土井 静雄(どい しずお、1902年1月30日 - 1974… 土井 静雄(どい しずお、1902年1月30日 - 1974年4月21日) は、日本の機械工学者。名古屋大学名誉教授。元沼津工業高等専門学校校長。 鳥取県出身。1927年九州帝国大学工学部機械工学科卒業、旅順工科大学講師。1928年旅順工科大学助教授。1937年九州帝国大学工学博士。1938年旅順工科大学教授。1944年名古屋帝国大学教授。1964年沼津工業高等専門学校校長。1965年名古屋大学名誉教授。1973年勲二等瑞宝章受章。旋盤の研究などを行った。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
矢野 謙三(やの けんぞう、1902年(明治35年)1月30… 矢野 謙三(やの けんぞう、1902年(明治35年)1月30日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、大日本帝国陸軍軍人。基隆市尹。 矢野槌太郎の三男として福岡県福岡市に生まれる。1920年(大正9年)福岡県立中学修猷館、1923(大正12年)年第五高等学校文科甲類を経て、1926年(大正15年)東京帝国大学法学部法学科卒業後、高等文官試験行政科試験に合格する。 同年12月、野砲兵第6連隊に入隊し、1929年(昭和4年)4月に陸軍砲兵少尉に進む。同年6月、台湾総督府属に転じ、総督官房文書課勤務となる。1931年(昭和6年)5月、同府地方理事官となり、新竹州竹南郡守に発令され、1934年(昭和9年)9月に同州内務部教育課長、1936年(昭和11年)10月に台北州内務部地方課長を経て、1937年(昭和12年)9月29日に基隆市尹に就任した。
片岡 久兵衛(久兵衞、かたおか きゅうべえ、1902年 <明… 片岡 久兵衛(久兵衞、かたおか きゅうべえ、1902年 <明治35年> 1月30日 - 1988年 <昭和63年> 10月11日)は、日本の経営者、銀行家。京都銀行頭取を務めた。京都府福知山市出身。位階は従五位。 1923年に東京商科大学を卒業。1946年に京都銀行の前身である丹和銀行頭取に就任。1972年に相談役を経て、1980年には顧問に就任。 1988年10月11日急性呼吸不全のために死去。86歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
植村 清二(うえむら せいじ、1901年1月30日 - 19… 植村 清二(うえむら せいじ、1901年1月30日 - 1987年5月27日)は、日本の東洋史学者。実兄は作家の直木三十五。 1901年、大阪市で父惣八、母しづの次男として大阪市南区内安堂寺町通に生まれる。父は古着屋であった。1908年4月、大阪市桃園第一尋常小学校に入学。1913年4月には大阪府立天王寺小学校に入学。1919年4月、山口高等学校(文科乙類)に入学。1922年4月、東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。1923年7月には華北を旅行する。学生時代は近藤健一から奨学金を与えられていた。1925年、東京帝国大学文学部東洋史学科卒業。 卒業後は、母校の東京帝国大学文学部東洋史学科副手に採用される。
解良 富太郎(けら とみたろう、1901年(明治34年)1月… 解良 富太郎(けら とみたろう、1901年(明治34年)1月30日 - 1937年(昭和12年)2月20日)は、日本の歌人、法学者。商法、特に海商法を専攻したが、病弱で大学教員としての道は諦め、病床で短歌を詠んだ。アララギ派に属した。 1901年(明治34年)1月30日、新潟県三島郡寺泊町片町で父・彌一郎、母・モトの四男として生まれる。家は雑貨商を営んだ。 1915年(大正4年)、寺泊尋常高等小学校の高等科第二学年を卒業し、家業を助ける傍ら独学で中学講義録を学んだ。1917年(大正6年)には与板町登記所雇員となるも、脚気のため1か月も経たずに退職した。1918年(大正7年)、勉学の希望を捨てられず、次兄・英次郎の勤務先である大阪の孔官堂主人の増田という人物が富太郎を呼び寄せ、大阪に転居した。
檜垣 文市(ひがき ぶんいち、1900年1月30日 - 19… 檜垣 文市(ひがき ぶんいち、1900年1月30日 - 1968年12月2日)は、日本の経営者。安田火災海上保険社長を務めた。 広島県出身。1923年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に共済生命保険に入社。1925年に東京火災保険に転じ、1943年に取締役に就任し、1945年に日本動産火災保険専務を経て、1947年には安田火災海上保険社長に就任。1963年1月に会長を経て、1965年6月には相談役に退いた。 経済団体連合会理事と日本経営者団体連盟常任理事も務めた。 1958年に藍綬褒章を受章。 1968年12月2日、気管支肺炎のために死去。68歳没。
