李 炳夏(イ・ビョンハ、朝鮮語: 이병하、1913年11月1… 李 炳夏(イ・ビョンハ、朝鮮語: 이병하、1913年11月18日 - 2000年11月2日)は、大韓民国の政治家、裁判官、弁護士、公証人。第12代法務部長官、第4・5代韓国国会議員。 本貫は真城李氏(朝鮮語版)。号は暁汀、日本名は李家炳夏。 日本統治時代の慶尚北道聞慶郡出身。地元で普通学校を卒業後、1928年に京城に上京し雑貨店の店員を務めたが、1931年9月に内地に密航し、同年11月に大阪の日刊新聞の従業員に就職した。1933年4月には甲種中学校である大阪北洋商業学校の夜間部3年に編入し、1935年3月に卒業。同年4月に明治大学専門部法科夜間部に入学し、1938年に卒業した。卒業後はしばらく京城の三中井百貨店で経理・人事管理・商品購入担当職員を務め、1940年には三中井百貨店の東京支社に転職した。
本間 俊一(ほんま しゅんいち、1912年11月18日 - … 本間 俊一(ほんま しゅんいち、1912年11月18日 - 1958年8月20日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。中新田町長、宮城県知事を務めた本間俊太郎は長男。 宮城県加美郡中新田町(現・加美町)出身。古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。大学卒業後、1935年に中外商業新報社、1939年に読売新聞社に入社し社会部記者となる。その後、郷里に戻り、1945年8月に中新田町(現在の加美町)長となる。 1946年(昭和21年)第22回衆議院議員総選挙に日本進歩党から立候補し当選する。当選回数通算6回。第1次吉田内閣の農林参与官、第2次吉田内閣の通産政務次官、自由党副幹事長、衆議院決算委員長などを歴任した。
栗山 茂(くりやま しげる、1912年11月18日 - 20… 栗山 茂(くりやま しげる、1912年11月18日 - 2010年9月9日)は、日本の版画家。紐版画や紙版画など多彩で自在な試みを展開した。日本版画協会名誉会員。静岡県版画協会名誉会長。 静岡市鷹匠町に生まれる。雑誌『若草』で竹久夢二の絵にふれて憧れ、 同じ頃木版画を試作。のち青木四郎を介して知った浦田儀一の父(摺師)から版画の手ほどきを受ける。平塚運一や永瀬義郎の技法書にも学ぶ。1929年秋、小川龍彦、中村岳(仲蔵)、杉山正義、青木四郎とともに童土社結成。同年10月、童土社創作版画展第1回展開催。 1930年、中学卒業記念に同人誌『艸笛』を創刊、友人とともに版画や童謡、詩を寄せる。同年末、それぞれ個々に 版画誌を主催していた小川の『まるめろ』と中村の『有加利樹』に『艸笛』を統合、新たに『ゆうかり』を創刊。
板倉光馬(いたくら みつま、1912年(大正元年)11月18… 板倉光馬(いたくら みつま、1912年(大正元年)11月18日 - 2005年(平成17年)10月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少佐。福岡県小倉市(現、北九州市)出身。 3人兄弟の次男。当初は画家を志していたが、関門海峡を通過する聯合艦隊の美しさに魅せられ、海軍兵学校に志望を変更したという。旧制福岡県立小倉中学校より海軍兵学校の第61期に入校した。卒業席次は116名中7位。少尉候補生時代には問題児として名を馳せ、遠洋航海時には始末書を8枚という記録を作った。一方では、誰もが調査を諦めた訓練時のトラブルの原因を、根気よく調べ続けてついにつきとめるといった功績も残している。 1935年(昭和10年)少尉任官。
大島 博光(おおしま ひろみつ、1910年11月18日 - … 大島 博光(おおしま ひろみつ、1910年11月18日 - 2006年1月9日)は、日本の詩人、翻訳家である。
野中 五郎(のなか ごろう、1910年(明治43年)11月1… 野中 五郎(のなか ごろう、1910年(明治43年)11月18日 - 1945年(昭和20年)3月21日)は、日本の海軍軍人。特攻兵器「桜花」を擁する神雷部隊指揮官として九州沖航空戦に参加。最終階級は戦死による二階級特進で海軍大佐。海兵61期卒。
ねず まさし(禰津正志、1908年11月18日 - 1986… ねず まさし(禰津正志、1908年11月18日 - 1986年4月1日)は、日本の歴史学者、考古学者、著述家、翻訳家。専門は天皇史と昭和史。 本名の「禰津正志」、および「ねづ まさし」の名義でも著述活動を行った。 東京出身。1932年京都帝国大学文学部史学科国史専攻卒業。卒業論文は「文久元年露艦の對馬占據に關する外交史的研究」。同大学院考古学科修了。1936年文部省維新史料編纂局に入る一方で、1935年京都で創刊された雑誌『世界文化』の同人となり、その姉妹紙である週刊紙『土曜日』にも執筆するなど反ファシズム市民文化運動に関与したが、1937年、人民戦線事件で治安維持法違反として検挙された。戦後は天皇制、日本史、フランス革命に関する著述、翻訳を行う。
