上田 慶治(うえだ けいじ、1904年11月20日 - 19… 上田 慶治(うえだ けいじ、1904年11月20日 - 1979年2月13日 )は、日本の経営者。南都銀行頭取を務めた。 奈良県出身。1926年に大阪高等商業学校を卒業し、のちに吉野銀行(現在の南都銀行)に入行。1958年に常任監査役に就任し、1962年に取締役、1965年3月に常務、1971年5月に専務を経て、1972年11月に頭取に就任。 1979年2月13日急性心不全のために在任時に死去。74歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
光吉 夏弥(みつよし なつや、1904年〈明治37年〉11月… 光吉 夏弥(みつよし なつや、1904年〈明治37年〉11月20日 - 1989年〈平成元年〉3月7日)は、日本の翻訳家、絵本研究家、舞踊評論家。本名・積男。 大阪府北区北野茶屋町で生まれる。1929年慶應義塾大学経済学部卒業。専門は児童文学・写真・舞踊。 1953年岩波書店で「岩波の子どもの本」絵本シリーズを石井桃子とともに創立する。ほか児童書の翻訳、バレエの入門書など多数がある。1990年『絵本図書館(世界の絵本作家たち)』で日本児童文学学会賞特別賞受賞。 岩波書店刊の絵本『ちびくろ・さんぼ』(1953年初版)の翻訳者として知られる。同絵本は、1988年に人種差別の指摘を受け、絶版となったが(いわゆるサンボ一斉絶版問題)、2005年に瑞雲舎からほぼそっくりそのままの形で復刊された。
谷 耕平(たに こうへい、1903年11月20日 - 198… 谷 耕平(たに こうへい、1903年11月20日 - 1989年12月6日)は、日本のロシア文学者。長野県小県郡県村(現東御市)生まれ。本名は宮坂 好安。 旧制上田中学(長野県上田高等学校)を中途退学、東京府立青山師範学校本科、第一早稲田高等学院を経て、1932年早稲田大学文学部露文科卒業。戦前からロシア文学者として活動し、善隣外事専門学校でロシア語の教授、戦後は早稲田大学教授を務めた。1974年定年、名誉教授。
大田 洋子(おおた ようこ、1903年〈明治36年〉11月2… 大田 洋子(おおた ようこ、1903年〈明治36年〉11月20日 - 1963年〈昭和38年〉12月10日)は、日本の小説家。本名、大田 初子。 広島県山県郡原村(現・北広島町)生まれ。6歳のとき父母が離婚したので親戚の大田家の籍に入る。その後母が再婚し、佐伯郡玖島村(現・廿日市市)で育つ。進徳実科高等女学校(現在の進徳女子高等学校)研究科卒業。小学校の裁縫教師として江田島に赴任したが1年で退職。小学校在職中に地元紙の芸備日日新聞に小説を発表、新進作家の扱いを受ける。21歳で結婚したが一児を残して出奔。尾道や大阪などで女給として働きつつ小説を書く。のち上京し、1929年、『女人芸術』に「聖母のゐる黄昏」を発表、これが文壇デビューとなる。
早川 三郎(はやかわ さぶろう、1903年11月20日 - … 早川 三郎(はやかわ さぶろう、1903年11月20日 - 1983年1月10日)は、日本の経営者。藤沢薬品工業(現・アステラス製薬)社長、会長を務めた。 滋賀県出身。1931年に東京帝国大学経済学部を卒業し、1932年6月に東洋レーヨンに入社。1942年に藤沢友吉商店(のちの藤沢薬品工業、現在のアステラス製薬)に転じ、1950年6月に取締役に就任し、1963年7月に常務、1961年11月に専務を経て、1967年5月には社長に就任した。1978年1月には相談役に就任。 1978年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年1月10日、脳幹部腫瘍のために死去。79歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
吉本 元輔(よしもと もとすけ、1903年11月20日 - … 吉本 元輔(よしもと もとすけ、1903年11月20日 - 没年不詳)は、日本の実業家。日本ダイナースクラブ(現・三井住友トラストクラブ)元会長・社長、日本交通公社元理事。 東京出身。1927年、立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)卒業。 大学卒業後、日本交通公社へ入社。1946年2月、初代社員組合長に就任。1949年、日本交通公社は、国鉄手数料停止という非常事態に直面したが、打開策の一つとして本社機能の再構築が行なわれ、新たに旅行課、海運課、審査課からなる「旅行部」が設置され、初代部長に就任。国内旅行営業推進の中核としての職務を担った。 その後、同社理事に就任。 1960年、財団法人日本交通公社および富士銀行等の出資によって日本で最初の多目的クレジットカード会社として株式会社日本ダイナースクラブ(後のシティカードジャパン株式会社、現・三井住友トラストクラブ株式会社)が設立され、社長に就任。