佐藤 得二 (さとう とくじ、1899年1月30日 - 19… 佐藤 得二 (さとう とくじ、1899年1月30日 - 1970年2月5日)は、日本の仏教学者、作家。哲学研究者として朝鮮の水原高等農林学校(現・ソウル大学校農業生命科学大学)、京城帝国大学予科教授、第一高等学校教授を歴任。『仏教の日本的展開』は名著として知られる。その後、文部省督学官、社会教育局長、国際文化会館参与などを務めた。 岩手県胆沢郡金ケ崎村(現金ケ崎町)出身。盛岡中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科卒。 戦後は結核に罹患し、貧困にも苦しむが再起し、1963年には親戚の女性の話をもとにした初の小説『女のいくさ』を刊行、直木賞を受賞。当時64歳という最高齢での受賞であり、「老人の新人」出現として話題をよんだ(のち、記録は古川薫の65歳での受賞に破られる)。
池田 政鋹(いけだ まさとし、1899年(明治32年)1月3… 池田 政鋹(いけだ まさとし、1899年(明治32年)1月30日 - 1945年(昭和20年)7月17日)は、日本の官僚・政治家。貴族院議員、子爵。従四位勲四等、研究会所属。 岡山県生まれ。本籍地は東京府。池田詮政の二男。伯父(詮政の兄)で鴨方藩知事であった池田政保の養子となる。 1924年(大正13年)、慶應義塾大学法学部を卒業。同年以降、臨時帝室編修官補、拓務属、朝鮮総督秘書官となるほか、麻布銀行取締役となる、また拓務省、大東亜省各委員、朝鮮農地開発営団監事などになる。 1937年(昭和12年)2月4日、養父が隠居し、家督を相続し同月15日、子爵を襲爵した。1939年(昭和14年)5月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し死去するまで在任した。
中原 武之輔(なかはら たけのすけ、1898年(明治31年)… 中原 武之輔(なかはら たけのすけ、1898年(明治31年)1月30日 - 没年不明 )は、日本の実業家。元東京軽合金製作所取締役。兄は茨城大学教授を務めた中原重樹。岡山県倉敷市出身。 1898年(明治31年)、岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市玉島)の士族の家系である中原克一郎の三男として生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。1917年(大正6年)に同校を卒業し、山形県にある米沢高等工業学校(現:山形大学工学部)へ進学する。1920年(大正9年)同校機械科を卒業し、当時大企業であった東京瓦斯電気工業(現:いすゞ自動車・日野自動車・DMG森精機)へ就職する。 入社後、中原は東京大森工場へ配属される。
桂田 徳勝(かつらだ のりかつ、1898年〈明治31年〉1月… 桂田 徳勝(かつらだ のりかつ、1898年〈明治31年〉1月30日 - 1987年〈昭和62年〉8月19日)は、日本の電気工学者。工学博士(京都大学)。大阪府立大学名誉教授。大阪工業大学工学部電気工学科元教授。元電気工学教室担当。 専門は、電気工学・電力工学、電気鉄道工学。 1932年京都帝国大学工学部電気工学科卒業。外地の台南高等工業学校教授などを経て、1947年旧制摂南工業専門学校(旧:関西高等工業学校)教授。1949年大阪工業大学工学部電気工学科教授、電気工学教室を担当。その後、大阪府立大学に転任し、京都大学大学院にて工学博士号を取得(京都大学電気工学教室洛友会に所属)。大阪府立大学工短部教授、同大学評議員・審議員などを経て、1963年大阪府立大学名誉教授。
坪井 良平(つぼい りょうへい、1897年〈明治30年〉1月… 坪井 良平(つぼい りょうへい、1897年〈明治30年〉1月30日 - 1984年〈昭和59年〉8月4日)は、大阪府大阪市出身の考古学者。奈良国立文化財研究所所長などを務めた考古学者の坪井清足は息子。 在野の考古学者として梵鐘などを研究した。太平洋戦争時には金属類回収令によって全国の寺院から梵鐘が供出されたが、坪井の論文が参考となって慶長年間以前鋳造の梵鐘は供出を免れた。 1897年(明治30年)1月30日、大阪府大阪市東区淡路町1丁目に生まれた。父親は古美術愛好家であり、幼少期から金石文の拓本採取などを手伝った。 高等小学校を卒業後、1914年(大正3年)3月に大阪大倉商業学校を卒業したが、卒業後に就職した大倉組大阪支店は1915年(大正4年)に解雇された。
中島 武市(なかしま ぶいち、1897年1月30日 - 19… 中島 武市(なかしま ぶいち、1897年1月30日 - 1978年7月16日)は、日本の実業家・政治家。岐阜県本巣郡土貴野村(現在:本巣市)出身。岐阜市立岐阜商業学校(現在の岐阜県立岐阜商業高等学校の前身)卒業。シンガーソングライターの中島みゆきは孫(武市の長男の第一子)。 実父は大垣藩士の家系の士族であったが早世し、母の再婚先の商家・中島家で育てられた。母の兄は初代大蔵次官を務めた男爵・郷純造。純造の次男が日商会頭の郷誠之助。武市と誠之助は従兄弟同士にあたる。「拓聖 依田勉三傳」に中島武市の伝記も収録されている。 幼少期は貧しく小学校卒業後に村役場で用務員を務めていたこともある。1914年に岐阜商業学校を卒業した後、大阪の呉服問屋に丁稚奉公に出る。
清水 虎尾(しみず とらお、1895年〈明治28年〉1月30… 清水 虎尾(しみず とらお、1895年〈明治28年〉1月30日 - 1968年〈昭和43年〉10月14日)は、大宮市(現・さいたま市)長(第7代)。勲五等瑞宝章。 埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市、現・さいたま市)に生まれる。1921年(大正10年)中央大学商科卒。卒業後は日清紡績に入り、商務課長を最後に退職した。その後は、材木屋や建築請負を経て、大宮でパン屋を開業した。その後、大宮町役場に入った。勧業課長を務めた。1938年(昭和13年)大宮町助役となり、市制施行に尽力した。1941年(昭和16年)1月20日から1943年(昭和18年)9月17日まで大宮市助役を務めた。 1947年(昭和22年)の大宮市長選挙に日本自由党公認で立候補したが、社会党公認の津川辰政に敗れた。
