嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年〈明治16年〉9… 嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年〈明治16年〉9月24日 - 1976年〈昭和51年〉6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍大将正三位勲一等功二級。 海兵32期・海大13期。海軍大臣(第22代)。軍令部総長(第17代)。A級戦犯として終身刑。 1883年(明治16年)9月24日、東京浅草に旧幕臣で神官の嶋田命周の長男として生まれる。実家が神官の家系であることから敬神家であり、毎朝の神社参拝を日課とし、日々の職務を規則正しくこなす、他の軍人に見られるような我の強さが無い、酒も飲まない、政財界との付き合いも一切無い、といった質素で非常に生真面目な人柄だったとも言われる。 東京中学を経て、1904年(明治37年)海軍兵学校32期を191人中27番の成績で卒業。
河田 烈(かわだ いさお、1883年(明治16年)9月24日… 河田 烈(かわだ いさお、1883年(明治16年)9月24日 - 1963年(昭和38年)9月27日)は、日本の大蔵官僚、大蔵大臣。
阿久津 謙二(あくつ けんじ、1883年(明治16年)9月2… 阿久津 謙二(あくつ けんじ、1883年(明治16年)9月22日 - 1965年(昭和40年)12月26日)は、日本の英語教育者。東京商科大学(現一橋大学)専門部教授を務めた。 栃木県下都賀郡稲葉村の農家の二男として生まれる。1902年栃木県立中学校(現栃木県立栃木高等学校)卒業。1910年ミネソタ大学卒業、LLB(法学士)。 栃木県立中学校教諭、栃木県立商業学校(現栃木県立宇都宮商業高等学校)教諭を経て、1914年広島県立広島商業学校(現広島県立広島商業高等学校)教諭。1918年山口高等商業学校(現山口大学)教授。同年東京高等商業学校(現一橋大学)教授。 1920年東京商科大学(現一橋大学)予科教授、中央大学予科講師。
宮本 貞三郎(みやもと ていざぶろう、1883年(明治16年… 宮本 貞三郎(みやもと ていざぶろう、1883年(明治16年)9月21日 - 1972年(昭和47年)4月29日)は、日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、岩出山町長。 宮城県大崎市で素封家・宮本益輔の長男として生まれる。第二高等学校を卒業。1910年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し秋田県試補となる。 以後、大阪府事務官補、同府理事官・内務部地方課長、警視庁理事官、東京府事務官、埼玉県警察部長、愛知県警察部長、徳島県警察部長、青森県書記官・内務部長、京都府書記官・内務部長、長崎県書記官・内務部長などを歴任。1929年7月20日、大阪府書記官・学務部長に発令されたが、わずか5日後の同月25日に依願免本官となる。
中澤 良夫(なかざわ よしお、1883年9月19日 - 19… 中澤 良夫(なかざわ よしお、1883年9月19日 - 1966年8月28日)は、東京都出身の野球選手、応用化学者、日本高等学校野球連盟会長。
中澤 良夫(なかざわ よしお、1883年9月19日 - 19… 中澤 良夫(なかざわ よしお、1883年9月19日 - 1966年8月28日)は、東京都出身の野球選手、応用化学者、日本高等学校野球連盟会長。 応用化学者・中沢岩太の長男。日本に野球を伝えたと言われるホーレス・ウィルソンから指導を受けた東京開成学校の生徒だった父親の影響で野球に関わるようになり第三高等学校では三塁手としてプレー。 1906年(明治39年)に東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業後、1911年(明治44年)に九州帝国大学教授。1912年(明治45年)、工学博士(九州帝国大学)。1914年に京都帝国大学工学部の教授になり、工学部長(1934年~1935年)、工学研究所長(1941年~1943年)を経て、1944年(昭和19年)退官・名誉教授。
林 癸未夫(はやし きみお、1883年9月17日 - 194… 林 癸未夫(はやし きみお、1883年9月17日 - 1947年10月26日)は、経済学者であり、教育者でもある。早稲田大学大学部法学科卒業後、古河鉱業に入社し、欧米を視察。帰国後、早稲田大学政治経済学部教授、早稲田大学総長代理を勤めた。岡山県高梁市出身。 明治16年(1883年)、岡山県上房郡高梁町八幡(現・高梁市)にある藤井種次郎の二男として生れ、母の実家・林家を継ぐ。地元の旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)から大阪府立第一中学校(現・大阪府立北野高校)に転校、東京専門学校高等予科を経て、明治38年(1905年)早稲田大学大学部法学科を卒業、古河鉱業に入社、労働問題の調査研究にあたる。 入社後の大正9年(1920年)欧米を視察、翌年帰国し、母校の早稲田大学政治経済学部で、社会政策や工業経済の講義に当たる。
