篠原 正瑛(しのはら せいえい、1912年3月29日 - 2… 篠原 正瑛(しのはら せいえい、1912年3月29日 - 2001年11月15日)は、日本の哲学者。 東京府出身。1939年に上智大学文学部哲学科を卒業後、フンボルト財団の奨学金によりドイツに留学した。これは「日独交換留学」によるものであった。ベルリン大学哲学科およびイェーナ大学哲学科を修了してドイツ国立ヨハヒムスタール・ギムナジウム教授となる。留学中はカール・ヤスパースやエドゥアルト・シュプランガーに指導を受けた。 ドイツ降伏後、連合軍による抑留と、スイスでの療養生活を経て1949年3月29日に空路で日本に帰国した。帰国の際、シュプランガーから日本国民へのメッセージを預かり、帰国直後は療養生活を続けていた。
稲山 壬子(いなやま じんし、1912年3月29日 - 19… 稲山 壬子(いなやま じんし、1912年3月29日 - 1996年4月18日)は、日本のバレーボール指導者。 埼玉県南埼玉郡宮代町出身。日本体育会体操学校(後の日本体育大学)を経て、1933年に東京千代田学園バレーボール部監督。1943年に久喜高等女学校(現久喜高校)バレーボール部監督に就任し、全国大会優勝4回を達成。同校をバレーボール名門校に導いた。 1962年に1964年東京オリンピック強化コーチに就任。同大会での金メダル獲得に陰ながら貢献した。 1969年に東京三洋電機バレー部監督に就任し、チームを日本リーグ昇格まで導いた。全く無名の新人だった前田悦智子を「三年以内に全日本のエースにする」と宣言し育成した。
塚本 俊雄(つかもと としお、1912年(明治45年)3月2… 塚本 俊雄(つかもと としお、1912年(明治45年)3月29日 - 1990年(平成2年)9月1日)は、昭和から平成初期の地方公務員、政治家。東京都目黒区長(4期)。 静岡県磐田市生まれ。目黒区総務課長、1965年総務部長、監査委員、1970年助役を経て、1975年区長。 1990年9月1日、急性心不全のため任期中に死去。78歳没。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
高石 千之(たかいし ちゆき、1910年3月29日 - 19… 高石 千之(たかいし ちゆき、1910年3月29日 - 1994年10月5日)は、日本の経営者。近鉄百貨店社長を務めた。和歌山県出身。 1930年に大阪商科大学高等商業部を卒業し、同年に大和鉄道に入社し、1936年6月に大阪電気軌道(のちの近畿日本鉄道)に転じる。1965年5月に取締役に就任し、1968年11月に常務、1971年5月に専務、1972年4月に近鉄百貨店専務、1974年6月に副社長を経て、1978年5月に社長に就任。1985年5月に会長に就任。 1994年10月5日心不全のために死去。84歳没。
菅沢 英夫(すがさわ ひでお、1910年3月29日- 199… 菅沢 英夫(すがさわ ひでお、1910年3月29日- 1999年4月28日 )は、日本の経営者。大成建設社長、会長を務めた。 茨城県出身。1935年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、同年に大倉土木(のちの大成建設)に入社した。1961年5月に取締役に就任し、1969年5月に常務、1971年5月に専務を経て、1974年5月に副社長に就任し、1975年5月には社長に昇格。1979年6月に会長に就任し、1981年6月には相談役に就任。 1999年4月28日、気管支喘息のために横浜市の病院で死去。89歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
関 四郎(せき しろう、1909年3月29日 - 1990年… 関 四郎(せき しろう、1909年3月29日 - 1990年12月12日)は日本の電気技師。国鉄常務理事、明電舎社長、鉄道技術協会会長、電気学会会長などを務めた。ペンネーム芝山 倉平(しばやま くらへい)による探偵小説「電気機関車殺人事件」の作者としても知られる。 北海道札幌市生まれ。北海道帝国大学工学部卒。国鉄で技師を務めていた。1943年(昭和18年)に「国有鉄道1万キロ電化の提唱」を発表するなど国鉄の電化の必要性を強く訴えたが、戦時下にあって鉄道電化は遅々として進まなかった。終戦間もない1945年9月には上越線電化に向けて活動を開始。人材、食料、資材、資金が極度に不足する中で、1947年(昭和22年)4月には上越南線(高崎~水上間)、同10月には上越北線(石打~長岡間)の電化を完成させた。