成田 成寿(成田 成壽、なりた しげひさ、1907年11月1… 成田 成寿(成田 成壽、なりた しげひさ、1907年11月18日 - 1986年9月24日)は、日本の英文学者、東京教育大学名誉教授。文学博士。 新潟県出身。1932年東京文理科大学国文科卒業、福原麟太郎に師事。東京高等師範学校教授、東京文理科大教授、東京教育大学教授、定年退官し名誉教授、大妻女子大学教授。批評文学を提唱し、新しい英米文学を紹介した。
安保 正敏(あぼ まさとし、1907年11月18日 - 19… 安保 正敏(あぼ まさとし、1907年11月18日 - 1971年3月20日)は、日本の実業家。三重交通社長と東海テレビ放送社長を務めた。三重県松阪市出身。赤福餅で有名な赤福代表取締役社母兼社長である濵田勝子は三女、その夫は同社元会長である濵田益嗣。 1929年に、同志社専門学校高等商業部を卒業。 1942年に、松阪電気鉄道社長に就任し、1944年に統合により、三重交通専務に就任し、1954年に社長に昇格した。1957年に近畿東海放送社長に就任し、1959年にラジオ東海との合併により1971年に東海ラジオ放送社長にも就任した。1957年に東海テレビ放送副社長にも就任し、1967年には社長に昇格した。
實吉 純一(さねよし じゅんいち、1907年(明治40年)1… 實吉 純一(さねよし じゅんいち、1907年(明治40年)11月18日 - 2003年(平成15年)3月16日)は、日本の工学者。 電気工学、音響学を専門とした。音響学については、父祖の海軍経験を意識したものであり、戦前には海軍技術研究所音響研究員を大学教授と兼任していた。戦後は、東京工業大学学長や千葉工業大学、玉川大学、東北帝国大学の教授、日本音響学会会長などを務めた。 水中での気泡の挙動と気泡群による水中超音波の減衰、などの研究を行なった。またキリスト教徒でもあった。 松本清張は『砂の器』の執筆に際し、實吉の著書『電気音響工学』(1957年)を参考にし、實吉が当時勤務していた東京工大を取材で訪問している。
執行 海秀(しぎょう かいしゅう、1907年11月18日 -… 執行 海秀(しぎょう かいしゅう、1907年11月18日 - 1968年12月4日)は、日蓮宗僧侶・仏教学者。 佐賀県生まれ。1936年立正大学文学部仏教学科卒。1969年「日蓮教学史」で立正大学より文学博士の学位を取得。立正大学文学部教授。市川市浄然寺住職。
大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月… 大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月18日 - 1987年(昭和62年)7月13日)は、日本の陸軍軍人、実業家、経営評論家。 軍人として第53軍参謀・東部軍参謀等を務め、階級は陸軍中佐に至る。戦後東洋精密工業社長、同社相談役や偕行社副会長を歴任する。愛知県蒲郡市出身。 明治39年11月陸軍中佐大橋崧次郎の四男として生まれ、愛知四中・名古屋陸軍幼年学校・陸軍士官学校予科を経て昭和2年7月19日に陸軍士官学校を卒業。同年10月25日、陸軍砲兵少尉に任官され、野戦重砲兵第2連隊附を命ぜられる。士官候補生第39期の大橋の同期には陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、関東軍作戦主任参謀の草地貞吾大佐がいる。
能勢一男(のせ かずお、1905年11月18日 - 没年不明… 能勢一男(のせ かずお、1905年11月18日 - 没年不明)は、大日本帝国のボート競技選手(ローイング競技選手)。1928年アムステルダムオリンピックに日本代表として出場した。 1905年11月18日、現在の東京都豊島区目白に生まれる。旧制栃木県立宇都宮中学校(現在の栃木県立宇都宮高等学校)を卒業後、1923年に明治大学商科に入学した。1924年に端艇部に入部し、四番手として活躍した。その技量を買われ、1928年に主将に就任する。同年に開催されたアムステルダムオリンピックに主将・二番手として出場し、整調手も務めた。海や大きな川がない宇都宮出身の人物がボート競技で活躍するのは当時珍しいことであった。
田部井 和(たべい かのう、1905年(明治38年)11月1… 田部井 和(たべい かのう、1905年(明治38年)11月18日 - 1976年(昭和51年)10月17日)は、日本の微生物学者、教育者、京都大学名誉教授。 東京出身。1931年、京都帝国大学医学部卒業後、京大助教授となる。軍部から多額の資金援助を得て微生物学の研究を進め、関東軍防疫給水部本部(いわゆる731部隊)が発足すると部隊に加わり、第一課課長としてチフス菌を用いた生物兵器を含む研究を指揮することとなった。 戦後は日本に引き揚げ、神戸医科大学教授などを経て、1956年には京大に戻り医学部微生物学教室で教授を務めた。1966年に定年退官した。1976年10月17日、気管支炎のため京都市左京区の自宅にて死去。
