倉成 庄八郎(くらなり しょうはちろう、1892年4月19日… 倉成 庄八郎(くらなり しょうはちろう、1892年4月19日 - 1938年4月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1924年、日本大学法科専門部卒。税務属、長崎県属、会計検査院書記を経て、長崎市議、同議長、長崎県議、同参事会員、となる。また、万朝報記者、長崎民友新聞副社長となる。 1936年の第19回衆議院議員総選挙において長崎1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。第20回総選挙でも再選され衆議院議員を2期務め、1938年、現職のまま死去した。
野﨑 丹斐太郎(のざき にいたろう、明治25年(1892年)… 野﨑 丹斐太郎(のざき にいたろう、明治25年(1892年)4月18日 - 昭和51年(1976年)9月8日)は、昭和時代の製塩業を営んだ実業家。野﨑続太郎の子(母は祖父野﨑武吉郎の娘)。妻は板倉勝憲の娘(長女)。姉に階(佐谷有吉妻)、妹に正(舟橋清賢妻)。子女は、保子(三女、大塚斌妻)ら。 京都帝国大学卒業。大正14年に祖父武吉郎が没した為、家業(製塩業)を継ぐ。昭和9年(1934年)株式会社野﨑事務所カナワ式、真空式、流下式と新しい製塩法を次々と取り入れ近代化をはかった。昭和21年(1946年)に内海塩業株式会社に社名変更し、昭和44年(1969年)にはイオン交換樹脂膜法を採用した。昭和49年(1974年)にはナイカイ塩業株式会社と社名を変更した。
佐野 文夫(さの ふみお、1892年(明治25年)4月18日… 佐野 文夫(さの ふみお、1892年(明治25年)4月18日 - 1931年(昭和6年)3月1日)は、日本の共産主義者で戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部。 山形県米沢市生まれ。父は山口県立山口図書館長を務めた図書館学者・佐野友三郎。父の転勤に伴い、少年期を台湾、大分、山口で過ごす。第一高等学校に無試験で入り、菊池寛、井川(後の恒藤)恭、芥川龍之介と同級生となる。高校生時代、特にドイツ語に長け、在学中から西欧の哲学書を翻訳するほどの天才ぶりだった。この在学中に菊池寛との間でマント事件が起きた。事件の影響でいったん休学して山口県に帰り、キリスト教信徒伝道者・本間俊平の「感化」を促す施設で謹慎生活(秋吉台での大理石採掘)を送り、通常よりも遅れて1913年9月に第一高等学校を卒業した。
宮崎 勝太郎(みやざき かつたろう、1892年〈明治25年〉… 宮崎 勝太郎(みやざき かつたろう、1892年〈明治25年〉4月16日 - 1946年〈昭和21年〉7月12日)は、日本の外交官。駐ルーマニア公使。 愛媛県松山市出身。1916年(大正5年)、高等文官試験と外交官及領事官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。農商務省商工局、同臨時産業調査局に勤務した後、外務事務官に転じ、政務局第三課に勤務。さらにイギリス大使館三等書記官、同二等書記官、外務書記官・欧米局第一課長、フランス大使館一等書記官、イギリス大使館一等書記官、トルコ大使館参事官を歴任した。1939年(昭和14年)、駐ルーマニア公使に就任し、翌年に退官した。
佐々木 すぐる(ささき すぐる、本名:佐々木 英、1892年… 佐々木 すぐる(ささき すぐる、本名:佐々木 英、1892年〈明治25年〉4月16日 - 1966年〈昭和41年〉1月13日)は、日本の作曲家。兵庫県高砂市出身。童謡をはじめとする2000曲もの楽曲を作曲し、中でも「月の沙漠」「お山の杉の子」が有名。三男の佐々木行綱は元童謡歌手、声楽家(バス)、音楽評論家、元山形大学教授。 兵庫県印南郡阿弥陀村魚橋(現・高砂市阿弥陀町魚橋)出身。元は士族であり、父親が郡役所に勤務する家庭に育つ。幼い頃に近所の住人から笛を貸してもらったことで、音楽に興味を抱く。しかし、家庭が貧しかったことから学費のことを考え、音楽学校ではなく姫路師範学校(現在の神戸大学の前身の一つ)へと進学。
4代氏家 清吉(うじいえ せいきち、1892年(明治25年)… 4代氏家 清吉(うじいえ せいきち、1892年(明治25年)4月15日 - 1956年(昭和31年)12月14日)は、日本の銀行家。元七十七銀行頭取・会長。
宮崎 高四(みやざき たかし、1892年4月14日 - 19… 宮崎 高四(みやざき たかし、1892年4月14日 - 1932年5月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 大阪府出身。1917年、東京帝国大学経済科卒。阪堺電鉄、大阪土地建物、高松百貨店各(株)取締役、木津川土地運河、門司築港各(株)監査役となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において熊本2区から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。同年5月に死去した。
