石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年〈昭和9年〉1… 石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年〈昭和9年〉12月28日 - 1987年〈昭和62年〉7月17日)は、日本の俳優、歌手、実業家。兄は、芥川賞を受賞した小説家で政治家の石原慎太郎。 石原プロモーション創立者で、初代代表取締役社長兼会長。ヨットマンとしても活動していた。昭和を代表する俳優・タレントとされている。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の2位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第6位になった。2014年に発表された『キネマ旬報』の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優の14位となっている。 1934年(昭和9年)12月28日(金曜日)に父石原潔(山下汽船社員、愛媛県出身)、母光子(広島県宮島の出身)のもと、兵庫県神戸市須磨区で誕生。
小川 欽也(おがわ きんや、1934年12月28日 - 20… 小川 欽也(おがわ きんや、1934年12月28日 - 2024年12月10日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、映画プロデューサーである。監督としての別名に三川 和久(みかわ かずひさ)、小川 卓寛(おかわ たかひろ)、小川 和久(おかわ かずひさ)、上田 光生(うえだ みつお)があり、俳優としては姿 良三(すがた りょうぞう)、脚本家としては水谷 一二三(みずたに ひふみ)と名乗る。成人映画の黎明期からの映画作家として知られ、異分野で活躍する山本晋也を除けば、成人映画の世界で長く現役として作品を発表し続けた人物であった。監督作は400本を超える。 1934年(昭和9年)12月28日、京都府京都市下京区烏丸通綾小路下ルに生まれる。
山下 登(やました のぼる、1934年12月28日 - 19… 山下 登(やました のぼる、1934年12月28日 - 1976年7月16日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(投手)。近鉄、南海に在籍した。
立松 敬一(たてまつ けいいち、1933年12月28日- … 立松 敬一(たてまつ けいいち、1933年12月28日- )は、日本の経営者。ダイビル社長、会長を務めた。 東京都出身。1956年に東京大学経済学部商業学科を卒業し、同年に住友銀行に入行した。1980年12月に取締役に就任し、1984年4月に常務を経て、1986年6月には大阪建物(のちのダイビル)社長に就任した。1992年6月に会長1998年6月に相談役を経て、2002年6月には特別顧問に就任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山下 栄一(やました えいいち、1933年12月28日 - … 山下 栄一(やました えいいち、1933年12月28日 - )は、日本の教育心理学者。 東京生まれ。1961年東京大学教育学部卒業。1963年東京大学大学院教育心理学専攻修士課程修了。同大学院教育科学研究科博士課程単位取得。関西大学文学部教授、心理教育研究情報センター代表を務めた。 障害者問題を研究し、障害児と健常児が「共に生き、共に育ち合う」という「共生教育」を提起した。
勝股 康行(かつまた やすゆき、1932年(昭和7年)12月… 勝股 康行(かつまた やすゆき、1932年(昭和7年)12月28日 - )は、日本の銀行家。元七十七銀行頭取・会長。2004年(平成16年)旭日中綬章受章。 千葉県八日市場市(現:匝瑳市)出身。 日銀勤務を経て、七十七銀入行。頭取、会長を歴任。2005年(平成17年)には、相談役に退いた。また、仙台経済同友会代表幹事も歴任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
飯島 重雄(いいじま しげお、1931年12月28日 – 2… 飯島 重雄(いいじま しげお、1931年12月28日 – 2019年9月13日)は、日本の政治家。 千葉県海上郡旭町(現・旭市)に生まれる。 1949年に千葉県立匝瑳中学校(現・匝瑳高等学校)を卒業。日本橋の衣料問屋「丸山商店」で勤めたのち、家業を継ぐ。 1971年4月、千葉県議会議員に当選。連続9期務め、議会運営委員会委員長、自民党県連議員会長などを歴任した。 2019年9月13日、クモ膜下出血により死去。87歳。 東総文化会館や千葉県立東部図書館を誘致したほか、ハウス栽培を奨励するなど、地元である旭市を始めとする東総地域の発展に尽力した。 県政では千葉県知事となった川上紀一や沼田武を支援し、水野清系議員のまとめ役を務めた。
