玉置 孝(たまき たかし、1927年10月24日 - 200… 玉置 孝(たまき たかし、1927年10月24日 - 2000年10月19日)は、日本の銀行家。 東京都出身。1952年に東京大学法学部を卒業し、同年に日本銀行に入行し、1984年3月には理事に就任。 1986年12月に千葉銀行顧問に就任し、1987年6月には頭取に就任。1997年6月に会長に就任。 1994年から1997年までに全国地方銀行協会会長を務めた。 2000年10月19日肺癌のために死去。72歳没。
朴 泰俊(パク・テジュン、1927年10月24日〈陰暦9月2… 朴 泰俊(パク・テジュン、1927年10月24日〈陰暦9月29日〉 - 2011年12月13日)は、大韓民国の政治家・実業家。浦項総合製鉄(現・ポスコ)の設立者や、第32代国務総理として知られる。号は青岩(チョンアム、청암)。愛称はTJ。 慶尚南道東萊郡(現在の機張郡)に生まれる。本貫は密陽朴氏。6歳の時に日本に渡り、以降日本で育つこととなる。1945年、早稲田大学予科入学。日本の敗戦に伴って朝鮮に戻る。1948年に朝鮮警備士官学校(6期)入学。このとき、第1中隊長だった朴正煕大尉と出会う。朴泰俊は当時、難問として知られていた弾道学の問題をすらすら解き、朴大尉に深い印象を残したという。同年卒業後少尉に任官した。
桝居 孝(ますい たかし、1926年10月24日 - )は、… 桝居 孝(ますい たかし、1926年10月24日 - )は、児童文化史研究家。東京に生まれ、神奈川県鎌倉市、藤沢市で育つ。第一高等学校卒、東京帝国大学法学部法律学科卒業。公務員として自治省、神奈川県、鹿児島県、大阪府に30年勤務。日本赤十字社職員として大阪府支部、日赤本社に十余年勤務。大阪府教育長在職中に大阪府立国際児童文学館の設立に関与。2011年『日本最初の少年少女雑誌『ちゑのあけぼの』の探索 「鹿鳴館時代」の大阪、京都、神戸』で日本児童文学学会特別賞受賞。
岩谷 俊夫(いわたに としお、1925年10月24日 - 1… 岩谷 俊夫(いわたに としお、1925年10月24日 - 1970年3月1日)は兵庫県神戸市灘区出身の新聞記者、サッカー選手、サッカー指導者。 御影師範学校附属小学校でサッカーを始める。 1938年に兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)へ進学、ア式蹴球部のエースとして1941年に明治神宮競技大会で優勝、翌1942年には主将として橿原神宮大会優勝と明治神宮競技大会連覇に貢献した。1943年に早稲田大学に進学しア式蹴球部へ入部。 1945年7月に兵役に就いたが、病気のために同年8月に除隊となった。戦後は早稲田大学に復学し、1946年と1947年に関東大学サッカーリーグ戦と東西大学1位対抗において2年連続二冠に貢献した。
三木 亘(みき わたる、1925年10月24日 - 2016… 三木 亘(みき わたる、1925年10月24日 - 2016年9月4日)は、日本の歴史学者、中東学者。慶應義塾大学名誉教授。専門は中東歴史生態学、民族生薬学、世界史学など。 兵庫県生まれ。東京大学文学部西洋史学科を卒業後、都立高校教員となり東京都立深川高等学校、東京都立大学附属高等学校などで歴史学を教える。その後、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授となった後に、慶應義塾大学文学部教授に就任する。91年定年、名誉教授、静岡精華短期大学教授。
山田 里津(やまだ りつ、1925年10月24日 - )は、… 山田 里津(やまだ りつ、1925年10月24日 - )は、日本の看護師、看護学者。 三重県出身。日赤甲種看護婦養成所(日本赤十字看護大学の前身)卒。二葉看護学院院長、三井記念病院高等看護学院長。日本看護学校協議会名誉会長。フローレンス・ナイチンゲール記章受章。
宍戸 駿太郎(ししど しゅんたろう、1924年〈大正13年〉… 宍戸 駿太郎(ししど しゅんたろう、1924年〈大正13年〉10月24日 - 2016年〈平成28年〉11月28日)は、日本の経済官僚。経済企画庁審議官退官後、保守派の評論家、経済学者、国際大学学長、筑波大学名誉教授などとして活動した。 短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。1944年9月、海軍経理学校に入学し1945年(昭和20年)に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官して終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 通商産業省に入省した後、1963年に経済企画庁総合計画局の計量分析担当官を経て、経済企画庁審議官となり、筑波大学副学長、国際大学学長を務めた。日本経済に関して、一貫して創造的な分析・提言を行い、2006年(平成18)年には国際レオンチェフ賞を受賞した。