小池 藤五郎(こいけ とうごろう、1895年1月30日 - … 小池 藤五郎(こいけ とうごろう、1895年1月30日 - 1982年11月4日)は、日本近世文学の研究者。狂歌人でもあった。 山東京伝、曲亭馬琴などの読本を専門とし、『南総里見八犬伝』岩波文庫版の校訂者として知られる。黄表紙研究者の小池正胤は息子。 山梨県北巨摩郡更科村(現韮崎市)生まれ。 実家は富裕な名主の家系で、甲斐国のみならず江戸の文人との交流のある環境であった。曽祖父に当たる小池伝右衛門富章(号は勝山、文雅園)は国学・漢学に通じ、狂歌師として「白水亭亀丸」の号を持っていた。小池家には『南総里見八犬伝』が肇輯から初版本がそろっており、近郷唯一の『八犬伝』として親戚・知人や家来筋の人々にも愛読されたというが、1898年(明治31年)の洪水で書庫とともに流され失われたという。
三樹 樹三(みき きぞう、1895年(明治28年)1月30日… 三樹 樹三(みき きぞう、1895年(明治28年)1月30日 - 1948年(昭和23年)12月15日)は、日本の内務官僚。官選島根県知事。 神奈川県津久井郡三ケ木村(現・相模原市緑区)出身。明治書院創業者・三樹一平の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1918年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し岡山県属となる。 以後、岡山県理事官、長野県理事官、臨時震災救護事務局事務官、復興局経理部会計課長、内務書記官、大臣官房会計課長、滋賀県書記官・内務部長、群馬県書記官・総務部長、兵庫県書記官・総務部長、大阪府総務部長などを歴任。 1937年2月、島根県知事に就任。
橋川 正(はしかわ ただす、1894年1月30日 - 193… 橋川 正(はしかわ ただす、1894年1月30日 - 1931年9月6日)は、日本の大正 - 昭和期に活躍した歴史学者・仏教史学者。 京都の真宗大谷派の寺院仏願寺に生まれる。真宗京都中学(現、大谷中学校・高等学校)を経て、1917年に真宗大谷大学(現、大谷大学)を卒業。その後、研究科在籍のまま、京都帝国大学文学部国史学科に依託生として入学。三浦周行・西田直二郎に師事した。1921年、同卒業とともに、真宗大谷大学学部助教授兼予科教授に就任。24年、同教授。この間、1920年には、父恵順の死去により、仏願寺住職および常葉幼稚園長を継職している。 同大学奉職後は、仏教史・真宗史の研究・教育に尽力するとともに、個別寺院史・地域史研究にも従事し、短期間に多くのすぐれた業績を残した。
江原 三郎(えはら さぶろう、1894年(明治27年)1月3… 江原 三郎(えはら さぶろう、1894年(明治27年)1月30日 - 1965年(昭和40年)3月4日)は、日本の政治家、弁護士。栃木県宇都宮市長、衆議院議員などを歴任。 栃木県下都賀郡絹村(桑絹村、桑絹町を経て現小山市)に塚原金吾の三男として生まれ、衆議院議員江原節の養子となった。東京帝国大学独法科を卒業し弁護士となる。宇都宮市会議員を経て、1935年(昭和10年)9月から1937年(昭和12年)5月まで宇都宮市選出の栃木県会議員を務める。1937年から栃木1区選出の立憲政友会の衆議院議員を1期務めた。 1944年(昭和19年)12月31日、宇都宮市長に就任。1945年(昭和20年)7月、宇都宮大空襲により同市は甚大な被害を受け市役所も焼失した。
今村 安(いまむら やすし、1892年(明治25年)1月30… 今村 安(いまむら やすし、1892年(明治25年)1月30日 - 1966年(昭和43年)10月23日)は、日本の陸軍軍人、馬術家。陸士25期、最終階級は陸軍大佐。 陸軍騎兵学校の教官として西竹一など騎兵の教育にあたったほか、イタリア留学中に欧州で行われる馬術競技会での日本人初の優勝者となる。帰国後はイタリアの自然馬術を日本に広め、戦後も関西を中心に馬術家の育成に努めた。 1892年(明治15年)1月30日、山梨県甲府市に父・虎尾と母・きよみの三男として生まれる。長男は振。次男は後に陸軍大将となる均。 1906年(明治39年)に仙台陸軍幼年学校に入学後、陸軍将校の娘だった母・きよみの勧めにより、均らほかの兄弟と同じく陸軍将校を志すことになる。
宇土 虎雄(うと とらお、1891年1月30日 - 1986… 宇土 虎雄(うと とらお、1891年1月30日 - 1986年12月23日)は日本の柔道家(講道館9段)、スポーツ指導者。 柔道家として全日本選士権優勝等の実績を持つ一方、熊本県に様々な近代スポーツを紹介して“熊本近代スポーツの父”や“ミスター熊本”とも呼ばれる。 長崎県南高来郡湯江村(現・島原市)の生まれ。鎮西学院中学在学中に柔道を始め、卒業後1912年に東京の東京高等師範学校に進学して山下義韶や永岡秀一(いずれも後の講道館10段)に師事し柔道を学んだ。東京高師時代の同期には岡部平太や会田彦一、先輩に1909年入学の大谷武一や甲佐知定のほか中途退学したものの徳三宝らの顔触れがあり、後輩には1913年入学で東口真平や後に“高師の秀才”と謳われた桜庭武らがいた。