宮城 泰年(みやぎ たいねん、1931年12月28日 - )… 宮城 泰年(みやぎ たいねん、1931年12月28日 - )は、日本の修験道(本山修験宗)の僧侶。大僧正、聖護院門主、龍谷大学客員教授。 1931年、京都府京都市左京区聖護院内の積善院に生まれる。1954年、龍谷大学文学部文学科卒業。新聞社に勤務。その後、聖護院に勤務。庶務部長、宗務総長、聖護院執事長などを歴任し、2007年、第52代門主に就任。その間、北爆下の北ベトナムや、ポル・ポト政権崩壊直後のカンボジアなどを取材し、仏教者と親交を深める。 京都仏教会常務理事、京都府京都市仏教会事務局長、日本宗教者平和協議会代表委員、宗教者九条の和代表世話人、平和・民主・革新の日本をめざす全国の会代表世話人などを歴任。
曽我 ミヨシ(そが ミヨシ、1931年(昭和6年)12月28… 曽我 ミヨシ(そが ミヨシ、1931年(昭和6年)12月28日 - )は、1978年(昭和53年)8月に新潟県佐渡郡真野町(現、佐渡市)から長女の曽我ひとみとともに北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に拉致された日本人女性。北朝鮮工作員による拉致被害者。 1932年(昭和7年)12月28日、新潟県佐渡郡真野村に生まれた曽我ミヨシは、中学卒業後に就職。茂を婿として迎え、ひとみ、富美子の二女をもうけた。親子は仲がよく、まるで友だちのようだと周囲から羨ましがられたという。母は優しい性格で、子どもたち2人に手をあげることもなく、少々わるいことをしても怒ることさえなかった。また、朝は農作業、昼は土建業できつい仕事をしたほかに帰宅してからはザルづくりの内職を夜12時まで続ける寡黙な働き者であった。
西辻 豊(にしつじ ゆたか、1930年(昭和5年)12月28… 西辻 豊(にしつじ ゆたか、1930年(昭和5年)12月28日 - )は、日本の政治家。大阪府八尾市市長(第4代)。NPO法人やお文化協会の理事長(2017年現在)。旭日双光章受章。 大阪府、現在の八尾市出身。大阪府立八尾中学校(旧制)卒業(50期。現大阪府立八尾高等学校)。1951年(昭和26年)大阪市立都島工業専門学校を卒業。 八尾市役所に就職し、第3代市長山脇悦司のもとで総務課長や、教育委員会管理部長、市総務部長、助役などを務めた。1995年(平成7年)4月23日の第13回統一地方選挙で、八尾市長選挙に出馬。元市議の田中誠太を破り、初当選した。 市職員時代の1950年(昭和25年)11月3日(文化の日)に「優良職員」として表彰された。
茂木 清夫(もぎ きよお、1929年(昭和4年)12月28日… 茂木 清夫(もぎ きよお、1929年(昭和4年)12月28日 - 2021年(令和3年)6月6日)は、日本の地震学者・火山学者。専門分野は、固体地球物理・地震学・岩石力学。地震の発生機構および地震予知に関心を持ち、地震学および地震予知の権威である。地震学・火山学の研究における数々の業績を残した。東京大学名誉教授。元日本大学教授、元地震予知連絡会会長。山形県出身。 1929年(昭和4年)、山形県谷地町南町(現河北町谷地)に生まれる。旧制寒河江中学・山形高等学校を経て、1953年(昭和28年)に東京大学理学部(地球物理学科)を卒業。同年に三菱鉱業に入社し、1954年(昭和29年)に東京大学助手となる。
永田 吉太郎(ながた よしたろう、1929年(昭和4年)12… 永田 吉太郎(ながた よしたろう、1929年(昭和4年)12月28日 - 2015年5月6日[要出典])は、日本のボクサー。 日本大学在学中に、1952年ヘルシンキオリンピックの男子フライ級に出場し、1回戦でルーマニアのミルチェア・ドブレスク(英語版、ルーマニア語版)に敗れた。アマチュア時代の戦績は117戦110勝。全日本ジュニア・フライ級チャンピオン(1951年)。千代田化工建設 常務取締役、アローヘッドインターナショナル 代表取締役社長 歴任。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJボクシング/PJキックボクシング)。
鵜飼 一郎(うかい いちろう、1928年(昭和3年)12月2… 鵜飼 一郎(うかい いちろう、1928年(昭和3年)12月28日 - 2006年(平成18年)10月16日)は、日本の政治家。愛知県春日井市長(4期)。全国市長会副会長、東海市長会会長などを歴任。位階は正五位。旭日中綬章受章。 愛知県東春日井郡坂下町(現・春日井市)生まれ。愛知県明倫中学校(現・愛知県立明和高等学校)卒業。1944年(昭和19年)、旧坂下町役場に奉職。1958年(昭和33年)1月1日、春日井市は坂下町と高蔵寺町を編入。市長公室長、助役などを歴任。 1990年(平成2年)、春日井市長の鈴木義男が翌年の市長選不出馬を明らかにし、後継として鵜飼が立候補する意向を表明。同年10月、助役を辞任した。