江村 利雄(えむら としお、1924年(大正13年)10月2… 江村 利雄(えむら としお、1924年(大正13年)10月24日 - 2019年(令和元年)10月24日)は、日本の政治家。位階は正五位。 大阪府高槻市長を務めた。学校法人常翔学園評議員会議長。 高槻市出身。摂南工科専門学院(のち大阪工業大学専門学院、1979年廃止)土木科卒業後、大阪府庁に入庁。水道部参事兼上水課長、水道部技術長、水道技術管理者などを経て定年退職。大阪府庁を退職後、高槻市助役に就任。 1984年(昭和59年)、高槻市長選挙に立候補し初当選。1988年(昭和63年)、高槻市長選挙で2度目の当選。1992年(平成4年)、高槻市長選挙で3度目の当選。1996年(平成8年)、高槻市長選挙で4度目の当選。
中尾 武(なかお たけし、1924年10月24日 - 200… 中尾 武(なかお たけし、1924年10月24日 - 2001年12月17日)は、日本の経営者。富士電機社長、会長を務めた。 福岡県北九州市出身。1948年に神戸経済大学を卒業し、同年に富士電機製造(のちの富士電機)に入社。1974年11月に取締役に就任し、1977年6月に常務、1981年6月に専務を経て、1986年6月に副社長に就任し、1987年2月に社長に昇格。1992年6月に会長に就任し、1995年6月には相談役に就任。 1988年11月に藍綬褒章を受章。 2001年12月17日急性循環不全のために死去。77歳没。
末長 一志(すえなが いつし、1924年10月24日 - 2… 末長 一志(すえなが いつし、1924年10月24日 - 2015年1月16日)は、日本の経営者。三井造船社長を務めた。兵庫県出身。 1946年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、同年に三井造船に入社。1976年6月に取締役に就任し、1979年6月に常務、1982年6月に専務、1985年6月に副社長を経て、1986年6月に社長に就任。1988年6月に取締役相談役に就任し、1989年6月に相談役を経て、1998年10月に特別顧問に就任。 2015年1月16日、急性腎不全のために死去。90歳没。
山本 俊一(やまもと しゅんいち、1922年10月24日 -… 山本 俊一(やまもと しゅんいち、1922年10月24日 - 2008年12月13日)は、日本の医師、衛生学者。 福井県敦賀市生まれ。1946年東京帝国大学医学部卒。47年医師国家試験合格、東大衛生学教室助手。60年医学博士、東京大学医学部助教授。1965年教授。83年定年退職、名誉教授、東京都老人総合研究所副所長。1987年聖路加看護大学教授、92年副学長。96年退職。1986年東京都文化賞受賞。公衆衛生の研究に尽力し、はじめてのハンセン病の歴史を執筆、ハンセン病訴訟では熊本地裁に原告側意見書を提出した。
小関 博(こせき ひろし、1919年〈大正8年〉10月24日… 小関 博(こせき ひろし、1919年〈大正8年〉10月24日 - 2013年〈平成25年〉6月15日)は、日本の実業家。群馬銀行代表取締役頭取。 東京都豊島区巣鴨に生まれる。旧制府立五中を経て、1942年(昭和17年)旧制東京商科大学(一橋大学の前身)卒業。同年高等試験行政科に合格し、日本銀行入行。 短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業し、館山海軍航空隊付となる。同年5月、海軍省経理局第三課に転じ国防献金受付に従事。1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進み、同年6月、第四南遣艦隊付に転じ第1次糧食生産隊長(アンボン)に着任。
島尾 ミホ(しまお ミホ、1919年(大正8年)10月24日… 島尾 ミホ(しまお ミホ、1919年(大正8年)10月24日 - 2007年3月25日)は、日本の小説家。 奄美群島に属する加計呂麻島出身。太平洋戦争中、加計呂麻島に駐屯していた第十八震洋特攻隊隊長の島尾敏雄と出会い、戦後に結婚した。敏雄の代表作『死の棘』に登場する「妻」のモデルとなった。自身の小説では、『海辺の生と死』で第15回田村俊子賞(1975年度)を受賞したほか、『祭り裏』、短編「その夜」など、故郷に題材を取った作品が多い。島尾敏雄との間には2子がおり、長男は写真家の島尾伸三で、その娘(ミホの孫)は漫画家のしまおまほである。 ミホは1919年(大正8年)10月24日に、長田實之(おさだ さねゆき)・マス夫妻の長女として、警察官だった父の任地、鹿児島県鹿児島市で生まれた。