実松 譲(さねまつ ゆずる、1902年(明治35年)11月2… 実松 譲(さねまつ ゆずる、1902年(明治35年)11月20日 - 1996年(平成8年)12月20日)は、日本の海軍軍人、著作家。 米内光政海相時代の大臣秘書官や、駐米大使館附武官補佐官を務め、太平洋戦争においては情報解析に実績を残す。海軍大佐で終戦を迎え11年半の巣鴨プリズン生活をおくった後は主として海軍関係の書を著し、刊行数は100点近くにおよんだ。 小学校校長の長男として佐賀県武雄市に生まれ 海軍兵学校に進んだ。母校の佐賀中学は佐賀藩の藩校弘道館の流れをくみ、当時の最難関校の一つであった海軍兵学校に多くの合格者を送り出した中学である。実松は海兵51期生として中位の席次で卒業後、「浅間」乗組みとして実務訓練を受ける。
加藤 精三(かとう せいぞう、1900年(明治33年)11月… 加藤 精三(かとう せいぞう、1900年(明治33年)11月20日 - 1965年(昭和40年)5月3日)は、日本の政治家、旧鶴岡市第6代市長、衆議院議員(5期)、致道博物館顧問。山形県西田川郡鶴岡町(現・鶴岡市)出身。防衛庁長官・内閣官房長官・自民党幹事長を歴任した加藤紘一の父。
藤林 誠(ふじばやし まこと、1900年(明治33年)11月… 藤林 誠(ふじばやし まこと、1900年(明治33年)11月20日 - 1958年(昭和33年)1月10日)は、日本の林学者である。 東京の生まれ。1925年(大正14年)に東京帝国大学農学部(現在の東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部)林学科を卒業後は、大学院を経て母校で講師として教鞭を執る。1937年(昭和12年)には農林省に入省し、同省の林業試験場の技師として活動した。 1944年(昭和19年)には再度東京大学に助教授として活動し、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)には教授に昇格する。同年には林業試験作業研究室の室長を兼任し、林業労働や森林機械等多くの研究に携わった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
田嶋 一雄(たしま かずお、1899年11月20日 - 19… 田嶋 一雄(たしま かずお、1899年11月20日 - 1985年11月19日)は、日本の実業家。ミノルタカメラ(現:コニカミノルタ)創業者。和歌山県海南市出身。 座右の銘は「難有り有難し」。 1899年11月20日、和歌山県海草郡日方町(現:海南市日方)で父・田嶋常吉と母・きくえの長男として生まれた。田嶋家は鎌倉時代に大野荘を管理していた大野十番頭を務めた家柄で、祖父・長三郎の代から漆器製造卸業の田嶋長三郎商店を営んでいた。父親は神戸で貿易会社を経営していた。 日方尋常高等小学校、和歌山商業学校を経て、神戸高商を受験したが受からず、親戚が慶應義塾長の鎌田栄吉と知り合いであったことから同大経済学部に進学し、1923年に卒業。
小野 謙次郎(おの けんじろう、1899年11月20日 - … 小野 謙次郎(おの けんじろう、1899年11月20日 - 1983年10月5日)は、日本の元裁判官。名古屋高等裁判所長官、札幌高等裁判所長官などを務めた。 佐賀県に生まれる。1917年福岡県立中学修猷館を経て、1923年東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。 1925年判事に任官され、福岡地方裁判所判事、長崎控訴院判事部長を経て、1946年2月山形地方裁判所所長に進み、鹿児島地方裁判所所長、福岡高等裁判所判事、福岡地方裁判所所長を歴任の後、1960年11月札幌高等裁判所長官、1963年6月名古屋高等裁判所長官に就任。1964年11月停年退官。
鈴木 脩蔵(すずき しゅうぞう、1897年(明治30年)11… 鈴木 脩蔵(すずき しゅうぞう、1897年(明治30年)11月20日 - 1977年(昭和52年)11月8日)は、日本の内務官僚。官選岩手県知事。 新潟県出身。第七高等学校造士館を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し兵庫県属となり宍粟郡長に就任。 以後、警視庁工場課長、滋賀県書記官・経済部長、広島県書記官・経済部長、京都府書記官・学務部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。 1942年6月、岩手県知事に就任。1945年4月に知事を退任。その後、公職追放となった。1954年5月に京都市助役となり1958年まで在任。以後、近江絹絲紡績監査役、同常務取締役、(社) 京都倶楽部常務理事を務めた。
林 達夫(はやし たつお、1896年〈明治29年〉11月20… 林 達夫(はやし たつお、1896年〈明治29年〉11月20日 - 1984年〈昭和59年〉4月25日)は、日本の思想家、評論家。 西洋精神史、文化史、文明史にわたる著作が多い。 1896年、東京生まれ。父曾登吉は外交官で、アメリカ・シアトル領事館赴任に伴い2歳から6歳までシアトルで過ごした。1902年に帰国。1904年、父のインド・ボンベイ領事館赴任に伴い福井市の親戚に預けられる。 1908年、両親が帰国、同年福井県立師範学校附属小学校に転入学したときは、当時は稀な帰国子女で外人姿の変な子供と見られ、相当ないじめを受けた。やがて京都市立錦林小学校に転校、1911年、京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)に進んだが、芝居や音楽に熱中して1916年に入学した第一高等学校第一部丙類を中退。