星野 直樹(ほしの なおき、1892年〈明治25年〉4月10… 星野 直樹(ほしの なおき、1892年〈明治25年〉4月10日 - 1978年〈昭和53年〉5月29日)は、日本の大蔵官僚、政治家、実業家。 満洲国では国務院総務長官として腕を振るい、満洲国の実力者「弐キ参スケ」の一角を占める。第2次近衛内閣の企画院総裁、東條内閣では内閣書記官長を務め、終戦後にA級戦犯として起訴された。終身禁固刑を受けるも釈放され、その後は旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを歴任した。 1892年(明治25年)4月10日に横浜市で生まれた。当時の高等科二年時(現在の小学校6年)、府立一中(現在の日比谷高校)へ願書を持って行ったところ、その年、中学校に入れるのは1892年4月2日以前の生まれの者に限られるとして、断られた。
高田 敏子(たかだ としこ、1892年4月10日 - 197… 高田 敏子(たかだ としこ、1892年4月10日 - 1974年4月1日)は日本の女子教育および英語教育を先駆的に推進した教育者。静岡県田方郡三島町(現在の三島市)出身。名前の表記は「敏」の例もあるが、戸籍上の表記は「敏子」。高田常三郎と常子の娘として生まれる。大正から昭和初期に「高田女塾」、「高田女学校」を、戦後は「日本キリスト会川崎教会・高田英語学園」を設立して、女性や子供の英語教育に終生献身した。姉の坂本真琴は大正・昭和期に日本の婦人参政権運動に尽力したことで知られる。 高田家は三島の裕福な士族で、敏子の父常三郎は画家を志し(画号常斎)、なおかつキリスト教に入信するなど、明治という時代にあっては大変開明的な家庭環境にあった。
佐藤 春夫(さとう はるお、1892年〈明治25年〉4月9日… 佐藤 春夫(さとう はるお、1892年〈明治25年〉4月9日 - 1964年〈昭和39年〉5月6日)は、近代日本の詩人・小説家。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・評伝作品・童話・戯曲・和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和中期まで旺盛に活動した。筆名を潮鳴、沙塔子、雅号を能火野人と称した。初代新宮市名誉市民。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 生家は医家。中学時代から文学好きで、文芸誌「スバル」に詩歌を投稿した。永井荷風を慕い慶應義塾に入学。生田長江に師事。与謝野鉄幹・晶子の東京新詩社に入った。 『西班牙犬の家』(1917年)などで認められ、『田園の憂鬱』(1917年)や『都会の憂鬱』(1922年)で作家的地位を確立。
細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日… 細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日 - 1963年(昭和38年)8月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士25期。最終階級は陸軍中将。
田中 恭吉(たなか きょうきち、明治25年(1892年)4月… 田中 恭吉(たなか きょうきち、明治25年(1892年)4月9日 - 大正4年(1915年)10月23日)は、和歌山県和歌山市出身の文人・芸術家。特に版画家としてよく知られている。 明治25年(1892年)、現在の和歌山市に生まれた。明治43年(1910年)に和歌山県立徳義中学校(後に和歌山中学校と統合)を卒業すると上京し、約1年間、白馬会原町洋画研究所に通う間に恩地孝四郎と知り合った。翌年に東京美術学校の彫刻科に入学すると、藤森静雄、大槻憲二、土岡泉、竹久夢二、香山小鳥などと交流を深める中で独自の表現を模索。初めて木版画を制作したのは大正2年(1913年)12月頃だと考えられている。藤森や大槻、土岡などと同人雑誌「ホクト」を手掛けたり、雑誌「少年界」や「少女界」に寄稿したり、回覧雑誌「密室」にペン画や、自刻による木版画いわゆる創作版画を発表するなど、美術と文芸の両方で才能を発揮した。
箱崎 文應(はこざき ぶんおう、1892年(明治25年)4月… 箱崎 文應(はこざき ぶんおう、1892年(明治25年)4月7日 - 1990年(平成2年)2月6日 )は、天台宗の僧侶。比叡山延暦寺の千日回峰行を戦前満行した行者として知られる。天台宗北嶺大行満大阿闍梨、大僧正、比叡山一山 飯室谷不動堂長寿院住職を務めた。 福島県石城郡小名浜町(現・いわき市)に生まれる。出生時の名は箱崎作。 1930年、海難事故に遭い遭難者の菩提を願い比叡山に入る。翌年、大乗院住職、小森文諦の門弟となり、文応を名乗る。 四度加行の満行(1932年)、入壇灌頂履修(1933年)を経て、1934年より回峰修行に入る。1938年10月25日より11月2日の間、断食・断水・不眠・不臥の堂入修行をおこなった。
