白 南檍(ペク・ナモク、朝鮮語: 백남억、1914年11月1… 白 南檍(ペク・ナモク、朝鮮語: 백남억、1914年11月11日 - 2001年1月15日)は、日本統治時代の朝鮮の鉄道官僚、大韓民国の教育者、政治家。初代大邱大学(現・嶺南大学校)大学院長、参議員・第6・7・8・9代韓国国会議員を歴任した。 本貫は水原白氏。漢字表記は白南憶とも。国民大学校経商大学学長の白種玹は息子、元国会議長の朴浚圭は妻の兄弟。実業家の李秉喆の妻の朴杜乙(朝鮮語版)は妻の従おば(岳父の従姉妹)。 日本統治時代の慶尚北道金泉郡(現・金泉市)出身。九州帝国大学(現・九州大学)法文学部、ミシガン大学大学院修了。解放前は鉄道系統で官吏を務めたが、解放後は教育界に転身し、大邱大学(現・嶺南大学校)教授、同校初代大学院長(1958年3月 - 1960年11月)、東国大学校・建国大学校大学院講師を務めた。
榎 一雄(えのき かずお、1913年(大正2年)11月11日… 榎 一雄(えのき かずお、1913年(大正2年)11月11日 - 1989年(平成元年)11月5日)は、日本の東洋史学者、東京大学名誉教授。正四位勲二等瑞宝章。 1913年、兵庫県明石郡垂水村(現・神戸市)で生まれた。神奈川県立横浜第三中学校を卒業。第一高等学校を1934年に卒業し、東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。大学では白鳥庫吉の指導を受けた。 1943年9月より東京帝国大学文学部講師、1947年4月に東洋文庫研究員、1948年に東京大学文学部東洋史学科助教授に就任。1955年に教授昇進。1962年、学位論文『エフタル勃興前後の中央アジア』を東京大学に提出して文学博士号を取得。1974年に東京大学を定年退官。
金 溶植(キム ヨンシク、1913年11月11日 - 199… 金 溶植(キム ヨンシク、1913年11月11日 - 1995年3月31日)は、大韓民国の政治家、外交官。本貫は金海金氏。 1913年、慶尚南道龍南郡にて誕生。1937年、日本の中央大学を卒業。1949年1月、外務部に入省。駐香港領事、駐ホノルル総領事、駐日本公使、駐フランス公使、駐ジュネーブ公使、駐フィリピン大使、駐国連大使、駐イギリス大使、駐アメリカ大使、外務部長官、国土統一院長官、無任所長官、大統領外交担当特別補佐官、大韓赤十字社総裁を歴任した。 1988年ソウルオリンピックの剰余金で創設された平和賞基金の委員長職を最後に公職を退いた。朝鮮戦争当時は釜山に避難し、慶尚南道知事官舎を利用した大統領官邸に寄宿した。
佐々木 猛(ささき たけし、1912年11月11日 - 没年… 佐々木 猛(ささき たけし、1912年11月11日 - 没年不明)は、日本の競馬騎手、調教師。 1931年に騎手デビュー。1939年に騎乗馬ホシホマレで阪神優駿牝馬(オークス)を制した。1957年より調教師に転じ、1974年の桜花賞優勝馬タカエノカオリなどを管理し、1990年に引退。日本中央競馬会(JRA)調教師の佐々木亜良(つぐよし)は長男。 1912年、北海道函館市の農家に生まれる。3人いた叔父がそれぞれ高等馬車の御者を務めており、その姿に憧れて馬に関わる仕事を志した。1928年、叔父の紹介で札幌競馬倶楽部(札幌競馬場)の稗田虎伊厩舎に入門し、1931年7月に騎手としてデビュー。8月7日に騎乗馬エベツで初勝利を挙げた。
後藤 達郎 (ごとう たつろう、1911年11月11日 - … 後藤 達郎 (ごとう たつろう、1911年11月11日 - 2020年7月10日)は、日本の実業家。ホテルオークラ社長・会長、日本ホテル協会会長を歴任。 愛知県渥美郡二川町(現豊橋市二川町)出身。1935年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。同年三井物産入社。大学予科時代には、文部省による東京商科大学予科および専門部廃止案に反対し籠城闘争を決行(籠城事件)。 庭野正之助(のちに日本鉱業社長)らとともに、警察に検挙され勾留されたが、商法の本間喜一教授や民法の常盤敏太教授の尽力で釈放された。 米国三井物産社長・会長、三井物産副社長等を経て、1977年新設ポストである、三井物産副会長に就任。 大成観光常勤顧問を経て、1981年大成観光代表取締役社長就任。
小森 和子(こもり かずこ、1909年〈明治42年〉11月1… 小森 和子(こもり かずこ、1909年〈明治42年〉11月11日 - 2005年〈平成17年〉1月8日)は、日本の映画評論家、タレント。旧姓は安彦(あびこ)。愛称は「(小森の)おばちゃま」。 東京府東京市赤坂区(今の東京都港区赤坂)に生まれ育つ。実家は裕福であった。小学校は赤坂区内に通い、当時麻布区にあった東京府立第三高等女学校(現・東京都立駒場高等学校)を卒業した、今風に言えば港区育ちである。高等女学校卒業後、『婦人公論』誌編集部で見習い記者を務める。 関係を持った菊池寛の運営する『映画時代』誌編集部へ移り、さらに京都で作家の川口松太郎の愛人生活を送るようになる。その後、神戸にあったイギリスの船舶会社『P&O』の日本支店で会社員生活を送る。