藤原 孝夫(ふじわら たかお、1896年(明治29年)11月… 藤原 孝夫(ふじわら たかお、1896年(明治29年)11月20日 - 1983年(昭和58年)5月8日)は、日本の内務官僚。官選山梨・千葉・神奈川県知事。 岡山県岡山市西古松に藤原祐三郎の長男として生まれる。岡山中学、第六高等学校を経て、1920年7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入り山口県属となり内務部農務課に配属。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、1922年(大正11年)6月富山県理事官・内務部学務課長、同県視学官、1925年(大正14年)5月京都府内務部地方課長、岐阜県学務部長などを歴任し、1931年12月、復興事務局書記官・経理課長に就任した。1932年4月、内務事務官・大臣官房都市計画課勤務となり、さらに、衛生局保健課長、大臣官房会計課長を務めた。
井上 吉之(いのうえ よしゆき、1896年11月20日 - … 井上 吉之(いのうえ よしゆき、1896年11月20日 - 1974年8月21日)は、日本の農学者、教育者。農業化学を専攻、3つの大学で学長を務めた。農学博士。 1896年、和歌山県和歌山市に生まれる。1927年、京都帝国大学農学部農林化学科を卒業。理化学研究所を経て、1932年に京都高等蚕糸学校教授となり、1935年に京都帝国大学助教授、1940年に京都帝国大学教授となった。1957年、日本学術会議会員に選出。1959年に京都大学を退官すると、1960年に東京農工大学長、1966年に鳥取大学学長となった。さらに東亜大学の設立に参画し、1974年に同大学長となった。 1970年1月7日には、講書始の儀に招かれ農業化学に関する講義を行った。
小林 哥津(こばやし かつ、1894年11月20日 - 19… 小林 哥津(こばやし かつ、1894年11月20日 - 1974年6月25日)は日本の小説家。 1894年に小林清親の五女として東京府東京市京橋区に生まれる。名は哥津子。母は田島芳子。仏英和高等女学校(現・白百合学園中学校・高等学校)に入学し、同校在学中の1911年に平塚らいてうの雑誌『青鞜』の同人となり、伊藤野枝、尾竹紅吉らと同誌の編集に携わった。同雑誌に戯曲『お夏のなげき』や小説『麻酔剤』などを執筆した。1914年に青鞜社を退職し、外国文学の翻訳や東京回想、父の清親の研究資料などについての著作を行った。著書に『瑞典のお伽噺不思議な旅』、『清親考』がある。1974年6月25日、79歳で死去。
大橋 熊雄(おおはし くまお、1894年(明治27年)11月… 大橋 熊雄(おおはし くまお、1894年(明治27年)11月20日 - 1944年(昭和19年)4月14日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。駐蒙軍政治参謀。愛知大学の森久男は、蒙古連合自治政府の成立にあたって大橋が、「陸軍省との渉外事項を担当して、蒙疆地域の政治的統合に決定的役割を果たした」と指摘している。 1914年(大正3年)、新潟県立長岡中学校(第19回卒業)を経て、1917年(大正6年)、陸軍士官学校(第29期)を卒業した。1927年(昭和2年)、陸軍大学校を卒業(第39期)する。 1936年(昭和11年)二・二六事件の軍事裁判官を務める。関東軍参謀に就任。1938年(昭和13年)に駐蒙兵団参謀に転任となる。
尾崎 卓爾(おざき たくじ、1893年(明治26年)11月2… 尾崎 卓爾(おざき たくじ、1893年(明治26年)11月20日 – 1958年(昭和33年)10月13日)は、高知県出身の歴史家・記者。号は吸江(ぎゅうこう)。中岡慎太郎の伝記を日本で初めて著した人物。陽明社の創始者・尾崎旦は兄。 1893年(明治26年)11月20日、尾崎旦爾(手島熊吉)の四男として高知県安芸郡北川村野川番地に生まれる。母は尾崎旦信(折蔵)の長女・亀。 旧制高知商業学校を経て明治大学へ進む。卒業後、土陽新聞の速記部長、のち徳島日日新聞の東京支局長などを務める。 文壇「博浪沙」に参加、大町桂月、田中貢太郎らと交わる。土佐人の典型のような、豪放磊落で気骨のある性格で、あるとき貢太郎を伴って北川村の実家に帰ったが、議論伯仲し、両人とも酒豪であったため、二人で一斗樽を飲み空かしたと言われる。
山本 真平(眞平、やまもと しんぺい、1893年(明治26年… 山本 真平(眞平、やまもと しんぺい、1893年(明治26年)11月20日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、検察官。台湾総督府食糧局長。 山本芳太郎の二男として大分県北海部郡臼杵町(現・臼杵市)に生まれる。1919年(大正8年)7月に東京帝国大学法科(英法)を卒業し、山下汽船鉱業(商船三井の前身企業のひとつ)に入社する。のち法曹界に転じ、1922年(大正11年)5月、宇都宮地方司法官試補、大阪区裁判所検事を経て、1928年(昭和3年)7月に渡台し、台北地方法院検察官となる。 ついで台湾総督府官房法務課、法務課長事務取扱、法務課長、府審議室兼務、府総動員関係軍機文書取扱主任、府人事課長を経て、1939年(昭和14年)12月に台湾総督府食糧局長に就任。