穴井 太(あない ふとし、1926年12月28日 - 199… 穴井 太(あない ふとし、1926年12月28日 - 1997年12月29日)は、日本の俳人。 大分県玖珠郡(現・九重町)に生まれる。幼時に福岡県戸畑に転居。中央大学専門部経済科卒業後、肺浸潤のため帰省、療養ののち中学校教師の職に就く。1954年、横山白虹の「自鳴鐘」入会。1956年、北九州市で益田清らと「未来派」を創刊。1963年金子兜太の「海程」同人。1965年「天籟通信」をハガキ版で発行(のち俳誌形態となる)。1968年第4回海程賞受賞。1974年第20回現代俳句協会賞受賞。石牟礼道子を俳句に導き『天』(1986)を刊行したことでも知られる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
日比野 和幸(ひびの かずゆき、1925年12月28日 - … 日比野 和幸(ひびの かずゆき、1925年12月28日 - 2009年1月5日)は日本のジャーナリスト、エッセイストである。
荒川 祐吉(あらかわ ゆうきち、1923年12月28日 - … 荒川 祐吉(あらかわ ゆうきち、1923年12月28日 - 2018年5月26日)は、日本の商学者・経営学者。学位は、商学博士。神戸大学名誉教授。福田敬太郎門下。兵庫県出身。 ゼミ出身者に亀井範雄元東邦テナックス社長などがいる。 2000年4月:勲二等瑞宝章受章。
進士 晃(しんじ あきら、1922年12月28日 - 199… 進士 晃(しんじ あきら、1922年12月28日 - 1995年?)(旧姓 守永晃)は、日本の天文学者(天文暦)。理学博士(東京大学)。 旧制第七高等学校、東京帝国大学理学部天文学科卒業。海上保安庁水路部編暦課長、参事官。後、ハイデルベルク大学天文計算研究所客員教授(1978-1980)、マレーシア工科大学客員教授、その後、放送大学講師、東洋大学講師等を兼任。 日本天文学会、宇宙開発事業団、日本学術会議等メンバー。国際天文学会では天文暦委員長(1979-1982)を務めた。交流を続けていた天文学者に、ヴァルター・フリッケ(英語版)、ハンス=ハインリヒ・フォークト(英語版)がいる。 戦時中の疎開について東京大学天文学教室のOBらと『されど天界は変わらず・諏訪の温泉宿で迎えた終戦』(東京大学理学部天文学教室編 1993年)を出版した。
近藤 啓吾(こんどう けいご、1921年(大正10年)12月… 近藤 啓吾(こんどう けいご、1921年(大正10年)12月28日 - 2017年(平成29年)12月25日)は、日本の崎門学者。金沢工業大学教授。字は子発。号は紹宇、靖献書屋主人、拾穂書屋主人。 平泉澄の指導を受け、崎門学派の内田周平・岡直養に師事。日本学協会・藝林会・神道史学会・神道宗教学会に所属。 1921年(大正10年)、近藤保二郎(東京高等女学校教頭、松平慶民子爵家の家庭教師)の長男として、静岡県に生まれる。 1940年(昭和15年)3月、旧制麻布中学校卒業。同年4月、大東文化学院本科入学。1942年(昭和17年)10月、大東文化学院本科卒業、大東文化学院高等科入学。内田周平に入門。山崎闇斎の学問の継承を、生涯の業と決意する。
小島 清文(こじま きよふみ、1919年〈大正8年〉12月2… 小島 清文(こじま きよふみ、1919年〈大正8年〉12月28日 - 2002年〈平成14年〉3月1日)は、日本の反戦運動家。台湾台北市出身。太平洋戦争末期に戦いの最前線であるルソン島での戦闘に参加し、アメリカ軍の前に敗北必至となった際、「生きて慮中の辱(はずかしめ)を受けず」、つまり敵軍の捕虜になるくらいなら死を選べとの日本軍の心得「戦陣訓」が絶対視された戦中において、敢えて投降の道を選んだ。戦後、後世に自分たちと同じ思いをさせず、戦争のない世界を作るために不戦と平和のために献身した。 慶應義塾大学経済学部を卒業後、太平洋戦争の戦局悪化の最中、海軍兵科予備学生隊を経て少尉に任官した。戦艦大和の暗号士として暗号電信解読の任務についていたが、1944年(昭和19年)12月、ルソン島での陸上勤務を命じられた。
上岡 一嘉(かみおか かずよし、1919年12月28日- 1… 上岡 一嘉(かみおか かずよし、1919年12月28日- 1991年3月6日)は、日本の経済学者。専門はマーケティング。学校法人足利学園および白鷗大学の経営者。 栃木県足利市出身。父上岡長四郎、母上岡た津は足利学園の創設者だった。 1938年、県立足利中学校卒業。1943年、早稲田大学商学部卒業、足利学園高等学校に勤務。1948年1月、GHQ民間情報局勤務。1949年5月、東京都庁経済局勤務。1954年10月、法政大学経済学部および経営学部講師。1956年4月、青山学院大学経済学部講師、1963年同教授。1967年、大阪学院大学教授。1976年2月、足利学園理事長に就任。1976年白鷗女子短期大学2代目学長。