木村 傳兵衛(きむら でんべえ、1908年(明治41年)11… 木村 傳兵衛(きむら でんべえ、1908年(明治41年)11月11日 - 1972年(昭和47年)6月13日)は、日本の政治家。茨城県水戸市長(2期)。 茨城県水戸市生まれ。水戸の老舗醤油メーカー「井伝」に生まれる。1927年、旧制水戸中学校(現・茨城県立水戸第一高等学校)卒。井伝醬油社長となり、1967年。水戸市長に当選した。市長就任後に市役所の移転、市内の各学校に体育館やプールの設置、市民会館や市民プールの着工、市民憲章の制定などがある。1972年、狭心症のため、急逝した。
青柳 盛雄(あおやぎ もりお、1908年11月11日 - 1… 青柳 盛雄(あおやぎ もりお、1908年11月11日 - 1993年1月22日)は、日本の弁護士、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、2期)。日本共産党中央委員会顧問、日本民主法律家協会理事、日本国際法律家協会顧問などを歴任した。 長野県東筑摩郡坂北村(現・筑北村)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校文科甲類、東京帝国大学法学部を経て、1931年弁護士登録すると共に布施辰治法律事務所入所。自由法曹団員として三・一五事件や四・一六事件など、治安維持法違反事件を弁護するも、1933年には布施と共に検挙され執行猶予判決を受ける。また、この件により同年弁護士資格が剥奪されたのみならず、終戦まで活動停止を余儀なくされる。
沢村 貞子(さわむら さだこ、旧字体:澤村、1908年11月… 沢村 貞子(さわむら さだこ、旧字体:澤村、1908年11月11日 - 1996年8月16日)は、日本の女優、随筆家。本名は大橋 貞子(おおはし ていこ)。
鄭 寅笑(チョン・インソ、朝鮮語: 정인소、1907年11月… 鄭 寅笑(チョン・インソ、朝鮮語: 정인소、1907年11月11日または1908年 - 1977年8月21日または8月27日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の大学教員、政治家。第5代韓国国会議員。本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 ソウルまたは忠北陰城出身。大阪府立中学校、北京外国語専門学校世界語科、九州帝国大学(現・九州大学)法文学部政経科、ピープル大学大学院博士課程修了(文学博士)。若い頃は民族解放運動をしたため、当局の特別高等要視察人とされ、128回も検束投獄に遭った。特に世界語普及および禁酒・禁煙・阿片・公娼・蓄接などの廃止運動で活躍し、私財で愛の世界社、国際禁酒同盟、韓国世界語総連盟を設立し総裁を務めた。
康 慶玉(カン・ギョンオク、朝鮮語: 강경옥、1907年11… 康 慶玉(カン・ギョンオク、朝鮮語: 강경옥、1907年11月11日 - 1999年3月10日)は、大韓民国の実業家、政治家。第2・3代大韓民国国会議員、第5代大韓民国参議院議員。本貫は信川康氏。 法制室長を務めた康明玉(朝鮮語版)、弁護士、商工部官僚の康龍玉(朝鮮語版)は弟。 この項目は、朝鮮に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:朝鮮)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
舘(館) 稔(たち みのる、1906年(明治39年)11月1… 舘(館) 稔(たち みのる、1906年(明治39年)11月11日 - 1972年(昭和47年)3月21日)は、日本の人口学者。1939年(昭和14年)東京帝国大学卒業。厚生省(現厚生労働省)人口問題研究所に入所。1959年(昭和34年)所長(第二代)に就任。国際連合人口委員会委員、国際人口学会、国際統計協会などの役員を務めた。 1950年代から、「ベビーブームからベビーデフレへ」との表現で日本の少子化問題を指摘していた。ベビーブームが1950年に鎮火したこと、さらに結婚年齢の変化や出産年齢層の変化などから出生率の低下傾向が続き、出生減退が起きることを予測した。 当時は日本を含め、世界的には発展途上国の人口爆発と資源の有限性の観点から「人口抑制」「出生抑制」の必要性のほうが強調されており、少子化が社会問題としてマスメディア等で指摘されるようになったのは、1989年に日本の合計特殊出生率が1.57を下回り「1.57ショック」を迎えてからのことである。