伊藤 弥太(いとう やた、1892年(明治25年)4月6日 … 伊藤 弥太(いとう やた、1892年(明治25年)4月6日 - 1975年(昭和50年)5月31日)は、日本の洋画家。 秋田県大館市部垂町出身。1910年に旧制大舘中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業し、翌年の1911年に上京して美術雑誌「美の廃墟」を友人らと発行したのち岸田劉生に師事した。1912年に国民新聞社の記者として活動した。1914年の第1回二科展に入選した。 この頃に家財道具一切の盗難に遭い、これが原因で岸田劉生との間に誤解が生じ、絵画を放棄して静岡県三島市に隠棲した。 1927年に若山牧水らの勧めで再起し国分寺村に上京した。1929年には千葉県に転居し、翌年の1930年には秋田市に転居した。
平良 辰雄(たいら たつお、1892年4月6日 - 1969… 平良 辰雄(たいら たつお、1892年4月6日 - 1969年7月26日)は、戦前の沖縄県の官僚で、沖縄群島政府及び琉球政府の政治家。
草光 信成(くさみつ のぶしげ、1892年4月5日 - 19… 草光 信成(くさみつ のぶしげ、1892年4月5日 - 1970年12月21日)は、日本の洋画家。 島根県出雲市出身。1916年東京美術学校(現在の東京芸術大学)卒。和田三造に師事した。1916年の第4回帝展に出品した「簾の影」が初入選した。その後、1927年に「四人の子等」、1928年に「立像」で2年連続帝展特選を受賞した。1930年に「前庭」でも帝展特選を受賞した。 1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に、「スタート」「用意」という作品を出品した。 1938年には従軍画家として中国に赴任した。 1950年には新世紀美術協会の創立に参画し、その委員を務めた。
中原 義正(なかはら よしまさ、1892年4月3日 - 19… 中原 義正(なかはら よしまさ、1892年4月3日 - 1944年2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。日本海軍の著名な南進論者であった。 山口県美祢郡美東町太田出身。農業・中原吉蔵の三男として生れる。萩市の医師、平和主義者、宮原進の叔父にあたる。山口中学校を経て、1913年12月、海軍兵学校(41期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。1920年12月、海軍水雷学校高等科を卒業し、「第1潜水艦」長兼水雷学校教官、第1潜水戦隊参謀、練習艦隊参謀、「第37潜水艦」長心得などを歴任し、1926年11月、海軍大学校(甲種24期)を卒業した。 「呂号第六十四潜水艦」長、アメリカ駐在、軍令部第1班第1課参謀、軍令部出仕(第1班)、ジュネーヴ出張、海軍省人事局第1課局員、軍令部第1部員、「名取」艦長、開戦時の御前会議に出席をした。
長野 長広(旧字体: 長野 長廣、ながの ながひろ、1892… 長野 長広(旧字体: 長野 長廣、ながの ながひろ、1892年(明治25年)4月1日 – 1965年(昭和40年)3月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲民政党→日本進歩党→民主党→自由党)、文部政務次官、内務政務次官を務めた。 高知県長岡郡介良村(現在の高知市)出身。1909年(明治42年)、高知県立農林学校を卒業。小学校訓導、高知県立農業学校教諭、熊本農業学校教諭、実業補習学校教員養成所教諭、文部省社会教育官、宇都宮高等農林学校教授を歴任。のち満州国文教部に勤務し、満州国体育連盟理事を兼ねた。 1937年(昭和12年)、衆議院に補欠当選。同年の第20回衆議院議員総選挙で再選を果たした。
土岐 政夫(とき まさお、1892年4月1日 - 1965年… 土岐 政夫(とき まさお、1892年4月1日 - 1965年3月5日)は、日本の官僚。
大ノ里 萬助(おおのさと まんすけ、1892年4月1日 - … 大ノ里 萬助(おおのさと まんすけ、1892年4月1日 - 1938年1月22日)は、青森県南津軽郡藤崎町出身で出羽海部屋(入門時は若松部屋)に所属した大相撲力士。本名は天内 萬助(あまない まんすけ)。最高位は東大関。 1892年4月1日に青森県で生まれる。身体は小さいが無類の相撲好きで、1910年の夏に巡業が弘前へ来た際に土俵上にいた綾川五郎次の颯爽たる姿に憧れ、角界入りを決意した。そして1911年に周囲の忠告・制止を振り切って上京し若松部屋で入門を志願したが、あまりの小さい身体に一度は唖然とされるも、熱心さに根負けした若松が「暫くは置いておこう」と入門を許可、1912年1月場所で初土俵を踏んだ。
