川崎 普照(かわさき ひろてる、1931年5月15日 - 2… 川崎 普照(かわさき ひろてる、1931年5月15日 - 2024年5月31日)は、日本の彫刻家。日本藝術院会員。 東京府(現東京都北区)生まれ。東京都立武蔵丘高等学校卒。1952年に三美工芸に就職、1959年に彫刻家として活動をはじめる。1993年「未来への讃歌」で日展内閣総理大臣賞、1998年「大地」で日本芸術院賞受章。日展理事。2004年芸術院会員。2007年旭日中綬章受章。2024年5月31日、老衰のため東京都の自宅で死去した。93歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
宮崎 恭子(みやざき やすこ、1931年5月15日 - 19… 宮崎 恭子(みやざき やすこ、1931年5月15日 - 1996年6月27日)は、日本の演出家、女優、脚本家。無名塾創設者。本名:仲代 恭子(旧姓:宮崎)。脚本家としての筆名(別名)として隆 巴(りゅう ともえ)を持つ。夫は俳優の仲代達矢、妹は元フジテレビのアナウンサーでニュースキャスターの宮崎総子。 両親とも広島県呉市の出身。母方の祖父は第九代呉市長・勝田登一。裁判官だった父親の赴任先・長崎県長崎市で生まれ、父親の転任により、4歳まで長崎で、その後小学校2年生まで福岡市で、3年生のとき大分市で、4年生から小学校卒業まで再び福岡市で育った。1944年、父親が裁判所を辞めて弁護士に転身したため、一家で東京都へ移る。
湯田 豊(ゆだ ゆたか、1931年5月15日 - 2009年… 湯田 豊(ゆだ ゆたか、1931年5月15日 - 2009年5月1日)は、日本の哲学者。文学博士(立正大学・論文博士・1990年)。神奈川大学名誉教授。インド哲学専攻。 1931年5月15日に北海道苫小牧に生まれる。1969年東京大学大学院印度哲学博士課程満期退学、1990年「ウパニシャッドの哲学」で立正大学文学博士。1969年共立薬科大学助教授、1975年神奈川大学外国語学部助教授、1979年教授、2003年定年退任、名誉教授。2000年、『ウパニシャッド』で日本翻訳出版文化賞受賞。 インド哲学のみならず、ニーチェ、フロイトなどを縦横に論じ多くの著書がある。東大では中村元に師事したが、のちに中村を厳しく批判するようになった。
小林 トミ(こばやし トミ、1930年5月15日 - 200… 小林 トミ(こばやし トミ、1930年5月15日 - 2003年1月2日)は、日本の市民運動家、画家。市民グループ「声なき声の会」の中心メンバーとして安保闘争、反戦活動に従事し、鶴見俊輔や高畠通敏らとベ平連スタイルの市民運動の原型をつくった。 茨城県土浦市に生まれる。父親はパン屋を営んでいたが、米相場に手を出して事業不振に陥り、1934年(昭和9年)に一家で千葉県浦安町(現・浦安市)に移って下駄と鼻緒の行商を始めた。 東京都立葛飾高等女学校(現・東京都立南葛飾高等学校)に進学するも、1944年(昭和19年)11月以降は授業はなかった。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲後、一家は浦安も危ないと判断し、土浦市に疎開。
西 一祥(にし かずよし、1930年5月15日 - 1993… 西 一祥(にし かずよし、1930年5月15日 - 1993年4月23日)は、日本の能楽研究者。 日本大学文学部卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。日本大学国際関係学部教授を務めた。1993年4月23日、心筋梗塞のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
松坂 俊夫(まつさか としお、1930年5月15日 - 20… 松坂 俊夫(まつさか としお、1930年5月15日 - 2006年3月14日)は、日本の文学研究者。 山形県に関係する文学作品を中心に、日本近代文学について多数の評論を発表している。 朝鮮生まれ。山形師範学校在学中、蒲生芳郎、藤沢周平と同人誌を刊行。師範学校卒業後は、山形県立山形中央高等学校教諭などを経て、1977年から山形女子短期大学教授を務めた。教え子に池上冬樹などがいる。 1995年、第41回齋藤茂吉文化賞を受賞した。
一海 知義(いっかい ともよし、1929年5月15日 - 2… 一海 知義(いっかい ともよし、1929年5月15日 - 2015年11月15日)は、日本の中国文学者、神戸大学名誉教授、河上肇研究で著名。 奈良県奈良市生まれ。1953年京都大学文学部卒、吉川幸次郎の門下生の一人、同じ吉川門下の筧久美子・筧文生夫妻とは友人で共著も多い。 神戸大学教授を務め、1993年に定年後は神戸学院大学教授、2000年退職。古典漢文のみでなく、近世・近代日本の漢詩文の校訂も行い、特に河上については著作多数。2007年『正伝 後藤新平』校訂で毎日出版文化賞特別賞受賞。2015年11月15日午前11時50分、急性心不全のため神戸市の自宅で死去。86歳没。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