横山 東六(よこやま とうろく、本名:横山 登二、1906年… 横山 東六(よこやま とうろく、本名:横山 登二、1906年11月11日 - 1980年11月6日)は、昭和期に活躍した漫才師、横山ホットブラザーズ創始者。 映画の楽士出身で、一家を従え楽器を用いた破天荒な漫才を行なった。賑やかで朗らかな芸風は息子達によって受け継がれている。 横山は本名由来で、横山エンタツ一門とは無関係。 愛媛県新居浜市の生まれ、19歳で来阪し桜ノ宮音楽学院で学んで映画の楽士になる 。1928年より関西交響楽団(現在の大阪フィルハーモニー交響楽団の前身とは別の団体。こちらは戦後の設立)に入団。傍ら楽士をしていたが映画のトーキー化で仕事が激減する。 1933年より陽気屋東六の名で音曲漫才に転向し、落語家出身の笑福亭福之助(後の鹿島洋々)とコンビを組み、新世界アシベ劇場で漫才初舞台。
黒田 成勝(くろだ しげかつ、1905年11月11日 - 1… 黒田 成勝(くろだ しげかつ、1905年11月11日 - 1972年11月3日)は日本の数学者。 東京都出身。数学者高木貞治の娘婿で、息子の黒田成俊、黒田成信は数学者、黒田成幸は言語学者。 東京帝国大学卒業。東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)教授、名古屋帝国大学教授、メリーランド大学教授などを歴任した。 1945年 東京帝国大学 理学博士。論文の題は「Uber den Dirichletschen Korper (ジリクレ体に就て)」。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
佐藤 孝一(さとう こういち、1905年 <明治38年> 1… 佐藤 孝一(さとう こういち、1905年 <明治38年> 11月11日 - 1975年 <昭和50年> 10月18日)は、日本の会計学者。 東京府東京市下谷区二長町(現・東京都台東区台東)出身。1930年早稲田大学商学部卒、1932年同講師、1938年助教授、1942年教授。1951年「剰余金の研究」で早稲田大学より商学博士の学位を取得。長谷川安兵衛に師事。1975年死去。死没日付をもって正五位に叙され勲三等旭日中綬章を追贈された。 門下生に新井清光、染谷恭次郎、加古宜士等がいる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
藤田 圭雄(ふじた たまお、1905年11月11日 - 19… 藤田 圭雄(ふじた たまお、1905年11月11日 - 1999年11月7日)は、日本の編集者・児童文学作家・評論家。 孫は俳優・劇作家・脚本家・プロデューサーの岩瀬顕子。 東京牛込生まれ。父は歴史家(東大史料編纂所編纂官)の藤田明(1877 - 1915)。伯父に正木直彦。11歳で父を亡くす。 開成中学校卒、1930年早稲田大学独文科卒。 平凡社に勤務、滝沢修らと演劇運動に関わる。1933年中央公論社に入社、児童文化関係の出版に携わる。戦後、サトウ・ハチローと協力して童謡運動を展開、実業之日本社で『赤とんぼ』を編集、1948年同誌休刊により中央公論社に復帰。1950年理事、取締役、婦人公論編集部長、1953年中央公論編集部長、1960年定年。
中島 文雄(なかじま ふみお、1904年11月11日 - 1… 中島 文雄(なかじま ふみお、1904年11月11日 - 1999年12月28日)は、日本の英語学者。
伊勢野 重任(いせの しげたか、1903年(明治36年)11… 伊勢野 重任(いせの しげたか、1903年(明治36年)11月11日 - 1982年(昭和57年)4月7日)は、日本の脚本家である。名の読みは「しげとう」とも。映画で2度リメイクされたオリジナル脚本『國士無双』の作者として知られる。 1903年(明治36年)11月11日、鳥取県に生まれる。 愛媛県松山市に移り、1922年(大正11年)3月、旧制・愛媛縣松山中學校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を卒業し、東京に移って、東京府東京市麹町区有楽町(現在の東京都千代田区有楽町)にあった東京市役所に務める。中学校の同級生に重松鶴之助(1903年 - 1938年)がおり、先輩には伊藤大輔(1898年 - 1981年)、伊丹万作(1900年 - 1946年)、中村草田男(1901年 - 1983年)がおり、伊藤・伊丹を頼り、映画界に入る。
溝上 泰子(みぞうえ やすこ、1903年11月11日 - 1… 溝上 泰子(みぞうえ やすこ、1903年11月11日 - 1990年10月11日)は、日本の教育者、人類生活者。 広島県御調郡市村生まれ。広島県三原女子師範学校、奈良女子高等師範学校、東京文理科大学卒業。 実践女子専門学校教授、東京家庭学園教授、京都女子大学教授を経て、1951年島根大学教育学部教授。1958年に「日本の底辺―山陰農村婦人の生活」を刊行し、「底辺」の生活に光をあてる。1967年に島根大学を退官後は、全国の小学6年生に「生きる・生活する」と題する授業をつづけた。聖カタリナ女子短期大学教授、本州大学教授、上田女子短期大学教授を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
