石上 玄一郎(いしがみ げんいちろう、1910年3月27日 … 石上 玄一郎(いしがみ げんいちろう、1910年3月27日 - 2009年10月5日)は日本の小説家。姓は「いそのかみ」と読まれていた時期もあるが、1981年頃から「いしがみ」と訂正した。 郷里東北の風土を背景に、現象学や仏教思想などの影響を受けた独自の実存主義的作風を展開した。 北海道札幌市生まれ。本名、上田重彦。父上田寅次郎は岩手県盛岡市出身。上田家は南部藩士で、代々御蔵奉行などを勤めていたが、維新後没落。寅次郎の母・綱は寅次郎ら幼い子供を連れて、実弟の栃内元吉(当時屯田司令官幕僚)・曽次郎(後に海軍大将)が住む札幌に移り住む。寅次郎は長じて札幌農学校・東京専門学校に学び、岩手県・北海道で中学教師の傍ら、新聞に読み物を書いていた。
森 茂喜(もり しげき、1910年3月27日 - 1989年… 森 茂喜(もり しげき、1910年3月27日 - 1989年11月19日)は、日本の政治家、陸軍軍人(中佐)。父は根上村長を務めた森喜平。長男は第85・86代内閣総理大臣の森喜朗。 石川県能美郡根上村(現能美市)出身。旧制小松中学、早稲田大学専門部法律科で学ぶ。大学時代はラグビー部の中心選手として活躍した。大学卒業後、京都市役所で勤務。その後石川県庁に移る。 日中戦争勃発により陸軍に召集され従軍(特別志願将校)。少尉時代に上海上陸から南京攻略戦、その後徐州作戦、武漢作戦と初期の激戦を一通り経験し、伝記にも載っている。週刊誌に取り上げられたこともある。 満州の牡丹江に駐留していた歩兵第7連隊第9中隊長時代、部下に丁来赫(チョン・ネヒョク)が居た。
小沢 栄太郎(おざわ えいたろう、1909年3月27日 - … 小沢 栄太郎(おざわ えいたろう、1909年3月27日 - 1988年4月23日)は、日本の俳優、演出家。
有馬 英治(ありま えいじ、1908年3月27日 - 197… 有馬 英治(ありま えいじ、1908年3月27日 - 1976年5月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 福岡県出身。慶應義塾大学経済学部卒業後、時事新報経済部記者を経て読売新聞政治部記者となる。 第21回衆議院議員総選挙で当選し護国同志会を経て無所属倶楽部に所属。政府提出の市町村制改正案に対して官僚の権力増強案だとして反対して議会に波乱をおこし、東條英機の怒りを買って指名召集を受け軍隊に強制入隊。のちに復員し、商工大臣秘書官、大蔵省委員、商工省委員。 戦後は推薦議員のため公職追放となり、追放解除後は鳩山一郎の側近として活躍し、鳩山内閣で内閣総理大臣秘書官。第2次池田第1次改造内閣で運輸政務次官、次いで鉄道建設、九州地方開発各審議会委員。
木村 三郎(きむら さぶろう、1907年(明治40年)3月2… 木村 三郎(きむら さぶろう、1907年(明治40年)3月27日 - 1996年(平成8年)6月21日)は、日本の内務官僚、造園家。 官庁技師として造園と都市計画行政の実務に携わる一方で東京大学農学部旧農学科のほか、千葉大学園芸学部、東京農業大学旧農学部造園学科で講師を務めている。国土開発調査会常任幹事、財団法人国土計画協会理事長を歴任。晩年は日本庭園研究に関する著述を多く残す。
河野 壽(こうの ひさし、1907年(明治40年)3月27日… 河野 壽(こうの ひさし、1907年(明治40年)3月27日 - 1936年(昭和11年)3月6日)は、日本の陸軍軍人。航空兵大尉。所沢陸軍飛行学校操縦学生。 二・二六事件で蹶起し、湯河原で牧野伸顕を襲撃したが負傷。翌月、入院先の熱海で自決した。 民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し自動車2台に分乗、歩兵第一連隊を2月26日0時40分頃出発。 5時頃湯河原に到着、伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。警護の巡査皆川義孝は河野らに拳銃を突きつけられて案内を要求されたが、従う振りをしつつ、振り向きざまに発砲し、河野及び予備役曹長宮田晃を負傷させたが、皆川巡査は殺害された。
野崎 源三郎(のざき げんざぶろう、1907年〈明治40年〉… 野崎 源三郎(のざき げんざぶろう、1907年〈明治40年〉3月27日 - 1986年〈昭和61年〉12月29日)は、日本の政治家。元埼玉県鴻巣市長。 埼玉県生まれ。1930年(昭和5年)、米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)応用化学科卒業。卒業後、株式会社福岡商店工場で働く。商工技官、通商産業技官を歴任した。1958年(昭和33年)、鴻巣市収入役となった。1970年(昭和45年)8月1日、鴻巣市長になった。3期市長を務めた。1982年(昭和57年)7月31日に退任した。『花の鴻巣音頭(埼玉県)』(歌・都はるみ)の作詞を担当した。市長時代の活躍が認められ第3号鴻巣市名誉市民となる。