堀川 弘通 (ほりかわ ひろみち、1916年〈大正5年〉12… 堀川 弘通 (ほりかわ ひろみち、1916年〈大正5年〉12月28日 - 2012年〈平成24年〉9月5日)は、日本の映画監督。成城大学名誉教授の堀川直義は兄。 京都府京都市出身。東京市立一中(現:九段高校)、成城高等学校(現:成城大学)を経て、1940年、東京帝国大学文学部卒業。同年、東宝撮影所製作部に演出助手係として入社。最初に山本嘉次郎の『馬』の盛岡ロケから助監督として参加し、この時にチーフ助監督だった黒澤明と仲良くなり、仕事を終えるといつも2人で飲みに回ったという。入社1年後にオーバーワークがたたって肺を病み、1年半休職する。復帰後はすでに監督になった黒澤の作品に就き、『一番美しく』『続姿三四郎』に参加、1945年に軍隊に召集されるが、敗戦となり10月に復員して東宝に戻る。
上原 げんと(うえはら げんと、1914年(大正3年)12月… 上原 げんと(うえはら げんと、1914年(大正3年)12月28日 - 1965年(昭和40年)8月13日)は、昭和期の日本の作曲家。上原 絃人とも。弟も同じく作曲家の上原賢六。 よこはま・たそがれ - 長崎から船に乗って - かもめ町みなと町 - 待っている女 - 夜汽車の女 - 旅鴉 - あなたの灯 - 霧の出船 - ふるさと - 狼のバラード - 夜空 - 別れの鐘の音 - 紅い花 - 浜昼顔 - みれん - 明日の愛 - 哀恋記 - ひろしのさくら音頭 - 千曲川 - ふたりの旅路 - 愛の始発 - 北酒場 - 旅人 - どこへ帰る - 途中駅 - 風の子守唄 - 今日だけは - 灯りが欲しい - 潮どき - まだ乾かない油絵に - あしたも小雨 - 熱愛 - 惜春 - 蟬時雨 - おまえとふたり 倖せさがして - 日本橋のうた - ふたりの夜明け - 港・ひとり唄 - 越前有情 - 人生かくれんぼ - 愛しつづけるボレロ - 流れのままに - 契り - あなた - 雨あがり - 細雪 - 科学万博音頭 - 長良川艶歌 - そして…めぐり逢い - 夢しずく - 浪花盃 - 追憶 - それは…黄昏 - 港の五番町 - 絆 - 面影の郷 - フラワー&グリーン 花の輪音頭 - 暖簾 - 二枚目酒 暖簾 (ニューバージョン) - 心 - 吹きだまり/母人よ - 時が過ぎれば… - おしどり - 杯に歌のせて - 愛別 - 終着駅 - べにばな - 涙でもかまわない - 女・ひとり - 汽笛 - パパとあそぼう - 愛のバラードを…となりで - 酒 尽尽 - 由良川慕情 - 女の酒場 - 粋な男 - 出発の朝 - 罪と罰 - 紫陽花 - 雑草 - そして…花送り - 千日草 - 傷だらけの人生 - 北のともしび - 酒ひとり - 流れ星 - 萩の花郷 - 再り会い 京都恋歌 - 山河 - 風雪に吹かれて聞こえる唄は… - おふくろの子守歌 - 逢いたかったぜ - 渚の女 (ニューバージョン) - 傘ん中 - 北物語 - 望郷の詩 - 逢えて…横浜 - アカシア挽歌/雪燃えて - 大阪ナイトスキャンダル - ふりむけば日本海 - 高瀬舟 - 献身 - ゆめかぜ - この愛に死んでも - ふるさと ~'08バージョン~ - 橋場の渡し - テネシーワルツ - 江戸の手毬唄 - 凍て鶴 - 雪が降る - 紅い花
早瀬 鎮雄(はやせ しずお、1912年12月28日 - 19… 早瀬 鎮雄(はやせ しずお、1912年12月28日 - 1975年2月26日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。愛知県名古屋市出身。 1933年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日興証券に入社した。 1958年11月に取締役に就任し、1961年11月に常務、1964年10月に専務、1968年8月に副社長を経て、1973年12月に社長に就任。 1975年2月26日脳出血のために在任中に死去。62歳没。
倉林 誠一郎(くらばやし せいいちろう、1912年12月28… 倉林 誠一郎(くらばやし せいいちろう、1912年12月28日 - 2000年5月2日)は、日本の演劇制作者(演劇プロデューサー)。劇団俳優座主事として、俳優座劇場創立を主導し、新劇の制作者(プロデューサー)を務めた。また、日本芸能実演家団体協議会(芸団協)、日本新劇経営製作者協会(現・日本新劇製作者協会)、中劇場協議会等の業界団体の設立を主導し、会長・常任理事を歴任した。 ※主な出典は著書『演劇制作者』(而立書房)による。 現在の東京都江東区深川に生まれる。1927年3月に開進第一尋常小学校高等科を卒業して智山中学校2年に編入となる。 1933年に徴兵検査を受けたが、丙種で徴兵免除となる。向島の資生堂化粧品工場で働く。
中村 徹雄(なかむら てつお、1911年(明治44年)12月… 中村 徹雄(なかむら てつお、1911年(明治44年)12月28日 - 1975年(昭和50年)7月5日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 鉄道院技師・中村謙一の長男として生まれる。父の死去に伴い、1943年(昭和18年)4月1日、男爵を襲爵した。 1937年(昭和12年)東京帝国大学経済学部を卒業。同年、浅野物産に入社した。 1946年(昭和21年)6月29日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。墓所は多磨霊園。