松岡 辰郎(まつおか たつろう、1904年11月18日 - … 松岡 辰郎(まつおか たつろう、1904年11月18日 - 1974年8月12日)は、9代目東宝代表取締役社長、コマ・スタジアム代表取締役社長、松岡汽船代表取締役社長、映画団体産業連合会長、日本映画製作者連盟理事長、日本演劇興行協会会長、日本経済団体連合会常任理事、東京商工会議所常任委員。山梨県出身。 東宝の創業者・小林一三の次男として生まれる。1930年に慶應義塾大学を卒業と同時に松岡節子と結婚して松岡家に養子入りし、義理の父が松岡汽船の創業者・呉羽紡績の発起人役員松岡潤吉となる。松岡汽船の役員をはじめ、阪急百貨店の取締役を歴任。1951年に義父・潤吉が亡くなり松岡汽船代表取締役社長に就任。1957年3月25日には東宝の取締役に就任するも父・一三と兄の小林富佐雄が亡くなり阪急グループの総帥となる。
花岡 彌六(はなおか やろく、1904年 <明治37年> 1… 花岡 彌六(はなおか やろく、1904年 <明治37年> 11月18日 - 1986年 <昭和61年> 9月5日)は、日本の実業家。電気化学工業(現・デンカ)代表取締役社長を務めた。位階は正四位。 長野県諏訪郡湊村(現・岡谷市)出身。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。1929年に藤原銀次郎の紹介で電気化学工業(現・デンカ)に入社、1955年同社取締役、1958年同社常務取締役を経て、1970年同社代表取締役社長。1980年アセチレンブラック事業の強化を目的にデンカシンガポール設立。1981年代表取締役社長退任。 1970年藍綬褒章、1980年勲二等旭日重光章受勲。
古賀 政男(こが まさお、1904年(明治37年)11月18… 古賀 政男(こが まさお、1904年(明治37年)11月18日 - 1978年(昭和53年)7月25日)は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位、勲三等瑞宝章、紫綬褒章。明治大学商学部(旧制)卒業。本名は古賀正夫(読み同じ)。 少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。その後は、プレクトラム音楽家の「古賀正男」から流行歌王の「古賀政男」になり、昭和期を代表する国民的作曲家としての地位を確立し、数多くの流行歌をヒットさせた。生涯で制作した楽曲は5,000曲ともいわれ、「古賀メロディー」として親しまれている。 1904年(明治37年)、福岡県三潴郡田口村(現・大川市)に8人きょうだいの6番目として誕生。
岩崎 昶(いわさき あきら、1903年11月18日 - 19… 岩崎 昶(いわさき あきら、1903年11月18日 - 1981年9月16日)は、日本の映画評論家で映画製作者、ドイツ文学者。 啓蒙的批評家の一人であり左翼陣営の戦闘的映画人と目される。スポーツマンで良き家庭人であったという。 息子に学習院大学文学部フランス語圏文化学科名誉教授の岩崎浩がいる。 東京生まれ。東京府立一中から第一高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学独文科在学当時よりシナリオや独映画の評論を書いている。後の東宝社長である森岩雄は、この早熟の青年を気に入り日活の企画会議「金曜会」の助手として傍においていた。 1927年に大学を卒業すると洋画の輸入会社、田口商店に勤めるが、そこで独の大手製作会社ウーファの代理人であった川喜多長政と邂逅する。
味田 順三郎(みた じゅんざぶろう、1903年11月18日 … 味田 順三郎(みた じゅんざぶろう、1903年11月18日 - 1992年9月21日)は、日本の銀行家。阿波銀行頭取を務めた。京都府出身。 1925年に大阪高等商業学校を卒業。 日本銀行での勤務を経て、1955年に阿波商業銀行(のちの阿波銀行)副頭取に就任し、1961年11月には頭取に昇格。1967年11月に会長を経て、1975年12月には相談役に就任。 1971年10月に藍綬褒章を受章し、1977年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1992年9月21日老衰のために死去。88歳没。
大場 千秋(おおば ちあき、1902年11月18日 - 19… 大場 千秋(おおば ちあき、1902年11月18日 - 1978年11月28日)は、日本の文化人類学者。 北海道出身。早稲田中学校 (旧制)、水戸高等学校 (旧制)卒業。1928年、東京帝国大学文学部心理学科卒業。東大副手、水戸高等学校教授を経て、1949年茨城大学教授。66年定年退官、名誉教授、茨城キリスト教大学教授。73年定年退職。長男は大場牧夫、次男は大場幸夫。