正力 亨(しょうりき とおる、1918年(大正7年)10月2… 正力 亨(しょうりき とおる、1918年(大正7年)10月24日 - 2011年(平成23年)8月15日)は、日本の実業家。読売新聞グループ本社社主、読売ジャイアンツオーナーなどを務めた。実父の正力松太郎の別称である大正力(だいしょうりき)に対比して、小正力と呼ばれる。 正力松太郎の長男として、東京府で生まれる。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1942年に慶應義塾大学経済学部卒業。普通部では野球部で投手兼4番を務め、大学では、1年間選手を経験した後、マネージャーに転向している。 1944年10月、海軍主計大尉だった亨が乗り込んだ旗艦「南海」は、インドネシア・ボルネオ島沖のマカッサル海峡で敵潜水艦の魚雷により撃沈され、亨は重油の海を10時間漂う体験をもつことになった。
遠山 あき(とおやま あき、1917年10月24日 - 20… 遠山 あき(とおやま あき、1917年10月24日 - 2015年10月28日)は、日本の元作家。 千葉県大多喜町生まれ。千葉県女子師範学校(千葉大学の前身のひとつ)卒。小学校教員を務めるが、戦後は農業に専念した。1967年に農民文学会入会、1975年に『槇の会』を立ち上げて同人誌『槇』を発行。1978年「雪あかり」で千葉文学賞、1980年『鷺谷』で農民文学賞を受賞。1994年藍綬褒章受勲。 2015年10月28日午前4時40分、肺炎のため市原市の高齢者施設で死去。98歳没。2016年市原市特別市民栄誉賞を受賞。
伊原 昭(いはら あき、1917年10月24日 - 2018… 伊原 昭(いはら あき、1917年10月24日 - 2018年5月20日)は、日本の国文学者、梅光女学院大学名誉教授。本名・昭子。 鎌倉市生まれ。東京女子大学卒業、日本大学文学研究科修了。1970年「平安朝文学の色相」で日大文学博士。国立国会図書館主査、和洋女子大学助教授、同教授、1977年梅光女学院大学教授、1988年定年退任、名誉教授。 1975年『日本文学色彩用語集成 中世』で風俗史学会第一回「野口眞造記念染色研究奨励金」受賞、1977年『日本文学色彩用語集成 中古』で風俗史学会第六回「江馬賞」受賞。2007年エイボン女性年度賞受賞。古典文学における色彩について研究してきた。 2018年5月20日、老衰のため死去。
大塚 正士(おおつか まさひと、1916年 <大正5年> 1… 大塚 正士(おおつか まさひと、1916年 <大正5年> 10月24日 - 2000年 <平成12年> 4月17日)は、日本の実業家、大塚グループ元総帥。位階は従四位。 徳島県鳴門市出身。中学校を出た後、父親が興した当時は個人商店形態の大塚製薬工業部に勤め、1947年に代表者となる。その後、大塚製薬工業部は大塚製薬工場として法人化し、社長、会長に就任する。医薬品の原料だけでなく医薬品そのものの製造や食品事業にも進出し、17人の零細企業をグループ従業員1万5900人、売上高6500億円(1991年当時)に育て上げた。 1970年、アース製薬を買収した。1973年にアース製薬から発売された「ごきぶりホイホイ」の名付け親である。
大原 栄(おおはら さかえ、1916年10月24日 - 20… 大原 栄(おおはら さかえ、1916年10月24日 - 2016年4月26日)は、日本の経営者。ダイハツ工業社長を務めた。愛知県出身。 1938年に名古屋高等工業学校電気学科を卒業し、同年に東京電灯に入社。 1943年9月に東海飛行機を経て、1945年9月にトヨタ自動車工業に転じる。1968年7月に取締役に就任し、1969年12月にダイハツ工業専務に就任し、1973年12月に副社長を就任。1975年9月に社長に昇格し、1982年9月から1986年9月までに会長を務めた。 1980年5月に藍綬褒章を受章し、1986年11月に勲二等瑞宝章を受章。
上田 定(かみた さだむ、1916年(大正5年)10月24日… 上田 定(かみた さだむ、1916年(大正5年)10月24日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍兵曹長。 広島県出身。上田は5人兄弟姉妹の長男であった。中学を卒業後、呉海兵団に入団し、水雷学校普通科、舞鶴防備隊潜水学校、水雷学校高等科を修卒業。術科学校の高等科を卒業した下士官は、日本海軍の実務を担う人材であったが、上田の高等科卒業時の成績は抜群であった。 1941年(昭和16年)9月、上田は帰省を許された。上田は発熱した状態で帰省したが、故郷は豪雨に見舞われ川が氾濫した状態であった。
孝橋 正一(こうはし しょういち、1912年10月24日 -… 孝橋 正一(こうはし しょういち、1912年10月24日 - 1999年)は、日本の社会福祉学者。 兵庫県出身。1935年京都帝国大学経済学部卒。1938年治安維持法違反で逮捕される。戦後、大阪社会事業短期大学助教授、教授、1965年「救貧史の研究 特に救貧政策の歴史的実証的研究」で東洋大学より文学博士の学位を取得。1968年龍谷大学教授、1973年東洋大学教授。1979年佛教大学教授。83年定年退任。社会事業を社会科学的方法論に基づいて研究した。社会主義、仏教にも関心があった。