有田 邦敬(ありた くによし、くにゆき、1883年9月17日… 有田 邦敬(ありた くによし、くにゆき、1883年9月17日 - 1941年12月21日)は、日本の官僚、経営者。大阪市助役、京阪電気鉄道社長を務めた。兵庫県出身。 旧制兵庫県立柏原中学校、第三高等学校を経て、1908年に京都帝国大学法科を卒業。内務省、逓信省に奉職の後、1915年12月から大阪市長の池上四郎の下で第二助役を務め、1923年12月から1927年12月までは関一の下で助役を務める。両市長の下で迎えた大大阪時代を助役として支えた。1928年4月に太田光凞社長の要請により、京阪電気鉄道副社長に就任し、1936年10月には社長(第5代)に昇格。厳しい経営状況にあった同社の再建を太田とともに進め、現場経験者を抜擢して役員に就任させるなど、次代を支える人材の登用と育成をも周到に行った。
熊谷 巌(くまがい いわお、1883年〈明治16年〉9月17… 熊谷 巌(くまがい いわお、1883年〈明治16年〉9月17日 - 1933年〈昭和8年〉11月2日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。衆議院議員(4期)。疑獄事件で収監釈放されたのち、縊死した。 岩手県下閉伊郡宮古町(現在の宮古市)出身。旧制盛岡中学校、第五高等学校から東京帝国大学法科大学に進み、1909年7月卒業。在学中に文官高等試験司法科試験に合格し、1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 内務省に入り、東京府属、南葛飾、荏原両郡長、佐賀県警察部長、警視庁保安部長などを歴任した。1922年、東京市政疑獄(瓦斯疑獄)で東京地方裁判所より懲役4ヵ月の実刑判決、1923年に東京控訴院を経た後、同年大審院で確定した。
野間 左衛(のま さえ、1883年(明治16年)9月16日 … 野間 左衛(のま さえ、1883年(明治16年)9月16日 - 1955年(昭和30年)8月1日)は、講談社第3代社長。旧姓:服部。 1883年(明治16年)9月16日、徳島県に生まれる。徳島師範学校(後の徳島大学)卒業後、地元の徳島県で小学校教員(訓導)となる。1907年(明治40年)、野間清治と結婚して上京。 1909年(明治42年)4月に長男・恒を出産する。同年11月、大日本雄弁会(現・講談社)の創立にあたり、夫の清治を助け「創業の母」と呼ばれた。 1910年(明治43年)11月に次男・康清を出産するが、翌1911年(明治44年)に亡くしている。 1938年(昭和13年)2月、恒は町尻量基の長女・登喜子と結婚するが、同年10月16日に清治が、11月7日に恒が急逝したため、講談社第3代社長に就任する。
池内 善雄(いけうち よしお、1883年〈明治16年〉9月1… 池内 善雄(いけうち よしお、1883年〈明治16年〉9月15日 - 没年不詳)は、日本の裁判官。台湾総督府高等法院長。 兵庫県飾磨郡安室村字新在家(現、姫路市)出身。池内宗太郎の四男。尾上作兵衛の弟。1910年(明治43年)、分家する。 1911年(明治44年)、京都帝国大学法科大学を卒業。京都地方裁判所試補、同判事、大阪地方裁判所判事、高松地方裁判所部長、神戸地方裁判所部長、大阪地方裁判所部長、大審院判事、台湾総督府高等法院上告部判官、台北地方法院長を歴任。1941年(昭和16年)、高等法院長に就任した。
猪瀬 乙彦(いのせ おとひこ、1883年(明治16年)9月1… 猪瀬 乙彦(いのせ おとひこ、1883年(明治16年)9月14日 - 1951年(昭和26年)4月10日)は、大日本帝国海軍大佐。福島県平市(現・いわき市)長。 福島県磐前郡内郷村(のち石城郡内郷町→内郷市、現・いわき市)生まれ。福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)を経て、1902年(明治35年)12月、海軍兵学校に入る。1905年(明治38年)11月、同校を卒業(33期)し、少尉に任官する。任官後は各方面に勤務する。第一次世界大戦にも参加した。在外公館で海軍駐在武官としての経験があり、1924年(大正13年)には上海で勤務、総領事の矢田七太郎、陸軍の岡村寧次と連携して業務を進めた。大佐で退役となる。
野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 -… 野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 - 1950年2月23日)は、日本の英文学者、能楽研究者。「臼川」(きゅうせん)と号した。法政大学総長を務め、能研究の発展にも多大な寄与をした。レジョンドヌール・オフィシェ勲章受章者。 1883年、大分県臼杵市生まれ。臼杵中学、第一高等学校を経て1908年に東京帝国大学文科大学英文科を卒業。同級生に安倍能成・藤村操・岩波茂雄がいて、共に夏目漱石に師事した。 東京帝大卒業後、国民新聞社の文芸記者となる。1909年に法政大学講師となり、1920年に同大学教授となる。予科長・学監・理事を歴任し、森田草平・内田百閒・井本健作など漱石門下の文学者を教授陣に招聘するが、1933年に学内紛争(法政騒動)で辞職(1941年復職)。