永田 衡吉(ながた こうきち、1893年11月20日 - 1… 永田 衡吉(ながた こうきち、1893年11月20日 - 1990年2月27日)は、日本の劇作家、民俗芸能研究家。 和歌山県新宮出身。1917年早稲田大学英文科卒、東京帝国大学で美学美術史を学ぶ(卒業未確認)。21年から戯曲を発表、27年柳田國男、折口信夫らの民俗芸術の会の結成に参加、28年「信州義民伝」が6代目尾上菊五郎によって上演、「源義朝」が沢田正二郎によって上演される。30年菊五郎の日本俳優学校の設立に参加し講師となる。
松本 真一(眞一、まつもと しんいち、1892年(明治25年… 松本 真一(眞一、まつもと しんいち、1892年(明治25年)11月20日 – 1977年(昭和52年)8月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 静岡県で松本鋭市郎の長男として生まれる。4歳となり父の郷里和歌山県日高郡龍神村(現田辺市)に転居した。苦学し錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第七高等学校造士館を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 1920年7月、台湾銀行に入行した。1926年(大正15年)7月、和歌山商工会議所書記長に転じ、1931年(昭和6年)5月まで在任した。その後、紀南新聞社長、熊野太陽社長に就任した。 1932年(昭和7年)8月、補欠選挙で和歌山県会議員に当選し、1935年(昭和10年)10月に再選され1939年(昭和14年)10月に任期満了となった。
末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月2… 末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月20日 - 1977年(昭和52年)2月16日)は、日本の法学者(民法)。法学博士(京都帝国大学・論文博士・1931年)。日本学士院会員。立命館大学名誉総長。京都帝国大学教授、戦後に立命館大学学長・学校法人立命館総長を歴任。立命館では末川を名誉総長として顕彰している。長男は立命館大学名誉教授で歴史学者の末川清。清の妻は日本画家・橋本関雪の孫娘。勲四等瑞宝章(1942年)、従四位(1945年)。岡松参太郎に師事。弟子に谷口知平、亀井秀夫、石本雅夫、浅井清信、草鹿浅之介、吉田五郎など。筆名に欽風生。 末川は滝川事件後、大阪商科大学で教鞭を執る傍ら、滝川事件により辞職した助教授・副手の復帰に向けて活動していた。
石橋 鞆次郎(いしばし ともじろう、1891年11月20日 … 石橋 鞆次郎(いしばし ともじろう、1891年11月20日 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 石橋次作の二男として、福岡県早良郡田隈村に生まれる。1912年福岡県立中学修猷館を経て、1917年早稲田大学英語第一法律科(司法科)卒業。 1921年判事に任官し、長崎地方裁判所、福岡地方裁判所、熊本地方裁判所、鹿児島地方裁判所、大分地方裁判所、1947年11月福岡高等裁判所の各判事を務めた後、1951年12月佐賀地方裁判所所長兼佐賀家庭裁判所所長を経て、1954年10月鹿児島地方裁判所所長兼鹿児島家庭裁判所所長に就任。
伊藤 武彦(いとう たけひこ、1891年 (明治24年)11… 伊藤 武彦(いとう たけひこ、1891年 (明治24年)11月20日 - 1939年(昭和14年)10月27日)は、日本の内務官僚。県知事。 岐阜県出身。伊藤伊八郎の三男として生まれる。第八高等学校を経て、1915年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年、内務省に入り、富山県属となる。 以後、富山県警視、千葉県市原郡長、朝鮮総督府秘書官、内務省参事官、内務大臣秘書官、内務書記官、警保局庶務課長、土木局道路課長、同港湾課長、衛生局保健課長などを歴任。 1931年12月、岐阜県知事に就任。以後、滋賀県知事、福島県知事を歴任。1937年7月、岡山県知事となる。
則元 卯太郎(のりもと うたろう、1891年(明治24年)1… 則元 卯太郎(のりもと うたろう、1891年(明治24年)11月20日 - 1944年(昭和19年)7月16日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 長崎県長崎市出身。父は衆議院議員則元由庸。長崎県立長崎中学校、第五高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。同年に長崎市で弁護士を開業した。1930年(昭和5年)、長崎日日新聞社副社長に就任した。 1921年(大正10年)より長崎市会議員に6度当選し、副議長にも選出された。また1923年(大正12年)より長崎県会議員に3度当選し、副議長に選出された。 1938年(昭和13年)、衆議院に補欠当選を果たし、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙でも再選された。
中井 一夫(なかい かずお、1889年11月20日 - 19… 中井 一夫(なかい かずお、1889年11月20日 - 1991年10月18日)は、日本の裁判官・弁護士・政治家。位階は正四位。 太平洋戦争終戦直前に神戸市長に就任し、戦後の復興に携わった。雅号は和堂。勲二等旭日重光章、勲一等瑞宝章(1986年)、修交勲章崇礼章(1989年)受章。元神戸弁護士会長。神戸市名誉市民(1989年)。 1889年11月20日、大阪府大阪市東区瓦町(船場)に、薬問屋中井一馬・テルの末子(5男)として生まれる。中井家は代々大阪で家伝の膏薬を売る老舗で、父の一馬は大阪府議会議員と大阪市議会議員を兼任し、大阪府議会副議長、大阪市参事会員を務めた政治家でもあった。 中井曰く尋常小学校、高等小学校時代の成績は優秀で、毎年級長を務めた。
小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11… 小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、近現代日本画を代表する日本画家。75年間の画業を通して、日本の自然の美しさを描き続けた。本名は小野英吉。 1889年(明治22年) 岡山県笠岡市西本町に四男として生まれる。祖父と長兄は画家であった。1903年(明治36年)長兄の勧めで京都に上り、竹内栖鳳に師事。「竹橋」の号を授かる。1909年(明治42年)栖鳳の勧めで同画塾の土田麦僊とともに、京都市立絵画専門学校(絵専、現:京都市立芸術大学)の第一期生として入学(1911年卒業)。 当時の栖鳳は写生派の伝統とカミーユ・コローの写実表現を融合した作品を描いていた。
白倉 司馬太(しろくら しばた、1888年(明治21年)11… 白倉 司馬太(しろくら しばた、1888年(明治21年)11月20日 - 1972年(昭和47年)8月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1888年(明治21年)に広島県で生まれた。陸軍士官学校第22期、東京帝国大学機械工学科卒業。1934年(昭和9年)3月に関東軍野戦兵器廠長に就任し、8月に陸軍砲兵大佐に進級した。1936年(昭和11年)に陸軍兵器廠附を経て、1937年(昭和12年)に第1野戦化学実験部長に就任した。 1938年(昭和13年)3月に陸軍少将に進級し、陸軍砲工学校砲兵科長に就任。7月には陸軍造兵廠小倉工廠長に転じ、1940年(昭和15年)4月に名古屋陸軍造兵廠長となり、12月に陸軍中将に進級。
秋山 静太郎(あきやま しずたろう、1887年(明治20年)… 秋山 静太郎(あきやま しずたろう、1887年(明治20年)11月20日 - 1951年(昭和26年)6月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等。 1887年(明治20年)に岡山県吉備郡神在村(現:総社市)で生まれた。陸軍士官学校第20期、陸軍大学校第29期卒業。フランス駐在を経て、1931年(昭和6年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に陸軍技術本部附となった。1932年(昭和7年)4月11日に第12師団司令部附となり長崎医科大学に配属されたが、5月30日に配属を解かれて第12師団司令部附となった。同年8月8日に長崎要塞司令官に就任し、1936年(昭和11年)8月1日に陸軍少将に進級して待命となり、8月28日に予備役に編入された。
松本 学(まつもと がく / まなぶ、1886年(明治19年… 松本 学(まつもと がく / まなぶ、1886年(明治19年)11月20日(ただし、戸籍上は同年12月28日) - 1974年(昭和49年)3月27日)は、日本の内務官僚、政治家。旧姓は片岡(断絶した外祖父の松本家を再興した際に改姓した)。 岡山県出身。片岡房太の長男として生まれる。1910年、祖父松本礼造の跡を承け家督を相続した。 関西中学校、第六高等学校、東京帝国大学法科大学を経て、1911年に文官高等試験に合格して同年の大学卒業とともに内務省に入省する。愛媛県属。神社局長を経て1926年に静岡県知事に任ぜられる。1927年、立憲民政党系とみなされて、立憲政友会政権が行った地方官人事で鹿児島県知事に転任。
2代 小林 米三郎(こばやし よねさぶろう、1886年(明治… 2代 小林 米三郎(こばやし よねさぶろう、1886年(明治19年)11月20日 - 1968年(昭和43年)6月25日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)、小林酒造社長、栗山町名誉町民。旧姓は田中、旧名は栄。 1886年(明治19年)11月20日、新潟県刈羽郡(のちの刈羽郡二田村、現・柏崎市)に田中九平太の二男として生まれた。生家は造り酒屋の素封家であり、6人兄弟姉妹の5番目だった。出生名は田中栄であり、当地出身の田中角栄の遠縁にあたる。 1903年(明治36年)に新潟県立柏崎中学校(現・新潟県立柏崎高等学校)を卒業。 17歳の時に北海道夕張郡角田村(現・栗山町)の初代小林米三郎の養子となり、2代米三郎を襲名して酒造業を継承した。