水野 亮(みずの あきら、1902年11月18日 - 197… 水野 亮(みずの あきら、1902年11月18日 - 1979年2月14日)は、日本のフランス文学者・翻訳家。 長野県北佐久郡高瀬村(現佐久市)出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1926年東京帝国大学仏文科卒業。 東大図書館に勤務しつつ、オノレ・ド・バルザックを主として数多くの翻訳を行った。豊島与志雄の『レ・ミゼラブル』の翻訳の誤訳や脱漏を指摘し、豊島に喜ばれ、自らの翻訳を刊行した。 明治大学では非常勤講師、中央大学では専任講師としてフランス語を教えた。 没後、旧蔵書の中でバルザックに関係する資料は武蔵大学附属図書館で水野文庫として保存され、目録が刊行された。
大橋 英吉(おおはし えいきち、1902年11月18日 - … 大橋 英吉(おおはし えいきち、1902年11月18日 - 1987年9月23日)は、日本の実業家。元いすゞ自動車社長。勲二等瑞宝章。 岐阜県出身。1920年旧制岐阜中学校(のちの岐阜県立岐阜高等学校)卒業。のちに第三代在京岐阜高校同窓会会長を務めた。 1928年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、東京石川島造船所自動車部(のちのいすゞ自動車)に入る。 1965年いすゞ自動車社長に就任。自動車業界再編の中、1966年に富士重工業と提携。同年藍綬褒章受章。1970年に日産自動車と提携。 1970年日産自動車との提携を機に社長を退任。この退任は、ワンマン社長として知られた大橋が、同じくワンマン社長として知られ、大学の1年後輩である、日産自動車の川又克二社長に主導権を握られるのを嫌ったことが理由との見方もされた。
山本 照(やまもと てる、1902年11月18日 - 199… 山本 照(やまもと てる、1902年11月18日 - 1998年10月27日)は、愛知県出身のNHKアナウンサーである。日本の相撲中継において、松内則三に続く2人目のアナウンサーであった。 4人兄妹の三男。少年時代に地元の草相撲を見て以来の相撲好きであった。愛知県立第四中学校(後の時習館高校)では相撲部に所属、身体は小さかったが腕力は強く、右四つからの上手投げが得意で県下の中学校対抗相撲大会にも出場した。東京外国語学校(後の東京外国語大学)時代、大相撲の本場所の時期に語学以外の授業をサボっては国技館に通い詰め、学友からは「角狂」と呼ばれるほどであった。 東京外国語学校スペイン語科を卒業後、1925年4月に萬朝報に入社、1927年10月には國民新聞に移り相撲記者として活躍。
石田 一松(いしだ いちまつ、本名同じ、1902年11月18… 石田 一松(いしだ いちまつ、本名同じ、1902年11月18日 - 1956年1月11日)は、日本の政治家、演歌師、演歌歌手。作詞家、作曲家。位階は正五位。 芸人で、吉本興業(東京吉本)所属。戦前の一時期、石田一涙と芸名を名乗る。戦後は並行して衆議院議員を務め、タレント議員第一号とされる。身長五尺四寸、体重十七貫(自著記載より)。なぎら健壱は孫弟子にあたる。諷刺の先駆者、及びシンガーソングライターの先駆けともされ、その弾き語りは一世を風靡した。 広島県安芸郡府中村字山田(現府中町)生まれ。3歳で実母とは生き別れて、その後4人の継母に育てられた。うち3人の継母から虐められこれを耐え抜いたという。父・石田喜一は井戸堀職人で、その後米相場で失敗。
錦城山 勇吉(きんじょうざん ゆうきち、1902年11月18… 錦城山 勇吉(きんじょうざん ゆうきち、1902年11月18日 - 1987年12月18日)は、兵庫県津名郡(現:兵庫県洲本市)出身で小野川部屋に所属した大相撲力士。本名は村上 幸作(むらかみ こうさく)。 1902年11月18日に兵庫県津名郡(現:兵庫県洲本市)で生まれる。草相撲が盛んであった淡路島は小野川部屋の勢力基盤であり、宮相撲で活躍したことで若者頭に見出され、小野川部屋(大坂相撲)に入門した。当初の四股名は小鳴門だったが、大阪城の別名が「錦城」であることに因んで「錦城山」と改名した。 1923年5月場所が龍神事件によって同年6月へ延期、さらに片番付での開催となった影響で、1924年1月場所で新入幕を果たした際はいきなり前頭2枚目になった。
下八川 圭祐(しもやかわ けいすけ、1900年(明治33年)… 下八川 圭祐(しもやかわ けいすけ、1900年(明治33年)11月18日 - 1980年(昭和55年)3月18日)は、日本の声楽家(バス、バリトン)、音楽教育者。藤原歌劇団創設メンバーの一人、二代目総監督。現・学校法人東成学園(昭和音楽大学、昭和音楽大学短期大学部)の創立者。 高知県高岡郡佐川町出身。 1926年(大正15年)東洋音楽学校(現・東京音楽大学)本科声楽科卒業。矢田部勁吉、ベレッティに師事。 1930年(昭和5年)下八川圭祐声楽研究所を創立。ヴォーカル・フォアに参加。1934年(昭和9年)藤原義江とともに藤原歌劇団を創設。同団創設後はその中心メンバーとして『カルメン』の闘牛士役など多くのオペラに出演している。