花田 清輝(はなだ きよてる、1909年〈明治42年〉3月2… 花田 清輝(はなだ きよてる、1909年〈明治42年〉3月29日 - 1974年〈昭和49年〉9月23日)は、作家・文芸評論家。巧みなレトリックを駆使した文体を特徴とし、映画や演劇の評論も多く手がけ、日本のアヴァンギャルド芸術論の先駆的存在であった。 1909年3月29日、福岡県福岡市東公園に生まれ、一人っ子として育つ。先祖は毛利輝元であり、清輝の曽祖父は黒田藩の右筆で、名前には代々「輝」の字を付ける習いだった。旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)時代は柔道に熱中し、また父ともに短歌を新聞等に投稿していた。 1926年4月、鹿児島の第七高等学校甲類に入学、西田哲学に没入、また寮誌『白光』を創刊し長編詩「樹下石上」などを発表。
坂口 敏之(さかぐち としゆき、1909年3月29日 - 1… 坂口 敏之(さかぐち としゆき、1909年3月29日 - 1999年)は、日本の医師、軍医。 熊本県玉名郡梅林村(現・玉名市)に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1927年卒業)を経て、熊本医科大学を卒業した。 1937年7月には上海に派遣され患者輸送部隊の医師として、負傷した兵士を野戦病院から後方へ送る仕事に従事した。太平洋戦争開戦後は軍医として徴兵され、マレー作戦に従軍し、1942年秋まで占領地を移った。 戦後は福岡県大牟田市の三井三池鉱業所病院に勤め、定年退職後に開業医となった。1952年に熊本大学より医学博士号を取得している。1975年には『肥後の子供歳時記』を刊行した。
石川 太刀雄(いしかわ たちお、1908年3月29日 - 1… 石川 太刀雄(いしかわ たちお、1908年3月29日 - 1973年10月19日)は、医師、病理学者。父は同じく医学博士の石川日出鶴丸。別名「石川 太刀雄丸」(いしかわ たちおまる)、「石川 大刀雄」いしかわ たちお)。 1908年、石川日出鶴丸の息子・太刀雄丸として富山県射水郡下村で誕生。本人の弁によると、自分としては太刀雄であるが戸籍係の間違いで丸の字がついたのだ、といわれている。第四高等学校 (旧制)を経て、1931年、京都帝国大学医学部を卒業。 卒業後は、同大医学部講師に就任。1938年、医学博士の学位を取得した。京都帝国大学の病理学者清野謙次の勧めで、大日本帝国陸軍技師として満州国にわたった。
平河 一夫(ひらかわ かずお、1908年 <明治41年> 3… 平河 一夫(ひらかわ かずお、1908年 <明治41年> 3月29日 - 1980年 <昭和55年> 9月19日)は、日本の経営者。神奈川県出身。 1932年に京都帝国大学法学部を卒業し、1949年5月に日動火災海上保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1962年6月に常務、1964年1月に専務を経て、1966年2月には社長に就任。1969年5月から1972年6月までに会長を務めた。 19809月19日急性腎不全のために死去。72歳没。
杉田 馨子(すぎた けいこ、1908年(明治41年)3月29… 杉田 馨子(すぎた けいこ、1908年(明治41年)3月29日 – 1992年(平成4年)12月23日)は日本の政治家、衆議院議員(1期)。旧姓塚本。 東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。実家は精密機械製造・輸入業を営んでいた。1930年日本女子大学高等学部英文科卒。萬朝報の記者だった杉田省吾と結婚。その後は北京中央広播電台放送科に勤務する。1946年の第22回衆議院議員総選挙に茨城県から公職追放により立候補不可となった夫に代わって日本自由党公認で立候補して当選した。同年暮れに夫が死去した。 翌年の総選挙で茨城3区から立候補したが落選。落選後の1948年、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
金子 正則(かねこ まさのり、1907年〈明治40年〉3月2… 金子 正則(かねこ まさのり、1907年〈明治40年〉3月29日 - 1996年〈平成8年〉10月21日)は、日本の政治家、判事。6期24年の間、香川県知事を務めた。位階は従三位。 1907年(明治40年)3月29日、香川県丸亀市に生まれる。香川県立丸亀中学校、第六高等学校を経て、1929年(昭和4年)に東京帝国大学法学部法律学科を卒業、司法官試補となる。1931年(昭和6年)に大阪地方裁判所および大阪区裁判所の判事に就き(兼任、以下同)、翌1932年に旭川地方裁判所および旭川区裁判所の判事に転任。その後、1935年に札幌地方裁判所および札幌区裁判所、1936年(昭和11年)に長野地方裁判所および長野区裁判所、1937年(昭和12年)に東京地方裁判所および東京区裁判所の判事を歴任している。
島田 修二郎(しまだ しゅうじろう、1907年3月29日 -… 島田 修二郎(しまだ しゅうじろう、1907年3月29日 - 1994年4月11日)は、日本の美術史学者。プリンストン大学名誉教授。考古学者の島田泉は次男。 兵庫県出身。京都帝国大学卒。京都国立博物館美術室長、1964年プリンストン大学教授。中国の画論「松斎梅譜」や正倉院の「鳥毛立女屏風」などの研究がある。1991年朝日賞受賞。