永田一脩(ながた いっしゅう、1903年11月11日 - 1… 永田一脩(ながた いっしゅう、1903年11月11日 - 1988年4月9日)は、日本戦前期の、前衛美術系およびプロレタリア美術系の画家、写真家、グラフィックデザイナー。演劇にも携わる。本名永田一脩(ながた かずなが)。 福岡県門司市生まれ。1927年東京美術学校洋画科卒。労働美術家連盟、前衛芸術家同盟、ナップに参加。1929年国際文化研究所に入り、『国際文化』を編集。1930年ナップの一斉検挙にあい、保釈後フリーで活動する。1941年東京日日新聞社入社、毎日新聞となり1958年まで勤務。 写真に関しては、1930年代に、写真評論などを『フォトタイムス』誌に執筆し、実作品も制作した。写真作品としては、フォトモンタージュを利用したシュルレアリスム的な作品が多い。
齋藤 晃(さいとう あきら、1902年11月11日 - 19… 齋藤 晃(さいとう あきら、1902年11月11日 - 1981年5月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。右翼活動家。 福島県出身。福島県立磐城中学校卒。1925年立憲養正会に入会。福島県の村議会議員を務めながら、立憲養正会福島県連支部長や同会復勢幹事長を歴任。1947年第23回衆議院議員総選挙に福島3区から出馬し初当選。片山哲首班指名では自分に一票を投じた。院内では第一議員倶楽部を組織し、衆議院厚生委員会委員や衆議院石炭鉱業特別委員会委員を務めたが、第24回衆議院議員総選挙では落選。その後も、福島県遺族会会長、日本遺族会厚生連盟委員長として、遺族の援護活動に尽力。立憲養正会顧問として自主憲法制定運動も展開した。
小山 東一(こやま とういち、1901年11月11日 - 1… 小山 東一(こやま とういち、1901年11月11日 - 1985年6月9日)は、日本のジャーナリスト、英文学者、翻訳家。広島大学教授。 広島県福山市生まれ。1927年東京帝国大学文学部英文科卒。中外商業新報、日本産業経済新聞学芸部長をへて、広島大学教授。 戯曲家の小山祐士は従兄弟にあたる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大浜 英子(おおはま ひでこ、1901年11月11日 - 1… 大浜 英子(おおはま ひでこ、1901年11月11日 - 1982年3月25日)は、日本の婦人問題・家族制度問題評論家。 京都出身。1922年日本女子大学校師範家政科卒。大浜信泉と結婚。1930年婦人同志会を結成。1939年人事調停法に基づく最初の調停委員となる。 1950年婦人人権擁護同盟を結成。家族制度・婦人問題の評論家として活動、中央選挙管理委員会委員長、国民生活センター会長などを務めた。 1964年には杉並通り魔事件の犯人少年より、犯行(男児の陰部切断)を描いた絵と、(テレビ番組で)「ヨケイナ批判ヲスルナ」と書かれた脅迫状が届いた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
安藤 常次郎(あんどう つねじろう、1900年(明治33年)… 安藤 常次郎(あんどう つねじろう、1900年(明治33年)11月11日 - 1994年(平成6年)9月28日)は、日本の国文学者。 福岡県生まれ。俳号・安藤のりを。福岡県立中学修猷館を経て、1926年早稲田大学文学部国文科卒業。 早稲田大学教育学部教授、71年定年退職、名誉教授。武蔵野女子大学教授。能狂言を専門とした。
出原 信造(いずはら のぶぞう、1900年11月11日 - … 出原 信造(いずはら のぶぞう、1900年11月11日 - 1991年12月27日)は、日本の経営者。大同生命保険社長を務めた。 大阪府出身。1925年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に大同生命保険に入社。1947年7月に取締役に就任し、1950年6月に常務、1961年1月に専務を経て、1963年1月に社長に就任。1973年1月に会長に就任し、1978年4月に取締役相談役を経て、1986年7月には相談役に就任。 1991年12月27日老衰のために死去。91歳没。