松井 政吉(まつい まさきち、1906年(明治39年)3月2… 松井 政吉(まつい まさきち、1906年(明治39年)3月27日 - 1993年(平成5年)9月19日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(当選6回)。日本対外文化協会理事長、日本電信電話公社経営委員会委員。 新潟県南魚沼郡五十沢村(現南魚沼市)生まれ。1930年、専修大学卒業。日本運輸労働組合組合長など労組幹部を歴任。1933年、社会大衆党中央執行委員。1949年、第24回衆議院議員総選挙に福島3区から出馬し当選。以後当選6回。この間、衆議院逓信委員長、社会党の労働部長、農民部長、組織部長などを歴任。社会党の左右分裂時代は右派社会党に所属していた。 1966年、ソ連政府の提案によるソ連・東欧との交流組織、日本対外文化協会(対文協)を松前重義、石原萠記らとともに設立。
坂本 吉勝(さかもと よしかつ、1906年3月27日 - 1… 坂本 吉勝(さかもと よしかつ、1906年3月27日 - 1989年1月25日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。東京都出身。 1931年(昭和6年)11月に東北帝国大学在学中に高等文官試験司法科に合格し、翌1932年3月に同大学法文学部を卒業。同年10月に弁護士を登録して、第二東京弁護士会に所属。 戦時中は軍に召集されるも、終戦により復員。その後、閉鎖期間生理委員会法律室長や司法研修所民事教官を務めた。 1971年(昭和46年)12月7日に最高裁判事となる。就任の際には「大きな勉強をしたとか、積み重ねがあるわけではないので、懸命に微力を尽くすのみです」と話した。 1976年(昭和51年)3月に定年退官した。
中條 晴夫(ちゅうじょう はるお、1906年(明治39年)3… 中條 晴夫(ちゅうじょう はるお、1906年(明治39年)3月27日 - 1995年(平成7年)5月17日)は、日本の実業家。元百十四銀行頭取、中條文化振興財団設立者。 1906年(明治39年)3月27日、香川県高松市に生まれる。1928年(昭和3年)に法政大学法文学部法律科を卒業する。 1929年(昭和4年)に百十四銀行に入行し、営業部次長、取締役を経て、1948年(昭和23年)に常務に就任する。 1952年(昭和27年)に専務、1959年(昭和34年)10月に副頭取、1975年(昭和50年)12月に頭取、1979年(昭和54年)12月に会長に就任し、1989年(平成1年)6月に取締役相談役に退く。
松山 英夫(まつやま ひでお、1906年3月27日 - 19… 松山 英夫(まつやま ひでお、1906年3月27日 - 1986年4月11日)は、日本の映画プロデューサー、実業家である。マキノトーキー製作所企画部長、大映専務取締役、ダイニチ映配取締役社長を歴任した。和製英語「ゴールデンウィーク」と「シルバーウィーク」の名付け親として知られる。 1906年(明治39年)3月27日、愛知県宝飯郡蒲郡町(現在の同県蒲郡市)に生まれる。 1928年(昭和3年)、関西学院を卒業する。 満29歳であった1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、これに入社して「企画部長」に就任、翌年1936年(昭和11年)1月、同社の陣容を発表した際に名を連ね、同部のメンバーには岡本潤、中川信夫、坂田重則らがいた。
秋田嶽 由藏(あきただけ よしぞう、1905年3月27日 -… 秋田嶽 由藏(あきただけ よしぞう、1905年3月27日 - 1940年11月27日)は、秋田県横手市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は松岡 由蔵。最高位は十両4枚目。 春日野部屋に入門し、1925年1月初土俵を踏む。番付を上げ、1932年1月には幕下上位に上がった。番付発表直後に起きた春秋園事件で大量の幕内十両の脱退者が出たため、その穴埋めのため東十両7枚目に昇進した。新十両の場所とその翌場所はともに3勝止まりと振るわず、幕下に落ちた。1933年1月に再十両で6勝5敗と初めて勝ち越した。3場所連続十両にいて、一度幕下に落ちるが1935年1月に十両に復帰、4場所連続在位した。その後再び幕下に落ち、「千雄山」と改名したが、1939年1月に廃業。
金子 弘(かねこ ひろし、1904年3月27日 - 没年不詳… 金子 弘(かねこ ひろし、1904年3月27日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名同じ。旧芸名は金村 春夫(かねむら はるお)など。日活大将軍撮影所や日活太秦撮影所などで長く活躍した、伊藤大輔監督映画の常連である。特技は乗馬、水泳、ビリヤード。 1904年(明治37年)3月27日、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)に生まれる。 1915年(大正4年)、11歳の時に養父である若月一郎の新歌劇の一座で初舞台を踏む。正則中学校(現在の正則高等学校)に進学し、学業の傍ら西野薫一座の芝居に参加する。 1922年(大正11年)、同中学校を卒業して日活向島撮影所に入社。金村春夫名義で数本の作品に出演。