岩永 裕吉(いわなが ゆうきち 、1883年(明治16年)9… 岩永 裕吉(いわなが ゆうきち 、1883年(明治16年)9月13日 - 1939年(昭和14年)9月2日)は、社団法人の同盟通信社初代社長を務めた通信事業経営者。 東京市神田区駿河台に内務省衛生局局長(勅任局長)長與專齋の四男(第6子)として生まれる。7歳で母方の叔父に当たる岩永省一の養子となり、正則中学などを経て旧制第一高等学校を卒業する。1909年に京都帝国大学法科大学を卒業すると、内務省衛生局で父の部下だった後藤新平のコネで南満州鉄道株式会社に就職したが(1911年)、1917年に鉄道院へ移り後藤総裁(寺内内閣内相と兼任)の秘書官、次いで同院参事・文書課長となる。翌年、寺内内閣が総辞職すると鉄道院を退官して渡米、さらに新渡戸稲造や鶴見祐輔らとヨーロッパを訪問する。
堀田 鼎(ほった かなえ、1883年〈明治16年〉9月13日… 堀田 鼎(ほった かなえ、1883年〈明治16年〉9月13日 - 1942年〈昭和17年〉2月24日)は、日本の内務官僚。県知事、台湾総督府交通局総長。 福島県安積郡河内村(河内村大字河内、逢瀬村を経て現郡山市逢瀬町河内)で堀田喜左衛門の五男として生まれる。第二高等学校を経て1908年(明治41年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年(大正元年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年、内務省に入り土木局属となる。 1917年(大正6年)山口県内務部土木課長に就任。以後、東京府・千葉県の各理事官などを歴任。1921年(大正10年)ジュネーヴで開催された第3回国際労働総会に政府代表随員として出席。
宮脇 梅吉(みやわき うめきち、1883年(明治16年)9月… 宮脇 梅吉(みやわき うめきち、1883年(明治16年)9月12日 - 1941年(昭和16年)1月12日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 愛媛県大内郡水主村(現在の香川県東かがわ市)出身。宮脇清吉の五男として生まれる。第一高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、統監府判事となり、晋州、大邱、京城の各裁判所で勤務。 1913年6月、内務省に転じ埼玉県理事官・内務部学務課長に就任。以後、福井県警察部長、和歌山県警察部長、広島県警察部長、京都府警察部長、宮城県内務部長、広島県書記官・内務部長、石川県書記官・内務部長などを歴任。
松原 権四郎(まつばら ごんしろう、1883年(明治16年)… 松原 権四郎(まつばら ごんしろう、1883年(明治16年)9月10日 - 1933年(昭和8年)5月17日)は、日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、高松市長。 後の香川県那珂郡六郷村上金倉(現丸亀市)出身。第六高等学校を卒業。1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。司法省に入省。一年志願兵として歩兵第43連隊に入隊し、二等計手まで昇進して除隊。1910年(明治43年)内務省に転じ長崎県警部となる。 以後、長崎県属兼警部、同警察部保安課長、高知県理事官兼視学官、山口県警察部長、愛知県警察部長、岩手県内務部長、静岡県内務部長、神奈川県内務部長などを経て、1924年(大正13年)6月、京都府内務部長に就任。
大原 寿恵子(おおはら すえこ、1883年9月10日 - 1… 大原 寿恵子(おおはら すえこ、1883年9月10日 - 1930年4月25日)は、アララギ派の歌人で、実業家大原孫三郎の妻。旧姓名は石井スエ。 広島県深安郡深津村(現・福山市)において、石井英太郎の四女として生まれる。1898年(明治31年)、近所に女学校が無かったため、川路寛堂を招聘して中等教育を受ける。1901年(明治34年)、岡山孤児院を創設した石井十次の紹介で、大原孫三郎と結婚し、1909年(明治42年)に長男総一郎を生む。 1921年(大正10年)高野勇五郎より旧派和歌を学び、高野の死後は西川国臣より学ぶ。1925年(大正14年)、労働者のための託児所「若竹の園」を開設。この年より雑誌『アララギ』を読み、歌人・中村憲吉とも会って短歌作りに励む。
広瀬 哲士(ひろせ てつし、1883年〈明治16年〉9月9日… 広瀬 哲士(ひろせ てつし、1883年〈明治16年〉9月9日 - 1952年〈昭和27年〉7月26日)は、日本のフランス文学者。慶應義塾大学教授。岡山県津山市出身。 1883年(明治16年)岡山県勝田郡河辺村瓜生原(現:津山市瓜生原)にて出生する。生家は、曽祖父に書家で有名な広瀬台山がいる。地元の旧制岡山県津山尋常中学(現:岡山県立津山高等学校)へ1期生として入学する。1900年(明治33年)に同校を卒業し、その後、東京にある旧制第一高等学校へ進学する。1904年(明治37年)7月に同校を卒業する。 この後、同年、東京帝国大学文科大学へ進学し、東大ではフランス語を専攻、1907年(明治40年)7月に同大学を卒業した。