諏訪 兼位(すわ かねのり、1928年5月15日 - 202… 諏訪 兼位(すわ かねのり、1928年5月15日 - 2020年3月15日)は、日本の地球科学者。専門は岩石学・地質学。学位は、理学博士(名古屋大学・論文博士・1962年)(学位論文「領家変成帯の岩石学的及び地質学的研究」)。名古屋大学名誉教授、日本福祉大学名誉教授。日本アフリカ学会元会長。 鹿児島県鹿児島市生まれ。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)、第七高等学校造士館 (旧制)を経て、1951年東京大学理学部地質学科卒業。 1962年、学位論文「領家変成帯の岩石学的及び地質学的研究」で、名古屋大学より理学博士の学位を取得。 その後、名古屋大学理学部地球科学教室教授、名古屋大学理学部学部長、日本福祉大学情報社会科学部学部長、日本福祉大学学長を歴任。
杉谷 昭(すぎたに あきら、1928年5月15日 - 201… 杉谷 昭(すぎたに あきら、1928年5月15日 - 2016年5月24日)は、日本史学者。 島根県簸川郡今市町(現・出雲市)生まれ。1953年九州大学文学部史学科卒。1968年「明治前期地方制度史研究」で國學院大學文学博士。佐賀大学助教授、教授、1993年定年退官、名誉教授、久留米大学教授。佐賀城本丸歴史館初代館長。
崎田 直次(さきた ただじ、1928年5月15日-2001年… 崎田 直次(さきた ただじ、1928年5月15日-2001年5月9日)は、日本の法学者。商法学者。専門は会社法。中央大学名誉教授。 1952年中央大学法学部法律学科卒業。中央大学法学部助手。1957年中央大学法学部助教授。1964年中央大学法学部教授。1965年中央大学大学院法学研究科教授。1969年中央大学法学部長・同大学院法学研究科委員長(~1969年)。1970年学校法人中央大学評議員(~1994年)。1972年学校法人中央大学常任理事(~1982年)。1999年中央大学定年退職。同名誉教授。 この他、旧司法試験第二次試験考査委員(1972年~1983年)、社団法人私立大学連盟常務理事(1973年~1983年)、文部省教育委員養成審議会委員(1977年~1985年) 指導教授は田中耕太郎の弟子筋の片山金章。
是永 純弘(これなが すみひろ、1928年5月15日 - 1… 是永 純弘(これなが すみひろ、1928年5月15日 - 1999年7月24日)は、日本の経済統計学者。経済学博士(北海道大学)。 1945年4月から終戦の8月まで海軍経理学校に在籍していたことがある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大洲 斉(おおず ひとし、1928年5月15日 - 1991… 大洲 斉(おおず ひとし、1928年5月15日 - 1991年4月11日)は山口県大島郡久賀町出身の映像監督である。大洲齊名義の作品も多数ある。 龍谷大学文学部卒業後、大映京都撮影所で助監督として働き始める。1971年の大映倒産後、映像京都に属してテレビ時代劇を主に監督した。監督した初監督作品にして唯一の映画作品、松田優作主演の『ひとごろし』で京都映画祭新人監督賞を受賞した。 主なテレビ時代劇監督作品は『木枯し紋次郎』シリーズ、『江戸の旋風 』シリーズ、また『破れ傘刀舟悪人狩り』以降、『長崎犯科帳』、『子連れ狼』、『赤穂浪士』などの萬屋錦之介主演時代劇を多く監督した。
石山 透(いしやま とおる、1927年〈昭和2年〉5月15日… 石山 透(いしやま とおる、1927年〈昭和2年〉5月15日 - 1985年〈昭和60年〉12月3日)は、日本の脚本家。主に1960年代、70年代にNHKテレビの少年少女ドラマで人気を博した。北海道小樽市出身。本名は笹岡幸司。 9歳で神奈川県に移住。科学を志し、東京高等学校理科に学ぶが断念、卒業後は学友の熊倉一雄らとともに劇団「感覚座」を主宰。このころから脚本・演出も手がける。1950年頃から、ラジオ・テレビを中心に脚本家としての活動を開始。 1952年にNHK札幌放送劇団に入団。同局の専属作家となり、1956年にラジオドラマ『パイロット・ファーム』で文部省芸術祭奨励賞受賞。1959年にNHK東京の専属作家となり、同年の『ピエロが泣いた』でテレビのシナリオ作家としてデビュー。