黒田 亮(くろだ りょう、1890年1月30日 - 1947… 黒田 亮(くろだ りょう、1890年1月30日 - 1947年1月5日)は、大正-昭和前半の日本の心理学者。動物心理学のほか、勘、禅、中国思想などの幅広い研究がある。 1890年(明治23年)1月30日新潟県南魚沼郡石打村(現南魚沼市)生まれ。旧制長岡中学、旧制第一高等学校を経て1815年(大正4年)東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専修)卒業。旧制新潟高等学校教授などを経て1926年(昭和元年)京城帝国大学助教授、1928年(昭和3年)教授となり1942年(昭和17年)まで務める。退官後は著述活動に専念。1947年(昭和22年)岐阜県にて死去。 京城帝大時代には、『勘の研究』(1933(昭和8)年、『続・勘の研究』1938(昭和13)年)、『心理学概論』(1935(昭和10)年)、『動物心理学』(1936(昭和11)年)などの著作や論文を書くかたわら、随想なども著した。
河井 栄蔵(榮藏、かわい えいぞう、1890年(明治23年)… 河井 栄蔵(榮藏、かわい えいぞう、1890年(明治23年)1月30日 - 1965年(昭和40年)8月10日)は、大正から昭和期の労働運動家、弁護士、政治家。衆議院議員。 愛媛県出身。1917年(大正6年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 同年、弁護士となる。1919年(大正8年)全国坑夫組合を結成し会長に就任。1920年(大正9年)全日本鉱夫総連合本部理事となるが、まもなく労働運動から身を引き大阪で弁護士を開業した。その他、(株) 大行社化機製作所取締役、有限責任第一貯蓄信用組合理事を務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に大阪府第1区から日本社会党公認で出馬して落選。
賀屋 興宣(かや おきのり、1889年〈明治22年〉1月30… 賀屋 興宣(かや おきのり、1889年〈明治22年〉1月30日 - 1977年〈昭和52年〉4月28日)は、日本の政治家、大蔵官僚。主計局長、大蔵次官を経て、第一次近衛内閣大蔵大臣、貴族院勅選議員。東條内閣でも大蔵大臣として戦時財政における中心的な役割を担った(賀屋財政)。戦後、衆議院議員、池田内閣法務大臣、日本遺族会会長などを歴任した。 位階は正三位、勲等は勲一等(後者は1946年返上)。広島県広島市出身。旧姓は藤井。 父は国学者の藤井稜威(いつ)、母は愛国婦人会幹事を務めた漢学者の賀屋鎌子。4歳の時、母方の伯父の家を継いで賀屋姓を名乗った。父方の祖父は山口県熊毛郡上関町長島の白井田八幡宮司・藤井厚鞆、父方の叔父に靖国神社第3代宮司・賀茂百樹がいる。
長沢 英一郎(ながさわ えいいちろう、正字体:長澤 英一郎、… 長沢 英一郎(ながさわ えいいちろう、正字体:長澤 英一郎、1889年1月30日 - 1965年11月5日)は、大正から昭和の日本の英語学者、英米文学者、教育者、翻訳家。学習院教授、東京学芸大学教授、実践女子大学英文科長、立教大学文学部教授、川村短期大学教授。 1889年(明治22年)生まれ。群馬県出身。 1913年(大正2年)、立教大学文科(現・文学部)を卒業したのち、1916年(大正5年)に東京帝国大学英文学科を卒業した。東京帝国大学の同級には芥川龍之介、久米正雄らがいた。 大学を卒業後、東北学院に務めると、1919年(大正8年)に学習院に転じて、1922年(大正11年)に教授となる。1949年(昭和24年)に学習院を退職。
緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年〈明治21年〉1月3… 緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年〈明治21年〉1月30日 - 1956年〈昭和31年〉1月28日)は、日本のジャーナリスト、政治家。交詢社会員、朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。栄典は正三位勲一等旭日大綬章。 兄の緒方大象は医学者・九州大学名誉教授、弟の緒方龍は医師。二男の緒方研二は元日本電気(NEC)副社長、三男の緒方四十郎は元日本銀行理事。 早稲田大学卒業後、東京朝日新聞社に入社。若くして主筆となり、1943年副社長。1944年退社し政界入り。情報局総裁、小磯内閣、東久邇内閣で国務相となる。
小川 孝喜(おがわ たかよし、1887年(明治20年)1月3… 小川 孝喜(おがわ たかよし、1887年(明治20年)1月30日 - 1950年(昭和25年)11月18日)は、日本の政治家。立川町(現:立川市)の初代町長、立川市の初代市長である。
高田 蝶衣(たかだ ちょうい、1886年1月30日 - 19… 高田 蝶衣(たかだ ちょうい、1886年1月30日 - 1930年9月23日)は、兵庫県津名郡釜口村字里(現:淡路市釜口字里)出身の俳人。旧制洲本中学校卒。中学の教頭・大谷繞石の影響で俳句をはじめ「ホトトギス」に投句、同人誌「落葉」を主宰。1904年、早稲田大学政経科入学。1906年、高浜虚子の 「俳諧散心句会」に参加し指導を受ける。同年、肋膜炎のため大学を中退し帰郷。故郷で小学校の教諭となるが、病のため続かず俳句を主とし「ホトトギス」「懸葵」に投句した。1908年に句集『島舟』(俳書堂)を出版。河東碧梧桐門とも交流があった。1917年に神戸湊川神社の主典となったが、やはり病の悪化のため1919年に帰郷している。