森田 素夫(もりた もとお、1911年〈明治44年〉10月2… 森田 素夫(もりた もとお、1911年〈明治44年〉10月24日 - 1961年〈昭和36年〉11月17日)は、日本の小説家。1942年、「冬の神」で芥川賞にノミネートされた。 1911年、群馬県北群馬郡伊香保町の旅館・古久屋に生まれる。前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学び1930年準卒業。第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学文学部英文科を卒業。在学中に『早稲田文科』を創刊、『象徴時代』『泉』『文芸主潮』『早稲田文学』などの雑誌にも関与した。神近市子などから高い評価を受けた。1942年より応召。同年、「冬の神」で芥川賞にノミネートされる。 戦後は一時期東西出版社で『旬刊ニュース』の編集に携わる。
千種 義人(ちぐさ よしんど、1911年10月24日 - 2… 千種 義人(ちぐさ よしんど、1911年10月24日 - 2000年9月3日)は、日本の理論経済学者、慶應義塾大学名誉教授、関東学園大学名誉教授。広島修道大学学長。紫綬褒章受章。 1911年、兵庫県で生まれた。慶應義塾大学経済学部に入学し、金原賢之助のゼミナールに所属した。1937年に同大学を卒業し、ドイツ留学。 1937年、慶應義塾大学経済学部助手に採用された。1943年に助教授昇格。1944年からは警察大学校講師も兼任。 戦後も変わらず経済原論を担当した。1949年に教授に昇任。1960年、学位論文『資本主義計画経済の研究』を慶應義塾大学に提出して経済学博士を取得。1959年より1年間、ケンブリッジ大学およびハーバード大学に派遣研究留学。
小畑 千秋(おばた ちあき、1911年10月24日 - 19… 小畑 千秋(おばた ちあき、1911年10月24日 - 1995年9月16日)は、日本の経営者。日本ペイント社長を務めた。兵庫県出身。位階は正五位。 1935年に神戸商業大学を卒業し、日本生命保険での勤務を経て、1937年12月に日本ペイントに入社。1944年2月に取締役に就任し、1946年2月に常務、1952年12月に専務を経て、1965年6月には社長に就任。1975年7月には会長に就任。 1973年4月に藍綬褒章を受章し、1981年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1995年9月16日心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
阿部 秋生(あべ あきお、1910年 <明治43年> 10月… 阿部 秋生(あべ あきお、1910年 <明治43年> 10月24日 - 1999年 <平成11年> 5月24日)は、日本の国文学者。中古文学専攻。文学博士(論文博士・1959年)(学位論文『源氏物語研究序説』)。東京大学名誉教授。1983年勲二等瑞宝章受章。位階は正四位。妻は国文学者の阿部俊子。 秋田県秋田市生まれ。旧姓青柳。樺太で育つ。第一高等学校、東京帝国大学国文科卒、同大学院を1937年に退学、国民精神文化研究所助手を務める。 1943年、一高教授、1950年、東京大学教養学部助教授、1959年、東京大学教養学部教授。『源氏物語研究序説』で同年、文学博士の学位を取得。1966年、東京大学教養学部長。
長戸 寛美(ながと ひろみ、1910年〈明治43年〉10月2… 長戸 寛美(ながと ひろみ、1910年〈明治43年〉10月24日 - 2002年〈平成14年〉4月2日)は日本の法曹。元最高検察庁次長検事。のち弁護士。東京都出身。 父は寺の住職。漢学者の母方の家を継いだ。祖父が検事であった。1923年(大正12年)、静岡市立城内尋常高等小学校卒業。静岡県立静岡中学校入学。静岡中学時代の親しい友人に三宅静雄。1927年(昭和2年)、中学4年1学期を終了し、広島の中学に転校した。旧制広島高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。1935年(昭和10年)12月、検事任官。 東京地方検察庁検事、法務省刑事・総務課長などを経て、甲府地方検察庁・長野地方検察庁検事正、法務総合研究所長となり、高松高等検察庁・広島高等検察庁検事長を歴任、最高検察庁次長検事を最後に1973年(昭和48年)10月定年退官した。