服部 岩吉(はっとり いわきち、1885年 <明治18年> … 服部 岩吉(はっとり いわきち、1885年 <明治18年> 11月20日 - 1965年 <昭和40年> 11月24日)は、大正・昭和期の政治家。初名は清太郎。なお、「岩吉」は服部家の世襲の名乗りで、本項の岩吉は2代目にあたる。位階は正四位。 滋賀県栗太郡金勝村(現在の栗東市)の酒造業の家に生まれる。膳所中学校卒業後は家業に従事していたが、28歳の時に金勝村の依頼で同村の助役となり、その後村会議員を経て金勝村村長に就任して5期務める。更に県会議員を2期務めた後に1932年の第18回衆議院議員総選挙滋賀県全県区に立憲政友会から立候補して当選、1942年の第21回総選挙には立候補しなかったものの、次の第22回総選挙では日本自由党から当選を果たし、通算4期務めた。
尾上 茂樹(おのうえ しげき、1885年(明治18年)11月… 尾上 茂樹(おのうえ しげき、1885年(明治18年)11月20日 - 1922年(大正11年)10月27日)は、日本の発明家、実業家。 東京府南足立郡北千住町(現・東京都足立区)出身。1899年(明治32年)に小学校卒業と同時に石川島造船所に研究生として入所した。その後、海軍機関兵となった。除隊後の1909年(明治42年)に名古屋に鉄工場を設立し、発電機の製作に従事した。1910年(明治43年)に尾上商会(現在のOMC株式会社)を設立した。1911年(明治44年)に大豆粕粉砕機を発明した。大豆粕粉砕機は勧業博覧会にて金牌を受賞した。
岡田 信一郎(おかだ しんいちろう、1883年(明治16年)… 岡田 信一郎(おかだ しんいちろう、1883年(明治16年)11月20日 - 1932年(昭和7年)4月4日)は、大正・昭和初期に活躍した建築家である。大阪市中央公会堂(原案)や東京府美術館、歌舞伎座、明治生命館などの設計作品で知られる。 東京帝国大学建築学科を卒業した後、東京美術学校(現・東京芸術大学)と早稲田大学で教壇に立ち、今和次郎、今井兼次、三井道男、吉田五十八、岡田捷五郎(実弟)、村田政真、吉村順三ら多くの後進を育成した。 病弱なため外遊をする機会はなかったが、海外の建築雑誌等を通して近代建築の動向を把握し、優れた建築評論を執筆している。 設計作品には鉄筋コンクリートで和風意匠を表現した歌舞伎座、日本における西欧様式建築の最高傑作と評される明治生命館、イギリス風邸宅建築の鳩山一郎邸などがある。
池田 寅二郎(いけだ とらじろう、1879年(明治12年)1… 池田 寅二郎(いけだ とらじろう、1879年(明治12年)11月20日 - 1939年(昭和14年)2月9日)は、日本の判事(大審院長)、検事、司法官僚。 佐賀県出身。1899年第五高等学校卒業。1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。1905年(明治38年)、東京地方裁判所判事となり、東京地方裁判所部長、司法省参事官、東京地方裁判所検事、大審院検事、司法省民事局長を歴任した。その間の1918年(大正7年)に法学博士号を取得している。 1928年(昭和3年)、判事として大審院部長に任命された。1936年(昭和11年)には大審院長に就任した。
青木 月斗(あおき げっと、1879年(明治12年)11月2… 青木 月斗(あおき げっと、1879年(明治12年)11月20日 - 1949年(昭和24年)3月17日)は、日本の俳人。正岡子規門下。本名は青木 新護。 大阪市東区(現・大阪市中央区)船場にある神薬快通丸・天眼水本舖の「青木薬房」に生まれる。文学的素地としては、文芸好きな母方の血筋を受け、小学校時代の教師に文学家の斎藤黙蛙、友人に画家の西山翠嶂、赤松麟作、俳人の山中北渚、松村鬼史らがいた。1889年に父が死没し、1894年に道修町へ転居して大阪薬学校(後の大阪薬学専門学校)に入学するも中退。中退後は家業を継いだ。 1897年、國民新聞へ投句を初める。初号は月兎(げっと)。1898年に友人と三日月会を発足。
斎藤 常三郎(さいとう つねさぶろう、1878年(明治11年… 斎藤 常三郎(さいとう つねさぶろう、1878年(明治11年)11月20日 - 1951年(昭和26年)7月22日) は、日本の法学者。和議法、破産法の権威者で、神戸商業大学、京都帝国大学の各教授、会津短大学長を歴任した。「和議制度の研究」で、法学博士(京都帝国大学)。日本学士院会員。 実務経験を有する研究者であり、判事時代に著した『注釈訴訟記録』は実務家、研究者双方に貴重な著作として扱われた。日本の民事訴訟法は1890年(明治23年)に制定されたが、その学問的研究が発展を遂げるのは大正中期以降であり、斎藤はその先駆者の一人である。『日本破産法』は1922年(大正11年)制定された(新)破産法に関するもので、同法に関する書として加藤正治の『破産法要論』と並ぶ代表的著作である。
