本間 隆(ほんま たかし、1950年5月24日 - 2023… 本間 隆(ほんま たかし、1950年5月24日 - 2023年4月24日)は、日本のチューバ奏者。 東京音楽大学チューバ科を卒業後、東京バリチューバアンサンブル、東京ブラスソサエティで活動した。また、高校吹奏楽部や市民バンドの指揮指導、聖徳大学講師として後進の指導をおこなった。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
西村 直記(にしむら なおき、1949年6月17日 - )は… 西村 直記(にしむら なおき、1949年6月17日 - )は、日本の作曲家、シンセサイザー奏者。「たったひとりの音楽巡礼者」と称し、「この世のすべてに光を照らし、心を浄化し、世界が平和になりますように。人も心も魂も、自然さえも安らぐ音楽を目指し」、世界を音楽巡礼している。 1949年愛媛県松山市生まれ。愛媛県立松山東高等学校、東京音楽大学を経て東京藝術大学卒業。その後、愛媛大学教育学部音楽科で講師を務めるかたわら、ピアノ教室を開き、地元放送局でラジオのDJも務めていた。 1979年、妊娠中の妻と当時4歳の長男・西村英将がオーケストラボックスに転落した事故をきっかけに四国八十八箇所を巡礼し、7年間半かけて巡礼組曲「四国八十八か所音楽巡礼の旅」を完成。
加藤 知典(かとう とものり、1949年5月10日 - 20… 加藤 知典(かとう とものり、1949年5月10日 - 2015年没、享年66歳)は、日本の作曲家・編曲家、バンドディレクター。埼玉県生まれ。日本音楽著作権協会会員。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
店村 眞積(たなむら まづみ、1948年8月31日 - )は… 店村 眞積(たなむら まづみ、1948年8月31日 - )は、日本のヴィオラ奏者。東京音楽大学教授、桐朋学園大学特任教授。京都府出身。男性。 6歳よりヴァイオリンを始める。東儀祐二、鷲見三郎、江藤俊哉、齋藤秀雄、ピエロ・ファルッリらに師事。中学3年生のとき、学生音楽コンクール西日本第1位。京都市立堀川高校音楽コースへ進学。高校卒業後は4年間大学へ行かず、週1度東京へ通い、江藤俊哉の個人レッスンを受ける。22歳のとき桐朋学園大学音楽学部へ入学。オーケストラではヴァイオリンもヴィオラも弾いたが、大学3年生のとき、齋藤秀雄に「ヴィオラをやりなさい」と勧められる。1974年に桐五重奏団を結成し、ヴィオラを担当。
久美 かおり(くみ かおり、本名・深町陽子、1948年2月4… 久美 かおり(くみ かおり、本名・深町陽子、1948年2月4日 - )は、日本の元歌手、元女優。渡辺プロダクションに1967年から1970年まで所属していた。「くちづけが怖い」で、第10回日本レコード大賞・新人賞(女性)を受賞。ザ・タイガースの主演映画全て(3作)でヒロイン役を務めたことでも知られる。 東京都渋谷区出身。東洋音楽大学付属高等学校(現在の東京音楽大学付属高等学校)2年生の時、ジャズシンガーを志し、マーサ三宅(大橋巨泉の元夫人)に師事する。ホテルニューオータニなどでジャズを歌っていたところ平尾昌晃に認められたことがきっかけで、渡辺プロダクションに所属する。 東海林修に師事しながら、渡辺プロダクションが経営していたミュージック・スポット「メイツ」で活動。
池田 理代子(いけだ りよこ、1947年12月18日 - )… 池田 理代子(いけだ りよこ、1947年12月18日 - )は、日本の漫画家・劇画家・声楽家。大阪府出身、千葉県柏市育ち渋谷区在住。血液型はAB型。
坪能 克裕(つぼのう かつひろ、1947年 - )は、日本の… 坪能 克裕(つぼのう かつひろ、1947年 - )は、日本の作曲家。 東京音楽大学作曲科卒業。 国際現代音楽祭入選ほか、各種音楽賞受賞。 日本現代音楽協会会長を勤める傍ら、文教大学、東京音楽大学で後進の指導にあたった。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
深瀬 俊夫(ふかせ としお、1946年11月26日 - 20… 深瀬 俊夫(ふかせ としお、1946年11月26日 - 2007年2月26日)は、日本の経営者。栗田俊夫という名義で、作曲家・編曲家としても活動した。 東京都生まれ。東京音楽大学に学び、在学中から叔父にあたる作曲家の船村徹の下で、栗田俊夫として編曲助手の仕事を始めた。 船村の作曲作品などの編曲のほか、一時は年間100本以上のコマーシャル曲を作曲していた。また、埼玉県松伏町の町民歌「まつぶしの歌」なども作曲しており、さらに、アートネイチャーのサウンドロゴや、テレビアニメ「サザエさん」の効果音なども手がけていた。 35歳のときに、大分県別府市で飲食業を営んでいた岳父の求めに応じ、別府でキャバレー「窓」の経営者となった。