辻 直四郎(つじ なおしろう、1899年11月18日 - 1… 辻 直四郎(つじ なおしろう、1899年11月18日 - 1979年9月24日)は、日本の古代インド学者・言語学者で、日本におけるインド古典学研究を開拓し、業績は海外の学会でも高く評価された。 ヤジュル・ヴェーダ サーマ・ヴェーダ アタルヴァ・ヴェーダ (アーラニヤカ) (ウパニシャッド)
石山 脩平(いしやま しゅうへい、旧姓:小林、1899年11… 石山 脩平(いしやま しゅうへい、旧姓:小林、1899年11月18日 - 1960年6月18日)は、日本の教育学者。東京教育大学初代教育学部長。専門はギリシア教育史。梅根悟とともに教育課程「コア・カリキュラム」を推進した。伝統的な三読法(通読・精読・味読)を提唱した。 静岡県出身。静岡県浜松師範学校、東京高等師範学校を経て、1929年に京都帝国大学文学部哲学科を卒業。東京文理科大学教授、1949年、東京教育大学初代教育学部長。1952年、「ポリス教育の成立と性格」で広島文理科大学より文学博士の学位を取得。1955年6月、小、中学校における教科書関係事件に関し衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。
塩見 俊雄(しおみ としお、1899年(明治32年)11月1… 塩見 俊雄(しおみ としお、1899年(明治32年)11月18日 - 1988年(昭和63年)2月27日)は、日本の地方政治家。土佐市長。位階は正六位。 塩見熊吉の長男として高知県高岡郡戸波村(現・土佐市)に生まれる。農業のかたわら青年団に入り戸波青年団会長、高岡青年団会長(5ケ町村連合)などを歴任。1922年(大正11年)戸波村産業組合の職員に採用され、翌年には専務理事に抜擢される。1926年(大正15年)には高知県産業組合中央高知市会の職員となる。 その後高知県農業会高岡支部経理課長、農業会金融課長(昭和20年)となるが、翼賛壮年団長をしていたため、GHQによる公職追放を受ける。サンフランシスコ講和条約の締結により、日本が主権を回復したことに伴い、1953年(昭和28年)追放解除。
近衞 秀麿(このえ ひでまろ、1898年11月18日 - 1… 近衞 秀麿(このえ ひでまろ、1898年11月18日 - 1973年6月2日)は、日本の指揮者・作曲家。元子爵。正三位勲三等。元貴族院議員。異母兄に近衞文麿(政治家・元内閣総理大臣)、実弟に近衞直麿(雅楽研究者)、水谷川忠麿(春日大社宮司)がいる。
奥野 健一(おくの けんいち、1898年11月18日 - 1… 奥野 健一(おくの けんいち、1898年11月18日 - 1984年5月6日)は、最高裁判所判事。和歌山県出身。文芸評論家の奥野健男は長男。 旧制和歌山県立田辺中学校から旧制第六高等学校へ進学。旧制高校時代に高校生と地回りたちの大乱闘があったさいに、喧嘩には加わらなかったが、目撃者の誤った証言で警察に逮捕された。いくらやらないと言っても警察官は聞き入れず、ついには卑怯者と言われたくなく友人を庇う義侠心から乱闘の首謀者と偽りの自白をしてしまった。警察官に尋問をされ、偽りの上に偽りの自白を重ね、架空の筋書きの調書が作られた。幸い検事の調べによって無実であることがわかり不起訴となった。 この体験は警官の誘導尋問によって人間はいかに偽りの自白をしやすいものであるかという教訓として、自身が体験者の一人として後年に裁判をする時にいつもその点を配慮するようになったとのことである。
中川 善之助(なかがわ ぜんのすけ、1897年〈明治30年〉… 中川 善之助(なかがわ ぜんのすけ、1897年〈明治30年〉11月18日 - 1975年〈昭和50年〉3月20日 )は、日本の法学者。東北大学名誉教授、金沢大学名誉教授。正三位勲一等。日本の家族法の権威である。 1897年、東京府(現・東京都)神田で生まれた。金沢第一中学校、第四高等学校を経て、東京帝国大学に進学。穂積重遠門下で法学を学び、1921年に東京帝国大学法学部を卒業。 1922年9月、東北帝国大学法文学部助教授に就任し、民法学第一講座を担当した。1927年、東北帝国大学法文学部教授に昇格。1940年、第2代仙台法経専門学校校長に任命された。以後、死去するまで同校校長を務めた。 1961年、東北大学を定年退官し、名誉教授となった。
板垣 直子(いたがき なおこ、1896年11月18日 - 1… 板垣 直子(いたがき なおこ、1896年11月18日 - 1977年1月21日)は、日本の文芸評論家、日本近代文学研究家。 青森県北津軽郡栄村湊(現五所川原市)に平山兼吉の次女「なを」として生まれる。1914年青森県立弘前高等女学校(現・青森県立弘前中央高等学校、太宰治の姉トシが2学年上で寄宿舎で同室)、1918年日本女子大学校英文科卒、1921年、東京帝国大学の第一回女子聴講生となる。美学、哲学を聴講。美術評論家の板垣鷹穂と結婚。夏目漱石などについて多くの著述を行い、比較文学研究では島田謹二、吉田精一らと並ぶ存在とされる。長谷川時雨主宰の「女人芸術」の編集委員として林芙美子を見出した。また、国士舘大学等で教鞭をとっている。