福田 千代作(ふくだ ちよさく、1885年(明治18年)1月… 福田 千代作(ふくだ ちよさく、1885年(明治18年)1月30日 - 没年不明)は、日本の実業家。中華電気製作所、支那興業各取締役。住友本社、呉服販売店支配人。上海居留民団長。族籍は広島県士族。 広島県士族・福田千次郎の四男。広島市西白島町出身。1904年、県立広島中学校卒業。直に広島県より推選され清国留学生を命ぜられた。1907年、上海東亜同文書院商務科を卒業した。上海に在住し、支那貿易事務に従った。1935年、甥・光次郎方より分家した。 宗教は神道。趣味は大弓、漢籍。住所は広島市西白島町、上海市。
上山 草人(かみやま そうじん、1884年1月30日 - 1… 上山 草人(かみやま そうじん、1884年1月30日 - 1954年7月28日)は、日本の俳優。本名は三田 貞(みた ただし)。号は半月。 坪内逍遥の文芸協会を経て、妻の山川浦路らと近代劇協会を設立して新劇俳優として活動。1919年(大正8年)に渡米してからは映画界に転向し、ラオール・ウォルシュ監督、ダグラス・フェアバンクス主演の活劇映画『バグダッドの盗賊』に出演。ハリウッドで活躍した日本人俳優の一人となった。帰国後の出演作に『赤西蠣太』『七人の侍』などがある。 1884年(明治17年)1月30日、現在の宮城県遠田郡涌谷町に父・上山五郎の次男として、五郎の愛人である角川浦路との間に生まれる。父は産婦人科病院を経営していた医者で、宮城医学校教授を務めた。
手代木 隆吉(てしろぎ りゅうきち、1884年(明治17年)… 手代木 隆吉(てしろぎ りゅうきち、1884年(明治17年)1月30日 - 1967年(昭和42年)3月31日)は、日本の教育者・政治家・弁護士・実業家。衆議院議員(当選6回、日本進歩党)。北海道有珠郡紋鼈(現・北海道伊達市)出身。号は「胡山」。 父、要蔵。母、エミの長男として誕生。母の父が仙台藩亘理伊達家の藩士手代木順造。 明治4年の亘理伊達家の北海道移住に際し一家で渡道(当時エミは4歳)。後に太田家より要蔵を入婿で迎え手代木家より分家。 エミの兄(長男)は伊達、苫小牧などの戸長、村長を歴任した手代木茂篤(隆吉の叔父)[出典無効] 1906年(明治39年)北海道尋常師範学校(現在の北海道教育大学札幌校)卒業後、北海道の旧制小学校の訓導や校長を経て、1918年(大正7年)中央大学法学部卒業。
秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月3… 秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月30日 - 1962年〈昭和37年〉5月12日)は、日本の劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家である。本名は徳三(とくぞう)。 産科医である父玄庵(全盲であった)と、母まつの長男として青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に生まれる。黒石尋常小学校、青森県立第一尋常中学校(青森県立弘前高等学校の前身)を経て東京専門学校(早稲田大学の前身校)英文科に入学する。在学中の1904年、詩集「黎明」を刊行。 1908年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表。小山内薫のイプセン研究会の書記をつとめ、戯曲への関心を深める。
匂坂 春平(さきさか しゅんぺい、1883年〈明治16年〉1… 匂坂 春平(さきさか しゅんぺい、1883年〈明治16年〉1月30日 – 1953年〈昭和28年〉8月19日)は、日本の陸軍法務官(1942年以降は陸軍法務部将校)。最終階級は陸軍法務中将。 五・一五事件、二・二六事件に関する軍法会議において、各々主席検察官を務めた。 1883年(明治16年)、静岡県城東郡横地村(現:菊川市)の農家の長男として出生。16歳で上京し、1902年(明治35年)に明治法律学校(現在の明治大学)を卒業した。 日露戦争中の1904年(明治37年)、近衛歩兵第四連隊に補充召集され、奉天会戦要員として軍務に服した。応召中、判事検事登用試験に合格し、司法官試補(東京)に任じられた。
岩谷 山梔子(いわや くちなし、1883年(明治16年)1月… 岩谷 山梔子(いわや くちなし、1883年(明治16年)1月30日 - 1944年(昭和19年)1月4日)は、日本の俳人、俳画家、編集者。別号に木丹亭、黙堂など。本名は健治。青森県出身。 1883年(明治16年)に青森県青森町(現・青森市)に生まれる。10代でカリエスに罹り療養する中で俳句を始め、地元の俳句会「不来会」に参加、20歳で高浜虚子の「ホトトギス」に入会、河東碧梧桐が選者をしていた新聞「日本」にも投句する。碧梧桐の行脚(第一次「三千里」)の際に碧梧桐と会い傾倒。碧梧桐は後に山梔子の句集『山梔子第一句集』の序文で「其の時分の山梔子は世間苦も人間苦も知らないやうなウブな、さうして田舎者の山だしな本質を丸出しにした言はば荒削りな書生だつた。