岸 福治(きし ふくじ、1891年〈明治24年〉4月30日 … 岸 福治(きし ふくじ、1891年〈明治24年〉4月30日 - 1949年〈昭和24年〉7月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 群馬県群馬郡金古町足門(群馬町を経て現・高崎市足門町)出身。岸保五郎の三男として生れる。旧制高崎中学校を経て、1912年7月、海軍兵学校(40期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。「満州」分隊長などを経て、海軍大学校航海学生となる。「野島」「長良」の各航海長などを歴任し、1925年11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。 「鬼怒」航海長、軍令部第1班第1課参謀、「春日」教官、「八雲」副長、「室戸」「名取」の各艦長、海軍航海学校教頭、「扶桑」艦長などを経て、1939年11月、海軍少将に進級。
石川 謙(いしかわ けん、1891年4月29日 - 1969… 石川 謙(いしかわ けん、1891年4月29日 - 1969年7月12日)は、日本の教育史学者、お茶の水女子大学名誉教授。岡崎女子短期大学初代学長。教育学者の石川松太郎は息子である。日本近世教育史、特に石門心学を研究した。 愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市花園町屋敷)に中川仙太郎の次男として生まれる。1895年、4歳のときに父が死去し、碧海郡依佐美村(現・刈谷市小垣江町)で農業を営む石川松吉の養嗣子となる。1903年、小垣江高等小学校を卒業。1912年、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験教育科に合格し、1916年(大正15年)には東京高等師範学校の研究科に入学。1920年に渡米し、翌年スタンフォード大学に入学し、カバリー教授の指導を受ける。
大城戸 三治(おおきど さんじ、1891年(明治24年)4月… 大城戸 三治(おおきど さんじ、1891年(明治24年)4月28日 - 1962年(昭和37年)3月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県出身。農業・大城戸卯市の三男として生まれる。柏原中学校(現兵庫県立柏原高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第40連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を優等で卒業。 1925年(大正14年)1月、歩兵第40連隊中隊長となり、参謀本部付勤務(支那班)、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)を務め、1930年(昭和5年)12月から1931(昭和6年)11月まで陸大で専攻学生として学んだ。
猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 19… 猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 1956年12月18日)は、日本京都府京都市出身の実業家。 京都帝国大学医学部名誉教授猪子止戈之助の長男として生まれる。一中、三高、京都帝大と進み南満州鉄道(満鉄)に入社。満鉄野球部に情熱をささげるとともに仕事においても理事に就任。 戦後松竹ロビンス球団代表を務め満鉄時代の後輩である小西得郎を監督に迎え入れ優勝。1952年6月より、近鉄パールス社長に就任する。1956年11月パ・リーグ総裁就任も65歳で死去。球団葬が営まれた。後任のパ・リーグ総裁はオーナーの佐伯勇が務めた。 出典は『人事興信録』の4巻、8巻より[要ページ番号]。 「ウィニングベースボール」(アーサー・マン著、三宅大輔とともに翻訳) - 1958年、ベースボール・マガジン社発行。
荒木 忍(あらき しのぶ、1891年4月26日 - 1969… 荒木 忍(あらき しのぶ、1891年4月26日 - 1969年1月8日)は、日本の俳優である。本名は荒木 武雄(あらき たけお)。サイレント映画初期の時代である日活向島撮影所から、戦後の大映京都撮影所まで、長期にわたる芸歴をもつベテラン俳優として知られる。 1891年(明治24年)4月26日、新潟県刈羽郡田尻村(現在の同県柏崎市田尻地区)に生まれる。『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)の荒木の項を執筆した奥田久司によれば、父は明治維新までは、長岡藩士であったという。 中頸城郡立高田農学校(現在の新潟県立高田農業高等学校)に進学するが、1906年(明治39年)ころに中途退学して東京に移る。