田中 賢(たなか まさる、1946年 - )は、日本の作曲家… 田中 賢(たなか まさる、1946年 - )は、日本の作曲家。 新潟県長岡市出身。東京音楽大学とベルリン国立芸術大学を卒業。作曲を南弘明、保科洋、尹伊桑に師事。ベルリン市立音楽学校講師を務める。その後東京家政大学・東京家政大学短期大学部講師となる。さらにフェリス女学院大学でソルフェージュを教えている。2001年より、出身県の一般バンド(市民楽団)の一つ、三条市吹奏楽団の常任指揮者を務める。 元札幌大谷大学芸術学部音楽学科教授。 作品は海外でも評価が高く、ガウデアムス国際作曲コンクールやシュトゥットガルト作曲コンクールで入賞している。なお、「メトセラ」の打楽器群をはじめとして、比較的高度な技術・アンサンブル力を要求される楽曲が多いのが特徴の一つである。
大塚 博堂(おおつか はくどう、本名の読み:おおつか ひろた… 大塚 博堂(おおつか はくどう、本名の読み:おおつか ひろたか、1944年3月22日 - 1981年5月18日)は、ニューミュージックのシンガーソングライター。大分県別府市出身。東洋音楽大学(現:東京音楽大学)声楽科中退。活動時の所属事務所は渡辺プロダクション。 以下の表記は、「博堂」で統一する。 1972年(昭和47年)に「大塚たけし」名義で歌手デビュー、デビュー曲は「自由に生きてほしい」。作曲:井上忠夫、作詞:阿久悠の音楽祭用の楽曲であったが、ヒットには繋がらなかった。その後クラブやライブハウスでの弾き語りの活動が評判になり、1976年(昭和51年)6月26日、『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』で32歳での再デビュー。
三枝 成彰(さえぐさ しげあき、1942年7月8日 - )は… 三枝 成彰(さえぐさ しげあき、1942年7月8日 - )は、日本の作曲家、編曲家、コラムニスト。株式会社メイ・コーポレーション代表取締役、東京音楽大学客員教授、日本作編曲家協会副会長、日本交響楽振興財団理事、日本現代音楽協会理事、渡辺音楽文化フォーラム理事、全日本ピアノ指導者協会(PTNA)相談役、サイバー大学客員教授、AXNエンタテインメント放送番組審議会委員。1989年までは本名の三枝 成章(読みは同じ)名義で活動していた。 疎開先の兵庫県西宮市に生まれ、生後40日で東京都に移り、千葉県や神奈川県を転々として育つ。1946年頃からピアノを習い始め、1951年、桐朋学園の子供のための音楽教室に入り、入野義朗に作曲を師事。
呉 文子(オ・ムンジャ、朝: 오문자, 1937年(昭和12… 呉 文子(オ・ムンジャ、朝: 오문자, 1937年(昭和12年) - )は、在日朝鮮人のエッセイスト。在日女性文学誌『地に舟をこげ』編集委員。 岡山市に在日朝鮮人二世として生まれる。山陽女子高等学校(現、山陽学園高等学校、岡山県)卒業。東洋音楽短期大学(現、東京音楽大学)卒業。1991年(平成3年)、同人誌『鳳仙花』を創刊。2005年(平成17年)の20号まで同誌代表。1994年(平成6年)から1996年(平成8年)まで、調布市女性問題広報紙「新しい風」編集委員。1998年(平成10年)から1999年(平成11年)まで、調布市「町づくり市民会議」諮問委員。
眼龍 義治(がんりゅう よしはる、1937年-)は、富山県高… 眼龍 義治(がんりゅう よしはる、1937年-)は、富山県高岡市出身の作曲家。 高校生のころから作曲家を志して、東京音楽大学の前身東洋音楽短期大学を経て東京藝術大学作曲科を卒業。作曲は池内友次郎、島岡譲、三善晃、指揮法を渡邉暁雄、筝・三味線を上木康江に師事した。またアラン・ホヴァネスのアシスタントとして渡欧したこともある。31年間、尚美学園大学作曲科の教鞭を取った後、現在江原学園・東京音楽療法専門学校・東京ピアノ調律アカデミーで教える。作風は仏教的なものをテーマにした邦楽作品が多い。1999年から2004年までは、NPO法人邦楽教育振興会に所属した。趣味は茶道(裏千家)、剣道、弓道、スキー、写真と多岐に渡る。
黒柳 徹子(くろやなぎ てつこ、1933年8月9日 - )は… 黒柳 徹子(くろやなぎ てつこ、1933年8月9日 - )は、日本の女優、タレント、テレビ司会者、エッセイスト。愛称は、トットちゃん、チャック。 吉田名保美事務所所属。日本史上最初のテレビ出演者のひとりで、ニュースショーのキャスターや、トーク番組の司会を女性では初めて務めた。日本芸術院会員。1984年から現在までユニセフ親善大使。 日本でテレビの放送を開始した初日(1953年2月1日)からテレビ出演を続ける、日本史上最初のテレビ女優である。テレビ草創期から活躍を続けるタレントの一人として知られ、日本史上最初のテレビ女優としては唯一、21世紀に至るまでテレビ番組のレギュラーを継続して持ち続けており、日本のテレビ放送史を代表する芸能人の1人であると言える。