香川 英史(かがわ ひでふみ、1904年 <明治37年> 3… 香川 英史(かがわ ひでふみ、1904年 <明治37年> 3月27日 - 1985年 <昭和60年> 6月7日)は、日本の経営者。広島県出身。位階は正四位。 1928年に東亜同文書院大学を卒業し、同年に東洋綿花(のちのトーメン)に入社した。1955年11月に取締役に就任し、1957年11月に常務、1960年5月に専務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1962年6月から1971年6月までに社長を務めた。 1974年に勲三等瑞宝章を受章。 1985年6月7日肺炎のために死去。81歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
厳 敬燮(オム・ギョンソプ、朝鮮語: 엄경섭/嚴敬燮、190… 厳 敬燮(オム・ギョンソプ、朝鮮語: 엄경섭/嚴敬燮、1904年3月27日または1906年3月27日 - 1979年9月6日)は、大韓民国の教育者、政治家。第9代韓国国会議員。 本貫は寧越厳氏。儒教の信者。元養正高等学校校長の厳圭白は長男。 ソウル出身。1925年養正高等普通学校卒、1931年法政大学経済学部商科卒。養正中学校・高等学校で長く勤め、教諭・教務主任・校長を歴任した。その他にソウル私立中等学校長会会長、中央教育委員会委員、大韓私立中等学校長会連合会長、国民教育憲章制定審議会委員、長期総合教育計画審議会委員、教育政策審議会委員、維新政友会所属の第9代前半期国会議員、養正義塾理事長を務めた。
曺 奎甲(チョ・ギュガプ、朝鮮語: 조규갑、1904年3月2… 曺 奎甲(チョ・ギュガプ、朝鮮語: 조규갑、1904年3月27日 - 1994年10月3日)は、大韓民国の政治家。昌原郡亀山面長、制憲韓国国会議員などを歴任した。 本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)。漢字表記は曺圭甲とも。独立運動家の曺正煥は父、曺誠煥は叔父。 慶尚南道金海郡菉山面(現・釜山広域市江西区美音洞)出身。同郡進礼面の講習所での漢文修学を経て、明治大学政経科卒、早稲田大学卒業または中退、北京大学聴講・東洋哲学科中退。営農を経て、亀山面長、慶尚南道政治工作隊隊長、鎮海中学校父兄会長、鎮海漁業組合長、鎮海金融組合長、大韓独立促成国民会鎮海支部長・昌原郡支部長、昌原郡農会評議員、無所属の制憲国会議員、反民族行為特別調査委員会調査委員などを務めた。
青柳 信雄(あおやぎ のぶお、1903年3月27日 - 19… 青柳 信雄(あおやぎ のぶお、1903年3月27日 - 1976年5月17日)は、日本の映画監督、プロデューサー。 1903年(明治36年)横浜市生まれ。1915年(大正4年)に神奈川師範附属小学校を卒業。同級生に江川宇礼雄、国木田虎雄、岡田時彦(高橋英一)らがいた。旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一中学校・日本大学第一高等学校)を卒業。明治大学卒業後、心座、美術座、前進座、芸術座、猿之助一座、東宝劇団といった新劇の舞台演出を手がけていた。 1933年(昭和8年)には、演出を手掛けた『源氏物語』が風教を害するという理由で上演直前に禁止命令を受ける憂き目に遭った。1937年(昭和12年)、34歳の時に東宝へ制作者として入社。
小林 勇(こばやし いさむ、1903年(明治36年)3月27… 小林 勇(こばやし いさむ、1903年(明治36年)3月27日 - 1981年(昭和56年)11月20日)は、編集者、随筆家、画家。号は冬青。岩波書店の創業者岩波茂雄の女婿であり、同社会長を務めた。 長野県上伊那郡赤穂村(現・駒ヶ根市)の農家の五男として生まれる。実業学校で基礎教育を受けたのち家業を手伝っていたが、1920年、17歳で上京し、岩波書店の住み込み社員となり、岩波文庫の創刊に携わる。幸田露伴の愛顧を受ける。 岩波茂雄の女婿(次女小百合と結婚)となるが、1928年に独立し、三木清らの援助を受けて自身の出版社・鉄塔書院、新興科学社を興す。だが、後に経営不振となり、1934年に岩波書店に復帰。
由利 健次(ゆり けんじ、1902年3月27日 - 没年不詳… 由利 健次(ゆり けんじ、1902年3月27日 - 没年不詳)は、日本の元俳優である。本名は中山 太吉(一説に中山 章、なかやま あきら)。旧芸名は中野 洋二(なかの ようじ)、中野 健治(なかの けんじ)、中野 健次、中野 健二。 1902年(明治35年)3月27日、三重県桑名郡城南村字小貝須(現在の同県桑名市小貝須)に農業を経営する父・弥太郎と母・すわの次男として生まれる。城南尋常小学校(現在の品川区立城南小学校)卒業後、北海道雨竜郡深川町(現在の同道深川市)にあった親戚邸に移り、北海道庁立旭川中学校(現在の北海道旭川東高等学校)に進学するも、1921年(大正10年)に中退する。ただし、1998年(平成10年)に発行された『芸能人物事典 明治大正昭和』では「旭川中学校卒業」としている。