新木 栄吉(あらき えいきち、1891年〈明治24年〉4月2… 新木 栄吉(あらき えいきち、1891年〈明治24年〉4月24日 - 1959年〈昭和34年〉2月1日)は、大正から戦後昭和に活躍した日本の銀行家。日本銀行総裁を2度にわたって務めたほか、戦後初の駐米大使も務めた。 石川県小松町(現 小松市)出身。石川四中から第四高等学校 (旧制)首席を経て、1916年(大正5年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年日本銀行に入行。 日本銀行では国庫局、大阪支店、ニューヨーク駐在(1922年-1926年および1935年-1937年の二度)などを経たのち、外国為替局長、営業局長、理事、副総裁を歴任。1945年(昭和20年)10月に渋沢敬三総裁が幣原内閣の大蔵大臣を拝命して入閣すると、その後任の日銀総裁に就任した。
綾川 武治(あやかわ たけじ、1891年(明治24年)4月2… 綾川 武治(あやかわ たけじ、1891年(明治24年)4月23日 - 1966年(昭和41年)12月7日)は、日本の国家主義者、弁護士、政治家。衆議院議員。 埼玉県幡羅郡長井村字善ヶ島(のち大里郡長井村、現:熊谷市)で、小作農・綾川幸太郎、せん夫妻の長男として生まれる。江波学校(長井尋常小学校)、幡羅高等小学校を経て、1904年4月、埼玉県立熊谷中学校に入学。実家の家計悪化のため、1907年3月、中学を休学して、父の職場であった磐城炭鉱 (株) 越賀炭鉱(福島県石城郡内郷村)で一年余り働き、熊谷中四年に復学し1910年3月に卒業した。 無試験検定で合格し、1910年9月、第七高等学校造士館第一部甲(英法科)に入学。
野田 謙吾(のだ けんご、1891年(明治24年)4月22日… 野田 謙吾(のだ けんご、1891年(明治24年)4月22日 - 1961年(昭和36年)11月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身。農業・野田市九郎の四男として生れる。熊本中学校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第55連隊付となる。1914年(大正3年)8月から12月まで青島の戦いに出征。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(第32期)を卒業した。 1921年(大正10年)7月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、陸軍歩兵学校教官、朝鮮軍参謀、歩兵第14連隊大隊長、参謀本部員などを経て、1931年(昭和6年)11月から翌年4月まで、陸大専攻学生として学んだ。
京極 高修(きょうごく たかおさ、1891年〈明治24年〉4… 京極 高修(きょうごく たかおさ、1891年〈明治24年〉4月21日 - 1967年〈昭和42年〉10月2日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・秀雄。位階は従三位。勲等は勲二等。 子爵・京極高徳の五男として生まれる。父の死去に伴い、1928年(昭和3年)6月15日、子爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学法学部政治学科を卒業した。 1935年(昭和10年)6月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
阿部 勝雄(あべ かつお、1891年4月18日 - 1948… 阿部 勝雄(あべ かつお、1891年4月18日 - 1948年5月26日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岩手県西磐井郡厳美村(現在の一関市厳美町)で村長・阿部雄七とその妻てふの二男として生れる。旧制一関中学校を経て、1912年7月、海軍兵学校(40期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。1919年11月、海軍砲術学校高等科を卒業し、「磯風」砲術長、第2艦隊参謀、砲術学校教官などを経て、1924年11月、海軍大学校(甲種22期)を次席で卒業した。 「長門」副砲長兼分隊長、アメリカ駐在、海軍省軍務局第1課局員、第2艦隊参謀、海大教官、第3艦隊参謀、海大教官、軍務局第1課長、第2回ロンドン軍縮会議全権随員、「多摩」「龍驤」「加賀」の各艦長、軍令部第3部長などを歴任し、1938年11月、海軍少将に進級。