船村 徹(ふなむら とおる、1932年〈昭和7年〉6月12日… 船村 徹(ふなむら とおる、1932年〈昭和7年〉6月12日 - 2017年〈平成29年〉2月16日)は、日本の作曲家、歌手。日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長、日本作曲家協会最高顧問。横綱審議委員会委員。本名は福田 博郎(ふくだ ひろお)。戦後歌謡界を代表する作曲家の一人であり、手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。歌謡曲の作曲家として初めて文化勲章を受章した。位階は従三位。 栃木県塩谷郡船生村(現、塩谷町)出身。栃木県立今市中学校(旧制中学校)、東洋音楽学校ピアノ科卒業。 獣医だった父親がクラシックレコードの収集家であったことや、小学校時代にブラスバンド部でトランペットを吹いていたことなどもあり音楽の道を志す。
福島 雄次郎(ふくしま ゆうじろう、1932年3月21日 -… 福島 雄次郎(ふくしま ゆうじろう、1932年3月21日 - 2005年1月21日)は、日本の作曲家。熊本県八代市出身。 終戦後に結核に侵され、23歳まで療養生活を送る。この間、東京音楽学校(現・東京藝術大学)の通信教育で作曲を学び始める。回復後、東京に出るまでは保険の勧誘員やミシンのセールスマン、五木の山に行って飯場の仕事などをしていた。 東洋音楽短期大学(現・東京音楽大学)卒業。作曲を箕作秋吉、指揮法をアルベルト・レオーネに師事。1962年、「ヴァイオリンとオーケストラのためのラプソディー」で第2回TBS賞(日本を素材とする管弦楽曲募集)入賞。1963年、「オーケストラのための<三連画>」で第32回日本音楽コンクール第3位入賞。
宇都宮 安重(うつのみや やすしげ、1930年11月3日 -… 宇都宮 安重(うつのみや やすしげ、1930年11月3日 - 2005年6月24日)は、日本の作曲家、編曲家である。 長野県南佐久郡田口村(現佐久市)生まれ。4歳頃よりピアノを始める。村立田口小学校から東京市の京橋小学校へ移る。旧制暁星中学校を経て(この頃に音楽人類学者・日本打弦楽器協会会長の生明慶二と出会う)、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を卒業。同期に黒柳徹子、石橋エータローがいた。音楽学校在学中よりクラブ等にてジャズピアニストとして活動を始める。 ミュージシャン仲間との親交の中で小杉太一郎に師事。映画音楽、TV音楽等の作曲・編曲に携わる。中でも1979年10月からテレビ朝日系列で放送が開始されたテレビドラマ『西部警察』のメインテーマ曲が知られる。
星 和男(ほし かずお、1930年9月28日 - 2004年… 星 和男(ほし かずお、1930年9月28日 - 2004年2月3日)は日本の作曲家、声楽家、音楽教諭。福島県出身。 声楽家で東京音楽大学准教授の星洋二は長男。 1930年(昭和5年)、福島県若松市(現在の会津若松市)馬場町に生まれる。旧制会津中学校(現在の福島県立会津高等学校)を経て国立音楽学校(現在の国立音楽大学)声楽科へ進学するが、1年で中退する。1949年(昭和24年)、藤原歌劇団合唱部に入部。 帰郷後に中学校の音楽教諭となり、会津若松市立河東第一中学校在職中の1967年(昭和42年)に県が募集していた「福島県県民の歌」の作曲部門で応募作が入選する。その後も南会津郡下郷町の町民歌「飛躍の明日へ」や会津若松市立松長小学校、喜多方市立姥堂小学校など会津地方の公立学校の校歌で作曲を手掛けた。
三浦 洸一(みうら こういち、1928年1月1日 - 202… 三浦 洸一(みうら こういち、1928年1月1日 - 2025年1月11日)は、日本の歌手。本名は、桑田 利康(くわた としやす)。 神奈川県三浦市出身。持ち歌は文芸を題材にして書かれた曲いわゆる「文芸歌謡」が多い。謹厳実直な歌唱法が特長で、社歌や自治体制作の音頭など委託制作盤も多数吹き込んでいる。血液型はA型。 神奈川県三浦市三崎地区の浄土真宗本願寺派最福寺の三男・第四子(四人兄弟の末っ子)として出生。長兄は陸軍に入隊しビルマで戦死したため、次兄が住職を継ぐ。その次兄も1993年に死去し、現在は甥(次兄の長男)が住職を務めている。幼少期より厳格な祖父のもと、読経を学ぶ。 現在の三浦市立三崎小学校、市立横須賀商業学校を卒業。
石橋 エータロー(いしばし エータロー、1927年〈昭和2年… 石橋 エータロー(いしばし エータロー、1927年〈昭和2年〉9月30日 - 1994年〈平成6年〉6月22日)は、元ハナ肇とクレージーキャッツメンバー(ピアニスト)で料理研究家。 本名は石橋 英市(通称・瑛市)。石橋 暎太郎と表記していた時期もある。愛称はエーちゃん。 画家青木繁の息子で音楽家の福田蘭童の息子として、東京新橋に生まれ、3歳まで大井町に育つ。母千代は日陰町(現・港区新橋二丁目)で土木建築・人夫請負業を営む資産家石橋伊勢松家の8人兄弟の5番目として生まれた。 エータローが3歳のときに、父の蘭童が映画撮影のために出かけたロケーション先で女優川崎弘子を強姦するという事件を起こした。蘭童は責任を取って、エータローの母と別れて川崎と再婚。