山田 治雄(やまだ はるお、1927年〈昭和2年〉5月15日… 山田 治雄(やまだ はるお、1927年〈昭和2年〉5月15日 - 2022年〈令和4年〉7月1日)は、日本の政治家、行政書士。熱海市議会議員(12期)。日本最年長の市議会議員として知られていた。 1927年(昭和2年)、静岡県田方郡熱海町(現在の熱海市)に生まれる。生家は現在「かんぽの宿 熱海」が建っている場所にあった。熱海町立熱海尋常高等小学校(現在の熱海市立第一小学校)を卒業後、旧制中学校に当たる帝京商業学校(現在の帝京大学中学校高等学校)へ入学する。なお、中日の監督などを務めた杉下茂は山田の2年先輩にあたる。 その後、1943年(昭和18年)8月に役所の兵事課に入隊を申し出て、同年10月に三重海軍航空隊を受験する。
高橋 太郎(たかはし たろう、1927年5月15日 - 20… 高橋 太郎(たかはし たろう、1927年5月15日 - 2006年11月20日)は、日本の言語学者、日本語学者。 京都府京都市下京区の生まれ。1952年京都大学文学部哲学科心理学専攻卒業。国立国語研究所名誉所員。学位は博士(文学)。 1988年に国立国語研究所を定年退職。 長女は翻訳家の高橋さきの。次男は映像作家の高橋洋平。 国立国語研究所を退職後も麗沢大学、立正大学、関西外国語大学などで学生の教育にも力を注ぎ、多くの研究者を育てた。 奥田靖雄・鈴木重幸らの言語学研究会の主要メンバーの一人であり、教育科学研究会・国語部会その他の民間教育研究団体や、日本教職員組合・全日本教職員組合の教育研究全国集会等でも、講師などとして国語教育(主として文法を体系的に教える言語教育)に関する指導・助言を行った。
高橋 忠治(たかはし ちゅうじ、1927年5月15日 - 2… 高橋 忠治(たかはし ちゅうじ、1927年5月15日 - 2020年12月23日)は、日本の児童文学者。民話にも造詣が深い。詩人・童話作家としても知られ、地域に根ざした児童文学の創作を掲げる。 1927年(昭和2年)、長野県飯山市に生まれる。長野師範学校の研究科から法政大学文学部を卒業後教員として故郷に戻り、小学校へ赴任する。教鞭をとりつつ独創性のある教育論を述べ、地元文芸誌「信州白樺」などで連載を行う。民俗学者として特に民話に深く通じ、1955年に日本児童文学者協会に加盟。はまみつをや和田登らとともに信州児童文学会を立ち上げ、1978年から同会会長も務める。1958年から同会発行の文芸誌「とうげの旗」編集委員を務め、数多くの詩や童話を掲載している。
蟻田 功(ありた いさお、1926年5月15日 - 2023… 蟻田 功(ありた いさお、1926年5月15日 - 2023年3月17日)は、日本の医学者。天然痘の撲滅に尽力した。 熊本県熊本市生まれ。旧制熊本中学、熊本医科大学(現・熊本大学医学部)卒業。 臨床医を経て、1950年に厚生省(現・厚生労働省)に医系技官として入省した。 1962年からWHOアフリカ事務局員としてリベリアに赴任し、天然痘の対策に尽力した。 1977年にはWHOの世界天然痘根絶対策本部長に就任。最後の流行地ソマリアでは紛争の中ワクチン接種を続け、1980年の天然痘根絶宣言につなげた。 1985年に帰国後、国立熊本病院(現・国立病院機構熊本医療センター)院長に就いた。 1988年に日本国際賞を受賞している。
若井 恒雄(わかい つねお、1926年(大正15年)5月15… 若井 恒雄(わかい つねお、1926年(大正15年)5月15日- 2021年(令和3年)2月28日 )は、日本の銀行家。三菱銀行頭取を務めた。 東京出身。府立第八中、一高を経て、東京大学法学部政治学科入学後、終戦直前、学徒動員で陸軍松本連隊に入隊したが、復学。1948年に東大を卒業。三菱銀行に入行した。しかし、入行後3ヶ月で胸を患い、1年半の療養を余儀なくされた。一時は、退職を覚悟したこともあったというが、職場復帰を果たした。 昇格、昇進は随分長く同期生よりは遅れていたが、実力と実績で補って、結局は頭角を現し、世田谷支店長、業務第一部副部長兼企画・法人・個人各課長、本店営業第二部次長、京橋支店長、総合企画部長を歴任。
菊村 到(きくむら いたる、本名:戸川 雄次郎(とがわ ゆう… 菊村 到(きくむら いたる、本名:戸川 雄次郎(とがわ ゆうじろう)、1925年5月15日 - 1999年4月3日)は、日本の作家・小説家。神奈川県平塚市出身。 旧制湘南中学を経て、1944年に仙台陸軍予備士官学校へ入学。翌年卒業し秋田へ見習士官として赴任したが、そこで終戦を迎える。復員直後から早稲田大学文学部英文学科へ通い、この頃から執筆活動を始める。 1948年、大学卒業と共に読売新聞社へ入社。社会部の記者として活動する傍らで執筆活動を行うようになり、同年6月に『川の上』1949年10月に『死臭』を発表し作家としてデビュー。1954年には『受胎告知』が第32回芥川賞候補となる。 この頃までは本名で活動していたが、やがて記者活動との兼ね合いから、1955年の結婚を境に「菊村到」のペンネームで執筆を行うようになる(後述)。