桂川 質郎(かつらがわ しちろう、1907年〈明治40年〉3… 桂川 質郎(かつらがわ しちろう、1907年〈明治40年〉3月29日 - 2003年〈平成15年〉10月24日)は、宮城県名取郡(現在の名取市)出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は楯山部屋)に所属した大相撲力士。本名は檀崎 質郎(だんざき しちろう)。現役時代の体格は身長170cm、体重88kg。得意手は右四つ、突っ張り、吊り。最高位は、西前頭筆頭(1937年(昭和12年)1月場所)。 引退後は夢想神伝流居合の修行に没頭し、檀崎 友彰(だんざき ともあき)と名乗った。段位は居合道範士九段、杖道範士七段、剣道教士七段。 1927年(昭和2年)10月場所に於いて、20歳で初土俵。四股名ははじめ、出身地の宮城県名取郡に因んだ「名取川」を名乗った。
笹川 恵三(ささがわ けいぞう、1906年3月29日 - 没… 笹川 恵三(ささがわ けいぞう、1906年3月29日 - 没年不詳)は、日本の俳優。東京府荏原郡目黒村(現:東京都目黒区)出身。劇団同志座創立メンバーの一人。
村井 正誠(むらい まさなり、明治38年(1905年)3月2… 村井 正誠(むらい まさなり、明治38年(1905年)3月29日 - 平成11年(1999年)2月5日)は、明治 - 平成時代の洋画家。岐阜県大垣市出身。新宮市名誉市民。武蔵野美術大学名誉教授。閉校した文化学院および文化学院芸術専門学校(埼玉県庄和町)講師。元日本美術家連盟理事長。 抽象絵画の草分けの一人として活躍した。作品にシリーズ「URBAIN」などがある。 岐阜県に生まれ、村井昌澄と、とみゑの次男。眼科医のであった父の転勤によって、幼少期を和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)で過ごす。新宮第一尋常小学校3年生の頃にスケッチをしている西村伊作(後に入学する文化学院の創設者)に出逢う。西村の作品を後ろから覗き見た経験が美術に対して興味を持つきっかけの一つになる。
上野 次郎男(うえの じろうお、1905年 <明治38年> … 上野 次郎男(うえの じろうお、1905年 <明治38年> 3月29日 - 1971年 <昭和46年> 8月25日)は、日本の経営者。積水化学工業社長、積水ハウス産業代表取締役を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 鹿児島県川内市(現在の薩摩川内市)出身。1927年に東京帝国大学経済学部を卒業。報知新聞社での勤務を経て、日本窒素肥料に転じた。1947年に取締役に就任し、1951年2月に再び取締役に就任し、同年9月に積水化学工業社長に就任し、1960年8月に積水ハウス産業代表取締役に就任した。その一方で、讀賣テレビ放送取締役、関西経済連合会理事も務めた。 1957年に紺綬褒章を受章し、1963年に藍綬褒章を受章した。
高杉 年雄(たかすぎ としお、1904年(明治37年)3月2… 高杉 年雄(たかすぎ としお、1904年(明治37年)3月29日-1984年(昭和59年)1月6日)は、日本の医学者、学校経営者。医学博士(北海道帝国大学)。 青森県弘前市で出生後、北海道札幌に移住。1921年北海道庁立札幌第二中学校卒業。1928年(昭和3年)北海道帝國大学医学部卒業。1930年同医学部助手。1933年北海道帝国大学にて論題「沃度代謝と消化器との関係」にて医学博士受く。1933年北海道帝国大学医学部第二内科講師。1934年同医学部第二内科助教授。1947年北海道大学医学部内科学第三講座初代教授及び北海道大学病院医科第三内科長に任命される。1955年(昭和30年)北海道大学医学部附属病院院長。
小森田 一記(こもりだ かずき、1904年3月29日 - 1… 小森田 一記(こもりだ かずき、1904年3月29日 - 1988年9月25日)は、日本の雑誌編集者、事業家。 1904年に熊本県菊水町(現和水町)に生まれる。最初農業に従事しようと親戚の家で馬肥づくりをするが、途中で日本の文化界に尽くしたいと、独学で旧制中学四年の編入試験に合格、新聞配達等をして苦学しながら、1930年に早稲田大学政経学部経済学科を卒業。同郷である朝日新聞編集主幹・牧野輝智の庇護と推薦を受けて中央公論社に入社、28歳で婦人公論の編集長を務める。1937年から1940年の間は編集長を務めた。 1944年に横浜事件が発生すると事件の舞台となった雑誌『改造』とともに編集が左翼的であったとして『中央公論』も弾圧対象となり、小森田を含む8人の編集者らが逮捕、勾留された。