坂下 仙一郎(さかした せんいちろう、1876年(明治9年)… 坂下 仙一郎(さかした せんいちろう、1876年(明治9年)11月20日 - 1947年(昭和22年)2月9日)は、日本の教育者、実業家、政治家。衆議院議員、雄踏町長。 静岡県敷知郡宇布見村浅羽(現浜松市中央区雄踏町宇布見)で、鍛冶屋・坂下仙蔵の長男として生まれる。1896年、静岡県師範学校講習所を卒業。雄踏尋常小学校、入野尋常小学校で訓導として教鞭をとった。その後政界に入り、雄踏町会議員、静岡県会議員を務めた。1932年2月から1944年5月まで雄踏町長に在任。 1936年2月、第19回衆議院議員総選挙において立憲民政党所属で静岡県第三区から出馬して当選し、その後第21回総選挙まで連続三回の当選を果たした。
田中 昌太郎(たなか しょうたろう、1872年11月20日(… 田中 昌太郎(たなか しょうたろう、1872年11月20日(明治5年10月20日) - 1964年2月25日)は、日本の法曹(検察官、弁護士)。立命館大学元学長。立命館中学校父兄会会長。京都府船井郡園部村(のち園部町、現・南丹市)生まれ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐藤 亀八郎(さとう かめはちろう、1871年11月20日(… 佐藤 亀八郎(さとう かめはちろう、1871年11月20日(明治4年10月8日) - 1936年(昭和11年)7月15日)は、日本の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員、宮城県農工銀行頭取、宮城県販売購買組合理事長。 仙台県名取郡柳生村(宮城県名取郡中田村を経て現仙台市太白区柳生)で、素封家・佐藤惣十郎の長男として生まれる。1889年(明治22年)宮城農学校、1896年(明治29年)和仏法律学校(現法政大学)を卒業。1903年(明治36年)に家督を相続し、同年、宮城県会議員(-1927年(昭和2年))に当選する。その他、中田村会議員、宮城県農会長、同県産米改良協会会頭、帝国農会議員、仙台商業会議所常議員などを務めた。
中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3… 中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3年10月27日)- 1939年(昭和14年)9月24日)は、明治・大正・昭和初期にかけて活躍した日本の教会監督、大衆伝道者、巡回伝道者、福音使(牧師)、神学校(柏木聖書学院)教師・院長(校長)、宗教家、説教家、翻訳家、賛美歌作家、実業家、ジャーナリスト、神学者、日ユ同祖論者である。 明治時代のメソジスト派の牧師中田久吉は実兄、日本を代表する教会音楽家の中田羽後は次男、日本アライアンス教団の大江寛人、日本基督教団の議長辻宣道、同じく日本基督教団の牧師有馬式夫は孫である。 日本ホーリネス教会の創始者の一人で初代監督であり、日本ホーリネス教会を既存の五大教派(長老派、メソジスト派、会衆派、バプテスト派、ルーテル派)に並ぶ巨大組織に発展させた功労者。
秋鹿 見橘(あいか けんきつ、1869年11月20日(明治2… 秋鹿 見橘(あいか けんきつ、1869年11月20日(明治2年10月17日) - 1954年(昭和29年)12月8日)は、明治から昭和時代前期の教育者。師範学校校長を歴任した後、沼津精華学園を創設。「我が国教育の急務は女子教育にあり」として、女子教育に尽力した。 1869年、徳川家とともに静岡に移った幕臣・秋鹿見山の長男として、沼津城下の棟割長屋に生まれる。沼津兵学校ゆかりの集成舎(沼津小学校)に学び、江原素六が設立し米山梅吉が学んだ私立沼津中学校を経、県立静岡師範学校に進み、1887年年3月29日、静岡県尋常中学校卒業。 上京して1888年4月、高等師範学校文学科に入学、1891年卒業。新潟県師範学校、及び各地の師範学校に勤務。
岩崎卓爾(いわさき たくじ、明治2年10月17日(1869年… 岩崎卓爾(いわさき たくじ、明治2年10月17日(1869年11月20日) - 昭和12年(1937年)5月18日)は日本の気象観測技術者。石垣島において気象観測を通じ台風の研究を行った一方、沖縄県八重山地方の生物や民俗、歴史に関する研究も行い、著書などを通じて、それまであまり世に知られていなかった同地を広く世に知らしめた。南方熊楠同様、当時としては珍しい地方に根を下ろした多面的文化人といえる。 号は糸数原主人、袋風荘(たいふうそう)主人、蝶仙、蝶翁。 明治2年10月17日(1869年11月20日)、仙台藩士の子として宮城県仙台市に生まれる。第二高等中学校(現 東北大学)へ入学するも在学中に気象技師を志し中退。
近藤 会次郎(こんどう かいじろう、1866年11月20日(… 近藤 会次郎(こんどう かいじろう、1866年11月20日(慶応2年10月14日) - 1920年(大正9年)7月5日)は日本の技術者、経営者。浅野石油技師長。次男はピアニストの近藤柏次郎。 浅野財閥の石油事業に携わり、米国の石油技術を日本に導入した人物である。 1866年11月20日(慶応2年10月14日)に岐阜県安八郡仁木村藻池新田(現:輪之内町藻池新田)で古くからの農家の家に生まれた。1880年(明治13年)4月8日に岐阜県で最高学府だった華陽農学校に入学し、1883年(明治16年)7月13日に卒業すると、そこで助教諭として務めたが、半年後に辞職した。上京して共立英学校で数ヶ月学んでから、予備門(旧制第一高等学校)の入学試験に合格し入学し、1889年(明治22年)7月に卒業した。