横関 英一(よこぜき ひでいち、1900年(明治33年)11… 横関 英一(よこぜき ひでいち、1900年(明治33年)11月11日 - 1976年(昭和51年)1月16日)は日本の地図考証家。江戸、東京の名のある坂道について研究し、『江戸の坂 東京の坂』を著した。 1900年(明治33年)11月11日、埼玉県入間郡川越町(現・川越市)で肥料商の家に生まれた。1924年(大正13年)早稲田大学商学部卒業、同年東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)に事務職として勤務した。大学時代から文学に凝り、私小説を著した。1929年(昭和4年)に結婚した時にはすでに坂に熱中しており、江戸地誌、切絵図、陸軍参謀本部地図を持って坂を渡り歩いた。1937年(昭和12年)、真山青果の研究助手となり、演劇の時代考証を手伝う傍ら、『浮世絵界』誌上に江戸の坂等について記事を発表した。
奥野 信太郎(おくの しんたろう、1899年〈明治32年〉1… 奥野 信太郎(おくの しんたろう、1899年〈明治32年〉11月11日 - 1968年〈昭和43年〉1月15日)は、日本の中国文学者、随筆家。
加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11… 加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11月11日 - 1971年〈昭和46年〉7月25日)は、日本の海軍軍人。成績優秀な将校であったが、神政龍神会の結成にかかわり、不敬罪に問われ失官となる。最終階級は海軍中佐。 鹿児島県出身。鹿児島二中より海軍兵学校47期に首席入校。在学中も学術優等章を2度授与され、次席及び恩賜で卒業した。同期生に光延東洋、横山一郎、城英一郎などがいる。 1920年(大正9年)、少尉任官。尉官時代は霞ヶ浦海軍航空隊附としてセンピル教育団に関わり、第一遣外艦隊参謀、練習艦隊副官、戦艦「長門」分隊長、財部彪副官などを歴任。1930年(昭和5年)12月1日、海軍少佐へ進級し海軍大学校甲種30期へ進む。
松本 信廣(まつもと のぶひろ、松本 信広、1897年(明治… 松本 信廣(まつもと のぶひろ、松本 信広、1897年(明治30年)11月11日 - 1981年(昭和56年)3月8日)は、大正から昭和にかけての民俗学者、神話学者。 1897年、東京市港区に生まれる。区立鞆絵小学校、慶應義塾普通部を経て、1920年(大正9年)3月、慶應義塾大学部文学科(史学)を卒業、普通部の教員に採用される。1924年(大正13年)5月に東洋学研究のため、フランスへ留学。ソルボンヌ大学で学び、マルセル・グラネやマルセル・モースらと交流する。1928年(昭和3年)7月に文学博士の学位を取得し、9月に帰国。日本人の東洋学者として最初の文学博士の国家学位を受けた人物である。慶應義塾大学文学部助教授に就任し、1930年(昭和5年)10月には教授に昇任した。
本多 市郎(ほんだ いちろう、1895年(明治28年)11月… 本多 市郎(ほんだ いちろう、1895年(明治28年)11月11日 - 1959年(昭和34年)4月5日)は、日本の政治家。衆議院議員、参議院議員、行政管理庁長官(第4・10代)、地方自治庁長官(第2代)、自治庁長官(第2代)。位階は正三位、勲等は勲二等。 長崎県南高来郡南有馬町(現南島原市)に、農業・本多福四郎の長男として生まれる。長じて上京し、両国税務署員として働きながら、1925年中央大学法科を卒業する。上京時の下宿先では小澤佐重喜と起居を共にしていた。 関東大震災が起きると、復興局に勤務する傍ら、深川区(現在の江東区北西部)の自宅に法律無料相談所を開いて罹災者の相談に乗り、地元住民の信望を集めていった。
佐佐木 茂索(ささき もさく、1894年(明治27年)11月… 佐佐木 茂索(ささき もさく、1894年(明治27年)11月11日 - 1966年(昭和41年)12月1日)は日本の小説家、編集者。文芸春秋新社元社長。
飯塚 友一郎(いいづか ともいちろう、1894年(明治27年… 飯塚 友一郎(いいづか ともいちろう、1894年(明治27年)11月11日 - 1983年(昭和58年)4月21日)は、日本の演劇研究家、弁護士である。妻は日本舞踊家の飯塚くに。 東京の生まれ。1919年(大正8年)東京帝国大学(現在の東京大学)法学部卒業後、約10年間弁護士として活動しその傍らとして在学中からの歌舞伎等の演劇研究に携わった。その後は弁護士としての活動を辞め、1932年(昭和7年)には日本大学芸術学部の教授となる。 その後は二松學舎大学にて教鞭を執り、日本演劇学会の設立にも携わった。また松竹歌舞伎審議会の専門委員や国立劇場の評議員、鎌倉アカデミアの初代校長、鎌倉市教育委員等も歴任した。