岡 儀平(おか ぎへい、1883年1月30日 - 1991年… 岡 儀平(おか ぎへい、1883年1月30日 - 1991年9月28日)は、かつて男性長寿日本一だった栃木県小山市の人物。 小山市生まれ。20代で小山駅前に下駄屋を開店。その後靴店に衣替えし、70代まで現役として働いた。子供4人、孫13人、ひ孫17人に恵まれた。108歳になっても「高下駄づくりは難しい」と当時の思い出を話すこともあった。 108歳の誕生日時点では、朝食を介助を受けながらもしっかり食べ、新聞を30分ほどかけて読む生活であった。「お茶か水がほしい。年寄りの冷や水というからな」と冗談を飛ばす程であった。 誕生日には孫・ひ孫のうち15人が参加し、ロウソクをしっかり吹き消した。そして孫たちの励ましにもと笑顔でこたえた。
黒田 長和(くろだ ながとし、1881年(明治14年)1月3… 黒田 長和(くろだ ながとし、1881年(明治14年)1月30日 - 1944年(昭和19年)3月8日)は、明治から昭和前期の華族、政治家。男爵、貴族院議員。幼名は峯太郎。 福岡藩最後の藩主・黒田長知の四男。母は側室・田代園子。異母兄に侯爵黒田長成がいる。 1896年(明治29年)断絶した黒田直方家の再興という形で分家し、1896年(明治29年)12月3日、男爵を叙爵し、同月、長和と改名した。1904年(明治37年)7月、学習院高等科を卒業し、東京帝国大学法科大学に入学した。1906年(明治39年)イギリス、ケンブリッジ大学に留学した。 1899年(明治32年)東宮職出仕。宗秩寮審議官、衆議院議員選挙革正審議会委員、内閣制度審議会委員、議会制度審議会委員、議院制度調査会委員、貴族院制度調査会委員などを務めた。
立花 種忠(たちばな たねただ、1880年(明治13年)1月… 立花 種忠(たちばな たねただ、1880年(明治13年)1月30日 - 1963年(昭和38年)10月14日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員、東京府荏原郡入新井町長。旧名・恭忠。 旧三池藩主・立花種恭の八男として東京府深川区深川東元町(現江東区)で生まれる。父の死去に伴い種忠と改名し、1905年(明治38年)2月13日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、明治大学を修了した。1907年(明治40年)12月、一年志願兵として騎兵第1連隊に入隊。1911年(明治44年)5月、陸軍騎兵少尉となり、さらに同中尉に昇進した。 1914年(大正3年)7月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)4月8日に辞職するまで五期在任した。
牛島 貞雄(うしじま さだお、1876年(明治9年)1月30… 牛島 貞雄(うしじま さだお、1876年(明治9年)1月30日 - 1960年(昭和35年)9月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県玉名郡弥富村(現・玉名市)出身。牛島義雄の五男として生まれる。1893年(明治26年)12月、陸軍教導団に入り、1900年11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。 1904年7月、歩兵第24旅団副官となり日露戦争に出征。1906年3月、歩兵第23連隊中隊長となり、歩兵第1連隊中隊長を経て、1912年(大正1年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1913年5月、参謀本部員となり、歩兵第54連隊大隊長、陸大教官を経て、1921年11月から翌年2月までアメリカ合衆国に出張。
荘司 市太郎(しょうじ いちたろう、1874年〈明治7年〉1… 荘司 市太郎(しょうじ いちたろう、1874年〈明治7年〉1月30日 - 1950年〈昭和25年〉2月25日)は、日本の技師、工学博士、工業試験所技師、大阪工業試験所長。工業化学会会長。専門は応用化学。 福井県敦賀郡敦賀町に生まれる。東京府・荘司孝治郎の長男。1900年、家督を相続する。 1899年、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。更に大学院に学ぶ。農商務省に入り、技師に任ぜられる。 日本蝋燭製造所顧問、農商務技師、工業試験所技師、特許局技師兼同審査官兼工場監督官、臨時産業調査局技師等に歴任。1918年、工業試験所技師に任じ大阪工業試験所長となり1938年2月、退官する。 族籍は東京平民であった。
川口 彦治(かわぐち ひこはる、1871年1月30日(明治3… 川口 彦治(かわぐち ひこはる、1871年1月30日(明治3年12月10日) - 1955年(昭和30年)5月)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事、関東庁事務総長。 日向国諸県郡、後の宮崎県西諸県郡加久藤村(現えびの市)出身。郷士・川口時清の長男として生まれる。1893年7月鹿児島高等中学造士館予科卒業、1895年7月鹿児島高等中学造士館本科卒業。1899年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し警視庁警部となる。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、警視庁警視・府中警察署長、山梨県警部長、山梨県事務官・第四部長、茨城県事務官・第四部長、大分県事務官・第一部長兼第三部長、愛知県事務官・内務部長などを歴任。