菅原 都々子(すがわら つづこ、1927年(昭和2年)8月6… 菅原 都々子(すがわら つづこ、1927年(昭和2年)8月6日(ただし戸籍上は同年8月15日) - )は、日本の女性歌手。哀愁漂う独特のヴィブラートによる歌唱法を持ち味に「エレジー(悲歌)の女王」と呼ばれ、「NHK紅白歌合戦」の記念すべき歌唱者第1号(最初に歌った歌手)として著名である。本名は永松 都々子(ながまつ つづこ)。旧姓は菅原。 青森県十和田市出身、神奈川県相模原市南区在住。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)卒業。 1937年(昭和12年)にデビュー。独特の哀愁を帯びた個性的なビブラート唱法が特徴で、『江の島悲歌』(えのしまエレジー)や『月がとっても青いから』が代表曲として知られる。現在の時点で第1回、第2回NHK紅白歌合戦の出演者で最後の存命者でもある。
ク・ボンソ(具 鳳書、朝鮮語: 구봉서、1926年11月5日… ク・ボンソ(具 鳳書、朝鮮語: 구봉서、1926年11月5日 - 2016年8月27日)は、大韓民国のコメディアン、俳優。本貫は綾城具氏。キリスト教徒。 日本統治時代の平安南道平壌府(現・平壌直轄市)出身。実家は衣料品を商う裕福な家庭であった。3歳時に大同郡に、次に京城府に移住した。様々な楽器を扱うことができたため、キム・ヨンファン楽劇団の団員をしていた。1945年に大東商業高等学校(現・大東税務高等学校)を卒業後、1947年に東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を卒業した。1945年から1954年まで太平洋・白鳥歌劇団および陸軍軍芸団で活動し、海兵芸能隊を創設した。1961年喜劇に登場し、出世作『オブジャ』で「末っ子」という愛称がついた。
津島 恵子(つしま けいこ、1926年〈大正15年〉2月7日… 津島 恵子(つしま けいこ、1926年〈大正15年〉2月7日 - 2012年〈平成24年〉8月1日、正字では惠子)は、日本の女優、舞踊家。本名:森(旧姓:倉成)直子。 長崎県下県郡厳原町(現:対馬市)出身。三人姉妹の二女。4歳のころ一家で東京に転居。自由ヶ丘学園幼稚園、トモエ学園小学校、新宿區立四谷第三小学校を経て、東洋音楽学校普通科卒業後、東洋音楽学校(現:東京音楽大学)本科中退。交易営団の秘書課に勤務ののち、飛騨高山に疎開し、現地で終戦を迎える。戦後は、弦巻町で自給自足の生活を開始。一方、6歳、自由ヶ丘幼稚園の時から舞踊を始め、同園および自由ヶ丘小学校にて宮操子から舞踊を学ぶ。のち、宮が四谷に研究所を設けたため、四谷第三小学校に転校して、同所に通う。
織井 茂子(おりい しげこ、1926年〈大正15年〉1月10… 織井 茂子(おりい しげこ、1926年〈大正15年〉1月10日 - 1996年〈平成8年〉1月23日)は、日本の歌手。本名は伊東 茂子(いとう しげこ)。東京都目黒区出身。 10代の頃は、童謡歌手として、リーガル(コロムビアの廉価盤)の専属として活躍。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を卒業後、歌謡曲歌手となるべく当時有名であった大村能章歌謡学院の門下となり、大村の紹介により「都 能子(みやこ よしこ)」の芸名で、1947年(昭和22年)にキングレコードからデビュー。芸名の「能子」は、師である大村能章の「能」をいただいたものである。ヒット曲には恵まれなかったものの、木下惠介監督の松竹映画『女』にレビュー歌手として出演し、劇中で『紅バラルンバ』を歌っている。
大沢 浄二(おおさわ じょうじ、1925年3月29日 - … 大沢 浄二(おおさわ じょうじ、1925年3月29日 - (2020-07-22) 2020年7月22日(95歳没))は、日本のソングライター。群馬県太田市出身。本名:大澤 浄八。1954年、東京音楽大学卒。 作曲家デビューは、1957年の水原淳歌唱「おーィお月さん」。水原には後に「ふるさと航路」「元気でナ達者でナ」「山家つばき」などを提供。水原は一歳年上である。水原は2019年3月25日、95歳で死去した。
春日 八郎(かすが はちろう、本名:渡部 実 (わたべ みの… 春日 八郎(かすが はちろう、本名:渡部 実 (わたべ みのる)、1924年〈大正13年〉10月9日 - 1991年〈平成3年〉10月22日)は、福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身の演歌歌手。代表曲は「赤いランプの終列車」「お富さん」「別れの一本杉」。 父・鬼佐久は農業を母・キヨに任せて蕎麦打ちの行商をやり、キヨは小学校で週2、3度裁縫を教え、夜は賃仕事の仕立物に精出して家計を助けていた。父は尺八を、母は三味線を嗜んでいた。父は蕎麦打ちの名人で、母は当地の花嫁衣装を一手に引き受けるほどの和裁の名手でもあった。春日には妹二人のほかに「ほとんど記憶にない」異母兄姉6人、異父兄姉が4人いた。 1930年に八幡村立八幡尋常小学校へ入学するが、この時期は「歌のうの字も知らない」状態で、人からうまいといってほめてもらった記憶もなかった。