立花 止(たちばな いたる、1903年(明治36年)3月29… 立花 止(たちばな いたる、1903年(明治36年)3月29日 - 1954年(昭和29年)6月7日)は、日本の海軍軍人。米国駐在時代に情報活動に従事しFBIに逮捕され国外追放処分を受ける(立花事件)。最後の連合艦隊参謀の一人である。最終階級は海軍大佐。 熊本県出身。鹿本中学を経て海軍兵学校に進む。海兵52期で源田實、内藤雄、淵田美津雄らが同期生である。1925年(大正14年)少尉任官。立花は運用術航海学生を修了した航海科専攻の士官で、駆逐艦「吹雪」、「漣」、軽巡洋艦「川内」、重巡洋艦「三隈」の航海長を務めている。 大尉時代は練習艦隊参謀兼副官として、海兵60期(板谷隆一クラス)らの遠洋航海に参加。
川崎 大治(かわさき だいじ(たいじ)、本名:池田 政一(い… 川崎 大治(かわさき だいじ(たいじ)、本名:池田 政一(いけだ まさかず)、1902年3月29日 - 1980年8月8日)は、日本の児童文学作家。プロレタリア児童文学の運動にも関わった。また、紙芝居の制作にも携わり、第二次世界大戦後の民主主義教育の普及にも貢献した。 北海道札幌市生まれ、旭川市出身。幼少期は巖谷小波に関心をもち、図書館に通って巌谷の本を二百冊以上読んでいた。1919年に北海道庁立旭川中学校を卒業後に上京、巌谷小波のもとを訪ねて師事。早稲田第二高等学院を経て早稲田大学文学部英文学科卒業。在学中に大杉栄の全集を読んで影響を受け、早大童話会にも所属していた。また巌谷の翻訳業の下請けをして学費や生活費を稼いでいた。
冨澤 有爲男(とみさわ/とみざわ ういお、1902年3月29… 冨澤 有爲男(とみさわ/とみざわ ういお、1902年3月29日 - 1970年1月15日)は、日本の作家、画家。 大分県大分市生まれ。父・冨澤久蔵は中学校の英語教師をしており、転勤の都合により全国に移り住む。やがて幼年期より名古屋市で過ごす。旧制東海中学校卒業。東京美術学校に進学して絵画だけでなく文学についても学ぶが1年で中退し、漫画記者として新愛知新聞(現在の中日新聞)に入社する。 1921年より2年連続で帝展に入選し、1927年にはフランスへ1年間留学し絵画を学んだが、その側で作家としての活動も行い1925年に同人誌『鷲の巣』を創刊している。1930年に結婚し、東京市牛込区天神町(当時)へ移住すると、次第に作家としての活躍が認められるようになり、1936年8月に発表した『地中海』で翌1937年2月に芥川賞を受賞した。
小川 芳樹(おがわ よしき、1902年3月29日 - 195… 小川 芳樹(おがわ よしき、1902年3月29日 - 1959年3月27日)は、昭和期の冶金学者・金属工学者。東京府(現:東京都)出身。
富永 祐治(とみなが ゆうじ、1902年(明治35年)3月2… 富永 祐治(とみなが ゆうじ、1902年(明治35年)3月29日 - 1997年7月25日)は、日本の交通経済学者。大阪市立大学経済学部名誉教授。 東京商科大学(のち一橋大学)卒、大塚金之助に師事。1929年大阪商科大学付属大阪市経済研究所勤務、1933年大阪商大助教授、教授、1953年「交通における資本主義の発展」で大阪商大経済学博士、大阪市立大学経済学部教授、1965年定年退官、名誉教授。都市交通研究所長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
寺田 栄吉(てらだ えいきち、1902年(明治35年)3月2… 寺田 栄吉(てらだ えいきち、1902年(明治35年)3月29日 - 1993年(平成5年)8月1日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、大阪府泉北郡高石町長。号・青胡。 1902年(明治35年)大阪府で寺田財閥創業者寺田甚与茂の四男として生まれる。1929年(昭和4年)明治大学商科卒業。 1940年(昭和15年)兄(寺田甚吉)の後を継ぎ、岸和田紡の社長となり、戦争時の要請により、岸和田紡績を大日本紡績(現ユニチカ)に合併した後はその専務まで務めた他、寺田財閥系企業などの経営に関与した(オーツタイヤ社長、 朝日火災海上保険常務など)。 また、大日本紡績常務のときに、経済同友会が発足し、幹事に就任した。
尾形 六郎兵衛(おがた ろくろうべえ、1901年(明治34年… 尾形 六郎兵衛(おがた ろくろうべえ、1901年(明治34年)3月29日 - 1973年(昭和48年)7月24日)は、日本の漁業家、政治家、参議院議員、自由党所属、栄典は正五位・勲三等・瑞宝章・藍綬褒章、幼名は昌作。
羽仁 五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月… 羽仁 五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員。日本学術会議議員。