成富 政一(なりとみ まさいち、1894年(明治27年)11… 成富 政一(なりとみ まさいち、1894年(明治27年)11月18日 – 1938年(昭和13年)10月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は歩兵大佐。位階勲等功級は正五位勲三等功四級。 佐賀県神埼市において士族成富庄吉(佐賀藩士石井探玄の次男、成富延精の養子)の次男として生まれる。生家は、肥前国の戦国大名龍造寺隆信の重臣で、後に佐賀藩主鍋島氏の家老として活躍した成富茂安の養子安利の子孫にあたる。 陸軍士官学校28期を卒業し、1916年(大正5年)陸軍少尉に任官。陸軍大尉の時、陸軍大学校41期に学び、1929年(昭和4年)席次8位の成績で卒業した。 その後、台湾軍基隆要塞参謀、台湾軍司令部付、歩兵第19連隊付、独立歩兵第1連隊大隊長、陸軍歩兵学校教導連隊大隊長、留守第16師団参謀、同参謀長等を歴任し、満洲事変では、中国熱河省及び呼倫貝爾を転戦し、軍功あり。
渋谷 紫郎(しぶや しろう、1893年〈明治26年〉11月1… 渋谷 紫郎(しぶや しろう、1893年〈明治26年〉11月18日 - 1945年〈昭和20年〉1月12日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争初期に第十六駆逐隊司令として南方攻略戦に参加し、のち第百一戦隊司令官として戦死した海軍中将である。 長野県出身。海軍兵学校44期で、席次は95名中32番。1917年(大正6年)少尉任官。渋谷は海軍水雷学校高等科学生を修了した水雷専攻士官で、ほぼ一貫して海上勤務に終始した海上戦闘の猛者であった。4艦の水雷長、3艦の駆逐艦長、軽巡洋艦「神通」副長を経て、第一水雷隊及び第二十七駆逐隊の司令を務めた。この間1928年(昭和3年)少佐、1934年(昭和9年)中佐へ進級。1939年(昭和14年)11月大佐へ進級し、第一掃海隊司令、第七駆逐隊司令を経て第十六駆逐隊司令に就任。
桃原 茂太(とうばる / ももはら しげた、1892年(明治… 桃原 茂太(とうばる / ももはら しげた、1892年(明治25年)11月18日 - 1955年(昭和30年)2月28日)は、沖縄県出身の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員。 宜野湾間切大謝名(現宜野湾市)で、桃原正裕の長男として生まれる。沖縄県第一中学校、第五高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。その後、東洋拓殖 (株) に入社。同参事、同監事、同太田及び釜山支店支配人、日蘇石油販売 (株) 専務取締役などを務めた。 1934年、帰郷して那覇市松山町で弁護士を開業。1942年4月の第21回衆議院議員総選挙で沖縄県選挙区から出馬し、翼賛政治体制協議会の非推薦候補であったが当選し衆議院議員を一期務めた。
11代 池本 甚四郎(いけもと じんしろう、1890年(明治… 11代 池本 甚四郎(いけもと じんしろう、1890年(明治23年)11月18日 - 1964年(昭和39年)1月30日)は、大正から昭和期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都府久世郡小倉村長、宇治市長。旧名・嘉一郎、号・水也。 京都府久世郡小倉村大字小倉小字久保(現宇治市小倉町)で、素封家の10代池本甚四郎、静の長男として生まれる。小倉尋常小学校(現宇治市立小倉小学校)、久世郡組合高等小学校、伏見彰徳高等小学校、府立京都第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)を経て、1913年(大正2年)3月、山口高等商業学校を卒業した。卒業後、家業の醤油醸造業に従事した。1920年(大正9年)4月、京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)教諭に就任し、また宇治に設立された夜間中学の教師も務めた。
深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月… 深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月18日 - 1974年〈昭和49年〉3月31日)は、日本の詩人、作家、翻訳家。本名は荻野志げの(おぎの しげの)。 兵庫県氷上郡大路村(現・丹波市)の旧家の生まれ。京都師範学校中退、1907年京都菊花高等女学校卒。与謝野晶子に師事する。大正元年(1912年)詩人で技師の深尾贇之焏と結婚するが、大正9年(1920年)に死別。夫の遺稿集『天の鍵』を出版、その附録に深尾須磨子作として掲載した詩54篇と散文「最終の旅」が処女作となる。 大正14年(1925年)詩集『斑猫』を上梓すると神戸港から箱根丸で初めてフランスに渡り、シドニー=ガブリエル・コレットの知遇を得ている。