上原 賢六(うえはら けんろく、1924年(大正13年)6月… 上原 賢六(うえはら けんろく、1924年(大正13年)6月3日 - 1980年(昭和55年)9月14日)は昭和期の作曲家。兄は同じく作曲家の上原げんと。 青森県つがる市出身。東洋音楽学校卒業。1945年(昭和20年)、召集され満州へ出征。シベリア抑留を経験し、帰国後、兄上原げんとのもとで作曲を学ぶ。後に作曲家になる船村徹と知り合い、共にバンドの仕事をするなどして、1953年(昭和28年)テイチクレコードの専属作曲家になる。主に石原裕次郎とコンビを組み、「俺は待ってるぜ」、「錆びたナイフ」、「赤いハンカチ」などを作曲した。1980年(昭和55年)9月14日心臓疾患にて死去。56歳没。墓所は東京都の小平霊園。
菊池 章子(きくち あきこ、1924年1月28日 - 200… 菊池 章子(きくち あきこ、1924年1月28日 - 2002年4月7日)は、東京市(現東京都)出身の歌手である。本名は菊池 郁子。妹は歌手の多摩幸子。義子に大久保直彦、孫にcaminoのKIKUとBREATHのメンバーだった菊池一仁がいる。 1924年(大正13年)1月28日(月曜日)、東京市の下谷に生まれる。1927年(昭和2年)畑秀水の門下生となり琵琶を習う。1930年(昭和5年)6才で免許皆伝となり、菊池錦祠を襲名する。のちに菊池祠水となる。 その後、歌謡曲に興味を持ち、九段にあった「大村能章歌謡学院」に入った。日華事変が起こった後は、学院の生徒と共に軍の病院などで慰問活動を行う。女学校の低学年にもかかわらず、彼女が唄うと、アンコールの声が鳴り止まなかった。
奈良 光枝(なら みつえ、1923年(大正12年)6月13日… 奈良 光枝(なら みつえ、1923年(大正12年)6月13日 - 1977年(昭和52年)5月14日)は、昭和時代の歌手。本名は佐藤 みつえ。美貌の歌手として知られた。 青森県弘前市出身。弘前高等女学校(現:青森県立弘前中央高等学校)卒業後、兄の学友であった作曲家の明本京静の薦めで東洋音楽学校に進学。病弱であったためクラシックやオペラを断念し、この事を明本に相談したところ、「マイクロフォンを使う歌手なら大丈夫」と助言を受け、1940年(昭和15年)3月、コロムビアのテストに合格し、16歳で専属歌手となる。同年6月に「胡弓哀歌」を吹き込むが、検閲により発売禁止になる。二作目の「南京花嬌子」で流行歌手としてデビューする。
平山 美代子(ひらやま みよこ、1922年6月29日 - 2… 平山 美代子(ひらやま みよこ、1922年6月29日 - 2005年以降消息不明)は、日本の女性歌手・童謡歌手。本名は磐瀬ゆき。 現在の東京都千代田区三番町出身。1933年に明仁親王(上皇明仁)が誕生した際に「皇太子さまお生まれなつた」を歌い一躍スター歌手となった。 1922年、三越の美術部に勤務する岩瀬純の四女として東京府東京市麹町区三番町に生まれる。六人兄弟(二男四女)の末っ子であったが、長兄は幼少期の爆発事故により右眼を失明し、長姉もこの事故により右手の親指と人差し指にに大けがを負っている。また、次兄は1925年頃に自家中毒で夭逝している。 小学三年生のとき、学校教師に誘われ東京子供音楽会に入会する。
皆川 和子(みながわ かずこ、1922年1月3日 - 201… 皆川 和子(みながわ かずこ、1922年1月3日 - 2014年8月16日)は、日本の音楽家。 立正高等女学校(現・東京立正高等学校)、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)出身。 1943年から子供たちに始めた歌唱指導が、戦後はひばり児童合唱団へと発展し、安田祥子・由紀さおりの姉妹をはじめ幾多の才能を育てた。合唱団の現代表で元子役の皆川おさむは甥。個人レッスンで吉永小百合に歌を教えた。 2014年8月16日、中下咽頭腫瘍のため死去。92歳没。生涯独身。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
郭 芝苑(かく しえん、Kuo Chih-Yuen, 192… 郭 芝苑(かく しえん、Kuo Chih-Yuen, 1921年12月5日 - 2013年4月12日)は、台湾の作曲家。 苗栗県苑裡鎮出身。1935年、東京の錦成中学に入学した。音楽教師からハーモニカを学び、卒業の年には東京の中学生ハーモニカコンクールで一等賞を獲得した。1941年、東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に入学。ヴァイオリン専攻を希望したが、生まれつき左手の小指が内側に湾曲していたために断念し、ピアノの心得もなかったので、作曲と音楽理論を学んだ。1943年、卒業。 1946年、台湾に戻った。1950年、台湾省音楽コンクールで作曲部門第一位を獲得。1966年、作曲を学びなおすために東京芸術大学に入学。