古内 広雄(古内 廣雄、ふるうち ひろお、1907年10月2… 古内 広雄(古内 廣雄、ふるうち ひろお、1907年10月24日 - 1972年11月5日)は、日本の外交官、政治家。衆議院議員(2期)。位階は正三位。勲等は勲二等。 宮城県岩沼市生まれ。伊達忠宗の家老職を務めた古内家の末裔である。第二高等学校文科乙類から東京帝国大学法学部に進み、大学在学中に高等試験外交科合格。外務省に入省してからはドイツに赴任して経験を積み1941年に本省に戻る。終戦直後は進駐軍との終戦連絡の折衝にあたるも、いわゆる「Y項パージ」で一時期省外へ出され公正取引委員会事務局総務部長、公正取引委員会事務局長などを務めた。 1953年に外務省に戻るとレバノン、オーストリア、パキスタン、インドネシアの各国大使を歴任し、池田勇人首相の奨めもあって1964年に退官して自由民主党公認で1965年の参院選に宮城県選挙区から立候補するが、地元組織の分裂から次点に終わる。
上田 進(うえだ すすむ、1907年10月24日 - 194… 上田 進(うえだ すすむ、1907年10月24日 - 1947年2月24日)は、ロシア・ソビエト文学者。東京出身。本名は尾崎義一。尾崎宏次の兄。早稲田大学在学中に日本プロレタリア作家同盟に入る。
土居 真俊(どい まさとし、1907年10月24日 - 19… 土居 真俊(どい まさとし、1907年10月24日 - 1988年12月7日)は、日本の神学者、宗教学者。同志社大学名誉教授。 愛媛県西宇和郡双岩村(現・八幡浜市)生まれ。同志社大学文学部神学科卒、シカゴ神学校(英語版)、ハートフォード神学校(英語版)でPh.D.。1956年同志社大神学部教授。1973年紫綬褒章受章。1978年定年退任、名誉教授。1979年勲三等瑞宝章受章。
真下 信一(ました しんいち、1906年10月24日 - 1… 真下 信一(ました しんいち、1906年10月24日 - 1985年2月9日)は、日本の哲学者。名古屋大学名誉教授。 京都府福知山市生まれ。京都府立一中、第三高等学校から京都帝国大学文学部哲学科に学ぶ。中学の同期には湯川秀樹がいた。三高時代には武田麟太郎と親交を結んだ。大学の同窓には戸坂潤がいた。大学院に進学、1933年の滝川事件のときには院生代表として活動する。院修了後は同志社大学勤務、のち教授。1935年中井正一らと雑誌『世界文化』を創刊、反ファシズムの立場で活動したが、1937年11月、新村猛らとともに治安維持法違反の容疑で検挙された。 戦後は、民主主義科学者協会に所属しながら唯物論哲学の立場で発言、名古屋大学助教授、教授。
藤井 駿(ふじい しゅん、1906年10月24日 - 198… 藤井 駿(ふじい しゅん、1906年10月24日 - 1989年7月19日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。 岡山県の吉備津神社の神職の家に生まれる。岡山県立第一岡山中学校から第六高等学校文科に進学。1927年に同校を卒業し、京都帝国大学文学部史学科に入学。同期入学に山根徳太郎、池内義資らがいた。卒業論文「文藝復興期に於ける日本道への歸着」をまとめ、1930年に卒業。 大学卒業後は、六高における恩師でもある松本彦次郎の推薦により、その後任として第六高等学校講師となり、同年10月に同校教授。1950年に岡山大学法文学部教授。1972年に退官し、名誉教授となり、1978年まで山陽学園短期大学教授を務めた。
鹿野 忠雄(かの ただお、1906年(明治39年)10月24… 鹿野 忠雄(かの ただお、1906年(明治39年)10月24日 - 1945年(昭和20年)7月15日? 消息不明)は、東京生まれの博物学者。 理学博士で昆虫学者、探検家。 業績は多岐にわたり、生物地理学者、文化人類学者、民俗学者、または近年ではナチュラリストなどとしても知られる。 台湾を中心に東南アジアでさまざまな研究調査活動を行い、第二次世界大戦終戦直前の1945年夏、ボルネオ島北部で行方不明になり消息を絶った。当時38歳。 主な著書に『山と雲と蕃人と』などがある。 1906年(明治39年)10月24日 - 東京市淀橋区柏木(現東京都新宿区)に生まれる。 1919年(大正8年) - 12~13歳頃、月刊雑誌『昆虫世界』に初めての論文が掲載される。
青田 勝(あおた かつ、1902年10月24日 - 1986… 青田 勝(あおた かつ、1902年10月24日 - 1986年2月9日)は、日本の翻訳家。日本推理作家協会会員。 東京市下谷区三輪町に生まれる。1927年(昭和2年)東京帝国大学文学部英文科卒業。 1932年(昭和7年)東京府立第五中学校教師、1935年(昭和10年)東京府立第十中学校教師、1950年(昭和25年)から1969年(昭和44年)までユニバーサル映画の字幕翻訳家をへて、エラリー・クイーン、パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』など推理小説を翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