小林 鐡太郎(こばやし てつたろう、1886年(明治19年)… 小林 鐡太郎(こばやし てつたろう、1886年(明治19年)11月18日 - 1962年(昭和37年)4月13日)は、日本の政治家、衆議院議員、翼賛政治体制協議会所属、旧鶴岡市第5代市長。栄典は正五位・勲四等・瑞宝章。
杉山 元治郎(すぎやま もとじろう、1885年11月18日 … 杉山 元治郎(すぎやま もとじろう、1885年11月18日 - 1964年10月11日)は、大正・昭和期の政治家・農民運動家。牧師。 大阪府泉南郡北中通村(現・泉佐野市)出身。大阪府立天王寺農学校在学中にキリスト教徒となる。卒業後和歌山県庁に入庁し、県農会の書記を務める。また同地の日本基督教会に出入りするようになる。同教会の青年たちが非戦論の演説を行い県会で問題となったあおりを受け、杉山は県庁辞職を余儀なくされ、その後東北学院神学部に入学する。 1909年卒業後、仙台市の東六番丁教会の牧師に招聘される。さらに福島県小高町の小高教会に移り、ここで月給1円50銭で牧師を務める傍ら、種苗・農機具・肥料の取次販売を行ったり、近在の村々を巡回して土壌学や肥料学の出張講義を行ったりしていた。
奥村 千蔵(おくむら せんぞう、1884年〈明治17年〉11… 奥村 千蔵(おくむら せんぞう、1884年〈明治17年〉11月18日 - 1934年〈昭和9年〉5月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県、現在の大垣市出身。中国語を学ぶ。日露戦争に従軍し、満州、蒙古、朝鮮に10年間滞在する。帰国後、西濃飲料水(株)社長となり、大垣市議、大垣商業会議所特別議員、営業税調査委員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において岐阜2区(小選挙区)から憲政会公認で立候補して初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では岐阜2区(中選挙区)から立憲民政党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務めた。所属会派はその後第一控室会となり、1930年の第17回衆議院議員総選挙では無所属で出馬したが落選した。
重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年(明治16年)… 重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年(明治16年)11月18日 - 1961年(昭和36年)10月6日)は、日本の東洋学者・真言宗豊山派僧侶。 愛媛県温泉郡荏原村生まれ。1894年(明治27年)に得度し、私立豊山中学校を卒業。1909年(明治42年)、東洋大学本科を3年修了で退学した後、東京帝国大学文科大学史学科選科生として入学。1913年(大正2年)東京帝国大学文科大学の史学科を卒業。 1919年6月、松山高等学校教授、1926年から1年間の中国留学後、1927年11月、九州帝国大学法文学部東洋史学講座の初代教授として赴任。1944年9月、定年退官。退官後、松山市にある四国八十八箇所霊場第51番札所の熊野山石手寺の第41世住職に就任した。
大河内 輝耕(おおこうち きこう、1880年〈明治13年〉1… 大河内 輝耕(おおこうち きこう、1880年〈明治13年〉11月18日 - 1955年〈昭和30年〉5月2日)は、明治期から昭和期にかけての華族、政治家。貴族院議員。子爵。妻は徳川慶喜の八女の国子。 上野国高崎藩最後の藩主・大河内輝声の長男として生まれる。1882年(明治15年)父の死により家督を相続し、1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵した。1901年(明治34年)7月に学習院高等科を卒業して、東京帝国大学法科大学に入り、1905年(明治38年)に卒業した。同年11月、文官高等試験に合格し、大蔵省に入り、主計局に配属された。その後、大蔵書記官、主計局主計課長、専売局主事、大蔵参事官、専売局理事、東京地方専売局長などを歴任した。
伊地知 四郎(いじち しろう、1879年(明治12年)11月… 伊地知 四郎(いじち しろう、1879年(明治12年)11月18日 - 1965年(昭和40年)5月19日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。第11代鹿児島市長、第3代谷山町長。 鹿児島県鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現在の鹿児島市)出身。旧制鹿児島一中卒業。1904年(明治37年)2月29日に海軍機関学校(12期)を卒業し、同年9月10日、海軍少機関士に任官した。以後、海軍機関学校教官・監事、佐世保海軍人事部員、矢矧機関長、海軍省艦政局局員、同軍需局局員、長門機関長などを務め、1923年(大正12年)12月1日、海軍機関大佐に昇進し第三戦隊機関長に就任。さらに呉鎮守府機関長・呉海軍艦船部部員、第一艦隊機関長・連合艦隊機関長、海軍燃料廠平壌鉱業部長などを歴任した。
