生官僚、東京都長官(6・8代)、東京都知事(初・2・3代)、新潟県知事(34代)、衆議院議員(1期)を歴任した。位階は正三位。 参議院議長を務めた安井謙と、雪印食品副社長を務めた安井三郎は弟。 岡山県御津郡伊島村(現:岡山市北区津島)生まれ。岡山県立岡山中学校、旧制一高、東京帝国大学独法科を卒業後、内務省に入省。 1920年から茨城県庶務課長、稲敷郡長を務めた。休職後にドイツ視察留学を経て、東京市社会局長として関東大震災の復興にあたる。その間茨城県・神奈川県で警視を務めた。
大内 一郎(おおうち いちろう、1891年(明治24年)3月… 大内 一郎(おおうち いちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)3月18日)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員。号・逸堂。 福島県安達郡針道村(東和村、東和町針道を経て現二本松市針道)で、大内丈右衛門の息子として生まれる。早稲田大学大学専門部政経科を中退した。 立憲政友会に入党し、1919年(大正8年)10月、安達郡会議員に当選し(2期在任)、公立福島病院組合議員(5期)を務め、1927年(昭和2年)9月、福島県会議員に選出され4期在任した。 また、福島新聞主筆、福島民報主筆、読売新聞福島支局長を務め、1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで岩盤中央新聞を経営した。
藤原 米造(ふじわら よねぞう、1890年〈明治23年〉3月… 藤原 米造(ふじわら よねぞう、1890年〈明治23年〉3月11日 - 1930年〈昭和5年〉1月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 現在の兵庫県神戸市で生まれた。1912年、神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒。東京海上火災保険会社大阪支店に入る。のち神戸久原商事に入り、船舶部社員となる。その後、独立して海運業を営む。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙において兵庫1区から無所属で立候補して落選。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙において兵庫1区から中立系で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。所属会派は明政会から第一控室会となった。1930年1月、現職のまま死去した。
植田 寿蔵(うえだ じゅぞう、1886年〈明治19年〉3月1… 植田 寿蔵(うえだ じゅぞう、1886年〈明治19年〉3月11日 - 1973年〈昭和48年〉11月27日)は、日本の美学者、美術史家、京都帝国大学名誉教授。 京都府生まれ。1911年京都帝大文科大学卒、1919年同講師、1919年助教授、1925-1927年ヨーロッパ留学、帰国後九州帝国大学文学部教授、1929年京都帝大助教授、1932年教授、1946年退官し講師となり、1947年名誉教授。 西洋美術のみならず日本美術、文芸まで含めて多数の著作を著した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高 羲東(コ・ヒドン、朝鮮語: 고희동、1886年3月11日… 高 羲東(コ・ヒドン、朝鮮語: 고희동、1886年3月11日 - 1965年10月22日)は、日本統治時代の朝鮮と韓国の画家、韓国の政治家、参議員。本貫は済州高氏。別名は春谷(チュンゴク、춘곡)。 韓国最初の洋画家のほか、西洋画を朝鮮で広げた美術教育者でもあり、韓国初の近代的な美術団体である「書画協会」を創立した美術行政家でもある。また、1925年頃以降は韓国画をメインに、西洋画の色彩と明暗法を加味した新しい絵風を開拓した。 漢城府出身。開港期に博文局の主事、ジャーナリストを務めた高永喆の三男である。14歳の時に漢城仏語学校に入ってフランス語を学び、1904年に宮内府の主事となり、宮中のフランス語の通訳・翻訳を行った。
加藤 鐐五郎(かとう りょうごろう、1883年3月11日 -… 加藤 鐐五郎(かとう りょうごろう、1883年3月11日 - 1970年12月20日)は、日本の政治家。衆議院議長(第48代)、法務大臣(第4代)。衆議院議員(12期)。 愛知県瀬戸市出身。政界入りする前は医学博士号を持つ医師であり、戦前の帝国議会時代より衆議院議員選挙に通算12回当選。戦時中は政友会系の地方紙で現在の中日新聞社の前身の1紙に当たる新愛知新聞社の顧問を務めていた。 造船疑獄に対する指揮権発動で法務大臣を辞任した犬養健の後任法相となり、さらに警職法改正をめぐる国会審議混乱の責任を取って衆議院議長を辞任した星島二郎の後任議長に就任したことから、医師出身の政治家という自らの経歴とあわせ「後始末の専門のヤブ医者」を自称したことで知られている。
河合 義一(かわい ぎいち、1882年(明治15年)3月11… 河合 義一(かわい ぎいち、1882年(明治15年)3月11日 - 1974年(昭和49年)7月25日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 兵庫県加古郡、のちの高砂町(現高砂市)で、蔵元の家に生まれた。同志社中学校で学び、高砂教会で洗礼を受けた。1904年、東京外国語学校仏語科を卒業し、日本銀行に入行。その後、病気となり治癒したが、1911年、日銀を退職して帰郷した。 1919年、高砂町会議員に就任。賀川豊彦の活動に共鳴し農民組合運動に参加。日本農民組合東播連合会長、同兵庫県連合会長を務め、小作争議指導のため投獄されたこともあった。また、日本労農党などを経て社会大衆党に所属し、1937年4月、第20回衆議院議員総選挙に兵庫県第三区から出馬して初当選した。