星野 喜代治(ほしの きよじ、1893年(明治26年)11月… 星野 喜代治(ほしの きよじ、1893年(明治26年)11月11日 - 1979年(昭和54年)10月14日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。銀行局検査課長を最後に退官し、朝鮮銀行副総裁を務める。第二次世界大戦終結後は同行の特殊清算人に選ばれ、第二会社として日本債券信用銀行の前身となる日本不動産銀行を設立し、頭取、会長を歴任。日債銀相談役。 福島県出身。父は酒造業を営み、その次男であった。会津中学、一高を経て1918年(大正7年)7月東京帝大を卒業。水野敏雄は中学以来の同級生である。在学中に文官高等試験に合格し、大蔵省に入省した。臨時調査局属。総務部総務課、外国為替管理部総務課、大臣官房秘書課のほか、銀行局の普通銀行課、銀行課、検査課で課長を務め、1938年(昭和13年)7月辞職。
栗山 津禰(くりやま つね、1892年(明治25年)11月1… 栗山 津禰(くりやま つね、1892年(明治25年)11月11日 - 1964年(昭和39年)1月4日)は、日本の教育者。紫式部や源氏物語の研究者。また、日本で最初に私立大学に入学した女子学生でもあった。 1892年(明治25年)11月11日、山形市で栗山判兵衛と清の次女として生まれる。 山形県立山形高等女学校卒業後、1914年(大正3年)4月に上京。国語学伝習所、二松学舎に学んだ。 1916年(大正5年)4月、東洋大学大学部第二科に入学。専門学校令に基づく私立の旧制専門学校は男子専門学校とみなされていたが、東洋大学は入学を認めた。私立の高等教育機関として初めての女子生徒(学生)となった。 「目下数多い男学生の中に五名のうら若い女学生が混り、男も恥る程の真面目の研究振りを見せて夫々特色を発揮されて居ます。
儀我 誠也(ぎが せいや、1888年〈明治21年〉11月11… 儀我 誠也(ぎが せいや、1888年〈明治21年〉11月11日 - 1938年〈昭和13年〉1月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 東京都出身。技師・儀我克次郎の長男として生まれる。旧制洲本中学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業、石原莞爾と同期である。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 1919年(大正8年)10月、第16師団司令部付となり、浦塩派遣軍司令部付、関東軍司令部付(ハルビン特務機関)、参謀本部員を歴任。1923年(大正12年)12月、参謀本部付仰付として張作霖軍事顧問となった。
窪田 治輔(くぼた じすけ、1886年〈明治19年〉11月1… 窪田 治輔(くぼた じすけ、1886年〈明治19年〉11月11日 - 没年不詳)は、日本の内務・文部官僚。官選県知事。 山口県出身。窪田幾蔵の二男として生まれる。第五高等学校を首席で卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、東京帝国大学法科大学を卒業。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、静岡県賀茂郡長、同小笠郡長、文部省督学官兼同参事官、同書記官、同大臣官房文書課長、同実業学務局長などを歴任。 1929年10月9日、山形県知事に就任。小作争議の対策に尽力。また、1931年に小田島村地主襲撃事件(小田島事件)が発生し臨時県会で不況対策を検討した。同年10月24日、昭和天皇行幸が予定されていた鹿児島県の山口安憲知事が腸チフスとなり急遽知事を交代。
梅原 真隆(梅原 眞隆、うめはら しんりゅう、1885年〈明… 梅原 真隆(梅原 眞隆、うめはら しんりゅう、1885年〈明治18年〉11月11日 - 1966年〈昭和41年〉7月7日)は、日本の仏教学者。富山県滑川市寺家町の浄土真宗本願寺派梅原山専長寺27代・29代住職。龍谷大学教授、本願寺派執行、本願寺派勧学寮頭(5期)、顕真学苑主幹、京都市会議員、参議院議員(1期)、富山大学第3代学長。 父・隆乗、母・ヨシイの長男として誕生。「真隆」という名は父・隆乗が「真宗興隆」の任を果たすような僧侶になるように願って名付けられた。 生家である専長寺は鎌倉時代からの血統を受け継ぐ浄土真宗の寺院。江戸時代の繁栄当時は広大な境内地や十数間もの巨大な伽藍を擁した寺院であったが、江戸末期から明治初期にかけて町を何度も舐め尽くした大火により類焼を重ね、真隆が生まれた頃は焼け跡に建てられた粗末な仮小屋住まいという貧しい暮らしであった。