松村 義一(まつむら ぎいち、1883年(明治16年)9月7… 松村 義一(まつむら ぎいち、1883年(明治16年)9月7日 - 1959年(昭和34年)1月6日)は、明治末から昭和前期の内務官僚、政治家。憲政会系官選県知事、貴族院勅選議員。 山口県都濃郡、現在の下松市で商業・松村冷蔵の長男として生まれる。山口中学校、山口高等学校を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1910年(明治43年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り、神奈川県属として内務部地方課に配属された。 1911年(明治44年)4月、神奈川県試補となる。以後、佐賀県事務官、同県視学官、鳥取県視学官、石川県警察部長、広島県警察部長、警察講習所教授兼内務省参事官、山形県内務部長、和歌山県内務部長などを歴任。
渡辺 徹(わたなべ とおる、1883年9月7日 - 1957… 渡辺 徹(わたなべ とおる、1883年9月7日 - 1957年1月12日)は日本の心理学者で、日本におけるパーソナリティ心理学(人格心理学)の開拓者。1912年にドイツの心理学者ヴィルヘルム・シュテルンの人格学を日本に紹介した。また、没年に至るまで、「個性心理学」という名で独創的な講義をした。心理検査にも早くから関心を示し、この方面での先駆的な業績といわれる「国民知能検査」を開発した。 心理学史の研究では、江戸時代の心学者・鎌田鵬(鎌田柳泓)を「本邦最初の経験的心理学者」として発見した。 心理学の応用に熱心で、日本応用心理学会の設立に際して中心的役割を果たした。 1924年に私学では最初(東京帝国大学・京都帝国大学・東北帝国大学に次いで日本では4番目)の心理学専攻課程を日本大学に創設した(現在の日本大学文理学部心理学科)。
加納 金助(かのう きんすけ、1883年〈明治16年〉9月4… 加納 金助(かのう きんすけ、1883年〈明治16年〉9月4日 - 1953年〈昭和28年〉12月5日)は、日本の政治家、教育者、日本大学常任理事、日本大学副会頭、日本大学第一学園初代理事長。千葉市長(第5、9、10代)、参議院議員(1期)。 1883年、千葉県下埴生郡小菅村(印旛郡遠山村を経て現成田市小菅)の農家 藤崎家の三男として誕生。1898年、成田英漢義塾(同年10月にに私立成田中学校として認可)に入学。1903年卒業。國學院大學高等師範部に入学するも、同年9月に日本大学高等師範部(現在の文理学部)へ転入学。1906年同校を卒業すると、日本大学専門部法律科入学。在学中の1908年11月30日、加納家の長女由香と結婚し、加納家の養子となる。
多田 礼吉(ただ れいきち、1883年9月3日 - 1956… 多田 礼吉(ただ れいきち、1883年9月3日 - 1956年5月13日)は、日本の陸軍軍人、工学者。最終階級は陸軍中将。工学博士。 静岡県出身。鈴木与兵衛の二男として生まれ、多田鶴吉の養子となる。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業。翌年2月、砲兵少尉に任官し由良要塞砲兵連隊付となる。陸軍要塞砲兵射撃学校教官などを経て、1909年(明治42年)11月、陸軍砲工学校高等科(15期)を卒業した。 1910年(明治43年)9月、陸軍派遣学生として東京帝国大学に入学。1913年(大正2年)7月、同理学部物理学科を卒業した。1919年(大正8年)4月、砲兵少佐に昇進。同年12月、陸軍科学研究所員となり、1920年(大正9年)10月から1923年(大正12年)2月までヨーロッパに留学した。
寺尾 博(てらお ひろし、1883年(明治16年)9月2日 … 寺尾 博(てらお ひろし、1883年(明治16年)9月2日 - 1961年(昭和36年)7月16日)は、日本の農学者。東北帝国大学教授。貴族院勅選議員。参議院議員(緑風会)。農学博士。日本学士院賞受賞。 静岡県出身。1903年(明治36年)、静岡県立静岡中学校卒業。旧制第一高等学校を経て、1909年(明治42年)、東京帝国大学農科大学を卒業(恩賜の銀時計授与)、農商務省に入った。農事試験場技手、同技師、農林技師を歴任。この間、水稲の耐寒品種である陸羽132号の交配、育成を行った。1941年(昭和16年)に農事試験場長に就任。同年に東北帝国大学教授・農学研究所長を兼ねた。1944年(昭和19年)、「水稲冷害の生理学的研究」で日本学士院賞受賞。
赤間 徳寿(德壽、あかま とくじゅ、1883年9月2日 - … 赤間 徳寿(德壽、あかま とくじゅ、1883年9月2日 - 1958年8月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。滑川市長(2期)。従五位勲四等瑞宝章。 富山県出身。1909年東京外国語学校(現・東京外国語大学)英語科卒。富山商業学校、同中学校各教諭、中新川郡浜加積村(のち滑川町、現:滑川市)議、富山県議、富山地方森林会議員、戦時特別調停委員、富山県産業組合連合会監事、産業組合中央会富山県支副会長、地方金融協議会監事、大政翼賛会中央協力会議員、富山電気鉄道(株)取締役、日本水力工業(株)監査役となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では富山1区(当時)から翼賛政治体制協議会(翼協)の推薦を受けて立候補したが次点で落選する。