佐藤 運雄(さとう かずお、1879年11月18日 - 19… 佐藤 運雄(さとう かずお、1879年11月18日 - 1964年1月1日)は、日本の歯学者。日本大学理事長・名誉会頭。
木尾 虎之助(このお とらのすけ、1879年(明治12年)1… 木尾 虎之助(このお とらのすけ、1879年(明治12年)11月18日 – 1956年(昭和31年)12月23日)は、明治から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(憲政会)。 鹿児島県薩摩郡入来村(入来町を経て現薩摩川内市)で、木尾善十郎の息子として生まれた。三州義塾、鹿児島県第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1902年(明治35年)日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、弁護士試験に合格した。東洋大学講師、警視庁警察官消防官練習所講師を経て、1907年(明治40年)に東京市に弁護士事務所を開いた。翌年、朝鮮半島に渡り、漢城府(のち京城府)に弁護士事務所を開き、朝鮮鉱業新報社社長などを務めた。
榎並 充造(えなみ みつぞう、1879年11月18日 - 1… 榎並 充造(えなみ みつぞう、1879年11月18日 - 1951年2月7日)は、兵庫県神戸市南京町出身の日本の実業家。バンドー化学の創業者。次男・正一もバンドー化学の会長を務めた。 兵庫県神戸市で質屋を営む両親の下に生まれる。 当時の神戸には中学校がなかったため、1895年に姫路中学に入学。1年ほど同校で勉強するが、1896年に地元・神戸に神戸中学が開校したため、そちらに転校した。神戸中学時代の同級生に岡崎忠雄がいる。神戸中卒業後は早稲田大学に進学。卒業後は志願兵として軍に入隊し、そこでの功績が認められ、正八位を贈られた。1904年に父の死去にともない実家の質屋を継ぐ。 1906年にバンドー化学の創業に携わり、内外ゴム、バンドー化学各社長、播磨造船取締役などを務めた。
荒川 文六(あらかわ ぶんろく、1878年(明治11年)11… 荒川 文六(あらかわ ぶんろく、1878年(明治11年)11月18日 - 1970年(昭和45年)2月9日)は、日本の電気工学者。位階は正三位。九州帝国大学総長。工学博士。 神奈川県横浜生まれ。荒川省吾の長男。1886年、日本組合番町教会で小崎弘道から受洗。高等学校時代に信仰告白をなし、日曜学校教師、オルガニストとして活躍。後に福岡組合基督教会(現、日本基督教団福岡警固教会)に移り、福岡女学院理事長、日本基督教団常議員をつとめた。 九州帝国大学教授、同大総長の他、九州タイムズ社長も歴任する等、西日本での電気工学界の中心人物として活躍する。1946年3月22日、貴族院勅選議員に任じられ、無所属倶楽部に属し1947年5月2日まで在任した。
前田 卯之助(まえだ うのすけ、1877年(明治10年)11… 前田 卯之助(まえだ うのすけ、1877年(明治10年)11月18日 - 1937年(昭和12年)7月13日)は、日本の実業家、政治家。立憲民政党所属の衆議院議員。 兵庫県二方郡居組村(現:美方郡新温泉町居組)で前田利助の二男として生まれる。1903年、明治法律学校を卒業。 1905年12月、函館に移り、尼崎汽船会社を経て、函館商船 (株) を設立して社長となるが、1917年に倒産。その後、函館時事新聞社社長となる。 政界では、北海道会議員、同参事会員、函館市会議員、同参事会員を歴任。1918年7月、第13回衆議院議員総選挙補欠選挙で北海道庁函館外三支庁管内から出馬して初当選し、さらに1930年2月の第17回総選挙で北海道第3区から出馬して当選し、衆議院議員を二期務めた。
城 ノブ(じょう ノブ、1872年11月18日(明治5年10… 城 ノブ(じょう ノブ、1872年11月18日(明治5年10月18日)- 1959年(昭和34年)12月20日)は、日本のキリスト教徒、社会事業家である。愛称は「愛媛のマザー・テレサ」。 愛媛県温泉郡川上村(現在の東温市)にてフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの弟子であった城謙三の次女として生まれる。松山女学校(現在の松山東雲中学校・高等学校)に入学し、在学中は漢学塾でも学ぶ。1890年(明治23年)に卒業後は宣教師だったデュークス(Oscar A. Dukes)から洗礼を受けキリスト教徒となるが、父から勘当された事により独立した。1893年(明治26年)には横浜に居住し聖経女学校神学部(のち青山学院神学部女子部等を経て現在は東京神学大学)に入学し、卒業後は弘前に移住し来徳女学校(現在の弘前学院大学)にて教鞭を執り養老院勤務の傍らキリスト教の伝道活動にも携わる。