須崎 潔(すざき きよし、1902年3月27日 - 1973… 須崎 潔(すざき きよし、1902年3月27日 - 1973年8月15日)は、昭和期の日本の実業家。揖斐川電気工業(現・イビデン)社長。大垣市名誉市民。鳥取県出身。 因幡銀行取締役の須崎幾蔵の長男として生まれる。鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を経て、1924年慶應義塾大学経済学部を卒業。同年大同電力に入社。その後、大阪電力、因幡銀行取締役、大同化学(現 信越化学工業)を経て、1940年3月揖斐川電気工業(現 イビデン)に移る。1947年1月にイビデン取締役、同年8月に常務取締役(営業部長)となる。 取締役副社長(1959年11月)を経て、宮寺敏雄の後任として1962年5月に代表取締役社長に就任した。
大津 有一(おおつ ゆういち、1902年3月27日 - 19… 大津 有一(おおつ ゆういち、1902年3月27日 - 1983年7月1日)は、日本の国文学者。 石川県生まれ。1930年東京帝国大学文学部国文科卒。第七高等学校造士館 (旧制)教授、1949年金沢大学法文学部教授、1957年「伊勢物語古註釈の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。金沢大法文学部長、66年定年退官、名誉教授、皇學館大學教授。『伊勢物語』を専門とした。
佐々木 直次郎(ささき なおじろう、1901年(明治34年)… 佐々木 直次郎(ささき なおじろう、1901年(明治34年)3月27日 - 1943年(昭和18年)5月24日)は、日本の翻訳家。 石川県小松市生まれ。小松中学校を経て金沢第一中学校に転じ、四年修了で第四高等学校に進む。1925年、東京帝国大学文学部英吉利文学科卒。同大学院を経て、日本大学で短期間教える。 1931年9月から1932年11月にかけて第一書房より刊行された『エドガア・アラン・ポオ小説全集』を訳出。ポーの本格的翻訳として注目を浴びる。その他、ロバート・ルイス・スティーヴンスン『宝島』『ジーキル博士とハイド氏の怪事件』、チャールズ・ディッケンズ『二都物語』などの訳書がある。肺炎で急死。
佐藤 栄作(さとう えいさく、旧字体:榮作、1901年(明治… 佐藤 栄作(さとう えいさく、旧字体:榮作、1901年(明治34年)3月27日 - 1975年(昭和50年)6月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。「政界の団十郎」「早耳の栄作」の異名を持ち、内閣総理大臣として日韓基本条約批准、非核三原則提唱、沖縄返還をなし遂げる。7年8か月の連続在任記録を持ち、「人事の佐藤」と評された。ノーベル平和賞を受賞したが、死後に核持ち込みの密約が発覚する。吉田学校の代表格。
向井 一男(むかい かずお、1900年(明治33年)3月27… 向井 一男(むかい かずお、1900年(明治33年)3月27日 - 1969年(昭和44年)1月24日)は、日本の囲碁棋士。愛媛県出身、田坂信太郎門下、方円社、日本棋院所属、八段。1935年の全日本囲棋選手権大会優勝。晩年一時清純を名乗る。日本棋院棋士会長を務めた。 愛媛県越智郡伯方島に生まれる。1914年(大正3年)上京し、郷里に近い尾道出身で方円社の田坂信太郎に入門。1918年初段。1920年に若手棋士による六華会を設立。1924年三段時に日本棋院設立に参加し、1926年の院社対抗戦では4人抜き。この1926年から比叡山の修学院村に1年間籠る。 1935年四段時に本因坊戦の前哨戦である全日本囲棋選手権大会で、トーナメントを勝抜いて鈴木為次郎、呉清源とのリーグ戦出場。
清原 邦一(きよはら くにかず、1899年(明治32年)3月… 清原 邦一(きよはら くにかず、1899年(明治32年)3月27日 - 1967年(昭和42年)11月11日)は、日本の検察官、弁護士。検事総長。 和歌山県那賀郡(現紀の川市)で、清原英三の長男として生まれる。旧制・和歌山県立粉河中学校、旧制・第一高等学校を経て、1924年4月、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業。 1923年12月、高等試験行政科試験に合格し、1924年5月、裁判所書記兼司法属に任官し東京地方裁判所書記兼大臣官房調査課に配属された。同年12月、高等試験司法科試験に合格し、1925年3月、司法官試補に任官し大阪地方裁判所詰となる。1926年11月、検事に任官し大阪地裁予備検事となる。