佐々木 武生(ささき たけなり、1883年(明治16年)9月… 佐々木 武生(ささき たけなり、1883年(明治16年)9月 – 1936年(昭和11年)1月4日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 島根県隠岐郡西郷町(現在の隠岐の島町)出身。1903年(明治36年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。隠岐汽船株式会社書記を経て、判事検事登用試験に合格し司法官試補となった。のち、弁護士を開業した。 1919年(大正8年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。 その他、徳田洋行顧問、福松商会顧問、内海商会顧問を務めた。
村上 恭一(むらかみ きょういち、1883年(明治16年)8… 村上 恭一(むらかみ きょういち、1883年(明治16年)8月31日 - 1953年(昭和28年))は、日本の官僚。枢密院書記官長、貴族院議員等を歴任した。
内藤 伝禄(ないとう でんろく、1883年8月29日 - 1… 内藤 伝禄(ないとう でんろく、1883年8月29日 - 1952年11月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1904年、愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)卒。のちに経済学を専攻する。内海町(現・南知多町)会議員、愛知県会議員、知多銀行重役、愛知県有恒会長、知多郡信用購買販売組合連合会会長、尾三農工銀行、愛知実業銀行各頭取、名古屋商業会議所議員、中央製糸、東亜キネマ各(株)取締役となる。 1918年の衆議院愛知県郡部の補欠選挙において憲政会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1952年死去。
伊東 二郎丸(いとう じろまる、1883年(明治16年)8月… 伊東 二郎丸(いとう じろまる、1883年(明治16年)8月29日 - 1969年(昭和44年)11月2日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府で海軍中将・伊東祐麿の二男として生まれた。父の死去に伴い、1906年(明治39年)3月14日、子爵を襲爵した。 学習院高等学科を経て、1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1912年、日本製鋼所に入社し室蘭に転居。その後、イギリスに2年間留学し、帰国後、高砂商工銀行取締役に就任。電気化学工業取締役なども務めた。 水野直子爵の導きで政界を志し、東京帝大在学中に尚友会に入会。1923年(大正12年)8月11日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属。
阿部 次郎(あべ じろう、1883年〈明治16年〉8月27日… 阿部 次郎(あべ じろう、1883年〈明治16年〉8月27日 - 1959年〈昭和34年〉10月20日)は、日本の哲学者・美学者・作家。東北帝国大学法文学部教授、同学部長、帝国学士院会員。仙台市名誉市民。『三太郎の日記』著者。 1883年、山形県飽海郡上郷町(後の松山町、現・酒田市)大字山寺に生まれる。教師であった父の阿部富太郎とゆき(旧姓・竹岡)夫妻の次男。富太郎は叔父の阿部七郎衛門とわかの夫妻の養子となるが、わかのはゆきの長姉で竹岡家の姉弟は全員がキリスト教徒でもあった。8人兄弟で、加藤ます(加藤儀藏夫人)、阿部一郎(農業指導者・実業家、山形県食糧営団理事長、山形糧穀加工社長、阿部襄の父)、阿部次郎(本人)、堀三也(軍人、陸軍大佐、昭和通商社長)、阿部余四男(動物学者、広島大学教授)、竹岡勝也(日本史学者、九州帝国大学教授)、柏木礼子(柏木俊一夫人)、阿部六郎(ドイツ文学者・文芸評論家、旧制成城高校・東京藝術大学教授)と、兄弟のうち、次郎を含む4人が大学の教師となる。
加藤 睦之介(かとう むつのすけ、1883年〈明治16年〉8… 加藤 睦之介(かとう むつのすけ、1883年〈明治16年〉8月26日 - 1957年〈昭和32年〉10月20日)は、日本の教育家、政治家。衆議院議員(通算2期、1期目は立憲民政党・2期目は日本自由党)。埼玉県会議員。大宮市長(第3代)。大宮用達社長。大宮市(現・さいたま市)名誉市民。 埼玉県北足立郡加納村坂田(現・桶川市)の農家に生まれる。加藤晴一の三男。埼玉県師範学校卒業。小学校訓導を命ぜられ、桶川、草加、上尾各尋常高等小学校に奉職する。また青川尋常小学校訓導兼校長を命ぜられる。 教員を見切ると一時保険会社に入ったが間もなく浪人、満洲にまで放浪する。1918年、大宮町に定住する。料理並旅館業を営む。