三縄 一郎(、1918年〈大正7年〉2月14日[要出典] -… 三縄 一郎(、1918年〈大正7年〉2月14日[要出典] - 2017年〈平成29年〉12月16日[要出典])は、日本映画の音響効果技師。東京都文京区本郷真砂町[要出典]出身。 日本映画における効果音の基礎を築いた人物とされる。 歌手を目指し東洋音楽学校(現・東京音楽大学)で声楽を学んだ。新協劇団の女優であった姉の手伝いで[要出典]陰歌を手伝ったことをきっかけに、舞台音効の道へ進む。ミリオンレコード社へ入社するも[要出典]日中戦争の激化で同社が解散となり、自身も召集を受ける。 中国から帰国後の1942年(昭和17年)、東宝に入社し効果係となる。半年ほど助手を務めたが、再び召集を受け、戦後から映画の音響効果を本格的に携わるようになる。
水野 久一郎(みずの きゅういちろう、kyuichiro m… 水野 久一郎(みずの きゅういちろう、kyuichiro mizuno、1917年〈大正6年〉9月6日 - 2012年〈平成24年〉12月15日[要出典])は愛知学芸大学・愛知教育大学の音楽科教授および名誉教授。愛知県下の小中学校の校歌を作曲した。 名古屋市に生まれ、1941年(昭和16年)に東京音楽大学を卒業した。 愛知教育大学附属名古屋中学校の校歌の作曲もしており、同窓会誌にその時の様子が記載されている。 2017年の愛知教育大学の未来基金(教育研究基金)の記事では「故水野久一郎名誉教授の音楽に対する熱い思いでこの基金がある」と紹介されている。
藤原 亮子(ふじわら りょうこ、1917年3月1日 - 19… 藤原 亮子(ふじわら りょうこ、1917年3月1日 - 1974年1月27日)は昭和期の歌手。 山口県萩市出身。東洋音楽学校本科声楽科卒業。 1937年(昭和12年)、「泣いて居る」でビクターレコードからデビュー。 柴田睦陸との「朝だ元気で」、小畑実との「勘太郎月夜唄」、「婦系図の歌(湯島の白梅)」、「小太刀を使う女」、竹山逸郎との「誰か夢なき」、「月よりの使者」など、男性歌手とのデュエットでヒットを飛ばす。 生涯独身で、晩年は横浜で暮らした。 昭和40年代の懐メロブームの際に再登場し、テレビ番組などで自身のヒット曲を披露していた。その際は、ソロで披露することが多く、特に不仲だったとされる竹山逸郎とは、決してデュエットしなかった。
海老原 直(えびはら すなお、1917年(大正6年)2月28… 海老原 直(えびはら すなお、1917年(大正6年)2月28日 - 1981年(昭和56年)5月29日)は、昭和時代の日本の作曲家。 宮崎県の生まれ。東京音楽学校卒業後、豊島師範(後の東京第二師範学校、現在の東京学芸大学学芸学部)を経て宮崎師範(現在の宮崎大学学芸学部)に移動後、学校で生徒に音楽を教える。小中学校の校歌を200曲以上作曲し、独唱曲を20曲以上作曲し、音楽の指導者として生涯を捧げた。また合唱の指導にも携わり、1950年(昭和25年)には故郷の宮崎県合唱連盟の理事長に就任した。 代表的な作品として『日向民謡による合唱曲集』などがある。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
尾崎 宗吉(おざき そうきち、1915年〈大正4年〉4月22… 尾崎 宗吉(おざき そうきち、1915年〈大正4年〉4月22日 - 1945年〈昭和20年〉5月15日)は、日本の作曲家。 静岡県で生まれ、1937年から東洋音楽学校 (現:東京音楽大学)でピアノを学ぶ。在学中からドイツより帰国した諸井三郎の門を叩き、作曲を師事した。 1936年、日本現代作曲家連盟に入会し、自作を発表、また1938年には深井史郎、安部幸明、小倉朗らと楽団プロメテを結成し活動した。1939年8月、応召を受け、北中国および南方戦線に派遣され、1942年に一旦帰還し、映画会社に勤務するも、翌1943年には再び満州および中国戦線に派遣され、1945年、江西省全県にて虫垂炎のため戦病死した。
相山 武夫(あいやま たけお、1915年3月7日 - 200… 相山 武夫(あいやま たけお、1915年3月7日 - 2000年3月6日)は富山県出身の実業家、ゴルフ場の設計者。 富山県中新川郡水橋町(現富山市水橋町)で海産物商の8男として生まれた。富山県立滑川商業学校(現富山県立滑川高等学校)を経て、1939年東洋音楽専門学校(現東京音楽大学)卒業。 全国石油加工連合会、海軍燃料廠勤務を経て、1946年に石油製品の2次製品である潤滑油のメーカー、日興産業株式会社を設立。 1953年、日興産業の潤滑油工場施設の近隣にあった18ホールの河川敷ゴルフ場「六郷ゴルフ倶楽部」(現ゴルフ練習場)の経営を目的として、株式会社六郷ゴルフ倶楽部を設立、代表取締役就任を契機に、石油ビジネス以外に、ゴルフ場設計者、事業家としての道をも歩む。