高橋 武光(たかはし たけみつ、1925年5月15日 - 2… 高橋 武光(たかはし たけみつ、1925年5月15日 - 2012年10月10日)は、日本の経営者。大日本インキ化学工業(現在のDIC)社長、会長を務めた。 東京都出身。1947年に東京大学工学部応用化学科を卒業し、同年に大日本インキ化学工業に入社。1974年11月に取締役に就任し、1979年6月に常務、1986年6月に専務を経て、1990年6月に副社長に就任し、1994年3月には社長に昇格。1998年6月には会長に就任。 2012年10月10日老衰のために死去。87歳没。
富塚 良三(とみづか りょうぞう、1923年5月15日 - … 富塚 良三(とみづか りょうぞう、1923年5月15日 - 2017年1月12日[要出典])は、日本のマルクス経済学者、中央大学名誉教授。千葉県生まれ。 千葉県生まれ。旧制第三高等学校を卒業し、京都大学文学部西洋史学科に入学。その後1949年東京大学経済学部卒業、指導教授は大河内一男。利潤率の傾向的低下の法則を証明したことでも有名。また、著書である「恐慌論研究」において均衡蓄積軌道論を提示し、再生産論および恐慌論の発展に寄与した。 東京大学在学中に山田盛太郎の再生産論を、大原社会問題研究所では久留間鮫造から資本論を学ぶ。福島大学に所属していたときに熊谷尚夫との間で繰り広げられた、「相対的過剰人口」での討論は、近代経済学、マルクス経済学の有意義な論争の一つである。
倉田 隆文(くらた たかふみ、1923年5月15日 - 19… 倉田 隆文(くらた たかふみ、1923年5月15日 - 1998年5月9日)は、日本の実業家。伊勢電子工業(のちのノリタケ伊勢電子)社長として同社を再建したのち、ノリタケカンパニーリミテド社長・会長や中部経済同友会代表幹事を務めた。スリランカラトナ勲章受章。 東京都出身。神田の本屋街で育つ。1948年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業、日本陶器入社。 ニューヨーク支店、社長室、海外事業部長、常務等を経て、1974年から1981年まで経営悪化に陥っていた伊勢電子工業(のちのノリタケ伊勢電子)の社長を兼務。工場や従業員を半減するなど減量経営を行い、6年で再建を果たす。 1981年1月専務、1981年8月副社長を経て、1982年、杉本悌二郎の後任としてノリタケカンパニーリミテド社長就任。
田中 善六(たなか ぜんろく、1922年5月15日 - 20… 田中 善六(たなか ぜんろく、1922年5月15日 - 2002年3月15日)は、日本の経営者。福島県出身。株式会社クラロンの創業者であり、元代表取締役。国際ロータリー第253区ガバナーなども歴任した。
石川 昌(いしかわ まさし、1922年(大正11年)5月15… 石川 昌(いしかわ まさし、1922年(大正11年)5月15日 - 2016年(平成28年)9月12日)は、昭和から平成時代の政治家。元千葉県木更津市長。元海上自衛官。最終階級は海将補。 木更津市出身。東京府立四中(現・東京都立戸山高等学校)を経て、海軍経理学校に進み、1942年に卒業後、戦艦伊勢や武蔵などに乗り組んだ。復員後は東大に進み、1949年(昭和24年)東京大学法学部政治学科卒業。公職追放中だった事から官庁入りはかなわず、日本シルクに入社した。 1955年(昭和30年)海上自衛隊に入隊、木更津航空補給所長を務めた。 1979年(昭和54年)、木更津市長選挙に初当選し1995年(平成7年)まで4期務めた。
清水九兵衛(きよみず きゅうべえ、旧字体: 淸水 九兵衞、1… 清水九兵衛(きよみず きゅうべえ、旧字体: 淸水 九兵衞、1922年5月15日 - 2006年7月21日)は彫刻家、陶芸家。日本における抽象彫刻の第一人者である一方、京焼の名家として知られる清水六兵衞(七代)を襲名していた。名は広、旧姓は塚本。 愛知県大久手町(現・名古屋市千種区大久手町)に生まれ、愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)へ進学。第二次世界大戦開戦直後に名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)で建築を学び、主にイタリアのファシスト政権下で存続していたモダニズム建築に興味を持った。沖縄戦から生還し、戦後は東京藝術大学美術学部鋳金科で彫刻を学んだ。在学中に京都の清水焼の名跡、六代清水六兵衛の養子となり陶芸をはじめた。
瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう、1922年〈大正11年… 瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう、1922年〈大正11年〉5月15日 - 2021年〈令和3年〉11月9日)は、日本の小説家、天台宗の尼僧。位階は従三位。俗名:晴美(はるみ)。僧位は権大僧正。1997年文化功労者、2006年文化勲章。天台寺名誉住職、徳島市名誉市民、京都市名誉市民、二戸市名誉市民。天台寺住職、比叡山延暦寺禅光坊住職、敦賀女子短期大学学長を務めた。 作家としての代表作は、『夏の終り』『花に問え』『場所』など多数。1988年以降は『源氏物語』に関連する著作が多く、新潮同人雑誌賞を皮切りに、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞した。 大正・昭和・平成・令和と4つの時代を生きた作家である。
池上 二良(いけがみ じろう、1920年5月15日 - 20… 池上 二良(いけがみ じろう、1920年5月15日 - 2011年7月15日)は、日本の言語学者。北海道大学名誉教授。専門は満洲語、その他のツングース諸語、アイヌ語など。 1920年、長野県松本市生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校文科(乙類)を経て、東京帝国大学文学部言語学科卒業。大学院在学中からツングース諸語、特にウイルタ語の研究を始める。 1951年に群馬大学学芸部助教授となる。1964年より北海道大学文学部教授、1976年より同大学文学部附属北方文化研究施設長を併任する。1984年に定年退官、名誉教授、札幌大学女子短期大学部教授。1991年、同大学定年退職。 旧樺太に住むウィルタ語の研究において、話者である佐藤チヨの協力のもと、『ウイルタ語基礎語彙』を出版した。
城野 禎三(きの ていぞう、1920年 (大正9年)5月15… 城野 禎三(きの ていぞう、1920年 (大正9年)5月15日 - 2011年 (平成23年)6月14日)は、日本の法学者。専門は、刑法・刑事訴訟法。 九州国際大学名誉教授。福岡県宗像郡出身。 官庁関係の学外委嘱の仕事も多く、大学では教務部長や学生部長を務め野球部などの顧問を引き受け体育系サークルの指導にも当たった。
大竹省二(おおたけ しょうじ、1920年(大正9年)5月15… 大竹省二(おおたけ しょうじ、1920年(大正9年)5月15日 - 2015年(平成27年)7月2日)は、日本の写真家。静岡県出身。
塚原 亮一(つかはら りょういち、1920年5月15日 - … 塚原 亮一(つかはら りょういち、1920年5月15日 - 1993年4月24日)は、日本の児童文学者、翻訳家。 東京生まれ。1944年早稲田大学文学部仏文科卒。中国に出征、帰国後児童文学の翻訳・研究に従事する。国立音楽大学教授。日本児童文学学会、日本児童文学者協会理事。 父は童話作家の塚原健二郎。息子はフランス文学者の塚原史。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
国久 松一(くにひさ しょういち、1919年5月15日 - … 国久 松一(くにひさ しょういち、1919年5月15日 - 戦死)は、大阪府出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、外野手。
安 東濬(アン・ドンジュン、朝鮮語: 안동준、1919年5月… 安 東濬(アン・ドンジュン、朝鮮語: 안동준、1919年5月15日 - 2010年11月16日)は、大韓民国の陸軍軍人、政治家、教育者。陸軍大領、第3・5・6・7代韓国国会議員、国際観光公社(現・韓国観光公社)総裁などを歴任した。 本貫は順興安氏(朝鮮語版)、号は中山(チュンサン、중산)。儒教の信者。 日本統治時代の忠清北道槐山郡出身。牧渡公立普通学校(現・牧渡初等学校(朝鮮語版))、清州公立農業学校(現・清州教育大学校)を経て、1942年中央大学法科卒。1944年中央大学大学院研究科修了。1948年陸軍士官学校第7期卒。1949年陸軍参謀学校、1952年陸軍大学、1953年アメリカ合衆国陸軍歩兵学校卒。
浅田 光輝(あさだ みつてる、1918年〈大正7年〉5月15… 浅田 光輝(あさだ みつてる、1918年〈大正7年〉5月15日 - 2006年〈平成18年〉10月10日)は、日本の経済学者・政治運動家。立正大学名誉教授。 福島県須賀川市出身。1943年慶應義塾大学経済学部卒。在学中、三田新聞学会事件で検挙。応召し、戦後日本共産党に入る。1946年、豊田四郎のもとで日本経済機構研究所設立に参加。神山茂夫理論に共鳴、天皇制・ファシズム理論を展開。1954年共産党を除名。以後、新左翼活動を支援した。ハンガリー事件を契機に神山と離れ、全共闘運動を支援。 1949年専修大学商経学部非常勤講師、1951年静岡大学文理学部助教授、1967年立正大学教養部教授。1988年定年退任。