上原 轍三郎(うえはら てつさぶろう、1883年8月25日 … 上原 轍三郎(うえはら てつさぶろう、1883年8月25日 - 1972年2月27日)は、日本の農業経済学者・教育者。専門は、拓殖学(植民学)・開発政策・北海道開拓史。学校法人北海学園理事長・北海学園大学初代学長・北海学園大学短期大学部初代学長等を歴任。 1883年、広島県山県郡南方村(現・北広島町)で生まれた。旧制日彰館中学(現広島県立日彰館高校)を経て、1905年に札幌農学校に入学。農学校では高岡熊雄に師事した。同校は東北帝国大学農科大学に改組となり、1912年に東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)を卒業。 1912年、東北帝国大学農科大学助手に採用された。1914年、東北帝国大学農科大学助教授に昇格。
松村 武雄(まつむら たけお、1883年(明治16年)8月2… 松村 武雄(まつむら たけお、1883年(明治16年)8月23日 - 1969年(昭和44年)9月25日)は、日本の神話学者。 1883年、熊本県生まれ。旧制熊本中学校、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文科に進学。英文科在学中から神話研究を志し、卒業論文も神話をテーマに選んだ。1910年、大学を卒業し、大学院へ進学。 1919年、東京帝国大学文学部の講師となり、ギリシア神話の講義を担当した。1921年、学位論文『古代希臘の文化に現れたる神々の宗教的葛藤の研究』を提出して、文学博士の学位を取得。1921年からは旧制浦和高等学校に英語教授として勤務。同年、國學院大學に招かれて神話学を講義。
武藤 七郎(むとう しちろう、1883年(明治16年)8月2… 武藤 七郎(むとう しちろう、1883年(明治16年)8月23日 – 1965年(昭和40年)3月7日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→立憲政友会)。 群馬県山田郡休泊村(現在の太田市)出身。1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、さらに大学院で学んだ。『東京日日新聞』記者、日本大学講師、呉市助役、東京市社会局総務課長、協調会情報部長・農村課長を歴任した。その間、ワシントンでの第1回国際労働会議、ジュネーヴでの第4回国際労働会議に労働代表顧問として参加した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
木口 重彦(きぐち しげひこ、出生名:九一、読み:きゅういち… 木口 重彦(きぐち しげひこ、出生名:九一、読み:きゅういち、1883年(明治16年)8月22日 - 不明 )は、日本の実業家である。軍需工場でもあった日本加工織布の取締役。岡山県総社市出身。 1883年(明治16年)8月、岡山県吉備郡久代村(現:総社市)で父・木口豊三郎、母・仲の長男として出生。1901年に旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、早稲田大学政治経済学科へ入学し、1904年(明治37年)、20歳で卒業した。1928年(昭和3年)父の死去と共に、45歳で木口家の家督を相続し、名前を九一から重彦へ改名している。 大学卒業後、実業界に実を投じ、貿易会社であった第一洋行の取締役となり、その後、1918年(大正7年)35歳のときに太陽製帽の支配人を務めている。
中島 董一郎(なかしま とういちろう、1883年8月22日 … 中島 董一郎(なかしま とういちろう、1883年8月22日 - 1973年12月19日)は、愛知県西尾市出身の実業家。キユーピー創業者。
正宗 得三郎(まさむね とくさぶろう、1883年(明治16年… 正宗 得三郎(まさむね とくさぶろう、1883年(明治16年)8月22日 - 1962年(昭和37年)3月14日)は、日本の洋画家。 岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれる。実兄に小説家の正宗白鳥、国文学者の正宗敦夫、弟に植物学者の正宗厳敬がいる。1902年(明治35年)に日本画家を志して東京に出て寺崎広業に師事した。のち洋画に転じ、同年9月に東京美術学校(後の東京芸術大学)西洋画科に入学。1907年同校を卒業。在学中より青木繁グループに属す。1909年(明治42年)文展入選。 1914年(大正3年)から1916年(大正5年)および1921年(大正10年)から1924年(大正13年)にかけて、ヨーロッパに渡り本場の西洋絵画を学ぶ。