木村 四郎七(きむら しろしち 1902年10月24日 - … 木村 四郎七(きむら しろしち 1902年10月24日 - 1996年8月28日)は、日本の外交官。位階は正三位。 奈良県下市町長木村熊治郎の5男として誕生。1927年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1930年高等試験外交科合格、外務省入省。1941年5月から6月まで在香港領事館領事。1948年2月、連絡調整中央事務局第一部長に就任。1949年1月、連絡調整中央事務局次長に就任。1949年6月、外務省連絡局長、中央連絡協議会副会長に就任。 1951年11月、国交未樹立の台湾(中華民国)にて在台北日本政府在外事務所が開設され、同所長として派遣された。1952年、台湾政府との和平交渉に参加。同年から1953年まで、在中華民国(台湾)大使館参事官を務めた。
松前 重義(まつまえ しげよし、1901年(明治34年)10… 松前 重義(まつまえ しげよし、1901年(明治34年)10月24日 - 1991年(平成3年)8月25日)は、日本の逓信官僚、政治家、工学者、教育者。学位は工学博士(東北帝国大学・1937年)。熊本県出身。東海大学創立者。内村鑑三を師とするクリスチャン。 戦前は逓信官僚として新体制運動に加わり大政翼賛会総務部長、戦後は逓信院総裁(逓信大臣・郵政大臣相当)、社会党右派の衆議院議員を務め、ソ連との友好親善に尽力した。静岡市名誉市民。 熊本県上益城郡嘉島町生まれ。合併前の大島村で村長を務めた松前集義が父である。祖父松前熊太郎、曾祖父松前叶は熊本藩士。小学5年生のとき熊本市に移った際、故郷の農村と違って夕方になると町中に一斉に電灯がともるのを見て美しさに驚き、これがのちに電気を専攻するきっかけとなった。
近藤 文二(こんどう ぶんじ、1901年10月24日 - 1… 近藤 文二(こんどう ぶんじ、1901年10月24日 - 1976年11月25日)は、日本の経済学者。大阪市立大学名誉教授。保険学、社会保障論を研究。 戦前から保険の歴史や民間保険を研究。1942年の共著『労働者年金保険法論』では「戦費調達説」を提起し、同書刊行または1948年の『社会保険』刊行の頃から社会保険の研究に関心を移した。社会保険を重視する社会保障論を展開し、社会保険の社会事業化・公的扶助化を批判した。1963年の『社会保険』は「社会保険に関する理論・歴史・政策が三位一体となったこの分野の名著」「近藤自身のこれまでの研究の総仕上げ」だと評価されている。第6回日経・経済図書文化賞を受賞した。
浅野 竹二(あさの たけじ、1900年(明治33年)10月2… 浅野 竹二(あさの たけじ、1900年(明治33年)10月24日-1998年(平成10年)2月10日)は、京都の日本画家、版画家。 土田麦僊の門人。1900年(明治33年)、父、浅野眞三郎、母、もとの子として京都市に生まれた。大正4年(1915年)から作画を始めており、1919年(大正8年)に京都市美術工芸学校絵画科(日本画)を卒業、1921年(大正10年)、京都市立絵画専門学校本科1年に入学して日本画を専攻したが、本科2年の頃から油絵を独学している。1923年(大正12年)に絵画専門学校を卒業し、1926年(昭和元年)頃、再び日本画に復帰、翌1927年(昭和2年)に麦僊の画塾「山南塾」に入り、第6回国画創作協会展に「風景」を出品、翌1928年(昭和3年)、第7回国画創作協会展に「白帆遥暎」を出品、ともに入選するなど日本画家として活躍した。
小原 重孝(おばら しげたか、1899年10月24日 - 1… 小原 重孝(おばら しげたか、1899年10月24日 - 1971年7月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。小原 重厚と表記する文献も有る。 東京府出身(北海道札幌市出身とする資料も有り)。司法官・小原文太郎の長男として生まれる。札幌一中卒を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第25連隊付となる。陸士予科生徒隊付などを経て、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、歩兵第25連隊中隊長となる。 1930年(昭和5年)12月、参謀本部付勤務(ロシア班)となる。同年、ロシア班長の橋本欣五郎が結成した桜会に参加。
岡村 文子(おかむら ふみこ、1898年10月24日 - 1… 岡村 文子(おかむら ふみこ、1898年10月24日 - 1976年8月15日)は長野県出身の女優。 長野市立鍋屋田尋常高等小学校(現在の長野市立鍋屋田小学校)、長野県立長野高等女学校(現在の長野県長野西高等学校)卒業後上京。芸術愛好家の伯爵家に行儀見習いに行ったのが縁で女優の道を歩み始めた。 1917年に浅草オペラに入り、『天国と地獄』で初舞台を踏む。その後原信子歌劇団から新星歌舞劇団を経て、1921年松竹蒲田撮影所に入社し、『悪魔の崖』で映画デビューした。再び浅草オペラに戻り、1924年に東亜キネマ甲陽撮影所に入る。 1925年、松竹蒲田撮影所に戻り、『若き女の死』で助演したほか、『裸騒動記』などの喜劇映画で活躍した。