中松 盛雄(なかまつ もりお、1865年11月20日〈慶応元… 中松 盛雄(なかまつ もりお、1865年11月20日〈慶応元年10月3日〉 - 1952年〈昭和27年〉7月21日)は、日本の官僚、弁護士、弁理士。第9代特許局長。日本基督教会理事長。化学工業協会会長。族籍は和歌山県士族。 中松克正の二男。1891年(明治24年)帝国大学法科大学英法科(現東京大学法学部)を卒業。農商務省に入る。1907年(明治40年)12月25日から1913年(大正2年)6月13日まで第9代特許局長を務めた。退官後、1914年(大正3年)に弁護士・弁理士登録し、同年7月1日に現在の中村合同特許法律事務所の前身にあたる中松特許法律事務所を開設した。日本共立火災保険取締役を兼ねる。
三並 良(みなみ はじめ、1865年11月20日(慶応元年1… 三並 良(みなみ はじめ、1865年11月20日(慶応元年10月3日) - 1940年(昭和15年)10月27日)は、日本のドイツ哲学者、牧師である。 1865年(慶応元年)、伊予国松山(現・愛媛県松山市)で漢学者・歌原邁の子として生まれた。長じて母方の三並家を継いだ。同郷の正岡子規の母の従弟であり、実家も近所であり、松山中学時代の子規が「五友」の一人に数えるなど共に育った。1880年、松山中学に入学。しかし半年で退学し、県立医学校に入学。1882年夏に東京に出て、9月に本郷原要義塾に入学してドイツ語を学んだ。1983年に獨逸学協会学校に入学。ドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーに感化され、影響を受けた。
井出 繁三郎(いで しげさぶろう、1864年11月20日(元… 井出 繁三郎(いで しげさぶろう、1864年11月20日(元治元年10月21日)- 1932年(昭和7年)12月12日)は、日本の鉄道官僚、政治家。衆議院議員。 出羽国由利郡、後の本荘町(現由利本荘市)で井出章造の長男として生まれる。1891年、帝国大学法科大学法律学科を卒業。 司法省に入省し、司法官試補、東京地方裁判所検事を歴任。1896年、逓信省に転じ、鉄道事務官、逓信省書記官・通信局鉄道船舶課長、鉄道院参事、同理事、同北海道鉄道管理局長を務め、1915年に退官。1919年、鉄道院神戸鉄道管理局長として復帰し、東京鉄道管理局長に異動。1920年、鉄道省が発足すると監督局長に就任し1923年まで在任した。
黒岩 涙香(くろいわ るいこう、文久2年9月29日〈1862… 黒岩 涙香(くろいわ るいこう、文久2年9月29日〈1862年11月20日〉- 大正9年〈1920年〉10月6日)は、日本の小説家、思想家、作家、翻訳家、ジャーナリスト。本名は黒岩 周六(くろいわ しゅうろく)。兄は黒岩四方之進。ペンネームの由来は、黒岩が愛読していた『紅涙香』に由来する。黒岩涙香のほか、香骨居士、涙香小史、冷眼士等、歯月生などの筆名を用いた。号は古概、民鉄、正調庵、黒岩大。執拗な取材を行うことから「マムシの周六」というあだ名がつけられた。翻訳家、作家、記者として活動し、『萬朝報』を創刊した。戒名は黒岩院周六涙香忠天居士。 土佐国安芸郡川北村大字前島(現在の高知県安芸市川北)で土佐藩郷士・黒岩市郎の子として生まれる。
佐藤 源蔵(さとう げんぞう、1857年11月20日(安政4… 佐藤 源蔵(さとう げんぞう、1857年11月20日(安政4年10月4日)- 1937年(昭和12年)1月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 陸奥国津軽郡畑中村(現在の南津軽郡田舎館村)に生まれる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を持つ大地主 佐藤治郎左衛門の長男。 その後、1889年(明治22年)の 町村制施行とともに田舎館村収入役に就任し、2期務める。1905年(明治38年)佐藤、田沢周助(田沢吉郎の父)、宮舘貞吉の提唱により信用組合を創立し、組合長に就任。衆議院議員の加藤宇兵衛や宇野清左衛門と共に、黒石銀行取締役や津軽銀行取締役などを歴任し、県内での銀行の普及に努めた。
豊田 芙雄(とよだ ふゆ、弘化2年10月21日(1845年1… 豊田 芙雄(とよだ ふゆ、弘化2年10月21日(1845年11月20日) - 昭和16年(1941年)12月1日)は、女子教育家・幼児教育家。水戸大成女学校(現大成女子高等学校)校長などを歴任。女子高等教育の先駆者、日本の幼稚園教育の開拓者などともいわれ、日本の女子教育界発展に大きく貢献したほか、日本の保母第1号とされる。藤田東湖の姪であり、豊田香窓の妻でもある。幼名は冬、冬子。のち芙雄と改めたが、後年は芙雄子と署名することが多かった。 水戸藩郡奉行・桑原信毅(桑原治兵衛)の次女として、常陸国水戸城下藤坂町(現・茨城県水戸市五軒町)に出生。母は藤田東湖の妹の雪子。幼少時から学問を好み、薙刀術穴沢流の伝授も受けた。