岡部 周治(おかべ しゅうじ、1891年〈明治24年〉4月1… 岡部 周治(おかべ しゅうじ、1891年〈明治24年〉4月17日 - 1967年〈昭和42年〉11月30日)は日本の政治家。衆議院議員(1期、日本社会党)、群馬県議会議員(2期)、群馬県新田郡強戸村長。 1891年(明治24年)4月17日、群馬県新田郡強戸村大字強戸(現・太田市強戸町)に岡部駒次郎・よし夫婦の次男として生まれる。生家は地主で、父駒次郎は群馬県会議員・強戸村長を務めた。1909年(明治42年)群馬県立太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)、1911年(明治44年)東京府青山師範学校第二部、1915年(大正4年)に法政大学専門部法律科を卒業する。 家業の農業に従事し、戦前は強戸村農会長、東毛乾繭販売利用組合理事、新田郡農会長、県農地委員会委員などを歴任。
高柳 儀八(たかやなぎ のりはち、または たかやなぎ ぎはち… 高柳 儀八(たかやなぎ のりはち、または たかやなぎ ぎはち、1891年(明治24年)4月17日 - 1973年(昭和48年)12月29日)は、日本の海軍軍人。戦艦「大和」第2代艦長。最終階級は海軍中将。 佐賀県出身。高柳米吉の息子として生れる。旧制佐賀中学卒を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1913年(大正2年)12月、海軍兵学校(41期)を卒業。翌年12月、海軍少尉に任官。1920年(大正9年)11月、海軍砲術学校高等科を卒業。戦艦「鹿島」分隊長、駆逐艦「海風」砲術長、砲術学校教官などを経て、1927年(昭和2年)11月、海軍大学校(甲種25期)を卒業した。
黒沢 富次郎(くろさわ とみじろう、1891年〈明治24年〉… 黒沢 富次郎(くろさわ とみじろう、1891年〈明治24年〉4月16日 - 1972年〈昭和47年〉8月29日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 長野県南佐久郡穂積村(現・佐久穂町大字穂積)の醤油製造業・黒沢陸之助(通称:丸ト)の長男として生まれる。野沢中学校(現・長野県野沢北高等学校)を卒業後、家業の醤油醸造業を継ぐ。地元の商工会長、消防組頭を経て、佐久製材社長や長野県消防協会長、佐久通運社長、長野電鉄監査役、同取締役を歴任した。 1946年(昭和21年)12月16日より1年間貴族院議員を務め、貴族院廃止後の1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に長野県第2区から日本自由党公認で出馬したが落選した。
島津 久基(しまづ ひさもと、1891年(明治24年)4月1… 島津 久基(しまづ ひさもと、1891年(明治24年)4月16日 - 1949年(昭和24年)4月8日)は、国文学者。東洋大学教授、東京大学教授、文学博士。 生家は島津氏分家・花岡島津家。鹿児島県鹿児島市の天文館通りにあった花岡島津屋敷で生まれ育つ。鹿児島県立第一鹿児島中学校(旧制)を経て、第七高等学校造士館(旧制)に進み、1913年に卒業。1916年東京帝国大学文科大学を卒業。東大在学中、芳賀矢一の知遇を受ける。また、成績優秀のため、卒業時に恩賜銀時計を受ける。大学院に入り勉学を続ける。 1919年日本大学講師となり、同年第一高等学校(旧制)教授となった。1922年、母校の東京帝国大学助教授となったが、1924年に病気のため休職し1926年に退職。
長尾 新九郎(ながお しんくろう、1891年(明治24年)4… 長尾 新九郎(ながお しんくろう、1891年(明治24年)4月16日 - 1968年(昭和43年)5月15日)は、日本の政治家。徳島市長。明治大学政治経済学部卒業。 旧名東郡加茂名村(現在の徳島市庄町)で生まれた。 徳島農業高等学校、明治大学政治経済学部卒業。明治大学では弁論部に同郷の後輩三木武夫を勧誘し、以後も支援する。 1934年、徳島市役所に勤務、佐古青果市場理事長に就任。 1951年に徳島市長に就任し1958年まで2期を務める。一坂俊太郎以来、戦後初めて2期以上、市長を務めた。1967年、日本ポルトガル親善とモラエス翁顕彰の功によりポルトガル国徳島駐在名誉領事に任じられた。 1968年(昭和43年)5月15日、77歳で没する。
大蛇潟 粂藏(おろちがた くめぞう、1891年4月15日 -… 大蛇潟 粂藏(おろちがた くめぞう、1891年4月15日 - 1933年5月15日)は、秋田県能代市出身で錦島部屋に所属した大相撲力士。本名は宮腰 粂藏(のちに錦島姓)。最高位は西関脇。現役時代の体格は175cm、113kg。得意手は左四つ、寄り。 明治時代に幕内力士だった7代錦島に入門し、1905年(明治38年)1月場所に序ノ口から初土俵を踏む。実力は高く18歳2か月で迎えた1909年(明治42年)6月場所に「能代潟」の四股名で十両昇進、翌1910年(明治43年)6月場所、19歳2か月で入幕、師匠の現役時代の四股名だった「大蛇潟」に改めた。当時は年2場所時代で、彼に近いスピードでの若年昇進といえばのちの第33代横綱武藏山が挙がるが、大蛇潟の入幕は武藏山よりも3か月早いものだった。