晋 直鉉(チン・ジッキョン、朝鮮語: 진직현/晉直鉉、190… 晋 直鉉(チン・ジッキョン、朝鮮語: 진직현/晉直鉉、1901年3月29日 - 没年不詳)は、大韓民国の法曹、政治家。制憲韓国国会議員。 親族に国会議員が多い。李坰鎬は娘婿、李玲愛(朝鮮語版)は外孫娘、金賛鎮(朝鮮語版)はその夫、孫周恒は甥(姉妹の息子)。 全羅北道任実郡出身。京城中学校、京城法学専門学校、普成専門学校、明治大学高等研究科卒。1922年に日本の弁護士試験に合格後は弁護士を開業した。解放後は大韓独立促成国民会所属の国会議員のほか、大韓独立促成国民会任実郡支部委員長、任実警察後援会長、任実公立国民学校後援会長、任実郡畜産協会長、任実郡厚生協会副会長などを務めた。1950年の第2代総選挙と1954年の第3代総選挙では民国党から出馬したが、当選できなかった。
玉碇 佐太郎(たまいかり さたろう、1901年3月29日 -… 玉碇 佐太郎(たまいかり さたろう、1901年3月29日 - 1975年10月25日)は、和歌山県海南市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名山村 佐太郎(やまむら さたろう)。最高位は前頭筆頭。身長170cm、体重105kg。得意手は押し。 1920年1月場所初土俵、1925年1月に十両昇進、一時幕下に陥落したが、1928年3月新入幕をはたした。横綱・宮城山福松に強く、金星を3個獲得している。1932年1月、春秋園事件で脱退。1937年末の関西協会の解散まで現役を続けた。 徹底した押し相撲で、指が変形したほど稽古に打ち込んだ。生涯四つ相撲になったのが二番、打っ棄りを食らったことは一度もなく、「相撲の神様」と呼ばれた幡瀬川が絶賛していた。
南城 一夫(なんじょう かずお、1900年〈明治33年〉3月… 南城 一夫(なんじょう かずお、1900年〈明治33年〉3月29日 - 1986年〈昭和61年〉2月25日)は、日本の画家。花や小動物などをモチーフとして、詩情豊かな作品を描いた。 1900年(明治33年)群馬県前橋市一毛町(現・城東町)に、南城要三郎・ふみの長男として生まれる。群馬師範学校附属小学校を経て、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶ。前橋中学校の同級生に洋画家の横堀角次郎や詩人の萩原恭次郎がいる。 1918年(大正7年)に同校を卒業すると、先輩の俳優・河原侃二のすすめにより岡田三郎助主宰の本郷洋画研究所に入所し絵画を学んだ。ここで岡鹿之助、伊藤廉と知り合う。1920年(大正9年)に東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学。
中原 義一郎(なかはら ぎいちろう、1900年(明治33年)… 中原 義一郎(なかはら ぎいちろう、1900年(明治33年)3月29日 - 1944年(昭和19年)8月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 高知県出身。教員・中原寿弥太の長男として生まれる。京都一中を経て、1920年(大正9年)7月、海軍兵学校(48期)を卒業。翌年6月に海軍少尉任官。1923年(大正12年)12月、海軍水雷学校普通科を卒業し夕暮乗組となる。1927年(昭和2年)2月、膠州分隊長となり、第32号駆逐艦(三日月 [II])航海長、鶴見分隊長、疾風航海長などを経て、1931年(昭和6年)12月から一年間、水雷学校特修科学生として学んだ。1932年(昭和7年)12月、栗駆逐艦長に就任し、翌年11月、海軍少佐に昇進した。
武島 一義(たけしま かずよし、1899年(明治32年)3月… 武島 一義(たけしま かずよし、1899年(明治32年)3月29日 - 1975年(昭和50年)6月30日)は、日本の内務官僚。官選鳥取県知事。 福岡県山門郡柳河町(現・柳川市)出身。第五高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東京市を経て、1926年、内務省に入省し宮崎県事務官となる。 以後、沖縄県、茨城県、長野県で勤務。さらに、厚生省生活課長、熊本県内政部長を歴任。 1943年7月、鳥取県知事に就任。同年9月に発生した鳥取地震の復興に尽力。1945年4月に知事を退任。同年に公職追放となり退官した。
鈴木 良三(すずき りょうぞう、1898年3月29日 - 1… 鈴木 良三(すずき りょうぞう、1898年3月29日 - 1996年10月19日)は、日本の画家。茨城県水戸市出身。 水戸市の下市病院院長・鈴木錬平の三男として生まれる。旧制茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業して、1917年に東京慈恵会医科大学に入学。在学中、叔父の幼なじみの画家中村彝や川端画学校で絵を学ぶ。1922年に東京慈恵医科大学を卒業するも、画家の仲間らによる「金塔社」の結成に参加。同年、帝展に初入選を果たす。1928年から1930年にかけてフランスに渡航する。1936年に結成された一水会(有島生馬・石井柏亭・安井曾太郎らが参加)の展覧会には、複数にわたり作品を出品した。