広瀬 勝邦(廣瀬、ひろせ かつくに、1917年(大正6年)5… 広瀬 勝邦(廣瀬、ひろせ かつくに、1917年(大正6年)5月15日 - 1969年(昭和44年)10月25日)は、昭和期の政治家。衆議院議員。 徳島県板野郡松島村(松島町を経て現上板町)出身。大阪府立今宮中学校(現大阪府立今宮高等学校)を経て、1941年(昭和16年)慶應義塾大学経済学部を卒業した。 1948年(昭和23年)日本社会党に入党。以後、社会党徳島県連副会長、同会長、社会党中央委員、同本部政策審議会参与、同塩業対策特別委員会事務局長、同四国総合開発特別委員会事務局長などを務めた。 1955年(昭和30年)2月の第27回衆議院議員総選挙に徳島県全県区から右派社会党公認で出馬して落選。1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙に社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
石川 隆彦(いしかわ たかひこ、1917年〈大正6年〉5月1… 石川 隆彦(いしかわ たかひこ、1917年〈大正6年〉5月15日 - 2008年〈平成20年〉6月9日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 戦前から戦後にかけて昭和天覧試合準優勝、第2回・第3回全日本選手権優勝等の成績を残し、晩年は米国で柔道普及を行った。身長175cm、体重82kg。 柔術無双流の免許皆伝者であり当時講道館柔道3段の石川文八を父として、香川県三豊郡神田村(現・三豊市)に生まれる。父が飛島組の土木技師であったため長野県に転居し、そこで入学した長野県飯山中学の在学中に3段まで取得。日本大学・国士舘専門学校で修業し、国士舘では主将を務めた。5段位で卒業するとすぐに国士舘専門学校の助教授に就任し、1940年の紀元二千六百年奉祝天覧武道大会では事実上の日本一決定戦となる指定選士の部に出場して木村政彦と決勝を争ったが、緊張で固くなった石川は一方的に攻められて完敗を喫した。
門前 眞佐人(もんぜん まさと、1917年5月15日 - 1… 門前 眞佐人(もんぜん まさと、1917年5月15日 - 1984年2月22日)は、広島県三次市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。大阪タイガース契約第1号選手。「眞」が旧字体であるため、媒体によって門前 真佐人と表記される。 旧制広陵中学3年次に正捕手となる。強肩強打で鳴らし、4年次には豪打広陵の4番に座る。1934年は夏の選手権広島予選決勝で何度も苦汁をなめさせられた藤村富美男率いる呉港中学にまたも惜敗(2対3)。呉港中はこの年、田川豊・橋本正吾・保手浜明らを揃え、高い総合力で川上哲治らの熊本工業などの全国の強豪をまったく寄せ付けず圧勝し全国制覇、門前らは地団駄を踏む。門前が最上級となった1935年、今度は広陵が白石勝巳・岡田宗芳・海蔵寺弘司・戒能朶一・秋山正信・室脇正信ら7人がプロ入りするという強力打線を形成。
姿 節雄(すがた せつお、1916年 <大正5年> 5月15… 姿 節雄(すがた せつお、1916年 <大正5年> 5月15日 - 1999年 <平成11年> 2月18日)は日本の柔道家(講道館9段)。広島県神石郡神石町(現・神石高原町)古川出身。 子供の頃から柔道を始め(記録上の講道館入門は1932年4月で15歳の時)、1934年の3月に県立府中中学校を卒業する時には全国でも数少ない中学生での3段位に列せられた。 卒業後は上京して明治大学の専門部へ入学し、名人・三船久蔵の内弟子に。入学から3ヵ月後に4段、翌35年1月には2年生の弱冠18歳ながら5段に昇段して同年秋の講道館紅白試合では5段の部で5人抜きを達成している。 3年次の1936年4月30日に福岡市で開催された第1回全日本東西対抗大会(両軍32人ずつの抜き試合)には大会最年少選手として出場し、武専の名手・阿部謙四郎5段をあっさり横四方固で降したものの、続く南満州鉄道の加藤幸蔵5段には跳巻込で敗れた。
入江 一子(いりえ かずこ、1916年〈大正5年〉5月15日… 入江 一子(いりえ かずこ、1916年〈大正5年〉5月15日 - 2021年〈令和3年〉8月10日)は、日本の美術家、洋画家。シルクロードを題材とした作品で知られる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
安部 英(あべ たけし、1916年5月15日 - 2005年… 安部 英(あべ たけし、1916年5月15日 - 2005年4月25日)は、日本の医師。医学博士。元帝京大学副学長。 山口県長門市の網元の家に生まれる。旧制大津中学校、旧制山口高等学校を首席卒業、1941年東京帝国大学医学部医学科卒。1951年医学博士(東京大学)。論文の題は「プロトロンビンに関する研究」。 海軍軍医大尉として従軍し、その後1946年東京大学医学部第一内科助手、コーネル大学留学等を経て、1964年東京大学医学部第一内科講師。1971年に帝京大学に招聘され医学部教授に就任、1980年から1987年まで帝京大学医学部長、のち帝京大学名誉教授。1987年から1996年まで帝京大学副学長。