高倉 輝(たかくら てる、1891年〈明治24年〉4月14日… 高倉 輝(たかくら てる、1891年〈明治24年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉4月2日)は、日本の劇作家、小説家、政治家、著述家。 1891年4月14日、高知県高岡郡口神ノ川(戸籍上は幡多郡七郷村浮鞭)生まれ。本名は高倉輝豊、のちに輝と改名した。国語国字改革を推進する立場から「タカクラ・テル」と自称した。入野高等小学校、宇和島中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、第三高等学校から京都帝国大学英文科に進み、1916年、京都帝国大学を卒業し、新村出教授のもとで1922年まで同大学の嘱託。 ロシア革命の影響を受け、河上肇によってマルクス主義に接近。戯曲や翻訳を手がけ、やがて著述家として独立した。
平沢 要(ひらさわ かなめ、1891年〈明治24年〉4月11… 平沢 要(ひらさわ かなめ、1891年〈明治24年〉4月11日 - 1957年〈昭和32年〉5月25日)は、日本の逓信官僚。 長野県上伊那郡西春近村(現・伊那市)出身。旧制第一高等学校を経て、1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。逓信省に入り、為替貯金局書記、同事務官補・逓信事務官補、電気局事務官、逓信省参事官・大臣官房文書課勤務、逓信書記官・電気局監理課長、同業務課長、大臣官房文書課長、広島逓信局長を歴任。1936年(昭和11年)、逓信省電務局長・逓信官吏練習所長となり、翌年には逓信次官に就任した。 退官後は中支那振興株式会社副総裁に就任し、1943年(昭和18年)まで在任した。
河合 正臣(かわい まさおみ、1891年〈明治24年〉4月1… 河合 正臣(かわい まさおみ、1891年〈明治24年〉4月10日 - 1958年〈昭和33年〉7月18日)は、大正から昭和時代の政治家。埼玉県川越市長。 秋田県に生まれる。中央大学を卒業し、東京興信所書記、同興信所川越出張所主事を経て、1930年(昭和5年)民政党系同志会が改称した愛市同盟に所属して川越市会議員に当選した。1938年(昭和13年)から1942年(昭和17年)の間に市会議長を2度務めた。1945年(昭和20年)同市長に就任。終戦を挟んで1946年(昭和21年)7月、ソースを公定価格の3倍近い価格で市民に配給した「ソース事件」の責任を取り、8月に辞任した。
竹下 義晴(たけした よしはる、1891年(明治24年)4月… 竹下 義晴(たけした よしはる、1891年(明治24年)4月9日 - 1979年(昭和54年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県出身。竹下一清の二男として生まれる。広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第41連隊付となる。参謀本部付勤務、陸士生徒隊付などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業し歩兵第41連隊中隊長に就任。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、支那駐屯軍司令部付、参謀本部員(兵要地誌班)を経て、1926年(大正15年)3月、歩兵少佐に昇進。
平川 清風(ひらかわ せいふう、1891年4月7日 - 19… 平川 清風(ひらかわ せいふう、1891年4月7日 - 1940年2月2日)は、日本のジャーナリスト。父は漢学者の平川清音。 熊本県熊本市出身。1908年熊本県立熊本中学校卒業。1911年旧制第五高等学校卒業。1914年東京帝国大学法学部政治学科卒業。大阪毎日新聞社に入社し、上海特派員、整理部長、社会部長などを歴任する。1938年常務取締役、編集主幹となる。1940年2月2日死去。
大田 實(おおた みのる、1891年(明治24年)4月7日 … 大田 實(おおた みのる、1891年(明治24年)4月7日 - 1945年(昭和20年)6月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。千葉県長生郡長柄町出身。
荷見 安(はすみ やすし、1891年(明治24年)4月6日 … 荷見 安(はすみ やすし、1891年(明治24年)4月6日 - 1964年(昭和39年)2月22日)は、日本の農林官僚。農林次官。茨城県出身。
一場 武平(いちば ぶへい、1891年〈明治24年〉4月5日… 一場 武平(いちば ぶへい、1891年〈明治24年〉4月5日 - 1971年〈昭和46年〉)は、日本の政治家(群馬県吾妻郡吾妻町長・岩島村長ほか)・軍人。藍綬褒章(1963年)。 吾妻町(現・東吾妻町)生まれ。岩島高等小学校卒業。高崎歩兵第15連隊に入営。1921年(大正10年)、岩島村軍人分会会長に就任。1924年(大正13年)、岩島村消防組頭に就任。 1929年(昭和4年)、岩島村会議員に当選した。1933年(昭和8年)同村助役となった。1937年(昭和12年)助役に再任された。同年3月、村会議員の再選を果たした。1941年(昭和16年)8月に助役を辞職した。1942年(昭和17年)7月、村会議員に3選。