川崎 栄治(かわさき えいじ、1899年3月27日 - 19… 川崎 栄治(かわさき えいじ、1899年3月27日 - 1985年10月9日)は、日本の外交官。1921年に外務省に入省して以降、主にラテンアメリカ諸国に置かれた在外公館に駐在し、1965年に在ボリビア日本大使(特命全権大使)に任ぜられた。外務省を退官後、1970年から1977年までラテンアメリカ協会の理事長を務めた。 1899年3月27日に生まれ、福岡県で幼少期を過ごす。1921年3月に東京外国語学校西語部拓殖学科を卒業し、同年4月に外務省に通訳生として入省する。 入省後は、在ダバオ領事館、在スペイン大使館などを経て、1928年に在リマ領事館への赴任以降は、ラテンアメリカ諸国を中心にキャリアを歩んでいく。
大町 文衛(おおまち ふみえ、1898年〈明治31年〉3月2… 大町 文衛(おおまち ふみえ、1898年〈明治31年〉3月27日 - 1973年〈昭和48年〉1月10日)は、昆虫学者、随筆家。三重大学名誉教授。文豪・大町桂月の次男。コオロギ類の研究で知られ、「コオロギ博士」と呼ばれた。 1898年(明治31年)3月27日、東京府で、大町桂月の次男として生まれる。兄は化学者の大町芳文[要出典]。1914年(大正3年)3月、東京府立第四中学校卒業。1917年(大正6年)3月、第一高等学校卒業。1921年(大正10年)7月、東京帝国大学農学部農学科卒業。在学中、石川千代松に師事して細胞遺伝学を学び、染色体の研究材料としてコオロギを取り上げたことをきっかけに、昆虫の種と進化の問題に取り組み、多くの成果を挙げた。
里見 富次(さとみ とみじ、1898年〈明治31年〉3月27… 里見 富次(さとみ とみじ、1898年〈明治31年〉3月27日 - 1998年〈平成10年〉6月29日)は、日本の内務官僚。元帝都高速度交通営団理事。 鳥取県境町(現境港市)出身。里見周三の二男。 第四高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。大正13年(1924年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し福島県属となる 大正15年(1926年)7月福島県事務官に任ぜられ爾来神奈川県事務官、高知県経済部長、千葉県書記官・学務部長、文部書記官、九州地方総監府参事官、近畿地方行政事務局次長等を歴任し、昭和23年(1948年)2月帝都高速度交通営団理事に就任した。 晩年は、日本進路指導協会会長、同理事長、顧問を歴任した。
小林 竜雄(こばやし たつお、1898年3月27日 - 19… 小林 竜雄(こばやし たつお、1898年3月27日 - 1976年1月17日)は、フランス文学者、早稲田大学名誉教授。 熊本県生まれ。早大仏文科卒。1968年まで早大商学部教授。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
坂田 英一(さかた えいいち、1897年3月27日 - 19… 坂田 英一(さかた えいいち、1897年3月27日 - 1969年7月22日)は、石川県出身の官僚、政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。 衆議院議員(7期)。農林大臣(第35代)。自民党佐藤派所属。 石川県加賀市生まれ。第四高等学校を経て、1920年、東京帝国大学農学部卒業後、農商務省入省。1938年、農林省特産課長(1946年まで)。 1949年1月の第24回衆議院議員総選挙に民主自由党から立候補し初当選(当選同期に池田勇人・佐藤栄作・前尾繁三郎・橋本龍伍・岡崎勝男・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
岡部 金治郎(おかべ きんじろう、1896年〈明治29年〉3… 岡部 金治郎(おかべ きんじろう、1896年〈明治29年〉3月27日 - 1984年〈昭和59年〉4月8日)は、日本の工学者。専門は電子工学。 マグネトロンを実用的なマイクロ波源とする分割陽極マグネトロンを発明し、日本の十大発明家に選ばれた。東北大学で助教授、名古屋高等工業学校、大阪帝国大学、近畿大学で教授を歴任。学士院恩賜賞、文化勲章の受章者。八木秀次に師事。 1896年(明治29年)、名古屋市に生まれる。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を経て、1916年(大正5年)名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)紡織科卒業。1917年1月に高田商会大阪支店に入社、同8月に東北帝国大学理科大学助手を経た後、1918年(大正7年)9月、東北帝国大学理科大学物理科入学。