岡見 健彦(おかみ たけひこ、1898年3月29日 - 19… 岡見 健彦(おかみ たけひこ、1898年3月29日 - 1972年)は、日本の建築家。遠藤新の事務所を経て、フランク・ロイド・ライトに学び、ライトの影響を受けつつもモダニズム的な作品を制作した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
井上 孝太郎(いのうえ こうたろう、1898年3月29日 -… 井上 孝太郎(いのうえ こうたろう、1898年3月29日 - 1984年5月23日)は、日本の教育者。 井上為三郎の三男として福岡県に生まれる。1933年東京文理科大学(東京教育大学文学部・理学部の前身)数学科を卒業。 1949年4月より1958年3月まで福岡県立修猷館高等学校館長(校長)を務め、小倉市(現・北九州市)の常盤高等学校校長を経て、1960年11月より1963年1月まで純真女子高等学校(現・純真高等学校)校長、および純真女子短期大学(現・純真短期大学)学長に就任する。その間、1961年1月福岡県教育委員に挙げられ、後に同委員長を務める。 その後、精華女子短期大学学生部長、福岡家庭裁判所調停委員などを務めた。
小畑 信良(おばた のぶよし、1897年(明治30年)3月2… 小畑 信良(おばた のぶよし、1897年(明治30年)3月29日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。兄に小畑英良。 大阪府出身。地主・小畑万治郞の七男として生まれる。茨木中学校卒。日本軍において、輜重兵科として陸軍大学校に入校し卒業した数少ない将校であった。 太平洋戦争開戦前の1941年(昭和16年)2月初め以来、参謀本部第1部内で小畑を長とする研究班が設置され、秘密裏に南方占領地行政に関する研究を行う。 1943年(昭和18年)3月には第15軍参謀長に着任。第15軍司令部で後のインパール作戦が起案された際、小畑はアラカン山系のジャングルを越える作戦実施は不可能と判断して作戦に反対した。
太刀光 電右エ門(たちひかり でんえもん、1897年3月29… 太刀光 電右エ門(たちひかり でんえもん、1897年3月29日 - 1952年5月15日)は、北海道三笠市出身で高砂部屋(入門時は友綱部屋)に所属した大相撲力士。本名は八田 政次(はった まさつぐ(まさじ))。最高位は東大関。 1897年3月29日に北海道空知郡(現:北海道三笠市)で鉱夫の二男として生まれる。1912年の夏に太刀山峯右エ門一行が札幌へ巡業に来た際に兄に付き添われて直接弟子入りを志願したが、小兵だったことで見込みが無いと判断され、諭された上に断られた。それでも政次少年は熱心に入門を志願したため、太刀山自ら「厳しい修行に耐えられるか」と問い、その様子を傍で見ていた代議士も口添えしてくれたため、友綱部屋への入門を許可された。
武田 正泰(たけだ まさやす、1896年 <明治29年> 3… 武田 正泰(たけだ まさやす、1896年 <明治29年> 3月29日 - 1969年 <昭和44年> 5月23日)は、日本の経営者。位階は従四位。 愛媛県出身。1916年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井倉庫に入社。1943年11月に取締役に就任し、常務を経て、1947年に社長に就任し、1968年5月までに務めた。1959年に藍綬褒章を受章し、1966年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1969年5月23日がん性腹膜炎のために死去。73歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
沼田 恒夫(ぬまた つねお、1895年3月29日 - 196… 沼田 恒夫(ぬまた つねお、1895年3月29日 - 1967年4月9日)は、日本の政治家。元愛媛県大洲市長、今治市長。 旧制大洲中学校(現:愛媛県立大洲高等学校)卒業。喜多郡役所書記を経て、1939年愛媛県属となり、地方課長・商工課長などを歴任した。1942年に今治市長阿部秀太郎に招かれて助役になり、1943年12月今治市長に就任して戦時下の市政を担当した。敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の政令第3号によって市長職を離れた。 1954年に大洲市長選挙に立候補し元菅田村村長の有友寿次郎を破り初当選、初代大洲市長に就任した。1958年の市長選挙において無投票で当選を果たし、2選。3選を目指し、1962年の大洲市長選挙に立候補したが新人で愛媛県議会議員の森永冨茂に破れ落選。