霧島 昇(きりしま のぼる、1914年(大正3年)6月27日… 霧島 昇(きりしま のぼる、1914年(大正3年)6月27日 - 1984年(昭和59年)4月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は坂本 榮吾。福島県双葉郡大久村(現在のいわき市)出身。1979年(昭和54年)紫綬褒章受章。 1914年(大正3年)に福島県双葉郡大久村(現在のいわき市大久町)の農家の三男として生まれる。小学校を卒業後上京し、中学に通いながらボクサーを目指すが断念、テノールの藤原義江のレコードを聴き、日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思い、苦学しながら東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を卒業。 浅草のレビュー小屋でアルバイトをする傍ら吹き込んだエヂソン・レコード『僕の思い出』がコロムビア文芸部長・松村重武(俳優の松村達雄の実父)の目にとまり、1936年(昭和11年)にコロムビアに入社。
滝田 菊江(たきた きくえ、1912年11月15日 - 19… 滝田 菊江(たきた きくえ、1912年11月15日 - 1949年8月6日)は、昭和時代の声楽家。 東京府立第二高等女学校を経て、東洋音楽学校(本科声楽科)卒。ソプラノを専攻。日本ビクター入社後、同社合唱団の一員となり、1936年(昭和11年)からビクター専属歌手としての経歴が始まる。藤原歌劇団のプリマドンナとして活躍したが、三十代で病没した。 父は総合雑誌『中央公論』の名編集者として知られる滝田樗陰で、その三女。滝田菊江の「デビューのときは、かつて樗陰の庇護を受けた文壇大家が、こぞって後援したので、舞台より客席のほうが豪華版だと評判になった」という。 1943年の東宝映画「音楽大進軍」(渡辺邦男監督)に藤原義江(本人役)の妻という設定で出演していて、藤原義江とともに「愛国行進曲」とプッチーニ「トスカ」二重唱を歌唱する姿を見ることができる。
米山 正夫(よねやま まさお、1912年〈大正元年〉10月3… 米山 正夫(よねやま まさお、1912年〈大正元年〉10月3日 - 1985年〈昭和60年〉2月22日)は、日本の作曲家、作詞家である。日本コロムビア専属。別名に勝沼久、Jason Albert。生涯に1000曲以上を作曲し、美空ひばりの「リンゴ追分」など昭和のヒット曲を数多く手がけた。 東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町穏田(おんでん、現在の渋谷区)に生まれる。父親の米山正は倉知誠夫(三越会長)、山本留次、益田英作(益田孝の弟)らと東京蓄音機株式会社を設立し、専務取締役を務めた実業家。旧制成蹊高等学校尋常科に進むが、音楽の道を諦めきれずに東洋音楽専門学校(現在の東京音楽大学)へ転入する。 1934年にピアノ科を首席で卒業し、藤原義江のピアノ伴奏などで修行を重ねる。
桜井 潔(さくらい きよし、1911年 - 1961年)は、… 桜井 潔(さくらい きよし、1911年 - 1961年)は、昭和初期から、おもにタンゴ音楽の分野で活動した、日本のヴァイオリニスト。1935年に自身の楽団である、桜井潔とその楽団(当時の表記では、櫻井潔と其楽團)、スペイン語でサクライ・イ・ス・オルケスタ (Sakurai y su Orquesta) を組んで、活動を始めており、アコーディオンの輸入を受けて、本格的なタンゴ楽団を結成した、日本で最初の人物とされている。 静岡県の旧家に生まれた。 東洋音楽学校(後の東京音楽大学の前身)に学んで、1932年以降、クラシック音楽のヴァイオリニストとして活動を始め、近衛秀麿が率いた新交響楽団(後のNHK交響楽団の前身)に参加して、コンサートマスターも務めた。
黒柳 朝(くろやなぎ ちょう、1910年9月6日 - 200… 黒柳 朝(くろやなぎ ちょう、1910年9月6日 - 2006年8月16日)は、日本の随筆家である。タレントの黒柳徹子の母親。
小林 千代子(こばやし ちよこ、1910年7月30日 - 1… 小林 千代子(こばやし ちよこ、1910年7月30日 - 1976年11月25日)は、日本の戦前期に活動した流行歌歌手・声楽家である。北海道小樽市出身。別名、金色仮面・小林伸江。 東京府立第七高等女学校(現・東京都立小松川高等学校)卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に入学。卒業後、新宿ムウランルウジュで初舞台を踏む。 その後、松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)に入団、水の江滝子やオリエ津阪の相手役を務め、1936年に退団するまで、「タンゴローザ」「ウィンナワルツ」「蝶々夫人の幻想」等、多くの歌劇に出演する。 松竹楽劇部入部と同時に日本ビクター蓄音器株式会社に入社し「金色仮面」(ゴールデン・マスク)という芸名で音盤界デビューを果たした。