三島 一(みしま はじめ、1897年10月24日 - 197… 三島 一(みしま はじめ、1897年10月24日 - 1973年10月12日)は、東洋史学者。東洋大学教授、二松學舍大学教授、明治大学教授、戦後に専修大学教授。専門は唐代寺院経済史。 1897年、実業家・三島桂のの長男として埼玉県で生まれた。幼少の頃は病弱な体質で、大森の小学校に入学したのは、9歳の時であった。東京府立第四中学校に入学したが、中学も2年遅れで卒業。同級生には羽仁五郎がいた。中学卒業の年は祖父・三島中州が没した年であり、また自身も病の床に就いたため第一高等学校の受験を失敗。第三高等学校に入学して学び、1920年に卒業。 東京帝国大学の東洋史学科に入学、池内宏および加藤繁の指導を受けた。
奥 むめお(おく むめお、1895年10月24日 - 199… 奥 むめお(おく むめお、1895年10月24日 - 1997年7月7日)は、日本の婦人運動家、政治家。参議院議員を計3期務め、1961年(昭和36年)に勲二等宝冠章を受章し、没後に正四位を追賜された。1989年(平成元年)に福井市名誉市民の称号を贈られた。本名は奥 梅尾(読み同じ)。 福井県福井市の鍛冶屋、父・和田甚三郎、母・はまの長女として出生した。年少時から婦人労働問題に強い関心を示し、福井高等女学校(現在の福井県立藤島高等学校)を経て、1916年(大正5年)日本女子大学校卒業後、労働組合期成会の機関紙『労働世界』の記者になり、身分を偽り富士瓦斯紡績に一女工として潜入取材したレポートが反響を呼んだ。
木下 友敬(きのした ゆうけい、1895年10月24日 - … 木下 友敬(きのした ゆうけい、1895年10月24日 - 1968年11月14日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。下関市長(1期)。医学博士。旧姓は平川。 山口県出身。1921年九州帝国大学医学部卒。九州歯科医専教授を経て、1927年下関市で内科を開業する。1956年の第4回参議院議員通常選挙で山口県から日本社会党公認で立候補して当選した。参議院議員を1期務めた後は、1963年下関市長に当選した。1966年秋の叙勲で勲三等旭日中綬章受章。1967年まで市長を務め、1968年11月14日死去、73歳。死没日をもって従四位に叙され、銀杯一組を賜った。 山口県医師会会長、下関山岳会会長、山口県山岳連盟会長も歴任した。
浅井 清(あさい きよし、1895年(明治28年)10月24… 浅井 清(あさい きよし、1895年(明治28年)10月24日 - 1979年(昭和54年)8月14日)は、日本の法学者。専門は行政法。学位は、法学博士。人事院初代総裁、貴族院勅選議員。正三位勲一等瑞宝章、銀杯一組(菊紋)。 兵庫県神戸市生まれ。1919年(大正8年)、慶應義塾大学部法律科を卒業。1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)までヨーロッパに留学、1929年(昭和4年)法学部教授に就任。憲法・行政法を専攻し、ハンス・ケルゼンの影響を受け天皇機関説を主張した。 1946年(昭和21年)7月19日に貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
甘粕 二郎(あまかす じろう、1895年10月24日 - 1… 甘粕 二郎(あまかす じろう、1895年10月24日 - 1987年9月13日)は、日本の経営者、銀行家。山形県出身。甘粕正彦の弟。 1919年に東京帝国大学法学部英法科を卒業。三菱商事、三菱銀行での勤務を経て、1927年に三菱信託銀行に転じ、取締役、常務、副社長を歴任し、1959年6月に社長に就任。1965年5月には会長に就任。 1962年に藍綬褒章を受章し、1975年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年9月13日老衰のために死去。91歳没。墓所は多磨霊園。
矢田部達郎(やたべ たつろう、1893年10月24日-195… 矢田部達郎(やたべ たつろう、1893年10月24日-1958年3月24日)は、心理学者、京都大学名誉教授。
日名子 実三(ひなご じつぞう、1892年10月24日 - … 日名子 実三(ひなご じつぞう、1892年10月24日 - 1945年4月25日)は、日本の彫刻家。大分県臼杵市出身。 八咫烏を意匠とする日本サッカー協会(当時・大日本蹴球協会)のシンボルマークをデザインしたことでも知られる。 5人兄弟の末子として誕生。臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)を卒業後、親の勧めで慶應義塾大学部理財科に進学したものの程なく中退。その翌年1913年(大正2年)、東京美術学校彫刻家塑造部へと入学し首席で卒業。 学生時代から朝倉文夫の弟子として学び、1919年(大正8年)には作品「晩春」が帝国美術院展覧会に入選する等、世間的にも認知されるようになったが、1925年(大正14年)に作品の方向性の違いから独立することを選び、斎藤素巌と共に構造社を結成。