川崎 肇(かわさき はじめ、1884年〈明治17年〉11月1… 川崎 肇(かわさき はじめ、1884年〈明治17年〉11月11日 - 1948年〈昭和23年〉1月23日)は、日本の東京川崎財閥の実業家、ゴルファー。川崎銀行副頭取、川崎信託社長、東武鉄道取締役、阪和鉄道取締役などを歴任した。「駒沢育ち」を代表するゴルファーの一人。 初代川崎八右衛門の孫。八右衛門の娘なかとその婿の茨城県出身の川崎東作との長男で、叔父に2代目川崎八右衛門。弟の川崎甲子男は国華徴兵、日華生命、帝国火災、福徳生命の社長や明和銀行頭取などを務めた。妻のキヨは金子堅太郎の娘。 9歳で家督を相続。東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属高等学校)を経て、1903年東京高等商業学校(現一橋大学)予科入学。
山田 忠治(やまだ ちゅうじ、1883年〈明治16年〉11月… 山田 忠治(やまだ ちゅうじ、1883年〈明治16年〉11月11日 - 1971年〈昭和46年〉7月7日)は、日本の海軍軍人。海軍航空草創期の搭乗員の一人で、第一次世界大戦においては日本初の航空作戦に携わった。最終階級は海軍少将。 愛知県に生まれる。海南中学校を経て明治38年(1905年)11月海軍兵学校(33期)を卒業、明治39年(1906年)12月20日海軍少尉任官。海軍大学校乙種学生を経て大尉任官後の1912年(明治45年)6月26日に海軍航空術研究委員に任ぜられた。7月に渡米して飛行免状を取得し、帰国後は同委員会練習将校の指導に当たった。 1913年(大正2年)6月24日に水上機による世界高度記録(2,500m)を達成したとされる。
上野 直昭(うえの なおてる、1882年〈明治15年〉11月… 上野 直昭(うえの なおてる、1882年〈明治15年〉11月11日 - 1973年〈昭和48年〉4月11日)は、日本の美学者。日本学士院会員、東京藝術大学名誉教授。 出典:(日本美術年鑑)・(百年史) 1882年(明治15年)、上野昭道の長男として神戸市に生まれた。慶應義塾幼稚舎、東京正則中学校、第一高等学校を経て、1908年東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専攻)を卒業。 1911年(明治44年)から1921年(大正10年)まで、美学者である大塚保治教授の主宰する東京帝大文科大学美学研究室の副手をつとめた。その在任中の1916年(大正5年)に東照宮三百年祭記念会が帝国学士院に委托した研究費の補助を得て、絵巻物の調査研究に当たった。
織田 一磨(おだ かずま、1882年(明治15年)11月11… 織田 一磨(おだ かずま、1882年(明治15年)11月11日 - 1956年(昭和31年)3月8日)は明治期から昭和期の芸術家、版画家。 洋画を川村清雄、石版画をオットマン・スモリック、金子政次郎に学ぶ。「自画石版の織田一磨」として知られる。主な作品は東京国立近代美術館などに収められている。 1882年(明治15年)11月11日、織田信徳の四男として東京府芝区にて誕生した。1894年(明治27年)頃、父信徳らと大阪に転居する。その後、広島石版印刷所や大阪市役所図案調製所に勤務する。1898年(明治31年)、16歳の時、兄の織田東禹の元で更に石版画の技術を学んだ。1907年(明治40年)に石井柏亭らによって刊行された美術雑誌『方寸』に参加し、創作版画の道に進んだ。
磯部 愉一郎(いそべ ゆいちろう、1881年11月11日 -… 磯部 愉一郎(いそべ ゆいちろう、1881年11月11日 - 1970年5月20日)は、日本の経営者。関東電化工業株式会社の創業発起人及び代表取締役専務、旭電化工業株式会社の専務取締役及び代表取締役、花王油脂株式会社の取締役社長及び会長を務めた人物。 また、早稲田大学の「早稲田大学百年史」の歴代箇所長一覧に代表取締役と早稲田大学の「早稲田二十日会」の副会長を務めていた。「早稲田二十日会」は、二十日会の第3代会長の佐々木省三によると、実業界で活躍していた日本化薬の原安三郎と日本工業倶楽部常任理事の中村元督らが話し合った結果、早稲田の卒業生で実業界に籍をおく者たちに呼びかけ「二十日会」をつくり、毎月二十日に日本工業倶楽部で会合を開き、勉強会を開くとともに大いに親睦を旨とすることにしたとの記述がある。
大島 正徳(おおしま まさのり、旧字体: 大島 正德、188… 大島 正徳(おおしま まさのり、旧字体: 大島 正德、1880年11月11日 - 1947年4月21日)は、日本の哲学者・教育家。 神奈川県海老名市出身。実家は豪農で、父親は蚕種業のかたわら自由民権運動に携わり、子供の教育にも自由主義を貫いた。耕余塾で学んだのち、同志社中学校、第一高等学校を経て、1904年東京帝国大学文学部哲学科卒。研究生を09年までやり、14年東京帝国大学哲学科講師、16年助教授、1924年に同大及び一高教授を務める。 帝大を退職し、1925年東京市学務局長に就き、同教育局長、東京市会議員、帝国教育会理事などを務めた。37年世界教育会議日本事務局の事務総長。1942年には村田省蔵大日本帝国陸軍第十四軍(フィリピン占領軍)最高顧問の比島調査委員会で教育及び宗教担当委員を務めた。