岡本 陸人(おかもと むつと、1911年(明治44年)12月… 岡本 陸人(おかもと むつと、1911年(明治44年)12月28日 - 2007年(平成19年)1月4日)は、日本の実業家。あかね書房創業者。 長野県上水内郡日里村(中条村を経て現長野市)で、岡本梅吉、まつの の四男として生まれる。旧制専修商科学校(夜間)中退する。1926年に書籍取次の東京堂へ入社し、外商部に所属する。1944年に軍へ応召された後に退社し、出版社勤務を経て1949年にあかね書房を創業する。その後、1984年に同社会長に就任。 児童図書出版協会の発起人かつ幹事として学校図書館の設置に尽力し、日本書籍協会理事と読書推進運動協議会理事を歴任する。1983年に勲四等瑞宝章を受勲する。
岡田 鯱彦(おかだ しゃちひこ、1907年12月28日 - … 岡田 鯱彦(おかだ しゃちひこ、1907年12月28日 - 1993年8月4日)は、日本の国文学者、推理作家、小説家。本名は、岡田藤吉。 東京生まれ。東京物理学校(現 東京理科大学)を卒業した後、1935年第一高等学校卒、東京帝国大学文学部国文科に入学し、1938年卒業。1940-45年名古屋陸軍幼年学校の教官を務めた。第二次大戦後、東京青年師範学校教授[要出典]、1949年から東京学芸大学教授、1971年定年、聖徳学園短期大学教授、淑徳短期大学教授。 作家としての活動もあり、『源氏物語』や『雨月物語』といった古典に取材した作品がある。1949年、ユーモア小説「天の邪鬼」が懸賞に当選。同年に『宝石』誌の第3回懸賞募集に応募した「妖鬼の呪言」が短篇懸賞の選外佳作となり、また「噴火口上の殺人」が『ロック』誌の第2回懸賞募集に1席入選し、同誌に掲載された。
堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日… 堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日 - 1953年(昭和28年)5月28日)は、日本の小説家。 それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした。フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造した。肺結核を病み、長野県軽井沢に度々療養、当地を舞台にした作品を多く残し、晩年には終の住処とした。 戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の立原道造、中村真一郎、福永武彦、丸岡明などから支持され、彼らは堀の弟子のような存在として知られている。
足鹿 覚(足鹿 覺、あしか かく、1904年(明治37年)1… 足鹿 覚(足鹿 覺、あしか かく、1904年(明治37年)12月28日 – 1988年(昭和63年)5月16日)は、日本の政治家。衆議院議員、参議院議員。全日本農民組合連合会長。 生家は半農半漁で家計は苦しく、そうした環境が彼に労働者としての自覚を促した。 東京帝国大学セツルメント労働学校を終えた後、帰郷して農民運動をする。1926年(大正15年)労働農民党の創立に参加し、労働組合運動にも参加。 1931年(昭和6年)米子市会議員、1935年(昭和10年)鳥取県会議員を経て、戦後は日本社会党に入り、1949年(昭和24年)から衆議院議員に7期当選。1968年(昭和43年)から参議院議員1期。農政を中心とする思想・見識は国民の共感を得た。
富山 小太郎(とみやま こたろう、1902年(明治35年)1… 富山 小太郎(とみやま こたろう、1902年(明治35年)12月28日 - 1972年(昭和47年)8月23日)は、日本の物理学者。理論物理学を専門とした東京物理学校、早稲田大学の各教授である。その著作や『科学』編集主任としての活動を通じ「現代物理学の紹介者、解説者」であった。 福島県喜多方町に生まれる。幼時に父が日露戦争で戦死し、母の養育を受けた。母方の祖父は喜多方事件の中心人物の一人で、のち県会副議長を務めた中島友八である。会津中学4年修了、二高理科甲類を経て、1925年(大正14年)3月に東京帝国大学を卒業。堀内寿郎は二高、中谷宇吉郎、三石巌、和達清夫は理学部物理学科の同級生であった。 同年4月から翌々年3月まで松本高校の講師、教授を務め、物理学を担当した。
井植 歳男(いうえ としお、英語:Toshio Iue, 1… 井植 歳男(いうえ としお、英語:Toshio Iue, 1902年12月28日 - 1969年7月16日)は、日本の実業家。三洋電機株式会社の創業者。松下電気器具製作所(松下電器産業を経て、現・パナソニック)の創業メンバーで、専務取締役を務めた。 兵庫県津名郡浦村(現:淡路市浦字井上浜)に井植清太郎の長男として生まれる。生家は代々自作農で、かなり裕福だったが、父清太郎は百姓を嫌い、船に乗っていた。「清光丸」という千石船をもち大阪、九州、朝鮮あたりまででかけて自家貿易をしていた。 13歳の時、清太郎が急死し、後を継いで叔父の船で船乗りになったものの、石灰岩を積んで大阪港から安治川を上って西九条の石灰工場の下に着いた際に、乗っていた叔父の船が東京倉庫(現・三菱倉庫)の爆発に巻き込まれて炎上沈没、歳男らは浦へ命からがら逃げ帰る。