見砂 直照(みさご ただあき、1909年8月30日 - 19… 見砂 直照(みさご ただあき、1909年8月30日 - 1990年6月20日)は、日本のジャズミュージシャン、バンドマスター。石川県金沢市出身。自身のバンド「見砂直照と東京キューバン・ボーイズ」を率いた。 父は追分節の名手である見砂東楽、息子は2005年に再結成した東京キューバン・ボーイズのリーダー・見砂和照(みさご かずあき)。また、娘が岩佐徹(フジテレビ・WOWOWの元アナウンサー)と結婚したことから、岩佐にとっては義父に当たる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
海沼 實(かいぬま みのる、1909年1月31日 - 197… 海沼 實(かいぬま みのる、1909年1月31日 - 1971年6月13日)は、日本の童謡作曲家。 長野県埴科郡松代町(現長野市)で菓子舗を営む海沼万吉の長男として誕生。 1932年、資産家であった叔父の支援を受けて上京し、同郷の作曲家・草川信や、その音楽学校時代の同級生である成田為三らに師事。東洋音楽学校高等師範科(現・東京音楽大学)在学中の昭和8年(1933年)に音羽ゆりかご会を創設し、川田正子(後に継子となる)、川田孝子(後に継子となる)、川田美智子(実子)の川田三姉妹をはじめとする数多くの童謡歌手を育てた。 1938年に「お猿のかごや」で初めてのヒットを記録すると、以後「あの子はたあれ」、「ちんから峠」、「めだかの幼稚園」、「花やさん」、「つばめの旅」、「からすの赤ちゃん」、「やさしいおかあさま」など、数多くの国民的ヒット作品を生みだした。
佐々木 俊一(ささき しゅんいち、1907年9月27日 - … 佐々木 俊一(ささき しゅんいち、1907年9月27日 - 1957年1月27日)は戦前から戦後にかけて活躍した作曲家。 福島県双葉郡浪江町出身。本名は佐々木駿一(読みは同じ)。東洋音楽学校(現:東京音楽大学)でチェロを学ぶ。同期生に万城目正がいた。卒業後は万城目と共に浅草の映画館のオーケストラ・ボックスで働く。その後、レコードに興味を持ってからは、作曲家を目指す。レコード会社に就職するためにドラムを稽古し、日本ビクターにドラムとして入社。バンドの仕事の合間に作曲をしていた。 そして1932年、作曲家第1作となった「涙の渡り鳥」が大ヒット。同年、小唄勝太郎が歌った「島の娘」が大ヒットし、うぐいす芸者黄金時代を築くきっかけになった等、たちまち佐々木はビクターのヒットメーカーとなった。
淡谷 のり子(あわや のりこ、1907年8月12日 - 19… 淡谷 のり子(あわや のりこ、1907年8月12日 - 1999年9月22日)は、青森県青森市出身の女性歌手。
藤原 釜足(ふじわら かまたり、1905年〈明治38年〉1月… 藤原 釜足(ふじわら かまたり、1905年〈明治38年〉1月15日 - 1985年〈昭和60年〉12月21日)は、日本の俳優。本名は安惠 重男、戦時中の芸名は藤原 鶏太。身長156cm。 実生活に根ざした芸風で知られた、黒澤明作品常連の名脇役。女優の沢村貞子は元妻。他に安恵一夫、藤原秀臣という芸名も用いた。 1905年1月15日、東京市深川区(現東京都江東区)に生まれる。家業の印刷屋不振のため、10歳で麹町の菓子屋に奉公に出る。四ツ谷第三小学校夜間部卒業。薬剤師を目指していた時期もあるが、浅草オペラ全盛時代とあってオペラ俳優に憧れ、滝野川俳優養成所に入る。 卒業後、浅草金龍館に出ていた黒木憲三に弟子入り。
曽我 直子(そが なおこ、1905年 - 1995年7月24… 曽我 直子(そが なおこ、1905年 - 1995年7月24日)は、昭和初期に活動した日本の歌手である。本名は岡田 田鶴(おかだ たづ)。別の芸名として浅香 つる江がある。蒲田行進曲を川崎豊とデュエットで歌ったことで知られる。 1905年、愛知県で生まれる。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽科、帝国劇場歌劇部(のちの洋劇部。1912年-1916年)研究生を経て歌手となる。主にニッポノホン、コロムビア、ヒコーキ(3つとも現在はコロムビアミュージックエンタテインメント)等のレコードレーベルで多くの曲を歌い、ヒット歌手となった。1995年7月24日死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、歌手に関連した書きかけの項目です。