上滝 基(こうたき もとい、1894年(明治27年)3月29… 上滝 基(こうたき もとい、1894年(明治27年)3月29日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 福岡県三井郡味坂村(現在の小郡市)出身。1917年(大正6年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。朝鮮総督府試補、同事務官を経て、1924年(大正13年)に全羅北道財務部長となった。1926年(大正15年)からは専売局庶務課長、同製造課長、同事業課長、殖産局鉱山課長・同商工奨励館長を歴任し、1930年(昭和5年)に欧米に出張した。帰国後、総督官房人事課長・中枢院書記官、鉄道局理事、官房審議室事務官を歴任した。1936年(昭和11年)に慶尚北道知事となり、内務局長を経て、1941年(昭和16年)11月に殖産局長に就任した。
三上 英雄(みかみ ひでお、1893年(明治26年)3月29… 三上 英雄(みかみ ひでお、1893年(明治26年)3月29日 - 1983年(昭和58年)8月17日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 広島県恵蘇郡口北村字宮内(現庄原市)で、三上瀧蔵、シカ夫妻の長男として生まれたが、母は産後に死去した。口北尋常小学校、口北高等小学校を経て、1906年、格致学院に入学。1909年、親類を頼って大阪市に移り関西商工学校に入学し、風呂屋を経営して学費を稼ごうとするも失敗。1910年に上京して日本大学に入学し、1913年、同大法律科を卒業。1914年11月、会計検査院嘱官となる。 1917年、弁護士試験に合格。1918年1月、弁護士登録を行い東京弁護士会に加入。
塩川 政巳(しおかわ まさみ、1893年〈明治26年〉3月2… 塩川 政巳(しおかわ まさみ、1893年〈明治26年〉3月29日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。佐久銀行頭取。浅間山観光、塩久各社長。長野県会議員。曹洞宗玄江院総代会長。 長野県・塩川幸太の長男。塩川三四郎の甥。1917年、慶應義塾大学部政治学科を卒業。第一銀行に入行。1923年、佐久銀行に転じる。1936年、家督を相続する。 佐久銀行常務を経て頭取に就任。長野貯蓄銀行、千曲自動車各監査役、東京美術館取締役、浅間山観光、塩久各社長、県選管委員長などをつとめる。 宗教は曹洞宗、禅宗。趣味はスポーツ、美術品愛好、運動、俳諧。長野県小諸市在籍で、住所は長野県北佐久郡三岡村森山(現・小諸市森山)、東京宅は赤坂区丹後町。
志賀 勝(しが まさる、1892年3月29日 - 1955年… 志賀 勝(しが まさる、1892年3月29日 - 1955年8月1日)は、日本のアメリカ文学者。 愛媛県宇和島市出身。関西学院高等学部文科英文学科卒業、のち母校教授、戦後は関西学院大学英文科主任教授を務めた。早くからアメリカ文学に注目し、病気に苦しみながら著作、翻訳多数を上梓した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
岸川 健一(きしかわ けんいち、1888年(明治21年)3月… 岸川 健一(きしかわ けんいち、1888年(明治21年)3月29日 - 1954年(昭和29年)6月10日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡兵庫村(現佐賀市)出身。最終階級は陸軍中将。 1888年生まれ。佐賀中学校から陸軍士官学校(陸士23期)に進み卒業後歩兵少尉に任官。麻布連隊区司令官、第6守備隊長(大佐)から少将に昇進し歩兵第29旅団長、第29歩兵団長、独立混成第17旅団長を歴任。1945年(昭和20年)3月中将に昇進し第63師団長として終戦を迎えた。 その後はシベリアに抑留され、さらに中国に引き渡され撫順戦犯管理所に収容された。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた。所謂中国抑留者で4人いた師団長の一人(ほかは第39師団長・佐々真之助中将、第59師団長・藤田茂中将、第117師団長・鈴木啓久中将)で、抑留中の1954年収容所にて病死。
沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日… 沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日 - 1980年(昭和55年)12月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県高知郡鴨部村(現・高知市鴨部町)出身。農業・沢田栄之助の三男として生まれる。兄弟四人のうち、長男を除く三兄弟が陸軍将校となった。1899年(明治32年)4月に高知県立海南中学校に入校。同期は山下奉文で、永らく交友を結んだ。広島陸軍地方幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月15日、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月26日、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第16連隊付となる。野戦砲兵第22連隊付などを経て、1910年(明治43年)11月26日、陸軍砲工学校高等科を卒業。