畦地 梅太郎(あぜち うめたろう、1902年12月28日 -… 畦地 梅太郎(あぜち うめたろう、1902年12月28日 - 1999年4月12日)は、日本の版画家。平塚運一らに師事した。山岳風景を題材とした木版画作品を多数発表し、「山の版画家」として知られる。画文集の出版や装丁、挿画などの分野でも活躍した。愛媛県北宇和郡二名村(現・宇和島市三間町)出身。 1937年夏に軽井沢へ出かけ浅間山に魅せられ、山を制作の主題に定めて山の風景を描いた作品を多数発表した。戦争中の満州への単身赴任などを経て、第二次世界大戦後は「山男」シリーズを発表していく。右手親指のけが、大やけどの後は家族をテーマにした作品を多く制作した。 1902年12月28日、愛媛県北宇和郡二名村(現・宇和島市三間町)に生まれた。
田中 不破三(たなか ふわぞう、1901年(明治34年)12… 田中 不破三(たなか ふわぞう、1901年(明治34年)12月28日 - 1994年(平成6年)3月8日)は、日本の鉄道官僚・政治家。衆議院議員、内閣官房副長官。 宮崎県南那珂郡飫肥町(現日南市)で生まれた。田中猛の養子となる。第一高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年(昭和2年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。鉄道省に入省し広島駅助役となる。 以後、鉄道省事務官、広島鉄道局経理部長、鉄道省監督局総務課長、同総務局主計課長、大臣官房文書課長、情報局情報官、技術院参技官、鉄道監、門司鉄道局長、鉄道総局総務局長などを歴任。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で宮崎県第2区に民主党から立候補し当選。
福宿 光雄(ふすき みつお、1901年12月28日 - 19… 福宿 光雄(ふすき みつお、1901年12月28日 - 1970年)は、鹿児島県出身の日本画家。浦和画家のひとり。 日本画は川合玉堂に学び、自らの雅号を一穂と号した。26年間埼玉県立浦和高等学校(浦和中学時代から)に勤務し、以後浦和高校教頭、春日部女子高校校長、久喜高校校長も務め、教育功労者として表彰された。 のちに浦和画家と呼ばれることとなる多くの画家を指導したことで知られており、日展理事長や日本芸術院会員である高田誠、人間国宝の増田三男をはじめ、渡辺武夫、金子徳衛、川村親光、小松崎邦雄、尾上一男、金子仁三郎、小川游、三尾彰藍などを指導した。松岡映丘にも師事し大和画の研究を行い、新興大和画展に発表した。
早嶋 喜一(はやしま きいち、1900年(明治33年)12月… 早嶋 喜一(はやしま きいち、1900年(明治33年)12月28日 - 1966年(昭和41年)2月4日)は、日本の実業家。産業経済新聞社長で旭屋書店の創業者。産経学園理事長。 岡山県津山市の出身。津山中学から早稲田大学に進学するも中退。職を転々とした後、1924年(大正13年)に前田久吉の経営する南大阪新聞社に入社する。前田が『南大阪新聞』・『日本工業新聞』を根城に事業を拡張すると早嶋もそれらの事業に関与し、戦時中の新聞統制に伴う合併を経て、2紙は『大阪新聞』と『産業経済新聞』となるが、早嶋は大阪新聞では専務、産業経済新聞では社長にまで登り詰める。 戦後の1947年(昭和22年)、早嶋は公職追放に伴い大阪新聞・産業経済新聞の役職を退くが、前年に大阪市北区で創業していた雑貨・化粧品販売店「旭屋商店」を書籍専業の「旭屋書店」とし、書店経営に専念する。
久保 栄(くぼ さかえ 1900年(明治33年)12月28日… 久保 栄(くぼ さかえ 1900年(明治33年)12月28日 - 1958年(昭和33年)3月15日)は、日本の劇作家・演出家・小説家・批評家。代表作に『火山灰地』、『のぼり窯』などがある。
筏井 嘉一(いかだい かいち、1899年(明治32年)12月… 筏井 嘉一(いかだい かいち、1899年(明治32年)12月28日 - 1971年(昭和46年)4月21日)は、富山県高岡市桐木町出身の歌人。父は俳人の筏井竹の門で、長男として生まれた。 高岡中学校を卒業。詩人、童謡作家、歌人である北原白秋の『桐の花』に感銘を受け、1914年(大正3年)に巡礼詩社および短歌雑誌『日光』に入会、白秋に師事する。1921年(大正10年)に上京し、音楽専科の小学校教師として働く。 白秋門下としては珍しく昭和初期のモダニズム短歌運動に同調し、1928年(昭和3年)、歌人の坪野哲久、前川佐美雄らと共に新興歌人連盟を結成。また、村野次郎主宰の歌誌『香蘭』の選者を担当した。1935年(昭和9年)、白秋が創刊した『多磨』に参加を乞われたが辞退。