岩村 通世(いわむら みちよ、明治16年(1883年)8月2… 岩村 通世(いわむら みちよ、明治16年(1883年)8月21日 - 昭和40年(1965年)3月13日)は、日本の法曹。太平洋戦争開戦、ドーリットル空襲の時の日本の司法大臣であり法曹会幹部である。 1883年(明治16年)8月21日、東京府東京市神田区神保町に生まれた。男爵岩村通俊の五男。次兄の岩村俊武は海軍中将、従弟の林譲治は衆議院議長。 父通俊は当時司法大輔(司法次官)で、初代北海道長官に任せられて札幌に赴任。彼も幼少期を札幌で過ごした。1889年、父は農商務大臣就任および貴族院議員勅任により東京に戻ったが、彼は父の郷里宿毛に行き宿毛小学校で学んだ。吉田茂は同小学校の同窓生。 1893年(明治26年)、高知市の高知県立第一中学校(現在の高知県立高知追手前高等学校の前身)に入学。
中井金三(なかい きんぞう、1883年8月20日 - 196… 中井金三(なかい きんぞう、1883年8月20日 - 1969年2月9日)は、日本の洋画家。 前田寛治、河本緑石らとともに鳥取中部の芸術団体「砂丘社」を創設。倉吉中学(現・鳥取県立倉吉東高等学校)、倉吉高等女学校(現・鳥取県立倉吉西高等学校)で教員を務め、郷土の芸術文化の振興に貢献した。 1883年(明治26年)、鳥取県久米郡中河原村(現・倉吉市中河原)で、中井喜七郎の次男として生まれる。中井家は造り酒屋であった。1897年(明治30年)小鴨高等小学校を卒業し、上京。杉浦重剛の称好塾に門下生として入り、日本中学校(現・日本学園中学校・高等学校)を卒業。日本中学では真野紀太郞に教わる。白馬会研究所では和田英作、湯浅一郎から絵画の基礎を学ぶ。
園田 寛(そのだ ひろし、1883年(明治16年)8月18日… 園田 寛(そのだ ひろし、1883年(明治16年)8月18日 - ?)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 兵庫県に衆議院議員田艇吉の三男として生まれ、母方従弟・園田稔の跡を継いだ。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。専売局書記、拓殖局属、同書記官、文部省参事官、拓殖局調査課長、同庶務課長を務めた。その後、朝鮮総督府事務官・監察官に転じ、総督官房外事課長、同会計課長、財務局理財課長、山林部長を歴任し、1929年(昭和4年)に平安南道知事に就任した。 1931年(昭和6年)に退官した後は、横浜商工会議所理事を務めた。
宮脇 富(みやわき あつし、1883年8月18日 - 196… 宮脇 富(みやわき あつし、1883年8月18日 - 1968年5月29日)は、大正期から昭和期の日本の畜産学者。専門は畜産物理用学。学位は、農学博士(北海道帝国大学)。「宮脇冨」とも表記される。 島根県安濃郡鳥井村(現・大田市)出身。14歳で渡道。1902年、札幌農学校卒業。1902年、浅羽農場に就職。1907年、カンザス州立大学農科大学卒業。1907年、カンザス州立大学農科大学助教授。1911年、帰国後、東北帝国大学農科大学助教授。1918年、北海道帝国大学農科大学助教授。1919年、北海道帝國大学農学部助教授。1920年、北海道帝国大学にて農学博士を受く。1924年、北海道帝国大学農学部教授。
羽溪 了諦(はたに りょうたい、1883年〈明治16年〉8月… 羽溪 了諦(はたに りょうたい、1883年〈明治16年〉8月17日 - 1974年〈昭和49年〉8月13日)は日本の仏教学者、浄土真宗の僧侶。 福井県遠敷郡出身。旧姓・向嶋。号・青浜。1909年京都帝国大学文科大学哲学科を首席で卒業。同大学院を経て副手、1923年講師、1927年助教授、1935年教授。1921年龍谷大学教授を兼ね、1931年大谷大学教授を兼ねる。1934年「西域仏教ノ特徴」で京大文学博士。1936年龍谷大学長。1943年9月京大定年退官。京大、龍谷大、京都女子大学各名誉教授。浄土真宗本願寺派総務。1955年紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受勲。1945年戦後のGHQ指導のもとの教育刷新委員会において教育基本法原案の骨組みを担当した第一特別委員会のメンバー。
岩本 素白(いわもと そはく 、1883年8月17日 - 1… 岩本 素白(いわもと そはく 、1883年8月17日 - 1961年10月2日)は、国文学者、随筆家。本名は堅一(けんいち)。東京府麻布に生まれる、父竹次郎は旧丸亀藩士で海軍勤務であった。
岩井 喜一郎(いわい きいちろう、明治16年(1883年)8… 岩井 喜一郎(いわい きいちろう、明治16年(1883年)8月17日 - 昭和41年(1966年)4月7日)は、日本の醸造技術者、実業家。京都府平民。 1909(明治42)年に、摂津酒造(現:宝ホールディングス)においてアルコール連続蒸留装置を考案。岩井式アルコール連続蒸留装置としての地位を確立。明治45年に新式焼酎(焼酎甲類)並びに、酒精含有飲料を全国に率先して製造開始、大正8年に合成清酒を開発し、工業的大量生産の創始となった。 明治35年(1902年)、大阪高等工業学校醸造学科卒業。明治42年(1909年)、合資会社摂津酒精醸造所に入社(後の摂津酒造)。大正9年(1920年)、摂津酒造 常務取締役兼技師長に就任。