岡部 楠男(おかべ くすお、1894年 <明治27年> 3月… 岡部 楠男(おかべ くすお、1894年 <明治27年> 3月27日 - 1972年 <昭和47年> 12月3日)は、日本の経営者。日本鉱業社長を務めた。位階は正五位。 徳島県徳島市出身。1918年に東京帝国大学採掘学科を卒業し、久原鉱業に入社。1939年5月に日本鉱業に転じ、1945年5月に取締役に就任し、1947年4月から1957年11月までに社長を務めた。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1972年12月3日、肺化膿症で死去した。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
池内 信行(いけうち のぶゆき、1894年3月27日 - 1… 池内 信行(いけうち のぶゆき、1894年3月27日 - 1972年2月12日)は、日本の経営学者。関西学院大学名誉教授。経営学の方法論の研究で知られた。 兵庫県姫路市新在家生まれ。1914年東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業。コロンビア大学大学院、ベルリン大学で学び、1924年関西学院高等商業学部教授、関西学院大学経営学部教授。1964年大阪経済大学教授、同経営研究所長。1950年「経営経済学の存在論的究明」で関西学院大学経済学博士。
大下 大蔵(おおしも だいぞう、1894年(明治27年)3月… 大下 大蔵(おおしも だいぞう、1894年(明治27年)3月27日 - 1979年11月6日)は、日本の実業家。フマキラー創業者。 広島県安佐郡祇園町(現・広島市安佐南区祇園)出身。力三郎の二男。 1923年、殺虫剤「強力フマキラー液」を創製、翌1924年、祇園町に「大下回春堂」(現・フマキラー)を創業。同年専売特許に成功し、戦前までに国内のみならず欧米諸国にも市場を拡げ、上海に工場を設置するなど同社を躍進させた。戦後1950年、一子・俊春の社長就任で会長に退いた。 趣味は碁、茶道、書画、骨董。宗教は真宗。 広島市の老舗百貨店「福屋」や、大下学園(大下学園女子短期大学・大下学園祇園高校)も一族の経営であった。
戸塚 九一郎(とつか くいちろう、1891年3月27日 - … 戸塚 九一郎(とつか くいちろう、1891年3月27日 - 1973年10月13日)は、日本の官僚、政治家。位階は正三位。 衆議院議員(3期)、徳島県知事、山口県知事、宮城県知事(第28代)、福岡県知事、北海道庁長官(第25代)、労働大臣(第8代)、建設大臣(第8代、第9代)、北海道開発庁長官(第5代、第6代)、衆議院議員(3期)を務めた。 静岡県出身。酒造業・町長、戸塚藤平の三男として生まれる。掛川中学(現在の静岡県立掛川西高等学校)、一高を経て、1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、内務省に入り香川県属となり内務部地方課に配属。1918年10月、高等試験行政科試験に合格。
兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉… 兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉3月27日 - 1957年〈昭和32年〉9月3日)は、山口県出身の日本の俳人、書家、弁護士。本名は理蔵。 1890年(明治23年)に山口県山口市に生まれる。豊浦中学校(現:山口県立豊浦高等学校)時代に俳句を始め、河東碧梧桐が撰者をしていた新聞『日本』へ投句。私立興風中学(現:山口県立小野田高等学校)に転校し卒業、この頃遊行中の碧梧桐本人と出会い傾倒する。第五高等学校(現:熊本大学)へ進学する頃には荻原井泉水の『層雲』に投句を始め、若き新傾向俳人として注目される。碧梧桐が1915年(大正4年)に『海紅』を創刊すると海紅にも投句を始める。この頃ら層雲の句友、種田山頭火が度々地橙孫の元を訪れるようになり、山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
矢野 機(やの はかる、1887年3月27日 - 1992年… 矢野 機(やの はかる、1887年3月27日 - 1992年2月10日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
赤塚 五郎(あかつか ごろう、1886年〈明治19年〉3月2… 赤塚 五郎(あかつか ごろう、1886年〈明治19年〉3月27日 - 1935年〈昭和10年〉3月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県西蒲原郡、のちの松長村(現燕市)出身。上京し、神田区会議員、東京府会議員、同議長、神田区信用組合長となる。 1928年の第17回衆議院議員総選挙において東京2区から立憲民政党公認で立候補したが次点で落選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で立候補してトップ当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙では次点で落選した。1935年死去。