生悦住 貞太郎(いけずみ ていたろう、1898年(明治31年… 生悦住 貞太郎(いけずみ ていたろう、1898年(明治31年)12月28日 – 1984年(昭和59年)4月25日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、ダイジェット工業社長、同会長。 奈良県宇陀郡三本松村(室生村を経て現宇陀市)で生まれる。生悦住安蔵の長男。1914年(大正3年)三本松村大野尋常高等小学校を卒業し、隣家、田畑商店の年季奉公人となり醤油の行商に従事した。1919年(大正8年)家出して大阪に移り石堂鋼商会で働く。大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)採鉱冶金科の夜学で学び、1923年(大正12年)に卒業した。 1924年(大正13年)米子製鋼所に入社。1928年(昭和3年)独立して三重県飯南郡松阪町(現松阪市)で生悦住鋼商会を開業。
出口 日出麿(でぐち ひでまる、旧名:高見元男、1897年1… 出口 日出麿(でぐち ひでまる、旧名:高見元男、1897年12月28日 - 1991年12月25日)は、大本教の第三代教主補。岡山県倉敷市出身。第二次大本事件にて当時の政府管轄の元特高警察により不当逮捕後、投獄。獄中にて殴打、抜歯、焼鉄、抜爪、ほか、筆舌に尽くし難い凄惨な拷問を受けるが、奇跡的に一命を取り留める。 1897年(明治30年)岡山県倉敷市阿智町に高見元男として生まれる。旧制岡山中学、旧制六高を経て、1924年に京都帝国大学文学部を中退。 1928年、大本の第三代教主となる出口直日と結婚。大本総統補、昭和青年会総裁補、人類愛善新聞社社長など大本の要職につき出口王仁三郎の後継と目される。
高木 永二(たかぎ えいじ、1896年12月28日 - 19… 高木 永二(たかぎ えいじ、1896年12月28日 - 1943年12月14日)は、日本の俳優である。本名高木 英二(たかぎ えいじ)。『大地は微笑む』の主演、『新版大岡政談』、『織田信長』の助演で知られる。 1896年(明治29年)12月28日(12月12日)、兵庫県神戸市に生まれる。 東京に移り、旧制・荏原中学校(現在の日本体育大学荏原高等学校)に入学、同校を卒業し、旧制・早稲田大学予科(現在の早稲田大学高等学院)に進学する。同学予科を終了後の1916年(大正5年)、単身アメリカ合衆国に留学し、1918年(大正7年)に帰国する。1920年(大正9年)、神戸に帰って、ドイツ系資本の高級ホテル「トアホテル」(現存せず、現在跡地に神戸外国倶楽部)に勤務したが、1921年(大正10年)、東京に戻って、松竹蒲田撮影所に入社、満24歳のころから俳優生活を始める。
山根 幹人(やまね みきと、-みきひと、1893年12月28… 山根 幹人(やまね みきと、-みきひと、1893年12月28日 - 1947年8月11日)は、日本の映画監督、映画理論家である。 1893年(明治26年)12月28日、島根県安濃郡川合村(現在の大田市川合町)に生まれる。松江市の島根師範学校(現在の島根大学教育学部)付属小学校を経て、島根県立松江中学校(現在の島根県立松江北高等学校)を中退、上京して東京工科学校(現在の日本工業大学)電工科を卒業した。小説家を志しつつ『活動之世界』誌の記者を経て、『活動旬報』誌を創刊する。 1919年(大正8年)、25歳のときに、高松豊次郎が東京府下南葛飾郡吾嬬町(現在の墨田区京島3丁目)に撮影所を開設して設立した「活動写真資料研究会」に参加、同年11月17日には設立第1作として山根が監督した『日本労働問題』が神田青年館で公開された。
邦枝 完二(くにえだ かんじ、1892年12月28日 - 1… 邦枝 完二(くにえだ かんじ、1892年12月28日 - 1956年8月2日)は、日本の小説家。本名は邦枝 莞爾。雅号は双竹亭竹水。戸籍上の誕生日は1893年1月1日。 1892年(明治25年)12月28日東京市麹町区(現・千代田区)東京麹町生れ。祖父は300石取りの幕臣、父は馬術に長じていたという。母方の叔父が浮世絵収集や江戸戯作者を好む通人であったところから、少年時代からその影響を受ける。 麹町小学校を経て商工中学校卒業後、慶應義塾大学予科、東京外国語学校に籍を置いたことになっているが、学生とは名ばかりで、創作に熱心であった。在学中から永井荷風に私淑し、荷風の推薦で処女作『廓の子』が雑誌「三田文学」に掲載された。
杵村 久蔵(きねむら ひさぞう、1891年(明治24年)12… 杵村 久蔵(きねむら ひさぞう、1891年(明治24年)12月28日 - 1938年(昭和13年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鳥取県米子市立町の農家に生まれた。父梅蔵は糺山のあたりで百姓をしていたという。 米子中学(現在の米子東高校)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官。さらに中尉のとき、陸軍大学校(32期)に入校。同校を優等で卒業、恩賜の軍刀組であった。アメリカ駐在を経験している。 少壮気鋭の尉官時代、皇族李王家の御付武官をつとめた。1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し、朝鮮軍隷下第20師団参謀長に任命される。