花田 比露思(はなだ ひろし、1882年3月11日 - 19… 花田 比露思(はなだ ひろし、1882年3月11日 - 1967年7月26日)は、日本の教育者・歌人。 福岡県朝倉郡安川村(現・朝倉市)に生まれる。本名・大五郎。京都帝国大学法学部を卒業し、大阪朝日新聞記者となる。調査部長兼論説委員として寺内内閣に批判的な論調を張るも、1918年米騒動にからんだ白虹事件で連帯責任を取って辞職する。 大阪朝日退職後は大正日日新聞、読売新聞などに勤めた。1924年に京都帝大に招かれ、学生監となる。 その後は和歌山高等商業学校(現・和歌山大学)校長、福岡商科大学初代学長、別府大学長、大分大学長を務めた。大分大学名誉教授となる。 歌人としては、正岡子規に傾倒し,歌誌『潮騒』(のち改題し『あけび』)を創刊・主宰した。
広江八重桜(ひろえやえざくら、1879年(明治12年)3月1… 広江八重桜(ひろえやえざくら、1879年(明治12年)3月11日 - 1945年(昭和20年)10月8日)は、日本の俳人。 島根県能義郡赤江村大字中津(現・安来市東中津町)に生まれる。 本名・直治。蚕豆庵(さんとうあん)と号した。当時の大地主である広江忠四郎の長男。夫人コノとの間に二男二女がある。晩年に村内に郵便局を開設したが、すべて次男まかせであったという。 俳句は中学二年頃からはじめ、大谷繞石の指導する碧雲会に参加、正岡子規選の『日本』俳壇や『ホトトギス』に投句。非常な多作家で、子規は「八重桜を以って第一の多作者となす。一季優に千句を下らざるもの数年」と評した。 のち河東碧梧桐に師事、新傾向俳句を詠み「海紅」の選者も務めたが、中塚一碧楼の義弟、中塚響也と「渚」を創刊後は定型に戻った。
梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1878年3月11日… 梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1878年3月11日 - 1927年9月2日)は、現在の富山県富山市水橋大町(出生時は石川県新川郡水橋西大町)出身で雷部屋に所属した大相撲力士。第20代横綱。本名は押田 音次郎(おしだ おとじろう)で、後に小江 音松(おえ おとまつ)となる。 1878年に、現在でいう「富山の薬売り」である売薬商の四男として生まれる(誕生日には異説もある)。1891年に初代西ノ海嘉治郎・劔山谷右エ門の一行が富山県へ巡業に来た際、恵まれた体格の少年を見つけた劔山から熱心な勧誘を受け、雷部屋へ入門、早くも同年1月に初土俵を踏んだ。師匠・雷(元横綱・初代梅ヶ谷)の「ワシ(梅ヶ谷)の弟子ということで四股名は“梅ノ谷”だ」という発言で四股名はあっさりと決定、番付には「梅ノ谷 音松」と書かれた。
堀 祐平(ほり ゆうへい、1877年(明治10年)3月11日… 堀 祐平(ほり ゆうへい、1877年(明治10年)3月11日 - 1955年(昭和30年)1月5日)は、日本の実業家・政治家。 堀祐織物創業者。桐生体育協会初代会長。桐生市議会議員(4期)を務めた。 長野県上高井郡井上村(現在の須坂市)出身。20歳の頃、群馬県山田郡桐生町(現在の桐生市)に移住し機業を営む。緯糸に人造絹糸、経糸に絹糸を使用したリボン織を考案し、人絹織物の商品化に成功した。 1925年(大正14年)5月10日、桐生市会議員に当選。1928年(昭和3年)4月1日、群馬県体育協会理事に就任。同年11月3日に桐生市体育協会長に就任。新川運動場(後の桐生新川球場、現在の新川公園)の建設を推進し、市内の体育施設の整備に尽力した。
右近 和作(うこん わさく、旧姓・八十島、1876年〈明治9… 右近 和作(うこん わさく、旧姓・八十島、1876年〈明治9年〉3月11日 - 没年不明)は、日本の実業家、資産家。日本海上火災保険相談役。日本海上ビルデイング社長。日海興業、右近商事各取締役。日本生命保険監査役。早稲田大学評議員。族籍は福井県平民。 福井県平民・八十島五郎右衛門の三男。八十島五郎右衛門の弟。生家は代々酒造家であった。1898年、右近権左衛門の養子となり、1916年、養弟の権左衛門方より分家して一家を創立した。 1901年、東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科卒業。米国に遊学した。養父の統督する日本海上保険に入り、常務取締役として手腕を発揮した。戦後、公職追放となった。 趣味は読書、書道。
石原 重俊(いしはら しげとし、明治5年2月3日(1872年… 石原 重俊(いしはら しげとし、明治5年2月3日(1872年3月11日) - 1944年3月1日)は、日本の郷土史家、教育者、小学校校長。 明治5年2月3日(1872年3月11日)鶴岡代官町に、石原多次馬重威の長男として生まれる。朝暘学校卒業、1892年(明治25年)荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校)卒業(初代卒業生)。朝暘小学校準訓導となり、1908年(明治41年)朝暘第二小学校校長、1918年(大正7年)西郷第一小学校校長。1926年(大正15年)同職を退任すると、図書館に勤務。郷土史研究に打ち込み、阿部正己らと共に本楯遺跡の調査をする。 1944年(昭和19年)3月1日死去。鶴岡の井岡墓地に墓がある。