中山 泰昌(なかやま やすまさ/たいしょう、1884年(明治… 中山 泰昌(なかやま やすまさ/たいしょう、1884年(明治17年)3月27日 - 1958年(昭和33年)12月25日)は日本の編集者。本名は三郎、号は蕗峰。島根県津和野出身。日本組合基督教会神戸教会・金尾文淵堂に勤務した後、獅子吼書房・春秋社書店等を設立するなどして編集活動に従事し、『大系本』シリーズにより「大系」の語を定着させた。教会・出版関係者と幅広い関係を築き、田山花袋『蒲団』『縁』の題材ともなった永代静雄・岡田美知代の仲を取り持った。 1884年(明治17年)3月27日島根県鹿足郡鷲原村(津和野町鷲原)に旧津和野藩士斎藤善哉の三男として生まれた。幼少期は神代種亮・天野雉彦から文学の薫陶を受けた。
高橋 弥太郎(たかはし やたろう、1883年(明治16年)3… 高橋 弥太郎(たかはし やたろう、1883年(明治16年)3月27日 - 1945年(昭和20年)10月20日)は、大正から昭和時代前期の実業家、政治家。樺太庁豊原市長。 長野県東筑摩郡松本(現松本市)出身。松本商業学校を卒業する。1906年(明治39年)5月、樺太に渡り、豊原実業懇話会および信用組合設立に参画した。豊原町会議員当選を皮切りに、1931年(昭和6年)2月、豊原町長に就任し、市制施行後の1937年(昭和12年)9月に市長として引き続き再選した。町長、市長を12年間、無給で勤めた。 1942年(昭和17年)2月に退任し、翌年4月、樺太配電・樺太魚菜配給各社長に就任した。のち大泊町にて洋服店を経営した。
守田 保太郎(もりた やすたろう、1882年〈明治15年〉3… 守田 保太郎(もりた やすたろう、1882年〈明治15年〉3月27日 - 1959年〈昭和34年〉12月12日)は、日本の実業家。ラヂウム製薬社長。守田商店代表。族籍は東京府平民。 東京府・守田重次郎の長男。守田治兵衛の従兄。1918年、家督を相続した。大成中学卒業。慶應義塾大学に学んだ。武田長兵衛商店に勤務した。ラヂウム製薬会社に入り専務取締役を経て社長となる。 宗教は真宗、あるいは浄土宗。趣味は読書。住所は東京大森区新井宿、牛込市谷本村町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
高見 之通(たかみ ゆきみち、1880年〈明治13年〉3月2… 高見 之通(たかみ ゆきみち、1880年〈明治13年〉3月27日 - 1962年〈昭和37年〉10月30日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(当選7回)。族籍は富山県士族。 富山県富山市生まれ。富山県士族・高見之貫の長男。1908年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。弁護士の業務に従事する。 富山県東岩瀬町長(1926年1月15日から同年11月27日まで)、富山県売薬同業組合長を務め、1917年の第13回衆議院議員総選挙で初当選した。はじめ立憲政友会に所属し、1920年の第14回衆議院議員総選挙では政友会公認で立候補し当選している。その後政友会を離党して政友本党の結党に参加し、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補し当選している。
池尾 芳蔵(いけお よしぞう、1878年(明治11年)3月2… 池尾 芳蔵(いけお よしぞう、1878年(明治11年)3月27日 - 1959年(昭和34年)9月19日)は、日本の実業家。日本電力社長、日本発送電総裁を務め、戦前日本の電力界の大物として知られた。黒部鉄道社長、日本マグネシウム社長、飛騨索道運輸社長、日本電気協会会長、関西電力顧問なども務めた。 1878年、滋賀県草津町(現・草津市)の豪家の子に生まれ、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、常々吉野作造と首席を争い、1904年(明治37年)に高等文官試験に合格し、大学卒業時には銀時計を受領した。卒業後逓信省通信局に入り、東京・大阪の郵便課長を経て、業務課長を最後に1907年(明治40年)に退官し、実業界に転じた。
吉田 信太(よしだ しんた、1870年3月27日(明治3年2… 吉田 信太(よしだ しんた、1870年3月27日(明治3年2月26日) - 1954年12月24日)は、日本の音楽教師、作曲家。宮城県仙台市出身。1894年に東京音楽学校本科師範部卒業。横浜在住時にルドルフ・ディットリヒに師事。 東京音楽学校分教場、広島高等師範学校(1902年 - 1913年)、神奈川県立第一中学校、神奈川県立第三中学校、神奈川県立高等女学校、東京女子高等師範学校などで教鞭を執る。後に、神奈川県視学。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