新海 栄治(しんかい えいじ、明治16年(1883年)8月1… 新海 栄治(しんかい えいじ、明治16年(1883年)8月16日) - 昭和44年(1969年)12月22日)は、甲府市長(官選第15代、17代)。号は為水。 山梨県北巨摩郡篠尾村(現在の北杜市小淵沢町)に、父「富栄」、母「こう」の長男として生まれる。明治35年(1902年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、大正6年(1917年)1月に家督を相続し、父親の経営した甲府市白木町の「港屋酒造店」を継承。大正7年(1918年)に甲府市会議員に当選し同年5月28日から昭和5年(1930年)5月27日まで在任し、大正15年(1926年)6月12日から昭和5年(1930年)5月27日まで甲府市会議長を務めている。
青木 文一郎(あおき ぶんいちろう、1883年8月16日 -… 青木 文一郎(あおき ぶんいちろう、1883年8月16日 - 1954年7月2日)は、日本の哺乳類学者。台北帝国大学教授を経て、岐阜大学初代学長。 1883年、岐阜県厚見郡日置江村に生まれた。且格尋常小学校、岐阜中学校、第三高等学校を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学理科大学動物学科に入学。1910年に卒業し、同大学大学院に進学した。 1913年(大正2年)、九州帝国大学助手に採用され、解剖学教室に勤務。1915年5月に依願退職。1909年8月に高等学校教員免許を取得し、9月より旧制愛知医科大学(現名古屋大学)予科教授となった。1922年、同校講師に昇格。 1927年4月、台湾総督府高等林業楽校教授に任命され、同時に在外研究を命じられて2年間イギリス、フランス、イタリア、アメリカの4か国へ研究留学した。
堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日… 堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日 - 1959年〈昭和34年〉5月12日)は、日本の海軍軍人、実業家。日本飛行機 社長、大日本兵器社長、浦賀船渠(現:住友重機械工業)社長を歴任した。 海軍兵学校32期首席・海軍大学校16期次席。海軍軍人としての最終階級は海軍中将。海軍の現役を退いた後の1941年(昭和16年)に、法制局長官(現:内閣法制局長官)に擬されたが、辞退した。大分県杵築市出身。 天下の秀才を集める海軍兵学校の同期生たちをして「神様の傑作の一つ堀の頭脳」 と畏敬せしめる程の、桁外れの英才であった。 からの信頼が厚く、山本権兵衛(兵2期)・加藤友三郎(兵7期)の系譜を継ぐ人物として、いずれ海軍大臣に就任することが確実視されていた。
田辺 尚雄(たなべ ひさお、1883年8月16日 - 198… 田辺 尚雄(たなべ ひさお、1883年8月16日 - 1984年3月5日)は、日本の音楽学者、文化功労者。日本で初めて東洋音楽概説をまとめた。 1883年、東京府生まれ、東京帝国大学(現 東京大学)理学部物理学科卒。フランス人宣教師のノエル・ペリから作曲・音楽理論を学び、大学院で音響心理学を専攻する。 1920年より正倉院および宮内省(現 宮内庁)の楽器研究、東洋音楽研究に従事し、1929年に帝国学士院賞受賞。東京帝国大学、東京音楽学校で教鞭をとり、1936年東洋音楽学会を設立。戦後は武蔵野音楽大学教授に就任。多くの著書があり、啓蒙活動に功績があった。田辺禎一名義の艶笑随筆もある。1983年より音楽学の業績に対して田辺尚雄賞が授与されている。
川淵 洽馬(かわぶち こうま、1883年〈明治16年〉8月1… 川淵 洽馬(かわぶち こうま、1883年〈明治16年〉8月15日 - 1946年 〈昭和21年〉10月1日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、高知市長、衆議院議員。財団法人板垣伯銅像記念碑建設同志会第7代会長。旧姓は宮崎。姓は川渕とも表記される。 高知県高岡郡窪川町(現・四万十町)生まれ。宮崎文次の二男として生まれ、川淵龍起の養子となる。第一高等学校を経て、1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年(明治45年)、内務省に入り警視庁警部に任官。 以後、警視庁警視、月島警察署長、台湾総督府警視、山形県警察部長、広島県警察部長、京都府警察部長、警視庁書記官・警務部長、警察講習所教授兼内務省参事官などを歴任。
鷲沢 与四二(わしざわ よしじ、1883年(明治16年)8月… 鷲沢 与四二(わしざわ よしじ、1883年(明治16年)8月14日 - 1956年(昭和31年)10月1日)は、衆議院議員(立憲民政党→国民同盟)。ジャーナリスト。実業家。 長野県小県郡上田町(現在の上田市)出身。鷲沢由太郎の長男として生まれる。旧制上田中(現在の長野県上田高等学校)を経て、1908年(明治41年)、慶應義塾大学政治科を卒業。慶大在学中は野球部監督を務めた。毎日電報社記者、慶應義塾大学講師を務めた後、時事新報社北京特派員として中国に渡る。北京で日刊英字新聞『ノース・チャイナ・スタンダード』を創刊したほか、北京新聞社社長、北京燕塵社社長、時事新報社顧問を務めた。その後、雑誌『ベースボール』を発行し、社長を務めた。