藤井 達二(ふじい たつじ、1891年(明治24年)10月2… 藤井 達二(ふじい たつじ、1891年(明治24年)10月24日 - 1968年(昭和43年)8月9日)は、昭和時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 青森県三戸郡八戸町(現八戸市)に生まれる。1910年(明治43年)県水産試験場付属八戸講習所卒業。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙に青森県第1区から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。 戦後、1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に立候補したが辞退し、1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員通常選挙にも全国区から出馬したが落選した。自由民主党県連合顧問、同副会長を歴任した。ほか、財界では身延木材専務取締役、那須土地取締役、大和木材、青森県農林商事各社長、日本海外興業会長などを務めた。
高橋 直行(たかはし なおゆき、1884年10月24日 - … 高橋 直行(たかはし なおゆき、1884年10月24日 - 1969年2月17日)は、日本の経営者。日本酸素社長を務めた。 東京都出身。1935年に大倉高等商業学校を卒業。1924年に日本酸素支配人に就任し、取締役、常務を経て、1943年から1963年までに社長を務めた。 1955年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 1969年2月17日老衰のために死去。84歳没。
原 孝吉(はら こうきち、1884年(明治17年)10月24… 原 孝吉(はら こうきち、1884年(明治17年)10月24日 - 1968年(昭和43年)9月22日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 福島県安積郡小原田村(小原田村大字小原田を経て現郡山市)で、原五郎八の三男として生まれる。実家が貧しかったため、幾多の困難を乗り越えて畳製造販売業を営んだ。 実業界では、東北木工社長、福島県土木建築職種別組合協議会長、同畳商工業協同組合理事長、郡山商工会議所常議員などを務め、1947年(昭和22年)全国畳商工会長に就任した。 政界では、郡山市会議員(5期)、同第5代議長(1945年6月8日から1947年4月30日まで)、福島県会議員(3期)を務めた。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で福島県第1区から民主党公認で出馬して当選した。
花岡 正庸(はなおか まさつね、1883年〈明治16年〉10… 花岡 正庸(はなおか まさつね、1883年〈明治16年〉10月24日 - 1953年〈昭和28年〉2月15日)は、日本の酒造技術者。秋田清酒の父、秋田の酒造りの父、秋田吟醸酒の父などとされる人物である。 長野県中野市出身。1907年に大阪高等工業学校酒造科を卒業した。卒業後、実家の家業であった酒造に従事したが火災のため実家が廃業した。その後、1913年より丸亀税務監督局に勤務し、仙台税務監督局に転じ、1918年から秋田県醸造技師を兼任した。 酵母の硝酸銀応用や酒の低音長期保存法などの新技術を導入・普及させ、秋田における酒造業を牽引した。 1922年に秋田県酒造組合連合会長の伊藤恭之助や県内の有力者、企業家とともに秋田銘醸を創立し顧問となった。
若尾 謹之助(わかお きんのすけ、1882年〈明治15年〉1… 若尾 謹之助(わかお きんのすけ、1882年〈明治15年〉10月24日 - 1933年〈昭和8年〉1月25日)は、明治末から昭和初期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 山梨県出身。若尾民造の三男として生まれる。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し実業界に入る。 1917年(大正6年)父の死去に伴い三男であったが二人の兄が早逝していたため家督を相続した。若尾銀行頭取、若尾保全社長、常盤生命代表取締役、若尾貯蓄銀行代表取締役、日本電化代表取締役、日本電気炉工業取締役、日本電球取締役、東京電燈取締役、東京瓦斯取締役、日本機械製造監査役、甲府商業会議所常議員、甲府市商業学校商議員などを務めた。