2代 竹原 友三郎(たけはら ともさぶろう、1891年〈明治… 2代 竹原 友三郎(たけはら ともさぶろう、1891年〈明治24年〉4月4日 - 1973年〈昭和48年〉6月4日)は、大正から昭和にかけての日本の実業家である。大阪の証券会社竹原証券の社長や関西土地社長、不動化学工業(現・フドー化学)社長などを務めた。友三郎の名は養父・初代友三郎から継いだもので、襲名前は竹原 義一を名乗った。 2代竹原友三郎は、1891年(明治24年)4月4日、太田聿郎の長男として生まれた。出身地は大阪府高槻市、初名は義一。のちに伯父にあたる大阪市で両替商・株式仲買業を営む初代竹原友三郎の養子となる。また岸和田の富豪寺田甚与茂の次女・秀(1894年生)を妻とした。学業は1913年(大正2年)に大阪高等商業学校を卒業した。
三浦 弥平(みうら やへい、1891年4月2日 - 1971… 三浦 弥平(みうら やへい、1891年4月2日 - 1971年4月)は、日本の陸上選手(長距離走)。現在の福島県伊達市出身。1920年アントワープ・1924年パリオリンピックのマラソン競技に出場。早稲田大学卒業後、ドイツに留学して体育学を修め、帰国後は郷里のスポーツ振興に尽力した。 福島県伊達郡白根村字木ノ田(現在の伊達市梁川町白根字木ノ田)に生まれる。生家は蚕種製造を行う大きな農家であった。 白根村立白根尋常小学校から梁川町立梁川尋常高等小学校(現在の伊達市立梁川小学校)に進む。幼いころから病弱であり、高等小学校2年時にはリウマチによって1年半の休学を余儀なくされている。1907年、白石中学校(現在の宮城県白石高等学校)に進学後も病気のため留年を経験した。
小林 浅三郎(こばやし あささぶろう、1891年(明治24年… 小林 浅三郎(こばやし あささぶろう、1891年(明治24年)4月1日 - 1974年(昭和49年)3月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県出身。農業・小林荘助の三男として生れる。鳳鳴中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業。 1923年(大正12年)1月、歩兵第70連隊中隊長に就任。陸軍歩兵学校教官を経て、1927年(昭和2年)3月から1929年(昭和4年)6月までイギリスに駐在。この間、1927年12月、歩兵少佐に昇進した。
木原 円次(きはら えんじ、1891年(明治24年)4月1日… 木原 円次(きはら えんじ、1891年(明治24年)4月1日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚、陸軍司政長官。台北市尹、台北市長。弁護士。 広島県安芸郡海田市町(現在の海田町)出身。1914年(大正3年)に陸軍士官学校(26期)を卒業し、歩兵少尉に任官。1918年(大正7年)に中尉に昇進するが、1920年(大正9年)に病のため予備役となった。1921年(大正10年)、中央大学を卒業し、会計検査院書記を務めながら、翌年に弁護士試験と高等試験に合格した。1923年(大正12年)、台湾総督府属となり、警視、事務官・警務局理蕃課長、台北州警務部長、警務局警務課長、新竹州内務部長、内務局土木課長、専売局参事・庶務課長を歴任。
大山 安(おおやま やすし、1891年(明治24年)4月 -… 大山 安(おおやま やすし、1891年(明治24年)4月 - 1962年(昭和37年)6月21日)は、日本の政治家。緑風会所属参議院議員。 本籍茨城県。上京し、東京市立浅草工業専修学校(現・東京都立蔵前工科高等学校)高等科を卒業する。卒業後は農業と土木請負業等に従事する。 1947年4月、第1回参議院議員通常選挙において全国区に出馬し当選(任期3年)。1950年6月、第2回通常選挙で落選し、1953年4月、第3回通常選挙で落選し、参議院議員を一期務めた。
湯浅 八郎(ゆあさ はちろう、1890年(明治23年)4月2… 湯浅 八郎(ゆあさ はちろう、1890年(明治23年)4月29日 - 1981年(昭和56年)8月15日)は、日本の昆虫学者・教育者・キリスト者。第10・12・13代同志社総長および初代国際基督教大学学長を歴任した。湯浅治郎の五男。 1890年(明治23年)、東京市赤坂に生まれた。父は同志社理事・群馬県会議長・衆議院議員を務めた実業家・政治家である湯浅治郎、母は徳富蘇峰・徳富蘆花兄弟の姉である初子である。湯浅家は当時の日本ではまだ珍しい、クリスチャン・ホームであった(父方の叔父に聖書学者として知られる湯浅吉郎がいる)。少年期は主として京都で過ごした。 1902年(明治35年)に同志社普通学校に入学、1908年(明治41年)に卒業し、米国に渡った。