野村 茂久馬(のむら もくま、1870年1月30日(明治2年… 野村 茂久馬(のむら もくま、1870年1月30日(明治2年12月28日) - 1960年(昭和35年)2月11日)は、「土佐の交通王」と呼ばれた実業家。財団法人板垣会第12代会長。坂本龍馬先生銅像建設会会長。桂浜・坂本龍馬先生銅像の建立責任者。高知城公園・板垣退助先生銅像の再建責任者。 近代交通黎明期に高知県の海運・陸運の発展に貢献し、土佐湾岸航路、バス、鉄道等多くの交通事業に携わった。現在のとさでん交通の前身会社の一つである高知県交通の前身である野村組自動車部、現・新高知重工の前身である野村組工作所の創設者である。また、私鉄高知鉄道手結-安芸線(後の土佐電気鉄道安芸線:昭和49年(1974年)の建設なども手掛けた。
湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日〈1869… 湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日〈1869年1月30日〉 - 昭和6年〈1931年〉2月23日)は、明治・大正・昭和戦前期の日本の洋画家。政治家・湯浅治郎の長男。湯浅八郎は弟。上野国(現・群馬県安中市)出身。 明治元年12月18日(1869年1月30日)、安中で醤油味噌の醸造販売を行う「有田屋」の長男として生まれる。 同郷の新島襄が開校した同志社英学校(現・同志社大学)を明治20年(1887年)に卒業した後、山本芳翠の生巧館画塾で学び、山本芳翠が画塾の経営から身を引くと、それを譲り受けた黒田清輝の天真道場に学んだ。明治29年(1896年)東京美術学校(現・東京藝術大学)に西洋画科が設置されると黒田清輝の推薦を受け3年生に編入し明治31年(1898年)7月卒業。
金子 角之助(かねこ かくのすけ、旧姓・武藤、1867年1月… 金子 角之助(かねこ かくのすけ、旧姓・武藤、1867年1月30日〈慶應2年12月25日〉 - 1937年〈昭和12年〉9月24日)は、日本の政治家、自由民権運動家、会社重役。神奈川県高座郡藤沢町長(第2代)。関東興信銀行、神奈川県農工銀行各取締役。高座郡農会長。全国町村長会会長。中央報徳会理事。 相模国(のち神奈川県高座郡綾瀬村本蓼川、現・綾瀬市)出身。農民・武藤卯左衛門の三男。大庭の金子小左衛門の嗣子となる。耕余塾に学んだ。 横浜中学校卒業後は一時教職に就いた。1885年、有一館の館長・磯山清兵衛の誘いで大井憲太郎らの大阪事件に加わり、投獄され、軽懲役2年の刑をうける。1890年、保安条例に触れて東京を逐われ、同志と共に神奈川県倶楽部同青年会等を組織する。
河野 徹志(こうの てつし、元治2年1月4日(1865年1月… 河野 徹志(こうの てつし、元治2年1月4日(1865年1月30日) - 昭和15年(1940年)10月23日)は、日本の衆議院議員(正交倶楽部)。産婦人科医、小児科医。 薩摩国薩摩郡高江村(現在の鹿児島県薩摩川内市)出身。1885年(明治18年)、大阪医学校(現在の大阪大学医学部)を卒業し、東京慈恵医院において高木兼寛・実吉安純のもと実地経験を積んだ。1891年(明治24年)、渡米してペンシルベニア大学に入学し、卒業の後医学博士の学位を得た。その後、ジョンズ・ホプキンス大学で学び、さらにオーストリアのウィーン大学でも学んだ。帰国後は大阪医学校助教諭や吉田病院副院長を務めた。1899年(明治32年)に河野病院を開業し、1912年(大正元年)には大阪市医師会議長に就任した。
17代 木村 庄之助(じゅうしちだい きむら しょうのすけ、… 17代 木村 庄之助(じゅうしちだい きむら しょうのすけ、文久2年12月11日〈1863年1月30日〉 - 1924年〈大正13年〉7月18日)は、大相撲の立行司。本名は浪花→酒井兵吉。出身地は徳島県徳島市。 徳島市に浪花徳丸の六男として生まれる。幼少時より行司好きで子供相撲で行司を務めていた。大阪相撲の藤見崎という力士が巡業中にこの様子を見て勧誘し、1869年大阪相撲の竹縄部屋に入門。最初は木村兵丸を名乗った。 1885年に東京相撲に移籍、15代庄之助に師事。1886年1月初代木村玉治郎から、1895年1月6代木村庄三郎を経て、1911年5月10代式守伊之助を襲名、翌1912年5月に17代木村庄之助を襲名した。
服部 綾雄(はっとり あやお、1863年1月30日(文久2年… 服部 綾雄(はっとり あやお、1863年1月30日(文久2年12月11日) - 1914年(大正3年)4月1日)は、日本の牧師、教育者、政治家である。 1863年(文久2年)駿河国沼津城下に生まれた。明治維新により、1868年(明治元年)沼津藩が上総国市原郡菊間に移封されたので、菊間に移住する。1873年(明治6年)、10歳の時に横浜で遊学し、J・C・ヘボンに書生として住み込み、ヘボン塾で英語を学んだ。 ヘボンより薫陶を受け、キリスト教信仰を持つ。1874年(明治7年)にヘンリー・ルーミス宣教師より洗礼を受ける。1880年(明治13年)築地大学校の創立時に転入する。1882年(明治19年)築地大学校卒業後に大学校の幹事になる。