南 鉄太郎(みなみ てつたろう、1887年(明治20年)3月… 南 鉄太郎(みなみ てつたろう、1887年(明治20年)3月29日 - 1944年(昭和19年)9月8日)は、日本の衆議院議員。海軍軍人。弁護士。 兵庫県三原郡賀集村(現在の南あわじ市)出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。同大学院で学んだ後、海軍経理学校乙種学生を修了した。海軍では中主計から主計少佐に至った。その間、第十二駆逐隊主計長、臨時南洋群島防備隊附、砲艦「伏見」乗員、海軍経理学校教官、同監事を歴任した。1924年(大正13年)に予備役に編入された後は、弁護士を開業した。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)に兵庫2区(当時)から翼協非推薦で出馬し、当選を果たした。
塩田 せつ(しおだ せつ、1887年(明治20年)3月29日… 塩田 せつ(しおだ せつ、1887年(明治20年)3月29日 - 1958年(昭和33年)10月27日)は、日本の教育者である。旧姓は飯田。 千葉県印旛郡木下町(現在の印西市)に生まれ、千葉女子師範学校(現在の千葉大学教育学部・大学院教育学研究科)に入学する。1904年(明治37年)に卒業後は、成田尋常小学校(現在の成田市立成田小学校)で教鞭を執り以後千葉県内の小学校および師範学校の教師として活動した。1909年(明治42年)に水産学校の講師として活動した塩田文隣と結婚したことにより、夫の勤務地であった宮城県宮古市を経て岩手県、北海道内の学校に転勤する。 1919年(大正8年)に夫が死去したことにより、帰郷し布鎌尋常小学校(現在の栄町立布鎌小学校)にて訓導にあたった。
中島 琢之(なかじま たくし、1885年(明治18年)3月2… 中島 琢之(なかじま たくし、1885年(明治18年)3月29日 - 1956年(昭和31年)7月14日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、津山市長、医師。 岡山県苫田郡高野村(現在の津山市)出身。1906年(明治39年)、第一高等学校を卒業。1910年(明治43年)に東京帝国大学医科大学を卒業した。東京帝国大学医科大学内科に勤務した後、日本医学専門学校(現在の日本医科大学)教授・附属病院内科部長に就任した。1914年(大正3年)、津山に中島病院を開院。苫田郡医師会長、美作五郡連合医師会長を歴任した。 1929年(昭和4年)、津山市会議員に当選し、議長に選出された。翌年の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
阿部 真之助(あべ しんのすけ、旧字体:眞之助、1884年〈… 阿部 真之助(あべ しんのすけ、旧字体:眞之助、1884年〈明治17年〉3月29日 - 1964年〈昭和39年〉7月9日)は、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、政治評論家、エッセイスト。筆名は野山草吉。毎日新聞社取締役主筆、日本エッセイスト・クラブ初代理事長、第9代NHK会長を務めた。富岡市名誉市民。恐妻家としても知られた。 1884年(明治17年)、埼玉県熊谷市で、造り酒屋を営む阿部久兵衛の次男として生まれる。兄は早世し、姉4人、弟妹各1人がいた。1890年(明治23年)群馬県甘楽郡富岡町(現・富岡市)に転居し、富岡小学校で学ぶ。1897年(明治30年)群馬県立富岡中学校(現・群馬県立富岡高等学校)が開校されると入学。
兒玉 常雄(児玉常雄、こだま つねお、1884年(明治17年… 兒玉 常雄(児玉常雄、こだま つねお、1884年(明治17年)3月29日 - 1949年(昭和24年)10月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍航空兵大佐。 東京府出身。後に陸軍大将となる児玉源太郎の四男として生まれる。陸軍中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月30日に陸軍士官学校(17期)を卒業し、同年4月21日に工兵少尉に任ぜられる。1907年(明治40年)12月21日に工兵中尉に昇進後、陸軍砲工学校(15期)高等科を卒業、更に員外学生として在学し、1913年(大正2年)7月10日には東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業した。1914年(大正3年)9月9日に工兵大尉に昇進した。