塚本 靖(つかもと やすし、1869年3月27日(明治2年2… 塚本 靖(つかもと やすし、1869年3月27日(明治2年2月15日) - 1937年(昭和12年)8月9日)は、日本の建築家。東京帝国大学において建築意匠・装飾・工芸の研究・指導に当たった。号は「准亭」。 1869年、京都生まれ。1893年、東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、明治美術学校講師嘱託となった。 1899年、東京帝国大学工科大学助教授に採用。採用後、1899年から1902年にかけてヨーロッパへ研究留学した。その後も、1906年から1908年にかけての工芸品意匠調査のため清国出張、1909年には日英博覧会のためのイギリスに派遣されている。1920年、同校教授に昇進。1920年より工学部部長を務めたのち、1929年に退官し、名誉教授となった。
犬塚 勝太郎(いぬづか かつたろう、1868年3月27日〈慶… 犬塚 勝太郎(いぬづか かつたろう、1868年3月27日〈慶応4年3月4日〉 - 1949年〈昭和24年〉7月2日)は、日本の内務・逓信官僚、政治家。府県知事、衆議院議員、貴族院議員、錦鶏間祗候。 庄内藩士・犬塚盛巍の長男として生まれる。大学予備門を経て、1889年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を首席で卒業。内務省に入り同7月23日内務試補(年俸六百円下賜)として県治局に配属された。 1890年(明治23年)6月4日、内務大臣秘書官(西郷従道大臣)となる。以後、長崎県参事官、鉄道庁事務官、逓信省参事官兼鉄道局庶務課長、兼法制局参事官などを歴任。1896年6月から1898年1月まで、欧米の鉄道事業を視察するため出張。
早川 喜四郎(はやかわ きしろう、1865年3月27日(慶応… 早川 喜四郎(はやかわ きしろう、1865年3月27日(慶応元年3月1日) - 1943年4月23日)は、日本の教育者、聖職者。平安女学院院長、日本聖公会の聖職者。聖公会の教会で奉仕しながら、院長として新校舎を建設するなど、平安女学院の発展に寄与した。 伊予国今治(現・愛媛県今治市)出身。戸塚多宮の子として生まれ、幼少期に早川家の養子となった。立教大学校(現・立教大学)卒業後、東京三一神学校(現・聖公会神学院)を経て、米国留学してバークレイ神学校(英語版)に学ぶ。 1892年(明治25年)に立教大学校、東京三一神学校(現・聖公会神学院)の同窓生である宮崎敬介(後の大阪電灯社長)が、米国に留学した際に、同じく同窓の大塚惟明(後の南海電気鉄道社長)とともに、同行した。
青盛 常太郎(あおもり つねたろう、1864年3月27日〈元… 青盛 常太郎(あおもり つねたろう、1864年3月27日〈元治元年2月20日〉 - 没年不明)は、日本の商人、銀行家、広島県多額納税者、家主。呉銀行取締役。族籍は広島県平民。 広島県呉市出身。青盛喜一郎の弟。高等小学校を出て、若いときはタバコの行商をしたり、商売をしていた。また借家を建て、借家の収入で生活をした。分家して一家を創立する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。 趣味は建築。住所は呉市元町。本籍は呉市和庄町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
鈴木 辰次郎(すずき たつじろう、1864年3月27日(元治… 鈴木 辰次郎(すずき たつじろう、1864年3月27日(元治元年2月20日) - 1932年(昭和7年)12月9日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(2期)。 駿河田中藩領志太郡忠兵衛新田(静岡県志太郡大洲村を経て現藤枝市)出身。石田武雄の弟として生まれ、先代喜三郎の養子となり1891年(明治24年)家督を相続する。1883年(明治16年)静岡師範学校を卒業する。 農業を営む傍ら教育に従事する。また、日露戦争に従軍した。大洲村長、志太郡会議員、静岡県会議員、同参事会員、県農会副会長、焼津町長、日本簇機取締役などを歴任した。1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。
秋山 白巌(あきやま はくがん、元治元年2月20日〈1864… 秋山 白巌(あきやま はくがん、元治元年2月20日〈1864年3月27日〉 - 1954年〈昭和29年〉2月23日)は、日本の書家。諱は純、通称は隆道、白巌は号で、別号を碧城・探淵という。晩年、白巌と号し、碧城でも名が通っている。 田安徳川家の家臣秋山義隆の次男として江戸青山に生まれる。書は初め巻鴎洲に学び、後、巻菱湖の内弟子となった。明治19年(1886年)に渡清して徐三庚の門に学び、明治24年(1891年)に一旦帰国し、中村蘭台や西川春洞に大きな影響を与えた。帰国後、東京市京橋区に「弘書学院」を創立し書道の通信教育をはじめ、日本各地や台湾で書塾を開き、書道の普及に努めた。 明治初期の日本の書道界は、明治13年(1880年)の楊守敬の来日を機に、日下部鳴鶴・巖谷一六・松田雪柯などの活動によって六朝書道が盛行し、江戸時代とは全く異なる様相を呈してきた。