石田 幹之助(いしだ みきのすけ、1891年12月28日 -… 石田 幹之助(いしだ みきのすけ、1891年12月28日 - 1974年5月25日)は、日本の歴史学者、東洋学者。國學院大學や大正大学、日本大学などで教授をつとめた。芥川龍之介とは、一高同級生の友人だった。
小林 壬(こばやし おおい、1891年12月28日 - 19… 小林 壬(こばやし おおい、1891年12月28日 - 1985年12月31日)は、日本の経営者。広島県出身。 1913年に東北帝国大学専門部機械工学科を卒業し、同年4月に高田商会に入社。1920年9月に高砂熱学工業に転じ、1937年12月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1955年7月には社長に就任。1968年6月から会長を務めた。 1958年11月に黄綬褒章を受章し、1966年4月に勲五等瑞宝章を受章。
大西 猪之介(おおにし いのすけ、1888年(明治21年)1… 大西 猪之介(おおにし いのすけ、1888年(明治21年)12月28日 - 1922年(大正11年)2月8日)は日本の経済学者。専攻は経済哲学・経済思想史。 京都市上京区に生まれる。1905年、京都市立商業学校を卒業し神戸高等商業学校(現・神戸大学)に入学。津村秀松に師事し、1909年、500頁に及ぶ卒業論文「帝国主義論」を提出(のち刊行)して卒業し東京高等商業学校専攻科(現・一橋大学)に入学。關一の指導を受け、關の退官後は福田徳三の指導を受けた。1911年には卒論「社会主義に関する研究」を提出し卒業し、同年小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)講師、小樽高等商業学校図書館主幹に就任。 1913年、同校の教授に昇任し、同年1月から1917年8月まで「経済学及商業学研究」のためヨーロッパに留学した。
倉橋 惣三(くらはし そうぞう 1882年12月28日 - … 倉橋 惣三(くらはし そうぞう 1882年12月28日 - 1955年4月21日)は、日本の児童心理学者。
林田 操(はやしだ みさお、1880年12月28日 - 19… 林田 操(はやしだ みさお、1880年12月28日 - 1972年1月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県出身。1906年、東京帝国大学独法科卒。富士瓦斯紡績(株)に入り、工場長、調査部長から、中津絹糸紡績(株)専務取締役を経て、富士瓦斯紡績専務取締役となり、富士電力(株)取締役、(株)伊勢丹常務取締役を務めた。 1934年1月の福岡4区での補欠選挙に立憲政友会公認で立候補して初当選した。衆議院議員を1期務め、1936年の第19回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1972年死去。
川崎 克(かわさき かつ、本名:かわさき こく(漢字は同じ)… 川崎 克(かわさき かつ、本名:かわさき こく(漢字は同じ)、1880年(明治13年)12月28日 - 1949年(昭和24年)2月3日)は、日本の政治家。長男に実業家の川崎勉、次男に元厚生大臣の川崎秀二がいる。元厚生労働大臣の川崎二郎は孫、川崎秀人は曾孫にあたる。 三重県伊賀上野(現・伊賀市)出身。生家は油屋である。1898年(明治31年)に、政治家を志して同じ郷土三重県出身の尾崎行雄を頼って上京した。日本法律学校(現在の日本大学)で法律を学び、東京外語学校(現在の東京外国語大学)でフランス語を学んだ。1903年(明治36年)に東京市長であった尾崎の下で東京市の書記を務めた後、日本新聞社記者となり日本の統治下であった朝鮮半島に渡り元山時事新報の記者、元山民団の団長を務める。
大川 寿賀(おおかわ すが、1879年(明治12年)12月2… 大川 寿賀(おおかわ すが、1879年(明治12年)12月28日 - 1970年(昭和45年)10月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1879年(明治12年)12月28日、高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)で生まれた。海南中学を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。1929年(昭和4年)8月、歩兵第23連隊長(宮崎)に就任。1932年(昭和7年)4月、陸軍少将になる。 退役後は土佐在郷将校会副会長、帝国在郷軍人会高知市連合会長等を歴任。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。 1970年(昭和45年)10月、90歳で死去した。