米倉 美枝(よねくら みえ、1916年(大正5年)5月15日… 米倉 美枝(よねくら みえ、1916年(大正5年)5月15日 - 1977年(昭和52年)8月3日)は、昭和時代の合唱指揮者。 福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)出身。東京音楽学校師範科卒業後、福岡県に戻り高等女学校教師となる。 1948年(昭和23年)の第1回全日本合唱コンクール全国大会学生部門に旧制福岡高等女学校(現:福岡中央高校)を指揮して出場、優勝を果たす。教職を退いた後は石丸寛らとともに九州の合唱隆盛に尽力し、福岡合唱協会、RKB女声合唱団、八幡製鉄合唱団などを指揮・指導する。九州合唱連盟理事長、全日本合唱連盟常任理事、熊本音楽短期大学教授などを務めた。
矢沢 正雄(やざわ まさお、1915年5月15日 - 200… 矢沢 正雄(やざわ まさお、1915年5月15日 - 2004年12月11日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。 旧制鎌倉中学校(現在の鎌倉学園高等学校)卒業後、専修大学に入学。 1935年、日本陸上競技選手権大会の男子200mで優勝(21秒8)。 1936年ベルリンオリンピックで日本代表選手となり、男子200メートル競走と400メートルリレー走に出場。予選通過はならなかった。 1937年、日本陸上競技選手権大会で100m・200mの2種目で優勝。 1939年、専修大学は箱根駅伝(第20回大会)を制覇したが、この時の陸上競技部主将が矢沢である。また、日本学生陸上競技対校選手権大会の200メートル競走での記録は、2005年時点でも専修大学記録として残っていた。
牧野 正蔵(まきの しょうぞう、1915年(大正4年)5月1… 牧野 正蔵(まきの しょうぞう、1915年(大正4年)5月15日 - 1987年(昭和62年)2月12日)は、日本の競泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの1500m自由形銀メダリスト、1936年ベルリンオリンピックの400m自由形銅メダリスト。400mおよび800m自由形で世界記録を更新した。 静岡県浜名郡鷲津町(現在の湖西市)出身。吉津尋常小学校(現 湖西市立鷲津小学校)に入学。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、男子100m自由形で金メダルを獲得した宮崎康二は吉津尋常小学校で牧野の1年後輩である。旧制静岡県立見付中学校(現在の静岡県立磐田南高等学校)から早稲田大学に進学する。
米山 博久(よねやま ひろひさ、1915年5月15日 - 1… 米山 博久(よねやま ひろひさ、1915年5月15日 - 1985年6月9日)は、日本の鍼灸師。大阪府鍼灸師会副会長。 1915年長野県下伊那郡山本村(現・飯田市)に生まれる。高等小学校卒業後、1935年に鍼灸師資格を取得し、1936年に東方医学会(大阪)に所属。1946年に刀根山鍼灸医学会を設立し、1950年から1971年まで日本鍼灸師会代議員を務めた。1958年には明治鍼灸専門学校の講師。1960年から1971年、1974年から1975年の4回に渡って、大阪府はりきゅう師試験委員を歴任。1963年から1975年まで大阪府鍼灸師会理事。このほか、1960年に結成された日本針灸皮電研究会(現・日本臨床鍼灸懇話会)理事、大阪府鍼灸師会副会長、大阪鍼灸専門学校(現・森ノ宮医療学園専門学校)校長などを務めた。
松若 正次(まつわか まさじ、1914年5月15日 - 没年… 松若 正次(まつわか まさじ、1914年5月15日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。大阪府中河内郡柏原町(現柏原市)出身。中村部屋所属。本名は門下 正次。最高位は十両7枚目。得意技は突っ張り。 中村部屋に入門し、1934年5月場所で初土俵を踏む。順調に番付を上げ、1939年5月場所に十両に昇進。この場所は3勝12敗と大きく負け越し、1場所でその座を明け渡した。その後は勝ち越すことなく1940年5月場所に26歳で廃業した。
野中 国男(のなか くにお、1913年(大正2年)5月15日… 野中 国男(のなか くにお、1913年(大正2年)5月15日 - 1947年(昭和22年)4月28日)は、日本の陸軍軍人である。最終階級は陸軍少佐。正六位。インパール作戦に参謀として従軍、終戦後の復員前に不可解な自決を遂げた。 佐賀県神埼郡神埼町において生まれる。野中は幼少の頃より秀才であったが、生家は貧しかったので、町内の素封家の学資援助で、神埼町立神埼小学校へ入学、納富健次郎と生涯にわたる親友となり共に首席を争うが納富にはかなわなかった。納富は海軍兵学校第62期として皇族2名を除いて14番/123名で卒業している。空母「瑞鶴」飛行隊長(海軍大尉)として、1943年(昭和18年)11月8日の第2次ブーゲンビル島沖航空戦で戦死、海軍中佐に二階級特進している。