岩村 茂(いわむら しげる、1862年1月30日(文久2年1… 岩村 茂(いわむら しげる、1862年1月30日(文久2年1月1日) - 1908年(明治41年)6月6日) は、日本の法律家。 1862年1月30日(文久2年1月1日)に伊勢国三重郡水沢村(三重県四日市市)で、豐田久三郎の三男として生まれる。号は冠峰。幼時に両親を亡くし、岩村定高(初代三重県令)の養子となる。普通学を修めた後、1879年(明治12年)三重県医学校に入学。明治天皇の巡行の際に選抜され、勅使の前でドイツのハルトマンの病理学書を講読し、賞品を授かる。この年12月に東京大学医学部に県費で入学を命じられる。大学予備門、第一高等中学校を卒業、県の許可を得て帝国大学法科大学に入学する。 1890年(明治23年)に学士の称号を得て卒業。
石川 千代松(いしかわ ちよまつ、1860年1月30日(万延… 石川 千代松(いしかわ ちよまつ、1860年1月30日(万延元年1月8日) - 1935年(昭和10年)1月17日)は、日本の動物学者。進化論を日本に紹介したことで知られる。 1909年には、琵琶湖岸の滋賀県水産試験場の池でコアユの飼育に成功し [リンク切れ]、全国の河川に放流する道を開いた。 遡って、ドイツ留学から帰国した1889年(明治22年)秋、帝国博物館学芸委員を兼務し、1900年からは天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。1907年頃、石川はハーゲンベックから上野動物園にじらふ(きりん)を求め、日本で初めて見られるようにした。後に、列車での輸送許可を得てなかったとされ、解雇された。
河村 勝次郎(かわむら かつじろう。1857年1月30日(安… 河村 勝次郎(かわむら かつじろう。1857年1月30日(安政4年1月5日) - 1933年(昭和8年)1月10日)は、横浜、静岡を拠点として明治から昭和にかけて活躍した日本の茶商。 勝次郎は安政4年(1857年)岐阜県(美濃国)安八郡藤江村(現大垣市)において、父河村源四郎、母コウの三男として生まれた。戸主は源四郎の兄河村仁三郎であり、また族籍は士族であったと子孫に伝わる。仁三郎一家の明治19年式戸籍が滅失しているため、仁三郎の両親、兄弟、子孫の情報が得られないが、これは昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲による消失ではなかったかと推察される。 仁三郎は大垣藩医江馬活堂の隣人(安八郡藤江村)で「本舗調合所」を営業、活堂から「健胃湯」処方の教示を受け、明治13年(1880年)1月14日内務省免許を得て製造販売を始め、江馬家へと納入していた。
鈴木 文三郎(すずき ぶんざぶろう、1853年1月30日(嘉… 鈴木 文三郎(すずき ぶんざぶろう、1853年1月30日(嘉永5年12月21日)- 1926年(大正15年)11月9日)は、明治から大正期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員、岩手県東磐井郡生母村長。 陸奥国磐井郡赤生津村(岩手県岩井郡赤生津村、東磐井郡生母村大字赤生津、前沢町を経て現奥州市前沢生母)で肝入・鈴木兵之助の長男として生まれた。漢学を修めた。1886年(明治19年)3月、家督を相続した。 1873年(明治6年)水沢県地租改正掛勤務となる。1876年(明治9年)2月、磐井県15等出仕となり同年4月まで在任。同年8月、岩手県等外1等出仕となり、同県17等出仕、同10等警部を経て、1879年(明治12年)7月、新潟県9等属に転じ、1880年(明治13年)9月に退官した。
末弘 直方(すえひろ なおかた、1848年1月30日(弘化4… 末弘 直方(すえひろ なおかた、1848年1月30日(弘化4年12月25日) - 1920年(大正9年)1月16日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の内務・警察官僚。官選県知事、函館区長、小倉市長、福岡県八幡市長。 薩摩国薩摩郡平佐郷平佐村(現薩摩川内市平佐町)で、薩摩藩士・末弘直温の三男として生まれる。藩校造士館で学んだ。 慶応3年9月10日(1867年10月7日)、薩摩藩組頭に就任。その後、役人、半隊長を務めた。明治4年8月(1871年)、御親兵の補充として上京し第三大隊一番小隊に編入され、明治5年8月10日(1872年9月12日)、伍長に任官。1873年10月、病のため除隊して帰郷した。同年11月、鹿児島県に奉職し、二等教授第二十八郷校掛となる。
清水 宗徳(しみず・そうとく、天保14年12月11日(184… 清水 宗徳(しみず・そうとく、天保14年12月11日(1844年1月30日) - 明治42年(1909年)8月18日)は、明治時代の政治家、実業家。幼名は要治郎。諱は当初は宥三と称した。号は不朽軒義同。 衆議院議員を務めるとともに、地元である埼玉県入間郡地域の殖産興業に力を注いだ。川越鉄道創立委員、入間馬車鉄道第2代社長。 天保14年(1843年)12月11日(旧暦)、武蔵国高麗郡上広瀬村(のちに入間郡に編入され水富村、現在の埼玉県狭山市上広瀬)で、代々名主と広瀬神社の神官を務める清水家の長男として、父・寛一、母・勢津の間に生まれる。 生まれつき聡明で物心ついた頃から学問を志し、13歳で尊円流の大家・梅沢台陽に師事して書道と学問を学んだ。