三宅 驥一(みやけ きいち、1876年11月11日 - 19… 三宅 驥一(みやけ きいち、1876年11月11日 - 1964年3月30日)は、兵庫県出身の植物学者。理学博士(東京帝国大学)。
宮川 春汀(みやがわ しゅんてい、明治6年〈1873年〉11… 宮川 春汀(みやがわ しゅんてい、明治6年〈1873年〉11月11日 - 大正3年〈1914年〉7月26日)とは、明治時代の浮世絵師。富岡永洗の門人。他に洗圭、漁史と号し、Sとも記す。 三河国渥美郡畠村(現・愛知県田原市福江町)に廻船業と薬種問屋を営んでいた豪商・渡辺家に生まれた。名は守吉。1878年(明治11年)に母が絶家となっていた宮川家を継いだため、守吉も宮川を名乗る。 12歳の時、敷知郡誠明教育会主催の展覧会で作文・図画の一等賞を受賞。14歳の時、漢書の筆写を好んで絵を模写する。1890年(明治23年)得意としていた画業を志し、全ての財産を整理して上京、富岡永洗について絵を学んだ。春汀が画家となった理由は不明だが、同郷の日本画家・渡辺小華に憧れたからとする説がある。
鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英… 鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉、1870年11月11日〈明治3年10月18日〉 - 1966年〈昭和41年〉7月12日)は、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日本学士院会員。 名の「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した。
横田 五郎(よこた ごろう、明治2年10月8日(1869年1… 横田 五郎(よこた ごろう、明治2年10月8日(1869年11月11日) - 没年不詳)は、日本の裁判官、検事。男爵横田國臣の弟。 豊前国宇佐郡封戸村(現在の大分県宇佐市)にて、島原藩士の子として生まれる。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。東京地方裁判所判事、同部長、検事・司法省参事官、東京控訴院検事、横浜地方裁判所所長を歴任した。のち、朝鮮総督府法務局長に転じ、さらに朝鮮総督府高等法院長も務めた。
阪本 三郎(さかもと さぶろう、1867年11月11日(慶応… 阪本 三郎(さかもと さぶろう、1867年11月11日(慶応3年10月16日) - 1931年(昭和6年)4月14日)は、日本の検察官、裁判官、内務官僚、教育者。憲政会系官選県知事、早稲田専門学校長。「坂本」と表記される場合がある。樋口一葉の婚約者(旧姓・渋谷)であったことで知られる。 武蔵国南多摩郡原町田村(後の町田村、現町田市)で旅籠武蔵屋を営む渋谷徳治郎の二男として生まれ、1892年8月、阪本タカの養子となる。祖父・真下専之丞(晩菘)の融貫塾、近在の小野路にある小島韶斎塾、藤沢の耕余塾で学ぶ。1888年7月、東京専門学校法学部を卒業。1890年12月、文官高等試験に合格。1891年1月22日、司法官試補に任じられ新潟地方裁判所詰となる。
小田桐 政信(おだぎり まさのぶ、慶応2年10月5日〈186… 小田桐 政信(おだぎり まさのぶ、慶応2年10月5日〈1866年11月11日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月)は、明治から昭和時代戦前の実業家、政治家。青森市会議長。 青森県士族の小田桐伊三郎の長男として生まれ、1897年(明治30年)家督を継ぐ。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を卒業し、1895年(明治28年)青森警察署に出仕する。 青森製材製柾社長、青森製氷・函館運送社・青森運送合同・運送相互保証各取締役、青森薪炭監査役などを歴任し、のち推挙され青森市参事会員となる。ほか、1941年(昭和16年)8月に青森県会議員に当選した。のち青森市会議長在任中に死去した。
藤井 健次郎(ふじい けんじろう、1866年11月11日〈慶… 藤井 健次郎(ふじい けんじろう、1866年11月11日〈慶応2年10月5日〉 - 1952年〈昭和27年〉1月11日)は、日本の植物学者、遺伝学者。理学博士、東京帝国大学名誉教授。文化勲章受章。 1866年、加賀国金沢で[要出典]、加賀藩士の家に生まれる。幼くして両親を亡くし、叔母に育てられる。 1892年(明治25年)、東京帝国大学理科大学生物学科卒業。卒業後、同大学助手、助教授として植物学教室で研究と学生の指導を継続。 藤井は中等教育教科書の編纂に注力する一方で、長らく学位論文を提出せず、学位は論文提出ではなく、総長推薦によって授与された。 1901年から帝政ドイツ、英国に留学、植物形態学、細胞学、化石学などを学び帰国。