丹羽 兵助(にわ ひょうすけ、1911年5月15日 - 19… 丹羽 兵助(にわ ひょうすけ、1911年5月15日 - 1990年11月2日)は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(12期)。愛知県議会議員(2期)。名古屋市内の陸上自衛隊駐屯地で、統合失調症で入院から一時退院中だった男に首を刺され、翌月に亡くなった。弟は丹羽久章元衆議院議員。孫に丹羽秀樹衆議院議員がいる。 愛知県東春日井郡守山町(現・名古屋市守山区)出身。名古屋中学校(現・名古屋中学校・高等学校)卒業後、牧師を目指して関西学院神学部に進むも父である丹羽兵助(先代)の急逝にあう。長男として家業の土建業の丹羽建設を継いだ。 1941年4月、守山町議会議員に初当選。 1947年、愛知県議会議員選挙に東春日井郡選挙区から民主党公認で立候補し、初当選。
吉武 廣次(よしたけ ひろし、1911年 <明治44年> 5… 吉武 廣次(よしたけ ひろし、1911年 <明治44年> 5月15日 - 1997年 <平成9年> 1月29日)は、日本の経営者。横浜ゴム社長を務めた。位階は従四位。 福岡県出身。1935年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1936年に橫濱護謨製造 (のちの横浜ゴム) に入社。1965年8月に取締役に就任し、1967年8月に常務、1969年8月に専務、1971年8月に副社長を経て、1973年2月に社長に就任した。1977年12月に会長に就任し、1981年3月に取締役相談役を経て、1983年3月に相談役に就任。 1982年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1997年1月29日、肺炎のために死去。
権 五勲(クォン・オフン、朝鮮語: 권오훈/權五勳、1911… 権 五勲(クォン・オフン、朝鮮語: 권오훈/權五勳、1911年5月15日または1912年1月26日 - 1951年2月2日)は、朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。朝鮮戦争中に大邱に駐屯した米軍の銃撃により殺害された。 本貫は安東権氏(朝鮮語版)、号は木園(モグォン、목원)、カトリック教徒。 慶北大邱出身。養正高等普通学校、明治大学法学部、同校大学院卒。1931年より中国国民党の藍衣社で活動し、臨時政府と光復軍を支援した。1948年に護国軍106連隊副連隊長となり、その後は大韓独立促成国民会忠清南道支部副委員長を務めた。1950年の第2代総選挙では達城郡選挙区から当選した。 朝鮮戦争中の1951年1月26日、大邱南山派出所付近の住宅街で米軍2名が女性にセクハラしようとすると、大邱南区青年団団長のキム・ヨンドゥクと一緒に米軍を阻止しようとしたが、米軍が撃った銃によって左脇腹貫通傷を負った。
黒木 しのぶ(くろき しのぶ、1910年5月15日-1964… 黒木 しのぶ(くろき しのぶ、1910年5月15日-1964年1月15日)は、日本の女優。本名︰石崎 錦。北海道樺戸郡月形町出身。 札幌市立高等女学校(現北海道札幌東高等学校)卒業。北海タイムス(現・北海道新聞社)編集部勤務ののち上京し、銀座でホステスとして働く。1932年、スカウトされて日活太秦撮影所現代劇部に入社、同年『さらば東京』でデビュー。その後、『一九三二年の母』『霧の夜の客間』『モダン・マダム行状記』などに助演。『さらば東京』で共演した佐分利信と結婚し1934年に引退。1964年、肝臓癌で死去した。墓所は小平霊園。 『日本映画人名事典 女優編』キネマ旬報社
相沢 良(あいざわ りょう、明治43年〈1910年〉5月15… 相沢 良(あいざわ りょう、明治43年〈1910年〉5月15日 - 昭和11年〈1936年〉1月28日)は、日本の女性平和運動家、共産党活動家。 青森県南津軽郡野沢村(現在の青森県青森市)吉野田字木戸口2番地に生まれる。相沢家は3代続く藩医の家であった。家族は、父・武良、母・秀、祖母、姉・千代、妹・京、弟・企救麿。父の助手や看護婦も住み込みで働いていた。 1923年(大正12年)4月、県立青森高等女学校に進学。小学生当時の相沢良は、2つ年長の青森高女の姉・千代と同級生で仲の良い淡谷のり子が遊びに来ていて、出会っている。 1927年(昭和2年)3月卒業後、英語を習得するため黒石の親戚の家から弘前女学校に1年間通う。